幸福の代償
レオナードは昼寝できる良い場所を覚えた。
しかし相手は養女にした娘の所だった。
正妻の立場は如何に!
すわ昼ドラ展開か?!
まで届けば良いなと思ってる、先の読めないど素人作家で本当にすみません。
「おお!黒円が戻って来ましたぞ!」
(塩はどうでしたか?!)
(ご無事でお戻りご苦労様でした!)
(いや、本当に羨ましい!)
ワイワイと騒がしい思念に迎えられた一行は、それに対して沈んだ雰囲気でひたすら沈黙を漂わせていた。
(ふむ。…如何なされましたかな?)
その気配を察したダンバルが、穏やかな雰囲気で固い口となった一行を促す。
(…うむ。結論から言って岩塩は我が国にあった様だ。)
((((うおおおおお?!!!))))
(だが周りが深い樹海に覆われておった。)
((((あー…))))
一気に登ったテンションが、樹海の一言で直ぐに鎮静化する。
(まぁ…そうでなければ出回っておりますでしょうな。)
(そうですよね。
嬉しい知らせで有りましたが、これは仕方の無い事でしょう。)
(姫様の能力で大量に持ち込めないのでしょうか?)
(それを思えば我が国の物だと確定したのは僥倖でしたな。)
残念そうな雰囲気を滲ませた一行だったが、そもそもノアシェランでなければ手に入れられ無い物だと思えば納得の行く調査結果に、前向きな意見が逆に飛び出して来る。
そんな面々を前にして、宰相は大きく咳払って皆の注意を引く。
(姫様や。
あの岩山をその能力でこの場に移動させる事は可能ですかな?)
(すみません。地面と繋がっている物をこの中に入れる事は出来ませんでした。
砕いて頂けるなら運べるとは思うのですが、あのままの山を動かす事は出来ないと思います。)
(と、言う事だ。
岩山を砕く人夫を姫様の黒円に入れる事を思えば、今の段階では岩塩を手に入れる事は難しいと判明した。
我々が個人的に食する分であれば賄えるやも知れぬが、国民全体に届かせるには量が足らぬだろう。
それをしようと思えば樹海を開拓せねばならん。)
(((あー…)))
ノアシェランはそんな報告の仕方をする宰相を不思議そうに見つめていたが、エマルジョンが首を横に振って人差し指を口元に押し当てる姿に、グッと込み上げて来る疑問を考え無い様に勤めた。
(塩は国交に関わる重大な素材だ。
迂闊にもこれを周囲へ漏らす事をこの場で禁止とする。
良いな?
社交場に出ても決して塩の事は口にするで無いぞ?)
(今思えば陛下が寝ていて正解でしたねー。)
(まぁ、後で報告はするのだがな。)
ウィンスの軽口にこの場に居る全員が苦笑を浮かべる。
(サルバドス、良いな。
お前は殊の外口が回り過ぎる。
決して酒の席で塩のことを漏らすで無いぞ。)
(承知しておりますよ。
息子の前で父上までもが、私を貶めないで欲しいですね。)
父親からの釘にムッとしたサルバドスが、ふてくされた様に顔を背けた。
(さて、これで気になる検分は粗方終えた事だろう。まだスパイスが残っておる様では有るが、陛下もお疲れで皆もまた同じで有ろうな。
これにて一度解散するとしよう。
後、少し今後について話が有る。
部屋を移して話をする故、ダンバル公、学園長。
そして姫様の義父となった3名以外は退室する許可を出す。)
(それでしたらサルバドス様には皆様よりも先に私が講義をしておきましょう。)
(ゲゲゲ!)
(大丈夫ですよ。
他の皆様も話し合いが終われば、きちんと私が講義をさせて頂きますので。)
口の軽さについて信用の無いサルバドスを、体よくエマルジョンが引き離す作戦に出たことで、宰相とグランエスタートがお互いに目配せをし合った。
(姫様を呉々もお願い致します。)
(分かった。侍女達を連れて先に後宮へ下がっておこう。)
これと同じくエマルジョンもデュオニュソスと目配せをし合い。腕の中に居るノアシェランを彼に手渡す。
こうしてサルバドスと同様に、ノアシェランも男達の会話から隔離される事となる。
拡声器が近くに居れば、せっかくの配慮が無駄になるからだ。
(ホラ、起きろレオナード。
アトスタニアもだ。出るぞ。)
(さぁさぁ貴女達も休憩はもう終わりですよ。)
光が見える距離と言うものは、決して近くは無いが手が伸ばせない距離とは言えない。
つまり現在直ぐに岩塩を運搬する事は不可能で有っても、開拓が進めば可能となる距離だったのだ。
魔大陸に比べると弱くても、樹海には大量の魔物が生息している。
また樹海に生えている木は立派で、一本を切り倒す事も容易とは言えない。
けれども今回は目的地がはっきりとしている。
岩塩の規模を正確な調査はしていないが、上手く樹海の開拓を進められれば、国内で産出される岩塩で国内の需要を満たす事も可能だった。
つまりこれは塩の商売を行っている者達の生活を脅かす、非常にデリケートな問題だった。
外国から塩を運搬する商人しかり。
塩キノコで生計を立てている村人しかり。
現在の塩産業に打撃を与える、世紀の大発見と言える出来事だったのだ。
けれどもその問題の大きさに岩塩を諦める政治家は、もう政治家とは呼べない。
塩が自国で生産が可能となれば、少なくとも外国の思惑に対して強気な外交が実現可能となるのだから。
特に東国は食料が豊富で麦がカードとして弱い。
向こうが塩を切り札として交渉に及んだ場合、八割の確率で泣き寝入りの形となってしまう。
まだ南国方面の塩が残されていると言っても、雨の多い土地な事から輸送の問題で東国に部が有るからだ。
だから此処で塩を手にするメリットは、ノアシェランが思っている以上に大きかった。
その分高額で取引されている塩の利益は無視出来ない。
多少高くても売れるとあって、塩の関税で儲けている領地や塩を運ぶ商売人も多いからだ。
下手な手を打てば抗争が起きてしまう。
戦争とまでは行かなくとも、ノアシェランが恨まれる様な凶事は絶対に避けなければならない。
それはレオナードだけでは無く。
宰相達幹部の政治手腕が物を言う展開と言える。
(あー、もうちょっと寝てたいいぃ!
出るのが嫌だー!)
(駄々を捏ねるな!
ホラ、おい!
アトスタニアも無視して本気で寝てるんじゃ無い!
ノアシェラン!
コイツ達を今すぐつまみ出せ!)
青筋を浮かべてレオナード達を怒鳴りつけているデュオニュソスを笑いながら、ノアシェランは全員を窓の外に送り出す。
(ぬぅ…身体が妙に重いな。)
(あの中が快適だっただけでしょう、騎士団長。)
(そうですね。重力が向こうは弱いみたいですから、直ぐに違いに慣れると思います。)
(あぁぁ…ずっとあの中でゴロゴロしてたかったよー…)
(陛下が惜しむのも分からなくも無い。
襲われないってのは、あんなに良いもんなんだなぁ…)
シミジミと呟くアトスタニアに、デュオニュソスも内心でそれは同意しておく。
重力だけの問題では無い。
あそこの空間が齎す安心感が、睡眠に対してとても威力を発揮していたのだ。
(皆さん疲れが溜まって居られるんですねー。)
(よし!夜は此処に泊まりに来よう。)
(止めろ馬鹿。
そう言った冗談を言えば、またエマルジョンにどやされる。)
(ぐぬぬ…デュオニュソス。
自分だけ良い思いをするつもりか?)
(私もまだ無理に決まっているだろう。
10年も有ればあそこに頼らずとも安眠を貪れる様になってるやも知れぬぞ。)
レオナードの恨みがましい視線を涼やかに流すと、デュオニュソスは宰相に目配せを送った。
(お前が寝ている間の出来事で、宰相から報告と相談が有るそうだ。
私はノアシェランをエマルジョンから預かったので、後宮に届けに行く。)
(分かったよ。
それじゃあノアシェラン。
今日は色々有ったから、ゆったりとおやすみね。)
(はい、お父様もお疲れみたいなので今日は早めに休んで下さい。
私のせいで本当にすみませんでした。)
(イヤイヤ、とても楽しい1日だったよ。
私の元に来てくれてありがとう。ノアシェラン。)
(お父様…)
レオナードがシミジミと告げたので、ノアシェランが泣き笑いな形で微笑む。
決して嬉しい事ばかりでは無い筈なのに、レオナードからは本当に歓迎してくれている雰囲気を感じたのだ。
デュオニュソスが移動したせいで、レオナードの姿がどんどん小さくなって行くのを見て。
ノアシェランはデュオニュソスの堅い胸元に顔を寄せて小さく震える。
(…何を泣いている。)
(だって…不安なんです。
私のせいでまた何か揉める事が起きるかと思うと…)
(お前が居ようが居まいが、揉め事など日常茶飯事だ。)
(それでもです…)
(不安がっていても仕方が無いだろう。)
(それはそうなんですけれど…)
気の効いた事一つ思い付かない自分に、デュオニュソスは顔をしかめた。
嗜みとして詩集を覚えさせられたが、今それを持ち出した所で彼女の興味が引けるとも思えず。
途方に暮れた思いで。
けれども表面上は平静を装いながら、後宮の関所を通り抜けて行く。
岩場の乏しいペルセウス王国でも、後宮の守護を目的としてこの辺りは遠方から取り寄せた白い石で建築されていた。
通路の中央には冬場の冷え込みを緩和させる目的で、この頃には赤色の絨毯が敷かれている。
とは言え、景観と侵入者の発見を目的として、壁には木窓が取り付けられており。
冷え込みが厳しくなるまでは開け放たれているので、今は冷たい夜風が入り込んでいた。
中庭に取り付けられた松明からの灯りが、秋の庭を照らし出しているのを見るとも無しに眺めながら、どうしたものかと悩んでいると。
「ておにとちゅ…たま。」
舌っ足らずの愛らしい声が聞こえて、思わず胸元に視線を落とす。
(名前、言えてましたか?
そう言えば先ほど言えて無かったみたいで…)
(…全く言えて無いぞ。)
(発音が難しいですね。練習しても良いですか?)
(あぁ…)
落ち込んでいる彼女の方から、前向きな提案が持ち出された事に、デュオニュソスは心底安堵してコクリと頷いた。
「デュオニュソスだ。」
「ておにとちゅた。」
「デュオと言ってみろ。」
「るお?ちょいてみお。」
「ブフッ…」
後ろに付き従って歩いていた侍女が吹き出して、慌ててゲフンゲフンと咳払いしている気配に、デュオニュソスとノアシェランが思わず視線を合わせあう。
「ふ…先が長そうだな。」
(え?今、何て仰いました?)
(ゆっくりと覚えて行けば良いと言ったのだ。
先ずは繰り返し発音してみろ。)
(はい。)
「ておにとすたま。」
「デュオニュソス。」
「でおにとす?」
「デュオニュソスだ。」
「でおにとすだ。」
「デュオ ニュ ソス」
「るお にぃう? トス!」
「自信満々と間違えるで無い。」
(言えてました?)
(全く言えてないと言ったのだ。)
(え?笑っておられたじゃ無いですか。)
(酷過ぎて面白かった。)
(ヒドい。)
むくれる彼女の顔が愛らしくも可笑しくて、デュオニュソスが貯まらずクスクスと笑みを零した。
一方その頃他の小部屋に移った宰相は、それぞれが席につく前に、ナーゲン男爵の側に行くと。
「ルルベウス、これは姫様からの手土産だ。」
「え?私に…ですか?
これは、先ほど見た岩塩ですよね?」
なかなか高価な土産だと思ったが、何故それが自分だけに手渡されたのか。
40歳近くなった彼は、白髪の混ざっている金髪の頭を斜めに傾げて、手渡されたピンク色の石をジッと眺めた。
そして身分の高い者から椅子に腰を下ろす気配に、ルルベウスも習って椅子に座った姿を見て、宰相が重かった口を開く。
「夜だった為に正確な規模は不明で有るが、かなりの規模の岩塩が採取可能な岩場を見つけたのだ。」
「…樹海の中に、ですよね?」
「如何にも。」
「へぇ、そんな所に行ってたんだ。
私も見たかったなぁ。」
「陛下は良くお休みでしたな。」
「うん、とても寝心地が良かったよ。
でも勿体ない事をしたなぁ…」
宰相が再び告げた岩塩の在処に、それを手渡されたルルベウスが疑問の視線を向けて再確認をする。
その時完全に意識が落ちていたレオナードは、思わぬ遠出を見逃した惜しさに、ゴネていたのも忘れて惜しい事をしたと、寝ていた自分を悔やんでいた。
「問題は樹海に有る岩塩の採れる岩場と人里との距離になります。
村の門に構えている松明が確認出来る場所に、それがあった事を確認して参りました。」
「ま、まさか…」
「それは誠か?!」
ノアシェランの養父の1人で有る、マイヤーズ・アプリコット伯爵が目を見開き。
同じく養父の1人で有る、ランバルダ・ガクトバイエルン侯爵も衝撃の大きさに顔を強ばらせた。
ルルベルト・ナーゲルン男爵に至っては、手渡された岩塩を握り締めながら、これが齎したメッセージの大きさに、無言で固まっている。
「学園長、肉眼で炎が確認出来る距離と言うのは如何ほどでしょうか。」
「気候や天候にも寄るでしょうが、せいぜい10キロ程度でしょうな。
平地の多い地方ですが、土地には起伏が有りますので。」
「それに関して言えば空から見下ろした状態でしたから、正確な調査は必要となりますが。
体感的にはその程度の距離とは思っておりました。
何故今まで発見されていなかったのか。
それが不思議ですがの。」
「むしろ発見していた所で、これが塩だと理解出来る者が居なかったと考える方が妥当でしょう。
市場では粉末状の物かキノコとしてしか扱って降りませんからの。」
宰相とニコラス学園長とのやり取りを耳にしながら、段々とルルベルトの身体が小刻みに震え始める。
「……それで、近くにあったと言う村とは、一体何処の領地でしたのでしょうか。」
青ざめて行くルルベルトの様子と、先ほどの宰相のやり取りを見ていたマイヤーズが、乾く唇を意識しながら慎重に問い掛けた。
「……ウィンス殿が聞いた話では、メンバー村と。つまりナーゲルン男爵領内との事だ。」
「よもやその様な事が…」
「スゴい偶然もあったもんだね?
ノアシェランの養父の1人の領地に塩の岩場だって?」
ナーゲルン男爵はギュッと目を閉じて天井を仰ぐ。
手の平を握り締め過ぎて感じる岩塩の痛みのお陰で、辛うじて意識を保っている状態だった。
ララバルダが呆然として腕を組む姿とは対照的に、レオナードは鋭い視線を宰相へと向ける。
「事実です。
確かに樹海の開拓は容易では有りますまい。
けれども姫様のお陰で場所が判明した以上、開発が不可能とは言えぬ距離であった事は確かでした。
問題は如何にこの情報を抑えつつ、穏便に開拓を進めるか、です。
道を切り開く程度の工事で有れば、岩場までの到着に掛かる費用も時間も大した物では無いでしょう。
けれども各方面からの反発は必須と思われます。」
「そう、そこが一番の問題だよね。
諦めてしまうには価値が大き過ぎる。」
「姫様の協力が有れば開発は容易でしょうが、情報を留めると言った意味では、不参加で頂く方が気密性が高いでしょう。」
「うん、情報拡声器になってるもんね。
だからサルバドスをエマルジョンが引き止めて、デュオニュソスがノアシェランを隔離させたのか。
英断だねー。」
「お褒め頂く程度では有りますまい。」
ナーゲルン男爵は、体中から吹き出す汗で岩塩が溶け出すのでは無いかと妙な心配で現実逃避に走っていた。
「開発は国家事業としても可能ですが、ナーバルン男爵。」
「は、はい。」
「恐らくは貴殿が内密に計画を進めた方が無難かと私は提案したいのだが…、可能で有ろうか。」
「……例え不可能でも、可能として動く所存で有ります…」
声が掠れて震えていたが、目の力はシッカリと強い物を孕んでいる。
そんなルルベルトの様子に、一同が無言でウンウンと頷く。
誰が彼と同じ立場に立ったとしても、同じ台詞を吐くだろうと共感したからだ。
「具体的な場所は後で私が地図を書いてお渡しさせて頂きます。」
「よ、宜しくお願い致します…」
「余計な事とは思いますが、開拓は目的を明かさずに行われた方が宜しいでしょうね。」
「肝に銘じて。その様に取り計らいましょう。」
岩塩が手に入る。
その莫大な利益を思えば、恐ろし過ぎて口が避けても言えないと言った方が正しい。
「恐らくその内に人に知られる事になるだろう。
寄り親のランバルダ殿も負担が多いでしょうが、ご協力を宜しくお願いしたい。」
「う、うむ。宰相殿の仰られる通り、ナーバルン男爵に隣接している領地の者が黙って居らぬだろう。
だからその辺りの調停は私が責任を持って目を光らせておく。
…だが本当にこの様な事が有って良いのか?!
