Episode-6
深い藍色に世界が染まっている。朝焼けを待つ小鳥が粛粛とした森の枝から枝へと飛び移り、最後のおめかしに身を染めた茶色や朱色の葉が地面へ向かって踊りながら落ちていった。風は凪いでいた。まだ暗い森の中で冷涼な空気が佇んでいる。やがて東に続く森の地平線の先の空が白色を帯び始め、だんだんと空を染め上げていった。最初の小鳥の囀りが森の中に静かに響いた。太陽がその白銀の身に強い光を纏い、森の地平線から姿を現した。同時に世界が一斉に色づいた。西の〈嘆きの壁〉と呼ばれる南北に延びるクリマーレ山脈が淡い薔薇色に染まり、クリマーレ山脈と交差し東に延びるデウリエ山脈はその頂だけを染めた。
魔法使いは寒さを感じて目を醒ました。天井を見上げて髭を震わせて息をはくと、物音を起こさないようにひっそりと寝床を整え、階段を下り、玄関の扉を開けた。
外の空気は、天鵞絨のローブだけでは寒さを覚えた。冷たい空気が鼻の中を通り頭が冴えるの感じ、肺の中を冷たい空気が満たした。魔法使いは一つ体を震わせた。
季節は四つの季節で成り立っている一星期の中でも最も暑い〝火の季〟が終わり、最も長く寒さが支配する季節である〝土の季〟へと移り始めていた。肌寒く、軽い風にそよぐ葉は最後の晴れ姿を見せるかのようにこぞって色づいている。中には色が褪せ、すでに地面に落ちたものもある。魔法使いは擦れた天鵞絨の黒いローブの上に、手に入れたばかりの毛皮のマントを羽織り、前の部分を手で寄せた。
まだ霜が降りる程ではないが、魔法使いは寒さが嫌いだった。東の稜線間際の空が明るくなってきているのを右手に見てから、杖だけを手にして静かさだけが横たわる村の中を歩いた。
ここの村は恵まれている――そう思った。国の都市に近づくほど、正確には戦いの前線に近づくほど村は痩せる。繁盛していた肉屋や織物屋、酒場などの全てがただの箱と化す。そこには人も住まない。男を連れて行かれた村は活気を無くし、資源も採れぬまま疲弊していき、やがて人は村を棄てるのだ。だが、ここのウッソンス村はバーインス王国が帝国の属国となってから十年経っているはずなのに、帝国の影響を受けているどころか、戦争の一つも影響を受けていないようだ。事実、受けていないのだろう。村長はバーインス王国が陥落した事実を八年前に知ったと言った。戦争敗北は十年前。終戦から二年の時を経て、さらには他の国の旅商人つてに聞いたと言うから驚きだ。しかもだ、帝国兵は一度も姿を見せていないらしい。
魔法使いは大きく伸びをした。帝国や他の国の人間の目を気にせずに緊張を解いたのは久しぶりだった。思わず笑い声を洩らした。全ての服を脱ぎ捨ててしまいたい気持ちにすらなった。だがこの帽子は別だ、これは魔法師として生き大切な人と過ごした時の記憶と時間が染みついている。何よりの宝だ。
村の広場の中央には鍛冶場があった。建物の基礎の部分から煙突まで石造りで、地面は荒削りの石畳。木の部分は屋根だけだ。
他の円屋はどこも店構えは一緒だ。店と言うよりかはどこも作業場といった方がいいかもしれない。村の広場を囲むようにして円を築いて建てられている円屋は、どれも繋がっているように見える。円屋の広場側には雨よけのための屋根付きの廊下がぐるっと巡っていた。
一番背の高い円屋は村長の家だ。唯一看板を掲げている円屋は一度もお世話になっていない酒場だ。話によると、一つ一つの円屋の中央は吹き抜けの庭になっていて、酒場の円屋の中庭では、商人から仕入れた色々な紅茶が飲めるらしい。辺境の村にしては洒落ていると思いながら、今日は行ってみようと計画を立てた。
「門番よりも早起きとは。夢遊病ではないですな?」
