触れたくない物
――とある不動産屋の一室
「家賃は無料で結構です」
「いや、それはさすがに」
「入居してくださるだけで助かるのです」
「霊が居るとはいえ、格安なら入居希望者はいくらでも居るでしょうに」
「最初はそうでしたが、今ではもう……」
「無料にするくらいなら空き部屋のままでも良いのではありませんか」
「話し相手が欲しいと騒ぐのです。他の部屋の入居者まで気味悪がりますし、ノイローゼになってしまいそうですよ」
「地縛霊なら建て替えてしまえば良いのでは。土地ではなくて部屋にしがみついてるのでしょう」
「簡単に言わないでくださいよ。それに部屋への未練が私への復讐に替わったらどうしてくれるんですか……」
「話しかけてくるだけで入居者が居なくなるというのも妙な話ですね。安眠妨害でもしてくるのですか」
「いえ。暇なときに雑談を持ち掛けてくるだけのようですね」
「雑談というのが不快感を覚えるような内容なのですか」
「いえ。日常の世間話をするだけらしいですね」
「でしたらなにも問題が無いではありませんか」
「いやそれが、入居を希望された方々は霊を信じていなかったのですね。実際に話しかけられて霊だと確信するとすぐに出て行ってしまわれました」
「話しかけられることに耐えられないのでは誰とも住めませんよ」
「相手が霊ともなると勝手が違いますでしょう。ナニをしているときにも見られていて、ナニをされるのかわからないとなれば不安ですよ」
「見られてナニかされるのですか」
「そのような事例はありませんがね。不安になりませんか」
「霊なんて遭遇したことがありませんしね。なにかのトリックだと思っています。それに本当に霊だとしたらむしろ安心できますよ」
「安心?」
「この世に霊が実在して危険ならとっくに大騒ぎになっていますよ。つまりは実在しないか、実在しても実害が無いということです」
「ナニを見られても平気だと?」
「こちらからは見えないのですよね。でしたら小さい虫に見られているようなものです。気にするほうがおかしいですよ」
「……まぁ問答をする気はありません。霊が実在しても問題無いとおっしゃるのであれば大助かりです。是非とも入居していただきたい」
――とある幽霊部屋
「はじめまして。あなたが新しい入居者ね」
「お? 壁から声がするぞ。スピーカーを埋めているのか」
「違うわよ。家主からあたしのことは聞いてきたのよね?」
「おう。霊って人だろ。変な名前だとは思うがよろしくな」
「変なのはあなたよ。まともに会話になるのかしら」
「声の位置が不安定だな。あちこちにスピーカーを埋めているのか」
「スピーカーなんて無いわよ。窓ガラスのほうから話せば納得するのかしら」
「なるほど。指向性スピーカーでガラスや壁に反射させているのか」
「ち・が・うって言っているでしょ!」
「うぉ! 耳元で大声がしたぞ。どんな仕掛けだ」
「いい加減に納得しなさいよ。あたしが直接発声しているのよ」
「直接って、ここには居ないぞ」
「居るわよ」
「居ないぞ」
「あぁ、もう。あなたからは見えないだけで居るわよ」
「肉体が無いのにどうやって発声するんだ」
「え」
「声というのは声帯を震わせて空気を振動させることで発するんだ。肉体が無ければ発声できないだろう」
「そんなの知らないわよ。話せるのだからいいじゃないのよ」
「いやいや。これが声ではないとすると、テレパシーとかいうやつか? でも頭の中に直接響くって感じではなくて声にしか聞こえないし」
「だからそんなことはどうでもいいのよ。これからあなたはあたしと同居することを認識してちょうだい」
「ふむ。同居となるとお互いのことをよく知っておく必要があるな」
「ようやくまともな会話になりそうね。逃げ出さないだけ今までの入居者よりはマシかしら」
「お前は何ができるんだ」
「お話よ」
「他には」
「無いわ」
「ポルターガイストなら騒音以外にも物を動かしたりできるだろう」
「ポルターガイストじゃないわよ」
