①城岡拓夢
十六歳の高校二年生、城岡拓夢の人生は、不幸の連続であった。
不幸といっても事故に合うとか好きな女子にフラレるといったものではなく、自力解決困難な不幸である。
両親を亡くし、義理の家族に引き取られたことが、全ての始まりだった。
それは今、義理の父と義理の母、そして義理の妹と一緒に食卓を囲み、朝食を食べていることからもうかがえる。
それのどこが不幸なのか? と思うかもしれない。
しかし、城岡拓夢という人間からしてみれば、この瞬間こそが、一日の中でもっとも苦痛で、重苦しい時間帯なのである。
それはどういうことかというと――
「ねえ、拓夢。この肉じゃが、少し味が濃いんじゃない?」
朝の平穏な空気に似つかわしくない、冷淡な声が室内に響く。
拓夢と呼ばれた少年が、何か粗相をしでかしたわけではない。
ただ単に、拓夢の作った肉じゃがの味付けが、少し濃いというだけだ。
醤油を入れ過ぎたわけでも、煮詰め過ぎたわけでもない。ようするにこの義母――佐和子は、拓夢に文句を言わなければ、気が済まないのである。
「す、すみません。お義母さん……」
ボソボソ、と拓夢は謝罪した。
城岡拓夢の容姿を一言で表すなら〝陰キャ〟だ。
目元を覆い尽くすスダレ状の前髪も、分厚い眼鏡も、男にしては細く華奢な体も。
それだけではなく、自分を否定する自虐的というか、卑屈なオーラが拓夢からは流れているのだ。ボソボソと声が小さいのも、怒られるとすぐ謝ったりするところも、陰キャ具合を倍増させているのだろう。
「前にも言ったでしょ。味が濃いならお砂糖やみりんを入れて、甘味のバランスを取りなさいって。何度言ったら分かるの、アンタは」
「は、はい。すみません、お湯を少しづつ足して、味は確認してみたんですが……」
「言い訳しない! 素直に自分の間違いを認めることが出来ないの? グズは何をやらせてもグズね」
「……申し訳ありません、お義母さん」
しかし拓夢は、言い返すようなことはしなかった。
言い返しても無駄ばかりか、百倍近い小言が返ってくることは、明白だからだ。
ちなみに今朝の朝食は、肉じゃが、白米、サラダ、みそ汁といった献立だ。
慎ましいながらも、実に手が込んでいる。
きゅうりとレタスのごま油サラダには、さらっとにんにくを利かせているし、油揚げと玉ねぎのみそ汁は和風顆粒だしで味を整えている。白米とて、きちんと図った水を切って、炊きあがった米をつぶさないよう底からふんわりかき混ぜたものだ。
十六歳の男子がこれだけの料理を作れるのは、見事なものである。
とはいえ、最初から料理上手だったわけではない。
最初はひどいものだったが、拓夢自身のたゆまぬ努力と、殴られたアザの積み重ねにより、今の成長があるのだ。
「おい、母さん。もう止めておきなさい」
そう口を挟んだのは、無言で料理を口に運んでいた義父、隆志であった。
キッチリと分けられた七三の髪型、度のキツい眼鏡と、典型的なサラリーマンといった風貌だ。
低く威圧的な口調に、さすがの佐和子も、口をつぐんでしまう。
「それよりも拓夢君。経済新聞はどこかね? 見当たらないんだが」
メガネの奥から、面倒くさそうに目線だけを拓夢に向けて尋ねる。
「あ、それなら、台所の方に……あいたっ!」
そこまで言い切らないうちに、隆志は拓夢の頭を思い切り叩いた。
目を丸くして見上げる拓夢に、隆志は怒鳴る。
「そんなことは聞いておらん! 私が言っているのは、今すぐここに持ってこいということだ! まったく君は、そんなことまで一々説明しなけりゃ分からんのかね!」
「は、はい! ただいま持ってまいります!」
拓夢はペコペコと頭を下げながら、急いでキッチンへと走った。一家の大黒柱である隆志は、実質この家の支配者だ。逆らえるはずもない。
「ふん、グズめ」
拓夢が走って持ってきた新聞を受け取っても、隆志は礼の言葉すらない。
「……キモ」
そんな拓夢の様子を見て、ボソリと呟く少女が一人。
拓夢の義理の妹の、城岡聖薇だ。
