⑩元気を出して
「それでは、本題に入りましょうかしらね」
夢子は急に背筋を正し、真面目な顔で言った。
つられて、拓夢も佇まいを直す。
「はい、分かりました」
夢子は、じいっと渋い顔で拓夢を見つめながら言う。
「拓夢君、今日数学の米山先生の授業中、居眠りしちゃってたでしょ。報告が上がっていますよ」
「うああ……そ……それは……」
ついに来たか、という緊迫感と共に、拓夢は夢子の言葉を飲み込んだ。
理事長であり教育者でもある夢子が、授業中の態度を気にするのは当然だ。
なにせ学園のトップなのだから。
そんなことを考える拓夢を、夢子は無言で鋭い視線を送っていたが。
ふと、その表情が和らいだ。
「あの……夢子さん?」
「いいのよ。拓夢君」
慈愛に満ちた表情で、夢子が言う。
「いいって……?」
「昨日から、大分無理をさせてたしね。疲れも溜まっていたのでしょう。だから、初めから咎めるつもりなんてないわ」
「は、はあ……」
拓夢は思わず、女神のような美しい顔をまじまじと見つめてしまう。なら、なぜ話題に出したのか。夢子の考えていることが、拓夢にはさっぱり分からなかった。
「でもね、反省することは必要だと思うの」
優しく諭すように言われた拓夢は「す、すみません!」と上ずった声で答えた。
「……私はね、何も怒ってるわけじゃないの。無理をさせてるのはこちらなのだし。でもね? 報告と反省は必要でしょう? 何が悪かったのかを一緒に考え、理解し、次の経験に生かす。これこそが、教育のあるべき姿だと思うの」
「分かりました……その、次回から気をつけます」
拓夢は先ほどよりは心を軽くし、約七十度ほど頭を下げて謝罪した。気にしないようにと言われても、申し訳なく思う気持ちは大事だと思ったからだ。
「やっぱりいい子ね、拓夢君は」
ほんの少しだけ涙目になりながら、夢子は口元を上げた。いつも優雅な微笑みをたやさない彼女だが、これは珍しい笑い方である。思ったよりも、涙腺が緩い人なのか。
「さあさあ。拓夢君、まだケーキも沢山あるわよ。チョコレートが溶けちゃうから、早く食べちゃって?」
夢子は、テーブルに並べられたスイーツを指さした。素材も製法もしっかりしているので、そうそうは溶けないだろう。これは彼女なりの気遣いなのだろう。
「夢子さん……ありがとうございます」
意図は、正確に伝わった。
「でも、すごく美味しいですね、このケーキ。これが一番おいしいかも」
不思議と、今食べたチョコレートケーキは、それまでに食べたケーキよりも甘く感じた。
「実はね……私の方からも、謝らないといけないことがあるの」
珍しく伏目がちに話しかける夢子。
「謝る? どういうことですか?」
拓夢が問いかけると、夢子はゆっくりと口を開いた。
「現状では拓夢くんには、客間兼、教師の仮眠室として利用してた部屋を使ってもらってるんだけど。ごめんなさいね、あんな狭い部屋しか用意できなくて……」
「そんな……全然そんなことないですよ。僕が元いた部屋に比べれば、全然……」
「でも、安心してちょうだい。すぐに、拓夢君専用の豪邸を建てるから」
「へ?」
夢子の言葉に、拓夢はきょとんと聞き返した。
確かに、城岡家を追い出された今、拓夢には住む家が必要である。
しかし、家を建てる? しかも、自分専用?
