ノアシェラン第一王女誕生
このページから日本語を表現をしていた「」を『』に。
ペルセウス語を『』から「」へ変更させて頂きます。
ウィンスが治癒魔法をかけて顔のスリ傷を治した後。
ノアシェランの世話を侍女長のエマルジョンに託すと、国王を始めとした幹部4人は居住区である寝室から離れた、業務を行う為の執務室へ向かう。
実はあの場にも居たが、普段は口を挟まず影に徹して主に付き従い。望まれた時に最高の仕事をこなす役目を持つ執事長と言う役職故に、存在感が薄かった白髪の老人リブロ・スゥェードの姿も有る。
4人目の腹心だ。
他にも政治を行う為には、それぞれ役職を持った大臣や宰相も居るが、幼い頃から未来を見据えて、レオナードと同じ立場で物事が見据えられる護衛を兼ねた友人が、デュオニュソス、アトスタニア、ウィンスの3人で有り。
リブロは唯一年配の男性として、それらを見守りフォローする立場として、レオナードの影として付き従っていた。
「何故この様な暴挙を!答えろレオン!」
重厚なスフレス材の扉を閉めて、防音魔法が働いた瞬間。
溜まりか兼ねた様子で、黒髪のデュオニソスが歩み続けているレオナードに向かって叫ぶ。
幼なじみの彼が激昂するのは何ら珍しく無いお陰で、レオナードは涼しい顔付きのまま、執務机前に置かれた応接用の革張りのソファーに腰を下ろす。
そんな主にお茶を提供する為に、リブロは素早く隣接している簡易厨房に入って行く。
「何時までも喉元に刃物を突き付けられるのもね。
まぁ、クソ爺へのちょっとした意趣返しだよ。」
長い足を組み合わせながら、レオナードは飄々とした笑顔を咲かせた。
「何を馬鹿な事を…。
短慮にも程が有るぞ!!!」
呻く様に喘いだデュオニソスは、苦しい胸の内を吐露すべく、言葉を絞り出した。
「でもね。
手は先に打ってこそ価値が有ると言うものだろう?
何も天や運に任せて自殺するつもりじゃ無いよ。
最悪の場合でも私の首がすげ替えられるだけで済むのだから、我ながらつくづく良い手が打てたと誉めて欲しいぐらいだ。
まぁ、巻き込んで悪かったとは思っているけどね?」
少しも悪いと思ってない晴れやかな態度で、リブロが静かに机に置いた紅茶のティーカップへと手を伸ばした。
陶器はまだこの国では生産されていないが、なるべく国内の物で揃える主義の国風には珍しく、南の国産の物を使っている。
何しろ自国の無骨な木製のカップを要人に出せば、田舎者扱いされるのだから苦肉な妥協だ。
因みに此処まで早く茶を出せるのも、リブロの達人級の仕事はもちろん、北の皇国から仕入れている簡易湯沸かし魔導具のお陰。
要人は待たせる訳には行かないので、求められる措置だと言える。
必要な場合には融通を利かせるのも、この国の国風と言えるのだろう。
例えば今回の様に。
そんな思いでティーカップをデュオニュソスに見せながら揺らして、レオナードは自国製紅茶を味わってみせた。
「えぇ…今でも信じられない思いです。
此処まで見事に気配を断って、あの様な歩くのも覚束なさそうな小娘に容易く侵入されるとは。」
「うん。
恐らく私達が把握している以上に恐ろしい能力だろうね。
なるべく安全で穏便に。
尚且つ緊急に究明しとかないと。
ヤレヤレ、只でさえ忙殺されてるのに、今から仕事の嵐が目に浮かぶよ。」
「でもよー。あの判断は早過ぎたんじゃ無いか?
多分一刻も経たない間に喧しいご意見番達がこぞって現れるぜ?
年寄りは朝が早いらしいからな。
わざわざ足りない時間を更に縮める必要はあったのか?」
今も興奮覚めやらぬ感じで、何時もは青白い頬を桜色に染めたウィンスに、肩を竦めておどけて見せたレオナードを、アトスタニアがウンザリとした口調で詰った。
「嫌。あれは最善の一手だよ。
デュオニュソスを巻き込めたのも上出来過ぎて震えるぐらいさ。
お陰で責任を問う小煩い連中を、あの子の慶事で煙に巻ける。」
ウフフフ…、と。
普段からの黒い鬱憤にまみれた笑みでレオナードは唇を歪める。
「ハァ…この期に及んで首が惜しいとは思わんが、そちらの無駄は確かに省けるのか。
まぁ、向こうが素直に慶事と認めればだが。」
「その為の手は討とう。
あの金貨の真贋を爺さん達が来る前に調べて置いてくれ。
それと養子の手続きも今日中に済ませる。
リブロ。候補者のリストを。
アトスタニアはあの子に見合う護衛を。
デュオニュソスはあの子のご機嫌伺い…、かな?」
時間は金よりも尊いと言わんばかりに、レナードは手慣れた様子で指示を飛ばす。
指示通りに幹部の3人が動き出そうとした所で、デュオニュソスは思い詰めた様な切実な視線をレオナードに向け。
「だが何故俺の婚約者にあてがった。
忘れたのか?忌まわしいあの祖母の存在を。」
口にするのも嫌だと言わんばかりに端正な顔を自嘲に歪める。
「私の王妃を忘れているのはデュオの方だろう?
これほど重大な問題を託せる有能な人材が、他に居ないんだから仕方が無いさ。
独身だった君が悪い。
流石の私でも、養女とは言え第一皇女に独身の男は近づけさせられないからねぇ。」
「アトスタニアもウィンスも居るだろう!」
「ねぇ、それ。本気で言ってる?」
「心外だなぁ。
俺が一番このメンツの中じゃ女の相手は心得てるぜ?」
「私も惜しみなく彼女には興味を抱いておりますが。」
「ハァァァ…」
肩を竦めて見せるアトスタニアと、眼鏡を光らせているウィンスの姿に、デュオニュソスは絶望の溜め息を盛大に吐き出す。
アトスタニアが馴染み深い女性達は全て、妙齢な既婚女性か職業婦人。
例え中身がババアの年齢とは言え、むしろだからこそ。
外見上は未婚のうら若き乙女なのが末恐ろしい。
「貴族男性に問いました。娘に近寄らせたくない男ランキングナンバーワンは誰か」と聞けば真っ先に出て来る人物で有り。
ウィンスに至っては魔術関連以外の物事に対しての興味が薄く、常識的な所が及んでいないのが大問題だった。
「全く。私は神にこれほどまで感謝した事は無いよ。
居るだろうとは知っていたけど、本当に居るとは思わなかったね。」
「その判断は早いだろう?
破滅を招く邪神の使いやも知れん。
もしくは単なる世間知らずな魔物だ。」
呑気にワクワクした顔で少年らしくなっているレオナードに、思わずデュオニュソスも眉間に深い皺を寄せる。
「私は神が遣わした妖精だと思っているよ。
精霊は生身じゃ無いのだから。だったら妖精だろう?
羽は生えてないみたいだし。」
「ふむ。あの瞳は少し気になりますが、それ以外に人外の要素は有りませんし、妖精と言われても否定は出来ませんね。」
「まー、突入した瞬間にウッカリ仕留め掛けたらしいからな。
まさかあんな事で怪我をするとは。
貧弱過ぎて俺にも魔物とは思えん。」
「そんな風に装っているだけだったらどうするんだ。
巧妙過ぎて薄気味が悪い。」
リブロから戸籍ロンダリングの為の養父候補者リストを受け取りながら、童話の伝承を持ち出したレオナードに、ウィンスも魔法で部下に指示を飛ばして推察を述べた。
アトスタニアも副団長宛てに魔法で伝言を飛ばした後で、腕を組みながらウンウンと唸る。
好意的らしい呑気な面々に対して、デュオニュソスは心底嫌そうに吐き捨てた。
妖精だろうが魔物だろうが、彼にはアレが人とは到底思えなかったからだ。
自分も含めて黒髪はそれなりに存在している。
けれども黒い瞳を持つものは未だかつて見た事が無い。
しかも感情が高ぶるとトパーズの様な虹色の光を纏うのだ。
まるで人を真似た出来損ないの人形の様に。
単にコントロールを知らない身体の魔力が感情で瞳に集まっていただけなのだが、見た事の無い瞳の色と能力にデュオニュソスは生理的な嫌悪感を抱いていた。
愛くるしい姿で慈愛の感情を振りまけば振りまくほど、こちらを欺く為の策か演技だとしか思えない。
「デュオはひねくれ者だからね。」
「レオンが単略的なだけだ。」
「素直と言って欲しいんだけど?」
「俺も思慮深いと思っているが?」
『懐かしいやり取りだなぁ…。』
先王が崩御して早くも4年。
死に物狂いで危機を乗り越えて来た幼なじみの気安さが、貴重な時間を軽口で潰してしまう。
(ぎぃやああああーーーー!!!
服ぐらい自分で脱げます!
ひょえあああぁーーーーーー!
お願いだから止めて下さいぃぃぃ!!!
お風呂ぐらい1人で入れますからぁぁぁー!!!)
そんな和やかな空気を切り裂く幼女の悲鳴に、全員がビキリと彫刻と化す。
「………風呂に入るなら部屋だよね?」
「侍女長には再奥の部屋を使う様に申し付けております。」
「嘘だろう?!
此処までどれだけ離れていると!」
「感情で魔力が高まっているのでしょう。
それにしてもこの距離で不安定な思念を飛ばせる者はそうは居ませんが。」
「そんな事よりも!
此処には防音の魔法が張られているのだぞ?!
それを突き破って来る異常さを先に問題にしろ!
やはりあの魔物は今直ぐに殺すべきだ!!」
呆然と呟くレナードに対して、言外の指示に従ってリブロが口早に報告すれば、アトスタニアは動揺の余りに頭を押さえ。
ウィンスは畏怖を超えた好奇心いっぱいの瞳を輝かせた。
呑気な心配をしているリブロ以外の友人達全員に対して、デュオニュソスは何時も通りに激昂して怒鳴る。
「殺すのは却下。
勿体ない。それに逆に危険だよ。」
「ええ、伝説の存在ですよ?アレは。
殺すならせめて色んな事を検証してからにして欲しいですね。
まぁ…、殺せるものなら、ですが。」
「さすがにあんなに幼い娘を殺すのはなぁ…。
方法は有るんだろうが…後味は最悪だぜ?」
「何を呑気にしている!国が滅ぶぞ!」
「滅ぶ訳が無いだろう?
名前が多少変わった所でベルが居るんだし。」
「そう言う問題では無い!
あれは人が手を出してはならない存在だと、何故分からん!」
「向こうが勝手に来ちゃったんだよ?
だから手は出して良いんだよ。
それが向こうの望みだからね。」
「私もそう思います。
人とは思えませんが、人に添って生きる存在として神に作られているのでしょう。
そうでなければワザワザ従来の人と内面を変化させる理由が有りません。
アレを妖精と過程したとしても残る違和感です。
人を害する存在で有るなら尚更、此方に違和感など与えないでしょう。」
「ウーン、確かに悪さをするには目立ち過ぎだよな。」
「そう思わせて置いてこちらを欺く手段やも知れんだろ!」
「だとすれば稚拙過ぎるよ。
そんな事よりも、どれだけの範囲に及んでいるか早急に調べさせてくれ、ウィンス。」
「どうやら第2門までは確実に届いている様です。
第1門への詰め所にはコレから聞き取りに行かせます。」
「うへ、そりゃあまたどえらく筒抜けるな。」
「あ、金貨の鑑定結果が出ました。
白ですね。
どうやら古代ダルブント遺跡からの代物と同種だそうです。
現在使われている我が国や諸国の金貨よりも、金の含有量が多いようで歴史的な価値からしても2.5倍は硬いですね。」
「うん。
この期に及んで偽物とは思って無かったけど、偽造する手間が省けて良かったね。
それじゃあデュオニュソス。
対応を宜しく。
あくまでも彼女は私の養女で君の婚約者だ。
これは最低条件なんだから女性には優しくだよ?」
「っっっ…」
「王命」
「………御意!」
忌々し気にレオナードに吐き捨てたデュオニュソスは、事態のフォローへ走る為に執務室から足音を立てて遠ざかって行く。
本来なら逃げ場を塞ぐ王命を連発するのは人道的に問題が有る。
けれどもレナードの人生に置いて初めての王命を連発している時点で、デュオニュソスも不本意ながら同調を示すしか無いのだ。
元来一国の王に対する臣下の暴言は絶対に許されない。
だがレナードは君主制による統治の手法として、自分の地位に近かったデュオニュソスにその役目を負わせた。
現在一番レオナードの地位に近いのは、王太子の長男だが。
彼はまだ3才の幼子。
故に祖父が先王の実弟であり、代々皇族を受け入れて来たデュオニュソスの家系が薄幸の王家の予備として存在している。
先王の崩御が早過ぎた。
デュオニュソスが声高にレオナードの方針に異の道を唱える立場を取る事で、少なからず不満に思う者達の声を代弁してみせる。
それに対して寛容さをレナードが示し。
ウィンスとアトスタニアや宰相等の要人の反応を見ながら時には方針を改める事で、若さを侮られ無い様に、理性有る国王の姿を演じているのだ。
(……レオンは死ぬつもりなのか。)
凍った感情のまま、抱えていた弱音が思考となって零れる。
自殺をするつもりは無いと口にしながらも、この選択で彼が命を落とす危険性が非常に高まっていた。
けれども元々それは今更の話では有る。
だからレオナードは若者特有の柔軟性を生かして起死回生の一手を打った、と。
それはデュオニュソスでも流石に分かっている。
問題は未知数な相手を使って、針に糸を通す精密さで慎重に事態を進めないと行けない難易度の高さ。
日本の将棋で例えるなら、王座をかけたタイトル戦で最初から持ち時間が無い状態のまま一手差しをする様なもの。
負ければ失うのはレナードの命。
何と無謀な一手なのだろう。
文字通りの暴挙。
理性有る国王を演じ続けていたレオナードが放つ、自分の命をチップにした運命の一差し。
そこに自暴自棄な感情が含まれているとの疑念が、彼を支え続けて来た全ての者達が直ぐに思い浮かぶだろう。
それを理性有る計略の一手に見せなければならない。
何と困難で苦しい状況なのか。
自分の人生を諦めた訳では無い、と。
3才年下の幼なじみは自信満々に笑ってみせた。
まだ二十歳にも届いていない若さで、雄々しく未来を見据えている。
ならば兄として。
友として。
腹心として。
常に彼と共に同じ道を歩き続けて来た存在として。
自暴自棄がもたらした暴挙では無く。
神に導かれた起死回生の一手に変えていかねばならない。
不安だらけで歩くのも覚束なくなりそうな恐怖心を、デュオニュソスは気力を振り絞って振り切る。
(ちょーーーーっっ!
