窓の秘密
デュオニュソスは魔法使いになる運命が確定した様です。
ノアシェランは戦っていた。
握り締めている銀製のフォークには、瑞々しいレタスの様な葉物野菜が刺さっている。
敵は強大で食べれば食べる程恐ろしい力で猛威を振るって来た。
目蓋は陥落寸前だ。
つまりお腹がくちくなったノアシェランは眠くて仕方が無かった。
食事中に寝ながら食べている幼児の、正にあの状態である。
(姫様がお疲れの様です。)
落としそうで落とさない。
こぼしそうで零さない。
そんなギリギリの戦いを始めたノアシェランを、微笑ましく見つめてエマルジョンが休憩を求める。
(い、いえ!私はまだ全然平気です!)
夜中に訪問して、場を荒らすだけ荒らして昼寝をする。
そんな我が儘が許されるとは、流石に状況の見えないノアシェランにも察するものがあった。
ブラックが基本の男達は全員がその健気な意思を聞いてホッとしたが、言った側からフォークが傾いてノアシェランの首がガクンと仰け反った姿に、エマルジョンが重ねて申告する。
(慣れない魔力を暴走させている状態の姫様に、これ以上のご無理を強いるのは如何かと。)
((((むぅぅ…))))
魔力の消耗は体力の消耗を意味している。
尽きれば意識が自然とシャットアウトするが、それを無理して使っていると、今度は生命力を消費するのだ。
生命力を使い切れば、生物は生きて居られないので死亡する。
禁術での死亡理由第一位の原因だった。
でもこの場合は少し違っている。
思念が漏れる範囲を思えば、確かにノアシェランは大量の魔力を消耗しているが。
単にお腹がいっぱいで眠いだけだった。
本来なら暇で夜は早く寝ていたノアシェランだったが、あの時は悩んで悩んで時間を浪費してしまい。
途中で寝て、ハッとして起きたせいで思っていたよりも遅い時間での訪問となった。
この世界にも時計はあるが、文字が読めない現状でそれを仕入れるのも何だったし。
早い時間で有れば、レオナードが一人で居ることも無かっただろうから、どの道遅い時間での訪問となっていただろう。
ちなみにエマルジョンを除いた全ての男性側は、ノアシェランのせいで3日ぐらい数時間の仮眠しか取れていない状態となっている。
普段から睡眠時間の短縮をしている猛者たちも、流石にこの緊張感の中で熟睡するのは難しかった。
つまりノアシェラン以上に眠たい状況なのだが、興奮し過ぎて爛々と冴え渡っている矛盾。
遠足を翌日に控えた子供の状態となっている。
(ノアシェラン。まだ寝るな。
せめて食した果実を出してから寝ろ。)
(ふ、ふぁい!
大丈夫です!
私は全然眠くなんて有りません…よ…。)
ムシャムシャとレタスを頬張って、デュオニュソスに元気アピールをした彼女だったが、思念の途中で瞳が閉じてしまっていた。
(限界です。ご休憩を。)
(しかしなぁ…)
(流石に口にした物は早めに見分した方が宜しいかと。
他にも色々お見せ頂きたい物やお聞かせ願いたいお話が有りますし。)
(可愛いなぁ…)
好奇心の未練が断ち切れ無いレオナードとウィンスの渋い思念に、眠気と奮闘しているノアシェランの愛らしさをアトスタニアが素直に見入っている感想が混ざった。
(ふぁ!
寝てません。私は…まだ寝てませ…ん…よ。)
目を開けずにフォークを握り締めて、口だけモゴモゴと動かしてピタリと止まる。
そして弛緩した唇がうっすらと開くのを見て、デュオニュソスがハァ…と、ため息を零した。
その瞬間、フォークがカタンと床に落ち、ノアシェランの姿が消失して全員が驚く。
(ノアシェラン?!)
(だから言ったのです!
姫様、聞こえますか?姫様。
返事を為さって下さいませ!)
代わりに残った黒い穴を見て、叫ぶデュオニュソスに負けじとエマルジョンが思念を張り上げた。
(だ、だいじょ…)
(お休みを為さるのなら外でお願い致します。
早く出て来て下さいませ。)
(得たいの知れない能力の中で寝るんじゃない!
起きろ馬鹿者!)
エマルジョンとデュオニュソスの必死の呼び掛けに、ノアシェランの小さな手が穴からにょきっと出された。
それを掴んだデュオニュソスが、寝ているノアシェランを引きずり出す。
(間一髪だったな。)
(全く…)
スヤスヤと寝息を立てている彼女の姿に、デュオニュソスは疲労の滲んだ溜め息を零し。
同じくエマルジョンも疲れの滲んだ吐息で返す。
(あぁぁー!
寝てしまったのかぁぁ。)
(無理やり起こして、今度は出て来なくなっても困りますしねぇー)
両手で顔を覆って天を仰ぐレオナードと、同じく強制的なお預けにウィンスも悲しそうな顔をする。
(可愛いなぁ…)
ほのぼのとした思念がダダ漏れなアトスタニアだったが、同じ感想を抱いて居る者が多く部屋には存在していた。
(ううむ。
伝承に伝わる精霊や妖精は見目麗しい表現が多いですからな。
姫君も例に漏れず、愛される姿で我らの前に姿を現したのでしょう。)
つまり、宰相のこのボヤキは騙されるなよオマエ等、との忠告と可愛いのは当たり前と言う肯定の気持ちが入り乱れている。
可愛いものは可愛い。
それがか弱いモノが生き残るズルい術だとしても、ほっこりと和んで仕舞うのは仕様だった。
もう大口を開けて寝ているノアシェランには品位の欠片も見受けられないが、代わりに庇護欲をそそる愛嬌が生まれている。
触りたい。
撫でたい。
つつきたい。
猛威を振るう欲求に誘われた特に若い侍女達は、彼女に触れられるデュオニュソスとエマルジョンを羨ましく思いながら、ノアシェランを遠巻きに見つめていた。
騎士は逆に弛緩する緊張感を持続させるのに必死だった。
既婚者が多い近衛の精鋭は、子持ちの者も多い。
育児にはサッパリと参加していないが、だからこそ。
余計にその頃の我が子の姿を思い出して、今と比べて和んでしまうのだ。
ベテランなお陰で手を抜く機会は心得ているものの、彼女はただの愛らしい幼児では無い。
やはり緊張感を緩める事が出来ないので、渾身の気力を振り絞って、愛らしい姿を観察している。
若い上司がノアシェランを呑気に愛でいる姿に、軽く殺意を覚えるぐらい大変だった。
因みに今の近衛騎士団長はお飾りのトップと言う面が強く。
実質の運営は副団長が行っている。
それでも指示系統はアトスタニアが一番上になっているし、彼の家系が軍門なので実力の面で軽視されている訳では無い。
ただ体育会系な職種なので、仕事中に弛んでいるぞ若造!な、心境になるだけである。
部下が殆ど年上なのと、年下の上司に遣えるのはどちらにもストレスが溜まるものだろうが、アトスタニアの性格を思えば、貧乏くじを引いているのは部下達の方だろう。
これも先王が早く崩御したデメリットと言える。
レオナードの即位がもう少し遅ければ、名実共にアトスタニアがトップになっても何も問題が無かったのだから。
閑話休題。
血の涙を流して未練タラタラなレオナード達と別れたデュオニュソスは、ベビーカーの役目を果たしてノアシェランを寝室に送り届けた。
基本的なルールとして、まだ婚約者の立場では寝室に入るのは好ましく無いが、人の目が多く有る事とノアシェランの状況を慮ったエマルジョンが、融通を働かせてデュオニュソスの立ち入りを許し、彼がそのままベッドに彼女を寝かせる。
大人用とそうサイズが変わらない広いベッドを前に、それでも流石に足をつける事を躊躇ったデュオニュソスは、持ち前の筋力を駆使してなるべくベッドサイドに立ったまま中央にノアシェランを置く。
割と緊張を強いられる作業に、任務を終えた瞬間。
ホッと少しだけ気が緩んだのだろう。
食事の後に直ぐに寝てしまった彼女に、つい浄化魔法を掛けてしまった。
簡単な生活魔法の1つで、彼自身も幼い頃から使い慣れている。
虫歯予防の躾として学んだ身嗜みの習慣なのだが、ぶっちゃけ彼が施す必要は無い。
放って置いても後で侍女がやるだろう。
エマルジョンも当然使える。
トイレの時に大騒ぎしていたのは、魔法をまだ覚えてない彼女を気遣って、彼女の希望通りに1人でトイレが出来る様に対応をしたまでだ。
ともかく浄化魔法を掛けた時は、当然の習慣としての行為だったので深く考えておらず。
だからようやく身を起こそうとして、寝具に片手をついた時。
腰の負担が楽になったせいで、更に余計な事をした。
つるりとした丸い額と、こしのある真っ直ぐな髪の毛が反発して反り返っている違和感に、思わず撫でつけてしまったのだ。
すべすべとした。
産まれて間もない者特有の肌の、何と手触りが良いものか。
ついでに言えば真っ直ぐな黒髪も柔らかくて触り甲斐を裏切らない毛並みだった。
ハッと彼が我に返ったのは、役目を果たして身を起こし。
名残惜しい寝顔から視線を離して振り返った時だ。
(ありがとう存じます。
貴男は良い父君になられますね。)
昔は何時も無表情に近い鉄面皮が標準装備だったエマルジョンが、生暖かい視線を向けていた。
(起きたら知らせを出せ。失礼する!)
動揺してないフリも失敗した。
(はい。起きれば恐らくお分かりになられるかと思いますが、お言い付け通りに果たしましょう。)
軽く下げられた頭で彼女の顔は見えなくなったが、デュオニュソスは屈辱に唇を噛み締める。
何を言ってもやぶ蛇になりそうで、颯爽と部屋を出て行った。
何なら執務室を出た時より、歩みが早くなっている。
「さぁ!これから忙しくなりますよ。」
その逃げ出しっ振りを見送ったエマルジョンは、声を潜めながらも部下達に指示を出す。
夏が去り、随分と涼しくなった昨今。
後一月もすれば冬の訪れを体感する様になるだろう。
北の国と比べると温暖な地域とは言え、それでも冬は寒くなる。
今は何もかも足りない状態な為、今必要な衣類に比べて冬の衣類も準備しなければならないのだ。
まだ小さな体型なのが幸いだが、種類を思えばとても忙しい。
間に合わせで作られた衣類や靴には、全く刺繍が施されていないのだ。
それでもノアシェランの無垢な愛らしさが、飾りの乏しい服でも王女らしく見せていたが。
それを頼りにするのは違う。
侍女達を含めた針子の腕の見せ所に、全員の気合いが漲っている。
今の王室に女性の主は、正妃のリリスティアしか居なかった。
けれども彼女の身の回りは、皇国出身の侍女達で全てを固められている。
此処に居る彼女達は、半数がレオナード付きの侍女だった。
その為年の嵩んだ者も多く、若くても30を過ぎている。
既婚者も居るが、殆どが独身の職業婦人。
これはレオナードが王妃を慮ったと言うよりも、ペルセウスの血筋を庶子でも残そうと企む自国の臣下達への牽制を意図している。
そんな者が生まれてしまえば、レオナードの没後はクーデターの旗印にされてしまう。
皇国と自国の貴族との勢力で、国を二分する内紛の始まりだ。
戦争に勝てないと踏んだから、わざわざ皇国の王妃を迎えた意図が全て台無しになる。
例え上層部が入れ替わっても、穏便に政権交代が叶えば人民の暮らしはまだ救いがあった。
何故なら侵略に抵抗して敗戦した国は、8割の重税を強いられる。
これは生き延びる事も難しい重税で、殆ど国民に死ねと言っているのと同じ。
その為奴隷に落ちる者が多く、その末路は悲惨の一言に尽きる。
反逆したくとも、する術を全て奪われ。
戦争が起これば使い捨ての駒にされるのだ。
同じ滅亡であれば、穏やかな滅亡を選んだ結果。
リリスティアとの婚姻を、先王が指示した。
彼女が12歳で嫁ぐ羽目になったのは、レオナードの父。
先王のせめてもの抵抗であった。
レオナードとリリスティアの間で子供が産まれてしまえば、レオナードは不要な存在となる。
だから孫の誕生を少しでも遅らせる為に、当時14歳だったレオナードよりも年下の皇女を所望した。
それでも先王没後、レオナードはまだ13歳のリリスティアを懐妊させざる終えなくなったのだが。
レオナードの祖父。
先々代の国王の弟がデュオニュソスの祖父に当たる。
その為、レオナードの父とデュオニュソスの父は従兄弟同士であり。
デュオニュソスの祖母は皇国の現国王の妹だった事から、レオナードの父親である先代国王が没後。
デュオニュソスの父親との政権争いが起こりかけてしまった。
これをデュオニュソスの父親の努力とリリスティアの懐妊でようやく回避したのだ。
その時は酷いものだった。
デュオニュソスの父にはペルセウスの貴族から、レオナードには皇国からの暗殺者が放たれ、毎日が寝る暇も無く。
戦いの日々だった。
それでもデュオニュソスがレオナードの腹心であったのは、先代国王とデュオニュソスの父の友情と策略が成功した為だ。
リリスティアと子を成す意思が有るのなら、まぁレオナードを生かしておいてやろうと言った所だろう。
その際はリリスティアの実母の実家が頑張ってくれた。
治癒魔法が発達しているとは言え、子供の死亡率は高く。
王太子が無事に5歳を越えるまでは、リリスティアの実家が権力を握るのにレオナードの種が必要になる。
こうして首の皮一枚で命が繋がった状況が続いていたので、レオナードの寝室に入れる立場の侍女を全て、エマルジョンを筆頭に既婚者女性に変える必要が生まれてしまった。
でも成人男性の侍女の仕事は、そんなに多くは無い。
何故なら身の回りの世話は全て侍従と執事がこなして仕舞うのだから。
つまり長くはなったが、せっかくの腕が持ち腐れ状態の時期が続いていた彼女達の前に、何とも愛らしい獲物が…もとい。
主が与えられたと言う訳である。
(可愛いわぁ。)
(見て下さいまし。何て小さなおみ足でしょう。)
(片手にすっぽり入りますわね。)
(あぁ…、なんと愛らしい寝顔ですこと。)
(ホラホラあなた達、手早くしなければ姫様が起きてしまいますよ。)
コソコソ、ヒソヒソと巻き尺で手早く寸法を図りながら、鼻息も荒くノアシェランの寝込みを襲撃すると、とろけそうな表情でイソイソと離れ。
必要な品の手配やデザインの検討大会が控え室で始まった。
一方その頃デュオニュソスは。
(な、なんて危険なんだ…)
まだ半日程度しか経って居らず。
しかもあれほどキャッチフレーズを心で唱えていた彼だからこそ、右手の平を見つめて驚愕に震えていた。
弟や妹が居る彼は3人兄弟の長男だったが、今まで嫡男として厳しい躾られてきたせいで、下の兄弟と触れ合う時間が殆ど勉強に潰されてしまっていた。
つまりあの年頃の少女に全く免疫が無かったのだ。
因みにあの年頃で無くても童貞のデュオニュソスに、女性に対する免疫は皆無で有る。
女性と触れ合う勉強をする時期は、暗殺者との戦いの真っ最中だったので、寝室に女性を招く気になれなかった。
その悲惨に過ぎる青春時代で、レオナード達との友情はとても深まったものの。
反比例して女性が縁遠くなったのは、別に状況のせいだけでは無い。
何故ならアトスタニアは上手に遊んでいるのだから。
潔癖症の気の有る彼の性格も問題があったのかも知れない。
つまり可愛いものに対して免疫の無いデュオニュソスからすれば、ノアシェランは強敵と言わざる負えなかった。
(中身はババアだぞ!)