話が美味すぎるで有ろう!」
「これが神々からの恩恵なのでしょうな。
しかし重畳とは決して言い難い。」
「問題はソレなんだよね。
美味しい話には裏が有る。
喜んで飛びついて周りを疎かにすれば、巡り巡ってノアシェランへの害とも成りかね無い。
そしたら天罰がドーンと来るって寸法かな?」
両手を挙げておどけるレオナードに、周りの者達は真剣な表情でコクリと小さく頷いた。
「開発が成功して定期的な採掘が可能となっても、これまで通りに国外との塩の取引は続けよう。
相場は多少変動するだろうけれど、なるべく採掘量を抑えれば、調整は可能だろう?」
「それが妥当かと。
利益が鰻登りと浮かれておれば、手痛いしっぺ返しが来るでしょうからの。」
レオナードと宰相が下した判断に、冷や汗を滲ませているルルベルトはシッカリと頷いた。
「必ずや。
例え採算が合わねども、甲を焦って値を上げ量をさばく愚は犯さぬと誓いましょう。」
「5年も有れば、そこそこ安定はするだろうけど。塩での商売はなるべく考えないでくれると有り難いね。」
「肝に銘じます。」
誰もが必要とする塩は、高値であっても買いたいと思う人は多い。
つまりルルベルトの指示1つで破格の利益を得る事は可能だった。
そして暴利を貪って潤ったとなれば、隣接している領地から妬みを。
そして安ければ塩の販路で儲けている領土や、商人達からも怨みを集める事となる。
値段が安過ぎても、高すぎても問題が起こる、デリケートな特産品となるのだ。
だがこれは厳しい樹海との狭間に有る領地からしてみれば、天から与えられた恩恵に等しい大いなる恵みだった。
デリケートでは有っても塩のお陰で、ナーベルン男爵領は経済的に困窮する事が無くなった事を意味している。
誰もが思うだろう。
ノアシェランの養父となった恩恵を神々から与えられた、と。
「公表の時期はなるべく遅くしたいな。」
「せっかくの慶事では有りますが、問題がちと大き過ぎましたな。」
「ヤッバイよねー。
コレがバンバン起こると思う?」
「それは姫様次第か、と。」
「怖いなぁ…。面白いけど。」
「まだスパイスの件が残っておりましたぞ。」
「うん、そーだったね。
しばらくそれには触れない様にしたいかな。」
「それが賢明かと。」
スパイスも南国の特産品で有り。
これもまた塩に続けてデリケートな取り扱いを必要とする品となる。
塩よりは需要度が低いものの、無闇に触れてまた養父の領土から出土した場合、見なかった事になりかね無い。
「嬉しいのに素直に喜べないだなんて、勿体ないけどね。」
「先ずは姫様がこの国にいらして下さった事を、素直に喜んでおきましょう。」
全員が頭を抱えて悶えながら、足元はハイテンションで喜びにバタバタさせていると言う。
複雑な心境で苦笑を浮かべた。
一方その頃別の小部屋では。
「なるべく穏便に済ませて欲しいな。
君とのロマンスが広まっても、ご主人が困るだろう?」
「減らず口は結構です。
それよりも何故お一人で此処に呼ばれたか、流石に気付いておられましょう。」
椅子にだらけた姿勢で座っているサルバドスは、瞳を鋭く光らせながらもヘラヘラとエマルジョンと対峙していた。
勿論サルバドスの侍従もリブロの姿もこの部屋に有る。
これはサルバドスが指摘した、エマルジョンのスキャンダルを防止する配慮も有ったが。
それよりも重大な話を持ち掛ける為でも有った。
「恐らく採れるんだろ?岩塩が。」
「ええ、その通りに御座います。」
「素直に教えてくれるんだね?」
「誤魔化し切れるとは思って居ません。
当分の間は何処で手に入れられるか、それだけは伏せられるかと思いますが。」
「まぁ…その通りだろうね。
で?ワザワザ本当に講義をしてくれる訳でも無い、と。」
「お望みであれば、そのだらしのない座り方から矯正を始めましょうか。」
エマルジョンから冷ややかな視線を向けられたサルバドスは、魅力的な笑みを浮かべながらも、素直に居住まいを正す。
「これで良いかな?」
「話が早くて宜しいですわ。
さて、これから姫様に教育が施されます。
時期がどれほどかは、進み具合にも寄りますが、最初の社交はお茶会となるでしょう。」
「つまり家に来ると言いたいんだね?
それはまた思い切った提案をする。
あの母が黙って許すと思う?」
「それを防いで頂ければと考えております。
私達も伯爵邸で事を無難に済ませたいのですから。」
「ウーン…難しいと思うよ?
あの人が目を光らせてない筈が無い。」
「だとしても、それをやり遂げるのが貴方様のお仕事でしょう。」
「先ずは王宮にカタリナを連れて来ようか。
メルトスダルはマズいとしても、コリンナなら連れて来ても平気だろう?」
「分かりました。
その様に手配をさせて頂きます。
姫様にお手紙が難しければ、代筆でと言いたい所ですが…」
「先ずはデュオニュソス経由で私に口頭で時期を知らせて欲しい。
形式が必要な事は分かっているけれど、なるべく情報は漏らさない方が良いと思うんだ。」
「その方が宜しいでしょうね。
姫様にはなるべく穏やかに過ごして頂きたいですし。」
「それが一番難しいだろうね。
私の家よりももっとデカいのがそっちにも居るでしょう。」
「全くです。
最初のお茶会すら外に頼らねばならないとは、頭の痛い話ですわ。」
虫歯の痛みを堪えるかの様なエマルジョンのため息に、サルバドスは苦笑を浮かべて優雅な仕草でティーカップを傾けていた。
せいぜいが1ヶ月。
長くても3ヶ月。
これがエマルジョンとリブロが考えている、ノアシェランを幽閉出来る期間だった。
とは言え彼女は犯罪者では無い。
公の舞台に立たないとしても、身内での楽しい行事は必要だと考えている。
刺激が無ければノアシェランが窮屈に思い。
それが不満に繋がり兼ねない。
かと言ってあのデュオニュソスが楽しい相手になるとは、考えるだけで愚考だ。
同性で、尚且つ問題の無い相手と言えば、真っ先に候補に挙がるのが婚約者の家族と言うのも情けない状態なのだが。
それだけこの国の正妃は微妙な存在だった。
ペルセウスに嫁いでも自身の周囲を皇国から連れて来た侍女達で固め、王太子のベルトラントの教育ですらペルセウスの流儀を拒んでいる。
これは正常な後宮では考えられない暴挙。
けれどもそれをまかり通しているのが、北の大国である皇国からの圧力だった。
これではベルトラントの政権で、ペルシウス王国が皇国の支配下に下る事を公言しているのと同義と言える。
そんな訳の分からない存在に、無垢なノアシェランを会わせる訳には行かない。
それがノアシェラン陣営のトップが下した決断なのだ。
「えーと、まさか話はこれで終わり?」
「全くこの忙しい時に、何故貴方のつまらない顔を見ながらお茶を飲まねばならないのか。
姫様のお側に控えていた方がよっぽど建設的ですわね。」
「そう思うんなら解放してくれると嬉しいんだけど?」
「あいにく貴方のしでかした不始末のせいで、そう言う訳には参りませんのよ。
恨むのならご自分の軽薄さを見つめ直して下さいませ。」
「これは手厳しいな。
綺麗な顔に皺が出来ちゃうよ?」
「皺が増えようと、身体が肥えようと。
貴方様に気にして頂く必要は微塵も御座いません。」
「ご主人は良く君を娶ろうと思ったよね。
私は愛の種類が色々ある事を知っているけれど、ちょっと感心しちゃうな。」
「それは私も同じですわ。
サルバドス様のご夫人はさぞかし人の出来た才媛でおられますわね。
三行半を叩きつけて実家に戻られないだけ、尊敬に値致します。」
「それは常々私も思っている事だけど。
だから今回の話は呉々も内密に頼むよ?」
どうやらサルバドスは2歳年上の妻に頭が上がらないらしく。
妙に真剣な表情を向けられたエマルジョンは、呆れを含んだ溜め息を盛大にこぼす。
その間立っているだけのリブロは、レオナードにつけた部下が送って来る念話を受け取り、向こうの話をコツコツと仕入れている。
エマルジョン達のやり取りを把握しながら、向こうの会話も把握すると言う。
なかなか頭が混乱しそうな離れ技だったのだが、幸いにして此方側のやり取りが非生産的なので特に苦労はして居なかった。
それなら最初から向こうに行けよと思わなくも無いが、ノアシェラン関連のこう言った業務も、レオナードの代わりに配慮が必要なのだから仕方が無い。
この話も今直ぐする必要は無いのだが、無為な時間を潰すより、ついでにしてしまえ。
と、言った所も有る。
そしてエマルジョン達は、レオナード達の密談が終わった頃になって、ようやくサルバドスとの不毛な時間を終えられた。
けれどもそれで終わりでは無く。
今度はサルバドスも連れて、同じように養父となった彼等にも協力を仰ぐ。
つまり妻や娘を宮殿に呼んで、身内だけの囁かなお茶会を開く相談を、儀礼講座と偽って施したのだ。
同じ話を二度聞かされるサルバドスは膨れていたが、その理由も分かっているだけ文句も言えず。
むしろ散策文句を言った後なので、ネタが尽きた感じもあり。
むしろ岩塩を握り締めて虚ろな目をしているルルベルトの姿にほくそ笑む始末。
流石に問題の大きさを理解していたサルバドスは、その事について知らぬ存ぜぬを通す為に、敢えてその話題には触れずに居たが。
自分の好奇心を満たせた事で良しとしたのだ。
具体的な話を聞いてしまえば、恐らく興奮の余りに口を開く自分を自覚していたのだろう。
人の好奇心と言う物は何よりも度し難い。
身を滅ぼすと分かっていても、抑える事が非常に難しい物だった。
止せば良いと分かっていながらにして、この日の晩餐でレオナードがノアシェランが持ち込んだ岩塩を使った料理を一品出す様に指示したのも、そんな所だ。
毒見などの試練が有るので、一品だけでもかなり無理な注文だったのだが。
エマルジョンとの話合いを長引かせる為と言う名目で、皆で仲良く会食の流れとなり。
「……妙に旨いな。」
「「「………………」」」
肉に岩塩を砕いた物を振り掛けただけ、と言う。実にシンプルな試験品を皆が黙ったまま、黙々と完食する。
「魔力の含有量は少なく思えたのだが…」
「元々塩は加工の工程で魔力がかなり消失します。それに比べるとこの場合は、砕いただけと言った過程の少なさが、味に繋がっているのでしょうな。」
ダンバル公は自分の知識からシンプルな解答をレオナードの疑問に率直に答えただけだったのだが。
これに寄ってルルベルトは服の上からグッと胃を押さえる羽目となった。
「これは急ぎたくなるが、せめて少し時期を置かないとヤッパリ駄目だよな?」
「楽しみはとって置くのも楽しみですぞ。」
「左様。公爵の仰られる通り。
塩が増えれば食も増えますからの。
運動量を増やすことを思えば、返って良かったのやもですな。」
空になった皿を恨めし気に睨んでいる若者のレオナードを、健康が気になる年頃のグランレスタートと宰相のエクスタードが朗らかに窘める。
養父達は揃って緊張が増した様子で、ルルベルトのみならず。
系列的には直上のマイヤーズも、更に親元となるランバルダも。
非常に厳しい表情で、空の皿と肉の余韻に浸っているのだった。
今回ノアシェランに爵位が無く。
平民と同じ手順を踏む扱いになったので、男爵からの養父を募る過程で同じ派閥で有る事も考慮されていた。
つまり地理的に言えば、ルルベルトの領地の近くに有る者達は、マイヤーズの支配下に有り。
更に言えばマイヤーズの上がランバルダとなる。
日本の社会で言えば同じ会社の、係長、課長、部長と言った並びに近い。
グランレスタートは同系列の別会社の社長で、エクスタードとレオナードは全てのグループを統括する常務と会長となるのだろう。
因みにデュオニュソスは会長秘書で、ウィンスはグループが持つ会社全ての警備員のトップで、アトスタニアは会長専属のボディーガードとなる形だ。
あくまでも目安であって、実際の役目はもっと違っているのだが。
比較的塩の問題が外様のグランレスタートの余裕は、此処にあった。
自分が勤めている会社の他部署のみならず、他のグループの別会社からも睨まれる様な案件を手掛ける羽目になった、係長ルルベルトと直属の上司達の顔色が悪くなる訳で有る。
ノアシェランが望んで手に入れただけあって、持ち込まれた岩塩はとっても美味しかったのだから。
他国から運ばれて来る塩は、海の水を加工して塩を錬成している。
魔法を使って作業しているが、輸送の坂路が長い事から、どうしても質が落ちてしまう。
茸の方は塩分を多く含んだ食材なので、塩の代用となっているだけで。
煮込み料理ならともかく、肉を焼いただけのシンプルな料理法では、やはり岩塩に軍配が上がる。
魔力だけでなく、海のミネラルを豊富に含んでいるせいで、その豊潤な味わいの深さに全員が驚いたのだ。
因みにこの世界では魔力の含有量が多いほど美味と感じる度合いが高く。
そして実は健康に悪かったりする。
それは美味しいからつい量を食べ過ぎてしまう傾向と、魔力に対して代謝で排泄出来る機能が個人差で大きく分かれているからだ。
レオナードやウィンスの様に生まれつき魔力を多く持っている者が、同じ量を食べても何も問題が無かったとしても。
エマルジョンやリブロの様に、元の魔力の保持量が少な目の者が彼等と同じ量を食べると、少々魔力過多で気分が悪くなると言った具合だろうか。
そう言った者が無理をして高い魔力を含んだ食材を食べ続けると、それが深刻な健康被害に繋がって行くのだ。
因みに貴族と言うだけである程度は魔力に長けた血筋で有る事が多いので、平民の目線で見てみると日常で使われる塩は多少マズくとも、他国からの物の方が身体に優しかったりする。
けれども高くてマズい塩と、安くて美味い塩なら、当然後者の塩を消費者が欲しがるのは必須。
多少の健康の害など問題にもならないだろう。
何せ平均寿命が50台と低く、60歳を越えたらお祀りレベルなだけあって、塩分過剰で健康被害が起こる前に死ぬ人の方が多いのだから。
「それにしても美味しかったですね。
また姫様に取って来て貰えません?
