Episode-5
シーナは闇夜に紛れて村の壁の外を走っていた。
魔法使いさんは数日滞在する! あぁどうしよう、どうしよう!
シーナは自分の円屋の前まで来ると、忍び足で村の門を覗き見た。よし、誰も見てない。
自分の部屋から垂れる縄を掴むと、脇を閉めて壁に足をついて登り始めた。裸足のために木の板の冷たさが沁みて足の裏の感覚が奪われていく。だが、登る様子は慣れたもので、あっという間に屋根裏部屋の窓まで到達した。静かに自分の部屋に滑り込み縄を引き上げた。
シーナは部屋の中を見て考え込んだ。
旅には何が必要かな? まずは着替え、どれくらい必要? 湯浴みはできそうにないわ。食料とかはどうしたらいいかな。服も絶対に足りなくなる。とりあえず集めよう!
シーナは今からしようとしていることを考えて、心臓を吐き出しそうなほど高ぶっていた。
静かに部屋の扉を開けて、廊下に耳を澄ます。何も聞こえてこない。そっと足を廊下に踏み出していく。こうして抜け出すことは何度かあったため、床の鳴りにくいところがわかっていた。それでも全てを回避できるわけではないため、慎重に慎重を重ねて体重をかけて移動した。気づいたら呼吸が止まっている。いつもならこんなに緊張しないのに!
いつもなら何も気にせずとも喉を通る唾が通らない。やっと通った唾は誰かに聞こえてしまうのではないかと不安にさせる音を立てて喉を落ちていった。何かに全身を掴まれたかのようにシーナは固まり、周りで音がしないか毛の穴も耳にして窺った。あまりにもびくびくしている自分に苦い笑いを浮かべると、また一歩踏み出した。順調に進み、階段まで近づいたところで難所が現れた。階段の前の部屋から明かりが漏れて、階段を僅かに照らしている。ティルニーの部屋だ。部屋からは鼻歌が聞こえてきた。
ティルニーは村で一番歌が上手い。それなのにのびのびと歌うことができないでいる。シーナは同情したが、すぐに押し付けられた今日の仕事のことを思い出し同情は何処かへ行った。レイスも歌が好きだが上手くない。レイスが歌っていると――誰に限らずだが――ティルニーも楽しそうに一緒に歌うのだ。レイスはそれが気に食わないらしく、一度ティルニーを虐めたことがあった。それからティルニーはレイスが近くにいるときは歌わなくなってしまったのだ。だが、彼女の歌は綺麗で楽しい気分にさせるので、シーナは好きだった。
部屋の前を過ぎようとして踏み出した板が、ほんの僅かに鳴った。これくらいの音なら大丈夫だろうと思っていた。さっきまでも数回鳴っていたからだ。階段を一歩降りたとこで後ろの扉が開かれ、階段を五段程下まで照らし出した。シーナはびっくりして固まってから階段を一気に駆け下りようとした。
「だ、だれ?」
シーナは繕いの笑みに薄く汗を浮かばせてティルニーの方を振り向いた。
「シーナ? どうしたの」とティルニー。
「ん、あ、御手洗いに行きたくて」
ティルニーは訝しむ顔をした。シーナはあまりにもできの悪い嘘に、階段の染みにでもなってしまいたかった。用をたす手洗い場は、廊下を進んだ先にあるもう一つの階段の下だからだ。シーナは二人にしか聞き取れない小声で苦しい言い訳を口にした。
「わたし、寝ぼけてたのかも……ありがとう教えてくれて」
「うん。でもシーナ、汗びっしょりだよ。着替えた方がいいよ」
「あ、本当だわ! 悪い夢も見ていた……かも。だけど、今服がなくて……」
最後の服がないのは本当のことだった。嘘じゃないことを言ったことで、いくらか心が落ち着いた。なんとか言い逃れることができるかもしれないわ。シーナはそう思い続けた。
「だから、黙って服を取るのは悪いけどこれじゃ寝れないし、一晩だけでも借りよう思って……」シーナは落ち着いた心で嘘を言い放った。
「でも、御手洗いに行くってさっき……」
ティルニーは少し疑うような目をしたが、考えを振り払うように頭を振った。頭を廊下に突き出し左右を見ると、そっと廊下に出てきて後ろ手に扉を閉めた。