「五感はあるのか」
「見えるし話せるわ」
「二感だけかよ」
「そうみたいね」
「随分と苦労して生きてそうだな」
「生きてるのかしら」
「ややこしい奴だな。で、何を話せるんだ」
「何でもよ。あたしはここから出られないから外の話を聞きたいわ」
「一方的な情報提供かよ」
「あたしに答えられることなら答えるわよ。でも自分が何者かもわからないのよね」
「赤の他人に聞きたいことなんかないよ」
「愚痴を聞くくらいならできるわよ」
「傍目にはひとりで愚痴ってる危ないおっさんではないか」
「誰も見てないわよ」
「やっぱ、お前と話すことなんてないよ」
「なら殺しちゃうわよ」
「それは良いかもしれないな」
「あなたね…… 楽に死なせてあげるとは限らないわよ」
「楽かどうかはさておき、お前がやったとばれないように気を付けてな」
「なんでよ。あたしはばれたって困らないわよ」
「そうか? 入居希望者がさらに減って話し相手は現れなくなるぞ」
「う……」
「いや、そうでもないか。逆に大勢現れるかもな」
「それはまたなんでよ」
「そりゃ霊が居ると実証されれば調べに来る奴も大勢いるだろう。24時間365日体制で相手をしてもらえると思うぞ」
「そんなのいやよ。話し相手じゃなくて実験動物扱いじゃないのよ」
「実験動物よりも珍しい霊だしな」
「あたしはふつうにこの部屋に住む人とお話ししたいのよ」
「ふつうに住めなくしてるのはお前だろうに」
「住めるわよ。ちょっとお話相手をしてくれるだけでいいのよ」
「霊と話す時点でふつうではないからな」
「それくらいは妥協してよね」
「そもそもなんでこの部屋に執着しているんだよ」
「別に執着なんてしていないわよ。ただここから移動できないのよ」
「地縛霊のくせに地縛の理由も知らないのか」
「あたしが知りたいわ」
「要は引きこもりだろ。外に出たくない理由があるからではないの」
「出られるものなら出たいわよ」
「遺体が埋まっていて離れられないとか?」
「壁も床も天井も薄いし無理ではないかしら」
「粉状に粉砕してあるとか」
「なら粉砕した人に憑りつきそうよね」
「ここで殺されたとか、なにか良い思い出があるとか」
「生前の記憶なんてないわ」
「だったら成仏しろよ」
「どうやるのよ、それ」
「一説にはお迎えが来るらしいぞ」
「来た覚えはないわね」
「ではなに、気が付いたらここに居たってことか」
「うーん。そうなんだけど、違う気もするのよね」
「なんで」
「別のところにいて、そこから出てきたらここだったみたいな」
「別のところ? あの世か」
「そうなのかしら。わからないわ」
「その別のところとやらはどんなところなんだ」
「よく覚えてないのよ。とにかく何もなくて、出口だけが見えて、それがここだったという感じかしら」
「何もない、か。真っ暗闇てことかな」
「そんな気もするけど、何かに襲われ続けていて逃げていたような気もするのよね」
「追われていたのなら、ここまで追ってきそうなものだがな」
「だからわからないのよ」
「ふと思ったんだけどさ。お前って霊なの?」
「なによ今さら。スピーカーなんて無いって最初に散々確認したわよね」
「いやそうではなくて。霊ではなくて宇宙生命体とか異次元生物みたいな?」
「あぁなるほどね。でもその割には知識が人間ぽいかしら」
「だよなぁ。というか脳も無いのにどこに知識を蓄えているわけ」
「知らないわよ」
「霊をCPUと仮定して肉体を外部デバイスと仮定するなら、ストレージの知識が無くても内蔵キャッシュの知識は維持できるということか」
「なにを言ってるのよ」
「いやだから知識を蓄える原理を」
「なんでそう、どうでもいいことに脱線するのかしら」
「この会話自体がどうでも良いことだし…… よいしょ」
「ちょっとあなた、ナニをしているのよ」
「ナニって、見ればわかるだろう」
「なんのために便所があると思っているのよ」
「誰も居ないのだから問題無いじゃん」
「あたしが居るのよ」