お土産に持って帰りたいのですが。」
気楽な口調で気楽に望んだサルバドスに、レオナード達は困った様に。
そして養父陣営からは殺気に満ちた視線が向けられる事となった。
「ウーン…、そうしたいのは山々なんだけどねー…」
「陛下、ご冗談は此処だけにしないと、またハーゲンケイム伯爵夫人に儀礼講座を受けさせられる羽目になりますぞ。」
ハハハと、声だけ笑って目が完全に笑えて無いランバルダが、思いっ切りダメ出しをする。
「どうやらサルバドスには夫人の講座が無駄になった様だな?」
「冗談ですよ父上。
流石に身に染みました。
姫様に下女か冒険者の役目をさせるのかと、また彼女に叱られるのは私も勘弁ですから。」
「分かっているなら良いのだ。
済まんな、ランバルダ候。」
「いえいえ、私も少々大人気が無く。
申し訳有りません。
それだけまた食べたいと思える素晴らしい塩でしたからな。」
これがルルベルトの領内で採れると分かっていなければ、恐らく彼ももっと気楽にサルバドスと笑っておねだりしていたかも知れない。
その事を思って気楽な口調を装ったものの、笑顔が引きつっているだけ大根役者も良い所だ。
「はぁ…シッカリして下さいよ?
これでは私で無くても何か有るのではと勘ぐりたくなってしまいます。」
「うぐ…」
ランバルダは実直な気質で武芸に秀でた軍門の家系で生まれ育った為に、侯爵で有りながら腹芸には余り秀でてない欠点が有る。
今回の人選でそれは美徳として、周囲からの反発を抑える効果はあったものの。
この塩の件を考えると、少々荷が重い面が浮上した場面だった。
サルバドスは自分が外された役割を全うすべく、ここぞとばかりに指摘を入れる。
「むうぅ。不覚を取りましたか。
しかしご心配は無用です。
お陰で腹が決まりました。」
「それは良かったです。
そうでなければ私だけ仲間外れにされた甲斐が有りませんからね。」
「うむ。貴公の心遣いに感謝致す。」
「いえ、此方こそ出過ぎた真似をして申し訳有りませんでした。」
実直で好感が持てるランバルダの反応に、サルバドスも素直に礼を尽くして引き下がった。
「姫様を御守りするのが我が使命。
浮かれてばかりでは、その勤めを果たせますまい。」
「そうですね。
恵みの件はしばらく忘れる様に勤めましょう。」
「はい。そうですね。
先走らない様に肝に銘じます。」
ランバルダに続いて、マイヤーズやルルベルトも神妙な表情で落ち着きを取り戻して行く。
この辺りは経験が豊富な中年男の選抜が功を奏した。
つまり切り換えがつけば、どっしりとした安定感が有る。
樹海の境目は魔物との危険も多い為、マイヤーズやルルベルトも軍門の家系だ。
金儲けに関しては縁が遠くても、何かを守る事にかけては専門家と言って良い。
それが土地だったり、民だったり、家族だったり。そして3人共家を継ぐまでは元騎士団の出身で、王家に対する忠誠心も一際高い者達だった。
今回はそれをノアシェランに当てはめた事で、気分の切り換えが出来たのだろう。
つまり騎士としての心得を思い出したのだ。
あくまでも姫を守る為に塩に関わると関連付けた事で、降ってわいた黄金を売りさばく商人から、守る番人にクラスチェンジとなった訳で有る。
慣れない商人のままだとフワフワと落ち着かなかった気持ちが、古巣の職場で叩き込まれた騎士の役目ともなれば、身体の芯から染み付いている分落ち着けるのだった。
現実問題として、この3人は今回の件に関して言えば実に都合の良い人選となっている。
サルバドスで有れば、笑顔で算盤を弾きながら社交界で華やかに新しい塩をデビューさせて、高値で売りさばいたのだろうが。
この3人なら秘密裏に開発を進めて、王家に機密を持ち込むべく静かに塩を持ち込める。
周りの反感を買う危険性を孕んだ塩の場合、どちらがより穏和かと言えば、それは後者だろう。
それから使命感に燃える3人と、楽しかったと言わんばかりに上機嫌となった公爵親子が、それぞれ城から帰って行く。
レオナードも今日捌けなかった仕事を執務室で少し片付けた後は、早めに就寝する事を決めて後宮に引き上げる段階になってから。
「何時までも来ないと思ったら…」
「…あぁ、レオンか。」
廊下から中庭を静かに眺めているデュオニュソスを見つけて、眉を顰めたのだった。
「デュオの机に書類が山ほど溜まってたけど、今夜はもう休みなよ。」
「…そうか。
少しだけ片付けたら、そうさせて貰おう。」
「で?何を黄昏てたわけ?」
「別に、何でも無い。」
「それなら直ぐに戻ったよね?
ノアシェランと離れるのがそんなに寂しかったのかい?」
「……我ながら勝手だと思っただけだ。
得体の知れぬ化け物だと、未だに警戒している癖に。
あれが婚約者で良かったと、考えていたのだ。」
「へぇ?そんなに気に入ったんだ?」
「笑いたければ笑え。」
自分の手のひらをボンヤリと見下ろしていたデュオニュソスは、レオナードの指摘にムッとして不機嫌な視線を彼に向ける。
「アハハハハ!」
「……何が可笑しい。」
「だってデュオの口から惚気話が聞けるだなんて、夢にも思ってなかったからさ。」
「今までの会話の何処に惚気があったんだ?!」
「有りまくりだよ。
だって得体が知れなくて怖いのに、お嫁さんにしたいぐらい気に入ってしまったから戸惑ってたんでしょう?
つまりメチャクチャ可愛くて困ってたんだよね?
少し前のデュオなら、頭の悪い女は視界にも入れたくない!って感じだったのが。
この世界の事を何も知らない彼女に夢中なんだよ?
そりゃあ笑うしか無いと思わない?」
「其処までは言ってない!」
「でも思ってた。
だからそんな自分にビックリして、こんな所で道草を食ってたんだよね?
何年付き合ってると思ってるの?
隠そうとしてもモロバレだよ。」
「私はただ…5分以上会話を交わしても、苦痛で無い事が不思議だっただけだ!」
「中身は年上のお姉さんだもんねー。
そりゃあ上手く転がされちゃうか。」
「そうでは無い!
アレはそんな上等な芸は出来ぬ輩だ。
人の名前を繰り返し呼ばせても、満足に言えぬ阿呆だからな!」
「ほほー。そんな事をして遊んでたんだね。
それで彼女が可愛いくてハマっちゃったと。」
「うむ…あれは何故にあそこまで阿呆で、愛らしいのだ?
年上ならもう少し何か知性的な物があるのでは無いのか?」
「ヤッパリ惚気じゃ無いか。
早く寝よ寝よ。
明日もスッゴく忙しくなるから、デュオも早くお休みねー」
「ぐ!話の途中で置いて行くな!」
ヒラヒラと手を振って足早に去って行くレオナードと、通りすがりにニヤニヤしているアトスタニアに怒りながらも。
デュオニュソスはフン!と荒く鼻を鳴らして執務室へと向かって行った。
デュオニュソス付きの侍従達と合流を果たすと、彼は机に積まれた書類の山を手に猛然と目を走らせる。
一応全てを読んだ後で一枚の紙に基本となる定例文を書き上げると、侍従達に明日自分が不在の時にその文章通りに手紙を送っておく様に、指示を出して仕事を片付けた。
もう後宮に入り浸る気満々で有る。
けれども自分以外の者が出来る仕事を抱え込まない所は、流石に優秀な人間のなせる技だった。
明日から増え続ける手紙を思い、代筆が出来る人間を雇う様にも手配してから、城に与えられている自室に戻って行く。
夕飯までノアシェランの所で終えて来ていた為、後は身綺麗にして寝るだけとなった所で彼はバルコニーに出て月を見上げる。
いつも魔法で手早く浄化して終わりなので、わざわざ侍従に湯を用意させる必要も無い。
酒を嗜む習慣も無い為、いつもより早い時間を持て余し気味になったのだ。
それなら足りない睡眠時間を取り戻せば良いのだが、妙に頭が冴えて眠る気になれなかった。
月など最近は全く気にした事など無かったのに、今夜は妙に美しく見える。
月だけでは無い。
それに照らされている庭も、植えられている木々の全てが暗闇の中で輝いて見える事が不思議で仕方無かった。
いつの間にか感じていた未来への絶望に、周囲がこんなに美しかった事を感じる余裕を奪われていたのだと。
そう気づいた拍子に笑いが込み上げて来る。
まだ何も変わってなんか無い。
皇国の強大さは変わらず、この国の未来を担う王太子は捕らわれたまま。
恐らく明日からは何時も以上に緊張を強いられる毎日が続くのだろう。
何せ人知が及ばぬ神々の力を、世界の災いとならない様に導く必要が有るのだから。
本当に紙一重だったのだ。
ノアシェランを外敵としか思えなかった自分を思い返し、ダンバル公の推理を思い返せば背筋が凍る思いがした。
あの時のレオナードの判断だけでも、賢王と呼んでも過言では無い英断だったと今なら断言出来る。
未だにその脅威を思えば戦慄で震える身体を感じて、小刻みに震える手でバルコニーの手摺りをしっかりと握り締めた。
あの時に短慮を起こしてノアシェランを害していたのなら、レオナードを含めた自分達は全てトゲモモの攻撃を受けて血の海に沈み。
ブルーベリーが放つ豊潤な魔力が精霊を呼んで嵐を起こし。
そして我々が流した血とドラゴンイーターの匂いが魔物を呼び込み、この国。
いや、この国を始めてこの大陸の全てが、今夜の内にでもあっさりと滅んでいただろう。
これは決して誇張から生まれた妄想などでは無い。
彼等は物事がつく前から、神話としてその話を受け継いで来ているのだから。
かつて魔大陸と今は呼ばれている大陸に、魔物は一匹も存在して居なかったと言う。
創世神と呼ばれた神の一柱が何も無い大地に降り立ち、己の力を宿した神々を増やし。
精霊が産まれて自然が大地を彩り。
そしてそれらに遣える原始のエルフを生み出した事で、初めて人としての文明が始まったと神話で語られている。
それから神々はエルフに続いて様々な生き物を生み出し、遂には祖先となる人間をも生み出される事となった。
平和な時代が長く続くに連れて、栄華を極めた人間の王が己の欲を満たす為にエルフを迫害し、かの妙薬を盗んだ事から滅亡が始まる。
神々の怒りが魔物を生み出し、人間はかつての大陸を追われる事となり。
レオナードの祖先に当たる人々が、安住の地を求めて海を渡ってこの大地に根付いたのだと、神話ではそう語られていた。
誰もが知っている話だ。
平民ですらそれは例外無く伝えられている。
その為の教会がこの世には有り。
かっての過ちを繰り返さない様に、人の生き方を説いて神々から許しを日々の祈りとして捧げている。
それが!
まさか!
あの様な姿として再び人の前に姿を現すとは。
ノアシェランそのものは何も知らない。
知らないままで無垢な彼女は破滅をその身に宿していた。
彼女は決して悪意有る者では無く。
攻撃を受けた所で泣いて逃げるのが関の山だろう。
それはかつてのエルフを彷彿とさせる、正に神々から齎された人間への試練だ。
言い方を変えれば彼女は神の加護を受けるのと同時に利用されているのだろうと、デュオニュソスは大きなため息を零した。
その身に宿った力は強大で、人には大いなる恵みを齎す。
それを欲して彼女を奪い合った結果、この世は再び魔大陸の歴史を繰り返すのだ。
人が人を害しているだけで済んだ昨日までとは違う。
今度は神が直接、人を害する時代へと突入したと言う事なのだと。
今日1日で分かった事だけでも、それを物語っている。
賢明なレオナードはそれを頭で理解するよりも先に、この時代の変革に気付くことが出来た。
けれども他の国の王は果たしてそれを受け入れる事が出来るのだろうか。
恐らく無理だろう。
デュオニュソスですらそう思う。
神の恩恵を手に入れる為に、これから人の争いが始まるのだ。
それが破滅に続く道だと分かっていたとしても、炎に群がる羽虫の如く。
人は争いに手を染める。
ダンバル公の慟哭が未だに頭の中で繰り返し語っていた。
レオナードだけでは足りないのだ。
この国全ての者達ですら足りない。
大陸中に居る全ての者達が、その危険性を理解して自重する道を選択しなければ、神々から与えられた試練は到底乗り越えられない。
果たしてそれが我々に可能なのだろうか。
そうでは無い。
不可能だとしても、可能にしなければ滅亡が待ち受けている。
それだけの話だった。
不安に震えていた彼女に対して、何とも容易く守ると口にしたな、と。
我ながらその愚かしさに笑いが込み上げて来る。
守れなければ世界が終わる。
それだけを考えて震え上がっている弱い自分に、そんな大役が果たせるものなのだろうか。
神話で語られる英雄は、何時でも逞しく強い人間だった。
果たして自分がその立場に立った時。
とてもそんな強さが自分の中に有るとは到底思え無い。
何せ初手から選択を間違えている。
何が魔物だ。
何が殺してやるだ。
疑念に凝り固まった化け物だったのは俺の方だろう。
彼女に向けてぶつけた暴言の数々が今になって跳ね返って来て、デュオニュソスを苦しめていた。
エルフ達を王が迫害するとして、それに追従した臣下の者達をあれほど馬鹿にしていた幼い自分を思うと、その未熟さが無償に恥ずかしくなる。
レオナードが断固として強気で事を進めていた最中、デュオニュソスは彼の正気を疑って理性的に振る舞おうとした。
そしてそれが全て間違いだったのだと、今なら分かる。
あの時ノアシェランのか細い首をへし折って居れば、今頃この世は滅んでいたのだから。
これは落ち込む。
ありのままの姿を見ずに、それに疑念を抱いて必死に固執していた自分の愚かさが痛い。
痛すぎる失態だった。
「えと…でおにそすたま?」
ハッとして振り返ると、後宮に居る筈の黒円が、フヨフヨと真後ろに浮かんでいるのを見て絶句する。
(な…何をしている?!)
これには流石に度胆を抜かれた。
不審者に侵入された事は数多くあったが、女性がこれをすると話が変わって来る。
つまり夜這いだ。
「えと…えと…」
(分かった。思念が漏れるから控えているのだな?伝えたい事が有るのなら私を中に入れてこの場所から離れろ!)
わざわざ実声で分からない言葉をひねり出そうとしている彼女を思い、そう伝えた所で彼は黒円の中に引き込まれた。
(はぁ…ドキドキしたぁ…)
(馬鹿者!
驚いたのは此方の方だ!
一体どうして後宮を抜け出したのだ?!)
(ウーン…、もうお休みなさいってベッドに入ったんですけど。
危ないから窓の中に入って寝る様に言われたんです。)
(…その予定だったが、それで何故俺の所にやって来た?)
小さなノアシェランがその小さな胸を押さえてハァ…と、溜め息をこぼしている姿に。
デュオニュソスも同じくドキドキとしながら、浮ついて来る喜びを必死に押し殺す。
(えーと…来ようと思って飛んで来た訳では無かったんですよ?
でも独りきりでいたら寂しくなって来て…)
(それで俺の所に飛んだのか?)
(迷惑をかけてごめんなさい。
でも何だか落ち込んでいるみたいだったから、少しだけお話がしたくなってしまって。)
バルコニーの手摺りを握って頭を垂れていた間抜けた姿を見られた罰の悪さに、デュオニュソスは思わず顔をしかめた。
ノアシェランはモジモジとしながら、薄い寝間着のワンピースを仕切りに引っ張っている。
(…今日の自分を振り返って考えていただけだ。
お前が何も不安に思う事は無い。)
(あ、はい。すみませんでした。
それなら良いんです。
それじゃあ私、今度はちゃんと寝ることにしますね。
デュオニュソス様をお部屋に送って…ハ!)
顔を真っ赤にさせて早口でまくし立てていたノアシェランだったが、最後で何かを思い出したかの様に愕然として目と口を開く。
(…どうした?)
(………すみません。
でおにそす様を目掛け飛んで来たので、どこに向かって飛べば良いのか分かりません…)
(はぁ?!)
(すみません!すみません!
あの!お部屋はどこに有りますか?!)
(取り敢えず落ち着け!
