優しい心
「しー……絶対に声を出しちゃいけない。……いいかい。物音がしなくなるまではここから出てはいけない。いいな。……また……いや、なんでもない。……じゃあ、父さん、ちょっと行ってくるよ……。」
クローゼットの扉が閉じられた瞬間真っ暗になって恐怖が増した。怖くて耳を塞いで目を閉じた。
涙は勝手に溢れてきて、やがて頭痛へと変わる。グルグルと頭が回る感覚を感じながら意識を手放した。
真っ暗な闇に怯えながらどれだけ経っただろう。
涙はもう枯れてしまって出てこなかった。
そっと耳にあてた手を下ろすと外から音はしなく、恐る恐る扉を開けた。
部屋は荒れ果てていた。窓のカーテンの隙間から少し光が漏れていた。どうやら長い時間寝てしまっていたらしい。
クローゼットから抜け出してぐるりと部屋の中を一周する。
棚の上にこの部屋には不自然すぎるほど綺麗な花瓶とそこに咲くアイリスの花があった。
そして、その花瓶の下に封筒があることに気がつく。
そこには父の字が書いてあった。
〝親愛なる我が娘、アイリスへ〟
どうやらそれは私宛の手紙らしく、枯れたはずの涙はまた流れ始める。
「ねえ、お父さん……どこに…いるの…?」
ー親愛なる我が娘、アイリスへー
このような情けないことになってしまい本当に申し訳ない。
近々城の役人が私たち一家を迎えにくるだろう。
お前がこの手紙を読んでいるということは、上手く逃すことができたということだろうか。
役人が迎えにくるというのは決して良いことがあるわけではない。
父さんの打った剣を使っていた兵士が大怪我をしたらしい。
下っ端の兵士であればあるいは救いもあったのかもしれない。しかし、その兵士は運が悪いことに伯爵家のご長男であられたらしい。
この意味は、まだ幼いお前でもわかるだろう?
それに加え、先日、城直属の占い師がこのような未来を詠んだ。
【七色の瞳を持つもの街に現れ、この国に災いをもたらすだろう。】
そんな未来、父さんは信じてはいないよ。母さんもお前も素晴らしい人間だし、今まで生きてきて災いをもたらしたことなんてないだろう?
だけどね、母さんは役人に見られてしまったんだ。お前は母さんと一緒で感情が瞳に出てしまう。
幸いお前の存在も母さんがやっていた花屋もまだバレてはいないだろう。
お前は違う人間として生きるんだ。お前の新しい名前はもう、決めてあるんだ。
《アヤメ》だ。良い名だろう?遠い国の言葉でアイリスの花を表すらしい。
お前は大切な名前を失わずに済む良い名だと思っているよ。
この手紙は読んだら燃やすんだ。そしてこの家を出なさい。
花屋の方に住むといい。
そして瞳を隠すんだ。バレてはいけない。捕まって、何されるかわからないのだから。
アイリス、お前には生きて欲しい。
幸せになって欲しい。でもまた、もし会える日が来たらその日はまた3人で暮らそう。
会えるまでにアイリスの花言葉のように優しい心を持った素敵な女性になっていることを願っているよ。
ー父ー
深い深い青色の瞳から涙をこぼす。
少ししたらまた役人が来るかもしれない。
泣いている場合ではない。
私は持てるだけのものを持って足早に家を出た。
大好きなお母さんがやっていた、大好きなお花屋さんに向かって歩き出す。
涙はまだ止まらない。だけど何故だか頭ははっきりしていた。
生きなきゃ、いつかまた、会える時まで。
ーそれから、5年の月日が経っても良い知らせはこない。
だけど今は、前よりも前向きに生きています。