㊹普通の女の子に戻りたい
「ふーっ、ふーっ……!」
肩を上下に揺らしながら、くるみは荒く息を吐いていた。呼吸が乱れている理由は、走っていたせいもあるが、それだけではない。
「大丈夫……?」
拓夢は問いかけた。
あの後。流石にいたたまれなくなって、拓夢とくるみは二人で走った。走って走って、たどり着いたのがこの屋上だった。
時刻は夜の7時。手すりの内側から見上げる空には、細い月が出ていた。木々を揺らす風の音以外は何一つ聞こえない、静かな夜だった。
やがて、落ち着いてきたのだろう。くるみは大きく一つ息を吐くと、フェンス際の棒を両手でつかむみ、身を乗り出しながら、虚空に向けて、
「バカ――――――――――――――――――――――――!!!!」
あらん限りの大きな声で、叫んだ。幸い、グラウンドに人影はなかった。くるみの叫びを聞いてる者は、誰もいない。
「くるみちゃん?」
「よっと」
つかんでいたフェンスを離すと、くるみはベンチの方まで歩くと、呆けたような表情で座った。
怒ってるようにも見えるし、悲しんでるようにも見える。まあ、あれだけ盛大な事件を起こしたのだから、平常心でいろという方が無理なのだろう。拓夢としても、茶道部から理事長に苦情を入れられることを考えると、胃が痛む。
しかし、本当に気になることは、別にあった。
「となり、座っていい?」
「どうぞー」
即答するくるみの隣少しだけスペースを開けながら、拓夢はベンチに腰を下ろした。
そのまま月を眺める。円形となった月はまるで、校舎全体を包むようで。まるで銀河の中に自分たちが取り込まれていくような錯覚に陥る。
「くるみ……やりすぎちゃいましたね」
「ん、まあ」
そーだね、と拓夢は頬を指でかく。
「明日、茶道部に謝りに行こう。僕も一緒に行くから」
「むー……………………」
ほっぺたを膨らませながらも、くるみは小さく頷いた。
「僕も当事者だからね……。それに、お嬢様化計画に加担した責任もあるし」
「それなんですけどぉ」
そう言って、くるみは足をバタバタさせる。
「拓夢先輩はくるみのこと、どう思ってますか?」
「え?」
「好きなんですか? 嫌いなんですか? 何とも思ってませんか?」
「いきなりどうしたの?」
「ちなみにくるみは、拓夢先輩のことが異性として好きです」
「いきなりすぎぃ!!」
「――ってツッコミは、どうでもいいんです。そもそも最初は、拓夢先輩はくるみの協力者であって、利用しようとしてました。役目が済んだらそれで終わり。それだけの関係――のつもり、でした」
珍しく真剣な表情で、少し震える声で、くるみは話した。
拓夢には、それがくるみの覚悟のように感じられた。
「……でも、違ってきたんです。くるみは、お嬢様になるより何より、拓夢先輩と一緒にいたいって。そう思うようになったんです」
拓夢はうろたえた。
そうだった。元々くるみの願いは周囲に順応し、仲良くなること……だった。
だからこそ、真莉亜に憧れていたのだ。学園の中でも一番お嬢様っぽいのは、真莉亜だから。
ではなぜ、真莉亜に特訓を受けなかったのか?
答えは、「真莉亜の劣化コピーになりたくないから」。
くるみには、お嬢様というレッテルは必要なかったのではないか? 必要だったのは、腹の底から笑い合える、心地のいい理解者ではなかったのか?