お前が興奮したら一気に思念が広がるのだぞ!)
(うえぇぇ…どうしようぅ…)
(取り敢えず、今はどの辺りに居るんだ?!)
そう聞きながらも、窓の外に視線を向けると、月明かりに照らされた黒一色の一面に目を瞬かせる。
(とにかく誰もいない所と思って、海の上にやって来てみました。)
(……これが…海?)
(…多分。)
(何故そうも曖昧なのだ?)
(いえ、見えないので確信が出来ないだけで、昔にフェリーで見た海の光景もこんな感じでしたし?)
(ふぇりーとは何だ?)
(船ですよ。向こうの世界の。
遠くに行く時は船で夜を過ごすんです。)
(ほぅ、船旅をした経験が有るのだな?)
(そうです、そうです。
あれは私がまだ小学生だった頃に、家族で九州に行く時に船に乗ったのです。)
(しょーがくせい?きゅーしゅー?)
(えぇと、私が幼い頃に家族で九州と言う土地に向かったと伝えたかったんです。)
(なる程、分かった。
つまり今この周囲に人は居ない可能性が高く。
思念が幾ら漏れようと気にしなくて済むと言う事だな?
…と言うか、それでどうやって城まで戻るんだ?)
(あ、それは大丈夫ですよ!
お父様を目安にも飛べますし、何ならマールさんを目指せば私の部屋にも戻れます!)
幼い顔に自信を漲らせているノアシェランの姿に、デュオニュソスは頭痛を感じて額を押さえた。
(レオンを夜這いするのも、エマルジョンを夜這うのも勘弁してくれ。
俺の人生が終わる。)
(え?!駄目ですか?!)
(大人しく自分の部屋に向かって飛んでくれ。)
(あ、それも手ですね?
でもでおにそす様をどうしましょう…)
(確かにそれは困るな。
うむ…お前の部屋に入り込んでいるのがバレたらエマルジョンに殺される。)
(うぇ…事情を説明してもダメですか?)
(止めておけ。
これは確実にスキャンダルになる。
エマルジョンもフォローの仕様が無い。)
パタパタと小さな手を振って慌てている彼女に、デュオニュソスは両手を広げて仰向けに倒れ込んだ。
つもりなのだが、窓が目の前に有るので見方を変えると立ったままな気もする。
だが本人は脱力しているので、ベッドの上に倒れ込んだ気分だった。
世界の滅亡を感じて震えていた時を思えば、何とも平和なトラブルだなと気が抜けたのだ。
貴族としてはそれなりに大きい問題だとしても、世界を基準に考えれば些細な出来事に感じてしまう。
(変な匂いがするな…。あと聞いたことの無い音がする。)
(え?あぁ、海ですから。
潮の匂いと波のぶつかる音ですよ?
ひょっとして初めてですか?)
(我が国に海など無いからな。)
(へー。私が住んでいた所は島国だったので、夏にはしょっちゅう海水浴に行ってました。)
(かいすいよくとは何だ?)
(海で泳ぐ事ですよ。)
(そんな真似をすれば魔物に食われて死ぬぞ?)
(私の住んでた世界には魔物が居ませんでしたから。)
(そんな世界も有るんだな…)
初めて嗅ぐ海の匂いは生臭くて余り気持ちの良い物では無かったけれど、身体を包み込む暖かさと定期的に響いてくる波の音が、穏やかな眠気を誘って来る。
(…でおにそす様?)
気が付けば彼は簡単に眠りに落ちていた。
(え?!ひょっとして寝てるの?!
ちょ…一体これからどうすれば?!)
ノアシェランは小さな頭を抱えてしばらくオタオタと慌てていたのだが、彼の疲れきった寝顔を見ると、どうしても起こすのが切なくて。
(寝よ…)
その内に眠気が耐えられ無くなり。
元々寂しくて彼の元に飛んだ彼女は、欲しかった人の息吹を求めて寄り添って眠る事にする。
昔は1人で寝るのが当たり前だったのだが。
10年以上に渡って夫婦で寝る習慣が身に染み付いている彼女は、それが当たり前の習慣だったのだから。
取り敢えず自分の寝室に飛んでから、ノアシェランは寝ることにした。
彼のことをどうするのか問題はあったけれど、このまま窓の中に居ればバレないと思ったのだ。
それよりも黒円の姿が無ければ、エマルジョン達に迷惑が掛かってしまう。
最初に姿を消せば死ななければならないと脅されていたので、それだけは彼女も流石に無視出来なかったので有る。
こうしてデュオニュソスは人知れず、初夜這いの経験を終えたのだった。
中身は単なる添い寝でも、婚約者の寝室で夜を明かすと言うのはそう言う事だ。
翌朝。
(姫様、そろそろお目覚め下さいませ)
(うわ、はい!)
エマルジョンの呼び掛けに、ノアシェランは慌てて飛び起きる。
そして未だに寝ているデュオニュソスの姿に、思わず無言で頭を抱え込んだ。
(マールさん、お手洗いを済ませるので外で待っていて下さい。)
それでも彼女は1つの作戦を思いついていた。
(…分かりました。
終わったらお呼び下さいませ。)
何となくバレている気がしなくも無かったけれど、ソツなく下がってくれたエマルジョンに、ノアシェランは慌てて窓を海へと飛ばしてデュオニュソスを叩き起こす。
(朝です!
マズいですよ!起きて下さいぃ!!)
(ん…)
渋い表情をしながらムクリと上半身を起こした彼が、不機嫌な眼差しをノアシェランへと向ける。
(寝起きが悪い所までソックリとか…。)
思わず元の旦那の姿を思い出して、その懐かしさに瞳が潤みかけてしまったが。
モタモタしている時間は無かった。
(あの、どこにお連れすれば宜しいですか?)
(あぁ…そうだな。
後宮の出入り口までは分かるか?)
(はい!何度か通ったので覚えてます。)
(それならその近くに飛んで人気のない場所で降ろしてくれ。)
欠伸している彼はそう淡々と指示を出す。
(あの…コレってバレたら困らないのですか?)
(人が死ぬほどの問題では無いな。
ただお前がフシダラな女だと世間の評判が落ちるだけで…)
(それって思いっきり大問題ですよね?!)
(俺以外の者が相手だと洒落にならんが、…レオナード相手にやらかすなよ?)
(しませんよ!
何でお父様が出て来るんですか?!)
(それなら良い。
早くしろ。)
(もう!)
ノアシェランは後宮の出入り口の天井付近を目指して窓を飛ばし、人の気配にドキドキしながらも人気の無い通路まで進み。
ポイ!とデュオニュソスを吐き出すと、一目散に自分の部屋に飛び帰る。
そしてまだドキドキしながらトイレを済ませた後で、何食わぬ顔をしてエマルジョンを呼んだ。
デュオニュソスは背伸びをして朝の早い時間の廊下を静かに進むと、城内に与えられている自室に戻る。
「お姿が見えず、探すか迷っておりました。」
「あぁ、少し散歩をしていた。
身支度をするから何時も通りに湯をくれ。」
そしてデュオニュソスが部屋に戻った気配を察した侍従にそれだけを告げると、彼はそのままの姿でバルコニーに出て大きな溜め息を吐き出し。
「これは病みつきになるな。」
恨みがましいレオナードの視線を思い出し、クスクスと笑って手摺りに背もたれる。
とても寝心地の良いベッドだった。
あぁいった逢瀬なら毎夜でも歓迎すると、色気も素っ気も無い感想を抱く。
バスタブに湯が張られた事を侍従達の動きで察した彼は、少し寝坊した時刻に特に焦る事も無く。
優雅に朝風呂を堪能する。
魔法である程度の清潔は保てるが、寝癖を直したり髭を剃る手入れを思えば、朝風呂はいつの間にか彼に取って欠かせない習慣となっていた。
それでもそれは魔法を使える使用人を雇える、貴族ならではな贅沢な習慣となる。
木製の風呂桶に水を入れて湯を沸かすだけの簡易風呂なので、追い焚きもシャワーも無い簡単な作りだ。
水もそれを温めるのも人力で行っている。
それなりに魔力を消耗する作業だが、デュオニュソスの従者なら朝飯前の芸当だ。
何なら彼自身がやった所で済む話なのだが、そこはレオナードの場合になる。
今は従者としてよりも、ノアシェラン付きの仕事を与えられている分。
こんな風にノンビリと朝を迎えられると言った算段だった。
昨日までならこんな余裕は彼には無かった事だ。
今頃はレオナードをベッドからたたき起こしている頃だろうか。
髭を剃って身体の水分を魔法で吹き飛ばすと、髪型を整えながら朝食の乗ったテーブルに着く。
そして執事が持って来た新聞に目を通し、大々的に昨日の緊急会議の報道が乗っている事に目を細めた。
木の多い土地なので、最近は木製の紙が発達している。
新聞の用紙は材質が荒いものの、写真が乗せられる代物にまで進化していた。
少し前までは絵が主力だったが、今では魔道具のお陰でノアシェランを抱いている自分の姿とレオナードの姿がバッチリと新聞に乗っているのを確認する。
見出しは『神から賜りし妖精現る。第一王女誕生。』と、書かれていた。
まぁこれは昨日自分がそうする様に、記者の入場許可を与える条件で手配したのだが。
これで平民にもノアシェランの情報が伝わるだろう。
ダンバル公が説いた魂の演説も、しっかり記事に取り上げられている。
彼の写真をメインに飾らなかったのは、奇跡が起こった所で姿に変化が乏しかったし。
ジジイの姿よりも可愛らしい少女の方が、皆にウケるからだろう。
ノアシェランのアップが欲しい所だが、距離的にこれが限界だったに違いない。
平民である彼等の席は最後尾だったのだろうから。
目が粗すぎて彼女の魅力が全く伝わらない画像に、安堵するやら呆れるやら。
お茶を傾けながらもそれを思って、優越感が込み上げて来るのをひたすら堪えるデュオニュソスだった。
「さて…教会が煩いだろうな。」
担当者の苦労を思うと笑っても居られ無いが、迎え撃つのは元王子だった祖父のグランエスタートと宰相のエクスタードの二枚看板だ。
教会側も一筋縄では行くまいとほくそ笑む。
レオナードは自分が持つ最強の手札でノアシェランの周囲を固めている。
表向きは平和な現状で、何処から手を入れた所で撃破する体制は昨日の間に全て整っていた。
新聞に乗っている他の記事もざっと目を通した後で朝食を終えたデュオニュソスは浄化魔法を使い。
慌ただしい気配を放っている執務室に、悠然とした態度で姿を現す。
「おそよう。随分とシッカリ眠れたみたいだね。」
「そっちはなかなか眠れなかったみたいだな?」
「寝れると思う?」
「寝る時間はあっただろう?」
「全く…誰かさんはどうして眠れたんだろうね?
」
「さぁな?
それより今日の予定を教えてくれ。」
「はぁ…娘にしたのは早まったよねー。
正妻に出来なかった以上は仕方が無かったんだけどさぁ…」
「ありがとう。まぁ、そうムクれるな。
そのうちにきっと良いことが有るさ。」
リブロからレオナードのスケジュール表を受け取ったデュオニュソスは、それをヒラヒラと振ると自分の執務机の上に視線を向ける。昨夜目を通した書類とは別の束がまた膨れ上がっていた。
どうやら朝一番で送られて来た物らしい。
世の中には働き者が多くて感心する。
侍従にチェックした昨夜の書類の束を持って行かせると、新しい束を前にして先にレオナードのスケジュールを確認した。
それから流れ作業で面会依頼の書類に目を通し、目的の物以外は全て従者達を呼んで持って行かせる為に声を掛ける。
「これは教会からノアシェランへの面会依頼だ。ダルフォント公爵の所に持って行ってくれ。
こっちのは全て定例文で返事を返せ。
これは私が直接エマルジョンに持って行く。」
「ん?エマルジョンに通せる物があったの?」
「あぁ。商人ギルドからの手紙だ。
買いたい物が有るならついでだからな。
ノアシェラン付きの商人を決める機会だ。
相談して来るさ。」
「昨日早速呼んでたでしょう?」
「あれはエマルジョンのだろう。
ノアシェランは格が上だからな。
勝手に断ると後が恐ろしい。」
「なるほどね。
ちゃんと後宮長官も財務大臣も呼んで相談してあげてね。」
「影が薄くてつい忘れそうになるな。」
「ソレ、やらかすと後が面倒だよ?」
「分かっている。」
デュオニュソスは商人ギルドからの手紙をヒラヒラと振りながら、執務室を出て行く。
「足取りが軽過ぎてスッゴくムカつくんだけど。」
「昨日とは雲泥の差だよなー。」
「ホントに羨ましいですねー。」
目の下にクマを作っているレオナードと、対照的にスッキリしているアトスタニアが同意した後で、目つきがかなり怪しくなっているウィンスが羨望の視線を閉じられたドアに一瞬だけ向けた。
「…ウィンス。本気で少し寝ておいでよ。」
「何の何の。徹夜の4日も5日も其処まで変わりませんよ。」
「なぁ、絞めて落とすか?」
「ウーン…ウィンスどうする?」
「止めて下さい。今物凄く楽しいんですから。私は忙しいのです。」
「アトスタニア。」
「おう。これから肝心な時に役に立たなかったら困るからな。」
アトスタニアが素早くウィンスの背後に回り込むと、両手に書類を持っている彼の首に太い腕を回してキュッと締めると。
ストンと意識を落とされたウィンスの手から、ハラハラと書類が落ちて行く。
どうやら昨日ノアシェランが持ち込んだ果実の分析データを纏めていたらしい。
これは仕事と言うよりも彼の趣味の分野だ。
「全く、世話が焼けるったら。
堂々と仕事をさぼって遊んでるんだもんなー。」
「ちょっくら寝かせとくわー。」
布の様にクタリとしたウィンスを肩に担いだアトスタニアは、笑顔で隣室のドアを開けたリブロの前を通って中に入って行った。
一方その頃。
ノアシェランは廊下から響いて来る、誰かの良い争う声に驚いていた。
(えと、マールさん。
今のは何ですか?)
(大丈夫ですわ、姫様。
興奮した者が姫様にお会いしたいと押し掛けて来た様ですが、それをお断りしているのです。)
(喧嘩みたいになってましたけれど…)
言葉の意味が分からなくても、向こうが怒っているのは伝わって来る。
大丈夫と言われても不安が消えないノアシェランに、それでもエマルジョンは頭を横に振った。
(姫様に会いたい者は沢山います。
けれども陛下やデュオニュソス様がちゃんと相手を選んで通す決まりとなってますのよ。
ただ身分の高い者は自分を中心に物事を考えますので、この様な事になるのです。
それらから姫様をお守りするのが私達の勤めです。
ですからどうか不安にならず、心を穏やかにお保ち下さいませ。)
(身分が高い人って、お父様よりも身分の高い方がいるのですか?)
(いいえ。ですから心得違いをしている不届き者なのです。
この国に陛下の意向を無視出来る者など1人もおりませんわ。)
(それなのにあんなに強気なのは何故でしょう?普通は怒られると思って遠慮しますよね?)
(それは姫様がこの世に来られて身分を持っておられなかった為です。
今は陛下の計らいで第一王女としての身分が有りますが、向こうはそれを逆手に取って強気に出ているのです。
全く嘆かわしいことですわ。
姫様は神から遣わされた妖精ですのに…)
ハァ…と不機嫌そうな溜め息を零すエマルジョンに、慌てたのはノアシェランの方だった。
(いいえ!私はただのオバサンです!
人間です!妖精なんかじゃ無いですよ!)
けれどもそれに対してエマルジョンは困った様に微笑む。
(それは向こうの世界でのお話ですわね。
けれども姫様はこの世の神に招かれた際に、加護を受けて変わって仕舞われたのですよ。)
(え?!そうなんですか!?
それは外見はかなり変わりましたけど、私の中身は全く変わってませんよ?!)
(ですが昔は魔力もこの様な不思議な能力も無かったのですよね?)