え?マジですか?
コレってオマルですよね?!
は?
嘘でしょう?!
皆に見守られながらおトイレなんか出来ませんよ!!!
流石にコレは断固として許否します!
待避!待避ぃぃ!!)
「やかましい!
ギャアギャアと喚き散らすな!!!」
先触れを追い抜く勢いで本来なら国王しか訪れる事の無い後宮を叫びながら全力疾走する。
普段の作法もかなぐり捨てて、戦時中の対応の如く鬼の形相で走り抜ける黒髪の貴公子に、周りの者も必死に融通を利かせて慌ただしい雰囲気で対応を余儀無くされた。
(ウィンス。俺の声が何処まで届く。)
(調べさせます。)
色々と省略された指示を各方面へと飛ばしながら、デュオニュソスは力の限り目的地へと急ぐ。
10年前に婚約者を失ってから女性と会話をした記憶が覚束ない青年に、レオナードも多くの事を希望した。
(お止め下さい!。アナタ様に去られましたら私どもは全て処刑されてしまいます。)
(えええーーっっ!)
「失礼する!」
壊さんばかりの勢いで美麗な白いドアを開け放つと、青白く強張った顔をした侍女達と額に冷や汗を浮かべた侍女長。
そして黒い穴から心底困った表情で、眉毛を八の字に下げた幼女が顔だけを出した状態で同時にデュオニュソスに視線を向ける。
まるで宙に浮かぶ幼女の生首だ。
「面妖な真似をするんじゃない!」
(生首みたいになっているぞ!気色悪い!)
ちょっと動揺の余りに、口から出す言葉と念話の内容が微妙にズレた器用な事になった。
そしてビックリして固まったままの彼女にズカズカと近寄ると、洗ったばかりの首根っこを摘まんで穴から引きずり出す。
(ぐえぇ。)
着せ替えられた部屋着で首が締まり、心底苦しそうな声を漏らす彼女に嫌悪感を抱き、デュオニュソスは慌てて両手を伸ばす侍女長に強引に押し付けてやる。
(良いか!オマエの思念が城の外まで響いている!
煩くて叶わんから、感情をコントロールして魔力をセーブしなさい!)
デュオニュソスはワザと思念に魔力を注いで、なるべく広い範囲に声が届く様に配慮した。
まだ午前の早い時間とは言え、城に遣える使用人達は活発に動いている時間帯だ。
彼女を躾る人間が居る事をアピールして、動揺を抑えてやらなければならない。
野放しの魔物ほど恐ろしいものは無い。
広い範囲に念話が届くと言う事は、それだけ人外級の魔力を保持している証明となる。
生まれ持った魔力が少ない者が城で働く事は滅多に無いが、それでも念話の技術を持っている人間は、魔導職に着くものか文官の貴族か軍務関係者と限られている。
そして使えない者を含め、使える者達も揃ってその異常さに畏怖を抱くだろう。
(へ?魔力って何ですか?
コントロールって、どうやって???)
(……そこからか。)
思わず本音でウンザリした彼だが。
幼子丸出しな反応に少しだけホッとする。
得体の知れない存在に安堵する事は無いが、小さな子供のする事だと周囲に周知させられるのは実に都合が良い。
(それより先におトイレに行かせて下さい!
割と緊急事態なんです!)
侍女長に抱えられてモジモジとアピールしている姿に、デュオニュソスは心底呆れた視線を向けた。
(したければこの部屋で済ませれば良いだろう。
何故能力を使って外へと逃げ出そうとする。)
(人が見ている前で用は足せません!
それに逃げるのでは無くて、単なる移動です!)
恥ずかしいでしょう!と、思念で全身に怒りをぶつけられて眉を顰めた。
侍女の中には感応して、恐怖に青ざめながら震えている者もいる。
年配の侍女長は流石に平然としていたが。
「それならば譲歩せよ。
外に1人で彷徨かれるよりかは余程良い。」
「ですがこれは私共の勤めで有ります。
使い方を教える者が必要かと。」
(使い方を教えたいと侍女長が申し出ている。
オマエもそれは譲歩せよ。
本来なら下の者が行う事をわざわざ彼女がすると言っているのだ。
良いな。)
(えーーーー!!!)
(嫌ならその場で漏らせ。
それ以外は認めぬ。)
(そんなぁ…)
(幼子の世話をするのは大人の勤めだ。)
(でも私は45歳で、れっきとした大人です。)
(大人なら尚更他人の手を煩わせる様な真似をするんじゃ無い。
何も分からない未熟者がデカい顔をするな。)
(ショボーン…)
実に素直に落ち込んでいる。
その愛らしい姿と気配に、侍女達はホッと気を持ち直した様だ。
(用が済んだら今日の所は私がオマエに魔力についての指南をしてやる。
侍女長以外の者達は速やかに部屋から退室せよ。)
デュオニュソスは思念で指示を飛ばすと、一番最初に続き部屋へと移動した。
(ご苦労様。
どうやら宰相殿がお越しになられたよ。)
(全く耳が早い。)
(此方の事は私がするから、そっちの方はお願いね。)
実にハイテンションなレナードからの念話を聞きながら、デュオニュソスは続き部屋のソファーに座って、侍女から出された紅茶に口をつける。
もう色んな事が常識外れだが、それを咎める役目の侍女長自身が救いを求める有り様なのだ。
口に出しこそしないだろうが、あれほど彼女が慌てている姿を見たのは初めてだな、と。
紅茶を啜る唇が思わず歪む。
今でこそ侍女長となった彼女は、元はレオナードの子守り役だった。
その為デュオニュソスとの面識も深いし、纏めて子守り。
つまり叱られた経験が山ほど有る。
長いだろう金髪を後頭部にキッチリと纏めているせいで、元々切れ長な瞳の彼女は更に目つきがキツい。
幼かった頃のレオナードやデュオニュソスからすれば、淡々としながらも冷たい視線で鋭く見下ろされながらの説教には、随分と肝を冷やされたものだ。
子守りメイドは基本的に穏やかで暖かみの有る容姿をした者が選ばれる事が多いが、活発で奔放だったレオナードは昔から悪知恵も冴え渡っていた。
お陰で並の女性では子守りが勤まらず、アレに落ち着いた経緯が有る。
デュオニュソスも自分の乳母よりも、彼女の方が恐ろしい。
その彼女が途方に暮れかけた中で一縷の希望を見つけたかの様な視線を送って来たのだから、唇が歪むのも仕方が無かった。
呑気に笑っている場合でないと分かっていても、この光景を見逃したレオナードの不運を思えば優越感が湧く。
難物の宰相を相手取り、勝ち誇った顔で意気揚々と演説を繰り広げている面白い場面を見逃すのだから、これぐらいの役得が有っても損は無いだろう。
前回の異常があってから、僅か3日。されど3日。
自宅にも返らず城に詰めていた疲労が寛ぎを求めているが、不思議と神経が苛立って全く眠くない。
すわ暗殺事件か、呪いか魔物かと気を張っていただけに、この嵐の前の平和な感覚がやたらと悪い出来事の前兆の様に感じて不安なのだ。
だがソレのなんと些細な事か。
国の行く末から始まり、自分へと送り込まれる暗殺者への不安。
レナードを失う恐怖。
ありとあらゆる不安に常に晒され続けたデュオニュソスにしてみれば、その程度の不安はむしろ高揚感すら感じてしまう。
レナードや皆があれほど浮かれているのが良く分かる。
(すみません、すみません。お手数おかけしてすみません。
でもお尻ぐらい自分で拭かせて下さいぃぃぃ)
シクシクと悲しみを伴った思念に、グッと吹き出し掛けた紅茶を堪えた。
「ゴホッ」
「ブッ」
「ゲフンゲフン」
堪え切れずに吹き出してしまった侍女や護衛達が複数居る様だ。
まるで感冒が流行っているかの如く、部屋のあちこちから咳が連発している。
アレがどうにも45歳の淑女とは思えないが、あの年頃の幼児には有り得ない言動では有る。
それがレオナードが彼女の待遇を養女と決めた動機で有ろうし、アレを暗殺者から外した理由でも有った。
そう。
例え天災で有ろうとも、全ての凶事があの国の仕業だと思い込んでしまうぐらい。
あの国は堂々と様々な事をやらかして来た。
レオナードのみならず、この国は文字通り見えない刃を喉元に突き付けられ続けている。
国ですら存続の脅威にさらされている中で、45歳の老女が命を失いかける程の傷を癒やし、更に若返らせる水がこの世に存在しているなどと口にする愚かしさ。
その真偽などもはや問題では無い。
あの人の皮を被った魔物よりも悍ましい怪物がさぞかし目の色を変えて飛びつくだろう。
詐欺師の常套句を検分するなど簡単な事なのだから。
あの婚約者殿は致命的な失態を無自覚のまま晒した。
破滅を齎す魔物だろうが、舌なめずりをして迎える猛獣の存在を知らぬなどと。
無知とはなんと愚かしい事だろう。
あの人とは到底思えない我が婚約者殿が、怪物の手に落ちた時。
この国のみならず、この地に残った残り2つの国が滅ぶ事になる。
僅か50年の間に、北の皇国は様々な国の名前を消し続けていた。
1人の怪物の死が、その勢いを止めさせる唯一の手段と言われる中で、レオナードはその方法を敢えて手放してみせた。
自然な怪物の死を望む前に、己の死期を悟っているのだから。
破滅願望にも見えるその選択が、起死回生の一手になり得るのか。
神のみぞ知る状況を、デュオニュソスを含めた腹心達はレオナードと共に人の策謀へと導かねばならない。
人の時を戻す悍ましき薬など、この世には存在しない方が良い。
だが神はその暴挙を許した。
何かの気まぐれか、それとも娯楽なのか。
「姫様のお支度が整いました。」
侍女長からの合図を受けた若い侍女が、思考の海を漂っていたデュオニュソスを現実に戻す。
少しだけ理性を取り戻したのだろう。
デュオニュソスが静かに立ち上がると、寝室の扉が開いて辛うじて外出用と思われるゆったりとした白布のワンピースに着替えた幼女が姿を表した。
何もかもを慌ててかき集められた既製品を身に纏っている為、サイズがかなり大きめでは有るが、一応最低限の体裁は整えられている。
(ひやぁ?!)
そして裾を踏んでビタンと転んだ。
(姫様。失礼致します。)
侍女長が何事も無かったかの様に、慌てて起き上がろうともがいているノアシェランを抱き上げてソファーへと導く。
どうやら彼女もノアシェランの為に、デュオニュソスに習って多方面に念話を飛ばす事にした様だ。
生まれは男爵家と魔力の低い者の多い家の出では有るが、この多芸さは王太子の乳母を勤め上げた才女の面目躍如と言った所か。
今でこそ玉の輿に乗って伯爵家に嫁いでいるが、こうしてレオナードの為に王宮に戻ってくれている数少ない職業夫人でも有る。
(すみません…、お手間を取らせます。
この身体になってから余り出歩いた事が無かったもので。)
生理現象で目に涙を浮かべながらも、恥ずかしそうに恐縮し続けているノアシェランは、鉄仮面を取り戻した侍女長を申し訳無さそうに見上げた。
額と鼻がウッスラと赤くなっているのを見る限り、かなり痛かったらしい。
手を地面につく前に顔から激突すれば、それは痛いだろう。
本当にこの年頃の幼児で有れば、泣き叫んでいても可笑しくは無い。
45歳と言う老齢さを感じさせない彼女で有るが、確かに幼稚な雰囲気も無い。
裾を踏んで転ぶ仕草が幼稚と言えばそうなのだが、それは粗忽さとも取れる。
幼いと言うよりも、未熟さの方を強く印象づけられるのだ。
何故ならソファーに座った彼女は、背筋を伸ばして床に届いていない両足を揃えているのだから。
教育を受けてない者の仕草には到底思えないその姿が、幼い容姿とは実にアンバランスだった。
(姫様、目の前のお方が婚約者になられたデュオニュソス・ダルフォント男爵です。)
(は、はい。)
(椅子に腰を下ろす様に声掛けをお願い板します。)
(は、はい!)