突然の声に魔法使いは驚きつつも、平然とした様子で声の方を振り向いた。木工所となっている円屋の前の廊下にその男はいた。円屋の壁に寄りかかっているのはわかるが、雨よけ屋根の影になっていて顔はわからない。目を凝らしたのと同時にその男がゆっくりと進み出てきた。
その男は魔法使いより一回り年下のように見えた。目元や口元に見られる皺から四十は過ぎただろうと思わせる。目は端が少し下がっていて、笑えば優しい印象を与えるかもしれない。だが、今はその目が宿す老成な光に想像すら難しくさせた。優雅な身のこなしで歩く姿はとても落ち着いているが、その裏には今にでも斬り捨てると言わんばかりの冷酷さを感じ取ることができた。こいつは戦士だ。元バーインス王国の神衛士と言われても納得できる。
男は革製で袖なしの膝まで裾のある上着を着ている。上着の腰から下は、前の部分に切れ込みが入り、動きやすくなっている。袖のない腕に見える小さな金属の輪が連なった姿からすると、上着の下に鎖帷子を着込んでいるのだろう。上着に国や名家の紋章が施されていたら、これは立派な軍衣だ。腰の剣帯は吊るされた剣の重みで斜めにずれている。その剣は形からして元バーインス王国のものだった。柄頭と十字鍔は金色をしており、いくつか傷がある。握りの部分には革が巻かれていて、使い込まれて古めかしさを見せていた。黒っぽい革製の鞘におさめられている両刃の刀身は、さぞ手入れの行き届いたものだろう。
「おはようございます、旅人殿」
魔法使いは男の挨拶に、帽子のつばを軽く摘む会釈で応えた。
「あなたは村の……」
「使剣士です。ギースといいます」
使剣士のギースは瞬間的だが、魔法使いの頭からつま先まで目を走らせた。
「よろしく、ギース殿。いやはや、だいぶ寒くなってきましたな」
使剣士のギースはわずかに顎を上げて目を細めた。名乗らないことが気に障ったに違いない――魔法使いはそう思いつつも名乗らなかった。
「ええ、ここらはあまり雪は降りませんが、北のデウリエ山脈と西のクリマーレ山脈からの風が厳しいので。まだまだこれからですよ」
魔法使いと使剣士のギースは廊下の横を沿うようにして歩き始めた。抜かりない使剣士だな――魔法使いは視界の端で相手を見ながら気を引き締めた。ギースは相手の腕が届かないが違和感のない距離を保ち歩いている。左手は鞘の柄に近いところへ添えられている。他の村の使剣士はあけすけに威圧してくる者もいれば、気さくな者もいた。だが、このギースという男は剣そのものといった印象だ。
「旅人殿はどこから来られたのですか?」
「シルヴィアンス王国の北のほうからですな」
「では、シルダー村から……」
ギースの鋭い視線を感じた。この男は網を張っている。
「いえ、シルダー村はもっと南のほうではないですかな。私が滞在したのは――短かったですが――シルア村というところでしたな。そこから国境を目指し西に進みつつ村を転々と……」
「あぁ、そうでしたか。シルヴィアンス王国には行ったことがないもので。シルヴィアンス王国はどうですか? もはや時間の問題と聞いています」
魔法使いは深く息を吐き、思慮深く白いものが混じった顎髭をさすりながら見てきたものを話し始めた。
「私が見たのは――」
最後にシルヴィアンス王国の王都を見たのは、季節の一周りも前、一星期近く前のことだった。その時、すでにほとんどの兵や村から逃げてきた者達が王都へ押し寄せていた。城下町の壁に近い下層区の、雨も凌ぐことのできない汚れた裏路地には、何もかもを失い物を乞うことも諦めた者達が座り、息絶えた者ですらその場に放置されていた。人が溢れ、混沌とした街の中を巡回する兵士は帝国への敵意と同等の他の怒りをその目に映しながら難民を見て回った。
