㉚ハードルを越えよう
昼休み。憩いの時間を告げる鐘の音が響き渡る中。
拓夢は、教室から廊下へと出た。
隣の教室からも、ややお上品ながらざわざわと賑やかな声が聞こえてくる。
これから向かおうとしているのは、食堂。
ちょうどお腹も減っているし、今日は一ヵ月に一度しかメニューに並ばないという幻のメニュー、「キャビアとフォアグラのフレンチセット」が解禁される。これは、是非とも行かねば。
「拓夢せんぱいっ!」
廊下の向かい側から走ってくる人影。
くるみだった。
くるみはなぜか白の体操服、下は紺色のブルマを穿いていた。下は動きやすいスニーカーだ。
「やあ、くるみちゃん。どうしたの? そんな恰好して」
体育の授業でも長引いたのだろうか。そんなことを思いながら拓夢が尋ねると、
「これから『くるみお嬢様化計画』に付き合ってほしいですっ!」
バイン、と体操服から胸がはじき出されそうなほど大きく飛び跳ねながら、くるみは叫んだ。
しかし、拓夢は、
「……え?」
「……はい?」
思わず尋ね返すくるみ。拓夢にはすぐ合点がいった。
「あー、そういうことか」
ブルマなんて穿いてるから何かと思いきや、秘密の特訓に付き合ってほしいとのことらしい。
休み時間にまで自分を研鑽しようとする努力は賞賛ものだが。
拓夢としては、フォアグラとトリュフをお腹いっぱい食べてみたかった。
そんなことは口が裂けても言えないが。
「分かったよ。協力するけど……今度は、どんなことをするの?」
「あ、はいっ」
体操服を着ていることから、今度はスポーツ系に挑戦するらしい。お嬢様のスポーツといえばダンス、テニス、スケート、乗馬、新体操といったところか。
拓夢が思考を巡らせていると、くるみは大きな胸元の前で両こぶしをギュッと握りながら叫んだ。
「くるみ、跳び箱を飛べるようになりたいですっ!!」
「…………へ?」
拓夢は、呆気に取られながらくるみの言葉を聞き返した。跳び箱って、あの小学校で飛ぶ跳び箱のこと? 8段までは飛べるけど10段まで飛べるようになりたいとか、そういうこと?
「跳び箱って……くるみちゃん、どれぐらい飛べるの?」
「飛べるわけないじゃないですかぁ。あんなミミックみたいな怖~い箱さんですよう? くるみには、2段までが限界なんですう」
そっかー、と拓夢は笑顔で答えた。
ちなみに2段は40cmほどで、小学2年生でも飛び越えられる高さだ。
「あ―……そうなんだ……」
「ふえ? どうしたんですかぁ?」
どうしたのかと聞かれたので、拓夢は正直に答えることにした。
「ハッキリ言って、お嬢様化計画には無理があると思うよ? 跳び箱も飛べないんじゃ……」
遠慮がちに、言葉を濁しながら。
聖ジュリアンヌ女学院は、スポーツの名門校でもある。真莉亜を筆頭として、数多くの全国大会に出場し、その成績はトップクラス。毎年何人ものアスリートをプロとして輩出している――。
それが問題なのではない。
運動が苦手なお嬢様だっている。体育の授業で毎回クラスのお荷物になるような子も。
そんな中で、くるみは断トツで運動音痴なのだ。
それ自体は悪くはないが、くるみが目指すのは文武両道の、完璧なお嬢様だ。不可能とまでは言わないが、限りなく遠い道のりだ。
だから拓夢はそれとなく、くるみに諦めるよう伝えることにしたのだが……
「それでもいいんです!」
「くるみちゃん?」
「だって、挑戦することに意義があるじゃないですか!」
両手を体の前でギュッと握りしめて、くるみは叫んだ。
「…………」
あまりにも予想とは違う、前向きなことを言われたので、拓夢はしばらく黙っていたのだが……
「……くるみちゃん。成長したね」
感慨深そうにまぶたをこすりながら、拓夢は呟いた。
「そんなポジティブなことを言われると、諦めろだなんて言えないじゃないか。まったく、僕は自分が恥ずかしいよ」
苦笑しながら言うと、くるみは「ははーん」とイタズラっぽい笑みを浮かべて、
「あー、さては先輩あれですねぇ?」
「な、なに?」
「くるみに惚れちゃいましたね?」
「なんでだよ!?」
爆弾発言に思わず大声でツッコんでしまう。
「またまた~。隠さなくていいんですよぉ? くるみはこんなに可愛いから、好きになっちゃっても無理はないです♡♡♡♡」
「ちがうしっ!」
拓夢が大声で否定すると、
「え……ちがうんですか……? 拓夢先輩、くるみのこと嫌いなんですか……」
「温度差!!!!」
目を伏せ涙を浮かべるくるみに、思わずツッコむその合間に。
「庶民特待生さまが、女の子を泣かせていますわ……」
「やはり庶民は下劣ですわね。理事長に報告しましょうかしら」
ひそひそと道行く女子から冷ややかな言葉が浴びせられる。
「ち、違うよ、みんな誤解だって! 今だって、くるみちゃんの特訓に付き合ってあげようと……」
「特訓……? 二人きりで……?」
「それでブルマを着せているのですね……」
「不潔ですわ!!」
「違うって!!!!」
しかし、女子たちは皆拓夢に軽蔑の眼差しを向けていた。
結局女子たちの誤解を解き、くるみを泣き止ませ、一緒に体育館に向かうことが出来たのは、それから数十分立ってのことだった……。