またその事実も彼を深く傷つけていた。
貴族の結婚は比較的早いが、デュオニュソスの祖母。
マーヴェラスが嫁いだのは14歳だった。
先々代の国王が隣国との抗争の牽制として、実弟に皇国から皇女を貰い受けたのだ。
その頃はまだ北の国の脅威は、隣国よりもマシだったのだが。
むしろ先を見越した現皇帝の先読み勝ちとも言えるし。
結果論とも言う。
とにかく現皇帝はデュオニュソスの祖父の義兄に当たる。
先々代国王の実弟であったデュオニュソスの祖父は、レオナードの父が産まれると王位継承権を放棄して公爵家に下がった。
順風満帆と思われたマーヴェラスに恐ろしい事件が起こったのはその頃だ。
何とデュオニュソスの父が僅か14歳で婚約者では無かった、当時侍女をしていた16歳の男爵令嬢を孕ませてしまったのだ。
擦った揉んだの末、結局父母は結婚までこぎ着けたのだが。
プライドの高い母親の締め付けへの反抗と言えば良くある話でも、そのしわ寄せが全てデュオニュソスの教育に注がれたのは迷惑の極みだった。
つまり三度の襲撃より婆嫌い。
祖母の顔を見るぐらいなら、暗殺者の方がマシだと思うぐらい、デュオニュソスは祖母が大嫌いなのだ。
因みに今のマーヴェラスは52歳なので、ノアシェランより7歳年上なのだが、22歳のデュオニュソスからすれば45歳はお婆さんの範疇だったりする。
あれほど得体の知れない物へ激しい嫌悪と敵愾心を抱いていたデュオニュソスは、まさか自分がこれほど簡単に心を開くとは夢にも思ってなかった。
しかも相手がお婆さん。
お婆さん。
お婆…。
(っっっっっーーーーーー!)
言葉にならない悲鳴を挙げたデュオニュソス。
今暗殺者が襲って来ても気がつかない内に、多分死ねる。
「何をやってんだ?お前。」
後宮をどうやって抜けたのか記憶に無かったが、呼び掛けても反応を示さないデュオニュソスを、彼の従者に頼まれたアトスタニアが着替えついでに捕獲しに行った時には、柱に向かって頭を押し付けた姿勢で機能を停止していた。
「おーい、デュオが立ったまま寝てたぞー。」
「この忙しい時に。
リブロ、宜しく。」
アトスタニアが放心状態のデュオニュソスを押して執務室にたどり着くと、リブロがソツなく彼を隣接している仮眠室に連れ去って行く。
「まぁ良いんじゃ無いですか?
それよりもこの書類にサインを下さい。
後宮の応接室近くに実験室を作りたいので。」
「それなー。
多分後宮の長官がブチ切れるヤツだろうけど。
まー、仕方が無いか。
ノアシェランを魔術研究棟へ連れて行くよりかはマシだろう。
はい、承認。」
「ありがとう御座います。」
レオナードは書類から視線を挙げずにどんどん運び込まれて来る問題に判断を下し、ウィンスは最大の効率を考えて準備を着々と進めている。
「あ、そうだ。
さっき鎧を脱ぐついでに副団長からコレを預かって来てたんだ。
緊急事態宣言の解除許可をくれってさ。」
「それは君の管轄だろう?
まぁ、いっか。
はい。承認。」
「おー、サンキュー。
これでやっと鎧からおさらばだぜ。」
「解除前に真っ先に脱いだヤツの台詞じゃ無いよね。」
「だってよー。
アレに鎧は必要ねーだろ。」
「まぁ着るだけ無駄なのは間違い無いけど、その内よそからわんさかとお客さんが来ると思うよ?」
「ソイツの対応は護衛の仕事だろう?
全員が備えるだけ無駄だな。
それよりは交代体制を整えるさ。」
「まあ長期戦になるだろうしね。
無難な判断かな。
で、次は…と。」
近衛の隊服にちゃっかり着替えているアトスタニアに、レオナードが苦笑を浮かべながら次の書類を手に取った。
脅威は去ったと周囲に知らしめなければ慶事にならない。
その為一旦は警備体制の厳戒を解除する必要は有るが、これから先のことを思えばつかの間の平和だろう。
皇国がノアシェランの存在を知れば喉から手が出る程欲しがるだろうし、それを重く見た他の2国の働きも軽視出来ない。
それでも慶事にしなければ、責任を取らされる者が出て来るので、減り張りは重要になる。
「うわー、外務大臣からもうノアシェランに面会依頼が来てるよ。
これはデュオ行きだな。
今後この手の書類は全部デュオに回してねー。
はい、次。
わぁ、これも凄いな。
ノアシェランの経費についても、もう書類が届いてる。
エマルジョンも張り切ってるなぁ。
コレは緊急経費として承認するけど、次からはちゃんと後宮長官と財務大臣を通す様に伝えておいてね。
はい、次。」
ウインスは既に受け取った書類を手にウキウキと執務室から姿を消している。
興味の有る事に関しては、実にフットワークの軽い男だ。
今日は通常業務に続いてノアシェラン関連の書類が怒涛の如く押し寄せて来ている。
レオナードは秘書役の侍従達に指示を出しながら、続々と書類を片付けて行く。
それにしてもエマルジョンも重要な管理職を二段階飛ばしで直接国王に書類をねじ込むとか、流石と言わざる負えない。
そんな離れ業をやって退ける彼女のツテも凄まじいが、本来なら責任者達から恨みを買う行為を全く気にしてない所が彼女らしかった。
後宮長官も財務大臣もこれには苦笑いだろう。
まあ着のみ着のまま訪れたノアシェランを思えば、金貨を持ち込んでくれた事も有るので、お目こぼしを貰えると計算しているに違いない。
事実そうなのだから彼女は有能なのだ。
それから午後の会議に向けてデュオニュソスを1時間後にたたき起こした。
「何やってんのさ。」
「……どうして俺は寝ていたんだ?」
「知らないよ。
立ったまま力尽きてたみたいだよ?
それよりも大臣達から面会依頼が来てたから、対応宜しく。
後午後の会議で絶対に聞かれると思うから、ノアシェランのお披露目の時期をどうするのか考えなくちゃ。」
精神的なショックが激しく、デュオニュソスは考える事を放棄した様だ。
早い話が目を背けて心の奥底に沈めて問題を見ない振りをした。
別名、意図的記憶喪失である。
考えて解決出来ない事をウダウダと考えるよりも、他に頭を使わないといけない事が山ほどあったからだ。
それだけお婆さんを抱いて寝室に運び。
頭を撫でてほっこりした自分が受け入れられなかった。
ノアシェランに対する嫌悪感を取り戻せて、少し気分が落ち着いたとも言う。
「それはまだ言葉の教育課程を見てからで良いだろう。
面会に関しても同じ理由でしばらくは遠ざけるからな。
せめて思念の漏れを何とかしなければ、何を話すか分かったものじゃ無い。」
「それだよね。
中身は大人だから意志の疎通が普通に出来ちゃうのが問題だよ。」
「それでも見た目は幼児だからな。
身体の年齢に合わせれば、早くても披露目や面会は2、3年後だ。」
「うわー、それまでガマンしてくれると思う?」
「出来ん所から客がわんさかとやって来そうだが、当分はその体でいく。
直に冬が訪れる。
最低でも半年はそれで通す。」
「分かった。その線で行こう。
家庭教師は誰にしようか。」
「ダンバル公は信が高いが流石に高齢だな。
基本は私とエマルジョンが相手をするとして、相談役に後一人は欲しいが…」
「リブロ、誰かいい人知らない?」
「そうですね。
それこそ午後の会議で議題に成されてみては如何かでしょう。
婚約者をデュオニュソス様に独断で決められた以上、姫君の周りを身内で堅め過ぎるのも良く有りません。
ダンバル公をお招きして、皆様で話し合うのが宜しいかと思われます。」
「それは…そうなんだろうけど…」
「嫌。リブロの言う通りだ。
ノアシェランの周りを全て身内で固めれば話は早いだろうが、多少の意見が対立しようとも、窓口は多い方が良いだろう。
そうでなければ余計な疑念を産み、ノアシェランに敵を作る羽目になる。
ただダンバル公がな…。」
「教師役に立候補した挙げ句、ポックリ行きそうで怖いんだよね。」
「ダンバル公だからな。」
ウーム…と難しい表情をする2人に、リブロは苦笑を浮かべる。
ダンバル公は先々々代から数えて歴代の国王全てに教育を勤めた正真正銘の老人だ。
御年128歳。
これはこの世界ではかなり珍しく。
平均寿命が50歳と言われる中で、この国でも驚異的な最長齢となる。
レオナードの教師をしている時で114歳と、見た目はかなりのヨボヨボで、転んだだけで命の危険を感じさせる老体だった。
それでも気力は漲っており、好奇心の塊の様な人で、深い見識と広い視野を持つ優秀な魔導師の知識人だ。
言うなれば子供のまま大人になって、欲望の限り知識を漁った人でも有る。
ノアシェランを前にしてハシャぐ姿が目に浮かぶ。
こんな不思議を喜ばない訳が無いのだ、あの人が。
そして年甲斐も無く張り切ったせいで、あの世に旅立たれてしまうとノアシェランの存在が不吉では無いかと、皆に不安を与えて疑われる原因を作ってしまうと、それを2人は心配していた。
因みにウィンソスのルーツだ。
もう曾々祖父や曾祖父の方が先に老衰で亡くなっているぐらいなので、親族なのに遠過ぎて他人に近くなっていた。
エルフの血筋がもらたす影響と思われるが、やはり人の血が混ざっている為か、見た目は随分と昔から老人だった。
彼は海を渡る長い放浪の旅の途中で、その博識さを国王に買われてペルセウス王国に腰を落ち着けた人で、国王を始めとする多くの弟子を育て上げた功績から学問の父。
叉は教育の父と呼ばれている。
心配する気持ちも、不安な思いも有るが。
リブロの言う通り、王族担当の教育者を決めるのであれば避けてはいけない人なのだ。
「うん、仕方が無いか。
一応声は掛けてみよう。
来れなかったら、その時はその時だよね。」
「アレは這いつくばっても参内するだろうがな。
生きていればの話だが。」
「亡くなったら大騒ぎになるだろうから、流石に死んではないとは思うよ?
