~エピローグ~
…………そして。
倉本は、予告通り選挙の後、国に帰って行った。
選挙の結果は、倉本の父親の圧倒的な勝利だったらしい。
喜ばしいことだ。
これで私が命の危険に見舞われたことも、少しは報われるだろう。
いろんなことがあった。
それは、腹立たしいことや、恐怖に震えたことが大部分で、少しも役に立つようなことはなかったけれど、私の人生の中で強く印象には残った。
彼のおかげで、私は一つの悟りを開くことが出来たのだから、感謝しなければいけない。
「絶対に! 戦いものは描かないと、私は誓うことが出来たのだよ。ハハハハ」
私は、自慢の製図用シャーペンを握り締めながら寒い笑いを浮かべる。
そんな私の手の下の原稿を、寒々しい視線で見守っているヤツがいた。
「……………………て」
私は、その端正な顔立ちをしている少年を睨めつける。
今日、日本に帰国したばかりの倉本 空……本人がいた。
幻のように、美しい顔立ちだが、決して幻覚ではない。
エルニダという国は日照時間が少ないらしく、国から帰ってきたら益々色白になったような気もする。
しかも相変わらず冬服の学ランだ。
暑くないのだろうか?
「実家に帰ったんじゃないの。どうしてたったニ週間で帰って来るのよ。倉本?」
「じゃあ、あの時俺なんか死んでいれば良かったと、あんたは言いたいのか?」
「君さ、何処まで話を飛躍させれば気が済むわけ?」
「すまないな。生粋の日本人ではないので、話の筋が見えないと、無駄な回答しか出来ないんだ」
(コイツ、逆手に取ってやがる……)
倉本は曇った眼鏡を取って、布で拭いてから、私の苛々を助長するように冷静に答えた。
「まあ、日本は俺の母の故郷だし、俺は母親の姓を名乗っているんだ。別に何ら不都合はないだろう。何か懸念材料でもあるのか?」
「懸念っていうか、エルニダの皆さんが首を長くして待っているんじゃないの。ちゃんと帰ってあげた方が良いんじゃない?」
「あちらには、少女漫画も少女小説もないんだ」
「やっぱり。それが理由なのか……」
私は溜息を吐いて、座席に落ち着いた。
こんなヤツが大統領の息子だなんて知ったら、エルニダの国民は暴徒になるかもしれない。
大体、人の言っていることも、気持ちもまるで察していない。
美術部の部室でもある美術室に、倉本が訪れただけで、外に野次馬が待機しているのだ。私にとっては目と鼻の先にいる天使のような容貌の少年は、悪魔の使者に等しい。
ときめきよりも、恐怖心の方が大きかった。
「漫画のオチとしてはね、王子様は帰国したほうが悲恋の体裁が取れて良いのよ」
「ハッピーエンドは重要だ。相手役の男は引っ越してもちゃんと帰って来るものだ。しかし、帰って来た時には、既にヒロインの周囲に謎の男が蔓延っていたりする」
「何巻まで続くのよ。それ?」
私は手を動かしながら、前の席に腰をかける倉本を睨んだ。
「大体、どうしてこんなフツーの高校にあんたみたいな人がいるのかしら?」
「あんたと同じ理由だ。この学校は交通の便が良いからな。大使館にも近いし、いざとなった時の自家用へリポートも近い」
「そりゃ、良かった」
私は冷ややかに言いながら、忙しなくシャーペンを動かし続けている。
「でも、あんたに会った時はさすがに俺も驚いた。女の子だったなんてな」
一体、話に何のオチをつけるつもりなのかと、私が原稿から目を上げると、倉本が眩しげに目を細めた。
「昔……、日本に久々に帰って来た時に、あんたの絵が国際交流センターに飾ってあった」
「そ、それは……」
しかし、今度は倉本の顔ではなく、その言葉に、私は頬を赤らめてしまった。
「偶然、名前を覚えていたんだ。青って名前、俺の名前候補だったものだからな」
「君の名前って……、空だったよね?」
美術室から垣間見える空に、私は目を走らせた。
「俺が生まれた時、晴れていたそうだ。元々、民主国家の日本に憧れていた父は、日本名で俺の名をつける気だったらしくてな。「空」か「青」のどちらにするか母と迷ったらしい。まあ、どうでも良いことなんだが」
倉本は、これだけの注目を浴びながらも文庫のページを捲る手を休めない。
「それで、ずっと、私のことを調べていたでも?」
「――ぐ、偶然だ」
私は深い意味で聞いたわけではなかったのに、倉本は途端に血相を変えて、多弁になった。
「いろんな人間につきまとわれるのは、危険だったから、近くに置いても安心な特定の人間を捜していた。あんたの家は高校から近いだろ。親戚ってことにして、傍においておけば、周囲の人間もあまり俺に興味を示さなくなるだろうって思ったんだ。帰りに一緒に帰らないで済むだろうし、共通の趣味もある。無関係の人間を危険に晒すわけなはいかないからな……だから、俺は全然あんたのことなんて、これっぽっちもだな……」
随分とムキになって否定してくる倉本に、私は深い溜息を吐いた。
「はいはい。そんなに私に興味がないんだって、目的のために手段が選べなかったんだって、ちゃんと分かってるから。そんなに力説しなくてもいいよ。でもさ、君がその手の漫画と小説のマニアだということをみんなに公表すれば、誰も寄ってこないと思うよ。それとも、やっぱり、そういう趣味だって知られるのが嫌なわけ?」
「別に。あの惨事で、あんたも会っただろう俺の運転手兼家庭教師がそういうのにうるさいだけで、学校で知られたからって何てことはない。もしかしたら、女心の分かる良い男だと、逆にモテてしまうかもしれない」
「はあっ?」
私は目を丸くした。
何にどう驚けば良いのだろうか。
今、すでにモテモテなのに、まだモテ度が足りないのか?
