Episode-8
酒場〈どんづまり亭〉に入ってきた男――ガンダンスは、二人の内一人の部下に目を送り中庭を指した。指図を受けた兵卒はきびきびとした動きで頭を下げ、大股で中庭に向かっていった。ガンダンスはもう一人の部下に目を送り、澄ました様子で卓についている旅人風の男を顎で示した。重い足音を響かせて近づいていき、兵卒は酒杯を口に運ぶ男の横に立った。
それと同時に床近くまで垂れた暖簾を分けて一人の男が出てきた。恰幅の良い男だ。料理長兼店主といったところだろう。カンダンスはその男をまっすぐと見据えた。
「これは……。わたくしは店主のマンスと申します。こんな辺境の地の〈どんづまり亭〉にお越しいただきありがとうございます。ご活躍にふさわしい食事をご用意させていただきます。何なりとお申し付けくださいませ」マンスは慇懃な挨拶とともに淀みなく言い切った。深く下げていた額に汗がうっすらと浮かんでいる。
「どうも、店主のマンス。もてなしの心に感謝する。だが、それは今度にしてもらおう。今は何も言わずに広場へ集まってくれ。他の者達も同様に集まっているゆえ」カンダンスは太い声ながらも威圧の色を一切見せずに言った。それは命令というよりもお願いに近かった。
マンスはいくらか緊張を緩めたのか、腹の前で握っていた手の力を抜いた。だが、中庭でお茶会をしていた老婆達が不安な様子で兵士の後について入り口に向かう姿を見る目には、僅かな不安が湛えられている。カンダンスは親しみを籠め、務めて陽気に言った。
「いきなり武装した者が来れば不安になるのも無理はない。さぁ、どうか広場に行って来れ。息子と奥さんも一緒にな。何も持つ必要はない。ただ、話があるだけだ」
マンスは二度頷き早足で暖簾の奥へ消えていった。カンダンスは旅人風の人物の背中に目をやった。すぐ横に立っている部下は腰に吊るされた剣ではなく、帝国製の黒い棒を手に持っている。カンダンスは部下に諭すような微笑みを向けながら旅人に近づいていった。
旅人風の男はよれよれのとんがり帽子に、手入れをされていない着古された天鵞絨のローブを纏い、座っている椅子の横には見るからに杖と呼べる魔具が置かれている。旅人は変わり者が多く、魔法使いにも変わり者が多い。そのどちらの特性も備えているのなら実に厄介だ。カンダンスは微笑みとは裏腹に苦い思いを抱いた。それに、一流の魔法使いは杖を握らなくても、杖の一部が体に触れてさえいれば魔法が使える。この魔法使いの杖は柄の先が脚に触れている。用心することに越したことはない。カンダンスは腰の革の鞘におさめられた黒棒、〝魔止め〟と呼ばれるものを抜いた。
「一日のしめにはもってこいの食事だな旅人よ」昼間から酒とは、放蕩人に相応しい行為だな。カンダンスは嘲りを隠して相手の言葉を待った。
魔法使いはチーズをちぎってイールと共に口へ運んだ。数回噛んでバーインスの赤い酒を口に含み、鼻の下の髭を震わせて味わった。
「旅人は国などに縛られない。そういう生き方をするのは知っているが、帝国の領土ではそういった行為は認められない。ゆえに、お前にも広場に集まってもらう。ことが済んだ後に再びじっくりと味わうがよい」
魔法使いは手を止めた。一瞬のうちに漂う不穏な空気に兵卒とカンダンスは静かに〝魔止め〟を握り直した。
と、一呼吸も置かないまま兵卒が空気に押されたように後方へ飛ばされ、カンダンスはその様子を見るまでもなく魔法使いに殴りかかろうと振りかぶった。
魔法使いは杖を持ち上げ体を捻ると、振り下ろされた黒い棒を頭上で受け止めた。魔法使いを押し倒そうとカンダンスは力を込めたが、びくともしない魔法使いの力に驚き目を瞠った。
カンダンスが目一杯力をかけようと力んだ拍子に、魔法使いは受け止めていた杖の片方を下に向けて受け流すと立ちがった。受け流されたカンダンスは体勢を崩したが、それもほんの一瞬、普通の人間ならその一瞬の隙を見つけることすらできなかっただろう。だが魔法使いは違った。カンダンスが水平に〝魔止め〟を振る前に魔法使いはカンダンスの首を杖で打った。鈍い音と共にカンダンスは地面に崩れ落ちた。向かいの兵卒が腰に吊るした剣を抜こうとし、刃が半分ほど見えたところで魔法使いは杖の翡翠色に変わった宝珠を相手に向けると、手首だけを動かして素早く小さく円を描いた。
兵卒は抑えきれない呻き声を上げながら、体を空中で横向きに一回転させて、金属のぶつかり合う音と共に地面に落ちた。その目には恐怖がまざまざと見て取れる。兵卒は歯を食いしばり慌てて立ち上がると、剣を持たずに魔法使いに組みかかろうと走り寄る。
魔法使いは小突くように杖を突き出すと、兵卒の体は見えない力に体を縛り上げられたように空中で固まった。恐怖に怯えきり見開かれた目は口のかわりに悲鳴をあげているかのようだ。
「まだ坊やではないか。お前、魔法を相手にするのは初めてだな。その黒い棒の使いかたもわかっとらんのだろう。あぁ、これは風の魔法の一種だ」
兵卒の目が魔法使いの後ろの地面に向けられた。一度目を向けたら背けられないと言わんばかりの表情だ。
「私が知りたいことを教えてくれればこの男のようにはならん。この男を私は知っている。昔は神衛士だった男だ」魔法使いは覗き込むように恐怖に支配されて兵士のかけらも無い青年の目を見た。「私が誰だかわかるか?」
磨かれた鉄の鎧を纏ったただの青年は泣きそうな声を漏らしながら首を振った。魔法使いは安堵にも似た長いため息をつくと微笑んだ。
「よかった。いかなる時でも、若者の命を奪うのは気持ちがいいものでは無いからな」