Episode-7
明日ここを出よう――魔法使いはそう計画を立てると、日が高く昇った村の中をぶらぶらとあてもなく歩いていた。早朝にギースと話してから村長の家で朝食をとり、村長と話していたらこんな時間になっていた。
織物屋からは織機の杼が滑る音と筬が手前に引かれる二回の打音が交互に鳴り、一定の音の流れを作っている。織物屋の女達は仕事に集中しているようだ。糸を縒る者も、手縫いで作業をするものも作業に徹している。昨日畑で会った黒髪の――この辺りでは珍しい――村娘は、織機を手慣れた手つきで動かしている。杼を滑らせ通した横糸に手を添えると筬を手前に二回引く。踏み板を踏み込み、縦糸を上下にずらし、また杼を滑らす。その娘とは別の三人の若い娘が離れた場所で固まって、手に持った仕事をおざなりに口を遊ばせている。
どこにでもいるものだな。魔法使いは喉で笑いながら織物屋を後にした。広場の中央では火事場があるが、炉に火は入れていないようだった。煙突から煙は見えないし、何より鉄を打つ音が聞こえない。村の男達も少ないようだ。皆、村の外の畑仕事に出ているのだろう。今の時期なら、きっと蕪や甘藍、馬鈴薯を植えているのかもしれない。
魔法使いは横長の大きな木製の看板のある円屋に歩を向けた。看板には〈どんづまり亭〉と書いてある。
〈どんづまり亭〉の中は他の円屋に洩れず木造で、内側の壁も縦向きの羽目板で装飾されている。部屋の奥は壁がなく、柱だけが立ち並び中庭を望むことができる。屋根はそれほど高くなく、男の中でも平均的な身長の魔法使いが手を伸ばして少し飛び跳ねれば届いてしまう。天井や壁の板は焦げ茶色をしており、艶出しなどはされていない。だが、木の肌はよく研磨され、年季も相まって落ち着いた趣がある。壁には煉瓦ほどの大きさの石を使って造られた暖炉が備えられているが、薪む組まれておらず、火を入れる気配は感じられない。地面に届くくらい長い暖簾が、厨房らしき場所とを仕切っている。
男が三人並んで座れるほどの長さの食卓と長椅子が十分な間隔を空けて並べてあり、天井には火の灯されていない角灯が等間隔に吊るされている。酒場内は、円屋の吹き抜けになっている中庭からの明かりで明るかった。
酒場には誰一人おらず、それどころか店主も給仕も出てこない。扉は開いていたがまだ店は開いていなかったのだろうか? それはないだろう。現に、日の当たる中庭には小ぶりの背もたれのついた木の椅子に座り、丸い食卓を囲む数人の老婆達がいる。陶磁器の小さな取っ手のついた茶碗を手に静かに会話をしている。
魔法使いはどうしようかと悩みながら、癖で地面を杖の宝珠のない方で突っついた。踏み固められた硬い土の床に当たった杖は、目の詰まった木の太く重みのある音を響かせた。
すると音に気づいたからなのか、厨房らしき場所に通じる暖簾を分けて顔の白い少年が顔だけを覗かせて出てきた。ようやく二桁にいったくらいの華奢な子だ。
魔法使いはその子に微笑むと声をかけようと口を開いた。だが、少年は何も言わずに頭を引っ込めて厨房らしき奥の部屋に消えてしまった。数秒後、胸元から膝丈まである白い前掛けをした男が出てきた。頭は額の横の部分が後退し、残った茶色の髪は短く刈り込まれ、恰幅のいい体は見るからに料理長の風格だ。男は前掛けを外すと、暖簾から顔を覗かせている少年に前掛けを押し付けた。
「これはどうも旅人様。気づかなかった無礼をお許しくださいませ。わたくしは店主のマンスと申します。〈どんづまり亭〉へお越しいただきありがとうございます。朝食をご所望でしょうか?」
魔法使いは帽子のつばを摘み軽く会釈をすると、微笑んだ。
「使剣士のギース殿からここのお酒は飲む価値があると言われましてな」
店主のマンスは一瞬、目を中庭の方へ走らせたが、間違いをおこした自分を戒めるように頭を下げた。
「えぇ、おっしゃる通りでございます。ただいまお持ちいたします」
そう言うと店主のマンスは厨房へと下がっていった。マンスはきっと、昼間から酒を呑むと言うことに気が触ったのだろう。魔法使いは杖を長椅子の上に横たえて、椅子に腰を下ろした。
ほとんど待たせることなく、先程の顔の白い少年が、円形の木の盆に明るい赤色をした液体が入った酒瓶と、木製の艶のある把手がない脚付きの酒杯、木の実とチーズをのせた白鑞の底の浅い丸皿を乗せてやってきた。少年は深く礼をすると小走りで去っていった。
酒杯は装飾がなく質素だが、艶出しされていてあじわいがあった。チーズは白カビ種のもので、乳の濃厚な香りが漂ってきた。木の実は白色の楕円形で小指の先ほどの大きさをしたイールと呼ばれるもので、酒場には必ず出るお馴染みのつまみだ。酒はすっきりと後味のひかない濃厚なチーズと相性がぴったりだった。魔法使いは舌鼓を打つと、酒杯に新たな酒を注いだ。
口の中を湿らして香りを楽しんでいると、入り口の扉が開いた。聞こえてきた音に、魔法使いは酒の味も忘れ無意識に杖の存在を確かめた。男達の方を見ないように務めて、気にしていない様子でイールを口に運び、口の中で転がしながら男達の立てる音に耳を澄ました。ギースのつけていた鎖帷子よりも重い金属の擦れる音がする。ギースよりも大きめの輪を使っているような音だった。歩くたびに鎖帷子以外の金属の音も聞こえる。鎧を纏っているに違いない。戦場で幾度となく耳にしてきたこの音は忘れようもない。魔法使いにしてみればどこの兵かは関係なかった。兵士は往々にして〝旅人と罪人〟にはあたりが強い。