旅立ちかけてるかも知れないけどね。」
「それでは午後の会議にご参加頂ける様、手配しておきます。」
むしろ今日声を掛けた事が切欠で死んだらどうしよう?かと思うぐらいの国宝級な天然記念人物に、2人から憂鬱な溜め息が零れた。
「それじゃあせっかくだし、何時もより会議の開始時間を遅らせよう。
その代わりなるべく多くの人達に参加する様に声をかけといて。
それと謁見の時間を少し早めようか。
ノアシェランが寝ている間に済ませないと大変そうだし。」
「ご英断かと思われます。」
謁見は国王が直接顔を見せて、相手とやり取りをする業務。
陳情や褒美を与える儀礼的なものから、他国からの使者と面会する為、笑ったらいけない選手権で笑いをガマンする緊迫感が必要となる。
もちろん選手権に参加しているのはレオナードじゃ無い。
客の方だ。
レオナードが多少笑った所で何も問題は無いが、客の立場は違う。
下手をすれば不敬罪に当たることになるので、まぁ…そんな事で罰を与えるレオナードでは無いが。
向こうの胃が持たないだろうし。
とても辛い思いをさせてしまうだろう。
と、言う。
レオナードの生暖かい気遣いだ。
ぶっちゃけレオナードからすれば暇な。
内容的には忙しいが。
馬鹿馬鹿しい揚げ足取りの始まるオジサン達の顔を見続ける会議で、ノアシェランの癒やしがあった方が有り難い。
直接会話をさせるのには様々な問題が有って難しいが、一方的に流れて来る思念を感じさせる分には、逆に向こうも一番の関心事項がどの様なものか知れて都合が良いとの思いも有る。
丁度議題に上げるのだ。
少しでもその重要性を知れた方が事が運びやすいだろう。
こうしてドタバタと各自方面に伝達が飛び交った。
レオナード付きの執事や従者を含めて、ウィンスの部下や足りなければアトニタスの部下まで使って、王都内の全ての貴族家に使者を送る。
本来なら通常会議に参加するのは大臣や、当日の議題における担当者で済むが。
今回は準男爵以上の全ての者達を一斉に召還した。
その準備の為に何時もの会議室では無く。
大講堂を使う様に変更し、城の全ての人員を使って準備を整える運びとなる。
ちょっと有り得ないぐらいに忙しくなったので、昼食をマトモに取る時間すら無い。
そして国王から軽食スタイルにする様に、直々に厨房へ使者を送って指示を与えると言う。
前代未聞の気遣いが発生した。
宮廷料理人達は作りかけていたメニューの変更に驚きながらも、その理由に充分な心当たりがあった事で、臨機応変に対応してくれたのだ。
こんなに城中の人達が1つの事に向かって動くのは祭りぐらいだ。
何処か浮き立つ様な空気の中。
様々な部署の人間達が怒涛の殺気を漂わせながら、後宮の正妃周辺以外の各方面の人員が文字通り走りに走り回ったので有る。
戴冠式や葬式、大きな犯罪を犯した者の裁判など、国の行事で使われる大講堂を今回の大会議の場として使用した。
これは城の敷地内に別館として建てられている為に、城から続く専用通路も伸びているが、第2門を通過せずとも来賓が入場可能な大型施設でもある。
運が悪く王都に居らず、参加が出来なかった者は代理人を。
それ以外は貴族の当主とその従者達が、その大講堂を目指して第1門へ続々と集まって来た。
今回は準男爵以上の一代限りの貴族まで召集された為に、本人と従者だけでも500人を越える人数が長蛇の列を成す。
爵位で席順が決まっている為に、普段は待たされる事の無い者達も、苦い顔をしながら渋々と指示に従って大講堂へと入って行く。
全ての者が大講堂に収まった頃には、2時間遅れで開始を通達した時刻よりも更に40分遅れの時間となった。
それでも城内に勤めている者達から情報がある程度伝えられ、それが今回の事態を招いた理由として事情を知らぬ者への話題となり、不満よりも好奇心や不安。或いは疑念となって、興奮を帯びた会話が良い暇つぶしとして場に広がって行く。
その時間を利用してレオナードとデュオニュソス達は、身分の無いノアシェランと養子縁組みをする養父候補者と面談を果たす。
既にレオナードの養女となる事は決定事項なものの、これは回りくどくとも避けては通れない序列となる。
男爵から始まり、伯爵、侯爵と続いて王家の娘として、養子に入る密約の契約書をこの時済ませた。
血の繋がらない娘と言えども、自家と縁の有る娘が王家に名を連ねるのはとても光栄な話だ。
けれども実際にノアシェランの異常さを知らない当主達にすれば、判断に迷う話でも有る。
相手が国王を騙す詐欺師であれば、その罪は養父となった自分達の家に及ぶ危険性が有るからだ。
万が一詐欺師で無かったとしても、その者が罪を犯せば同じ事になる。
だが全員がこれを快く承諾した。
何故なら自分が断った所で、他に話が流れるだけだからだ。
それだけ国王が本気で欲している者を他者に譲る貴族の当主は、それはもう腰抜けでしか無い。
国王自身が責任を負う覚悟で居るのだ。
まだ国の易になるか、それとも災いとなるか知れたものでは無いが、国王がそれに賭けると言うのなら、先に立って災いから主の盾となるのが貴族の勤め。
もちろん下心もあっての事だが、元々リブロが選んだ候補者達なのだ。
話はとんとん拍子に進んで行く。
そして問題だったダンバル公は、彼の亡き後で後継者と黙されている学園の学園長と複数の弟子を連れて参内に挙がった。
そしてノアシェランの教育担当を誰にするのか。
その話し合いには、レオナードの腹心達、そしてノアシェランが王家に入るまでの養父に名を連ねた者達、そして各種大臣が立ち会って話し合いが齎された。
以前より増して老化が進んでいると思われるダンバル公は、長い眉毛に覆われた翡翠の瞳を閉じて、デュオニュソス達からノアシェランの起こした奇跡や状態の説明に静かに耳を傾けていた。
「お話は分かりましたですじゃ。
儂はもう男爵位を拝命しましたのでな。
教育者には向かぬでしょう。
後のことは後継者に託すが宜しかろう。」
彼はずっと長い間、平民の身分に拘り続けた。
爵位を受け入れると言う事は、教育に対して国の意向を求められた際。拒否する事が出来ないと言う理由で、だ。
それでも先々代以前の国王は、そんな彼を重用し続けて来た。
何故なら彼が施した教えのお蔭で、治水工事や農作業の改革が行われて、国が大いなる繁栄を迎えたからだった。
国にとって都合の悪いことでも、教育にとっては必要な事が有る。
その信念に基づいた彼の教えは、国王だけで無く。
様々な貴族の師弟を増やして行った。
身分上位の貴族社会での教育に置いて、多大なる革命をもたらしたのが、このダンバル公で有る。
その為後継者と目されている学園長も、学園内に身分を持ち込む事を禁止していた。
教育は平等なり。
身分制度は国に秩序を与えると尊重した上で、能力と熱意さえ有れば平民ですら学ぶ機会を与えて育て上げる理念を確立させたので有る。
これでかなり城の官僚に優秀な平民が徴用される様になった。
以前であれば決して許される事の無かった平民と貴族の結婚ですら、手順を踏んで序列を守るので有れば許される様にもなる。
この理念が産んだ革新的な能力主義が、ノアシェランが王室の養女に入れた大きな要因だ。
血筋よりも能力を重用する考え方が産まれて育ったのだ。
だが皇国から正妃が訪れ、王太子のベルトラントが産まれた際。
この理念は皇国に拒まれる事となる。
現在ベルトラントの教育は、皇国から連れて来た者達で全て行われていた。
それをもってして、自分の使命は終わったと。
ダンバル公は引退を宣言し、長らく求められていた爵位を、長く勤めた仕事の退職金代わりに受け入れたのだ。
爵位が有れば国から年金が出る為、元々学術的なもの以外では清貧な生活を送っていたダンバル公にとって生活の糧を得るのに充分な代物だった。
今も決して贅沢などはして居ないが、身に付けている品は全て高額な魔導具なのは御愛嬌と言える。
何故なら彼は優秀な魔導師であり。
それと同じく優秀な錬金術師なのだから。
国から爵位など貰わずとも、下手高位貴族より大金持ちなのだ。
それでも稼いだ金は全て研究に消えて行くのだから、住んでいる家は小さく。
食べる物は市民と何ら変わらない。
けれども家や身に付ける物は全て最先端の錬金術の技術が込められているし、目玉の飛び出る様な金額の素材を研究では湯水の様に消費したりする。
何ともアンバランスな人だった。
ウィンスのルーツなだけあって、自分の興味の有るものと、そうでないものへの差が限り無く極端である。
閑話休題。
この場の話し合いは、言わば大会議前の根回しだった。
失敗の許されない貴族にとって、事前準備と根回しは大切な作業となる。
だからこの場に居る全員がすんなり話を通したダンバル公に、暗く憂鬱な表情を浮かべた。
恐らく確実に大会議は荒れる、と。
一度でも彼に師事した事の有る者達で有れば、太陽が東から登って西へと沈むのと同じく。
分かりきった事象だったので有る。
「ポックリ行かなきゃ良いよね。」
事前会議の終わり際で小さく零したレオナードの呟きに、ダンバル公以外の全員が心の中で同意した。
何故ならこの場に居る全ての者達が、年代問わず彼の教え子だったからだ。
彼が絡めば必ずしも話はスムーズに通らない。
それは分かりきった事実であったのに、何故リブロは彼を決して外そうとしなかったかと言えば。
彼が他の追従を許さぬ、深く幅広い知識を持つ事から学問の父。
または新しい教育の理念を築き、惜しまずその知識を広める教育への情熱から教育の父と呼ばれたその人だからだ。
かくして表向きはスムーズに纏まった事前会議を終えた一行は、全員が大講堂へと移動を果たす。
各々が各自決められた席に着くのを待って、議長から開会の宣言が行われた。
その頃ノアシェランはポヤンとした顔で天蓋付きベッドで目を覚ました。
(おしっこ行きたい…)
寝ぼけ眼で小さく思うと、シャッとカーテンが引かれてビックリして飛び起きる。
(姫様、お目覚めですか?)
(うわ、はい!)
(それではお支度をしましょう。)
目をパチクリして左側を見ると、エマルジョンが満面の笑顔を咲かせていた。
これはデュオニュソスやレオナード達が見れば顔を青ざめさせる展開への前振りであったのだが。
幸か不幸か付き合いの浅いノアシェランは察する事も出来ない。
それでも精一杯お願いして1人でトイレを済ませて合図すると、エマルジョンと若い侍女と針子達が静かになだれ込んで来た。
(わぁ、可愛い!)
そして始まるお着替えタイム。
お風呂の下りで拒んでも着方が分からないと言う理由から、ちょっと妥協する事を覚えたノアシェランは、鏡の中の自分の姿に驚いて目を見開く。
先ほどまで無地の長袖ワンピースだった物に、色とりどりな糸で細かく刺繍が縫われており。
しかも黒髪にカチューシャの様に結ばれた青色のリボンが、色違いの白雪姫を連想させたのだ。
(うーん、昔の写真を見た時はぶーちゃんだった筈なのに、こうして見ると私って可愛かったんだねー。)
いつ見てもコロコロと丸く太っていた筈なのだが、どうやら余計な脂肪は魔法のお陰か健康的なサイズで留めておいてくれたらしい。
(なんて嬉しいの!
ダイエット要らずだなんて素敵!)
それでも成人してから実家を出て、仕事の疲れから不健康な食生活を送っていたせいで激やせした時期が有り。
まぁそのお蔭で最終的に夫と出逢う前に、両手の指と同じ人数だけ異性と交際する事が出来たのだが。
時期は重なってない。
ただ付き合って3回目に会う頃には別れている。
そんな短いサイクルだっただけで、これは恋愛初心者に有りがちな恋に恋してる状態と本当の恋との区別がついて無かっただけだろう。
そして多分元々の器量はそんなに悪い方では無かったのだ。
ただ太かった。
そんなノアシェランの青春時代は部活と勉強三昧だった。
まぁ、結局2人目の娘を30歳で産んで35歳を過ぎた頃から激太りの一途を辿った訳なのだが。
(また太らない様に気をつけよう。
せっかくの可愛いお洋服が入らなくなっちゃう。)
最近は食っちゃ寝している生活への記憶が、過去の写真通りのぶーちゃんな幼児姿を思い出させて、静かな決意を滲ませた。
(まぁ!)
(うふふ…)
その気持ちが微笑ましくて、侍女達からヒソヒソと笑みがこぼれる。
(ウフフ、成長期なのですからその様な心配は要りませんよ。
女性は少しふくよかな方が男性からは好まれますし。)
レオナードやデュオニュソスなら二度見をする微笑を浮かべたエマルジョンが、真剣な目をして鏡の中の自分を凝視しているノアシェランを宥めた。
(ダメです。
私はとても太り易い体質なんです。
油断は禁物なのです。
同性とお母さんの大丈夫は信じたらダメなんです。)
(あらあら。
ですがこれは本当ですよ?
筋肉質な殿方が多いですからね。
今度デュオニュソス様に聞かれてみては如何ですか?)
(そう言えば、こちらの世界の男性は皆さん逞しいですよね。
お父様も細身かと思いきや、意外とガッシリされてました。
でもでおにそす様に聞いた所で、嫌な顔をされて終わりそうです。
だって私、オバサンですし。嫌われているんです。)
(まあ!)
しょんぼりと肩を落とした愛らしいノアシェランの姿に、全員が唇を歪ませて身悶えする。
(姫様がオバサンだなんて、誰も思っていませんよ。)
(そうですね。
でおにそす様からはお婆さん扱いされてました。)
スンと真顔になったノアシェランに、この場にいた女性達が皆笑いをかみ殺す。
(それは年代を言えばお婆さんでも可笑しくは無いご年齢ですからね。
ですがきっとあれは照れ隠しで御座いますよ。)
(いえいえ、あれは紛れも無い本心だと思います。)
ノアシェランが寝ている時のデュオニュソスの姿を知っている侍女達は、完全否定に更に身悶えしてため息をこぼした。
(デュオニュソス様は女性が苦手なのですよ。
周りが男性ばかりで、女性とのお付き合いの仕方をご存知ないのです。
ですから此処は年上の女性として、導いてあげて下さいませ。)
(そんな真似をしたらきっと殴られると思います。)
(ウフフ。それでは騙されたと思って、今度デュオニュソス様を上目遣いで見上げてみて下さいませ。
きっと面白い反応が見れるかと思いますよ?)
これは少しだけエマルジョンよりも若い侍女からのアドバイスだった。
(へー、異世界でも女性の恋愛テクニックって似てるんですね?
私の世界にも使ってる人が居ました。
でもそれで落ちたら、アホ過ぎて私が爆笑して仕舞います。
それに私には夫が居るので、弄ぶ様な真似は出来ません。
特にウブな人は困ります。
冗談が通じませんから。)
ふぅ…、と。アンニュイな表情でため息を零すノアシェランの周りで、まぁ!と、笑い声がさざめいた。
(姫様、起きてから直ぐにお支度を為さったので喉が渇いては居ませんか?