(それは…はい。有りませんでしたね。
はい。全く。)
(つまりはそう言う事なのです。)
(はい?!そう言う事って、どういう事なんです???)
(人としての魂と記憶を持ちながら、肉体が妖精となって仕舞われたと私達はそう考えているのです。)
(ええええええーーー?!)
(姫様、落ち着いて下さいませ。
少し驚き過ぎですよ。)
パニックを起こして思念を撒き散らしているノアシェランに、エマルジョンが困った様子でそう嗜める。
(こんなの落ち着けませんよ!
ちょっと想像してみて下さい。
いきなり“君、明日から妖精だよ”て、ある日突然言われたら困りませんか?!)
(…分かりました。
それは確かに困りますわね。)
(ですよね?!)
(でも嬉しく有りませんか?
神様に認めて頂けたと言うことですのよ?)
(心当たりが全く有りません!
嬉しい以前に驚きます。)
(オホホ。確かに驚きますわね。)
(なので私は妖精なんかじゃ有りません!)
(まぁまぁ、そのうち慣れますよ。)
(コレって慣れの問題なんですか?!
て言うか45歳過ぎたオバサンがいきなり妖精(笑)って、コレって笑い話ですよね?!
宰相さんやでおにそす様のお爺さんがいきなり妖精になるようなもんですよ?!)
「「「ぶは!!」」」
(オホホホ、姫様…オホホホホ!)
周りの人達を含めて、エマルジョンの何かが壺だったらしく。
全員が身を捩って笑い始めた。
(ノアシェラン!下らない話は今すぐ止めろ。
全部城中に筒抜けだぞ!)
(ふぁい?!)
するとデュオニュソスの雷がピシャリと落ちて、ノアシェランは思わず背筋を伸ばす。
(全く…堂々と恥を晒すんじゃ無い!)
(す、すみません!)
(今其方に向かっている。
だから大人しく心を落ち着けていろ!)
(はいぃっっ!)
言われた通りにスーハーと深呼吸を繰り返してみたけれど、ちょっと興奮すると思念が飛び散ってしまう事が憂鬱になる。
(はー…、また怒られてしまいました。)
(ウフフ。デュオニュソス様は伝え方に容赦がないですからね。)
(まぁ…私が悪かったので反省します。)
肩を落として凹んでいると、ドアがノックされた後で侍女の1人が静かに入って来る。
「先触れが参りました。
デュオニュソス様が参られます。」
(…今のは何て?)
(デュオニュソス様がいらしたみたいですわ。
隣りのお部屋に移動しましょう。)
エマルジョンが差し伸べる腕に手を伸ばすと、最近抱っこが当たり前になって来たなぁ…と、少し黄昏ながらも抱かれて部屋を移動する。
これは良くないと分かっているけれど。
どうにも幼くなり過ぎたのか、足の筋力がかなり衰えてしまっていた。
少し歩くだけでフラフラするのだ。
今着させて貰っている洋服も裾が長くて引きずってしまう。
だから皆が転ぶ前に手を伸ばして抱っこしてくれる様になっている。
(運動しないとなー。
本当に小さな子だったら好奇心に任せて歩いているんだろうけど…)
(フフフ、その内歩く練習もしましょうね。
今はまだ服が身体に合って無いのですよ。
急いで支度しましたけれど、外出着を優先させて仕舞いましたからね。
今度はちゃんと寸法を計って、日常に着れる物を作り直しましょう。)
(お手数お掛けして本当にすみません。)
(いえいえ、皆とても楽しませて頂いてますのよ?姫様はとても愛らしいですから、デザインを考えるのも楽しいのです。)
隣りの部屋に移ってソファーに座りながら、エマルジョンと穏やかに会話を続けていると。
もう一つ隣りの部屋のドアが開く音とガヤガヤと会話を交わす声が聞こえ。
直ぐに颯爽とした足取りで黒髪の青年が姿を現す。
「ウーン…無駄に格好良いのよね。
体格が良いから若く見えないんだけど。」
(何だ?)
(いえ、イケメンだなぁって。)
(いけめんとは何だ?)
(イケてるメンズ、略してイケメンです。)
(余計に意味が分からぬ。
伝わる様に思念を送れ。)
仏頂面がスタンダードのせいで異様に迫力が有るのだが、ウッカリ笑顔を見せられると目がチカチカとするので、ノアシェラン的にはコッチの顔の方が安心出来る矛盾。
因みにレオナードの笑顔は綺麗過ぎてヤバい。
好きとも何とも思ってなくても悩殺ものの笑顔は、オバサンにとって刺激が強過ぎるのだ。
腐属性は無いので、遠くで眺めているだけに留めておきたい今日この頃です。
と、ノアシェランは日本語で心の中で呟く。
(何をブツブツ言っているのだ?
イメージが全く通じてないぞ。)
(私なりに心の声がダダ漏れになるのは恥ずかしいので、母国語で考える事を思い付いたんです。)
(なるほど、それで伝わって来ても意味が分からぬのか。)
(むしろ今も母国語なんですけど、伝えようと思わなければ案外伝わらないものなんですね?)
(少しはコツが掴めて来た様だな。
だがまだまだコントロールが甘い。
大量に漏れてしまっているのを何とかしろ。)
(そんな事を言われても…アイドンノーです。)
(何だそのあいどんの?とは。)
(分かりませんと言う意味です。
なるほど日本語英語も通じないんですねー。)
(にほんごえいご?)
(つまりこっちに同じ意味を持つ言葉で考えなければ、伝わらないって事ですよ。)
(そうか。それなら分かる様に話せ。
面妖な内容で送られると頭が混乱する。)
(ぶ、らじゃ!)
(ぶらじゃ?)
(すみません、悪ふざけが過ぎました。
大変私が悪う御座いました。)
(おまえ…今私に何を言わせたんだ?!)
(人には知らない事の方が良い事も有るのですよ。)
(人で遊ぼうとするな!
せっかく人が親身に付き合ってやっていると言うのに、フザケるとは何事だ?!)
(人生には心の余裕が必要なのです。
偶には気楽に会話をしましょう。)
(高尚な事を言って誤魔化せると思うなよ?!
ぶらじゃとは何だ?!)
(それよりでおにそす様はどうして此方に来られたんですか?
何かご用でも有りました?)
(……貴様、後で覚えてろよ。)
何時もより三割増しで睨まれたけれど、いい人だと分かって来たから余り怖く無かった。
(フフフ、いつの間にかそんなに仲良くなられて…良い兆候ですこと。)
(フン。
エマルジョン、商人ギルドより手紙が来た。
ノアシェランの専属を決めたいそうだ。
レオナードより後宮長官と財務大臣に話を通せと言われている。)
(まぁ、そうですか。
丁度お洋服の話をしていた所なのです。
あのお二方を通すとなるとお時間が取られますが、専属を決めるのは良いお話です。
此方から報告を上げておきましょう。)
デュオニュソスから手紙を受け取ったエマルジョンは、侍女を呼んで伝言を伝える。
そのやり取りを不満気にして眺めているデュオニュソスに、ノアシェランが語りかけた。
(でおにそす様。
さっき誰かが私の部屋に来たみたいです。
マールさんの話では私に会いたい人が居るとの事でした。
何故会うのをお断りされているんですか?)
(……あぁ、その話か。
オマエが気にする事では無い。
誰が押し掛けて来ようとも、此方で対処するから気にするな。)
(いや、メッチャ気になりますよ。
身分の高い人なら尚更怒らせない方が良いんじゃ無いですか?
私のせいでお父様に迷惑が掛かるとか、嫌ですからね?)
(事情を知らぬ者がしゃしゃり出ようとするな。オマエが絡むと余計にややこしくなる。)
(それならその事情とやらを教えて下さい。
ややこしい事は私も望んで居ませんから。)
(………)
デュオニュソスは眉間に皺を寄せて嫌そうに顔を歪めた。
けれどもノアシェランは幼い顔立ちに知性の色を宿して真摯に彼を見つめている。
しばらく悩んでいた彼だったが、大きな溜め息をこぼした後。
(…何から教えれば良いのか。
だがこれはいずれお前も学ぶべき問題だ。
別に隠そうと思っている訳では無いことを前提に聞いて欲しい。)
(はい。)
(これは地理の学問で習うことなのだが、この大陸にはもう4つの国しか残っておらん。
この30年の間で北の大国と呼ばれているルフテンブルグ皇国が侵略して行った結果。
そうなったのだ。)
(え?!ひょっとして今戦乱期真っ只中だったりします?!)
(何だ。そう言った知識を持っているのか?)
(私の母国も過去に戦争していた事が有ったので、歴史を習う時に戦争のことは一応触れてます。私が生まれるずっと前に一番大きな戦争が終わって、それからは平和でしたけれど。)
(そうか。
おまえは貴族の家の出では無かったのだろう?
それでもそう言った事を学んで来たのか。)
(はい。
私の家は平民でしたが、最後の戦争が終わった後、身分制度が廃止されて皇族以外の貴族は解体されたんです。
その皇族も政権を取り上げられて、国のシンボルとして残ってました。)
(どこかの国の属国となっていたのか?)
(いいえ。公では独立しています。けれど戦勝国に有利な条例は組まされていたと聞いていますが、その戦勝国が道徳心の高い国でしたので、戦争には負けましたけれど。
かえって昔と比べると庶民の生活は人道的で恵まれた物に変わりました。
その弊害として母国国有の文明と思想は廃れて行きましたけれど。)
(そうか。それは良かったと言うべきか迷う所だな。)
(そうですね。
昔の国風を懐かしむことも多いです。
それでも歴史で学んだ庶民の暮らしは過酷な物でしたから、権利や自由が保証されている今では贅沢な話なのでしょう。)
デュオニュソスは思った以上に知的な会話をするノアシェランに、内心で驚いていた。
それはエマルジョンも同じで、高度な政治への見解を彼女が示した事が意外で動揺している。
この国の女性と政治は縁が遠く。
敵国や地力の知識すら危うい者が多い。
何故なら政治は男の仕事で、女性は家庭を守るものと相場が決まっているからだ。
条例、思想などの単語が簡単にポンポンと出せるノアシェランは、この世界の女性として見れば異常だったので有る。
(思った以上に高度な教育を受けている様だが、政治に対してはどれほど理解が出来る。)
(それはどうでしょう。
基本的な知識や法律は学校で学びましたが、専門的な知識となると、私では怪しいと思います。)
(学校に行っていたのか?!)
(はい。私の国では教育が義務として法律で守られていましたから。9年程基本過程を習い、その後は専門職として6年間。医療の勉強に携わりました。)
(そなたは医師だったと?!)
(いいえ、看護職です。
病人を医師の指示に従ってお世話をするお仕事でした。)
(…かんごしょく、か。
此方には無い職業だが…、職業夫人だったのだな。)
(そうですね。
女性の権利も認められる様になっていましたので、仕事をしながら家庭を持つ女性も社会に多く居ました。)
(あの…その場合、家庭はどうされているのですか?)
思わずエマルジョンも好奇心に駆られて口を挟んでしまう。
これは侍女としては失格の行為だが、つい疑問を抑え切れなかったのだ。
(夫婦で家庭の仕事も分け合う価値観が生まれていました。
私の両親の世代では、妻は家庭を守り、夫が働いて収入を得るのが当たり前の社会だったのですが、私の世代では家庭の仕事を夫婦で分け合うか。
逆に私の家の様に私が働きに出て、夫が主夫をして家事や育児をして家庭を守ってくれる状態も有りましたよ。)
(まぁ!姫様が当主でしたの?!)
(その辺の解釈が少し難しいのですが。
あくまでも私が働きに出ていただけで、世帯主は名目上は夫でしたね。)
(不思議な価値観ですわね。
それで世間が納得していたのですか?)
(逆に男手は喜ばれていましたよ。
育児でもイベント…えーと、行事をする時に女性ばかりでは力仕事が大変な事も有りましたから。)
(むう…私には理解が難しい世界だな。
この世で働かぬ男は甲斐性無しと非難されて嘲笑されるのだ。)
(私の世界でも仕事や家事をしない男性は同じでしたね。
でも家事や育児はとても大変なんです。
ですから主夫も1つの職業として扱われていました。)
(世界が変われば社会の仕組みもそんなに違うものなのですねぇ…)
デュオニュソスやエマルジョンだけで無く。
控えている侍女や護衛達も、深い教養を持って仕事をこなしていたと言うノアシェランを、驚きに満ちた視線で見つめている。
(それで話が随分とそれてしまいましたけれど。政治の話がどうなされたのですか?
今は戦時中なのですか?)
(うむ…そうだな。
今の所はレオナードの結婚に寄って和平が成立している。
だが…)
(け、結婚?!
お父様は独身では無かったのですか?!)
(あぁ…ソナタは知らなかったのか?)
(知りませんよ!
独身ばかりだと言っていたじゃ無いですか!)
(それは私やウィンスやアトスタニアの事だ。
レオナード自身は5年前に結婚している。)
(ご、5年前?!
って、お父様ってまだ19歳でしたよね?!)
(あぁ…確か14の時に結婚したんだ。
けれども驚くことでは有るまい。
少し早いが皇族で無くとも15で結婚する者は庶民にも居るぞ?)
(はやい!早過ぎる!!
私の世界ならまだ全然子供ですよ?
何なら40歳で初婚とか普通でしたよ!)
(遅い!遅過ぎるだろ!
どうやって子を成すのだ?!)
(最近は医療が発達してたので普通に産まれてます。それでも30歳過ぎてから結婚する人達も多かったですよ。)
(世界が変わればこれほどまで習慣が違うのですね?
驚きですわ…)
(うちの方では平均寿命が80歳越えてますからね。10代で結婚すると若過ぎて心配されちゃいますよ。)
(信じられぬ…、それ程長寿なのか…)
(何を言っているんですか。
ダンバル先生は128歳だったじゃ無いですか。
あれほど長寿な人は私の世界には居ませんよ。)
(あれは特殊だ!
普通は50も過ぎれば寿命が尽きる!)
(戦国時代か!)
カルチャーショックが大き過ぎて、ノアシェランはグッタリと背もたれに背中を預けて額を押さえた。
(せ、せんごくじだいとは何だ?)
(私が生きていた年代よりも300年以上昔の時代です。
大昔は私たちの国でも同じ様な寿命でした。)
(…そうか。随分と我等よりも先の時代を生きていたのだな…)
(もう根本的な世界観が全然違ってますけどね。そもそも魔法なんて有りませんし。)
(う、うむ。比べるのも難しい話だな。)
ノアシェランの投げやりな勢いにデュオニュソスも少し気圧されてしまい、居心地が悪そうにお茶を傾けて誤魔化す。
(それで?
何となく話が読めて来たんですが、ひょっとして先ほど私の部屋に訪れたのは、お父様の奥様。つまり私のお母様の関係者の方ですか?)
何となくノアシェランの視線が鋭くなっている。
(?…あぁ。)
その言外に含まれている剣呑な雰囲気に、デュオニュソスは意味が分からずに。
けれどもコクリと頷いて工程を示した。
するとハァァ…と、ノアシェランが大袈裟な溜め息を吐き出す。
(一つ確認をしたいのですが、お父様は私を養女にした事を、お母様と話し合いになられました?)
(まさか。するはずが無い。)
(それは何故でしょう。
お母様はお父様の奥様なんですよね?)
(そこには政治が絡んでいる。
例え正妻と言えども彼女の立場は難しいのだ。)
(では聞き方を変えましょう。
普通の夫婦の場合、養女を迎える時に自分の奥様とは相談なされないのですか?)
(私は未婚なのでどうかは分からぬが…通常であれば相談はするだろう。
だがそれはあくまでも普通の養子縁組みの場合であって、今回の話とは全く別の話だ。)
(ではその辺の事情ぐらいは奥様に説明なされておられますか?)
