⑧その女、狡猾につき
「忘れ物をしたから戻ってきたの。ほんと、最近忘れっぽいのよね~。まだそんなに歳じゃないんだけど」
楽しそうに笑いながら夢子は、豊満な胸を包むように両腕を組みながら、ノエルの前まで近づいてくる。まるで執行人を前にした死刑囚の気分だった。そんなノエルの気持ちなど微塵も知らない様子で、夢子はカツカツとヒールを鳴らしながら歩いてくる。
「この金庫、ぶつかると凄く痛いのよね~。まあ大事な書類とかいっぱい入ってるし、どんなトラブルが起こってもいいように特殊な合金で作られているから、しょうがないって言えばしょうがないんだけど」
ノエルの目の前までやって来た夢子は、はつらつとした口調で言った。
「……それで? その大事な金庫の前で、ノエルちゃんは何をしているのかな~?」
「……」
ノエルはあまりの動揺から、口を開けないでいた。
「ん~? どうしたの? もしかして、この金庫を開けようとしていたとか~?」
真っ赤な髪をなびかせながら、夢子はノエルの顔の前で詰め寄った。目鼻立ちがハッキリしているその美貌は、真剣な表情をしていると、とても冷たく感じられた。
「ち、ちがいます……。私はただ、金庫がちゃんと閉じられているか、確認してただけです。理事長も先ほど、『施錠だけはキチンとするように』と仰っていました」
ノエルは圧力から少しでも逃げようと、無意識の内に夢子から距離を取った。紅葉色のソバージュヘア、赤のレディーススーツ、深紅の口紅……。今の夢子からは、全て「血」を連想させる。
「あら、そうだったの? それはありがとね♪」
しかし、そんなノエルの心境など知らないというように、夢子は屈託なく笑っている。
「ご理解いただけて光栄です」
「でも、確かにセキュリティはもうちょっと万全にしないとダメかな~? たま~に酔っぱらってカギ閉め忘れそうになる時があるのよね」
「それならまずお酒を控えてください」
「う~ん、これは一本取られたわね☆」
くすくすと笑う夢子。先ほどの緊張感は微塵も感じさせない。
しかし、飄々としているようで、実はこちらの情報を全て抜き出そうと計算された表情なのだ。
それを分かっているノエルは、警戒を最大にまで強めた。
「それよりも。拓夢様を将来、私の後釜として秘書にしたいそうですね?」
だから、話を変えることにした。
拓夢が卒業後もこの学園で働くということには、異存はない。自分も特別講師として残るのだから、むしろそこから大人同士の恋愛に発展する可能性すらあるので、大歓迎だ。
しかし、夢子は〝テンプテーション・スメル〟の存在を知っている。彼女が拓夢を利用して地位を築き、権力を振りかざそうとしているのではないか……その疑問は、薄れなかった。
ノエルの問いに、夢子は薄く笑みを浮かべながら答えた。
「ええ、そうよ。拓夢君がよければ、の話だけど」
「……拓夢様を自分の手元に置いておきたい、ということですか?」
一気に核心にまで迫った。夢子の表情が少しだけ変わる。
「うふふ。だって、拓夢君すごーく可愛いんだもん☆ 素直で、明るくて、女子生徒からの人気も高くて、仕事の飲み込みだって早いわ。だから、ずっといてもらいたいくらい」
そう言って、夢子はパチンとウインクした。
とてつもない美人だ。思わずゾッとするほどに。色々な修羅場や出世や挫折を経験してきた、本物の大人の妖艶な笑い。
「それは、本心からのお言葉ですか?」
だから、こちらの尋ね方もいくらか懐疑的になってしまう。
「ええ、そうよ。信じてもらえないかもしれないけどね。ま、それより本題を言うわね」
夢子が襟の隙間部分。つまり、胸の谷間から一本のカギを取り出した。
「理事長、それは……?」
思わずノエルは尋ねた。
「ここのカギよ。今度から、私が保管することにしたから。理事長室に用がある時は、全て私を通してからにしてね?」
「は、はい……ですが……」
これでもう、この部屋に忍び込むことは不可能に近くなった。ノエルは絶望していた。
「じゃあ、はい。カギ、出して」
夢子はノエルに向けて手を差し出した。
「……分かりました」
渋々、ノエルは今まで自分が使っていたカギを夢子に対して渡す。
「夢子様は……私のこと、信用してらっしゃらないようですね?」
「違うわよ。ノエルのことは、誰よりも信頼しているわ。でも、それとセキュリティをより強化しましょうって話は、また別でしょ?」
そう言って夢子は明るく笑うが、どうも嘘っぽく見えた。
手を引っ込め、俯きながらノエルはつぶやく。
「どうだか……」
ならばなぜ、自分を警戒してここまで戻って来た?
どうして、自分を配置換えして拓夢を秘書にしようとする?
ノエルは困惑していた。
ただ一つ分かっていることは、夢子は何かを隠してることだけだ。
「――ノエルは私のこと、疑ってるの?」
「……!?」
耳元に吐息を吹きかけられ、ノエルは思わず顔を上げた。
いつの間にか、間近に夢子の顔が迫っていた。
「……そんな悪い子には、オシオキしちゃおうかしら?」
低く、色っぽく、艶のある声でささやく。
「あ、やぁ……っ!」
くすぐったさと恥ずかしさから、ノエルは顔を赤くしながら拒否をする。
「うふふ、可愛い♪」
夢子はあでやかな唇を歪めて笑っていたが、目は真剣だった。
「そういう顔をしていれば、拓夢君だって少しは心を許すはずよ。何だったら、私の方から便宜を図ってあげましょうか。そうすれば、その火照った体も……」
「――やめてくださいっ!」
ノエルは腕を振り上げながら、夢子の体を払いのけた。
「あらあら。少し冗談が過ぎたかしらね」
イタズラっぽく夢子が笑った。
「でも、覚えていてちょうだい。拓夢君のテンプテーション・スメルは、使いようによってはこの国の脅威となる」
瞬間、夢子は凛とした口調で言い放つ。
「どんな女でも虜にしてしまう体臭。お嬢様を片っ端から篭絡させれば、日本を転覆させることだって出来るわ」
先ほどまでのとぼけた表情ではない。その目には、厳しい光が宿っていた。
「あなたの手に負える人物ではないのよ。分かったら、ただのメイドとして徹し、それ以上の感情は持たないことね」
「そ、そんなこと、あなたに関係……「あるのよ」」
ノエルの言葉を遮った瞬間、夢子はノエルのすぐ横の壁に手をついた。そのまま、顔をのぞきこむ。貫くような視線が、ノエルの瞳に映り込んだ。
「よぉーく考えなさい。拓夢君は誰のものか」
思わずゾッとするほど熱く、真っすぐな視線。その眼を見ているだけで、体中が業火で焼かれていくような気さえした。
(全て……知られている)
自分が拓夢と和解したことも、拓夢のために金庫を開けようとしたことも。
全て分かった上で、自分に警告しようとしているのだ。
ゴクリと。ノエルが唾を飲み込んだ、その時。
夢子はパッと体を離した。その時には、いつもの優雅で、気品あふれる笑顔に戻っていた。
「それじゃ、この話はこれでお終いっ! 今日は天気がいいから、テラスにでも行って、一緒にお茶しましょっ!!」
「え? 今からですか?」
呆気に取られて問い返すノエルだったが、雇い主に颯爽と踵を返されては、従う他はない。
「ふぅ~ん♪ ふぅ~ん♪ ふぅふぅ~ん♪」
ノエルの心境など知りもしない様子で、夢子は鼻歌を歌いながら廊下を歩いていくのだった。