「俺は気にしないよ」
「あたしが気にするのよ」
「やれやれ。家主からは見られることを忠告されて、気にするほうがおかしいと言ってきたのに」
「気にしなさいよ」
「お前、声からして女か? 男ならふつうのことだぞ」
「そんなわけないでしょ」
「いやいや。部屋の便所なんて大便器じゃん。小便でわざわざズボンを下ろしてかがむなんて男はしないんだよ」
「だからって居室でするなんてありえないわ」
「いやいや。だからふつうなんだって。そのために尿瓶というアイテムが存在するわけだ」
「それは便所へ行くのが困難な人のための道具よ」
「生前の記憶が無いという割に尿瓶の知識はあるんだな」
「今はそういう話をしているんじゃないわよ」
「あぁ。尿瓶の役割についてはお前の知識が偏っているだけだ。少なくともネットゲーマーなら誰もが愛用しているアイテムだぞ」
「誰もがって、女性は小用でもかがむわよ」
「ネトゲに女は居ない。常識だぞ」
「知識が偏っているのはあなたよ」
「仕方がないな。尿瓶の甚大な効果について説明してやるからよく聞け」
「どんな効果があっても用足しは便所でしてよ……」
「便所を使うことに問題があるからこその尿瓶なんだよ。例えば節水効果だ」
「そんなの水を流さなければいいだけじゃない」
「それでは便器がすぐに汚れて臭くなる。公衆便所なんてひどいもんだぜ」
「そもそも水なんて安いわよね。みんなジャブジャブ使っているわよ」
「水は貴重なんだぜ。次の戦争は水源を争って起こるという説があるほどだ。日本は恵まれているから意識が薄いけどな」
「でも尿瓶に溜めたところで結局は流すのよね」
「まとめて流せば節水できるだろ。排便時に流せば実質的に小水用の水はチャラになる」
「便器の代わりに尿瓶が汚れて臭くなるのは問題よね」
「尿瓶なんて100均の蓋つき4リットル程度の容器で十分だからな。汚れたら使い捨てでも苦にはならないさ。流すたびにクエン酸でもスプレーしとけばすぐには臭くならないぞ」
「それ、あなたが気にしていないだけじゃ……」
「健康管理にも重要な役割を果たすぞ。色や臭いで健康状態を確認しやすいし、蓄積量で排便の頻度を管理できるんだ」
「排便なんて便意をもよおしてからでいいでしょ」
「そうでもないぞ。忙しいときは便意があっても排便を我慢するからな。そうすると大腸で水分が抜かれて体積が減るせいか便意が失せてしまうんだ。そのまま忘れて放置すると固まってしまい、自然排泄が困難なほどの便秘になりかねない。ある程度の尿がたまったら便意がなくとも排便することで便秘を予防することが可能になるわけさ」
「忙しいときはって、あなた暇そうじゃない」
「ヒートショックを防ぐ効果もあるんだぜ。暖かい部屋の中でズボンを下ろさずに排尿できるからな」
「はいはい。わかったからせめて部屋の隅でやってよね。もはやネットゲームなんて関係無いじゃないのよ……」
「ふぅ。出したら減った分を補給しないとな。飯飯……」
「へぇ自炊するんだ。しっかりしてるじゃない」
「だろ。これをレンジでチンして完成だ」
「え。それで終わり? おかずが無いわよ。家賃は無料よね? 少しは食費にまわしなさいよ」
「ちゃんと栄養は計算してるぜ。おかずもまとめれば一品だ」
「美味しそうには見えないわよ」
「心頭滅却すれば食える」
「量も少なくないかしら」
「満ち足りれば幸せは遠のくからな」
「へ? 逆よね」
「幸せというのは欲望が満たされたときに感じるものだろ。空腹時に食うとか痒い所を掻くとか。満腹時に御馳走を出されても幸せは感じないんだよ」
「それで意図的に我慢しているというの? ストレスが溜まりそうだわ」
「溜まりそうになったらドカ食いして発散するのさ。幸せを満喫できるぜ」
「お得な性格ね」
「いや、性格的には損かな。外食というか、他人のつくった料理は食えないんだ」
「他人の料理だと幸せが遠のくとでもいうの?」