(するはずが無い。
そんな情報を与えた所でロクな事を考えぬだろうからな。)
(……つまり、お父様とお母様の仲は破綻していると考えて宜しいのでしょうか。)
(破綻も何も、これは戦争を避ける為の政略的な結婚だ。
始めから夫婦関係など存在してはおらぬ。)
(………因みに奥様はお父様よりも年上の女性ですか?)
(いいや。確か2つ年下だった筈だ。)
(………それでは子供もまだ居ないと?)
(居るぞ。
王太子が1人。確かそろそろ3つになる筈だが、それがどうかしたのか?)
背もたれに肘をついて斜めになって質問を繰り返していたノアシェランが、両足を開きその膝の上に両肘を乗せてフー!と前傾姿勢で大きな溜め息を吐き出す。
(……ノアシェラン?)
(いえ、すみません。
私の常識からかなり外れているのでショックが大きかったのです。
マールに質問が有ります。
貴方のご主人が養子を迎える時に、相談がなくても特に気にならないものですか?)
(…それは。)
(正直にお願いします。
私はこの国の常識を知らないので教えて下さい。
この国で夫婦の間に子供が居ても、妻に秘密で養子を迎えて当然の風習は有るのですか?)
(…御座いません。
ですが!今回の場合はそう言う問題では無いのです。
正妃の周囲は皇国の者で全て固められております。王太子様の教育すら我が国の方針を拒む始末で、これでは和平と言う名目で送り込まれた刺客と同じなのです!)
(分かりました。
私は少しお父様とお話をして来ます。)
(姫様?!)
(ノアシェラン!)
言うやいなや瞬時に姿を消したノアシェランと黒円に、2人は悲鳴じみた叫びを挙げる。
(お父様にお話が有ります!!!)
執務室に飛んだノアシェランは、書類の束を前にしたレオナードの胸元目掛けて飛び込むと、襟首を掴んで捻り上げ。
(たった12歳の女の子が貴方の元に嫁いで来たのですよ!
それをどうしてこんなに拗れるまで放置していたんですか!)
(ノ、ノアシェラン?)
(ノアシェラン?では有りません!
貴方は国王である前に1人の人間なんですよ!
政略が何ですか!
何が政治ですか!
貴方自身の妻でしょう!
自分の妻ですら幸せに出来ない人間が、国の面倒など見れると思ったら大間違いです!
私のこと何かどうでも宜しい!
貴方が一番に優先しないと行けないのは、国でも私でも有りません!
たった12歳で嫁いで貴方の子供を産んでくれた、貴方の奥様です!
向こうが怒るのも当たり前なんです!
今すぐ奥様の所に行って勝手に私を養女を迎えた事を謝って下さい!)
怒涛の勢いで一気にまくし立てる姿を、周囲の者も含めて唖然として見つめている。
(えーと…何で怒ってるの?
話が良く分からないんだけど…)
(怒るに決まっているでしょう!
それはもう怒り狂ってますよ!
今はもう17歳だったとしても、まだ幼い少女では無いですか!
そんな子供が周りを大人達に囲まれていれば、言いなりになるしか無いのは当たり前です!
それは当然貴方も同じだったのかも知れません。
だから言わせて頂きます!
周りの下らない思惑になんか振り回されないで下さい!
1人の人間として、貴方なら奥様と向き合う事が出来るでしょう?!
彼女は自分が生まれ育った土地を離れて、わざわざ国の為に嫁いで来たのでしょうが。
そんな事はどうでも宜しい!
大事なのは人としてどう向き合うかです!
政略だろうが何だろうが、夫婦になったのだから貴方がシッカリと守るべきなのです!
だからどうか自分の言葉で話し合って下さい!
今から行きますよ!)
(え?!)
(お、おい!)
ハッとしたアトスタニアが手を伸ばしたが、次の瞬間にはレオナードの姿ごとノアシェランは掻き消えていた。
少しの間唖然としていたアトスタニアだったが。
「う…、ウィンスを叩き起こせーー!!!」
血相を変えたリブロが隣室に飛び込んだ頃、レオナードとノアシェランは薄暗い一室に飛び込んでいた。
(彼女が貴方の奥様ですか?)
(え?!)
椅子に座って膝を抱えていた銀髪の少女が、ノアシェランの思念にハッと驚いて顔を挙げた瞬間。
「何者です!」
「キヤァァ!何ですかこれは?!」
バン!と、隣りの部屋のドアが勢い良く開いて、着飾った女性達が一気に雪崩れ込む。
(貴方がレオナード陛下の奥様ですか?)
ノアシェランは彼女達が何を叫んでいるのかは分からなかったけれど、呆然と黒円を見上げている少女に思念を送った。
彼女はビクリと身体を竦ませたけれど、ぎこちなく頷いた姿を見て、ノアシェランは彼女も窓の中に連れ込んで場所を移動させる。
(此処なら誰もいません。
だからお二人でシッカリと話し合って下さい。
私は外に出てますから。よいしょ…と。)
ノアシェランが飛んだ先は城の屋根の上。
丁度平たい場所を見つけて窓の高さを調整すると、外に出て行くノアシェランはふらつきながらも落ちることも無くチョコンと座り込んだ。
(は?!)
あまりに早い展開に頭が追いつか無かったレオナードは、窓の外に出て屋根の上に座っているノアシェランの姿を呆然と見つめていた。
(ノアシェラン!どこだ?!何処に居る!)
(教えません。)
(この大馬鹿者!
レオナードを何処に連れて行った!)
(奥様とお二人でお話をしています。)
(ばっ…、今すぐ引き離せ!
レオナードが死ぬぞ!)
(ウチのお父様はそんなに怨みを買ってらっしゃるのですか?
だとしたら余計に謝って許して貰わないといけませんね。)
どこかピントが外れた会話を交わしているノアシェランとデュオニュソスの思念に気を取られていたレオナードは、ドンと体当たりして来た衝撃に冷や汗を吹き出して、反射的に突き放そうとした。
そして折れそうなほどに細い肩の感触を感じて、ハッと抱きついて来た彼女を見下ろす。
てっきり刺されたと思って焦ったのだが、見下ろした先にあったのは不安気に揺れている灰色の瞳だった。
その姿には違和感しか感じない。
レオナードが知っている彼女はいつも、厚い化粧をして大量の宝石で不釣り合いな程に着飾り。
一切の表情を消し去った人形の様な冷たい女性だった筈なのだから。
国の行事で顔を合わせる事はあっても、彼女とはいつも視線が合わず。
だから今目の前に立っている化粧1つせず。
飾り気のない服を着ている女性が誰なのか、本当にレオナードは分からなかったのだ。
レオナードは翡翠の瞳を大きく見開く。
そして3年ぶりに触れた彼女の肩の細さに、思わず呼吸が止まった。
彼女はレオナードを見上げて口をパクパクと震わせていたけれど、声が出せないのか。
そのまま諦めて悲しそうに俯く。
レオナードに向かって伸ばしていた腕も、それに従ってパタリと下に落ちた。
その時になって初めてレオナードは、彼女が自分に抱き付いて来た事をようやく理解が出来たのだ。
レオナードも口をパクパクと振るわせると、悩んだ末に声を絞り出す。
「私を…殺さなくて良かったのかな?
さっきは、かなり…油断してたんだけど。」
それに対して彼女はフルフルと頭を横に振ってから、自分の喉に両手を伸ばし。
「あ…なたは…わたしの…ひかり。」
拙いペルセウス語を途切れ途切れに絞り出した。
その瞬間レオナードは大きく目を見開くと、折れそうな細い肩をぎこちなく引き寄せる。
信じられない思いが動揺となって、身体が小刻みに震え始めた。
そして彼女を3年ぶりに抱き締めた時。
昔はもう少し肉付きが良かったなと、途方に暮れた。
(だからそう言う問題では無いと何度言えば良い!その女は刺客だと言っただろう!!
レオナードが殺されるぞ!!!
今すぐ戻って来い!ノアシェラン!!!)
デュオニュソスの荒ぶる思念を聞いて、レオナードは暗闇の中で天を仰いで瞳をグッと閉じる。
(…ノアシェラン、頼みが有るんだ。
君もこっちに戻って良いから誰の声も届かない所に飛んでくれないか?)
動揺でまだ身体が震えていたが、思念はシッカリと彼女に届いた。
(分かりました。
私はまだこの国の言葉が分からないので、どうぞ実声で話をして下さい。
なるべく見ない様にしていますから。)
(レオナード?!)
(すまない、デュオニュソス。
少し離れるよ。)
(レオン!待て!レオ…)
次の瞬間にはレオナードが知らない音が響く静かな場所に移動していた。
(ノアシェラン、此処は?)
(海ですよ。
此処なら誰も居ませんし。
何をお話しても誰も聞いて居ません。)
(そう…ありがとう。)
気がつけば、リリスティアの細過ぎる両腕がシッカリとレオナードの背中に回されていた。
ただ無言のまま。
レオナードも何を言えば良いのか分からなくて、ただ3年の月日がもたらした違いに戸惑い続けて呆然とする。
5年前に初めて彼女と顔を合わせた時は、まだ彼女を人として見ていた様に思い出す。
魔力が少なくて念話が出来ず。
ペルセウス語を知らない彼女に、レオナードは皇国語で話しかけた事も有る。
あの時は美しい少女に、少年だったレオナードも興味を惹かれていたからだ。
けれどもいつの間にかその心の余裕は消え去っていた。
父親が死んで右も左も分からないまま王を継ぎ。不安がる家臣を前にして平然と見える様に、必死に不敵な仮面を被り続けて来た。
夜が憂鬱になったのは、彼女が行為を嫌がっているのが分かったから。
暗闇の中でも彼女はいつも硬直して、声を殺して泣くのが分かった。
どれだけ優しく宥めたとしても、彼女は一向に変わらなかったのだ。
痛がって嫌なのに無理やり我慢をしている彼女との、そんな触れ合いが楽しい筈が無い。
段々と憂鬱が苦痛になって、だから息子のベルトラントが出来たと分かった時は心の底から安堵した。
彼女をこれ以上傷つけないで済むと思ったからだ。
それからはなるべく距離を置いた。
彼女がレオナードの死を望んでいると思っていたから。
何故そんな風に思う様になったのか。
好かれている自覚も無かった事も有るけれど。
レオナードの周りがそう思っていたからだ。
事実そうだったと思う。
でもそれは政務で忙しいレオナードに取って、都合が良かった。
わざわざ忙しい合間を縫って、楽しくも無い彼女の機嫌を伺う必要が無かったのだから。
だから最近は彼女の事を死神の様に思っていた。
何せ彼女はレオナードとの子供を産んでいる。
レオナードが死ねば、この国の国母になれる女なのだから。
将来は安泰で、彼女も嫌いな男に縛られる必要が無くなる…と。
「私は嫌われてたんじゃ無かったのかな?」
今の状況でこんな質問は何とも情けないとは思ったが、それだけ彼女が何時もと違うので困っている。
彼女はそれには何も答えなかったけれど、その代わりにギュッと抱き締める腕の力を強めた。
「気がつかなくてごめん…。
私は君にとって、とても非道い夫だった自覚が有るんだけど…」
自分でも何を言えば良いのか分からずに、単に思いつきで零したお愛想に対して、彼女は激しく頭を横に振った。
その時レオナードは彼女が自分の言葉を理解している事に驚く。
出逢った頃の彼女は、ペルセウス語を知らなかったからだ。
五年も居れば多少の言葉は覚えるものなのかも知れない。
けれども彼女はいつも皇国の者で周りを固めていた。
自分で覚えようと努力をしなければ、聞き取りだけだとしても習得は難しいだろう。
「私の言葉が分かるのかい?」
「わたしは…あなたの、つま…です。
すこしだけ、たりないかもしれません。
あなたがくれたほんを、なんどもよみました。
にわにきこえてくるこえも、がんばってききました。」
まだ流暢とは言い難い。
たどたどしい発音。
けれども彼女の努力を確かに感じて、レオナードの心が震えた。
「わたしはがんばります。
とてもがんばります。
なので今夜は私を可愛がって下さい。」
一カ所だけ不自然に流暢な言葉に、レオナードは針で突かれたかの様に顔を歪める。
それが彼女の元に通うのが憂鬱になった理由そのものだったからだ。
恐らく勤めを果たす為に覚えさせられたのだろう。
正妃の役目は決してそれだけでは無いと言うのに、彼女はたったそれだけを教育されてペルセウス王国に嫁いで来たのだ。
そして自分から行為を望む癖に、実際には真逆の反応を見せる彼女に昔のレオナードは大いに戸惑った。
ペルセウス王国の正妃としての教育を拒み、子供を産む事だけを望む彼女に失望して、いつの間にか嫌悪感を抱いたのだ。
「あなたはわたしのひかり…」
けれども今は少しだけ違った思いを感じて戸惑う。
昔は言えなかったペルセウスの言葉を、彼女が覚えたからだ。
レオナードが昔に送った一冊の絵本が、彼女にとって唯一の教本だったかの様に。
庭に聞こえる雑談で発音を覚えるなど、どれだけ困難だった事だろうか。
勉強をしない彼女に嫌みを込めて渡した、神話を描いた絵本のその一説を、彼女は確かに暗記して自分の言葉として話している。
戸惑いで固まっているレオナードの姿に、彼女の瞳が光を失って行く。
「わたしがわるい。
あれをつくったから、あなたはおこった。
あれをころせばいいですか?
でもなんどもころそうとした。
いつもメリーズにじゃまされる。
わたしはもうあなたに可愛がるもらえない。」
その暗く淀んだ瞳と語られた言葉に、レオナードの背中がゾクリと泡立つ。
急に恐ろしいものを抱いている事に気づいて、思い切り力を込めて彼女を突き放した。
彼女には抵抗する力が無くて、ふわふわと後ろに漂って行く。
そして両手で顔を覆うと、声も無く泣き始めてしまった。
何故彼女がたった一人で、薄暗くした部屋の中で身嗜みも整えずに1人きりで居たのか。
何故彼女に従う者達が全て隣りの部屋に揃っていたのか。
朧気に感じていたその違和感を確かに掴んだ気がして、レオナードはグッと拳を握り締めると。
(リリスティア、答えろ!
君はベルトラントを殺そうとしたのか?!
何故だ!
ベルトラントは君にとって大事な息子じゃ無いか!)
ペルセウス語よりも伝わると思って念話を使った為、彼女は直ぐに理解して頭を横に振る。
(あんなもの要らない!
私には貴方が居れば良かったのに!
あんなものを産んだから、貴方は私に会いに来れなくなった!
私は聞いたもの!
あんなものが産まれたから、貴方はもう用済みになるって。
貴方が殺されるって!!
だからあれを早く殺さないとって何度も思ったけど、メリーズの支配が強くて私では近寄れなかったの!
ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!
貴方を苦しめてごめんなさい!)
そして赦しを求める様に、黒い床に跪くと頭を下げて大粒の涙をこぼす。
彼女は念話が使えない為に、それは思念だったけれど。
だからこそそれは彼女の本心そのものの叫びだ。
思念を送ることも出来なかった彼女に少し違和感を感じたが、それよりも送られて来た思念の内容がレオナードに衝撃を与えた。
(き…君は…母親だろう?!
何故なんだ?
ベルトラントは君にとって重要な存在な筈だろう?!)
レオナードには彼女の発言がとても理解出来ず、自分が産んだ子供を厭う彼女を猛烈に嫌悪する。
母親が我が子を物のように語り。
尚且つ男の為に殺そうと企むその神経も許せなかったが。
何よりも息子さえ居ればリリスティアの使命は果たされるのだ。
それが彼女にとってどれだけ有益な存在なのか、理解していない彼女が理解出来ず。
(はぁ…。仕方が無いですねー。
こういうのは他人が口を挟むものじゃ無いと思ったんですけど。
お父様がダメダメ過ぎて呆れてしまいます。)
だから幼い思念が呑気な口調でレオナードを批判した瞬間、反射的に彼の怒りがノアシェランに向く。
(何故我が駄目なのだ!
駄目なのは守るべき我が子を虐げるリリスティアの方では無いか!)
