底のまた底
永遠に続くと思われた闇の底への墜落は、案外すぐに終わった。
とはいえ下は固い岩盤だ。咄嗟に防御姿勢をとっていなければ死んでいたかも。残りわずかな魔力振り絞り、“防壁”を下方に広域展開して落下速度を殺す。バリアの先端が接地したと同時に段階的な時間差をつけて解除、着地したところで転がって衝撃を分散する。
“衝撃緩和”と呼ばれる動作は、孤児院で繰り返し身体に叩き込まれた、“生き残るための技”のひとつだ。
「あの孤児院、やっぱおかしいよな。鍛え方が暗殺者養成所みたいだったし」
院長は初老の優しい女性だったが、同時にかなりの変わり者でもあった。彼女は人間とドワーフの混血で、恐ろしく波乱万丈の人生を歩んできたらしい。本人曰く、冒険者で発明家で格闘家で陶芸家で書家で料理研究家で農業研究家で、孤児院長。
いまひとつ聞き慣れない響きの“アイクヒル”という名前をぼくに付けてくれたのも院長だ。
ほとんど廃墟だった王都の孤児院を買い取り、近隣から身寄りのない子供たちを受け入れては世話してきた。
孤児院の理念は単純。犯罪や売春以外で、生きていく道を見付けさせること。
その成功率は九割九分を超えると、本人は豪語していた。そのわずかな失敗例が何なのかは知らない。
王都での孤児は亜人や混血がほとんどで、そこに女神教団の支援はない。院長個人がそれまでの人生で蓄えた私財を投げ打ったらしいのだが、ぼくらがいくら聞いても本人は語ろうとしなかった。
まあ、院長の話は後でいいや。まずは、地上への帰還方法だ。
「……お?」
暗闇に目が慣れてきたのか、しだいに朧げなシルエットが見えるようになってきた。
ぼくが落ちてきた場所は十五メートルほどの平面。反響のこもった感じからして、周囲は岩壁に囲まれてる。遠くで聞こえる風の音からすると、開口部はありそう。まずは壁まで移動だな。
「これは……どういうこと?」
進んだ先には、いくつも白骨死体が転がっていた。残った着衣の残骸を見ると、冒険者がよく着ている動きやすい丈夫な服がほとんどだ。服が残っていないものも多い。ダンジョンには不釣り合いな平民っぽいのもあった。
墜落死か、魔物に襲われて死んだかだろう。それにしては数が多い気はする。
「……いや」
暗くてよく見えない頭蓋骨を手で触れて調べる。外耳孔の位置が高い。口吻の形も少し突き出している。獣人だ。たぶん人狼かコボルト。
「……もしかして、ここにあるのは全部、亜人の死体か?」
殺した亜人の死体を処分するために、もしくは邪魔になった者を生きたまま処分するために、“深潭”の底へとつながる大穴に捨てられたか。
最も地上に近い大穴の最上部は、ダンジョン入り口から少し入ったところにある。ふだんは入り口を誰かが守っているわけでもない。夜ならば人目を避けて入ることも、出来なくはない。
死体はどれも骨ばかりで、肉が残ったものはない。死んでからかなり長いのか。それにしては、周囲に生々しい死臭が残っている。五体満足で残った骨もない。ということは。
「肉を食い尽くす何かがいるのか」
気配を探りながら先に進んで、岩場を発見。身を隠せそうな窪みを見つけて潜り込み、収納を調べて武器になりそうなものを探す。肉食の魔物がいるなら、身を守ることが出来るかどうかは相手次第だ。
唸り声が聞こえてきた。ガシャガシャと骨を蹴り飛ばすような音も。音か匂いか、ぼくの存在を察知して探しに来てるな。
いまだ攻略できたのは勇者パーティだけという最難関ダンジョンの、さらに下層だ。こんな場所にいるのが生半可な魔物のはずはない。唸り声とシルエットからみて、人喰い鬼。豚のような顔に筋肉の塊みたいな体格。身長は人間の倍近く。体重も優に四倍はある。凶暴で嗅覚に優れ、人間の匂いを嗅ぎつけると執拗に追いかけてくる肉食の人型魔物だ。冒険者でいうと二級以上がパーティを組んでようやく討伐できる化け物。
「……ひッ、あ……」
少し離れた場所で、絶望感丸出しの囁きが聞こえた。
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