「表向きは、学生寮という触れ込みだけどね。男性寮だから、実質拓夢君専用の家といっていいわ。家賃も光熱費もいらない。それに、ビリヤードやダーツ、トランプなどが出来るパーティールームと、温泉もついてくるのよ」
だけど、と、そこで夢子は眉をひそめた。
どうやら、今は感染症が流行っているらしく、人手不足から工事が大分長引いているらしいのだ。
しかし拓夢からしてみれば、工事が遅れていることよりも、自分ひとりのために家を建てることや、経済的なことをまず気にしてしまう。
夢子もまた大金持ちだし、そこまで心配することもないのかもしれないけど……しかし、こんな自分のためになぜそこまでしてくれるのか。拓夢には、本当に分からなかった。
「心配しないで。もうすぐで完成予定だから。そうしたら、すぐにまた教えるわね」
拓夢の沈黙を不満と受け取ったのか、夢子は元気づけるように言った。
拓夢からすれば、今いる部屋は十分な広さで、これ以上のことなんて何も望んでいなかった。
しかしながら、これだけのことをしてもらって、やっぱり遠慮しますとは言えない。この夢子からは、なぜだか知らないがすごく大切に思ってくれているからだ。
「分かりました。よろしくお願いします」
と、拓夢は頭を下げた。そうだ、これが聖ジュリアンヌ女学院なのだ。これまでの環境とは違うのだ。
それならば、理事長の考えには従っておいた方がいい。ともかく今は……何の間違いもないのだから。
そして拓夢は、この学園の庶民特待生なのだから。
意を決する拓夢の心中を察したように、夢子はニッコリと笑いかけた。
「お金のことなら、何の心配もないのよ? 私、こう見えても大手企業の経営にも携わっているし。それに、地方から出勤しているメイドを住まわせれば、何かと便利だし」
おそらく、拓夢が考えてる数字より三桁以上は金額がかかっているだろう。心配するなと言われる方が無理な話だが。
「そうですね。僕がここを卒業すれば、次の庶民特待生が使えばいいんですもんね。無駄にはならないか」
拓夢は、ホッと胸を撫で下ろしながら言った。
そんな拓夢を、夢子はニコッと笑いながら見て、
「うふふ。卒業したかったら、まずは成績を落とさないことね」
「は、はい、分かってます」
「それから、身だしなみにも気をつけた方がいいかもね」
「み、身だしなみ、ですか?」
「校則違反ではないけど、拓夢君、前髪長すぎよ? ちょっと陰気な印象を与えるかも。目元が見えるだけでも、人に伝わるイメージって大分違うのよ? それにその厚底メガネ、変えたら? せっかく可愛い顔してるのに、勿体ないわよ?」
「そ、そうですか……どうも」
女性から容姿を褒められたの初めてのことなので、どぎまぎしながら受け答えをしていると、なぜか夢子が拓夢の顔をじーっと見ている。
それも、すごく真剣な顔で。拓夢の胸がドキドキしてしまうほどに。
「……やっぱり、よく似ているわね」
寂しげに、どこか懐かしそうな表情で笑う。何とも形容しがたい表情に、拓夢は胸がつかえてしまう。
この表情はいったい……?
拓夢が声を出そうとした、その時。
「な~んてね♪ 拓夢君がテレビで見た芸能人に似てるかなって思ったんだけど、気のせいだったわ。ごめんなさい☆」
と、舌をペロッと出して笑いかけた。
「な、なんだ……そうだったんですね。ははは」
「そんなに気を落とさないで。可愛い顔してるっていうのは、本当だから」
励ますような言い方をされて、拓夢は少し安堵した。先ほどの寂しそうな表情は、やっぱり気のせいだったのだろう。
「さあ、それでは」
そう声を発すると、夢子は椅子から立ち上がった。
「とにかく拓夢君、私に出来ることがあったら、何でも言ってね」
「ありがとうございます、夢子さん」
拓夢もまた立ち上がって頭を下げる。ここからは、メイドであるノエルに、また別の報告会があるのだ。
すると、コンコンコン、と三回ノックがされて、
「拓夢様、お迎えにあがりました」
図ったようなタイミングで、スッとノエルが現れた。
「……ノ、ノエルさん。いいタイミングできましたね」
「当然です。理事長とは長い付き合いですし、私は拓夢様の専用メイドですから。見くびらないでいただけますか?」
と、黒のジャンパスカートに白のエプロンを着たノエルは、専属メイドらしからぬ冷ややかな視線を浴びせながら言った。拓夢を庶民だと見下しているのだろうか。それとも、誰に対してもこういう態度なのだろうか。拓夢は多分、後者だと考えていた。
「みっ、見くびってなんかないですよ! 僕はノエルさんのこと、すっごく有能な人だと思ってるんですからっ」
「あなたに褒められても嬉しくありませんね。ですが、当然のこととして受け取っておきます」
ノエルは拓夢の誉め言葉にも、ミリ程度も表情を変えずに応えるだけだった。
しかも、当然のことなのか……拓夢には、この無表情のメイドのことだけは、よく分からなかった。