⑩くるみクッキング
事の発端は、三十分前。そう、家庭科の授業である。
庶民特待生である拓夢は、一つの教室に留まることはせず、各学年、各クラスを転々として回っている。
そして、今日は一年D組。つまり、くるみの教室の番というわけだ。
四時間目の授業は家庭科。調理実習の時間で、今日のメニューは「クッキー」である。名門学園の授業にしてはレベルが低いように思えるが、難しい調理ではないので、ケガをする心配はない。何より、男である拓夢に考慮して、比較的優しいレシピを教師側で考えてくれたというわけだ。
とはいえ、拓夢は前の家で料理を作らされていたし、学校での弁当も自作していたほどだ。クッキーぐらいなら、まずまずの物が出来る自信を持っていた。
そんなことを考えていると、
「拓夢先輩、これは大チャンスですね!」
「ん? 何が?」
大声で自分に話しかけてきたのは、くるみであった。
いくつかのグループに分かれて調理をするのだが、拓夢の班に無理やり押しかけてきたのだった。
「もちろん、『くるみお嬢様化計画』を遂行するチャンスに決まってるじゃないですかぁ!」
「お嬢様って……その恰好で?」
拓夢はハート形のフリルがついていて、布地にタヌキやクマさんがあしらわれた、可愛らしいピンクのエプロンを着た、くるみを指さしながら言った。
「こ、これは……お、お母さんがこれしか用意してなかったですう! くるみは悪くないもん!」
くるみはひどく憤慨した様子で、頬を膨らませながらぷいっとそっぽを向いた。
「あ、いや、別に悪いとは言ってないんだけど……。お嬢様化計画の持ってこいってことは、相当の自信があるってこと?」
「そ、そうです! くるみが言いたかったことは、それです!」
拓夢の言葉に、くるみは自信まんまんと言った表情で向き直った。
くるみお嬢様化計画。
くるみの親は元々金持ちではなく、普通の会社員だった。
それが出世に出世を重ね、上場企業の社長に就任した、いわゆる「成金」というやつである。
そう、つまりくるみは、本物のお嬢様ではないのである。
そんなくるみがお嬢様を目指すため、拓夢が協力して挑むプロジェクトこそが、「くるみお嬢様計画」なのだ。
とはいえ失敗ばかりしているが。
「ふんふ~ん。料理は愛情、ですよね~♪」
鼻歌を歌いながらくるみは、卵黄、バター、バニラエッセンスを入れたボウルをヘラでかき混ぜていた。一応確認してみるが、分量は合っている。バターと卵は常温にしてあるし、薄力粉は事前にふるっている。
後は、少しかき混ぜ過ぎなのが気になるが。多少ベトつくぐらいがちょうどいいのである。
「くるみちゃん。あんまり混ぜすぎると、生地が固くなってサクサク感が無くなっちゃうんだけど……」
拓夢が気を利かせてアドバイスをすれば。
「いーから! 拓夢先輩は試食係なんだから黙っててください!」
プリプリ怒るくるみに拒否されてしまう。
自分にも任せてもらえれば、美味しいクッキーが作れるのになあ……と、ちょっとショックを受ける拓夢であった。
「ああ、そんなに生地を伸ばしちゃ……」
「だーかーらー! 拓夢先輩は大人しく見てるですう!」
声を出し掛けたところで、またもやくるみに怒られる拓夢。
その後も、くるみクッキングは散々な有様だった。
冷蔵庫で冷やした生地を棍棒で伸ばすのだが、伸ばしすぎて生地がちぎれたり、逆に分厚過ぎると綺麗に型抜きしずらくなってしまうのだ。
(ほらほら、言わんこっちゃない! 生地がちゃんと冷えてないんだよ! そもそも均等に練り込めてないし!)
声に出すと怒られるので、型抜きに悪戦苦闘するくるみに対して、心の中でツッコむ拓夢。料理上手な拓夢にとっては、手伝っちゃダメというくるみの指摘がもどかしく感じるのだ。
とはいえ……後は180度に余熱したオーブンで、12分ほど焼き上げて余熱を取れば完成だ。そこら辺は、流石のくるみも間違えないだろう。
しかし、まさかそれが大いなる間違いだっとは、この時の拓夢には想像さえしえなかったのだが。