その冷ややかな目は、威圧的ではないが圧倒される迫力がある。拓夢は、汗を垂らしながら、ゴクリと唾を飲んだ。平凡な中流家庭の城岡家内で、場違いなほど整った容姿をしてる美少女を前にして。
小柄ながら均整なスタイルの少女は、まだ十四歳だった。目鼻立ちがとにかく綺麗で、このキツい性格さえなければ、まるでモデルのようだった。首からは、その端正な美貌に似合わない、少し古びた金色のペンダントを下げている。
腰までの長さのサラサラな金髪を、高めの位置で結んだツインテールは、少女漫画のヒロインのようにとても愛らしかった。しかし、神経質さを感じる切れ長の鋭い瞳が、拓夢を不安な気持ちにさせる。
一家の中で一番何を考えているのかが分からなくて、不安になるのだ。
拓夢が脂汗を垂らしている理由はもう一つある。女性アレルギーだ。
女性が嫌いというわけではないし、日常会話くらいなら出来るのだが、軽めのスキンシップでも蕁麻疹が出来る。抱きつかれたりキスでもされようものなら、卒倒ものだ。
おかげで、彼女の一人もできない。むしろ、女を避けるために学校ではいつも一人でいる始末。さらには、そんな拓夢を陰でコソコソ笑いものにする女子までいるほどだ。
いっそ、女の子として生まれていれば……そんなことを、考えたり考えなかったり。
「……」
そんな拓夢の気持ちなど知りもしないで、聖薇は淡々と箸を進めている。拓夢が義父や義母に苛められている時は、決まって見下したような視線をぶつけて、「キモい」だの「ウザい」だのと呟くのだ。
昔はそうではなかったのだが。「お兄ちゃんお兄ちゃん」と拓夢の後ろをついてくる、とても可愛らしい女の子だったのだ。
思春期ということもあるのだろう。小学校高学年ごろからは、とにかくこんな調子だ。
「……なに見てんのよ。お兄ちゃん、マジキモい」
「あ、す、すみません!」
聖薇に冷ややかな罵声を浴びせられ、拓夢は慌てて視線を逸らした。すると、
「ちょっと! 聖薇ちゃんのこと何いやらしい目で見てるのよ! アンタなんか、朝ご飯抜きよ!」
サッ! と。憤慨した佐和子が拓夢から食器を取り上げる。
「ごめんねー、聖薇ちゃん。お馬鹿なお兄ちゃんは、ママが懲らしめといてあげたから」
「母さん。そんな程度じゃ足りんよ。愛娘の聖薇に手を出そうとしたんだから。三日ぐらい飯抜きにしたらどうかね?」
「二人ともうるさいっ。早くご飯食べ終わらないと、遅刻しちゃうでしょ!」
佐和子、隆志、聖薇と。拓夢にとっては、朝から実に胃が痛くなる家族だ。
そもそも、拓夢が作ってる料理でさえ、拓夢自身はほとんど食べさせてもらっていないのだ。
これならばいっそ、一人暮らしした方がまだマシとさえ思えてくる。
「ちょっと拓夢! ボーッとしてないで! アンタはご飯抜きなんだから、食器でも片付けなさいよ!」
「は、はい」
まだ高校二年生ながら、家の家事はほとんど拓夢に任されている。また殴られでもしたらかなわないと、拓夢は急いで自分の食器を片付けキッチンへと向かった。
「気の利かない男だな、まったく」
新聞に目を通しながら、冷たく吐き捨てる隆志。
「それ終わったら、ゴミ捨てもね! 出し遅れたら、ただじゃおかないわよ! あと、リビングの掃除もしておきなさい! ぐずぐずしないでね!」
まくし立てるように叫んだのは、もはや新妻をいびる姑に等しい義母、佐和子。
「……キモっ」
最後にそう呟いたのは、拓夢の背中を冷たく見据える義妹、聖薇だった。
三者三様の罵詈雑言を一身に浴びながら、まだ風が冷たい四月だというのに、冷水で皿を洗い始める拓夢であった。
家族が食べ終わったら食器を片付け、ゴミ出しを終えたら、リビングの掃除をして。定期代が出されないため、片道一時間の公立高校へと走って登校する。
こんな暮らしが、永遠に続くと思っていた。
まさか、このどん底のような暮らしから、超絶美少女かつお嬢様方から愛され慕われる生活に変わろうとは、この時は考えもしなかった。
とにもかくにも、城岡拓夢、十六歳の春。人生を激変させるきっかけとなる一日は、こんな具合にして始まったのだった。