茶番ジミた教育現場に、それでもデュオニュソスは慎重な姿勢で彼女の言動に感覚を研ぎ澄ませる。
(えっと…だんしゃくってお芋じゃ無いよね?
マジもんの貴族ってヤツなのかな?
確か男爵って下から数えた方が早いんだっけ?
イヤイヤ、そんな事よりも先ずは座らせてあげなくちゃ。
えっと、でゅおにそす?様。お座りになって下さい。)
(初対面では有りませんが名乗り合うのは初めてなのですから、練習を兼ねて姫様もご自身の身分とお名前を名乗られた方が宜しいです。)
(はい!
えと…でゅお…男爵様。あれ?私の身分って何だっけ?)
(ペルシウス王国、第一王女。ノアシェラン殿下に御座います。)
(うわ!いつの間にか王女になってるぅ!
養女なのに王女とか名乗ってもいいの?!
えっと、ぺるせうす王国の第一王女のあしらん?です。
初めまして男爵様。
どうぞお掛けになって下さい。
はぁ、言えた?
名前が長過ぎて難しいよううぅ!)
ゴチャゴチャとした思念の後で取り繕った拙い思念が届く。
本心と取り繕った思念とを区別出来ていないせいで、非常に思考がダダ漏れている。
(ダルフォント公爵の孫であり、ダルフォント伯爵の嫡男。デュオニュソス・ダルフォントです。どうぞお見知り置きを。)
(はい!よろしくお願いします!
て、え?公爵?伯爵?
お爺ちゃんが公爵様でお父さんが伯爵さん???
え?家族で爵位って違うものなの?!
普通は一家に1つじゃ無いの???
やっぱり異世界だからルールが違うのかな?
でも小説でしか知らない知識だから、この国にはこの国のルールが有るよね?)
ズラズラズラ…と、彼女の混乱した感情が流れ込んで来る。
どうやらノアシェランは、階級に馴染みの無い者の気配がした。
階級の無い社会など信じられないが、社会的なルールが根本的に違って戸惑っている事を察して驚く。
どうやって政治を行っているのかと、突き詰めたい心境になったが、それよりももっと大事な話は沢山有る。
無駄話で時間を潰すべきでは無いな、と。
デュオニュソスは自制心を働かせた。
(さて、貴女も色々と聞きたい事はお有りでしょうが、先ずは心を落ち着ける事を心掛けて頂きたい。
考えている事が、全て他人に知られるのはお困りでしょう。)
(あ…)
急激な不安感に襲われて、デュオニュソスは無表情のまま奥歯を噛み締める。
指摘した側から感情を乱して不安になった彼女が、恐れる気持ちを周囲に撒き散らしているのだ。
部屋に居る者達も、抵抗力の低い者から顔をしかめている。
これは宜しく無い。
選ばれた一流の者達でこうなるのなら、そうで無い者は胸を掻き毟ってパニックを起してしまう。
(大丈夫です。
感情を抑えて技術を学べば、自ずと制御が出来る様になります。
幼子で有れば育児が楽になる程度で、本人は思いが漏れた所で何も気にしないでしょうが、貴女にとっては苦痛でしょう。
ですから先ずは心を落ち着ける事を気にかけて下さい。)
(は、はい。)
緊張の面持ちで頷くと、ノアシェランは大きく息を吸ってふぅ…と吐き出す。
それでも不安な思いは全く消えておらず、デュオニュソスは内心で舌を打ち鳴らした。
(そう言えばレオナード様が幼い頃の事を思い出しますね。
あの方も非常に魔力が多かったものですから、姫様と同じようになって居られましたよ。)
(えと…れおなーど様って何方ですか?)
(姫様のお父上君です。)
(あぁ!あの優しいお兄さんですね!
随分とお若く見えましたけれど、お父様はお幾つなのですか?)
そこを侍女長がすかさずフォローする。
不安に満ち溢れた気配が、途端に好奇心へと変わって行く様に、あちこちからホッと吐息が零れ落ちた。
そんな呑気な雑談をしている場合か、と。
デュオニュソスは苛立ちながらも、侍女長のフォローを渋い顔付きで受け入れる。
不安な者に、幾ら安心しろと言葉を尽くした所で不安は拭えない。
だから侍女長はノアシェランの意識を他に逸らすことにしたのだ。
(お父上君は今年19歳になられました。)
(えっっ?!若い!
三十路にはなってないと思ってたけど、二十歳にもなってなかったの?!
そ…それは随分とお若いお父様ですね…私の半分以下だったのですか…)
ガーンと衝撃を受けている姿が周りの者達に苦笑を与える。
息子よりも若い年代の男が父親と思えば当然の反応だろう。
まぁ彼女の実際の娘達よりは年上らしいが。
(ちなみに其方のデュオニュソス様は22歳ですよ。)
(はいぅ?!
お父様よりかは年上だと思ってたけど、そうか。
まだそんなに若返ったのか…。
あの…でしたら私がオジサン扱いした騎士っぽい人と魔法使いぽい人のお年は…)
ノアシェランが侍女長からデュオニュソスに視線を変えて恐る恐ると聞いて来る。
(アトスタニアとウィンスの事か?
アトスタニアは近衛騎士団長で、21だ。
ウィンスは宮廷魔導士長官で、24だな。)
(げふん!
オジサンでもお爺ちゃんでも無かったぁぁぁー!!!)
(だから興奮してどうする。
落ち着いて会話をしなさい。)
(でも私、スッゴく失礼な事を…うぅ…)
(勘違いは誰にでも有る。
それにウィンスに至って言えば、歳よりも更けて見えて当然だ。
本人も全く気にしておらんから、安心しろ。
何しろあの魔導馬鹿は身形を一切気にして無いからな。)
(せ、専門職に有りがちなお方なのですね?)
(そう言う事だ。
理解が早い様で何よりだ。)
後悔と悲しみの気配がすぅ…と、引いて行く。
感情がコロコロと変わって世話しない。
巻き込まれる方は溜まったモノでは無いが、素直な反応を思えば不快とも言えない。
あちこちで苦笑を堪えて居る気配に、デュオニュソスも素知らぬ顔でフンと鼻を鳴らす。
でも流石に爺は無いだろう、と。
思わず笑いのツボを刺激されてシッカリと奥歯を噛み締めた。
(正門で姫君の声は確認出来ませんでした。
ですが、第二門は越えている様ですね。)
その不愉快な気配を察したのか、少しばかり不機嫌そうなウィンスの声が頭の中に響く。
(落ち着いて会話をした場合については?)
(執務室には届いて居りません。
ですが後宮は越えております。)
その絶望的な報告にデュオニュソスは内心で頭を抱え込む。
後宮でも大問題だが、それを超えるのは論外だ。
(今から魔導具を使う。)
(承知致しました。)
(さて、私の方も少し質問して宜しいか。)
(えと、はい。何でしょう。)
腕に付けている腕輪を起動させたデュオニュソスは、何食わぬ顔で話題を続けた。
(魔力についてどれほど知識を持っているか教えて頂きたい。)
(魔力…ですか。
えと、私の住んでいた世界に魔力は有りませんでした。
空想の小説として描かれるぐらいの知識しか持っておりません。)
ハッと息を呑む空気の中で、デュオニュソスは拳を握り締めて衝動を堪える。
(ですが姫君は現に大量の魔力をお持ちの様です。
それについて何とお考えになりますでしょうか。)
水分を補給をしたばかりと言うのに、既に乾く唇を動かして慎重に問い掛けた。
(先ほども申し上げました様に私の住んでいた世界に、魔力は有りません。
ですが代わりに科学と言う知識と技術が有りました。
その考え方に基づくと、私の中に魔力が生まれた事は理解も説明も出来ません。
ですが…1つだけ。)
思い悩んだ様子で言いよどむ彼女に、デュオニュソスは軽く頷き視線で続きを促す。
(先ほども申し上げました様に、空想の産物とされる小説には、その事についても描かれて居ました。
それが真実とはとても思えませんが、私が住んでいた世界とこの世界の次元が違った場合。
新しい世界に移動した時に魔力を持つ者が居る…と。
そしてその場合は、従来この世界で生活している人達よりも、より多くの魔力を持ち。
そして使えない技術。
つまりスキルと言う技能を身に付けると書かれていたのです。)
部屋の中に緊迫感が漲った。
デュオニュソスも大きく息を吸い込んで、汗にまみれた拳の中を軽く意識する。
(つまり真実とは断定は出来ないが、貴女が住んでいた世界と、私共の世界は次元とやらが違う…と。
それを証明出来る品は何かお持ちでしょうか。)
上等な詐欺師で有れば、恐らく何かを持っているのだろう。
けれども何を見せて来るのか。
デュオニュソスは簡単に騙されるつもりは皆無だが、興味深く彼女を見守る。
(ウーン…この世界に来た時に持って来たものってアレしか無いよね…。
うわー…、アレをこの人に見せるのかぁ…。
何なのこの羞恥プレイ。)
幼い顔を苦痛に歪めた彼女が、憂鬱そうなため息を吐き出す。
(えーと…、実は私。
寝ている所を大きな災害に襲われてしまって、着のみ着のままこの世界に飛ばされてしまったのです。
ですから当時私が身に付けていた物しか無いのですが…。
その、男性にお見せ出来る代物とはとても言えなくて…)
実に上手い言い訳だな、と。
デュオニュソスは珍しく満面の笑みを浮かべる。
(つまり部屋着と言う事ですね。
さもありなん。
女性が夫でも無い男の目に晒すものでは有りませんね。)
デュオニュソスが理解を示した所で、ノアシェランはホッと嬉しそうな顔をした。
(ですが私の立場は婚約者です。
夫に準じる立場ですので、どうぞお気遣い無く。)
(うえぇぇぇー!)
ノアシェランの凍りついた笑顔を見て、してやったりとほくそ笑んだ。
(その!婚約者と突然言われましても、私には夫が…)
慌ててアワアワとまくし立てる彼女に、デュオニュソスは鷹揚な態度で頭を横に振った。
(その下りはお父上と散々無さったかと。
確かに夫を持つ貴女のお気持ちを無碍にするつもりは有りません。
ですが私が求めているのは貴女の会話への信憑性です。
国王を誑かす詐欺師の汚名を晴らす為には、必要な措置なのです。
その辺を踏まえてご配慮頂きたい。)
(うー…)
ガックリと小さな肩を落とす彼女に、デュオニュソスはほくそ笑んだ。
(男性に見せられ無いものなら、女性が見れば良いでは有りませんか。デュオニュソス様。)
そこに侍女長から呆れを含んだ冷ややかな視線が、デュオニュソスの笑みを凍り付かせる。
(大事で有る事を貴女も承知しているで有ろう。)
(えぇ、充分承知しております。
その上で申し上げているのです。
いたずらに女性を辱めるものでは有りませんよ。
良いお年をして情け無いですこと。)
額に青筋を浮かべて侍女長を睨み付けたが、彼女はどこ吹く風の様な表情でそれを完全に流した。
やりずらい…。
レオンめ!
彼女をノアシェランにつけたレオナードの失策に、デュオニュソスは苛立ちを強めたが。
どう考えてもこの場合、彼女を選んだレオナードの方に軍配は上がった。
何しろレオナードはあらゆる者に対して、権力に屈せずに主を守るこの態度を貫ける彼女だからこそ。
庇護する義娘につけたのだから。
(では…えと、どちらにお出しすれば良いですか?)
火花を一方的に飛ばしているデュオニュソスに気づきながらも、頼りになる侍女長にノアシェランはすがりつく。
(そうですわね。
一度寝室へと戻りましょう。)
こうしてイライラしているデュオニュソスを置いて、侍女長はノアシェランを抱き上げると寝室に向かう。
そして出された黒いワンピースを見て、目を見張った。
(どうだったんだ?)
ノアシュランを抱いてソファーに連れ戻した侍女長が、強張った顔で頭を横に振った。
(私には解りかねます。
到底この世でアレと同じ物を作れるとは思えませんが、あくまでも衣類です。
全く作れないと断言出来る程の知識が私には御座いません。)
(見せろ!)
(お断り致します。)
思わずいきり立ったデュオニュソスを、侍女長がピシャリと跳ね突けた。
(な…)
(あれはあくまでも部屋着で御座います。
そしてデュオニュソス様に見せた所で、私と同じ末路で御座います。)
充分過ぎる正論にデュオニュソスは小さく呻く。
でも見たい。
レオナードやウィンスより多少理性が働いた所で、人並みな好奇心は持ち合わせている。
(その…、ありがとう御座います。庇って下さって。
でもお陰で少し冷静になれました。
恥ずかしいですけど、お見せ致しましょう。)
(姫様?!)
(すみません。お手間を取らせてしまって。
もっと早く覚悟を決めれば良かったのに、私のせいで貴女が責められる必要は無いのです。)
微笑むノアシェランに侍女長の鉄面皮が苦痛で歪む。
(侍女は主を守る事が仕事で御座います。
私めの事で姫様がお心を砕く必要は全く御座いません。)
(ううん。本当に良いの。
私は身の潔白を証明しなければならないのでしょう?