「わたしも一緒に行ってあげる」ティルニーはそう言うと、階段に近づいてきた。
ティルニーは、根はいい子だ。虐められないようにレイス達と付き合っているだけなのはシーナもわかっていた。ティルニーは暗闇の中を一人で歩くのは怖いだろうと気を遣って同伴を申し出たのだろうが、シーナは面食らって階段を下りるティルニーを目で追うだけで動けない。
「大丈夫だよ。わたしも一緒に行くから、怖くないよ。怒られる時は一緒だよ」ティルニーは愛らしい笑顔をシーナに向けた。
「ありがとう」
シーナはなんだか酷い罪悪感に満たされた。見つかったらフィムスに怒られ、シーナと仲良くしていたことにレイスは機嫌を損ねるだろう。それなのに、ティルニーはわたしの嘘を信じて、それでいて支えようとしてくれている。
ティルニーは階段を下りながら、気を紛らわすように階段の手すりの上で手のひらを使って拍子をとった。
「あのさ、ごめんね今日のこと。仕事、押し付けちゃって」言いにくそうにティルニーは言った。
「うん。いいよ。レイスに虐められるのは大変だもん」
「駄目だよね、わたし。シーナはすごいよ」
「何がすごいの?」
ティルニーは振り返るとシーナの目を一瞬だけ見たがすぐに逸らした。
「わたし、一人は怖くてシーナみたいに平然としてられないよ」
平然としてる? 一人が怖くなんかないと思ったことは一度もないわ。一人で生きるしかなかっただけ。シーナはそう思いながらも口には出さなかった。話題を変えようと、今まで誰かに訊きたかった質問を投げかけた。
「ねえ、ティルニー。村を出てみたいって思ったことはある?」
ティルニーは目を丸くしてシーナを振り返った。
「ないよ! わたし、鍛冶屋のドースのお嫁さんになりたいんだもん」
きっと頬が赤くなっているんだろうなと思わせるほど、声には恥ずかしさが帯びていた。シーナはそっと応援するとともに、レイスもきっと狙ってるわよ――という言葉をしまいこんだ。
「頑張って。ティルニーなら大丈夫、ほら、歌がとても綺麗でしょう? わたし好きだよティルニーの歌う声」
ティルニーの恥ずかしそうな微笑みが、窓から差し込む青白い光に映えて大人びて見えた。
「ありがとう」
「レイスなんかに負けちゃだめだからね」
ティルニーは可笑しそうに、綺麗な高い声で静かに笑った。
「うん。もう少し強くなれるように頑張ってみる。どうする? ここで着替えちゃう?」
「ううん。上で着替えるわ」
そう言ってシーナは身体に合う服を何着か手に取り、大きめの麻でできた背負い袋の中に詰め込むと、刃物と革紐、裁縫道具などを服に隠してティルニーの見ていないところで忍ばせた。
「そんなに持って行くの? バレちゃうよ」
「大丈夫」
そうして、二人は静かに、悪戯な笑みを浮かべながら忍び足で階段の上まで戻った。
「ありがとうティルニー」シーナはしみじみと言った。
「ううん、なんだか楽しかったよ、盗賊になったみたいだった。どうしたの?」口に笑みを浮かべながらも、不安げな目でティルニーは言った。
「おやすみティルニー」
「うん。おやすみシーナ」ティルニーは首を傾げながらも部屋に消えていった。
ティルニーの部屋の扉が閉められると、シーナは静かに自分の部屋に戻り扉を閉めて、麻袋を抱きしめるように抱えて扉に寄りかかった。魔法使いが発つ前の数日で用意を済ませよう。何のための用意なのかを考えて、シーナは細い枝で組んだ今にも崩れそうな櫓の上に立っている気分になった。村を出ようだなんて……わたし、頭がどうかしてるわ!
そう思いながらも、シーナは用意に取り掛かった。まず、寝台の毛布を適当な大きさに切って、旅に持って行くのに相応しい大きさにした。背負い袋は大きさが足りないと感じ、寝台の敷き布を使って繕い大きくした。その他にも思いついてできそうなことをやり、背負い袋につめていった。獣脂の蠟燭を三本に、くすねた火口箱、麻で縒った細い縄、革袋の水筒。最後に、寝台の下から大切な蔵書〈アルムシア伝記〉を取り出し、革張りの濃い茶色の表紙を撫でると背負い袋に仕舞った。