良かったらお話をしながらお茶にしましょう。)
(はい!嬉しいです。)
頃合いを見計らったエマルジョンが、兼ねてからの予定通りにノアシェランを誘導すると。
クッションを敷いた椅子の上に彼女を座らせてから、合図を待っていた侍女達がテーブルの上に軽食とお菓子を並べて行った。
―――――一方その頃の大講堂では。
入り口から再奥の高台に立ったレオナードが、声を拡張させる魔法が発動した事を確認してから貴族達を前にして声高に演説を行っていた。
「この度は急な召集にも関わらず、多くの者達が集まってくれた事を嬉しく思う。
耳の早い者は既に知っていると思うが、昨夜遅くに神から遣わされた妖精が我が元へと訪れる事件があった。
その者は魔力の無い異世界で暮らし。
人として45歳まで生きていたが、突然の不幸で生死の境を彷徨い。
この世の神々に迎え入れられた存在で有る。
傷ついた身体を癒やす為に口にしたこの世の水で赤子に近い幼子の姿となり、困り果てて我の元に救いを求めて現れたのだ。
神々より膨大な魔力を与えられた彼女は、宮廷魔導師達でも使えぬ未知なる強い力を持っているが、本人ですらその使い方を理解して居らず。
非常に危うい状態となっている。」
ザワザワと不安にざわめく一同を一度片手を挙げて遮ると、再びレオナードは一同を静かに見渡した後。
「彼女はこの世の人の迷惑にならぬ生き方。
そして社会の仕組みや言葉を教えて欲しいと我に望んだ。
短いやり取りの中でも、彼女が非常に穏和な性格で、臆病で有りながら道徳に外れることに対する強い正義感を持った善意の淑女である事を我は認めた。
その為、本日を持って彼女を王室に招き入れ、我の養女とすることをこの場で宣言する!」
どおおおおお…と、好奇心の入り混じった期待や、得体の知れぬ存在に対する不安や動揺の声が大講堂が揺れるほど挙がった。
カンカンと議長役の宰相が木槌を鳴らして、皆に静粛を求めると。
ざわめきながらも次第に音が静まって行く。
「まずはこの世で何の身分も持って居ない彼女に、我の養子に相応しい身分を授ける貴族の当主達を紹介しよう。」
こうして議長に名を呼ばれた男爵、伯爵、侯爵達が席を立ち。
レオナードの前へと集まって来ては、皆の前に顔を並べた。
「以上の者達が我が義娘ノアシェランの前養父となる。
意義の有るものが居れば、名乗りを挙げるが良い。」
全てが古い歴史を持つ。
兼ねてよりペルセウス王国に遣えて来た貴族達であった為に、羨む気持ちは有れども、敢えて反発する者は1人も出なかった。
「では沈黙を持って、この者達をノアシェラン第一王女が王家に入籍する前の養父と認定する。」
高らかに議長が宣言すると、前養父達が一礼をして自席へと戻って行く。
「続いては家族を失い。
悲しみがまだ深く根付いているノアシェランを公私共に支える婚約者を紹介しよう。
デュオニュソス・ダルフォント男爵よ、前へ!」
これにもまた盛大な動揺の声が場に巻き起こった。
「ダルフォント公爵家は古くより王家の受け皿として、末永く王家を支え続けてくれた。
その功績を持って我が娘ノアシェランの婚約者に勅命する。」
「慎んで拝命致します。」
勅命とは王命と同じで決して拒否権の無い強い命令で有る。
マーヴェラスの影響で皇国に利用されかけたダルフォント公爵家への不信感は根強く。
また皇国の影に怯えるのかと強く反発する者も居たが。
逆に皇国からの要求を唯一跳ね退けられるペルセウス系の貴族家として、納得を示す者達との歓声で再び大講堂が揺れ動く。
どちらにしても、これは養父の件と違い。
娘の結婚相手を決めるのは、当主と国王の仕事。
その為、今回の場合はレオナードの意志で一つで決められる為、反論の余地は無かった。
養父達とは違い。
レオナードの対面に膝をついて最大級の礼を取ったデュオニュソスが、深く頭を下げる。
因みにデュオニュソスの祖父も父も前会議に参加しており、この件も報告は既に終わっていた。
ずっと長い間、嫡男であるにも関わらず。
国政に寄って決められずにいたデュオニュソスの婚約がやっと決まったと喜んでいたぐらいだ。
こうして無事に周知を終えたデュオニュソスは、再びレオナードの背後に回って従者の立ち位地へと戻って行く。
「そして今後のノアシェランの成長に向かい。
教育者の担当を紹介する。
ダンベル公の後継者として…」
「お待ち下さいフランベート陛下!」
や は り か!
もう1人で歩くことも叶わず。
魔導車椅子で移動していた1人の老人が、見かけに寄らぬ張りの有る声を挙げた所で、関係者各位の表情が納得と諦めの感情を感じて表情を失った。
もうこれもある意味予定調和で有る。
「……ダンバル公よ。
我は祖父のフランベート国王では無い。
レオナードだ。」
「む。
あの小さな殿下がもうこんなに大きくなりましたか。
時の流れは速いものですな。
まあ細かい事は宜しい。」
これは全然宜しく無い。
他の誰がやった所で一発アウトの失態で有る。
これには大講堂に居る貴族全員の顔が一斉に曇ったが、ダンバル公が老化でボケて居るのでは無いのが質の悪い所だ。
完全に彼が人の名前に興味を持っていないだけなのだから。
因みに父親や祖父と間違えられた者など、これまでにも数多く存在している。
むしろワザとやってないか?と、疑われる程。
自分の父親達の代でも先代の曾祖父と間違われていたらしい。
名前を間違えるのは致命的な失態であるが、彼が施して来た功績の数々と現在進行形で進化して行く知識や技術が、この狼藉をチャラにするのだから恐ろしい所だ。
教育者として根本的なミスを犯さしている気が皆しているのだが。
誰もが文句も言えずに苦笑を浮かべて泣き寝入る。
それが学問ないし、教育の父と呼ばれるダンベル公の強味だった。
「この場を持ちまして、私は拝命致しました男爵位を返還致します。」
だ ろ う な。
この場に居る全ての者達の声無き声がシンクロする。
これぞ彼のお家芸、秘技ちゃぶ台返し。
これをして赦されるのもこの国ではダンベル公ただ1人だろう。
普通の者なら、その宣言1つで首が飛ぶか。
この場から即刻摘み出されている。
それが出来ない理由。
それは彼が教育の父だからで有り。
リブロが彼を外せなかった理由なのだ。
もう自立で立つ事も危うい枯れ木の様な彼の身体に、高い魔力が漲り。
深い皺の刻まれた木々の枝の様な指が杖を握り締めると、ムン!と、気合いを込めて魔導椅子からダンバル公が立ち上がった。
転ばないよな?
そんなハラハラとした一堂の視線を一身に浴びている彼は、全員の不安を余所に。
この予定調和を予想していたリブロの計らいで、最初から国王が演説する高台の端にちょこんと控えていたのも相まって。
その場に立ち上がるだけで一歩も歩かずに舞台の上に君臨する。
実は筋力強化や風魔法を駆使して動いているだけで、立てるが奇跡的なご老体であった。
もちろん安全性の観念から大講堂の中や外では、魔力を拡散させる魔道具が使われており。
魔法事態を発動させているのも驚愕に値する技術なのだが。
「大恩有るペルセウス王国の現代の国王に問う。
忠義を尽くす義務の有る臣民で無くなった私の質問に答える気は有りましょうか。」
「無論、答えよう。
何なりと好きに問うが良い!」
これが出来る国王が果たして他の国に存在するのか。
逆臣の汚名を受けても仕方の無いダンバル公の無礼に対し。
レオナードはそれを許して罪に問わない事を言外に公言する。
逆に拒む事もダンバル公を罪にも問えるが、この国で彼にそれを行えばレオナードは全ての国民から、愚王の誹りを受けるだろう。
何故ならダンバル公が爵位を返上した事で、無償のまま文字通り命を架してこの国に尽くす姿を拒むことになるのだから。
貴族となれば忠義を尽くすことが当然の義務となる。
それから外れたと言うことは、当然その義務が無くなる形となった訳だ。
それが何故この国に尽くす形になるのかと言えば、彼は国民の立場となって現代の国王が正しい事を行っていると批判出来る立場となったからだ。
此処で一つの矛盾が生じている。
本来絶対君主制の貴族制度を設けている国の国王を批判する事は、不敬罪の罪に問われる重大な犯罪行為だった。
つまり批判すると言う事は、己の命を懸けて国王に進言する形となる。
何に対しての批判となるかと言えば、果たしてレオナードがノアシェランを養女として王室に養子を迎えることに正当性が有るのか、その真偽に対する発言の自由を得られた事を表していた。
又はこの段階での爵位返上発言を取った事から、ノアシェランを教育する権利を希望する思惑も込められているとも推察される。
国益や不利益を考慮して、それが正しい判断かどうかを命がけで国王に発言するのが貴族の忠信としての形とすれば。
ダンバル公が行っているのは、もっと広い視野で見て。
つまり他国の事情を踏まえた上で、この形が正しいかどうかの審議をする形となる。
高々一階の平民が何を声高に叫んだ所で、不敬罪の一言で切り捨てられる蛮行。
それがダンバル公が取っている手段なのだ。
つまり国王で有れば跳ね退ける事も簡単に行える。
何の権力も持たない自由な発言。
それでも皆がダンバル公に期待を寄せている以上。
彼の言葉は臣民のみならず、この国に住む者達全ての代弁者として成り立つのだ。
つまり早い話が、誰もノーと言えない絶対権力に対して、真っ向からノーと言える立場で対立した形となる。
これが教育の父たる称号を持つ、ダンバル公の伝家の宝刀だった。
「それでは現代の国王に問わせて頂く。
何を持ってして得体の知れぬ者を神々から遣わされた妖精と判断なされたのか!
その理由をお聞かせ願いたい!」
到底片足を棺桶に突っ込んでいる老人とは思えない。
張りの有る。だが老人特有の嗄れた声が大講堂に響き渡る。
魔法を阻害する魔道具を使用していても、これら声を拡張させる魔道具を使えば、容易に出来る行為だが。
自身の持つ魔力で行うとなれば、決して容易な手段とは言えない。
だがその超絶技巧をいとも簡単に行えるのは、立ち上がった時点で今更の話だった。
「先ずは一つ!
侵入者を阻む結界をいとも簡単にくぐり抜け。
二度も我の居る寝室へ、護衛に一切感知されずに侵入を果たした事。
そして2つ!
独自の言語を持ち合わせており。
思念での会話でしか意志の疎通が果たせず。
しかしその者は念話の技術を持ち合わせて居なかった事で、本心が全て明るみに出た状態となっている上で事情の説明を受けたのだが。
その伝えられた内容がこの世の出来事とは到底思えなかった事。
更に!
その者が持つ魔力の強大さが、人知を超えるものと我が判断した為で有る!
他にも様々な事実が露わになったのは、我が養女にすると判断してからの出来事故、今回の応答では割愛させて頂く。」
堂々とした態度で師匠からの問い掛けに、レオナードはスラスラと応えて行く。
「ふむ。
それでは1つづつ。
確かに後宮への侵入も、張り巡らされた感知を気取らせぬのも常人が容易に行える技とは思えませぬが。
決してそれが神々でしか行う事の出来ぬ偉業を指し示すかと言えば、そうは申せますまい。
その者が強い魔力と魔術の才能を持つ者で有れば、そう言う事も可能性となりましょう。
ですが2つ目の応答にて、ここに矛盾が生じますな。
それだけの技を持ち合わせた魔導師が、念話の技術を持ち合わせて居らぬとはあり得ぬ事です。
ですがそれが侵入者の演技では無いと判断なされたのは、何故で有りましょう。」
「その者が念話の存在を我が教えた際。
いとも容易く思念で事情を伝えて来た事だ。
これは演技では不可能な判断で有ろう。
誰しも念話の技術を会得する経験した者なら、直ぐにその異常さに気付けるのだからな。」
淀みのないレオナードの釈明に、ダンバル公は長い白髭に覆われた頭を1つこくりと頷かせる。
「確かに技術を知らぬ者を装っての演技で有れば、いとも容易くと感じさせずに、難儀してみせましょう。
その盲点をついたとも考えることも出来ますが。
そうで有るのなら、自分の思考が漏れる思念では無く。
念話の方を使う方が、演技者ならば得策でしょう。
初めての念話に対し、直ぐに思念で応えを返す事は容易では有りませぬが。
類い希な魔術の才能を持ち合わせておれば可能かと思われますな。
よってその事から、その者の行為は正しく念話の技術を持ち合わせぬ者の反応かと私も断じます。
つまり魔術の基本とも言える念話の技術さえ使えぬ未熟者が、高位の魔導師が張った結界や、精度の高い感知魔道具の影響を抜けて、国王の言葉が誠で有れば二度も同じ場所に現れた事を示します。」
1つ1つ疑問に対して丁寧に、レオナードの判断した基準を採点して行くダンバル公。
それはこの場に召集を受けた全ての者達が感じている疑問への代弁だった。
一度のみならず二度となれば、その異常さは容易に周囲へと染み込み、疑念を払う認識へと繋がって行く。
「ただ1つ。
何を持ってして二度現れたと。
国王は判断なされたか。お応え願いますかな。」
「一度目は我の目の前に突然丸い黒円として現れ、我の知らぬ言葉を使い。
実声で持って語りかけられたのみであったが、我が警戒を示した事で混乱した様にして直ぐに姿を消失させたのだ。
そして二度目に訪れた際は、幼子の姿を表して我に実声で語りかけ。
黒円を背後に従わせたまま、ドアの前で立ち竦んでおった。
その黒円と声が同じであった為、二度同じ者が現れたと我は判断した。」
「ウーム…、誠に同じであったかは判断に苦しむ所ですな。
最初は幻術で姿を見せただけやも知れませぬぞ。」
「確かに我があの者に実際に触れたのは、二度目の遭遇を果たしてからだ。
だが流石に幻術に掛けられたのなら我も気付くぞ?