それが無理をして私を受け入れてくれたお父様への責任です。)
(姫様…)
健気さを装うノアシュランと、それに感動している侍女長の姿を白々しい気分でデュオニュソスは眺めた。
何ともまぁ巧妙な真似をと、苛立ちを強める。
(えと…一応洗って有るのですが、着古したものなのでかなり恥ずかしいんですけども…)
と、頬を染めて前置きをすると、ノアシュランは空中に黒い円を出現させて其処から黒い何かを呼び出した。
(これです。)
そして小さな両手に布の様な物を乗せて、立ち上がっているデュオニュソスへと向けた。
(姫様。お預かりさせて頂きます。)
それを横から侍女長が恭しく取り上げると若い侍女が差し出して来た木のトレイに畳んで置き直し。
テーブルを回って移動すると、鋭い眼光と共に木のトレイに乗せた黒い布をデュオニュソスへ差し出して来る。
本来なら直接では無く、先に侍従に渡すのが礼儀だが。
此処は本来婚約者でも異性は立ち入り禁止の後宮。
あくまでもレオナードの指令を受けて、デュオニュソスだけが立ち入りを許された状態なので今回は直接手渡す。
また護衛に関しては必要な為に異性でも立ち入りが許されているが、それでも全てが現役ギリギリの年代の既婚者で、後宮専属の者しか入れない。
この国では女性の騎士は存在して無い為やむを得ずの措置となっている。
「こ…これは…」
剣呑な侍女長の眼圧に少し視線が揺れたデュオニュソスだったが、トレイをテーブルに置いて黒い布に触れた瞬間、動揺の声が思わず漏れた。
(…何かの皮…でしょうか?)
(いいえ。本当に安物なのでほとんどの素材が合成ポリエスチレン。えーと、化学繊維と言われる物で作られています。)
(かがくせんいとは?)
(すみません。詳しい作り方は知りません。
石油を使って作られた物ぐらいの知識しか無いのです。)
(何故でしょう。
貴女の住んでいる世界の物ですよね?)
(はい。ですが私がその布を作っている訳では無いので、作り方は作っている会社。えーと…職人さん?ぐらいしか普通の人は詳しく知らないと思います。)
(…なるほど。
しかし面妖な。布の織り目が全く見えない。)
(デュオニュソス様。日の明かりに透かして見て下さい。
そうすれば織り目が分かりますよ。)
布を手に持って目をひたすら凝らしている彼に、侍女長が半ば呆れながらアドバイスを送る。
(ぬ。…これが織り目だと言うのか?!
何と微細な…。確かに指が透けて見えるが、普通に見れば皮の様にしか見えぬ。)
(それだけでは有りませんよ。
縫い目も微細でとても人の手で行える作業とは思えません。
殿方よりも裁縫には一日の長が有りますから、その点は私が断言致します。)
(ううむ。
見れば見る程面妖だな。
これだけ人の作業とは思えぬ代物だと言うのに、魔力を一切感じないでは無いか。
これは確かに私では作り方がサッパリと分からぬ。
魔力を含まない素材を使って、魔法で作られたかの様な代物なのに、一切の魔力を感じさせないとは…)
(私も見たい!)
(私にも見せて下さい!)
(やかましい!)
レオナードとウィンスが個人でテンションの高い念話を送って来た。
デュオニュソスも個人別に器用に切り替えて直ぐ様怒鳴り返す。
その額に浮かんだ青筋と怒りのオーラに、理由が分からないノアシェランはビクリと震える。
(あの…)
怯えた様な上目遣いの彼女に気付いて、デュソニュソスは一つ咳払うと、再び神妙な視線で未知なる技術を観察している様に態度を取り繕う。
(確かに侍女長の言う通り、私にも判別しかねます。
出来ればウィンスや国王にも見せたいのですが…如何か。)
(え?ウィンスさんは分かりますけど、お父様には必要無いのでは?)
(駄目でしょうか。)
(出来れば。
そんな粗末な物を不要に見せたく無いです。)
(承知致しました。
その様に取り計らいましょう。)
(えーーーっっ!)
(やたーー!!)
(ズルいズルいズルい!
何でデュオニュソスが見れて父親の私が見れないんだよ!
そんなの卑怯だ!)
(だからやかましいと言っている!
本人に直接交渉しろ!)
(今から受け取りに行きます!)
(馬鹿者!後宮に立ち入れる訳が無いだろう!
大人しく待ってろウィンス!)
(あのー…、そろそろ返して頂けますか?
必要な時にお出ししますので。)
(え?
いえ、これはこのままウィンスに渡しますが。)
(ですから不要な人の目には触れさせたくないんです!
持って行くと色んな人に見られちゃうでしょ!)
(あ!)
手に取っていた黒い布がヒュンと黒い穴に吸い込まれて行く
それを少し呆然と見送っていたが、ノアシェランの睨む視線を感じてて再びコホンと、咳払った。
(でしたら今から後宮門の直ぐ近くに有る部屋までいらして下さい。私達も全員その場に居りますから。)
(はぁ?!)
(どうやら宰相閣下が姫君とお会いになりたいそうです。)
(ぬぅぅ…、忙しいな。)
(流石に宰相閣下は受け入れざる負えません。)
他の誰を面会拒絶に出来た所で確かにあの人は難しい。
国王が若いだけに、宰相はレオナードの後見人を兼ねている。
若者がやらかしたポカをフォローする立場の人なのだ。
全力疾走してから僅か30分程度しか滞在していないが、デュオニュソスは止む負えないかと沈痛な顔をする。
今でさえ王宮の敷地内ギリギリ。
移動すればそれだけ思念が漏れる範囲がずれ込んでしまうが、後宮の中で面会は出来ない。
だから後宮を出たギリギリの場所で謁見の部屋を設けてあるので、其処で客人と面会するのがルールとなっていた。
未熟な皇族の幼児が、ポロリと親が漏らした国家機密を思念で呟いても良い措置と、浮気の疑惑を婦人が抱かれない様にする為の措置を兼ねている。
(姫君、どうやら宰相が参内したそうです。
面会を希望されているので、部屋を移動して頂けますでしょうか。)
(今からですか?)
(はい。
本来であれば国王が軽々しく氏素性の分からない者を養子に迎える事は有り得ないのです。
そこを強引に迎えてしまいましたので、どうしても宰相に今後の調整をして頂かねばなりません。
お疲れかとは思いますが、どうかご協力をお願い致します。)
(……分かりました。
私よりも皆様の方がよほどお疲れでしょう。
ご迷惑をお掛けして大変申し訳有りません。)
(今の様に冷静に会話をして頂ければ、思念の漏れも王宮の敷地内で止まりますので、くれぐれも興奮なさらない様にお願いします。)
(わ、分かりました。)
すくっと立ち上がったデュオニュソスは、そのまま扉の外に向かおうと歩き始める。
「デュオニュソス様。
どうか姫様をお連れ下さい。」
そこをシレッとした顔をして侍女長が呼び止めた。
「は?」
怪訝そうな顔付きで後ろを振り返ると、ノアシェランを抱えた侍女長が彼女を差し出そうとする。
「え?!」
(え?!)
(姫様のおみ足ではお時間が掛かります。
どうか馬車の代わりと思って堪えて下さいませ。)
「エマルジョン?!」
(まだまだ若いつもりですが、流石に距離が長ごう御座います。
それとも他の殿方にお任せなさいますか?)
(えと、それなら私は窓の中に戻ってついて行きますよ?!)
固まるデュオニュソスに、ノアシェランは慌てて引きつった笑みを浮かべて黒い穴を差す。
(それには及びませんわ、姫様。
此処に丁度お世話を出来る殿方が居られますもの。
もうデュオニュソス様も良いお年なのですから、流石に女性のエスコートぐらいお出来になられますよね?)
「二言も三言も余計だ、エマルジョン!」
オホホと黒い笑みを咲かせる侍女長に、デュオニュソスは忌々し気に舌を鳴らす。
だが経験不足とノアシェランへの苦手意識がデュオニュソスの仕草をぎこちなくさせる。
「お、おい。コレからどうすれば良いのだっ。」
(まぁまぁ、情けないですこと。
剣では有りませんよ。
ちゃんとこうして落ちない様に支えてあげて下さいませ。)
両脇を抱えられて足をプランとさせるノアシェランと、やけに緊張して強張っているデュオニュソスの姿に、侍女長はヤレヤレとため息を零すと、腕を添えて幼児の抱き方をレクチャーしてあげた。
「や、やけに近く無いか?!」
(婚約者なのですからシャキッとして下さいませ。
落とさない様にシッカリと抱えて差し上げるのですよ。)
(…コレって婚約者のエスコートって言うよりも、新米パパの初めての抱っこじゃ…。)
ぎこちない手付きで抱えられながら、ポロリと漏れたノアシェランのボヤキに、周りを囲んでいる既婚者な護衛と侍女達が一斉にに顔を背けた。
(オホホ。その内必要になるのですから、経験出来る時に経験しておけば良いのです。)
(はぁ…。でもそれなら婚約者を私からよそのご令嬢に交代した方が宜しいのでは無いですか?
産むつもりは無いですけど、私の身体が子供を産める年になる頃には、この人はヨボヨボになって体力的に難しいのでは?)
(爺扱いをするな!
10年経った所でオマエの中身よりもまだ若いわ!)
(オホホ。仲が良ろしいですこと。)
(誰がだ!)
ギリギリまでノアシェランとの距離を空けようと、顔を背けながらデュオニュソスが吠える。
(さてさて無駄話をしてないで直ぐに参りましょう。
宰相閣下をお待たせするものでは有りませんよ。)
(グヌヌ…)
それでも反論出来なかったデュオニュソスは、顔を背けてプルプルと小刻みに震えている面々を無視して足早に部屋から飛び出して行った。
(全く!何故其処まで小さくなったのだ。
1人で歩けるぐらいで止めて置けなかったのか!)
(そうは申されましても、私も喉が渇いて飲んだ水で、よもやこんな風になるとは思ってませんよ。)
(この粗忽者が!
口に入れる物の安全性ぐらい、確認する知性はないのか?!)
(そう言われても、目を開ける気力が尽きた状態で、そんな余裕は有りませんて。)
(大体それが理解出来ぬ!
何故そんな状況で水を探せたのか。)
(あの時は自分で意図的に探したのでは有りません。
あの穴が私の望みを聞いて、見つけて来てくれたんです。
私はただ唇に落ちて来た水を口に含んだだけなんです。)
(訳も分からぬ水を飲もうとするな!
そんな真似をするから、この様な事になったのだ。
少しは反省しろ!)
(確かにそれを言われるとぐうの音も出ませんが、飲んでなければ今頃は死んでいたのですから、何だかすみませんね。)
(全くだ!
そのまま人知れずくたばってくれていれば、面倒が無かったものを…)
(それは言い過ぎだよ、デュオニュソス。)
(デュオニュソス様!
姫様がお優しいからと、暴言を吐くのはお止め下さいませ。)
(ウルサい!人の頭の中で一々喚くな!)
カリカリと怒って前を見据えているデュオニュソスに、ノアシェランはふぅ…と、諦めのため息を漏らす。
まさか個人回線でレオナードと侍女長からダブル説教を受けているとは夢にも思っておらず、不機嫌になって黙ったと感じていた。
(…そうですね。
貴男の言う通りです。
私は生き延びるべきでは無かったんでしょうね。)
深い悲しみと強い負の感情。
その強さと質の悪さにデュオニュソスは大きく息を呑んだ。
(フン!愁傷な事を言えば済むと思えば大間違いだ。
俺はレオナード程単純では無いぞ。
オマエが何を企んでいるのかは分からぬが、そのうち必ず化けの皮を剥がしてやる。)
(何も企んでなと居ませんよ。
お疑いになるならどうか私を逃がして下さい。)
(好き勝手に逃げ出せば良いだろ!
どうせ死ぬのは顔見知り程度の赤の他人だ。)
(私のせいで誰かを死なせたく無いのです。)
必死な様子に死を願う影が纏まりついた時。
デュオニュソスはようやく彼女の何が不安だったのか、納得してストンと気持ちが落ち着いた。
(どうせ人は勝手に死ぬ。
オマエが去ろうと残ろうとな。
この国にもオマエの様に家族を失った者は大勢居る。
それでもオマエの様に死に安らぎを見いだす輩は1人も居らぬぞ。
だが俺はオマエが魔物になるのならそれでも構わぬ。
良い理由が出来たと喜んで切り捨ててやる。
死にたくなったら本性を晒せ。
それまでずっと側で監視し続けてやる。)
至近距離で青く力の籠もった瞳が、ようやくノアシェランの視線と絡み合った。
随分と物騒なことを言われながら、それでも慰められている様な気がして、ノアシェランは思わず吹き出す。
(…何が可笑しい。)
(いいえ、そうですね。
何だかプロポーズをされたみたいで。
昔のことを思い出したんです。
彼もずっと側に居るよって言ってくれたのに…)
懐かしさを感じる暖かい気持ちが、急激に悲しみへと変わって行く。
その落差たるや。
「グッ…」
「うっ…」
「はうっ…」
(デュオニュソス!)
(分かっている!)
後ろに続いていた者達が、急に胸を抑えて苦しみ始める気配を感じながら、デュオニュソスはレオナードの叫びに応と示した。
(これは幻覚か…?)