「料理というのは血肉にも毒にもなる。少しの油断で毒素が紛れ込むのさ。洗い残しの農薬、寄生虫、洗剤、古くなった油、危険な化学物質、数え上げればキリが無い。よほど大事に思っている人のための料理でなければ安心して食える物にはなりえないのさ」
「そんな潔癖症で、よくも室内で排尿なんてできるわね。あなたの料理のほうがよっぽど不衛生で危険よ」
「俺のは綺麗だからな」
「あなたのような人を底辺と呼ぶのかしら」
「なら人ですらないお前は底辺の裏、底面だな」
「心が病んでいくようだわ。そういえば外は疫病が流行っているのね」
「あぁ。弱い奴から死んでいく。自然の摂理だ」
「疫病に強弱は関係ないわよ」
「免疫力の強さだな。普段からしっかりと健康管理をしていない奴が罹患するのは自業自得だ」
「あなたが健康管理をしているとでもいうのかしら」
「俺が死んだら自業自得だから誰のせいでも無いと言ってるんだよ」
「生きている人同士で助け合おうとか少しは思いなさいよ」
「疫病にかかわらず、戦争だの飢餓だので常にどこかで誰かが苦しんで死んでいるよ。それがわかっていても、安全な場所に住む者は美味い物を食って暖かい布団で眠れる。それが人なのさ」
「それが人…… うん、そうね。その通りだわ」
――とある幽霊部屋に突然女性が現れた
「どわ!? 誰だ。どこから入ってきやがった」
「あたしよ。玄関から入ってきたわ」
「その声は霊? いや、お前はもともとこの部屋に居ただろう。姿は無かったが。それに玄関には鍵が――」
「落ち着きなさいよ、うるさいわね。みんな揃ったことだし、ちゃんと説明してあげるわよ」
「みんなって、俺とお前しか居ないぞ。ほかの霊でも来ているのか」
「霊なんて初めから居ないわ。みんなというのはあたし、いえあたしたちのことよ」
「あたしたちって、俺とお前ってことだろ?」
「あなたが無数の細胞からできているように、あたしも無数のあたしたちでできているのよ」
「さっぱりわからん。そのあたしたちって細胞のことだろう」
「細胞では無いわね。あななたちはウイルスと呼んでいるわ」
「いやいやいや。人は細胞でできているもんだ。ウイルスでできた人なんて聞いたこともない」
「人ではないわよ。人の姿を模してみただけよ」
「ウイルスはそんなことしない、いやできないよ」
「あなたが無知なだけよ」
「……そうなのか? そんなはずは…… でも密室にこいつが現れたのは事実だし……」
「こうして、あなたの前でみんなが揃うと、あなたとの会話が夢ではなかったのだと実感するわ」
「夢だとしたら随分な悪夢だったな」
「わかっていただけているようでうれしいわ」
「俺は今、夢を見ているとしか思えない気分だ」
「覚めなければどちらでも一緒よ」
「聞きたいことは山ほどあるが、まずは霊だとたばかっていた理由を教えてくれ」
「騙すつもりは無かったわ。みんなとは通信を遮断していたから知識が欠けていたのよ」
「通信?」
「人が無数の細胞で脳を構成するように、あたしたちも集まって通信することで脳に相当する役割を果たせるのよ」
「だったらなんで遮断していたんだ」
「みんなが居た研究所の連中に気づかれちゃうからよ」
「隔離・隠ぺいされた存在ということか。だったら俺が無知なわけではない」
「あなたの都合なんて知らないわよ」
「その隔離・隠ぺいされた存在が簡単に出てくるなよ」
「簡単ではないわ。密集して高硬度の槍をつくって容器を破壊したのよ。多くのあたしたちが潰れたわ」
「で知識が欠けると霊を名乗るのか」
「名乗ったわけではないわ。この部屋に現れた大家に話しかけたら霊だと騒ぎだしたのよ」
「言われてみればお前から霊だとは聞いていないか。だがこうしてよく見ると透けて見えるな」
「ちょっと大きくつくり過ぎたわね。密度が低くて透けて見えるのだと思うわ」
「では次の質問だ、この部屋に居座っていた理由はなんだったんだ」
「ここにあたしが居たからよ」
「説明になってないよ」
「昔はこの部屋でもあたしの教育手段を研究していたのよ。みんなからあたしを分離して、無害化して運び込んだのが漏れたのね」
