私はすべてを失った
戸にかかった看板を裏返してOPENにする。
気持ちの良い日差しに思わず伸びをする。
「アヤメー!おはよう!」
「リアムおはよう。」
彼は2年ほど前にこの近くに引っ越してきた青年だ。
歳もそう離れていなく、今は悩みなどを聞いてくれる大切な存在だ。
「いい天気だね。こんな日は野原にでも遊びに行こうぜ!」
「ふふ、今日も仕事あるでしょ?いってらっしゃい。」
少し子供っぽい所はあるが、こうして1人である私を心配して毎朝声をかけてくれる。
「ちぇー……アヤメがイエスって言ってくれればすぐにでも仕事サボるのにさー。」
「ダメだよ。」
少しキツくいうと、だよなと笑った。「真面目なのはアヤメのいいところだけど、もう少し肩の力ぬけよ!じゃっ行ってくるわー」
「うん、ありがと。いってらっしゃい。」
彼と出会ってから少し前向きになれた。あの笑顔を見ると安心する。
今日も何事もなく、いつもと同じ時間が流れる。
昼間は花屋の仕事をして、夕方になればまたリアムが声をかけてくれる。
「アヤメ!おつかれさま。そろそろ終わる頃?」
「うん。今日もご飯食べていく?」
「おう!」
最近では晩御飯はリアムと食べるのが日課になっていた。
1人で食べていた頃が嘘のように、当たり前に賑やかな食卓になった。
「アヤメの作るごはんはほんと、美味しいよな!」
「ふふ、ありがとう。」
可愛い弟ができたような、そんな感覚。
ずっと、こんな時間が続くといいと思っていた。
とても静かな夜。鳴り響くベルの音に起こされて、私はドアを開けた。
「こんばんはプリンセス。お迎えにあがりました。」
そこにはマジシャンのようなハットを被り、真っ暗な燕尾服を着た人が立っていた。
私より10くらい年上に見える。
彼は少しズレた眼鏡をクイと直すと嘘くさい笑みを浮かべた。
「人違いではないでしょうか?…私はただの一般市民ですので……。」
城に招かれる心当たりならある。だけど、それは悪い意味であって、プリンセスと呼ばれるようなものではない。
私のことをからかっているのだろうか。
「おやおや、なんて謙虚な娘さん。…いや、確かに少し突拍子も無い発言だったように思います。申し訳ありません。」
「話が、見えないのですが…。」
すると彼は胸に右手を当て、軽くお辞儀をする。
「申し遅れました。私、城で王子の直属のお世話係りをしております。この度は、王子の命でこちらの花屋の娘さんをお連れに参りました。貴方様に拒否権はありません。いいですね?」
にっこり不敵な笑みを浮かべる。だけど、目は笑っていない。
「…もし、……拒否…したら…?」
声が震えた。立っているのがやっとだった。
「別に良いのですよ。また、王子の気まぐれ、ですが……そうですね。おそらく、国に囚われている一家を処刑するかもしれません。」
身体が強張った。この人は全て知った上で私のところへ来ている。
「どうしますか?」
「……いき…ます………。」
震えが止まらない。
目の前の男は相も変わらず嘘くさい笑みを浮かべたままだった。
「(リアム………助けて……。)」
どれだけ願ったって彼はこない。
一歩、また一歩と馬車へと近づく。
乗り込む瞬間道の端っこに綺麗なマツムシソウが咲いていた。
それを見てマツムシソウの花言葉を思い出す。
「(ああ、私にはもう何も無いんだ。家族も、お花屋さんも、リアムも……。)」
一筋の涙が頬を伝って夜の闇に溶けた。
「(さようなら、私の愛した場所。)」
私はすべてを失った。だからこそ今は気を強く持とうと決めた。私は、負けない。
「(お父さん、お母さん、お兄ちゃん……待っててね…今、行くよ。)」
深い夜の闇に不釣り合いな馬車の音が街中を駆け抜けた。