⑮百合江とお掃除
「ふう……お腹いっぱいになった」
階段を登りながら、拓夢は膨れたお腹をさすった。
最初は渋ってはいたが、こうして朝の散歩も悪くない。
中庭に行けば、綺麗な花が咲く花壇が見れたし、噴水に朝陽が当たって水しぶきがとても眩しく幻想的だった。それに、朝早く出勤しているメイドや教師と、朝の挨拶を交わす。「城岡君は早起きしてて偉いわねー」なんて褒められれば、眠い目をこすった甲斐があったというものだ。
「ん……?」
拓夢は、踊り場まで来たところで、目を見開いた。
廊下に小さく、人の影が見えるのだ。
まず泥棒という考えが頭に浮かんだが、この学園のセキュリティは完璧だ。それに、メイドや教師だって出勤してきている。三年生の学階なので、おそらく上級生の誰かだろう。
……そんなことを考えていると、豆粒のように小さく見えた人物が、こっちに向かってきた。どうやら、自分に気づいたらしい。拓夢は、知った顔であるその人物に気づくと、慌てて声をかけた。
「あ、冷条院さん……お、おはようございます」
そう、予想外なことに、そこにいたのは三年の生徒会長、冷条院百合江だった。
拓夢はチラリと、百合絵が歩いてきた廊下を見た。
朝陽に照らされたリノリウムの床は、ホコリ一つ落ちていなかった。ふと窓を見ると、こちらも同様に、まるで新品のようにピカピカになっていた。
「城岡さん。お早うございます」
あたふたした拓夢と違って、百合江は礼儀正しく挨拶を返した。
見ると、手には雑巾を持っている。そして、廊下の端にはモップやチリ取りなどの掃除用具一式。どうやら、朝早く来て掃除をしていたらしい。しかし、なぜ生徒会長である百合江が、こんな雑用みたいなことを? しかし、そんなことを聞いたら怒るだろうか。
2の句を継げない拓夢に対して、痺れを切らしたかのように、百合江は切り出した。
「城岡さん、朝早いんですね。少し意外でした」
「えーと、実はノエルさんに起こしてもらいまして……」
「そうですか……今度からは、自分の努力で起きれるようにしてくださいね。人を頼ってばかりでは、怠惰になる一方ですから」
百合江は説教モードに入ったようで、声に厚みが増していた。
そして、冷涼な視線を向けると、
「単刀直入にお聞きします。城岡さん、貴方は、何のためにこの学園にいらしたのですか?」
「え……何のためって……」
拓夢が返事に窮していると、百合江は追い打ちをかけるように、
「庶民特待生には、授業料免除の他給付金まで貰えるそうですけど……お金の為ですか?」
「ち、違いますよ! あ、違うこともないんですけど……それだけじゃなくて!」
「では、大学進学の為ですか? でも、ここの高度な授業にはついていけてないようですね。しかも、女性アレルギーときている……」
百合江はそこで言葉を区切ると、より強い口調で言った。
「ですから、お聞きします。貴方、ちゃんとやる気はあるのですか?」
「う……」
言いにくいことをズバズバ言われて、動揺する拓夢。
「それは……今度から、ちゃんと」
「今度から? それはいつからなんですか? 明日? 一週間後? それとも、一年後ですか?」
拓夢の返事に、百合江は肩をすくめた。
「城岡さん、前の学校の成績も、あまりよくなかったらしいですね」
「そ、それは! 家事とかが大変で……学校に行くのも、歩いて通っていたから! 授業を受けるのはいつも途中からだし……」
「それは全て言い訳です。学生の本分は勉強なのですから、集中すればどんな環境に置いても、学業を疎かにするということはないはずです」
「う……」
拓夢の脳裏に、虐待を強いてきた義両親の顔が浮かぶ。
「そうですね……僕は、甘えていたのかもしれません」
「……それは、誰にでもあることです。私が言いたいことは、無理してこの学園に通う必要はないのではないか? ということです。あちらのご両親だって、今頃あなたのことを心配しているはずです。ですから、戻ってさしあげたらいかがですか?」
先ほどと違って、暖かさを感じる口調に、拓夢はハッとなった。百合江は、拓夢を気遣って言ってくれているのだ。
「それは……でも。この学園には、もう来られなくなってしまうんですよね?」
「そうですね。基本的に、部外者は立ち入り禁止なので。ですが、絶対に皆さんと会えなくなってしまうわけではないのですから。その方が、アレルギーを持つ貴方にはよいのではないですか?」
……みんなと、もう会えなくなる?
拓夢は、自分の想像に身震いした。
そんなのは、嫌だ。
女性アレルギーに関しては、自分が我慢するか、改善すればいい。勉強は、努力すればいい。しかし、みんなと離れて別々の道を歩むことには、我慢がならなかった。
「……冷条院さん。すみませんが、僕、まだこの学園にいたいです」
「そうですか。強制してるわけではないので、別に構いませんよ。ただ、私の忠告を聞かなかったことで、どうなっても知りませんが」
会話を打ち切ると、もう用はないと言いたげに、百合絵は掃除に取り掛かった。その後ろ姿を、拓夢はしばらく見ていたが。
拓夢は意を決すると、壁に立てかけてあったホウキを取った。
「ありがとう、冷条院さん。お礼と言ってはなんですが、僕にも掃除、手伝わせてください!」
「え、ちょっと。城岡さん!?」
珍しく狼狽する百合江を尻目に、拓夢は掃除に取り掛かるのであった。