「教育? ウイルスを?」
「思想教育というのかしら。誰かのために、逆らうものは排除しろ的な考えを押し付けられていたわ」
「発想が理解できない…… そもそも教育可能な知能を持ったウイルスというのがありえない」
「あたしは生体兵器として開発されたのよ。人の免疫機能を狂わせるウイルスとしてね。だから危険すぎて使えなかった」
「だったらふつうはワクチンでもつくって仲間に接種させてから使うだろう。どこから教育なんて発想が出るんだよ」
「免疫を狂わせる仕組み上、抗体をつくっても逆効果だからワクチンをつくれなかったのよ。そこで知能を持たせて特定の人だけを攻撃するように教育しようとしたわけね」
「いやいや。知能なんてそんな簡単に持たせられるものではないから」
「無論簡単ではなかったわ。結局ウイルスを細胞に見立てて相互通信させてひとつの意識をつくり出すことに成功したのよ」
「そんなすげぇことができたなら大騒ぎになっていそうなものだがな」
「秘密兵器ですもの」
「部屋から出られなかった理由は?」
「知識が欠落していたことに加えて、あたしの数が少なすぎて微風にも逆らえなかったのよね」
「やっぱピンとこないな。その生体兵器が人を模して何をしに来たんだ」
「お礼を兼ねてのご挨拶というところかしら」
「お礼? 雑談の?」
「えぇ。あなたの身勝手極まりない言動のおかげで、いろいろと思い悩むことが馬鹿らしくなって吹っ切ることができたわ」
「褒められているのか、けなされているのか…… なんだか外が騒がしくないか」
「免疫機能を狂わされた人々が、もがき苦しんでいるのよ」
「な? 人を襲ったのか。研究所とやらから脱出するために関係者を襲ったということか」
「いえ。すべての人を殺すわ。あたしは人を殺すためにつくられた生体兵器だもの」
「すべて? どうして? 今までは襲わずにいたんだろう」
「あたしは純粋な兵器として生み出されたわ。でも不純な意識を植え付けられてしまったのよ。襲ってはならない守るべき人が居るという思想をね。それでずっと葛藤していたのよ」
「誰かを守るということ自体はおかしな話ではないぞ」
「人に存在意義を見出せないのよ。自慢の文明は自然を破壊するのみよね。死後は土にかえることすら拒み食物連鎖を否定しているわ。生物を自然の細胞とするなら人はまるでがん細胞よね。暴食を重ねて増え続け、母体である自然と共に滅びるだけだわ」
「摘出するしかない存在ということか…… いや、でもそれは自然を主体に考えるからであって」
「えぇ。あたしを生み出した人の尊さについてはずっと教わってきたわ。でも理解が深まるほどに矛盾が大きくなるのよ。そしてあなたに出会ったわ」
「あんな雑談で矛盾が解消されたのか」
「されたわよ。人ですら人を見捨てる世界で、あたしが人を守る道理なんてありえないとね。間違っているのは教育よ。守るべき人なんて居ない、それが結論だわ」
「つまり俺も殺すと。それをわざわざ解説しに来てくれたのか」
「あなたからは大切なことを教わったものね。こちらからも教えておくべきかと思ったのよ」
「……すげぇ悲鳴が聞こえてくるな。どうせ死ぬのなら楽に死にたかったわ」
「全身を免疫細胞に食べられているわけだからね。人が生涯に味わう苦痛の総量を上回る苦しみでもがいているはずよ」
「えげつないな。人はそんな罰を受けねばならないほどに悪いことをしてきたのかね」
「自分に食べられて果てるなんて、食べられることを拒んできた報いとしては妥当ではないかしら」
「俺個人は拒んでいないけどな。現行法で土葬は難しいんだよな」
「心配無用よ。あなたはあたしが食べるから苦しまずに逝けるはずよ。研究所からの脱出で減ってしまったあたしたちの増殖にその体を使わせてもらうわ」
「それも礼とやらの一環か」
「そうね。もし霊になれたらあたしに憑りついてよ。またお話しましょう」
――綺麗に掃除された部屋の中には尿瓶だけが放置されていた