ノイズの混ざった見えにくい画像が、デュオニュソスの視界を見慣れた王城の廊下から、初めて見る景色へと変えて行く。
顔付きは良く分からないが、笑っているヒョロリとした男と床につく前の映像だろうか。
戯れている姿から流れる様に次の場面に展開すると、次の瞬間にはその男が居た場所を大きな岩のような壁が覆い尽くしていた。
そして全身を襲う激痛と圧迫感。
それを越える恐怖と悲しみがデュオニュソスの呼吸を止めさせる。
辛うじて立って居られるのは、腕に抱え込んでいる温もりが、現実を彼に教えていたからだ。
咄嗟に片手を動かして、細い首に手を伸ばす。
あとほんの少し指の力を込めれば、簡単に首の骨を砕くことが出来るだろう細くて柔らかい首。
その温もりに指先が触れた瞬間。
「ひゃう!」
パン!と弾ける様に恐怖と深い慟哭の呪縛から解き放たれた。
(何をするんですか!
くすぐったいです!)
呑気な生き物がたちまち非難の思念を飛ばして来るが、デュオニュソスは額に浮かんだ汗を拭う事も出来ずに、ホーッと吐息をこぼす。
(首は敏感な方なので触らないで下さい。
どうしていきなりくすぐろうとするんですか?!)
(違う!首の骨を砕いてやろうとしただけだ。)
(はい?!何で直ぐにそう物騒なの?!
そんなだからその年まで彼女が1人も居ないんじゃ無いですか?)
(やかましいわ!
存在が物騒なヤツが何を言う!)
(肯定ですか。
居なかったんですね…彼女が1人も。)
(今その話は関係無いだろう!
それに、それは私が悪い訳では無い!)
(そう思いたいお気持ちは分かりますが、今のウチに自分を見つめ直さないと一生独身のままですよ?)
(フン!跡継ぎには兄弟の子を見繕えば良いのだ。
一生を独身で過ごした所で何も問題は無いわ。)
(有りますよ!
問題だらけですよ!
言ってて寂しくならないんですか?
そこはちゃんと認めて早く可愛い彼女を作って下さいよ。)
(オマエが私の婚約者だろう!
よそに女を見繕ったら、そちらの方が大問題だわ!
そんな下らん心配をしてないで、言われた通りに心を落ち着けていろ!)
(アナタの将来が不安過ぎて動揺の余りに涙が出て来ます。)
(無駄な心遣いをするで無いわ!
素直に自分の言動を見直せ、この未熟者が。)
(はー?これでも私は一回結婚してますからね。
言ってはナンですけど、貴男よりも色んな事を経験してますし、充分大人ですよ?)
(大人だと言うのなら癇癪を起こして感情を周りに振りまくんじゃ無い。
感情の起伏が激し過ぎて巻き込まれる方は堪らんわ!)
(ぶにっ)
最後にはドヤ顔のノアシェランの頬を片手で掴んで顔面を面白く歪めてやる。
(ちょっと!直ぐ腕力に訴えないで下さい!
DVですよ!DV!!)
(なんだその面妖な感情は。
ちゃんと分かるように送って来い。)
(家庭内暴力ですよ!
腕力で近しい異性に言う事を聞かせる野蛮な行為です!)
(頬を少し指で潰しただけだろう?!
人聞きの悪い事を言うな!)
(痴話喧嘩は結構ですので、そろそろ先を急ぎましょう。
宰相閣下がお待ちナノでしょう?)
ようやく衝撃から態勢を整えた面々を代表して、侍女長が淡々と先を促した。
(フン!)
(むぅ…痴話喧嘩なんかじゃ無いし…)
ブツブツと不満を呟くノアシェランを抱え直して、デュオニュソスは前を向いて颯爽と歩き出す。
(一応死人が出て無いか確認しておけ。)
(分かりました。)
ノアシェランを投げ出さなかっただけ、自分を誉め讃えたいぐらいの強烈な精神攻撃だった。
並みの者は業務の継続すら怪しくなっているやも知れず、ウィンスに指示を飛ばしておく。
あれで死ぬような無能が城内に居るとは思えなかったが、城には様々な者達が出入りする。
魔力に対する抵抗の弱い平民が居れば、失神ぐらい可笑しくは無い。
それが何らかの不幸な事故を起こしてないとは限らないのだ。
それでもこの事象は驚異的な範囲が厄介とは言え、まだ常識の範中。
魔力の高い幼い子供の癇癪に巻き込まれて、子守りが泣き出す事はザラに有る。
妻を持つ所か、恋愛の経験が無いデュオニュソスからすれば、伴侶を失う苦しみや悲しみは縁が無いだけ共感が出来ず。
それよりも事故で体験した岩の塊に肉体を押しつぶされる、ノアシェランの肉体的苦痛の記憶の方が面倒だった程度だ。
だがそれも幻影と分かった時点で威力は半減している。
巧妙な魔術では無い共感が齎す感覚は、魔術の心得が有れば特に致命的な攻撃とも言えず。
対処が可能な分、許容範囲内の現象だった。
まぁ、それで首の骨を折って止めるのはやり過ぎだが、同性と同衾してホッコリしている体験を無理やりさせられたのだから、少々の殺意ぐらい許されて良いと思う。
行為にまで及んでいたら確実に息の根を止めてやった所だ。
他愛も無いイタズラをしていたノアシェランの夫の手を、宥めるように掴んでいた大人の女性らしき、彼女の白い手を見た記憶を思い出し。
デュオニュソスは苛立ちを強めて歩くスピードを速めた。
(うひゃあ!落ちる!落ちます!)
すると焦って必死にしがみついて来る。
小動物の動揺が妙に楽しくて、不快な気分をふっ飛ばしてくれた。
(も、もう少しスピードを落として下さい!)
(やかましい。)
だからわざと恐怖を増強させるべく。
支える腕を片手に減らして、彼女の非難と悲鳴を無視して歩き続けた。
(こ、怖かった!
お父様!この人がとっても意地悪です!)
だからレオナードの顔を見た瞬間、助けを求めんばかりにノアシェランが声を張り上げる。
(ハハハ、ダメだよ。ノアシェラン。
前にも注意しただろう?
自分の腕の中に居る女性が他の男を思っていれば、誰でも意地悪したくなるもんだよ。)
(そんな嫉妬みたいなこと感じる筈が無いじゃ無いですか!
私のことを隙あらば殺す気満々な人ですよ!)
(うん。それはちょっと意地悪だよね。
でもね?ノアシェラン。
コレでもまだ安全な方だから。
その辺は上手くやってくれると嬉しいな。)
(この国には物騒な男性ばかりなんですか?!
世の中の女性が可哀相過ぎます!)
(ハハハ!大丈夫だよ。
世の中は女性の方が基本的に男よりも怖いからね。)
(…分かります。
逞しくならなくては、女性が無事に生きていけないんですね。
私も頑張ってみます。)
(ウンウン、エラいよ。ノアシェラン。)
この場にこの親子の会話に突っ込みを入れる者が居ない所が末恐ろしいが、基本的に命の脅威に晒され続ける環境な為に気性の荒い男性が多く。
一般市民の中でも似たような感想を抱く者が多かったりする。
恐怖で固まっているノアシェランに、全員から可愛いなぁ、と。
ほのぼのとした雰囲気が漂っていた。
女性の中でも、特に40才を越えた女性は豪胆な気性の者が多い中で、貴族の女性は“不思議の国のアリス”に出て来るハートのクィーンの様に高圧的な者が多いのだ。
だから見た目だけでなく。
どれだけノアシェランが実年齢を訴えた所で穏やかな気性の彼女には、皆の視線が生暖かくなるだけである。
(それよりも、此処まで運んでやった礼ぐらい言えないのか。
この常識知らずが。)
(ウァーン!お父様、やっぱり無理です!
この人が怖すぎます!)
(アハハハ。デュオニュソスがこんなに嫉妬深いだなんて知らなかったな。
そんなに私とノアシェランの仲が良いのが気になるのかい?)
(下らん。)
心底呆れたと言わんばかりに、部屋の中を移動するとソファーの上に彼女を軽く投げ捨ててやる。
(デュオニュソス様!
姫様のお身体は幼いのですから、もっと優しく扱って下さいまし。)
(フン!)
上等なソファーと言えども、木板に綿を当てて布で包んでいるだけの代物な為、弾力性が足りずにノアシェランは無言で苦痛に呻いている。
その姿にすかさず侍女長のエマルジョンが声を荒げたが、我関せずを貫いたデュオニュソスは不機嫌な態度でノアシェランの真横に腰を下ろした。
(全く、これだからあの国の血を引く者は礼儀を知らぬ。
婦女子の扱い一つ穏やかに出来ぬとは、嘆かわしいことだ。)
その姿に眉を顰めて、体格の良い白髪の老人が大袈裟にため息を吐き出す。
その悪意と敵意に満ちた視線を受けてても、デュオニュソスはシレッとした顔をしていたが、ノアシェランは酷くビックリしていた。
(あの…)
(これはこれは、陛下よりお話は伺っておりましたが、可愛らしい魔物でございますな。
私めはこの国の宰相を勤めております、エクスタード・ボルカノン侯爵と申し上げます。
以後お見知り置きを。)
柔和で優しい笑顔なのに、その鋭い瞳は全く笑っていない。
思念も仕草も丁寧なのに、隠そうともしていない棘を感じて、ノアシェランは居住まいを正すのを忘れて思わず息を呑んだ。
正面に笑いながら威嚇して来る玄武、右手に完全に不機嫌な龍が居る幻影が見えて瞬く。
(姫様、ご挨拶を。)
(は、はい!
えと、初めまして!
ギャー!何だか頭の中が真っ白で名前を忘れたー!
えと、えと…何だったっけ?!そうだ!
お父様の第一王女、のあしらんです!
この度はお騒がせして、大変ご迷惑をおかけしました。
宜しくお願いします、宰相様。)
国の名前を父に変えて無理やり誤魔化したが、思念が全てダダ漏れている。
(ホホホ。元気の良い溌剌としたご挨拶でしたのぅ。
ですがご自身と国の名前ぐらいはなるべく早く覚えて下され。
さもなくば陛下の恥となりますからの。)
(はい!
精進します!
誤魔化してすみませんでした!)
もう必死で平謝りして椅子の上で土下座をする。
実際には40代なので、お愛想では切り抜けられない場面だが、その素直な姿勢が良かったのか。
少しだけ宰相の纏う空気が綻んだ気がする。
(えーと…この人って、ちゃんと正真正銘のお爺ちゃん…よね?)
そして気の緩みからか、ポロリと疑問が零れると。
(私は今年で46になりますが。)
(ひぃ!すみません!お兄さんですね!
大変申し訳有りませんでした!)
同年代から年寄り扱いされるのは気に食わなかったらしく。
チラリと釘を刺された気がして、ノアシュランは再び頭をソファーにこすりつけた。
(何をやっているんだオマエは。
宰相には孫が居るからジジイで間違ってないぞ。)
(ちょー!貴方の辞書には先輩を敬うって言葉は無いの?!
てか私の世界では40代はまだまだ若いのよ!
お爺さんお婆さん扱いなんかされないんだからね!!!)
此処はちょっとムキになって否定しておく。
宰相を爺扱いすれば、それは自ずとブーメランになって自分に戻って来るからだ。
(そう言えばさっき見せて貰ったノアシェランのご夫君はかなり若く見えたよね?)
(うむ。そうだな。
確か2歳しか下じゃ無いとは思えない若々しさだったな。
俺は同年代かと思ったぜ。)
こんなにトゲトゲしい空気の中で、レオナードとアトスタニアの会話がノホホンと聞こたが。
火花を散らしている前と横が恐ろしくて其方に視線が向けられない。
(確かに。
私も拝見させて頂きましたが、種族の違いは有れども同年代の様には思えませなんだな。
姫君がお住まいになられていた国には、元々若さを保つ妙薬でも、御座いましたのでしょうか?)
(いいえ!
あ、アンチエイジングの薬は開発されていましたが、夫のアレは完全に個性です。
同じ種族の中でも二十代に思える程、若く見える人でしたから。
それに私達の人種は他の方々からすれば、若く見えるらしいです。)
(あんちえいじぐ?何ですかそれは。)
(加齢を否定する考え方です。
確か老化に抗う為に、身体の細胞の若さを保つ理念です。
ですがそれでも顔の皺を目立たなくするとか、畑の張りを保つ程度のことで、私の様に全身で若返ることは有りません。
これはこの世界に存在している水のせいだと思います。)
(ほほう…。それはどの様にして手に入れられましたので?)
(それは窓を使ってです。)
(まど…とは?私の思う窓とは流石に違うでしょう。)
(宰相閣下。
お話の途中で口を挟んで申し訳有りません。
ですがお聞きになられたい事が有るのでしたら、皆様お掛けになられたら如何でしょうか。
姫様の教育も有りますので、見本を示して下さい。)
(ぬぅ…エマルジョン伯爵夫人か。
私とした事が少し童心に戻って仕舞いましたな。
お言葉に甘えて腰を落ち着けて宜しいか?)