それに我が侵入者へ誰何を果たすまで、護衛は何も認識しておらず。その後の調査では魔術の痕跡ですら皆無であったのだ。」
「ふむ。
つまり断定は出来ないものの、限り無く同じ者であった可能性が高く。
念話も使えぬ未熟者が我が国の技術者では解析が困難な魔術を発動させて、国王の元に複数回姿を表した事となりますな。」
「「「「おおおおお…」」」
断定まではされなかったものの。
痕跡すら残さず、後宮への侵入を果たし。
尚且つ感知されずに二度も訪れた者の異常性に、畏怖や好奇心を駆られた者達から歓声が沸き上がった。
「これでは神々の関与を疑わざる負えぬ者の仕業と、流石の私でも断じますぞ。」
「理解して頂けて何よりで有る。」
彼女のことを調べるので有れば、国の誇る国家魔導師達が雁首を揃えて調べ上げている。
何故なら国王の寝室に無駄で侵入を果たされたと言う事は、その者の責任を問われるからだ。
ようやくその事が心に落ち着いた者達から、国王が巧妙な詐欺師に騙されている疑念が払拭されつつあった。
だがそれと反比例する勢いで、その者への好奇心と不安が大講堂の中で高まって行く。
「では陛下!
その者をこの場に今すぐお呼び頂きたい。
陛下のお言葉が誠で有るのなら、その者をこの場に召還する事が可能で有りましょう!
それを持ってして陛下の言葉が真実で有る事を、私も受け入れたく思います。」
ドクンと、全ての者達の心臓が大きく鼓動を高鳴らせた。
これがダンベル公が男爵位を返上した理由そのものだ。
この場合、ダンバル公の要求をレオナードが退けると、今度は国王が国民を欺く詐欺師との疑いを帯びる事となる。
何故なら後宮の国王の寝室へ二度も侵入を果たせる者が実際に存在していれば、例え警戒を張り巡らせている大講堂でも、実現が可能となるのだから。
これは国王を守る義務の有る貴族では言葉に出来ぬ願いだ。
「恐らく呼べばこの場に呼び寄せる事は容易に可能だろう。
だが断る。」
ザワザワ!と、大講堂が混乱に揺れ動く。
しばらく動揺で何故と声を荒げる者や、まさかと疑念を抱く者の唸る声で場が騒然となった。
「五月蝿いわい。
黙らっしゃい。」
それをダンバル公は片手を軽く貴族達へ向けただけで沈黙を取り戻させる。
強制的に音を奪って大講堂に魔術で沈黙を齎らせたのだ。
無詠唱でこれほどの規模の者達から、空気を奪う事も無く。
発声させる音のみを奪い去る。
それがどれほど高度な技か。
国王を守っているウィンスを筆頭に、魔術の嗜みの有る全ての者達が、そのスゴ技に冷や汗を浮かべた。
「何故に拒絶をなされるのか。
国王のお考えをお聞かせ願いたい。
聡明たる国王で有れば、その者を呼び寄せる方が自身の尊厳を守れると理解なされている筈でしょう。」
騒いで声を挙げた者達が、一斉にその言葉に恥入る。
不利な行為で有りながら、それでもそれに応じられない理由がレオナードに存在したことは明らかなのだ。
それに対して批判して良いのは爵位を返上したダンバル公のみであって、爵位を持ったままの貴族達では無い。
つまり批判すれば彼達が罪に問われる状況だった。
それをダンバル公は彼等の身を守りながら、皆の疑問を代理で問い掛けたので有る。
国を守り、家を存続させて国王を支える者達が、一介の平民に命を救われた形となったのだ。
己の軽率さを恥入るのと同時に、ダンバル公の勇気と善行に感服仕切りで有る。
何故なら彼は一介の平民へと成り下がったのだから。
国王や国を守る義務も無ければ、貴族を守った所でダンバル公に利益は全く発生しない。
無償の愛と言える代物は、親が子に与えるべきもの。
つまり等しくこの場に居る者達は、直接に師弟の契りを持って居なくとも、ダンバル公の子供として扱われた事になる。
流石に全ての人を受け入れるにはダンバル公はたった一人なので、師弟関係を結べる者は限られていた。
それでも彼は等しくペルセウスの国民を我が子の様に扱う為、ついた呼称が“父”なのだ。
閑話休題。
ダンバル公からの問い掛けに、レオナードは背筋を伸ばし。
威風堂々とした姿で口を開く。
「それはノアシェランが我が娘だからだ。
彼女はまだこの国に訪れたばかりで、酷く混乱している。
表向きは明るく朗らかに振る舞って見せても。
家族を失った失意は深く。
容易く悲しみに呑まれて仕舞うのだ。
そしてこの場に呼び寄せられぬ一番の理由は、彼女の魔力の高さと技術が見合ってない事に有る。
後宮に居ながらにして、平静な時でも魔道具を使って後宮内までに思念の漏れを抑えるのが限界で有り。
感情を高ぶらせれば第1門付近まで思念が届いてしまう。
感応力も強く、幻覚さえ容易く見せつけられる威力の思念が、この場所で発動した際。
その影響が及ぼす範囲は第1門を越えて貴族街まで到達を果たす事になるだろう。
魔力に抵抗の有るものであれば堪えられる事も、無い者がそれを受けた場合は不幸な事故が起こる危険性が高い。
顔を合わせたばかりで言葉を交わした事も無く。
自身に刃を向けているにも関わらず。
彼女は我を守る護衛達の命を救うべく、逃げずに我が城に居残った経緯が有る。
無辜の民が己のせいで不幸に見まわれたと知れば、慈愛に満ちたノアシェランの心が傷つく。
只でさえ弱っている今、これ以上の悲しみを彼女に与える訳には行かぬ。
彼女を守るは父親となった我の責務。
そして無辜の民を守るは国王としての義務。
それゆえにこの場への召還は断らせて頂く。」
これにはぐうの音も出ない、確固とした理由。
特に臣民である貴族に関して言えば、妥協するに値する理由として認識した。
だがダンバル公はそうでは無かった。
何故なら彼は無爵だからだ。
「それならば国王の言葉に対する信憑性が確認出来ませぬ。
この場への召還を重ねてお願い致しまする。」
「…それは我に無辜の民を殺し、娘を傷つろと申すのと同義。
断固として断る。」
「ならば国王の不安を私が払拭して見せましょう。
この場に思念の漏れを抑える結界を張らせて頂きます。」
「それは!
もうその身体でこれまで以上の大規模な魔術を使い続ければ、そなたの身が只では済まぬ!」
「いいえ!
例え私の命がこの技で尽きようとも。
私がこの国に根を張った天命が、今まさしくこの時なのです。
私でも乞われるまま根付いたこの地に、疑問を抱かぬ日は御座いませんでした。
何故こうもこの国が気になったのか。
類い希なる感性をお持ちしていた国王の人柄も御座いました。
この国の民が、得体の知れぬ我を父と慕って尽くしてくれた事も有ります。
ですが今この時。
この場に現代国王の娘子となられた者をこの場に呼び寄せる為に、私の今までの人生の全てが有ったのだと。
ようやく合点が行った次第に有りますれば。
どうぞこの余命幾ばくも無い老人の願いを聞き届けては頂けぬでしょうか。」
「ノアシェランに会いたいので有れば場所を改めれば良いでは無いか!
ダンベル公を失ってまでする事では無い!」
「いいえ!
いいえ、いいえ、いいえ!!!
今この時、この場所でなければ、私の疑念が例え晴れようとも。
この場に居る者達の疑念は全て晴らされませぬ。
国王の言葉が真実で有るなら。
それは国王が神々より選ばれし、妖精の庇護者となります。
国王だけでは足りぬのですよ。
全ての民が一丸となって同じ思いを抱かねば、万人が求めるであろう妖精を害する者から守り通すことなど絵空事なのです。
野に放つのも神々の意向に逆らう事となるので有れば、少しでも皆の意識を高めねばなりますまい。
その為にこの命が例え燃え尽きようと。
それこそが私の天命なのです。」
枯れ枝の様な細い両手を高々と大きく広げ、ダンバル公は杖の先で複雑な魔法陣を描き始めた。
もう全ての者達が固唾を飲んでその姿を見守っている。
まるで神が稚拙な技術で描いた台本で、人が踊らされている劇の1コマを見せられている気分になる。
それだけ神々の居た時代は古く。
その伝承は人の妄想が描いた童話の如く曖昧になってしまっている。
ダンバル公は例え明日をも知れぬ命と言えども、ペルセウス王国が簡単に失って良い存在とは言えない。
その実績を思えば、彼こそが神と同義的に多数の伝説を残し。
その遺業は今も確かにこの国を富ませ続けているのだから。
神話よりも身近に存在している神と言っても過言では無かったのだ。
それが喪われるとすれば、国王が崩御するのと同等以上の凶事となる。
ノアシェランの来訪が無ければ、大きな悲しみはあっても遺恨が残る事は無かっただろう。
だが放って置いても、明日死んでも不思議では無い老人の死が、ノアシェランの来訪が原因となれば。
どれだけ国王が叫んだ所で、守護することは叶わなくなるだろう。
これは積んだかも。
そう諦めたくなる様な暴挙を、ダンベル公はその身を持って嬉々として行っている。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
眩い魔力の輝きが収まった頃。
大講堂に息も絶え絶えとなったダンバル公の呼吸音だけが響いていた。
見るも無惨な様子で活力と魔力を失っている。
使い古されたぼろ雑巾の様な彼の有り様に、誰しもが目に涙を浮かべて無言のまま見入っていた。
(まぁ!スッゴく美味しい!
胡桃みたいな木の実が入ってるんだ。
ケーキよりは記事が固いけど、これがこの国で一番美味しいケーキなんだねぇ…なんだかシットリしたビスケットみたい。)
その時場違いなまでに明るく可憐な思念が、沈鬱な面々の頭の中でハシャぎ始めた。
これは一部の者にしてみれば、予め予定してた現象であったものの。ちょっとだけタイミングが悪かったとも言える。
「ま、まさか?!」
哀れな程まで動揺している、雑巾の様な老人に、レオナードはユルユルと頭を横に振ってみせた。
「ダンベル公。
貴男が施した魔術は恐らく成功している。
思念の勢いが弱まっているのがその証拠だと私が保証するよ。」
「こ…これで弱まっていると…」
「うん。ノアシェランが嬉しいと思えば周りの者は明るい気分に満ち溢れるんだ。
悲しめば同じように皆が悲壮に暮れる。
今響いて来ている思念は確かに明るいけれど。
感情を左右する力の勢いが弱くなっているよ。」
どよどよどよ…と。
動揺に揺れる臣下やダンバル公に、諦めの苦笑を浮かべたレオナードが優しい口調で説明してやる。
ダンバル公が渾身の力を振り絞って術をかける前で有れば。
実際にはもう少し前に、ノアシェランの思念をこの場に響かせる予定だった。
それがまさか見るからにハイカロリーなお菓子を見て、口に入れるのを彼女が戸惑うとは夢にも思って無かった為に、少しだけ予定よりもノアシェランの声が遅れて仕舞ったのだ。
優秀な魔導師で有るダンバル公で有れば、この思念の特異性が直ぐに理解出来ただろう。
そして自分が行った術が、不完全に終わった失敗の要因を、今実際に身を持って体感している。
つまり人が放つ魔術と、ノアシェランが行っている魔術とは少しだけ発動の周波が違っており。
その差が宮廷魔導師達が右往左往させられている原因だからだ。
「これが妖精の力…」
もう立つ事も叶わなくなったダンバル公が、力尽きて床にガックリと座り込んだ。
それを咄嗟にレオナードが駆け寄る前に、後ろで控えていた学園長が支えて床に強打される事をギリギリで避ける。
「素晴らしい…なんと素晴らしいのだ!
これほどの力がこの世に本当に有ったと…。
あぁ…何故今この時に!
私が…せめて、せめて10年前で在れば…」
尽きようとしている自分の命を実感したダンバル公は、涙を流して慟哭する。
「国王よ。
大口を叩いてこの始末。
もはや私にこれを願う資格は有りませぬ。
ですが後生ですじゃ!
せめて一目。
せめて一目だけで構いませぬ。
私に妖精の姿を見せて下されっ…!
私はこの謎と出逢う為に生きて来たのです!」
見た目は確かに屍の様になっている。
顔色は先程とは雲泥に悪く、神や髭の艶も失われていた。
それでも長い眉毛から覗いている翡翠の瞳が、凶人の如く爛々と光輝いていた。
どうにも今すぐポックリとしそうにないシブトい執念を感じてしまう。
ひょっとしたら後10年はこのまま生きられるかも知れない。
今は魔力を使い果たして力尽きているだけで、10年前からの死ぬ死ぬ詐欺を何となく彷彿とさせる姿だった。
多分声にまだ力を感じさせる余力が残っているからだろう。
つくづく人外な爺さんだなぁ、と。思わせる御仁だ。
「ノアシェランの姿を見てもポックリと行ったりしない?」
「勿論ですじゃ!
これは死んでも死に切れませぬ!!
冥府に落ちても必ずしや這い上がって見せますじゃ!」
「それはそれで何だか不吉で嫌だなぁ…」
思わず国王ぶりっ子さえ忘れて、レオナードは素に戻る。
「はぁ…何が起こっても知らないからね。」
「陛下?!」
不吉なレオナードの呟きに、それを止めようと察したデュオニュソスが叫んだ。
(ノアシェラン、私の思念が届くかな?
ちょっとだけ私の所に来て欲しいんだ。)
(お父様?!)
「「「 ?! 」」」
本来ならダンバル公が放った魔術で妨害されるべき思念がノアシェランに届き、何事も無かったかの様に返事が返って来る。
(でも私が窓に戻ると皆さんが困るんじゃ…)
(大丈夫だよ。
私が望んだ事だからね。
エマルジョンなら多分、この状況を想定していると思うし。)
(それでこの可愛いお洋服なのですか?
