6.溢れる感情
鍵部屋出てすぐにある階段を下りる。
落ち着いていた顔が引きつってくる。次第に、冷や汗も出てきた。
特別教棟を二階まで降りると普通教棟へと続く廊下がある。その廊下を早歩きで進む。
ホオズキに化かされてしまった。
化かされてしまった。化かされてしまった。
分からなかった。宮本だと思って疑わなかった。
赤子が同じ言葉を繰り返すよう、その言葉しか出てこない。
思考回路が正常運転をしない。
頭の中を虫が這ってるみたいだ。気持ち悪い。
「あ、海上!」
呆然としていたところで、声がかかる。
足は自然と歩みを止め、声の方向へ身体が向く。
いつものジャージ姿、鞄を背負った柊が、そこにいた。
「ひぃ……らぎ……」
「どうしたんだ? 酷い顔色だぞ」
ひやりと少し冷たい柊の掌が頬に当てられる。
焦っていた気持ちが不思議と落ち着いてきた。
……だからだろうか。
「…………ぁ……」
涙が、溢れてしまう。
――君の感情を、引き出してあげる。
ホオズキの言葉が頭に鳴り響く。
思い出した最初の感情が、涙なんて……嫌だ――――――。
「み、かみ……?」
驚いた柊の顔がにじんで見える。
物珍しい物を見るように驚いた柊の顔を見るが、自分の泣き顔ともなればそりゃ物珍しいか……と思っていたらいきなり目元に白いフワフワした物が押さえ付けられる。
フワフワが少しくすぐったい。
落ち着く、いい匂い……。これはなんだろう。
「それ、やるから……洗ったばっかで、まだ使ってないから……」
それを聞いて、このフワフワは柊のタオルなんだと理解する。
「そんなの悪いよ……」
「いいから!」
「……ありがとう」
柊の言葉によりタオルを受け取る。
再びタオルに顔を沈めると、胸がきゅ……と切なく締まった気がした。
「まだ、帰ってなかったんだな」
「図書室で勉強してたんだ。明日は英語だからな」
「…………英語、か」
「なんだ、海上は英語苦手か」
「得意ではないかな」
「教えてやろうか?」
「……いいのか?」
「こっちから言ったのにいいも悪いもないさ」
「……助かるよ」
なにがあったのか聞かない。
聞けないのか聞かないのかは分からないが、聞かないでくれるのは有難い。
もう一度、この言葉を口にしよう。
「柊、ありがとう」
***
あの後、ファミレスで柊との勉強会。
教え方が上手いから、息をするように英文が頭に入ってきた。
そのおかげで翌日の英語テストは空欄なし。
正解は、してるといいといったところか。
外国に行く予定はないし……まあできなくてもなんとかなるはず。
橋本のような思考回路だな、と思わず顔が緩みそうになる。
――――――…………。
「ッ、今の!」
「……どうした海上君~、元気いいな」
「す、すみません……」
モップを手にしていたくせに、バイト中なのをすっかり忘れていた。
テスト期間を休みにさせてもらった分、テスト終了のその日からバイトだ。
学校帰りそのままの足でバイト先へ。中身が軽いのが幸いだと感じる。
柊と佐藤も文化祭の練習のためあの鍵部屋には来ない。
俺も、これからしばらくはバイト三昧になりそうだ。
「どうした? 虫でも出たか?」
「虫苦手なんて可愛いっ♡」
店長、お客さんにからかわれる。
でも今見えたのは虫なんかではなく、むしろ虫より厄介なものだった。
「…………気のせい、だったみたいです」
「そうか? まぁテスト後で疲れたんだろ! 休憩行ってこい、まかない作ってやる!」
「あ、ありがとうございます……!」
現象においてはもう起きないでほしかったが、思わぬ収穫は嬉しい。
一週間ほど前から現象が起こっていないからもう終わったのかと思っていたのに。
そう簡単ではないらしい。
「なにがいい?」
厨房の方から火をつける音、店長の声が聞こえる。
火を使うこの店の料理、店長の得意料理……。
「じゃあ、オムレツで」
「俺がケチャップするとハート描くぜ?」
「店長のハートなんていらないです」
「冷たいッ!」
心が冷える! と叫ぶ店長を置いて休憩室へ向かう。
鞄を取り出し、携帯で全員へ連絡を入れる。
≪現象を、見た≫
≪どんなだった?≫
「へーい、オムレツですよ~!」
最初に連絡が来たのは宮本だ。
返信しようとメール画面を開きメールを打とうとすると、店長が休憩室にオムレツ片手に入ってくる。
反射で携帯を鞄に投げ入れる。
「ありがとうございます!」
「メール? 彼女か?」
「違いますしいませんって!」
鞄の中に放り込まれた携帯に鋭く目を光らせる店長。
丸く収め店長が厨房に戻った後、ふとオムレツに目をやる。
大きなハートがケチャップで描かれている。
スプーンの裏を使い、ケチャップを全体に広げる。
≪宮本が指を火傷する映像≫
携帯を取り出し、先程見た映像を入力して送信。
オムレツを一口、口に入れる。半熟の卵が口の中に広がり美味しい。
横に置いておいた携帯が鳴る。
≪わたしが? わぉ≫
又も宮本。分かりやすい効果音付きで返信が来ていた。
≪明日、理科の実験あるから……多分、それ≫
≪実験楽しみにしてたのに!≫
≪明日は大人しくしててくれ≫
≪しょうがない≫ ≪諦めろ≫ ≪歩夢ドンマイ≫
≪分かったよ! 大人しくしてるからその哀れんだメール止めて!≫
ごね出した宮本も、柊と佐久間、そして珍しく佐藤の三大攻撃に大人しくすると約束してくれた。
「…………よかった」
これできっと、今回も現象回避できるはず。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に見図ったように鞄が倒れ、中にあったタオルが出てきた。
そういえば柊のタオルを入れたままにしていたことを思い出す。
そっとタオルを指先で撫でる。
胸の音が早くなるのを感じたのを最後に、はっと我にかえる。
急いで残りのオムレツを食べ、ホールに戻る。
安心してなどいられない。
一つ一つの現象を、確実に回避しなくては。
ホオズキの好きなようにはさせない。
俺たちは人間だ。ホオズキの、おもちゃなんかじゃない。
「どうか……無事に」
この現象が乗り越えられますように。