(それは全てお父様が悪かったからですよ。)
(ノアシェラン!
オマエは政治のことなど何も知らぬだろう!
我は間違ってなど無い!
仕方が無かったのだ!!!)
(それがお父様の言い訳ですか?)
(言い訳などでは無い!
事実だ!!!)
レオナードは暗闇の中に浮かんでいるノアシェランに、拳を握り締めて力説する。
(それは確かに事実かも知れません。
でもね?
それは私からすれば1人のか弱い女の子を虐げて追い詰める、ただの言い訳でしか無いんですよ。
これもまたれっきとした事実です。
ちゃんと耳の穴をかっぽじって聞いて下さい。)
(何をっ…!)
ノアシェランはまだ反論しようとするレオナードの目の前で、リリスティアの所に飛んで行く。
(お母様。初めまして、私はノアシェランと申します。
随分とお辛い思いをなされましたね。
お父様がダメダメ過ぎて、本当に申し訳無かったです。)
すると泣きじゃくっていたリリスティアが、キッと瞳を鋭くしてノアシェランを睨み付けると。
(レオナード様は立派なお方です。
神々が遣わされた妖精だか知りませんが、陛下を侮辱する事は赦しません!)
バッと片手を真横に開けて鋭く批判した。
(お母様は恋をしてらっしゃるのですね?
でもあんな情けない男を庇う必要なんて有りませんよ?)
(レオナード様は情けなくなんか有りません!
お父上が亡くなられた後もご立派に国を治めておられました!
何も知らない貴方が彼の事を批判しないで下さい!)
(そうですか?
私にはとてもそうは思えませんよ。
子供が大人に重い役目を押し付けられて、必死にもがいていたのでは無いかと、そう思ってるんです。
お父様はまだまだお子様ですからねー。)
(な…何を無礼な!
陛下は子供では有りません!)
(お子様ですよ。
私の世界では19歳はまだ大人の庇護下にあって当然のお子様です。
この世界はとても酷いですよねー?
まだまだ遊びたい盛りのお子様に、家庭や国なんて重荷を背をわせるのですから。)
(それは…貴方のお国ならそうかも知れませんが…この国では15歳で成人なのです!)
(そうらしいですねー。
でもそんな無理をしているから、この世界の人達は寿命が短くなっているんじゃないですか?
他にも理由は有るのかも知れませんが、成長期と言うものが人の身体には有るのです。
子供が大人になる為の大切な時間ですよ。
10歳頃から始まって、大体身体の成長が終わってホルモンのバランスが整うのが18歳頃です。
精神的に大人になるのが二十歳頃だとして、我が国では二十歳が成人として認められる年齢なのです。)
(…で…ですからそれは…)
(この世界には無い知識のお話です。
少し難しくてすみませんね。)
(…いえ…)
(でもそんなお子様のお父様も、そろそろ大人になる頃です。
だからお母様と出逢った頃と比べて精神的に落ち着いて来ている事を、自覚しているかも知れませんね。
まぁ…男の人は40歳を過ぎても子供っぽい人が居るので、個人差も有るでしょうけど。)
ノアシェランは静かに話を聞いているレオナードを一度チラリと見てから、再びリリスティアに視線を向ける。
(まぁ、何を言いたいかと言えば。
私の世界で13歳や14歳の頃は、身体の成長期真っ只中と言う訳です。
大人になる為に身体が準備を始める大切な時期に、妊娠するだなんて狂気の沙汰ですよ。)
(でも私の場合は国の事情で仕方が無くて…)
(そうです。
無知な大人の事情のせいで、お母様の身体はとても酷い仕打ちに遭わされてしまったのです。
そのせいで心が壊れてしまっても、何も不思議では有りませんよね。
何せその年代での妊娠は命を縮めるとして、私の国では固く禁止されているのですから。)
(…わ、私は壊れてなど居ません!)
(壊れていますよ?
自覚してないだけです。
けれどもそれも仕方が無い事なんです。
それだけ妊娠と言うものは、心と身体に大きな負担を与えるものですから。)
(だ…だから我が悪いと言うのかノアシェラン?!)
(そうですよ。
子供だったお母様を妊娠させたのはお父様でしょう?
お母様の心と身体を酷く傷つけて、滅茶苦茶に壊してしまったのはお父様なんですもの。
それが例え無知で愚かな大人から押し付けられた事情だったとしても、それが事実なんです。)
((…………))
リリスティアはオロオロとしながら、厳しい顔をしているレオナードの様子を窺う。
(だが我にはどうする事も出来なかった…)
(まぁ、それは一つ横に置いておきましょうか。
お父様が最低で最悪だったのはコレからナンです。)
(は?)
(良いですか?
妊娠中はとてもホルモンのバランスが崩れると言います。
ホルモンとは身体を動かすのに必要な、自分の身体の中で作られる物質なんですけれど。
簡単に説明すれば、ホルモンが正常な働きをしていれば精神的にも落ち着いているのですが。
人は興奮すると怒ったり悲しんだりしますよね?
これもホルモンの働きと言われています。
興奮した時に興奮作用の有るホルモンが過剰に体内に分泌されると、人は落ち着きを無くして怒ったり悲しんだりするのです。
思春期と言われる10歳から18歳までは、そのホルモンのバランスが崩れてしまい。
やけに興奮したり、情緒が不安定で不安になる事も多いとされています。
妊娠中も同じようにホルモンのバランスが崩れるので、二十歳を越えて大人になっているのに、何にも無いのに悲しくなったり。
腹が立ったりと、イライラする事が良く有るんです。
そしてお母様はこの思春期の時に、更に妊娠を重ねてしまったんですよ。
これはいけません。
どれだけお母様は妊娠中の時に不安だった事でしょう。
ですからそんな時こそ、心の支えになるお父様が親身になって話を聞いてあげたり、心を慰めてあげる必要が有ったんです。
で、そう言う援助をお父様はちゃんとお母様にしてあげたんですか?)
(だからその頃は!)
(してないんですね?
そしてお母様の周りには、そんな不安な心を支えてくれる人が一人も居なかった!)
(そんな筈は無い!
リリスティアの周囲は祖国の者で囲んでいたんだぞ!)
(ではお母様に聞いてみましょう。
お母様についてこの国に来た人達は、ちゃんとお母様の心を慰めてくれましたか?)
(……………)
(言えませんか。
どれだけお母様は孤独だったのでしょうね?
彼女の周りに心を支えてくれた人が居る筈が無いのです。
妊娠をさせた癖に、仕事を理由にして会いに来ない身勝手なクズを、こんなに心の支えにしているんですよ?
祖国からついて来た人達の中に、お母様の心をちゃんと気遣って下さる人が居なかったからこそ、お母様は追い詰められて心が壊れてしまったのです。
だから!
だから我が子が愛せないんですよ!
分かりますか?
自分の身体を壊して痛みに耐えながら、命を懸けてまで産んだ、愛おしい人との子供が愛せない母親の悲しさが!
当たり前に愛せる存在ですら愛せないほど、お母様は追い詰められているんです!
それは果たして誰が悪いのですか?
国ですか?
それとも政治ですか?
違いますよ。
周囲の者に言われるまま、子供だったお母様を妊娠させたお父様。貴方なんですよ!
そして大人の都合で子供達を利用した、身勝手な大人達なんです!
寄ってたかってお母様の周りの人達が、彼女のことを微塵も考えずに自分達の都合で振り回したから、お母様はこんなにもボロボロなんです!
見て下さいよ、今の彼女の姿を!
17歳なんて人生で一番輝いて溌剌としている時なんですよ?
こんな青白い顔でやせ細って…こんなの殆ど病人と同じじゃ無いですか!
このままじゃ本当に死にますよ?
死なせるんですか?!
国のせいにして見てみぬ振りをするんですか。
政治で都合が悪いから放っておくんですか。
政略結婚だから子供を産んだら、彼女は死のうがどうでも良いんですか。
お父様、どうぞお答え下さい!
私の考え方を聞いてもまだ、私が何も知らない無知だからと馬鹿にするおつもりですか?!
それとも仕方が無いで全てを済ませるのですか!)
ノアシェランの身体から魔力が圧力となって噴き出す。
それを一身に浴びたレオナードは、歯を食いしばって両足を踏みしめた。
しばらくはノアシェランと睨み合っていたレオナードだったが、彼女の瞳はとても強く。
けれども怒りに燃え盛っている彼女の顔は、とても美しく見えた。
それからレオナードはチラリとノアシェランの背後に居るリリスティアへと視線を向ける。
そして記憶の中に居る彼女と今の姿とのギャップに、とうとう固く瞳を閉じて小さく唸る。
彼女の身体に触れたのは3年前とは言っても、春の行事では隣りに立つほど近くに居た筈だった。
けれどもまだ半年しか経ってないとは思えない程、彼女の姿がやつれて見える意味に、ようやく気が付く。
彼女の周囲に居る者達が、分厚い化粧や鎧の様に派手な衣装や宝石を使って、彼女の本当の姿を偽らせていたのだと。
そして彼女の周りには何時も彼女の国の者達がいた。
だから彼女は視線一つ合わせずに、いつも人形の様な固い表情をしていたのか、と。
死を呼ぶ刺客だと恐れていた彼女が、本当は哀れな程か弱い女性だった事にようやく気づいて、レオナードの心が動揺に激しく震える。
何故ならレオナードにとってそれでは都合が悪かったからだ。
彼女が守らなければならない存在になってしまえば、それだけ彼女に近づかなければならない。
それは現状ではとても負担が大きかった。
支えるべき主で有る筈の彼女を支えもせずに、薄暗い部屋に閉じ込めている彼女の侍女や護衛達は、皇国から送り込まれた刺客の危険性が高い事を現しているのだから。
彼女の部屋に通えば、それだけレオナードの身に危険が振り掛かって来るのは明白だった。
更に言えば彼女の仕業に見せかけて、殺される危険性も高い。
(…ノアシェランを馬鹿になんてしないよ。
でも難しい。
彼女をあの中から救い出すのは、とても難しい事なんだよ。
下手に触れるとこの国が危険に晒されてしまう。
戦争になれば真っ先に罪も無い国民が死ぬ事になるんだ。
それは王としてとても許せない選択なんだよ。)
(だから見捨てるのですね?)
(そうだよ。
私は立派でも優しくなんかも無い。
ただの背伸びをしている子供なんだから…)
レオナードは屈辱に顔を歪ませながら、それでも白旗を掲げてノアシェランに苦笑を浮かべる。
(ダメな人ですね?
自分の奥さんすら守れないだなんて。)
(ホントだよね。
私はとても弱くて小さいんだ。)
(全く、ガッカリですよ。
なんて腹黒い人なんでしょう。
悔しい癖にそんな素直に自分の非を認めて。
開き直るおつもりですか?)
(それしか今の所は手が無いからね。)
両手を挙げて肩を竦めてみせるレオナードは、普段通りの彼そのものになっている。
その姿を見たノアシェランは、大袈裟に小さな両肩を落として合わせた。
(仕方が無いお父様です。
でもそれでは困るんです。)
(何故ノアシェランが困るんだい?)
(それは私がお母様の子供だからですよ。
子供はどんなお母さんでも無条件で慕う生き物ですからね。)
暗く沈んだ顔をしていたリリスティアがノアシェランから優しい思念を感じて、ノロノロと表情が乏しくなった顔を持ち上げた。
(お母様。
私はお母様を絶対に見捨てたりなんかしません。
だからそんなに辛そうな顔をしないで下さい。
今まで1人で良く頑張りましたね。
これからは私がお母様を支えて差し上げます。
だからあんなクズを何時までも頼ってたらダメですよ?)
(ヒドいな、ノアシェラン。
お父様に対して言う言葉じゃ無いよね?)
(尊敬して欲しいのなら、ちゃんとお母様が幸せになれる方法を探して下さいよ。
コレって最低条件ですよ?
何しろ私にはお兄様も居るんですから。
親が幸せじゃ無い家の子供だなんて、最悪じゃ無いですか。)
(あれ?ノアシェランが妹なの?)
(そりゃ中身は私の方が年上ですけど。
この家に来たのは私が後ですからね。
だから私が妹で良いんですよ。)
(何だかそれって図々しいよね?)
(何ですか。
年寄りが無理やり若作りしているみたいに言わないで下さい。)
(だってエスクードが妖精になるみたいなもんだって、自分で言ってたじゃ無いか。)
(き、聞いてたんですか?
まぁ、良いんですよ。
私の肉体は若返ってますから、これは正当な権利です!
お母様はどっちが良いですか?
私が妹の方が良いですよね?)
いきなり抱き付いて来たノアシェランが、可愛らしく小首を傾げて戸惑うリリスティアの顔を覗き込んで来た。
(え?)
(嫌ですね?
ちゃんと私達のノリについて来て下さいよ。
お父様とはこれぐらいの調子で丁度良いんですから。)
(は、はぁ…)
(お母様って、とっても可愛らしい人ですね?
お父様って実は面食いですか?)
(めんくいってなんだい?)
(綺麗なお顔の異性が好きな人の事ですよ。)
(それは普通誰でもそうだと思うよ?)
(つまりお父様はお母様が美人さんだって事を認めているんですね?)
(そりゃあ私の妻なんだから当然だろう!)
胸を張ってドヤ顔をするレオナードの少年の様な無邪気さに、驚いたリリスティアはパチパチと瞬きを繰り返す。
(ほらお母様。
お父様って本当に子供みたいな人でしょう?
立派でも凛々しくも無いので騙されないで下さい。)
(え?)
(お母様も大変ですね。
こんなお父様をこれから支えてあげないといけないんですから。)
(え?…え???)
(今までずっとご苦労を重ねて来たお母様の方が、お父様よりもずっと精神的には大人になってると思いますよ。)
(ハハハハ。ノアシェラン。
その理屈で言えば私も割と苦労して来たんだよ?)
(周りの大人が頼り無いと、子供は大変ですよね?
ヒドい所ですね。
この国の大人達は何て情けないんでしょう。
でもそうですね。
先ずは向こうの大人達の言い分も聞いてあげなくてはいけません。
お母様、貴方が信用できる侍女さんがあの中におられますか?)
ノアシェランを見て、それからレオナードを不安そうな眼差しで見つめるリリスティアは、それでも沈んだ表情でフルフルと頭を横に振る。
(ではあの方達に会いに来ましょう。)
(いけません!
駄目です!うぅっ…!!)
それまで大人しかったのが打って変わって、リリスティアはノアシェランの肩を掴むと、パニックを起こしたかの様子で必死に思念を張り上げた。
(お母様、落ち着いて下さい。
私はお話をしに行くだけですから…)
(ダメです!ダメなのです!
あそこには…!)
ハクハクと、途中で声を失ったかの様に喉元を掻き毟る彼女の不自然さに、レオナードは訝しんで瞳を鋭く細めた。
思念は声を使わない。
けれども彼女はまるで喉に何かが詰まっているかの様に苦しんでいた。
皇国は食糧関連の環境の厳しい土地柄から、生まれ付き魔力の少ない者が多く生まれて来る傾向が有る。
リリスティアも王族には珍しく、魔力の少ないタイプの人間だったと、そうレオナードが思い至ると。
トンと、軽く地面を蹴って2人の側へと近寄って行った。
(リリスティア。
君を縛っている者があの中に居るんだね?)
(縛る?何のことですか?)
(魔力の抵抗力が低い者を、自分の意思に従わせる術が有るのさ。
どうやら彼女はあの中に行くと行動を操られる危険性が高いね。)
そしてうずくまっている彼女の近くまで腰を下ろして、優しく問い掛けながら彼女の反応に目を凝らす。
レオナードの質問に縋る様な視線を向けるリリスティアの姿に、彼はワザとキョトンとしているノアシェランに教えるフリをして、彼女にも自分の推測を聞かせてみた。
そして案の定。
肯定する事も無いが、否定もしなかった彼女にその推理が正しい事を確信する。
(分かったよ、リリスティア。
話せない事は話さなくて良い。
ノアシェラン。)
(はい?)
