言葉はいらない
「なぁ、望美?」
『なに』
孝の部屋、私を後ろから抱きすくめる彼に、私はそう返事を返した。
「お前、おしゃべりにになったな」
言葉と一緒に、彼の指が私の髪の上をすべっていく。まぁ声は出してはいないんだけどさ、彼はそうつけ加えた。
『孝のせいだ』
「そうかぁ?」
『そう、孝が私をこんな風にしたんだ――』
私は彼の腕の中、彼の胸板に頭を置きながらキーボードをたたいた。
手に持った小さな画面を彼の前に掲げ、しばらくするとはずかしくなり文を消しておく。
そう、孝が私をこんな風に……。
身体が少し熱こそばゆくなるのを感じながら、私は彼の腕ごと、自分の身体を強めに抱きしめた。
【言葉はいらない】
私は一旦、手に持ったソレを床に置いた。
ソレ――電子辞書くらいの大きさで、開けば小さなキーボードがついていて、パソコンのように文字が打てるもの。デジタルメモ、というらしい。
地味な1LDKのフローリングに、置かれたポメラのオレンジ色は無駄に映えている。
それは非常に、そこはかとなく口べたな私の、音のない声。文字でつづる会話。
もちろん、何もしゃべらないことなんてありえないけれど、ポメラにはまってしまったであろう私は、ことあるごとにポメラを使っている。
私は、孝の手を指を絡めるように握り、先ほどの彼の言葉を思い出した。
(おしゃべり、か。無言だけど)
確かに、以前の私は口にするより考えてばかりで、口数は少なかった。でも、ちゃんと声は出していたし、筆談だったわけでもない。
(でも、孝のせいだ)
こんな私になってしまうきっかけは、やっぱり孝と、孝の家の近所にいたポメラニアンの子犬だったのだから。
「あの茶色でフワフワで、すげーフワフワで――」
以前、彼は近所の家で生まれたとかいうポメラニアンの子犬に夢中になり、足蹴なく通っていた。
そして、私に会うたび、デートの合間だろうと何だろうと、その子犬の話をくり返してきたのだ。
「可愛いよな、ポメ、世界レベルに可愛いって」
「俺の頬を舐めたんだぜ」
「抱き上げると不安そうに俺を見るんだ」
まるで至福というかのように、ニヤケた顔で私以外の何かをほめつづける。そうやって、私そっちのけでノロケた話しばかりいるものだからつい、
「私も、ポメラニアンに、なりたい」
そんな赤面大噴火なセリフを口にしてしまった。
そして、なぜか次の日に孝がくれたのが、このデジタルメモ――ポメラである。
一昔前に流行ったらしい、小型の折りたたみタブレットのようなもの。
どこでこんなものを見つけてくるのだろう。このポメラの利用者を当時は「ポメラニアン」などと呼んだりしたり、しなかったりしたそうで……、
とにかく、私は犬のポメラニアンになって彼に毎日溺愛されるのではなく、
機会仕掛けのポメラニアンとして、静かに饒舌な日々を送るようになっていた。
けれど、文明の力もすさまじいものだ。
こうやってキーボードを叩いているとなおさら実感してしまう。
今はスマホを指でなぞれば言葉になる。LINEもツイッターも言葉は軽く宙と世界を飛び回る。
言葉は今の時代、とても軽い。
好き、その言葉を口にするのは、キーボードをたたけば、変換を入れてもたった4~5回。
でも、そうやって言葉にひと手間かかるのが、本当にそこに気持ちがあるようで妙にこそばゆい。
『映画にいきたいなぁ』
『肩がつかれたから、もんでほしい!』
『できれば、明日も会いたい』
『ゴメン、ワタシガワルカッタヨネ』
口べたな私が、驚くほどに饒舌に無言の会話を繰り広げる。
スマホで語らない私が、ポメラニアンになって彼を言葉責めにする。
私は、孝にそんな風に改造されてしまったのだ。
ふいに、孝が指を解き、私を持ち上げるかのように立ちあがらせた。そして、今まで座っていた彼の膝に、今度は今までと逆の方向で座らされる。
意味なく意味深に笑う孝。
向かい合う私と彼。
私の視界から、古びた冷蔵庫や洗ってない食器が消え失せ、
そのかわり黒いポロシャツと、その開いた胸元から鎖骨がうつりこんでいた。
こういうのも嫌いじゃない、でもちょっとはずかしい。
思わず身体は身構えてしまった。
その状態で孝はささやくのだ、「望美、好き。望美はさ、俺のこと好きか?」と。
目の前にいなければかき消えてしまうような声が、私の頬をくすぐり、身体の芯が変にもぞもぞした。
バカだ! 私が声を荒げるタイプならそういって誤魔化したし、現に孝はバカだ。
でも、そんな単純さというか、嘘のない彼が好きだからこそ、今、私はここにいるのだろう。
視界を持ち上げると、また孝と目があって、彼はさっきの返事を待っている。
少し荒くなった呼吸をするたび、私たちの息が混ざりあった。
「望美?」
私は返事をしようと、とっさにポメラに手をのばしかけ……止めた。
きっと、今の気持ちを上手く表すのは、数ある言葉たちにも、電子小型犬にもできやしない。
好きをもっと大きくして、
でも、大好きなんて安直にすませたくない気持ち。
そう、こんなとき、言葉はいらないのだ。
私はとりあえず、催促を口にしようとする孝の口に、自分の唇を重ね合わせることにした。
一瞬、彼が何かをいおうとしたけれど、無論、それを私の口がふさいでしまう。
溶けそうな緩いしびれは、口から指先まで広がっていき、
それだけで、無駄な言葉も何もかも省いてしまえる、そんな気がした。
うん、やっぱり言葉はいらない。そうやって、感覚に身をゆだねていく。
鼓動と息と体温と、それだけでもいろんなことが伝わってくるのだから。
それは、どんな言葉よりも、どんな時間よりも、甘くて濃密なのだから。
「なぁ、のぞ――」
(ダメ)
私はとりあえず、彼の首に腕を回すと、あと30秒は、孝に何もいわせないことを心に決めていた。