「凄いな。その神経……」
小さく頭を振って、私は来月締切りの原稿に目を落とす。
そんな私の書き上がった原稿をひったくって、倉本が片眉を上げた。
「ふーん。「運命の二人 ――ゼロから始まる気まぐれな恋」とはまたベタなタイトルだな。見たところ、少年と少女の再会から始まる淡い初恋物語のようだが?設定としては面白いが、インパクトには欠けるな。つまらん」
「そうね。君にとってはね……」
「まあ、あえて指導するなら、少年はツンデレの方が良いかもしれないな。久々に会った少女に好意を持ちながらも、素直になれないという奴だ。出会いは偶然ではなかったのに、照れ隠しに偶然だと言ってしまうような……。……で、言った後で、少年は後悔するんだ。もっと、言い方が……、色気のある告白方法があっただろうにって、本当はずっと会いたかったんだって、だから再会できた時、嬉しくて、ずっと君に近づきたかったのだと……。でも、少年はそのたった一言が口に出来ないんだ。……まだ若いんだろうな」
「…………はっ?」
それって……?
「あの、倉本。それって、指導……だよね?」
やけに熱のこもった指導ではないかと、怪訝な表情を浮かべて顔を上げた私に、倉本は少しだけ文庫本から目を離して、呆れたように微笑んだ。
「いや、別にいい。しょせん、あんたには揺れ動く少年の恋心を理解することなんてまだまだ無理なんだろう。モテたこともないようだしな。むしろ、ミリタリーから入ったあんたには、男同士の濃密な恋愛ものの方が理解できるのかもしれない」
「ええっと?」
――何だって?
今、何て言った?
口に出して聞き返すことすら出来ずに、私は何度も瞬きをした。
「あんな傑作を俺が見ないとでも思ったのか?」
「ちょ、ちょっと、君……、まさかあの原稿を……」
「バックナンバーも貰った」
「奈央!」
私は立ち上がり、倉本が座っている席の先、隣の美術準備室でアニメ鑑賞会を行なっている奈央に目を向けた。
部活動時間帯は、準備室も使えるので、扉は開放されているのだ。
奈央は大音量のアニメ主題歌のリズムに二つに結った髪を揺らしながら、私に向けて軽く手を合わせて、謝罪のポーズを取った。
「ゴメンネ。青。倉本サマが美術部に貢献してくれると、私も売り上げが上がって嬉しいのよ」
「はあっ?」
私は呆気にとられながら、倉本に視線を合わせた。
「どういうつもり?」
「言っただろう。選挙が終われば大丈夫だって。あえて人と話さない理由はない」
「何じゃ。そりゃ……」
「ミリタリーの次は、ボーイズラブか。まあ、あのミリタリーものは、もう少し恋愛観について指導してやろうと思ったが、BLは完璧だった。あんたもそういう系なら、恋愛もちゃんと描けるんだな。随分と幅広くて大変なことだ。俺は段々自分の出る幕はないかもしれないと感じてきた」
「あ、いや……。その、あれは……」
「コンクールのあんたの絵は夏の真っ青な浜辺を描いた幻想的で綺麗なものだったな。俺はあの絵に惹かれて、もう一度あんたに……、あんたの絵を見たいと思っていたんだが……。いつの間にか、あんたは、いろんな階段を上ってしまったみたいだ」
「君、遠回しに皮肉を混ぜてない?」
「言っただろう。俺は寛容だと。俺にそちら方面について語って欲しいのか? 長くなると思うが、良いのならば講釈しよう」
「くっ」
持っていたシャーペンの芯が折れる音を私は聞いた。
人の気も知らずに、野次馬連中たちがひそひそ話を始めている。
倉本の声は通らないので、私と倉本の会話が色っぽい話なのだと勘違いしているようだった。
女子の視線があちらこちらから突き刺さっている。
(皆さん、コイツのこと聞いて下さい……と大声で叫びたい!)
しかし、倉本のことを話せば、倉本も私が描いているモノについて語るだろう。
私は、声にならない声を発して、机上に突っ伏した。
【 了 】