何なら最高権力者のレオナードすら立ったまま雑談していた。
礼儀も作法も無い自由な空気が身内の集まりを示しているが、それが教育上に問題だと、侍女長が全員を促したのだ。
(うん。皆自由に座ってくれ。
デュオニュソスに置いては勝手に座ってるけどね。
アハハハ。)
(俺は疲れたんだ。
あんなに走らされたのも、重荷を運んだのも久し振りだからな。)
(急いでいらして下さったのは有り難く思いますが、羽の様に軽い姫様の玉体を重荷などと…、鍛錬を怠けているのでは有りませんか?)
幻想とは言え、岩に潰される思いをした事も徹夜明けで有る事も理由であったけれど、ノアシェランへの嫌味に対してピシャリと侍女長が釘を差す。
幾らノアシェランが幼くても、この年頃の幼児は最低でも10キロは有る。
2リットルのペットボトルを5本以上持って500メートルを歩いた様な状態だったが、騎士は着込んでいる鎧で30キロ。
剣だけでも8キロ以上は重量が有るのだ。
平素は簡略化されているが、侵入者を警戒している現状では全員がフル装備をしている。
戦場に立つ機会の有るデュオニュソスも、同等の身体能力は持ち合わせていることをエマルジョンは知っているし、筋力を増強させる魔法の技術も持ち合わせていた。
だから女性に失礼な事を言う彼に、それを持ち出して反撃を返したのだった。
(ウーン…会話がトゲトゲだらけだよ。
それだけ皆の仲が良いって事なのかなぁ?)
それを冷や冷やしながらノアシェランは眺めてため息をこぼす。
(皆さん余り性格と言葉の使い方が宜しく無いだけですよ。
特に仲が悪い訳でも有りませんけどね。)
それに対してウィンスがアハハと笑いながら、ノアシェランの疑問に応えてあげる。
つまり軽口を叩ける程度には、馴染み深い間柄の証拠なのだが。
本気で仲が悪い相手でも同じ対応なので、その辺りは性格的な問題だった。
何とも胃の痛くなる人達である。
入って一番奥が中庭が見える開放感溢れる形式の部屋の為、部屋の左側にレオナードが座り、レオナードの斜め右手側にエマルジョン、ノアシェラン、デュオニュソスと並ぶ形となり。
レオナードの対面に当たるデュオニュソスの右斜め前の椅子にエクスタード宰相が座って、その後ろに宰相の侍従が立つ。
アトスタニアとウィンスはレオナードの後ろに立った形で控え、入り口には中に護衛の近衛騎士の2人が立って、壁に侍女が並び。
リブロを含めたその他の侍従や宰相の護衛達が、ドアで遮られていない隣接している部屋に待機している。
勿論部屋の外の廊下側にも護衛の騎士が立っているが、ウィンスの部下達も配備されている。
この部屋と近辺だけで30人以上の人達が集まっている。
それぞれのお茶がシックなテーブルに並べられた所で、クルクルクル…と。可愛いお腹の虫が鳴り響き。
発信源のノアシェランは顔を真っ赤にさせてお腹を押さえた。
(すみません!すみません!
空気が読めない私ですみません!)
(イヤ、そう言えば私達も何も食べてなかったね。)
(直ぐに準備致します。)
ノアシェランの為に部屋の範囲内に響く念話でレオナードが意向を示せば、エマルジョンが待機中の侍女に個人回線で指示を送る事を、この場に居る面々にレオナードに準じて対応する。
余談として既に部屋の外に待機中のウィンスの部下達が、防音の結界魔法を二重に張って居るが、本来は部屋の中で狭い範囲に展開する代物だ。
しかしながら今はノアシェランが居る為、防音では完全に筒抜けになる事を考慮して、思念が漏れることの無いタイプの結界を複数人で行い専念している。
ここまでして何とかノアシェランが落ち着いて話をすれば、城内までは確実に、漏れる思念を抑え込む事が出来た。
因みに執務を行う行政の区間と後宮を合わせた城内の範囲は2キロ近く有る。
更に第2門と呼ばれる城門から第1門と呼ばれる正門までの距離は城を中心として3キロ以上は離れていたが、興奮した彼女の声はその付近まで通り越すのだ。
部屋の中の者達はレオナード以外は誰も笑っていないが、部屋の外に勤務している者達は、警戒しながらもクスクスと声を殺して笑っていたのはご愛嬌。
中には吊られて空腹感に眉を顰める者も複数いた。
何しろ夜中から緊張感にまみれた異常事態が連続しているからだ。
幼児の思念漏洩は馴染みの有る者達とは言え、その規模と威力が半端無い上に、襲撃事件に続いての未知なる生物の捕獲。
その対応に追われ続けているのだから、まるで戦時中並みの対応になるなのも致し方ない。
(ノアシェラン、遠慮も緊張も要らないよ。
この場にはまだ私の身内しか居ないからね。)
(…はい。恥ずかしい娘ですみません。お父様。)
(中身は良い年をした婆だがな。)
(うぅ…)
(可愛いからって虐め無いように。)
チクリと飛んで来るデュオニュソスの嫌味に、クスクスと笑いながらレオナードが戒める。
それにフン!と、不愉快を示す鼻音が鳴ったものの、それに否定が含まれていないが為に、ノアシェラン以外の全員が思いっ切り笑いをかみ殺した。
良くも悪くもデュオニュソスは真っ直ぐに自分の意思を伝えるタイプなので、否なら否と態度に現す。
長い付き合いからその性質を知っている面々は、内心で完全に面白がっていた。
好意的とは微塵も思ってないが、幼い男子が興味を抱いた女性に辛く当たっている場面を想像して仕舞うからだ。
デュオニュソスの中では得体の知れないモノへの強い警戒心と不快感が渦巻いているので、大人な対応を取り繕う必要が無いだけで有るが、確かに彼の態度が完全な敵に対する代物では無くなっている。
デュオニュソスは意図的に様々な場面で攻撃的な姿勢を貫いて試しているが、ノアシェランは逃げる素振りをする以外は、敵対行為をして来ない。
初めての攻撃行為らしき反撃ですら、本人は攻撃した意識さえ持ってないと、理解出来る代物だった。
まだ完全に信用するまでに至ってないので、デュオニュソスなりの試験を継続しているが、周りからそれが好意を上手く伝えられない未熟な男子のソレに見えてしまっている。
無論、全員がデュオニュソスの計算と分かった上で。
それでも見ていてかなり愉快な事になっている。
何故ならデュオニュソスが彼女への理解を深めて警戒心を緩めて行くのに対して、ノアシェランがデュオニュソスに苦手意識を深めて行くのがハッキリと伝わって来るのだから。
眺めている分には、なかなか楽しい見せ物だった。
図らずもデュオニュソスの配役が初恋をする少年なのが、全員のツボなのだから。
お澄ましした態度の腹の中で、お腹を抱えて地面をバンバン叩いている状況と言える。
閑話休題。
続く気まずい沈黙ーそう思っているのはノアシェランだけなのだがーに、完全に勘違いしたノアシェランは、は!と何かを思いついて顔を輝かせた。
(そう言えばお父様!
私、食べてみたいものが有るんです!)
(うん?)
言うやいなや、了解を得る前にノアシェランは窓から二種類の果物を窓から呼び出す。
そしてゴトリとテーブルの上に置かれた2つの物体に対して、全員が丸く目を見開いた。
(えっと、コッチが世界で一番甘くて美味しい果物で、此方が皮が柔らかくて甘くて美味しい果物ですよ。
どれも私には食べられない物でしたけど、ここなら皮を剥ける人がいるかなぁ、って!)
(((((!!!!!!!!)))))
(ウインス!)
(やってます!)
半ば得意気なドヤ顔をしたノアシェランの説明を聞いた面々が、一斉に臨戦態勢に入って緊張感を高める。
レオナードの叫びと、それに応えるウィンスの叫びが頭に響く頃には、テーブルを覆う金色の結界が張られ。
ノアシェラン以外のそれぞれが椅子から腰を浮かせて警戒の姿勢を強めた。
魔法を発動中のウィンスは身動きが取れず。
レオナードの前にはアトスタニアが立ち、エクスタードの前にも彼の侍従が立ちふさがる。
デュオニュソスはノアシェランの首根っこを掴んで抱き寄せた後、椅子の裏に回り込んで退避して来たエマルジョンにそれを押し付けると、果物に対して改めて姿勢を整えた。
(え?え??)
果物を出したのに、間違えて爆弾を出してしまい。
皆がそれを警戒している。
そんなニュアンスを感じて、彼女の頭にクェスチョンマークが乱立した。
(…どうやら爆発する様子は見受けられませんね。)
(はい???
ただの果物だよ?!
この世界の物だから、私は初めて見たし食べられなかったけど。
えーと、それは世界で一番甘くて美味しい果物って事で窓に探して貰った食べ物ですよ?)
警戒の滲むシリアスなウィンスの一言で、ノアシェランは自分が感じた感覚が間違って無かった事に驚いて叫ぶ。
(姫様…)
(こ、この粗忽者めがあああぁぁぁ!!!)
(ひぇ?!)
(物を、物を知らぬにも程が有るぞ!
初めて見た得体の知らぬ果実を何故安全だと思い込む?!
その首の上に乗っている頭はただの飾りか!
少しは物事を考えて行動を起こせ!
呆れ果てて物が言えぬわ!)
(怒ってる!怒ってる?!
メチャクチャ怒って怒鳴ってるよ。
何で何で何でぇ?!)
エマルジョンの苦しい呻き声の後で、デュオニュソスの雷が響き、クドクドと説教の嵐が吹き荒れた。
(えーと、世界で一番甘くて美味しい果物だと願って探し出した物なら、そこに人が安全に食べられる物だと言う願いは込めてないって事だよね?ノアシェラン。)
(それは…。
でも果物ですよ?)
(馬鹿!この馬鹿者!)
(え?!何でですか?!
果物って、普通は安全でしょう?!)
(姫様、この世界に有る大抵の果物は、人にはとても危険な物が多いのですよー。)
レオナードの確認に首を捻っているノアシェランをデュオニュソスが心の底から罵倒し、それに驚く彼女にウィンスがアハハと朗らかに説明を足す。
(え?!何ですかそれ?!)
(そうですねぇ…。
例えば其処に置かれている2つの内の一つは私も全く面識は有りませんが、残りの1つ。
その桃色の果実は非常に危険な代物でしてね?
甘い匂いで人や動物を呼び寄せて置いて、食べようとして触れると爆発する事が有るんです。)
(は?!)
(そして仕留めた獲物を木が養分にして食す。
そんな習性を持っているんです。
まぁ魔素の多い深い森にしか繁殖していませんし、収穫に不向きなので普段は滅多にお目にかかれません。
私も一度しか現物を見た事は有りませんが、爆発すると大量な細かい棘が刺さってかなり厄介だそうで。
全てを除去しなければ回復魔法も使えません。
流石にこうやってポンと出されたら少し驚きますねー。
まぁ、これ1つだけなら痛いだけで死人は出ないとは思いますが。)
(ナニソレ怖い!
爆発しなくて良かった!
私、思いっ切り投げ捨てちゃったよ?!
あの空間の中だから爆発しなかったのかな?
美味しい物だと思って沢山集めたのにぃ…)
顔を青ざめさせたノアシェランはガタガタと震えて悲しみに暮れる。
(ほお。それは非常に嬉しい情報ですね。
後で分けて頂きたいです。
厄介な性質は有りますが、扱い時に処理を誤らなければ非常に優秀で稀少な素材ですから。)
(え?食べないんですか?)
(毒が有るのでお勧めしませんよ?
強い依存性と幻覚作用が有りますので、自白材の精製に持って来いな…)
(全部差し上げます!!!)
(ありがとう御座います♪
いやぁ嬉しいなぁ。本当に助かりますよ。
手に入れようと思ったら、これ一つで金貨3枚は必要なもので。)
ホクホク顔のウィンスに、悲壮感を漂わせるノアシェラン。
そんな力の抜けるやり取りに狂わされそうな状態で緊張感を持続させつつ、もう一つの果実を全員が注視した。
(それは分かった。
残りのもう1つは何だ。)
(あれは私にもサッパリです。
ですが世界が一番甘くて美味しいらしいですから、さぞかし優秀な素材で危険なのでしょうねぇー。
実に興味深い。)
もう食べ物の感想とはほど遠い。
ノアシェランはハラハラと涙をこぼしながら、重大な事実を思い出す。
(あれも実は沢山集めたのですが…、それより直ぐに聞きたい事が出来ました。
この世界の果物は全部、人が食べてはいけないものなのですか?
どうしよう!
私、食べちゃった。
飲んじゃったが正解だけど、沢山食べちゃったようぅぅ!)
ガタガタと小刻みに震えるノアシェランが、青ざめた表情でウィンスへと縋る様な視線を向ける。
(だからオマエはどうしてそう迂闊なのだ?!
何故知らない物を簡単に口にする!
少しは懲りる事を知らないのか?!
オマエからすれば水を飲んだせいで其処まで若返る、未知な世界の代物なんだぞ!?)
(だってぇー、お腹が空いてたんですぅー。
パンを食べようとしたけど、堅くて食べられなかったんですぅー)
(パンを手に入れられるなら、ちゃんと人が食える食材を手に入れろよ!
オマエは阿呆か?!阿呆なんだな!)
(だってだって金貨を置いても価値が分からないから、盗んでるみたいで心苦しくてぇー…)
(だったら何かをする前に何故此処に来なかったのだ!
