⑨夢子さんと拓夢君
拓夢が理事長室を訪れた理由、それは初日の報告会をするためだった。
授業で分かりづらかった点、人間関係が上手くいかない点、その他設備についての希望、質問など。拓夢は半ば強制的に連れてこられたのだし、家庭事情が家庭事情だ。メンタルケアを兼ねて、定期的に理事長自らが相談に乗ってくれることになっている。
しかし、拓夢としては油断するわけにはいかなかった。相談というのは表向きで、実情は拓夢の学内での素行を見極めようとしているに違いない。受け答えは丁寧、出されたお茶にも一切手をつけない。
「よし……!」
頭の中でシミュレーションを終えた拓夢は、夢子に促されるまま理事長室に入った。さあ、ここから緻密な頭脳戦が始まる。
「さあ、城岡君座って座って~」
ところが夢子の方は、意外なほどフレンドリーだった。
「お紅茶は、ダージリンティーでよかったかしら? お菓子は男の子の好きそうなものが分からなかったから、色々と盛り付けてみたのだけど。リクエストがあったら言ってね♪」
そう言われて、拓夢はテーブルを見下ろす。
きめ細かな木目が美しいシックなセンターテーブルの上には、蝶や花びらで絵付けされた白色のティーカップが、磁器で作られたソーサーに乗せられていた。
その横には定番のビスケットやクッキー、パウンドケーキ、アップルパイ、モンブランなどから、お団子や大福などの和菓子系まで。
見ているだけで胸がいっぱいになりそうなほどお茶受けが、これでもかと並べられている。
……しかし、おいしそうだな。
頭の中で考えたことを追い出すように、拓夢は首をぶんぶんと振る。
「それで、理事長。初日の報告ですが――」
「あ、待って。その前に、紅茶を入れるから。イギリスから取り寄せたチャノキという茶葉から煎じた紅茶なの。ダージリンティーは、このフローラルで華のような香りが落ち着くのよね~。アールグレイとどっちにしようかなって迷ったんだけど、結局私の好みで決めちゃった」
そう言いながら夢子は、馴れた手つきで銀色のティーポッドにスプーン二杯分の茶葉を入れ、茶こしで茶ガラをこしながら、ティーマットの上に置かれたカップに紅茶を注いだ。
その瞬間、気持ちのいい爽やかな香りが、拓夢の鼻を伝った。
「お話する前に、まずはこれを飲んじゃいましょ」
「あ、いえ、お構いなく……」
「一人で紅茶なんて飲んでても、美味しくないでしょ? さあ、冷めないうちに」
「あ、ありがとうございますっ」
言われて、拓夢は紅茶を一口すすった。美味しいことは美味しいが、せっかく気合を入れてのぞんできたのに、こんなのん気な雰囲気だったとは。何だか肩透かしを食らったような気分だ。
その後も、特に難しい話題はなかった。夢子が最近ハマッてる紅茶の話題など、趣味的な会話が続く。そんなこともあって、拓夢の夢子に対する警戒は、すっかり薄まってしまった。
「理事長。このシュークリームおいしいですね」
「うふふ、そう……で、どうかしら? 少しは緊張、解れたかしら?」
「はい。もう、すっかり。最初は理事長と二人だけで話すって凄く緊張してたんですけど。何か、怖くて……あっ」
言ってしまってから、拓夢はハッとする。つい気を緩めて、学園のトップに失礼な態度を取ってしまったことを、深く反省する。
「す、すみません! い、今のは別に……」
「いいのよ。誰だって理事長室に呼び出されれば、同じことを思うわ」
夢子は「ウフフ」と、まるで貴婦人のような笑い方をした。
「でも、少しはリラックスしてくれたみたいで、よかった」
「は、はい」
もてなしてくれるのはありがたいし、こうして細かい部分まで気にかけてくれるのは嬉しい。しかし、どうして自分なんかのためにここまでしてくれるのかと、訝しむ部分もなくはない。
「ところで。その『理事長』って言い方、止めにしないかしら?」
「え……でも……」
「私ね、肩書で呼ばれるの、本当はあまり好きじゃないの」
夢子は肩にかかった髪を払いながら言った。
「この学園はね、お嬢様学校ではあるけど、地位も名誉も関係ないのよ。役職は、その最たるものだと思うわ。校長だろうと理事長だろうと、一人の人間。肩書なんかより、名前で呼ばれた方が、一人の人間として、認めてくれたって感じするじゃない?」
「は、はあ……」
肩書を持ったことのない拓夢には、あまり理解できない話だった。しかし、夢子が理事長と呼ばれることを嫌っていることは分かった。しかし他の生徒は良くて、なぜ拓夢だけダメなのかは謎だが。
「だから、城岡君。私のことは名前で呼んでちょうだい」
「えーと……」
学園のトップ、しかも、お嬢様学校を取り仕切る敏腕理事長を呼び捨てするのには、かなり勇気がいる。
しかし、なぜだか。
拓夢には神薙夢子の言葉には逆らえないのであった。
「じゃあ……えと……、夢子、さん?」
「それでいいのよ」
夢子は相好を崩し、にっこりと微笑んだ。
「……じゃあ、私も苗字呼びは止めて、こう呼ぶわね。『拓夢君』と」