一体何が有るんです?)
(それは来てからのお楽しみかな?
実は私の教育をしてくれた先生がいらしているんだよ。
その人はとてもご高齢でそっちに行けないから、ノアシェランの方に来て貰いたいんだ。)
(分かりました。今すぐ行きます。)
可憐な思念がそれを快く承諾した直ぐ後で、レオナードの近くに黒円がポッカリと姿を現す。
(え?!)
そしてその黒穴から、驚きの感情が響いて来る。
(アハハ。ビックリさせちゃった?)
(だってお父様。
こんなに沢山の先生達に勉強を学ばれたんですか?)
そんな訳が無い。
45歳の老婆とはとても感じさせないあどけない勘違いに、レオナードはプッと吹き出し。
それ以外の者達は言葉を失う。
(違うよ。
私の先生だった人は、そこのダンバル公だよ。)
レオナードは自身の視線を、離れた場所で座り込んだままのダンバル公へと向けてノアシェランにその存在を教える。
(えーと…ひょっとしたら。またお兄さんですか?)
(アハハハ!違う違う。
ダンバル公は128歳だから本物のお爺さんだよ。)
(ええ?!128歳なんですか?!
この世界の人は長生きなんですね?)
もうどこから突っ込んで良いのやら。
キリのないボケボケな反応に、神秘的な雰囲気はまるで感じられないが。
見たことも無い黒円だけが、その不気味さを醸し出している。
そこから放たれている演技とは感じられない天真爛漫さと無垢さが、その得体の知れない黒円への忌避感を辛うじて和らげていた。
(ダンベル公はこの国でも珍しい長生きだよ。
多分エルフの血筋の影響と本人の資質だと思ってたんだけど…。
彼が言うにはノアシェランと出会うために長生きしてたみたいなんだ。)
(え?!私にですか?
何ででしょう?)
(さぁ…何でだろうね?
それは私やダンバル公もまだ分かってない理由だね。)
(分からないのに私に会う為に長生きしてたんですか?)
(うん。
多分それは追々と分かって来るんじゃ無いのかな?
不思議だけどそんな風に予感するんだよ。
ひょっとしたらタダの勘違いかも知れないんだけどね。)
(良く分かりませんね。
でも何だかお顔の色が宜しく有りませんよ?
大丈夫なんですか?)
国王では無く。
ただのレオナードとして対応してる姿を皆が呆然としながら眺めていたが。
ノアシェランは本物の老人が体調不良を起こしている姿に、思わず顔を曇らせる。
窓の中に入っていたせいで、その姿を見る者は居ないが。
彼女の不安気で気遣う優しい思念が大講堂全体に満ち溢れていた。
(お父様、もし先生の具合が悪い様でしたら。
私の怪我を治してくれたお水がまだ残っているんです。
どれだけ飲めば効果が有るのか。
適切な使用量は分かりませんけども、あの方なら私よりも若返ることは有りませんよね?
使ってみますか?)
それがどれだけ危険な発言なのか。
それと気がつかないノアシェランの迂闊さに、針で突かれた様にデュオニュソスが顔をしかめ。
レオナードは驚いて瞬きを繰り返す。
(え?!有るの?!)
(はい。私の飲み残した分が少しだけ残っていますよ。
怪我を治してくれるお水なので捨てずに残しておいたんです。
私よりもお年が上ですし。
此処まで若返るには、量が足りないと思うので、若返り過ぎる危険は無いかと思うのですが。
あ、でも。本当にどれだけ飲めばどうなるかは、分からないです。
あの時の私は意識が朦朧としていましたので、はっきりどれだけ飲んだのか、覚えてないんです。)
(…いや、良いんだ。
そうか、持ってたんだね。
君が若返ってしまった不思議な水を…)
レオナードも段々と興奮が堪え切れなくなって来た。
誰もが今正にダンバル公の叫んだ魂の慟哭を頭の中で反芻している。
まさか、と思い。
けれども目の前で見せられている未知なる存在から、次第に遠い存在だった神が、その存在感をまざまざと放ちながら突き付けられた気がして身体の芯から震えが走った。
それが本当に起こるのなら、それこそ神のなせる奇跡だ。
(……神々の慈悲に深く感謝を致します。
どうかこの余命幾ばくも無い老いぼれに、その未知なる水を恵んでは頂けないでしょうか。)
乞食の様に深々と白い頭を下げたダンバル公が、思念を震わせながらも。
レオナードに習ってこの場に居る者やノアシェランに伝わる様に、素直な願いを届けて来た。
(良いですよ。
でも一つだけ問題が有ります。
この窓の中で、お水は形が有るのですが。
外に出してしまえば零れて飲めなくなってしまうと思います。
何か入れる器を用意して頂けませんか?)
問題にもならない問題を如何にも重大な問題であるかの様にしながら、ノアシェランは奇跡を起こす得難いものを渡す願いを気さくに受け入れてみせた。
「何を馬鹿な事を…」
デュオニュソスは心から零れた言葉を苦しそうに吐き出す。
けれども思念でそれを伝えることまでは叶わない。
ダンバル公を生かす事が出来なくば、ノアシェランは国に大いなる不幸を招いた存在となってしまうからだ。
だから迂闊な事が言えなくて。
けれどもその先に起こる激動を考えざる負えず。
ただ不安に押し潰されそうになりながら、指を咥えて眺めている。
何と小さく惨めな存在だろうか。
足の震えは止まらず。
冷や汗が至る所から吹き出し、既に全身が汗だくになっている。
これは彼だけでなく。
この場に居る全ての者達が同じ状態となっていた。
ダンバル公は老化で代謝が落ちていた為、吹き出す汗が若者よりも少なかっただけで。
やはり手に滲んだ汗のせいで、杖を無様に落とす前に床に置く事にした。
(それでは急いで銀の皿を用意して頂きたい。
この老いぼれが皆の前で天に召される前に、なるたけ急いで頂けると嬉しいのですが。)
これにリブロが即座に反応し、厨房付近で一番近い場所に居る部下に念話で指示を飛ばそうとして顔をシカメた。
「申し訳有りません!私では念話が!」
「私がやります!」
そのSOSに応えたのはウィンスだった。
ほどなくして息も絶え絶えとなりながら、1人の部下が銀食器の入った鞄を抱えて大講堂走り込んで来る。
それまでの間、誰も身じろぐ事が出来ず。
緊迫した空気がこの場の全てを支配し続けていた。
鞄を受け取ったウィンスがリブロへと手渡すと。
彼は慎重な姿勢で蓋を開けた銀食器の大皿を、手袋をした手で取り出し。
敢えて周りに見せる様にして、ウィンスに浄化魔法をかけて貰った柔布で表から裏を全て拭う。
丁寧なその手付きは熟練の技を感じさせる程滑らかで、一堂の視線を一斉に浴びているのに見事に手元を狂わせる事も無く。
無事に作業を終えた後は、光輝く銀の大皿を聖杯の様に恭しくダンバル公の元へと届けた。
本来であれば主に知れずとも行われる裏方の作業であったが。
この場では余計な疑惑を払拭させる為の儀式として行ってみせたリブロであった。
流石のリブロでも手が微妙に震えてしまい。
犬の餌皿の様に床に置いた時は、カタリと小さな音が鳴った。
新人の頃でもしたことの無い失態に、それでも落ち込む余裕すら無い。
必要だと感じたから、リブロはダンバル公を通すことをレオナードに確かに進言した。
けれどもこの様な事態になると、分かっていた訳では無い。
畏怖。
それがリブロの手元を狂わせた震えの根本となる感情だった。
ただノアシェランに向けられたものか。
ダンベル公へと向けられたものなのか。
あるいは確かに肌で神を感じたからか。
それは彼にも分からなかった。
(ではこれに、姫様の水を頂けますでしょうか。)
ダンバル公の呼吸は荒い。
それでも一言一言に力を込めて、周囲にも届く思念を発する。
(ウーン…私の水と言う訳では有りませんよ?
私には予想外な効果が有りましたけど。
元々は喉が渇いたから願った事で、偶然拾った様な物ですから。)
そう前置きをすると黒円からピュッと液体を飛ばして皿の上へと着地させた。
何とも人に与えると言うには非常に無礼な渡し方だ。
(すみません!飛び散りませんでしたか?
もう少し近寄ってから落とせば良かったですね。
気が利かずにすみませんでした。)
そう慌てて取り繕っていると、銀皿からキラキラとした輝きが大講堂の天井に向かって立ち上って行く。
「水が!」
思わず声を荒げて叫んだのは、間近でそれを目撃した学園長だった。
続いて慌てて口元を抑え、気力を振り絞って上に向けて風を巻き起こす。
「これは毒です!
タダの水では有りません!!」
悲鳴をあげて咄嗟に叫んだ学園長の言葉に、ザワ!と動揺が大講堂に走った。
「落ち着きなさい。
この愚か者が!」
それを静かな怒りを込めて、ダンバル公がねじ伏せる。
「これは毒では有りませぬ。
もう気発して影も形も残っておりませんが、高位の魔力を含んだ水の様な液体ですな。」
そして動揺の為に短縮してしまった語弊のある学園長の叫びに対して、断固たる態度で訂正を入れた。
「私の枯渇した魔力が、先ほどの水のお陰で少しだけ回復致しました。
魔力に満ちた者が飲めば、確かに魔力当たりを起こして死を呼ぶほど健康を害してしまうのでしょうが。
今の私の様に魔力の足らない者からすれば、薬としての効果も見受けられまする。
全く、焦りおってからに。
この未熟者が。」
「た、大変失礼致しました!」
最後は弟子に向けられた叱責に、学園長は真っ青に顔を青ざめさせてから、慌てて声高に謝罪を叫んだ。
(姫様、これは私が悪うございました。
せっかく頂いたお薬でしたが、迂闊にも飲み干す前に空気となって飛んで行ってしまいました。
大変申し訳有りませぬ。)
(いえいえ、私も見ていて驚きました。
前の時はこの中で飲んでいたので、外に出したらこうなるとは知らなかったんです。
でも変ですね?
私はこの世界の何処かで外から手に入れた筈なのですが‥)
ノアシェランの方も申し訳無さそうに困った様子で、窓の中で仕切りと首を傾げていた。
(いえいえ、本来高位の素材は特殊な物ですよ。
これはこれで正しい姿なのでしょう。
当たり前の話です。
迂闊に存在している物であれば、これほどの素材は世の中で求められて溢れておるでしょうからの。
恐らく姫様の様な特異な異能が無ければ、ただ人には手に取る事も難しい希少な素材なのですよ。
その中で存在して害を及ぼさない事も、神々の意向が感じられますな。)
どよどよとダンバル公の解釈に、大講堂が驚く声でざわめいた。
(ですが困りました。
どうやってお水を渡せば良いのでしょうか。)
(大丈夫で御座います。
この皿のお陰で水を間近に見る事が叶いました。
この素材については少しだけ思い当たる節が御座います。
少々お待ち下さいませ。)
そう言うとダンバル公は自身の懐を漁って茶色く色付けた小瓶を取り出した。
そして中身をひっくり返してドボドボと銀皿の中へ捨てると、小瓶に浄化魔法を掛ける。
(姫様。この小瓶を受け取って頂けますかな。
そして先ほどの水をこの中に少し入れて欲しいのです。
私の予想が正しければ、この小瓶の中であれば先程の水は存在を残せるでしょう。
ダメならまた消えてしまうでしょうが、宜しいかな?)
(はい。分かりました。やってみます。)
ダンバル公の手の中にあった小瓶が、ヒュンと黒円の中に吸い込まれて行った。
いとも簡単にやり取りをしているが、これは決して簡単な事では無い。
ダンバル公で無ければこの答えに辿り着くまでに、多くの水を無くしたか。
飲用には適さない毒物として処理されてしまい。
ノアシェランが不当に批判されていた危険性を孕んでいる。
実際に間近で水を吸い込んだ学園長の体調は芳しく無く。
気力を振り絞ってダンバル公を支えていた。
気絶する訳には行かない。
この場を退く様な勿体ない真似は死んでもしたくない。
そんな思いで、過剰な回復に漏れ出す魔力を身体強化として消費に勤めている。
原因が分かれば、学園長の能力を持ってしまえば対処が可能な範囲だった事も幸いだった。
恐らくダンバル公はこの危険性を分かっていたので、わざわざ水を受け止める器に皿を指名したのだろう。
少しでも濃度を薄める為に、表面を広くして拡散させたのだ。
皿に何の小細工もされて無い事は、リブロが皆の前で証明して見せている。
毒物に反応すれば黒ずむ銀色の輝きも未だ健在で、ノアシェランの水の無毒さを証明させていた。
そして戻って来た小瓶を受け取ったダンバル公は、その中に確かに液体が止まっている事を、耳元で揺らして音として確認する。
(どうやら思った通りですな。
この形で有れば、そこから外へと持ち出せる様ですじゃ。
この素材は私の予想した物と同じ物やも知れませぬ。)
おおおお……と、ダンバル公の見識の深さと広さを目の当たりにして、驚愕と喜びの歓声が上がった。
それでもノアシェランの関係者達からすれば、それは決して望ましい結果とは言えず。
グッと危機感を募らせると、奥歯を噛み締めて成り行きを見守る。
ダンバル公程の賢人が、その素材の秘めた効果が悲劇を産む危険性を、考えもせずに発言するとは全く思えなかったからだ。
案の定だった。
(姫様や。
これが私が予想している素材とすれば、確かに身体の傷は治せるでしょうが、副作用として若返ってしまいまする。
これは今の姫様には毒物と同じで危険に過ぎる代物ですな。
聞けば幼児の姿まで若返ってしまっておりまする。
今以上に若返ってしまえば、それは消滅する危険を孕んでしまいますでのぅ。)
(そうですね。
その危険性は私も感じていました。)
(尽きましては、この瓶の中にあの水を残らず全てを入れて下され。
姫様が再びこれを必要と為さる時に、神々がそれを許すので有れば。姫様であればこの素材は再び手に入れられるでしょうからの。)
(はい。分かりました。)
軽やかな口調で巧みにノアシェランから全ての奇跡を起こす可能性の有る水を、ダンバル公は手際良く取り上げたからだ。
再び手に入る可能性など、ただの推測でしか無い。
ノアシェランが何も知らないことを悪用して、高価な素材を無償で巻き上げてみせたその手腕には、全員が頭を抱え込んだ。
それでも誰1人としてそれを止められない。
何故なら確かに危険な物だと誰もが認識しているのだから。
毒物としてでは無い。
だがあれを手に入れると言う事は身の破滅を意味する危険な代物だった。
欲しいと思って手に入れた所で、それの恩恵を受ける前に国の内外を問わず。至る所から暗殺者や簒奪者がこぞって現れるだろう。
だから幼気な女性が狡猾な魔導師に無償で宝を奪われる光景を、指を加えて羨ましく眺めている事しか出来ない。
(これで全部です!)