商店街の店は締め切り、誰もが扉も窓も固く閉ざし、外の様子を窺うこともなかった。兵士は口元を布で覆い、街の見回りよりも死体処理に明け暮れていた。暑い太陽の日差しの下で腐敗臭が生ぬるい風に乗って街を蔓延っていた。
城の近くの町ではまだ可能性を感じさせる生の息が感じることはできた。だが、ただ一人の目にも希望の色は見られなかった。路地で囁かれる会話は帝国よりも下層区の人間に対する不満や不安に満ちたものだった。ある者は盗まれたことを狂気じみた目で髪を荒々しく振り立て巡回兵に喚き立てていた。
城内の中は険悪な空気に支配され、もはや戦いの名誉や目的は失われたように見えた。シルヴィアンス王国はあの時、すでに腐り始めていたのだ。
魔法使いの話を聞いたギースは話が始まる時と変わらない態度で「そうですか」と言った。
「それで、旅人殿はシルヴィアンス王国にどんな要件があったのですか?」
この男は私の情報しか興味がないようだな。魔法使いはよくぞ聞いてくれたというように態とらしい笑みを浮かべた。
「私は旅人ですからな。ありふれた理由でしかない」
「ではこの村には何用で?」
「デウリエ山脈の向こう側に興味がありましてな」
ギースは初めて表情を変えた。魔法使いはその一瞬見せた意表を突かれた表情を見逃さなかった。
「私は旅人ですからな。それで、お尋ねしておきたい。ここは帝国の息が全く見られない。帝国はどうなったのですかな?」
二人は村の半周ほど歩いていた。向かいに木工所の円屋が見える。ギースは少し間を置いてから口を開いた。
「さぁ、王都は帝国化が進んでいるでしょう」
「もう十年ですぞ? この村は例外とでも?」
ギースは無知を嘲るように鼻で笑って口元に笑みを浮かべた。
「ここは辺境の地です。王都のある南までにいくつもの山があり、ここはハイティオ丘陵地帯。王都からは商人すらきません。ここの村はシルヴィアンス王国からくる商人と、その国境沿いにある村との関わりしかないんですよ。きっと帝国もこの村のことは取るに足らないとでも思っっているのでしょう」
魔法使いはギースの言っていることは憶測に過ぎないものだとわかっていたが、同意見だった。こんなところに村があるとは知らなかった。
「バーインス王国は強国だそうですな。もしかしたら反帝国組織などがあって苦労しているのかもしれませんな」
「それはないでしょう」
ギースの声音が冷たいものに変わったのに気づいた魔法使いは顔を顰めた。まずいな、機嫌を損ねたようだ。
ギースは立ち止まって体をわずかに魔法使いの方に向けた。左手は鞘の根元辺りに置かれている。体がわずかに左向きに傾き、左足が気づかないくらい少し下げられているのは気のせいではあるまい。魔法使いは気を引き締めた。あれはいつでも剣を抜ける状態にある剣士の佇まいだ。
「旅人殿はバーインス王国が帝国に敗れた理由を知らないので?」
魔法使いは目を細めて相手の真意を探るように目を見据えた。
「是非とも教えていただきたいですな」
ギースは鼻で笑った。
「いいでしょう。バーインス王国は西に世界を隔てるクリマール山脈〈嘆きの壁〉があり、北には王家の先祖である神が越えてきたデウリエ山脈があります。おわかりいただけるように、これらは天然の防壁です。帝国が攻め入る手は、南のカリャクス王国との国境である足場の悪い山岳地帯を抜けるか、東のシルヴィアンス王国側から攻め入るしかない。十年前のシルヴィアンス王国はバーインス王国と同盟関係にありましたから、帝国を退くことに成功していました。私達バーインスは慣れた山岳地帯での戦いは圧倒的な地の利を生かして百戦錬磨。何も恐るものはなかったのです。ですが、それは外敵からの話……。内部からの攻撃はどうしようもない。バーインス王国は軍の兵士の中でも別格の存在がいました。神衛士です。国の要であり神の血を引く王家を護るための衛士達。その中に一人の魔法師がいました。国の魔法士の師であるその男が、戦時中であるにも関わらず、王に逆らいました。理由は定かではありませんが、多く囁かれているのは帝国に寝返ったというものです。魔法を忌む帝国に寝返るというのもおかしな話ですがね。少し歩きますか」