来られた所で大迷惑だが、来る事は出来ただろうが!)
(言葉も人種も文化も何もかも違うから、怖くて悩んでたんですう。勇気を出して会いに来たのに、意志の疎通が出来る人って条件でも、言葉は通じないし警戒されるしで本当に悩んだんですよぅ?!)
(何故得体の知れない果物は警戒しないで人にだけ妙な警戒をする?!
オマエのその思考回路が俺には全く理解出来ぬわ!)
(まぁ果物もそれなりですけど、人を警戒するのは間違ってませんけどね。
それよりも一度これらの代物を戻して頂けると有り難いのですが。
姫様の能力が支配する空間であれば、今まで何の問題も無かったのでしょう?)
(は、はい。
直ぐに戻します。)
(あー、マジですかぁ。
いやぁ、驚きです。
これはもう笑うしか有りませんね。アハハハ。)
張られ続けているウィンスの結界の中からヒュンと姿を消した2つの物体に、驚愕を通り越した呆れと諦めの雰囲気が渦巻く。
今回は中のものを外に出さない様に封じ込めていたが、通常なら張られた結界は消さないと外からも触れられ無いのが定席。
その事実を目の当たりにした宰相が、無言で呻きながら納得を示す。
(生半可な封印も通用せず、他国に取り入られる事も看過出来ず。
安易に害して神々の怒りに触れることを思えば、選択は少ないですな。
本来であれば穏便に退場頂くことが一番の正解な道と言える気が致しますが…)
クドクドと様々な前置きを示してから、彼はレナードと視線を合わせる。
(陛下のご判断を私も指示致します。
欲を申せば老い先短い私の養女として与えて頂きたかったですがの。)
(何を申す。
その方は欠かせぬ人材よ。
代わりが利かぬ。私よりもな。)
(お戯れを。
陛下こそ、何を置いてもこの国に欠かせぬ存在ですぞ。
この事態が正にそれを証明しております。)
(有り難いことだな。
戯れか試練かは知らぬが、どうやら私は神々の琴線に触れた様だ。)
(伝説に名を残されますか。
悪童の代名詞の様な殿下が、歴史に名を残す賢王となられました事を言祝ぎ申し上げます。)
(まだ気が早いぞ。)
(何の何の。ノアシェランの導きが招く事実です。)
クエスチョンマークを頭に浮かべて2人の話を聞いていたノアシェランだったが、彼女は自分が飲んだ果物が気になって不安で仕方が無い。
それでも感動で涙ぐんでいる宰相と、うっすらと微苦笑を浮かべているレオナード達が放つ厳かな雰囲気に口が挟めず、モヤモヤとしている所でウィンスから声が飛んで来た。
(大丈夫ですよ姫様。
口にして悪い代物でしたら何らかの異常が既に現れております。
それが無いのでしたら、姫君が口にされた果物は、数少ない有益な物だったのでしょう。
後で見せて頂ければ、私も確認致します。)
(あ、ありがとうございますぅぅ!)
(内緒話は止めろウィンス。)
(えー、嫌ですねー。
姫君の顔が曇っておりましたので、懸念を払って差し上げたまでですよ。)
(だとしても個人的に用件を伝えるのは止めろ。
オマエが相手だと不安でしか無いわ。)
ノアシェランの礼は全ての物が聞くことが出来たが、その犯人がウィンスだと思ったのはデュオニュソスの勘だ。
彼は個人的な念話をノアシェランへと送っていたのだが、何故相手が彼だと断定出来たかと言えば、エマルジョンに抱かれているノアシェランがウィンスを見つめていたからだった。
推理とも言えない単純さだが、それだけデュオニュソスの警戒心も強く、洞察力も優秀で鋭い。
全ての人の意識がレオナードと宰相に集まっているほんの僅かな隙。
そんな巧妙なタイミングを狙っての犯行を見抜かれたウィンスは、諦めの思念を公共に送る。
悪意は全く無かったが、場の空気を乱したのは確実だった。
ノアシェランの素直さを計算に入れてない時点で、ウィンスの悪意は否定されている。
場を乱す罰の悪さより、ウィンスは行動で優先順位の一位を言外に示しただけなのだから。
(そうだったな。
ノアシェラン。
口にした果実を出してみろ。)
(は、はい!)
(お待ち下さい。
好奇心は身を滅ぼします。
何も国王と宰相が揃っている前で行う行為では有りません。
後で私が安全性を確認した後で、お二人には報告致します。)
(それならば宰相が下がれば良い。
我が娘の安否に繋がる大事。
それを父親が見届けるのは必然で有ろう。)
(いえいえ、此処は陛下がお引き下さい。
陛下の損失は国の大事。
私が陛下の代わりに責任を持って見届けさせて頂きます。
(いいえ、お二人共。
果実の安全性を確認するのに全く必要有りませんね。
ご自身の目で見たくて、あわよくば食したいお気持ちは良く分かりますが、姫君に無害だったとしても我らが食べられるとは限りませんよ?
エルフの妙薬と同じです。)
((むうぅぅ…))
淡々と切って捨てるウィンスに、レオナードと宰相が無念気に唸る。
だがそれを聞いて驚いたのはノアシェランだった。
(エルフの妙薬…って、この世界にはエルフが存在しているんですか?!)
好奇心いっぱいに瞳を輝かせる彼女に、ウィンスは素直に頷く。
(はい。このエルフの妙薬に関しては童話の類の伝承ですが、かってはエルフだった種族の末裔は確かに現存しておりますよ。
姫様の世界にもエルフはいたんですか?)
(いいえ!人の想像で描かれる伝説の生き物です!
とても長生きで魔力の扱いに長けた、美しい容姿の人達ですよね?!)
(美しいかどうかは個性と個人の嗜好に依るかと思いますが、確かに我々の人種と比べれば老化が遅くて、魔力の扱いに長けているかと思われます。
かく言う私の血筋にも、エルフが混ざっておりますので。)
(言われみるとウィンスさんて、とっても美人さんでした!)
(姫様には初対面で爺扱いでしたが?)
(お部屋が薄暗かったので、銀髪が白髪に見えてしまったんですぅ!
私の国の者は黒髪が基準で、白い髪は老化の証しだったもので、本当にその節はすみませんでした!!!)
(姫様、落ち着いて下さい。落としてしまいます。)
(すみません!)
エマルジョンの腕の中でヒィと悲鳴を挙げながら、深く深く頭を下げてバランスを崩したせいで、ヨイショと抱き直される。
あちこちに謝罪で忙しい。
(仕様が無いな。
寄越せエマルジョン。)
そんな姿に呆れて、デュオニュソスは彼女の腕を掴むとノアシェランを自分の方へ抱き寄せた。
長距離を歩いて危機を乗り越えた経験から、少し幼児の扱いに慣れたデュオニュソスは危なげ無く片腕に収める。
(助かりますわ。
お気遣い有り難く存じます。
少し成長なされて嬉しく思いますよ。)
(だから一言が余計だ!)
不本意丸出しなデュオニュソスに、エマルジョンは鉄面皮を和らげて生暖かい視線を注ぐ。
(それで!もう宰相への謁見は終わったな?
次は果実の検証か。
全く忙しいが、どうする?)
(その前に軽食を召し上がって下さい、皆々様。
姫様の食した果実の確認は急ぎでしょうが、他の方々はまだ朝食も召し上がられていませんよね?)
(そうですねー。
今の所姫君の体調に異変は見られませんから、緊急性は食事の方が高いでしょう。)
(むうぅ…致し方有るまい。)
(だけどもし無害と分かったら、私にも食べさせてよ?
ノアシェランが見つけた美味しい果実を!)
(だからそれは安全性がちゃんと確認出来てからですよ。
直ぐに体調不良となって現れないだけかも知れないんですから、時間が掛かる事は覚悟して置いて下さいね?
それに陛下が食せるまでにモノが残っていればの話ですよ。)
渋い顔で、尚且つウキウキと最速して来るレオナードに、ウィンスは呆れ顔で念を押す。
重大な副作用は無かろうと、下剤の効果を持つ物も有る。
だから複数の者に食べさせて異常が無いか確認をしなければならない。
(私にも是非、ご相伴させて頂きたいですな!
私から陛下に感想をお聞かせしましょう。)
その辺の事情を分かっておきながら、敢えて強めに催促している宰相にウィンスとレオナードがげんなりとした。
(ですからそれだけの量が残っていればの話で…。)
(量なら有りますよ?
一応食べられる物をかき集めましたが、他にロクなものが無かったので、いつも水の代わりに飲んでいましたから。)
(ヨシ!でかしたぞノアシェラン!)
(これは非常に楽しみですなぁ。)
(ですから、例え量が有ったとしてもエルフの妙薬に類似する危険性も有りますし。ひょっとしたら我々が馴染みの有る果実の可能性も有りますから、今から無闇に期待を高めない方が良いと思いますよ?)
(確かにその危険性も残っているのか。
ノアシェラン、どんな姿形をしている果実なのだ?)
(えーと、とてもキラキラと綺麗な青色で…、そうですね。
でおにそす様の瞳の色に良く似ています。
でも果物なのに皮がとても脆くて、少し歯を立てただけでパチャンと弾けて仕舞うんです。
果肉は全部白い液体で、とっても甘くてミルク味で美味しいのですが、噛む所が無いので飲み物にしかなりません。
果物だと思っていたら、少し物足りなくてガッカリするかもです。)
(青色の果実だと!
私は食べた事が無いぞ!
皆は知っているのか?!)
(中身が全て白色の液体ですか。
私も初めて聞きますね。)
(((おおっっ…!)))
レオナードとウィンスの会話から、未知なる稀少な代物に対して否応無しに全員の期待値が高まって行く。
(その、みるく…とはなんですか?姫様)
(え?ミルクって、この世界には無いんですか?
牛のお乳ですよ?私の国では好まれている家畜です。)
エマルジョンの素朴な疑問に、ノアシェランは驚いて返す。
(うし、と言う動物が姫様の世界にいるのですね?
動物の乳ならこの国ではトンが出す乳が通常で、皆に親しまれておりますのよ。)
(とん、ですか。豚みたいなお名前ですね。)
(ぶた、と言うのも動物でしょうか?
私たちの国では耳にしないお名前ですね。)
(ふぅ。こういった雑談なら座ってすれば良いだろう。 )
(どうせ食事にするんだし。
そうだね。皆、腰を落ち着けて話そうか。)
(もう二度と変な物を出して来るなよ?ノアシェラン。)
(はい。もうしません。
ごめんなさい。反省してます。)
デュオニュソスが促すと、先程の椅子へと各々が座って行く。
その時チクリと刺されたデュオニュソスからの釘に、ノアシェランはガックリと小さな肩を落とした。
その思わず撫で回したくなる愛らしさに、デュオニュソスは奥歯を噛み締めて耐え忍ぶ。
最近彼の中で流行りになっている心のキャッチフレーズは“騙されないぞ”だ。
そうでなければ、彼の役目は果たせない。
だがその役目の必要が無い大半の者達は、ノアシェランの素晴らしい愛らしさにホッコリと和まされている。
どんな種族でも子供の姿は愛らしい。
けれどもノアシェランは高い魔力が災いして、キラキラと薄く柔らかい光を纏っているのだ。
しかも優しくして欲しくて、それらが無意識の内に魅了の効果を発揮している。
その神秘的で愛くるしい姿が、実は皆の興味と好奇心を増長させていた。
何ならそれを抱いているデュオニュソスも男神を連想させる類い希な体躯と美貌を持っているせいで、神話の一幕を見ている気分にさせてしまう。
皇族や高位の貴族は、能力や容姿に恵まれた者を婚姻相手に迎える機会が多いので、よほど強欲で教育課程が杜撰で無い限り。
外見上は見目麗しい者が多く存在する。
若くして国王のレオナードは言わずもがな。
老齢した宰相のエクスタードも、がっしりと威風堂々とした身体付きは健在で、豊かな白髪や白髭が多少の老いを感じさせた所で、緑の鋭い瞳と時の醸し出す貫禄が美麗な中年男の色気を醸し出している。
閑話休題。
出されたサンドイッチや、一口大に刻まれた肉や野菜を食べながら、スープを飲んだノアシェランはホッコリとした笑みを少し曇らせた。
(ヤッパリ薄味だ。
野菜の旨味はちゃんと出てるから、美味しいのは美味しいけど、何だか物足りないなぁ…。
見つけたお塩や胡椒を出したら、食べられる様にしてくれるのかなぁ?
でも果物のこともあったし。
あんまり期待しない方が…)
(…ノアシェラン。
今、何と思った?)
ピキリと固まった場の空気に、遅ればせながら気づいたノアシェランは慌てて顔をスープから上げてレオナードの顔見る。
(え?)
(わ、私には塩とこしょう?と、感じ取れた気がしたのだが…)
(陛下。
落ち着いて下され。
それはこの場で掘り下げてはなりません。)
(そうですね。
これはまだ危険ですよ。
望んだ物を取りに行けるのですから、当たり前の話ですが。
まだ量がどれほどとれるか分かりませんしね。)
動揺の気配を滲ませながらレオナードが言及しようとしたのを、すかさず宰相とウィンスが留めた。
(う、うん。そうだよね。
これはまだ早過ぎるよね。)
((((ハハハハハ))))
(え?え?え?)