元気いっぱいに気前の良いノアシェランが、ダンバル公が渡した大きめな瓶を飛ばし返した。
これは通常で有れば回復ポーションを入れるサイズであり。
最初に見た小瓶に比べると皆も見慣れた形と色をしている。
何故なら魔力を回復させる濃紺のポーションボトル、そのものだったからだ。
(もう残っておりませんな?)
(はい。ちゃんと全てお渡し致しましたよ?)
(それでは後日、私が作った身体の傷を治す効果の有るものと、魔力を回復させるポーションを姫様にお返しさせて頂きましょう。)
(え?!悪いですよ?
これはもう私には必要の無いお水だったのですから。)
(イヤイヤ、姫様が私に下さったものと比べたら、ありふれた詰まらぬ代物ですので、お気になさらず。受け取って下され。
さもなくば孫ほど年の離れたうら若き女性から、無償で品を巻き上げた汚名を着せられかねませんからなぁ。)
(うん。ノアシェラン。貰っておいて損はないよ。
むしろ物の価値を思えばノアシェランの方が絶対に損をしてるんだから。
売るなら確実にノアシェランが持ってた物の方が高く売れたからね。)
(ウーン…まずかったですか?
金貨だけではお金が足りませんでした?)
(ううん。そっちの心配なら必要は無いね。
庶民が一生遊んで暮らしたとしても安泰なぐらい価値があったからね。)
(それなら良いです。
もう確かに私はこれ以上若くなるのは危険でしょうから。)
45歳は決して若いとは言えないが、確かにダンバル公の孫よりは若く。無償で巻き上げた点で言えば、皆も同じように思っていただけに、苦笑いを浮かべて視線を逸らす。
ただの回復ポーションと若返りの水とでは、その価値の差は歴然と開いているものの。
彼が錬成して作ったポーションの効果は優秀で、それなりに手に入りにくい貴重な代物とは言えたのだ。
価値からすれば雲泥の差が有るとは言っても、ただ人がそのまま飲むことの出来ない水と比べると。
使い勝手の良さだけに関して言えば、ポーションの方に軍配は上がる。
形だけのお返しとはなるが。
それで本人達の間で不満が無ければ、一方的な搾取にはならず。
平等な交換として取引が成立する。
例え交換した相手の片方が無知だったとしても、この場合は成人している年齢なだけに、自己責任の範囲内となり。
詐欺罪には値しない。
まさに巧妙な手口でダンバル公は堂々と身の潔白まで証明してみせた。
完全なるグレーであっても、保護者である国王の目の前で行われているだけに、これでは誰にも文句が言えない。
完全犯罪が成立した瞬間だった。
「それではせっかく頂いたこの水の見識を私なりの仮説を立てて、皆にお伝え致しましょう。
その前に…」
ポーションボトルを左手に、そして小瓶を懐にしまったダンバル公は、床に置いて杖を握って素早く突き出す。
(?!)
「「「 ?! 」」」
一瞬の隙を突いて行われた凶行に、咄嗟に反応したのはウィンスだった。
しかし彼が動けたのは守るべきレオナードの前に結界を張る事まで。
ダンベル公が放った炎の弾丸は凄まじいスピードで黒円を撃ち抜く。
(ノアシェラン!)
(え?え?)
咄嗟にデュオニュソスに名前を叫ばれた彼女は、それにビックリして目をパチクリと瞬かせる。
そして彼女から伝わって来る驚きの思念を受けた全員が、ホッとしたのと同時にキッ!と警戒をダンバル公へと向けて放つ。
(おおお、素晴らしい!
スルリと抜けて仕舞いましたな。)
彼の言う通り。
当たるかと思われた炎の弾丸は、黒円を抜けた空中でパッと霧散したのだ。
(一体何のつもりだダンバル公よ。)
(なに、これもまた一つの実証件分ですな。
口で説明してみせるよりも、実際に目にして頂いた方が、寄り一層私の説明にもご理解頂ける事でしょう。
続いて剣であれを突いてみて欲しいのですが。
今の私にそれは出来ませぬ。
どなたか代わりに試して頂けますかな?)
(するわけが無いだろう!
ノアシェランに何かがあったらどうするつもりだ!)
流石にレオナードもこれにはブチ切れた。
確証など何も無い。
魔法の攻撃でダメージを受け無かったのは、単なる結果論に過ぎないからだ。
ノアシェランが怪我をしたり、怯えて逃げ出さなかっただけ良かったが。この暴挙は流石に看過出来なかった。
(私は物理的な攻撃もアレには通用せぬと思っておりますがの。)
(そんなもの!万が一何かがあったらどうするつもりだ!
そなたが命を張った所で到底許される行為では無いぞ!)
王族を攻撃したことに該当する場合、身分そのものが関係無く、厳罰に処される。
今回の場合に限って言えば、ただ王室に名を連ねているのでは無く。
神に対しても弓を引く行為に等しい。
神の逆鱗に触れた国が、果たしてどうなるのか。
その怒りを思えば当然の結果だった。
(ふむ。
これは試す価値の有る実験ですがの?
つまり剣での攻撃を受け付け無かった場合、あの中に居る限り。
この世の人では姫様を傷つけることが誰にも出来ない事を証明する事となりますぞ。)
(だ、だから!
それがもしそうで無かった場合が問題なのだ!
実験してノアシェランが傷ついた場合は、彼女自身の命も危ういのだぞ!!!)
(神罰の有無も確認出来ますがの。
やれやれ今代の国王の小心さと来たら。
嘆かわしい。)
(拗ねても無駄だ!
ノアシェランへの蛮行はこの私が一切を禁ずる!)
だが声高に叫んだだけで、レオナードはダンバル公を捕縛させる指示も罪を叫ぶこともしなかった。
その時だった。
(おー、本当に通り抜けるぜ。)
感心した様な、面白がっているアトスタニアの呑気な声が響いて、レオナードはあ然と背後を振り返る。
するとアトスタニアが黒円に剣を振りかざしている姿が見えて、レオナードは一気に顔を青ざめさせた。
(ホ、ホントですねー。
不思議です。
中から見たら剣の断面が虹色に輝いてますよ。)
そこにまたちょっとドキドキしているノアシェランの声がダメ出しで響いた事で、レオナードはズキズキと痛む頭を片手で押さえるしか無い。
(ふむ。流石は国王付きの近衛団長様ですな。
神の神罰を恐れぬその勇気。感服致します。
姫様もまた団長殿が自身を傷つける者では無い事を認識しておるのですな。
結構なことですじゃ。)
((エヘヘ))
(照れてどうする、この馬鹿者共が!
誉められておるのでは無い!
馬鹿にされておるのだ!)
((えー?!))
(馬鹿になどしておりませぬぞ?
少し被害妄想が過ぎますな。)
これにはデュオニュソスも唇を噛んで黙るしか無い。
アトスタニアと黒円からクスクスと笑っているノアシェランの雰囲気を感じて、それに反射的に苛立ったものの。
内心ではホッと胸を撫で下ろしていた。
ウィンスも苦笑を浮かべる。
ダンバル公が安全性を保証したから、アトスタニアは一触即発の空気を和ませるべく即座に動いた。
そして師匠と険悪な雰囲気になったレオナードを気遣って、ノアシェランがそれに上手く乗ってみせたのだ。
ただ本当に計算を働かせたのは、アトスタニアはともかく。
ノアシェランとはまだ見識の浅いダンバル公の方だろう。
ノアシェランへの攻撃は、初回だけはダンバル公の威光で罪を逃れることが出来るかも知れない。
けれども二度目となれば、レオナードの立場からすれば、絶対に看過出来ない暴挙となる。
だからダンバル公は敢えて挑発行為を働き、レオナードと険悪な雰囲気を装ってみせた。
ノアシェランとのやり取りで、彼女の人が良い性格を把握していたからだ。
そしてアトスタニアとは師弟関係にあったが為に、其処には信頼関係が深く根強いていた。
だから必要性を解いて小心者と批判して見せた事で、その発言を信頼したアトスタニアが動けたのだ。
恐らく剣を向けて来たのがアトスタニア以外の者だったならば、流石にノアシェランも警戒しただろう。
けれども彼女はアトスタニアがレオナードの腹心である事を知っている。
(…でも良かった。
本当に窓が切れなくて…。
お師匠様とお父様が私の事で喧嘩する必要なんて無いもんね。)
潜めている様で全く潜め切れていないノアシェランが安堵する様子に、大講堂の中に居る者達は全て彼女に対して強い好感を感じた。
彼女はアトスタニアを信じたからこそ恐れる気持ちに蓋をして、その暴挙を試験行為として受け入れたのだ。
全ては険悪な雰囲気となった2人の為だけに。
その勇気に対して関心しない者が果たしてどれだけ居るだろうか。
剣の切っ先を向けられる恐怖は、例えそれが安全だと分かっていた所で消え去るものでは無い。
それは外敵の多いこの世界で、剣を扱う人間が多い事から。
惚けた演技が大根だろうが受け入れられたのだ。
だがレオナードからすれば、守るべき娘に守られた形となる。
それは父親としての甲斐性を疑われる行為で有り。
頭が痛む話だろう。
だがこれで実証されたのだ。
王室に剣を向ける行為は万死に値する。
けれどもこの場に置いては誰も罪に裁かれる事も無く。
あの得体の知れない黒円が、ノアシェランを外敵から守るもので有ると立証出来た。
この功績は凄まじく大きい。
訳も分からぬ能力の効果を、1つ紐解いて見せたのだから。
ダンバル公は優秀な人なのだ。
国の者が知らなかった知識を伝え。
そしてその有益さを買われて、代々の国王の教育を担当し。
数々の弟子と信奉者を生み出して行った。
これぞ正に学問と教育の父足らんダンバル公の真髄と言える。
リブロが彼を外せなかった根本的な理由だった。
「さて、お陰で一つ有益な情報が得られましたな。
では最後のパーツを埋めて見せましょう。
とくとご覧あれ!
この木の年輪の如く皺の刻まれた腕を!」
ダンバル公は再び杖を床の上に置くと、高々と右腕を掲げて見せ付けた。
遠くに居る者は、使える者は目に身体強化を働かせて眺めている事だろう。
そしてそれは近くに居る者も同じ様にして目を凝らす。
それぐらい皺と言うものはとても見えにくかった。
学園長ぐらい近くに居れば、良く見えているのだろうが。
同じ舞台に立っているレオナードですら、腕の細さは良く見えた所で、皺の方は肉眼では難しい。
そして一身に視線を浴びたダンバル公は、魔力ポーションの方の蓋を指で弾き飛ばし。
一気に中身を仰いでみせる。
ゴキュゴキュと音を立てて一息で飲み干すと、顔を下げてはふぅ…と吐息を小さく漏らした。
魔力が枯渇寸前だった彼の身体から、見る見るうちに凄まじい魔力が漲って行く。
「ふんぬ!」
そして床に座り込んでいた彼の身体が、明らかに一回り大きくなると、ブカブカだった法衣が見る見るうちに張り詰めて行く。
「うおおおおおお…」
野太い雄叫びを腹の底から挙げたダンバル公が、スク!と勢い良く立ち上がった。
「力が…力が漲って参りますぞ!」
見ていれば分かる光景だったが、興奮に満ち満ちた老人だった声に異変が起きていた。
ハアァァ…と、大きな吐息を吐き出した彼が、余りある多大なる魔力を自身の技術を持って濃縮して行く。
この方法は莫大な禁術を行う際。
魔力切れで死なぬ為に、事前に施しておく技術の一つだった。
けれども今は、その身を破裂させそうな程に膨らんで行く莫大な魔力を小さい袋に詰め込んでいる作業だ。
額に脂汗が滲み出て、苦痛に顔が歪んで行く。
「むんんん!!!」
けれども気合いを込めて立ち上がる際に掴んだ杖を、頭上に掲げて魔法陣を発動させた。
(…ふう。ヤレヤレですじゃ。
危うく身体が爆発して仕舞うかと思いましたな。)
未だにその身体には高位の魔力が渦巻いているのが手に取る様に分かってしまうが。
どうやら暴走する危機は乗り越えられたらしく。
とても穏やかな翡翠の瞳を、黒円に向けて笑みを浮かべる。
「…若返った…の、か?」
レナードが漏らした一言に、周りの疑問が同調した。
「若返りましたぞ!
見て下され、この腕を!」
そして先程のりも一回り太くなった腕を、ダンバル公が掲げて見せたのだが。
確かに太くなったかな?という程度で、元々皺の方は見えにくかったせいで、イマイチ効果の程が分かり難い。
(そう言えばそなた、10年前も今の様な成りをしていたな。
私では比較が難しいようだ。
リブロはどうだ?)
