⑱私は……庭師だ。
「困った……麗奈さんとはぐれたぞ」
速攻で麗奈とはぐれた拓夢は、先ほどから中庭をうろちょろしていた。
スタスタと勝手に歩く麗奈も悪いが、この巨大で入り組んだ庭も悪い。
「でも、素晴らしいな……」
その一方で、中庭で迷えたことを拓夢は感謝していた。それほど、その光景は見事だったのだ。
まさに都会のオアシスだった。熱帯植物や季節の花々、美しい噴水や彫刻があしらわれた、風光明媚な庭園。
珍しい花や植物を眺めながら、拓夢は幸せな気持ちで遊歩道を歩く。
透明な陽の光は川の水に反射され、淡い花たちを鮮やかに照らしていた。
緑の芝生は、群青色の空の下、木々に囲まれながら庭中に敷き詰められていて。
空気は澄んでいるし、花の良い香りはするし、家の中にいるだけでバカンス気分が味わえるような気がした。
「お、綺麗な花だな……なんて花だろ?」
赤、紫、白、クリーム、青、オレンジ、ピンクと……。色とりどりのつぼみを咲かせたラッパのような形をした花に、拓夢は目をつけた。
「それはペチュニアと言ってな。南米原産のナス科ペチュニア属に属する花じゃよ」
急に後ろから話しかけられ、拓夢はビックリしてふりむいた。
立っていたのは、壮齢のお爺さんだった。
作業着にロングブーツ、白髪交じりの頭に、日差しを避けるガーデニング帽子を被っている。
好々爺という表現がピッタリなくらいなお爺さんは、黒目が見えないほどニコニコだ。それでいて、どことなくエレガンスさを感じさせる。スーツでも切れば、立派なジェントルマンに変身しそうだ。
(誰だろう……庭師かな?)
スコップとバケツを持った出で立ちから、拓夢はお爺さんをそう判断した。
(あ、でも……。僕のこと、どう説明しよう?)
麗奈もいないし。もしかしたら、不審者に思われるかも、と。拓夢が悩んでいた、その時だった。
「ふぉっふぉっふぉ。この花も、良いつぼみを咲かせそうじゃの」
低い笑い声の方を向くと、お爺さんは花壇の花を手入れしていた。
よほどのベテランなのだろう。馴れた手つきで土を掘り、水をかけ、そして余分な花の茎を切り捨てている。
「あの。ここに咲いている花って、全部お爺さんが?」
拓夢は思わず聞いた。
お爺さんは、視線だけちらりと拓夢に向けると、
「ああ。この歳になると、新しいことにはあまり興味が沸かなくての。この屋敷に咲いている花は、みぃーんなわしが育てた子供達じゃよ」
「……すごいなぁ」
「君もやるかね?」
お爺さんは笑い掛けながら、拓夢にスコップを差し出した。
拓夢は思わず、スコップを受け取る。
「どうすればいいんですか?」
「よいかね、坊主。ガーデニングとは、子育てのようなものだ」
お爺さんは言いながら手本を見せる。手慣れた手つきでスコップを持ち、土を掘っていくと、
「土とは、お花が住む家のようなものじゃ。ほら、この家のようにな」
目だけを屋敷に動かす。
「そして、掘った土に腐葉土や消石灰を混ぜていく」
拓夢が質問を返す前にお爺さんは、
「習うより慣れろじゃ。お前さんも、少し水をやってみい」
今度は拓夢の上を掴むと、その手にじょうろを握らせた。
拓夢は言われるがままじょうろを傾けたが、
「こら、そんなに水をやっちゃいかん。根が腐って枯れてしまうじゃろ。土を触って軽く濡れてるくらいがちょうどいいんじゃ」
「は、はいっ」
拓夢は慌ててうなずくと、じょうろを離し、花壇の中の土に手を入れる。
そして、中の花をそっと撫でてみた。
「なんだか……泣いてるみたいだ」
もちろん、花は喋らない。感覚もない。しかし拓夢には、何故か花がそう言っているように感じたのだ。
「だから子育てと一緒なんじゃよ。一緒に成長し、一緒に悩む。苦楽を共にし、共に季節を過ごす。中々楽しいものじゃろ?」
「は……はい。そうですね」
「なら、気の済むまで見ていくといい。花は逃げたりはしない」
「子育てと……一緒か」
拓夢は、寂しそうにつぶやいた。
「僕には、よく分かりません。本当の親が……いないから」
「まぁ、人生には良いことも悪いこともある。じゃが、坊主はまだまだ若い。過ぎたことよりも今じゃよ。楽しい時には、楽しい顔をしていなさい」
そう笑うと、お爺さんは拓夢の頭を撫でた。
「……」
拓夢は不思議なものを見るように、お爺さんの顔を眺めていた。
確かに、今の拓夢は以前とは比べ物にならないくらい幸せだ。こうやってゆっくりと花を眺める余裕さえ、前の家ではなかったのだから。
「人生とは、思い通りにはならん。だからこそ面白いものじゃ。そうじゃろ?」
「……はい」
拓夢は、うつむきながら答えた。
お爺さんに、涙目を見られるのが恥ずかしくて。
「すみません。じゃあ、他の花にも水やりしますね……って」
拓夢がお爺さんに話しかけようとした、その時だった。
お爺さんはいなくなっていた。それどころか、バケツやスコップなどの作業用具まで消えている。
まるで、始めからそんな人はいなかったかのように。
「……あれ? どうしたんだろ……」
拓夢は首を傾げた。
拓夢がうつむいていたのは数十秒ほど。そんなに長い時間じゃないはずなのだが……
「あー! 拓夢くんー、いらっしゃいましたのー!」
間延びした声が、拓夢の後ろから聞こえてくる。
「あ――麗奈さんっ」
拓夢は振り向く前に涙を指で軽くこすった。
麗奈は、そんな拓夢の反応に気づくこともなく歩み寄ると、
「もーっ、探しましたのー。こんな所で、何をやっていましたのー?」
あまり怖くはないが、どうやらプンプンと怒っているつもりのようだった。
「あ……庭師のお爺さんと、ちょっとだけお喋りしてたんですよ。ごめんなさい、のんびりしちゃってて」
「おじーさんの庭師……? そんな方、いらっしゃったかしら……?」
しかし麗奈は、美しい指を形のいい顎の下に乗せて悩んでいる。
「後でお礼を言いたいな。何て名前の人なんですか? 見たところベテランさんみたいでしたけど」
「分からないですのー。このお屋敷、こーんなに広いから。使用人も、数えきれないくらいいますのー」
眉毛を逆ハの字にしながら、困った笑顔を浮かべる麗奈に、
「……そうですか」
と、拓夢は残念そうにつぶやくのだった。