(ウィンスの所に行こう。
彼ならリリスティアの呪縛を解析出来るかも知れない。)
レオナードがそう指示を出すと、リリスティアは激しく頭を横に振って、レオナードにも手を伸ばす。
(…そう。それもダメなんだね。)
(一体何があるんです?)
伸ばして来たリリスティアの手がレオナードを掴む前に、その細い手を取った彼は彼女が伝えたい事を察して小さく頷く。
理由が分からないノアシェランは、レオナード達との温度差が激しく。
2人の真剣なやり取りに小首を傾げていた。
(向こうの侍女達の中に魔術師が居るんだ。
そしてソイツがリリスティアの行動を操る魔術か道具を使っている危険性が高いんだ。
つまり私達が向こうに行けば、彼女は自分の行動が操られるから嫌がっているんだよ。)
(あー、さっきから言っていたメリーズさんがそうなんですか?)
(グッ…)
(ノアシェラン、その手の質問を口に出しては駄目だよ。
術を掛けられている者は、犯人の正体をバラせ無い様に苦痛を与えられる事が多いからね。)
(あら、お母様。ごめんなさい。
苦しめるつもりは無かったんですよ?)
(全く…これだと手が無いぞ。
私は持っている魔力は高いが、ウィンス程の知識は持ってないんだ。
探っても反応する魔術なんかが相手だと恐ろしくて手が出せない。)
ノアシェランがワタワタと慌ててリリスティアの細い背中をヨシヨシとさする。
そしてレオナードはリリスティアの手を握り締めて、悔しそうに顔を歪めた。
(何だか良く分かりませんが、お母様に余計なものがついているんですね?)
(そうらしいな。
全く酷い国だよ皇国は。
遣えるべき姫ですら、人を害する武器へと変えて仕舞うんだから。)
(でおにそす様が焦っていたのはこの事だったんですか。
つまりメリーズさんから離れてなければ、お母様は操られてお父様を殺していたかも知れないて事なんですね?
…て、それは幾ら何でも短絡的に過ぎやしませんか?
殺人計画はもっと正体がバレないようにするもんでしょう?
王様を殺すのってそんなに軽い罪なんですか?)
カルチャーショク第2段に、ノアシェランは呆れながら口を開ける。
(まさか。
普通なら重罪に当たる罪の一つだね。
でも彼女はこの国の王太子の母であって、正妃なのさ。
だからそれだけの重罪を犯した所で、直ぐには処刑されない。
その空白の時間を向こうは狙って利用しようとしているんだよ。
王太子がベルトラントしか居ない以上、次の政権は彼に移つされる。
残されたデュオニュソス達ですらその順位を覆す事は出来ない。
そこを皇国が力で捻伏せる為に、今ベルトラントの身柄は彼等に拘束されているんだ。)
(何だか良く分かりませんけど、クソ意地の悪い企みも有ったもんですね。
罪になりにくいから、大好きなお父様をお母様の手に掛けさせようとするだなんて。
それでお母様は自分が産んだ子供を愛せないんですね?
その子が居なければ国を奪う手段にならない。
お父様を殺す理由が無かったと。
そんなの受け入れられなくて当たり前じゃ無いですか!
誰だって自分が好きな人を殺すなんて嫌でしょう!
私、猛烈に頭に来ました!
喧嘩がしたいなら正々堂々とやれば良いんです!
それをこんなに若い娘さんや、子供を使おうとするだなんて絶対に赦せません!
それがこの世界のルールだとしても、断固として受け入れてやるもんですか!!)
ノアシェランが怒髪天をつく勢いで魔力を外に暴発させた。
(ノアシェラン?!)
(赦せません!絶対に赦しません!
今すぐお母様の中から必要の無い。
要らない物は出て行って下さい!!!)
レオナードは思わずその荒ぶる勢いから、リリスティアの身体を抱き寄せて守ろうと掻き抱く。
「きゃあ!」
するとパリンと何かが砕ける音が響いて、リリスティアがその衝撃に小さな悲鳴を挙げる。
ハッとしたレオナードは、リリスティアの手首を唯一飾っていた腕輪が砕けた事を知って目を見開く。
ノアシェランから立ち上っている壮大な魔力が、怯えているリリスティアの目にも、呆然としているレオナードの目にもはっきりと映っていた。
そしてその魔力はリリスティアから剥ぎ取った腕輪を包んで、しばらく暗闇の空間に漂っていたのだが。
(こんなものはポイです!)
ノアシェランが叫ぶや否や。
ヒュン!と猛スピードで窓の外に捨てられてしまった。
(ここは私が要らないと思ったものを捨ててくれる便利な機能が有るんですよ。
お母様、どうですか?
まだ変な物は残ってませんか?)
ドヤ顔で何時もの雰囲気に戻った彼女に、リリスティアやレオナードは呆気に取られて呆然としていたのだが。
(ノ…ノアシェラン!
捨ててはマズい!
早くアレを戻してくれ!!!)
ハッとして焦るレオナードに、今度はノアシェランが眉間にシワを寄せる。
(何故ですか?
あれはお母様を操る悪いものでしょう?)
(だからだ!
アレを捨ててはダメだノアシェラン!
あれは罪を暴く証拠になるやも知れぬ!)
国王の顔で激高するレオナードに、ノアシェランは泡を食って慌てて願う。
(さっきの!さっきのポイしたのを戻して!)
けれどもザバァ!と、水音が響いた途端。
窓から入って来たのは、300キロの鮪サイズの化け物だった。
「「「 ?! 」」」
鋭い牙の生えている大きな口が迫って来る事に、3人が驚いて硬直する。
(クッ…)
(いぎやぁぁぁぁーーー!!!!)
その迫り来る命の危機にレオナードが腰に差した剣を抜こうと思った瞬間。
ノアシェランの激しい悲鳴の思念と共に、大きな化け物が真横にドーン!と、吹き飛んで行く。
そして遙か彼方向こうの黒い場所で、ピチピチとのた打っている化け物の小さな姿に、3人共が唖然として見つめるのだった。
因みにレオナードが帯剣しているのは狭い宮殿で使う通常よりも短い剣だった為、例え抜くのが間に合っていた所で3人共丸飲みされていただろう。
それ以前にリリスティアと寄り添っていた為に、その剣すら抜けない態勢だったのだが。
(この大馬鹿者が!!!!)
窓の外に出した魚擬きの魔物に、宮廷魔導師達が張り切ってまとわりついている光景が見える中。
ノアシェランはデュオニュソスに特大の雷を落とされる間、黒い床に額を擦り付けて土下座をしていた。
(わ、わたしが悪ぅ御座いました。)
(オマエの頭は飾りか?!
それとも腐っているのか?!
一体どれだけ私が勝手に行動するなと行けば覚えるんだ!)
(いえ、BLは趣味では無いので腐っては居ないかと…。)
(あぁん?!)
(ひぅ!
えぇ、もう、それは何度も何度もお聞きしているのですが、どうしても私。
今回ばかりはどうしても受け入れるのが難しい事情が有りまして…)
(喧しいわ!!!
四の五の言い訳をせずにちゃんと聞け!!!
何かが起こって後悔してからでは遅いのだぞ!
何故先に危険を考えぬ!
何故たった1人で行動に移す!
例え譲れぬ事情が有ったとして、何故それを我々に相談もせずに勝手に動く!
挙げ句にこれか!
魔物をこの中に呼び込むなど、一体オマエは何を考えているんだ!
下手をすればオマエだけで無く。
レオナードも妃殿下も亡くなられていたのだぞ!!!)
(すみませしええぇぇぇんんんん!)
(貴様の謝罪は聞き飽きたわ!!!!)
(ひぃぅ!本当にごめんなさいぃぃ!!!)
(謝罪するぐらいならちゃんと学習をしろ!
この大馬鹿者めが!!!)
(ひゃいぃぃ!!!)
デュオニュソスに叱られて、ボールの様に小さくなってひたすら謝罪を繰り返しているノアシェランを、レオナード、リリスティア、アトスタニア、エマルジョンの4人達は苦笑を浮かべながら見つめていた。
因みに少し前までこの空間に居たウィンスは、今は外の仮研究室で張り切って魔物を解体している。
水生の魔物だったらしく。
ここに到着した時はもう虫の息だったのだが、城の安全を考えてアトスタニアとデュオニュソスとウィンスの3人が、此処で魔物を討伐したのだ。
死にかけていたのだが鱗が固く。
しかも鋭い鱗を飛ばして攻撃して来るので、トドメを刺すまで割と大変だった。
(ありましたー!目的の腕輪の残骸が。
でもまぁよく無事に外せましたねぇ。
こういうのって普通は外から力付くで外すと、つけられている者と纏めて吹き飛ぶ危険性が有るので危なかったですよ?)
(ノアシェラーーーン!!!!)
(すすすみませぇぇぇーーーーんんん!!!)
そして外からノホホンとしたウィンスからの報告を聞いて、追加でデュオニュソスの雷が落ちた。
無事だから良かったものの、彼女がやらかした事は危険が大き過ぎて見逃せない。
むしろ人がコントロール出来ない大いなる力など、危険でしか無い。
だから感情で無闇に力を振るわぬ様に、教育が必要なのだ。
ノアシェランもこの世界の常識と自分の常識がズレているのは承知している。
だからこの世界のルールを知ろうと考えたし。
今はひたすら下手に出て謝罪しているのだ。
此処で自分ルールをひけらかしてふんぞり返った所で、敵認定される事をノアシェランはちゃんと理解している。
そして彼女にそんな知性が有ると理解しているからこそ、デュオニュソスは怒り狂っているのだ。
本当に心配していたので腹が立っている面も有るのだが、半分以上が周囲へのパフォーマンスで有る。
(良いかノアシェラン。
力が有るからと言って思うがまま振るってはならん!
お前の力は神から与えられた物やも知れぬが、そなたが人で有りたいのなら、人のルールの中で動ける様にちゃんと学べ。
そうでなければオマエは人を害する者として、人と共には生活しては行けぬ。
それは決してオマエの本意では無かろう。)
(…はい。ご迷惑とご心配をお掛けして、本当にすみませんでした。
ちゃんと反省致します。)
だから何時まで怒っても時間の無駄だと分かっているデュオニュソスは、こじんまりして居る彼女の姿に、溜め息をこぼしながら纏めに入った。
この叫びとノアシェランの思念は城中に飛び交っているので、パニック状態だった城の者達も胸をなで下ろすだろう。
まさかの国王夫妻誘拐事件に、肝を冷やした者は多い。
ノアシェランが危険だと認識されるのは、レオナード達も都合が悪かったのだ。
本音では新たな情報の獲得と、彼女の能力の都合良さに心が躍っている部分も多かった。
今まで問題視されていても触れられずにいた正妃一行に、彼女のお陰で切り込める転機が訪れたのだ。
これを喜ばないレオナードの腹心達は1人も居なかった。
(まぁまぁ、デュオニュソス。
彼女も深く反省している事だ、その辺で許せ。)
満を持したと言わんばかりに国王ぶりっ子をしたレオナードが、周囲も聞き取れる念話でデュオニュソスを宥める。
(陛下は甘い。
これを簡単に許せば国が滅ぶぞ。)
(でも今回ばかりはノアシェランの考え方が正しかったのだ。
神々が彼女に元の世界の記憶を残した理由は、恐らくそこに有るのだろう。
我は今までずっとリリスティアに命を狙われていると誤解していた。
その誤解が解ける切欠を与えてくれたのは、紛れも無くノアシェランなのだ。)
(しかし危うく命を落とされる所だったのですぞ。)
(だが今まで敵国の姫だった彼女が、自分の息子で有るベルトラントを害してまで、我を守ろうとしていたとは。
夢にも思って無かったのは事実だ。)
(確かにその話は耳を疑います。
王太子の存在は自らの保身を思えば、王妃殿下には欠かせぬ者でしょうに。)
(うむ。我もその様に考えて無用な警戒を抱いていた。
我が子を害すると企む母は居らぬと思い込んでおったのも有るが、王太子が居れば安泰で有る立場を、捨てようなどと考えるとは夢にも思っておらなんだからな。)
(ですがそれは陛下の関心を買う為の演技では有りませぬか?)
(それならばこの様にやつれた姿をして、自国の者達から隔離される様にして、寝室に1人では居るまい。
私は3年もの長きに渡って彼女を避け続けておったのだからな。)
(確かにいつ訪れるやも知れぬ陛下を謀る為に、その様な真似は為さらないでしょう。)
(うむ。真実リリスティアの腕には人の行動を制限する隷属の腕輪を嵌められて居ったわ。
本来であれば王族にこの様な真似は許される事では無いが、リリスティアが我を思って我が子を害そうと行動を起こしたからこそ、侍女達に着けられたのだろう。
自害するのを阻止せんが為の腕輪でも有ったのやも知れぬがな。)
(その話が誠で有れば、私達はどれほど正妃殿下を無用に苦しめて来たのでしょうか。
心の痛む話です。)
これはリリスティアのイメージを回復する小芝居でも有るし、皇国の侍女や護衛達に向けた宣戦布告でも有る。
隷属の腕輪を主に使用するのは、処刑されて然るべき重罪だからだ。
それを敢えて罪では無く。
忠誠心から行った美徳として周囲の者達に伝えている。
だがこれから行う事を正当化させる手順でも有った。
まずは一手。
レオナードは文字通り神の力を借りて、アンタッチャブルだった部分に手をつける事にしたのだ。
(うむ。
皇国の者達も苦渋の選択だったのやも知れぬが、このままではリリスティアの命が危うい。
その為にこれからあの者達と話し合いの場を儲けようと思っておる。)
(それは危険では?)
(危険が無いとは言えぬが、そう言う思いが今回の悲しき誤解を生んだのだ。
敵国だからと、和平によって我が国に訪れた者を無闇に疑っては成らぬ。)
(御意。
陛下の御身は必ず我らが御守り致します。)
目的は王太子の奪還。
つまり話し合いと言う名の武力制圧だった。
登場人物
レオナード・フォン・ペルセウス
ペルセウス王国の国王
ディオニュソス・ダルフォント 国王の侍従 ダルフォント男爵 ダルフォント公爵家直系の嫡男。
アトスタニア・レガフォート
近衛騎士団長 レガフォート子爵
ウィンス・ベッケンヘルン
宮廷魔導師長官 ベッケンヘルン伯爵
ノアシェラン・ペルセウス
主人公
リリスティア・ベルモット・ペルセウス
ペルセウス王国の正妃 ルクテンブルフ皇国第43女
ベルトラント・レスターナ・ペルセウス
ペルセウス王国の皇太子 ペルセウス第一王子
リブロ・スゥェード 国王付き執事長
スゥェード準男爵
エマルジョン・バーゲンヘイム ハーゲンヘイム伯爵夫人。
レオナードの元乳母。 国王付き侍女長
エクスタード・ボルカノン
ペルセウス王国の宰相
マーヴェラス・ダルフォント
ダルフォント公爵夫人 デュオニュソスの祖母
カタリナ・ダルフォント
ダルフォント伯爵夫人 デュオニュソスの母親
メルトスダル・ダルフォント デュオニュソスの弟
コリンナ・ダルフォント デュオニュソスの妹
ダンバル・デュッセルドルフ
デュッセルドルフ男爵
教育の父の称号を持つ魔導師兼錬金術師
ニコラス・シャトルブルグ
シャトルブルグ侯爵家次男
ペルセウス学園の学園長
サルバドス・ダルフォント
ダルフォント伯爵 デュオニュソスの実父
グランレスタート・ダルフォント
ダルフォント公爵 サルバドスの父 デュオニュソスの祖父
元ペルセウス王子
ルルベウス・ナーゲルン
ナーゲルン男爵
ノアシェランの養父
マイヤーズ・アプリコット
アプリコット伯爵
ノアシェランの養父の1人
ランバルダ・ガクトバイエルン
ガクトバイエルン侯爵
ノアシェランの養父の1人