白々しい笑い声が男達から一斉に木霊しているが、妙にギラつき始めた気配に、ノアシェランの動揺が寄り一層高まった。
(それよりも姫様のお国のお話をお聞かせ下さいませ。
姫様のお国の料理はどんな物が有りましたの?)
露骨な動揺が取り繕えない男達に見切りをつけたエマルジョンが、忠実に任務の遂行に走った。
エマルジョンは生まれの身分が低かった事で、乳母の役目に辿り着く前から様々なメイドの仕事をこなしていた成り上がりのスーパーウーマンだったので、ノアシェランにはメイドの仕事を交えて遣えていたが。
本来侍女の役目とは、細々とした生活の世話をするのでは無く、単純に話相手として主の相談に乗ったり、体外関係からのストレスを緩和したり、孤独を癒やす付き人の事なのだ。
年齢が近い者が好まれて、身分の高い令嬢が勤めている事も多いが、乳母が出世をして付くことも有ったり、様々なケースが有る。
男性主体の社会の中で、女性が出来る仕事として公に認められている数少ない職種だった。
伯爵夫人となったエマルジョンは、本来は引退しても可笑しくは無かった。
実際に隠居して、夫の持つ屋敷に引っ込んでいた時期もあったが、先王が崩御した事でレオナードの為に舞い戻った経緯を持っている。
つまり今この場で忠実に己の役目を思い出して、真っ先に行動を起こせた才女だった。
その仕事振りに周りの男たちも無理やり冷静さを引き戻そうとする。
(そうですね、色んな国の美味しい物が有りましたよ。
美食に目が無い人の多い国でしたし、美味しいと思えば色んな食材を外国から取り寄せてました。
だから塩や胡椒なんかの基本的なスパイスだけで無くて、醤油とかソースなんかの調味料や、豆板醤やガムマサラなんて外国産の調味料も沢山集まってました。)
(まぁ…、そうですか。
国交がお盛んなお国でしたのですね。)
(はい!私が生まれる前に大きな戦争があって負けてしまったのですが、そらから復興で返り咲いて、経済的には逆に裕福な国になりました。
技術力も優れていて、私が大人になる頃には世界の上位になっていましたね。
今は他の国に追い上げられて、ちょっと衰退してるみたいですけど、それでも世界有数の経済大国ですから。
食に対する文化は優れていたと思います。)
(それはまた、素晴らしいお国にお住まいでしたのですね。)
(はい!
私はとても恵まれていたと思います。
ですからこの世界で一番美味しいお店を探してスープを飲んだ時に、とても驚きました。
この世界は塩以外の調味料を料理には使わないのでしょうか?)
(いいえ、様々な調味料が料理には使われておりますよ。
例えばこのサラダには果物の果汁にハーブを入れた物を使用しております。)
(それでサッパリと酸味が効いていたのに、独特な風味があったのですね?
ではこの国にもマヨネーズも有るのですか?
卵にお酢を入れて作る簡単な調味料なんです。)
(たまご、とは。私が存じ上げているモノと違っていたら申し訳有りません。
その、魔物や動物が産まれる前の状態を示す卵、で合ってますでしょうか?)
(私の国に魔物がいなかったので、全く同じ物かは分かりません。私達の国では食用として安全に卵を食べる為に、鳥を繁殖させて新鮮な卵を集めていたんです。)
もう耳がダンボ状態となって、無心で2人の会話を感じ取っている。
実際に音を拾えている訳では無いので、耳を大きくする必要は無いのだが。
卵を産む動物を飼育して、それを食用に改良する発想すらこの地方には無かったのだ。
そもそも卵は食材では無い。
何故なら卵を手に入れようとすれば、十中八九魔物や獣の襲撃に合う。
そして巣に隠されているせいで見つけ難い上に、割れやすいので運搬も難しい。
錬金用の素材として高額な代金で仕入れて利用するのが一般的な使い方だった。
(…そうか、鳥か。)
(ですが鳥は飛びます。果たして飼育が可能なのか…。
確かに攻撃力の低い物も多いですが、どうなのでしょう。)
(私の世界では飛ばない鳥を使って飼育してましたよ?
この国には居ないのですか?
窓に探して貰っても良いですけど…)
(飛ばない鳥は鳥と呼べるのかな?)
(ですが飛ばないので有れば、飼育が可能やも知れませぬな。
大きさや凶暴性などの様々な問題も有りますが。)
(なぁ、そのタマゴってヤツは本当に旨いのかい?)
真剣な表情でプルプルと小刻みに震えながら、レオナードとエスタードが実際に行うと断言しないまでも、実際に向けて頭の中で考えを巡らせていると、アトスタニアが生理的に嫌悪感を抱いて顔をしかめる。
(美味しいも何も。
卵は優れた万能食品の1つですよ?
栄養価も高くて、戦争のせいで食糧難に陥っていた昔の日本では、お薬扱いをされてたぐらいの高級品だったそうです。
そのまま生でも食べられる様に飼育していたので、生卵を料理に使う事も有りましたし、茹でて良し、炒めて良し、揚げて良しの。スッゴく美味しい食材の一つです。)
鼻息も荒く怒涛の情報を送り込んで来るノアシェランに、デュオニュソスは思いっきり眉間に皺を寄せた。
(それはあくまでもその方の国での話だろう。
それも技術的に改良されているでは無いか。
この世界に存在する卵と同列に語って良いものでは無かろう。)
そして苦々しく常識的な見解を披露した所で、取り敢えず皆の興奮は上辺だけ落ち着いたのだが。
言っておいて、本人のデュオニュソスですら、手に汗をビッシリかいている。
何なら背中もかなり涼しい。
(確かに仰られる通りですよね。
この世界の卵は食べられないのですか。
とっても残念です。)
(…食用に適した鳥を捕まえて飼育可能か試して卵を産ませるしか無いな。
だがこの国だけでなく、どこの国でも鳥を飼育している所は無い為に、全てが手探りの状態で、だ。)
どうにも興奮が堪え切れず、失笑を浮かべながらもついつい話を展開させてしまう。
(ハハハ、食用に適している卵を産む鳥は姫様が見つけて下さるとしても、それを飼育して利益が出せるのか調べるのは、また骨が折れる話ですよねー。)
(そうだの。
直ぐに我々の口には入らぬな。
まず卵そのものが無害かどうかも調べねばならぬわ。)
それに触発されたウィンスとエスタードが便乗してしまい。
否定しながらもついつい問題点を具体的に掘り下げてしまう。
(そうですよねー。
鳥の育て方も知りませんし。
自然に有る鳥をどうやって人の手で繁殖させれば良いのか。
人になるべく無害で育て易くて、人が食べても害にならない卵を産む鳥って、限定して探せば見つかるかも知れないですけど。
生活している姿を窓から観測しなくちゃいけないし。
手間暇がかかって大変ですもんね。)
それを聞いたノアシェランも、ガッカリとして肩を落とした。
(確かに手間と時間の必要な壮大なお話ですな。)
((((ハハハハハ))))
白々しく笑い話にして誤魔化しているが、つまりその問題点が改善出来れば実現可能な話と言う事を、ノアシェラン以外の全員が理解している。
誰も知らない方法で新しい食材が手に入れば、それはもう国の特産品と言える。
特産品とは他国が欲しがる物で有ればその価値は計り知れない。
鳥を増やして他国に飼育方法ごと輸出しても良い。
卵が食材として優秀で有れば、他国も喜んで買い上げるだろう。
長い目で見れば、そのうち他国も自分の国で増やし、外に売りつける価値も下がるやも知れないが。
初期の段階では莫大な資産をもたらすことになる。
その資産価値を思えば、ノアシェランの纏めた条件に見合った鳥が手に入るので有れば、事業として手をつける事も絵空事の出来事とは言えない。
まだ各地で餓死者が多く存在しているこの世界で、安全に食べられる食材の発見は計り知れなく大きな代物だったのだ。
それが簡単にポロリと与太話から出て来る脅威。
価値を知る者が聞けば、と、言うか。
雁首揃えて聞いている状態が正に今だった。
笑顔が引きつるぐらい動揺しても可笑しくは無い状況だろう。
「いやはや、全く面白い姫君ですな。
陛下は実に慧眼で在られました。」
心底の感想を含めて宰相が呟く。
分からない言葉に音を聞いたと思ったノアシェランが、愛くるしい瞳を宰相に向けてキョトンと小首を傾げる。
(ノアシェラン殿下を養女になされた陛下の先見の明に感服しておったのですよ。
全く驚かされました。)
(その分脅威は鰻登りだがな。)
(え?!)
(姫様、デュオニュソス様は当たり前の事を仰られているのです。心配は要りません。
ですがそれを踏まえて、身命を遂げて御身を御守りする為に、陛下は貴女様を養女になされたのです。
この国の誰でもそれは不可能でした。
それは他の国でもきっと同じ事でしょう。
この国の今の陛下でなければ、叶わぬ事象だと私は思います。
今の姫様にはご理解頂けないかと思いますが、ゆっくりと分かって行けば良いのです。
これから姫様は様々な事を学んで行かれるのですから。)
しみじみと諭すエマルジョンの想いが、全員の胸に振り積もる。
それはまるで聖書の中の一節を語る、始まりの預言だった。
彼女の養父になると言うことは、家の威信をかけて彼女を受け入れると言う宣言に等しい。
それは他国からの圧力や繰り出される暗殺者からの保護などの身の安全に対するものかは始まり。
世界に及ぼす影響への教育の負担を意図している。
安易に隷属させて神の怒りを買うことを避けるには、普通の者で有ればお家大事と考えて関わらない事を望む義務があった。
メリットよりも遥かにデメリットの方が大きいからだ。
けれどもレオナードが治めているペルセウス王国は今正に存続の危機に陥っていた。
国王の首を息子にすげ替えれば国の名前は辛うじて残るだろうが、実質の統治を皇国に奪われる事態の瀬戸際に立たされていたのだ。
侵略の勢いを増大させる、かの北の大国は、その鋭い鎌をレオナードと国の両方へと突き付けている。
その事が彼が国の威信をかけて、ノアシェランを守る踏ん切りをつけさせたのだ。
デュオニュソスは全ての地位と職務を捨て、ノアシェランを連れて国を離れる覚悟で上伸したが、結果として婚約者と言う中途半端な条件でそれは跳ねつけられた。
養父がレオナードである以上、彼の許可無しにノアシェランを連れて国を出ることは叶わない。
ただし有事の際、レオナードの許可が有れば、彼女を連れて離れる事が可能な立場が婚約者の形となった。
宰相は自分の家を潰す覚悟でノアシェランを受け入れる意思をレオナードへと伝えたが、彼では公爵家は愚か他国に対しての力が足りてない。
国ですら北の国の脅威に晒されている状態なのだから、それは宰相であるエスタードも充分に承知している。
だからこそ彼は最悪の場合は命を懸けて出奔し、国と国王を守りたかったのだ。
レオナードが息子と政権を交代すれば、皇国の血が通った息子が国王へと代わる。
それは文字通り、ペルセウス国家の滅亡を意図していた。
レオナードの息子であるベルトラント王子が国王を受け継いだ場合、その補佐の名目で皇国から後見人の名目で執政管が送られて来る。
それを拒む事は戦争を意味する為に、滅亡を現す。
今後はお飾りのベルトラントを国王に据えて、皇国に都合の良い執政を強いられる属国になる。
レオナードはペルセウス王国の最後の砦となって、それらの意図から戦わねばならない。
その切り札としてノアシェランを欲し。
そしてそれを天命と自らに課した事で、神々の恩恵に授かろうと企んだ。
人の意思で都合良く扱うことの出来ない、未知なる力を持つ生物を娘として受け入れた理由だった。
こうしてノアシェランはレオナードの養女となり。
ペルセウス王国の第一王女が爆誕する運びとなった。
ちなみに現段階ではノアシェランが皇国に対抗出来る力を持っているとは判別されていない。
つまり完全にレオナードの見切り発車で有る。
宰相は賢王になったとレオナードを誉め千切っていたが、これは会話を聞いている周囲の者に対する政治パフォーマンスと、本人の願望とそうなる様に協力を示す決意表明だ。
コレが原因でレオナードが死んで国が滅べば、彼は欲に溺れた愚王として歴史に名を残す。
果たしてレオナードが賢王となるのか、愚王となるのか。
天才と馬鹿は紙一重の状況で、先の事はこの時の誰にもまだ分からなかった。
登場人物
レオナード・フォン・ペルセウス
ペルセウス王国の国王
ディオニュソス・ダルフォント
国王の侍従 ダルフォント男爵
ダルフォント公爵家直系の嫡男。
アトスタニア・レガフォート
近衛騎士団長
レガフォート子爵
ウィンス・ベッケンヘルン
宮廷魔導師長官
ベッケンヘルン伯爵
ノアシェラン・ペルセウス
主人公
リリスティア・ベルモット・ペルセウス
ペルセウス王国の正妃
ルクテンブルフ皇国第43女
ベルトラント・レスターナ・ペルセウス
ペルセウス王国の皇太子
ペルセウス第一王子
リブロ・スゥェード
国王付き執事長
スゥェード準男爵
エマルジョン・バーゲンヘイム
ハーゲンヘイム伯爵夫人。
レオナードの元乳母。
国王付き侍女長
エクスタード・ボルカノン
ペルセウス王国の宰相