END
目を開くと、一匹の雪虫が、アタシの鼻先を飛んでいた。
「ユキムラ……?」
名前を呼んでも、彼はいない。アタシは涙が伝った頬をぬぐった。
目を閉じる瞬間まで、ユキムラはいたはずなのに。塗料のはげかけたベンチには、火がついたままの煙草が転がっているだけだった。
唇に手を触れてみても、そこにユキムラの感触はない。彼はアタシに触れる前に、消えてしまったのだろう。
「ユキムラ……」
煙草を拾いあげ、アタシは口へと運んだ。
一息、肺へと煙を流し込む。そして煙草を灰皿に入れて、空を仰いだ。
口をすぼめて、高く紫煙を吹き上げる。白くかすむ空の向こうに、雪虫たちが飛んでいる。
手を伸ばせば届きそうな、煙の中の雪虫。逃げられてもいいから触れたくて、アタシはそっと指を伸ばす。
その雪虫は、アタシの手にとまると、あっという間に溶けてしまった。
「……雪?」
見れば、指先に水滴がついている。雪虫は溶けるはずがない。今のは雪虫ではなかったのだ。
思わず、立ち上がる。両手を広げて空を仰げば、たしかに、雪虫とともに、本物の雪が降りてきている。
ああそうかと吐いた息は、再び視界を白く染め、すぐに空気に消えていった。
ユキムラは、初雪が降ると消えてしまうのだ。
アタシが玲一とした約束は、一緒に初雪を見ることだから。初雪が降ってしまったら、もう遅いから。
「今年も、ダメだったな……」
呟きを、手袋の中に隠す。指先を息で暖めて、アタシは空を見上げ続けた。
今年がダメでも、来年があるから。来年がダメでも、再来年があるから。
そう自分に言い聞かせて、アタシはユキムラとの約束を心に留める。強く願えば必ず会えるから。会いたくないと思ったら、玲一と会えたときにしたいことを思えばいい。
アタシは玲一に会いたい。幸村玲一に会いたい。
会えるまで、ずっとずっと、初雪を待ち続ける。
吸って、吐いて、深呼吸。アタシは揺らぎそうになる心に活を入れた。
耳をすませば、あわただしい足音が聞こえてくる。初雪にはしゃいだ子供たちが遊びに来たのだろう。アタシは公園を去ることにした。
初雪はつぶの大きな綿雪で、すぐにやむ様子もなく、歩道にすこしずつ積もり始めている。道沿いに並ぶ白樺たちが、玲一の黒ずくめを真似たアタシを眺めているような気がした。
ポケットに手を入れて、あごをマフラーにうずめて、猫背気味にうつむいて歩く。玲一もよくこうやって歩いていたなと思うと、自然と笑みがこぼれてしまう。
足音はあいかわらずあわただしくて、次第に公園へと近づいてくる。小さな子供が友達を集めてきたのだと思ったけど、足音は一人ぶんだ。身軽ではないらしく、どたどたと重たそう。
「――シノブ!」
その声に、アタシは歩みを止めた。
振り向けば、黒い姿が、走りながら手をふっていた。
あいかわらず上から下まで真っ黒で、肌は一段と黒くなって。でも、笑った口からのぞく歯は、白くて。
「シノブ!」
ひょろりと背が高くて、口が大きくて、瞳が丸くて。
立ち尽くしたアタシの頬に、ひとつ、綿のように柔らかい雪が落ちる。
「……玲一」
溶けた雪が伝う頬に、こぼれた涙が重なった。
END