ギースは薄い笑みを浮かべながら歩き始めた。魔法使いも杖を突きながらその横に並んで歩いた。ギースは記憶を手繰り寄せるように、または詩人のように話に色を持たせようとしているのかゆっくりと話しを続けた。
「その魔法師は反逆罪で地下牢に幽閉されました。噂では、王はほとぼりが冷めれば解放するつもりだったようです。ですが、魔法師は脱走したのです。脱走には三人の若者が魔法によって操られ利用されたのです。そして魔法師は〝土の季〟に入る前に宮廷で行われた戦績を讃える祝宴を、魔法の炎によって丸焼きにしたのです。その祝宴には王家はもちろんのこと、魔法師を牢へと送った国の重要人物が大勢いました。魔法の炎はほとんどの人間を焼き殺しました。最悪なことに、王家の人間は全員死にました。無実の幼き後継者であるシルティーナ王女でさえその餌食になったのです。国の頭を失ったバーインス王国の兵士達は、混沌とした土の季を耐え抜き、風の季と共に進軍してきた帝国と優秀な指揮官のいない中で戦いました。いくら地の利があってもそれを活かせなければ意味がない。そして一つの期を跨ぐことなくバーインス王国は帝国の手に墜ちたのです」
魔法使いとギースは村長の円屋の前まで来ると足を止めた。ギースは魔法使いの方を向いてその目を見据えた。魔法使いはしみじみと息を吐き、おずおずと口を開いた。
「それは……そんなことがあったとは。あなたは今も王に忠誠を?」
「もちろんです」ギースは魔法使いの杖に短い視線を送った。「いい杖ですね。〝神衛士の杖にも劣らない〟そのように立派な杖を一度目にしたことがあります」
「神衛士と知り合いがいたので? あなたは使剣士なのでは?」
使剣士は数年単位で配属される村が変わる特殊な役職のはずだ。国の中枢や戦いの前線でしか活躍しない神衛士と面識があるのは不自然だ。
「昔は〝神衛士〟でした。王が殺された後、反逆者である魔法師ゼークスを捕らえるために、数人の神衛士が各地に旅立ちました。ですが、時が経ち使剣士になった者もいます」
ギースは瞬き一つせずに魔法使いの目を見つめている。魔法使いは目を動かすまい、唾を飲み込むまいと平静を装った。ここで変に動揺したりすればこの男は反逆者だと言って捕まえるかもしれない。十年も信念を絶やさずに忠誠心の元、行動している人間ならやりかねない。
魔法使いは真剣な眼差しで、好意と誠実さを備えた声で言った。
「私は北の山越えを目指すしがない旅人で、忠誠心などを理解できるとは言いません。ですが、時を経ても揺るがないその忠誠心には胸を打たれるものがありました。もしもそのゼークスという名を聞いたり、何か手がかりを見つけたらあなたに知らせるとしましょう」
「ええ、感謝します」
「それも、帝国に見つかって捕まらなければの話ですがな」魔法使いは苦笑いを浮かべた。
「帝国は、臣民になることを大人しく受け入れれば、悪いようにはしないと聞いています」
魔法使いは顎髭をさすりながら含み笑いを浮かべた。
「私は〝旅人〟ですぞ、何にも縛られるつもりはない」
ギースは口元だけに笑みを作ると一歩下がって会釈をした。
「信念は大事です。ですが、命は取っておけるだけ取っておくべきです。朝早くに興味深い話ができてよかった。良い一日を」ギースは歩き始めた足を止め、酒場を顎で示した。
「ここの酒は飲む価値がありますよ」