そして、それが自分だったと……。
「あ~あ。やっと言えました」
くるみはそう言うと、ぴょん、とベンチから立ち上がった。スカートについたホコリをぽんぽんと払う。
「く、くるみちゃん。僕はっ」
「ごめんなさい。もう少しだけくるみの話、聞いてほしいです」
話を遮り、拓夢には背を向けたまま、くるみは語りだす。
「百合江先輩って、生徒会長だし、すっごく勉強できるじゃないですか? 桜さんはみんなから慕われているし。真莉亜お姉さまは完璧超人だし。もちろん、クラスメートだって模範的な生徒ばっかりですよ? ピアノやダンス、乗馬にフェンシングと。休みの日は自宅でパーティを開きながらタップダンスを踊ってたりとかね」
拓夢には、口を挟めなかった。くるみの言葉が、あまりに真剣すぎて。
「でもね。くるみ、分かっちゃったです。みんな、くるみとおんなじなんだって」
「同じ?」
「そう。ホントはみんな、無理をしてたです。生徒会の仕事も、人気があることも、恋愛のことも。みんな無理をしながら、平気そうな顔をしてたんです」
「…………」
「庶民だったら、『あー、疲れちゃったなー』とか、『ダルいなー』とか言えるじゃないですか。でも、お嬢様は周囲からレッテルを貼られた存在だから、そう言えない。みんな、そうやって高嶺の花を演じてるんです……」
「まあ、そうかもね」
くるみの言いたいことが、少し理解できた。
かくいう自分だってそうだ。
城岡家にいた時は、奴隷のような境遇に耐えて尽くしていた。今は、庶民特待生という役割を演じている。どっちが本当の自分なのかは分からない。でも、今の生活をとても大事に思っている。それが一番大事なのだ。
くるみは言った。
「なので、お嬢様になるのは諦めるです!」
「まあ、それがいいと思うよ」
拓夢がそう言うと、くるみはほっぺたをプクーッとふくらませて、
「むー。そこは、『くるみちゃんなら後少しでなれたよ』とか『周りのお嬢様よりくるみちゃんの方が素敵だよ』とか『僕がお嫁にもらってあげる』とか言ってほしかったです」
「い、いや……そこまでの気遣いはちょっと……。ていうか、最後のなに?」
「あー、やっぱりこっちの方が、くるみらしいです」
くるみは床の上をクルクル回りながら言った。
「ねー、拓夢先輩?」
「ん?」
ちょうど拓夢の前で華麗なターンを決めると、くるみは、
「今すぐ返事をくれなくてもいいですよ。庶民特待生は『恋愛禁止』なんですよね? でも……ほんの少しでいいから。くるみのこと考えといてくれると嬉しいな」
少し照れくさそうに、にっこりと笑った。
その複雑な表情を見て、拓夢はドキリとした。
そのままドクドクと、心臓は鐘を打ち続ける。
(なんだこれ? まさか僕、くるみちゃんにドキドキしてるのか? いや、そんなまさかな……)
拓夢が自問自答をしていると、
「さぁーっ、もう帰りましょ! くるみ、ラーメン食べていきたいです!」
「え……?」
「拓夢先輩もいきましょ! そのあと、スーパーでお買い物するです♪」
「って、いきなり話が庶民的になってきたね……」
うつむきながらも拓夢は、くすりと笑っていた。
しかし、これでいいのかもしれない。十数年しか生きてないけど。それでも、自分が生きてきたキャラクターだから。急に変えることは出来ない。
だから、これでいいのだ。
「どーしたんですかー? 早く行きましょーよー!」
拓夢が顔を上げると、目の前まで来ていたくるみが催促する。
「早くこないと、置いてっちゃいますよー!」
くるみが扉に向かって走る。
「ああ、はいはい」
釣られて、拓夢も小走りで走り出そうとするが。
「――隙ありっ!!」
「わっ!」
急にくるみは足を止め、そして振り向いた。思わず拓夢は足を止めるが、慣性の法則からか、上半身は身を乗り出したままで……
「むぐっ!?」
「ちゅ♡」
と。唇と唇がぷるん、と触れ合う。
熱い。屋上は寒いのに、どんどん体温が上がる。湿った唇の、柔らかく甘い感触が、胸の高鳴りをさらに増加させて。
「あぐ、あぐあぐ……」
口を離すと、蕁麻疹と震えが体中を襲ってきた。
腰を落とす拓夢を見て、くるみは「ごめんなさ――――い!」とペコペコ謝る。
そんな様子は、どこからどう見ても普通の女の子だった。