(申し訳御座いません。
私が初めて出逢った頃のダンバル公も、今とそんなにお代わりは御座いませんでした。)
(さもありなん。
ノアシェランなら外見の比較は容易だったのだろうが、少なくとも30年前から老人だった者が、同じような年代を減らした所で外見は余り変わらぬのだろう。)
(すみません。私が持っていたお水が、お師匠様では量が足りなかったのですね。)
申し訳無さそうなノアシェランが、皆の疑問の応えを代弁してみせた。
(確かにこれでは本当に若返りの薬だったかは見た目では余り分かりませんね。
魔力の回復効果はあった様ですが、不完全です。
せめて片腕ぐらいは切り落としてから試して頂きたかったです。)
(ええ?!
何て怖いことを言うんですか!
あんなご老人にそんな真似をしたら亡くなってしまいますよ?!)
ウィンスの凄くガッカリとした感想を、ノアシェランが慌てて責め立てる。
(でもせっかくの高価な素材でしたでしょうに…。)
けれども懲りないウィンスの感想に、ダンバル公はニヤリと笑ってみせた。
(イヤイヤどうして、若返りの効果を私は実感しておるぞ。
そしてこれが何なのか。
それもかなり推測の精度が上がったな。)
その勝ち誇ったドヤ顔が何となく期待外れなムードを苛立たせたのだが。
彼はどこ吹く風の様に背筋をピンと伸ばして胸を張った。
(あ、でも何となくさっきより髭が短くなってないか?)
アトスタニアに言われて見れば、豊かな眉毛と髭の毛量のせいで全体的な雰囲気は老人のままだが、太物辺りまで伸びていた髭が明らかと腹の上辺りまで短くなっている。
(明日にでもその効果を皆にお見せ出来ましょうぞ。
髭を剃るのは久し振りですじゃ。)
確かにその邪魔なものを除けたのなら、少しは肌の状態が分かって印象が代わるのかも知れない。
でもそれなら先に剃って置いて欲しかった。
代わり映えの乏しい。
間違い探しか!と、言いたくなる微妙なビフォワーアフターの差に、周囲の不満が軽く募っていた。
(して先ほどの水への見解を語りましょう。
あれは伝承でも有名なエルフの妙薬には些か劣りますが、それに果てしなく近い素材ですな。
イヤ。正確に言えばエルフの妙薬を作るのに必要な素材の1つで有りましょう。)
「「「「?!」」」
衝撃的な見解にノアシェランを除いた一同が一斉に息を呑んだ。
(エルフの妙薬って、なんでしょう?)
(ふむ。姫様はご存知では無いのですな?)
(すみません。私はまだこの世界に来て日が浅いものでして…)
(そうでしたな。
それではお知りで無くとも仕方がありませんな。
では説明を致しましょう。
エルフの妙薬とは今は亡き原始のエルフが、神々の為に調薬した回復薬と言われておりますじゃ。
寿命の無い神々からすれば、疲れを癒やす効果しか無かったのでしょうが、神々に作られたエルフからすれば、若返りの効果を発揮したと言われておりますの。)
(へぇー、そんなものが有ったんですね。
だからエルフの方々は寿命の長い生き物だったとか?)
(その通りですじゃ。
ですがそれは神々やエルフからすれば薬となるもので有っても、人からすれば回復過剰な魔力が害となり、死を与える毒薬と言われておりますな。)
(え?!毒になるのですか?!
そんなものを飲んで、お師匠様は大丈夫なのですか?!)
(この通り、ピンピンとしておりますの。
しかし本来の妙薬そのものであったのなら、難しい所でしたが。)
(すみません、知らなくて。
私はまた知らずに危険な物を出してしまったのですね…)
とても落ち込んだ気配を滲ませたノアシェランだったが、その時明らかな異変に全員が気づいた。
(ダンバル公…そなた、まさか…)
(ふむ。魔力が余り過ぎて少々危なかったので、先程の結界を上書きしたのですじゃ。
やはり不完全なままでは気になりますでの。)
前回は魔力を使い果たしてへたり込んでいた結界の事だと、その説明でその異常さに全員が驚く。
(ま、魔力の保有量が増加しておられるのですか?!)
ウィンスが全員の驚愕を代弁してみせた。
(如何にも!
若返った事で全盛期に近い魔力の含有量を保持する事が可能となったのです。
流石に最近は1つ大きな術を使えば、へたり込んでいる様な無様な有り様で御座いました。
老化で痛んでいた体内の魔臓が、先ほどの水で修繕された様ですな。)
(な、なるほど…)
(私もエルフの末裔と言えども純粋な者と比べると些か別の種族の血が混ざっております。
それでも長年鍛え続けた技が有れば、姫様の仰られる程度の効果であれば耐えられると踏んでいたのですが…。
私でも正直な所、紙一重で御座いました。
制御に失敗しておったら、この辺り一帯が吹き飛んでおったでしょうから、姫様以外の者達は実に危ない所でしたわい。
アッハッハ!)
(笑い事では無かろうが!
何をいきなり無謀な真似をしてるんだ、ダンバル公!)
結果論次第ではこの場に、ノアシェラン以外の全員が死んでたね宣言に、思わず青筋を浮かべてデュオニュソスが怒鳴った。
これは苦笑いしている貴族達全員の心情を代弁している。
(ホントにもー…ダンバル公はダンバル公なんだから…)
両手で顔を覆って呻くレオナードに、殆どの者達が同意して頷く。
(我が天命ですじゃよ。
現代の国王。
どうやら私は姫様と出逢う為に、長く彷徨ってはこの地に根付いたのですじゃ。
これも正に神々の計らいで有りましょうな。)
(それは確実に結果論で有ろうが!)
(如何にも!)
(胸を張るな馬鹿者が!
開き直るで無いわ!いい加減にしろ!!)
爵位が無くとも教育の父に対するデュオニュソスの罵声に、それでも今回ばかりはこの場に居る誰もが同意する。
だが企みは成功した。
全員の肝を寒からしめた暴挙でしか無いのだが。
これらの功績が権力を越えた信頼と期待を寄せられるダンバル公の所以だ。
失敗したらそろそろ洒落にならないので、いい加減頼るのを止めたい御仁では有るのだが。
こういう未知なる状況が絡んで来ると、非常に頼りになる人では有る。
(つまりノアシェランが見つけた水は、妙薬になる材料だったって事なら、普通の人が飲むと死んでしまうって事だよね?)
(そうですな。
私ですら危うかったのです。
私と同等か、それ以上の魔導師でなければ、飲むのは自殺行為と言えましょうの。)
(そう…ありがとう、ダンバル公。
お陰で心配事が一つ減ったよ。)
つまり皇国の怪物王が望んで手に入れた所で、利用しても死んでしまう。
若返りの効果はないと言う事だった。
(ふむ。ですがこれが湯水の如く手に入れられるとすれば、研究次第ではエリクサーが作れてしまうやも知れませんの。)
(…手に入れられるのかい?)
(私の推測であれば難しいかと思われますが、姫様に頼んだ方が早いでしょう。
姫様や。
もう一度この水が手に入れやれるか試してみて下され。)
(はい。分かりました。)
(ちょっっ…)
(大丈夫ですじゃ。
神々が愚かな真似を致す訳がございませぬ。
姫様を信じてお待ち致しましょう。)
慌てたレオナードとデュオニュソスが動く前に、ダンバル公が釘を刺す。
これはしっかりとこの場で示さなければならない。
手に入れられる可能性が残ったままでは、例えそのものが危険で有ったとしても、欲しがってノアシェランに群がる者が現れる。
そうで無かったとしても身の危険は多いに有るのだろうが、なるべくなら少しでも危機は減らしたい。
そんなダンベル公の思惑を言外に察した2人が黙り込んだ。
(すみません。
一応同じ様にお願いしてみたのですが。
どうやらこの世界から消えてしまったみたいです。
窓が私の願いに反応してくれませんでした。)
(そうでしょう、そうでしょう。
姫様や。お手数をお掛け致しましたですの。
矢張り神々は姫様を救う為にこの水を使い。
姫様にこの世界の事情をお伝えする者となる私のみに使わせたのでしょう。
これを持ちまして私の検分は一旦終了させて頂きます。
話の腰を折って申し訳ありませなんだな。
どうぞ姫様の教師をお決め下され。
私も当然立候補致しますがの。
流石にこの役をアレに任せるには荷が重いでしょうよ。)
(あー…、うん。
仕方が無いよね。
ダンバル公にお願いするよ。)
(御意に御座います。
粉骨砕身の決意で必ずや現代国王のご期待に応えてみせましょうぞ。)
言われなくたってするよね。
そんなニュアンスを込めたレオナードの諦めが混ざったご指名に、ダンバル公は満面の笑みを咲かせて深々と頭を下げたのだった。
思った通りの予定調和だったが。
想像していた以上に謎の解明が進み。
貴族達の認識を深める事が可能となり。
予定になかったノアシェランを見せた事で、好意的な印象を残す事が出来た。
予想よりもずっと実りはあったが、肝が冷えて疲れる結果となった。
もう驚きの連続でぐうの音も出ない。
この先に巻き起こる動乱を思えば、良好過ぎて逆に恐ろしくなる展開だったが。
一応尽くせる手は尽くす事が出来て一安心と言った所だろう。
「お疲れ気味の現代国王にも、お一つ私のポーションをお届け致しましょう。
なに、遠慮は要りませぬ。
この様な奇跡を招いて下さったのは全て、現代国王の功績ですからの。
心の底から感謝を致しますじゃ。」
「……うん、ありがとう。
とりあえず有り難く頂いておくよ。」
上機嫌なダンバル公に心の底からウンザリとしながらも、疲労困憊で今すぐにでも眠りたいレオナードは、適当に流して議長へ閉会の合図を送る。
(ノアシェラン、最後の時だ。
せっかくだから君の愛らしい姿を皆に姿を見せてあげて。)
締めの挨拶代わりに、レオナードが彼女にそれを望むと。
デュオニュソスが頭で何かを考えるより先に、黒円に向かって両手を広げた。
理性的に考えれば公の場でレオナードの手を煩わせる必要も無いと、気を利かしたと言えるが。
歩くのも覚束無い幼い彼女を抱くのは自分の役目だと、エマルジョンが施した教育の賜物が婚約者の自覚をもたらしたのやも知れない。
こっちに来いの合図と受け取ったノアシェランも、大勢の人の前に姿を晒す恐怖から、馴染みの有る腕の中に飛び出して行く。
ノアシェランが寝ている最中に、何とか一着だけ間に合わせた侍女と針子渾身の力作。
白字に色とりどりな糸で縁どりさせた、ワンピースの裾をヒラヒラと空中に靡かせながら、シッカリと受け止めたデュオニュソスの胸元にしがみついた。
ちょうど見上げると、見下ろしている青色の瞳と視線が合ったが、別に侍女のアドバイスに従った訳では無い。
偶然そうなっただけだ。
おおおおおおおーーーーー!!!
本日一番の歓声が上がって、ビクリと怯えたノアシェランを、デュオニュソスは自然と抱き締めていた。
あれだけ嫌悪感にまみれていた筈が、今は庇護欲にまみれてしまい。
こうする事が当然の行為としか考えられなかったのだ。
(大丈夫。怖くないよ。
皆、君に出逢えて喜んでいるんだよ。
此処にはこの国全ての貴族達が集まっているんだ。)
ノアシェランの怯える姿を見て、レオナードが優しく諭す。
(…貴族の人達…、こんなに沢山?)
ノアシェランの知識に、学校で習った昔の日本のヒエラルキーが頭の中に蘇った。
日本の全ての人口比で、武士家は僅か1%。
つまりこの場に居る貴族は、総人口の1%に近い比率の筈であると考えたのだ。
(半分は使用人かな。)
(そうですか…。
それなら意外と総人口は少ないのかな?
こんな沢山の人達の前に立つのは初めてだけど。)
せいぜい学生時代の朝礼を思わせる人数に、それでも群集側だったノアシェランは、多くの興奮してぎらついている視線を感じて萎縮している。
それでもダンバル公が張り直した結界の効果で、ノアシェランの感情が萎縮してようと関係無く、会場は大いに興奮状態となっていた。
挨拶をさせるのはまだ無理だと悟ったレオナードが、視線を議長役の宰相へ向けると。
「それでは只今を持って臨時大集会を閉廷とする!」
宣言を述べた後でエクスタードはカンカンと木槌を打ち鳴らした。
こうしてノアシェランは訪れたその日のウチに、その存在を国中の貴族家に知らしめる事が出来たのだった。
明日には民衆や他国にも伝わって行くだろう。
それを思えばレオナード達が安眠を貪れるチャンスは、今夜限りなのかも知れない。
登場人物
レオナード・フォン・ペルセウス
ペルセウス王国の国王
ディオニュソス・ダルフォント
国王の侍従 ダルフォント男爵
ダルフォント公爵家直系の嫡男。
アトスタニア・レガフォート
近衛騎士団長
レガフォート子爵
ウィンス・ベッケンヘルン
宮廷魔導師長官
ベッケンヘルン伯爵
ノアシェラン・ペルセウス
主人公
リリスティア・ベルモット・ペルセウス
ペルセウス王国の正妃
ルクテンブルフ皇国第43女
ベルトラント・レスターナ・ペルセウス
ペルセウス王国の皇太子
ペルセウス第一王子
リブロ・スゥェード
国王付き執事長
スゥェード準男爵
エマルジョン・バーゲンヘイム
ハーゲンヘイム伯爵夫人。
レオナードの元乳母。
国王付き侍女長
エクスタード・ボルカノン
ペルセウス王国の宰相
マーヴェラス・ダルフォント
ダルフォント公爵夫人
デュオニュソスの祖母
ダンバル・デュッセルドルフ
デュッセルドルフ男爵
教育の父の称号を持つ魔導師兼錬金術師