第三幕
眉間に皺を寄せ、眼鏡を押し上げる。
教室を抜ける乾いた風が薄茶の髪をさらさらと揺らす。
その髪を掻き分ける所作も何故か色っぽい。
読書に励む姿は、まるで綺麗な一枚の絵のようだ。
その完璧な美少年ぶりに、見惚れてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
でも……。
その彼が真剣に目を走らせている本のタイトルは「いじわる騎士は今日も不機嫌! ――夕闇は危険な香り」を読んでいるのだ。
ちなみに内容は、女王と騎士の禁断愛だということを、私はよく知っていた。
(ああ……、やってしまった)
私は、いろんな気持ちに悶えながら、今日も飄々と斜め前に座っている倉本を睨んだ。
一日、悩んでいるうちに、とうとう放課後になってしまったのだ。
そう……。
私は何故か、どうしてなのか……。
とうとう自分の原稿を倉本に渡してしまったのだ。
「……ああっ。は、恥ずかしすぎる……」
私は頭を両手で押さえながら、我ながら痛々しい百面相を繰り広げていた。
しかも、例のくだらないと倉本が一蹴したミリタリーもどき作品だ。
今からでも遅くない。
(返してもらうか?)
今なら、まだ間に合う。
もしも、昨日の倉本の気まぐれな笑顔に、私がほだされて原稿を渡してしまったのなら、恐ろしいことだ。
(……血迷ったとしか思えないわ)
何となく勢いで、朝一番に手渡してしまった。
学校では人の目があるので、極力みんなが登校していない時間を狙ったのが我ながら裏目に出てしまったようだ。
(やっぱり、返してもらおう)
まだ倉本は、読んでいない。
――読むなら学校の外にして欲しい。……という私の懇願を聞き届けて、学校では原稿の入っている封筒は、開けてないようだ。
大体、漫画の投稿用原稿は大きいので、読むにしても場所の確保は大切だろう。
(よし。行こう)
倉本が鞄に教科書を入れて立ち上がったのをきっかけに、私が動き出そうとした矢先だった。
「青」
「うわっ!」
倉本に声をかけることに集中していた私は、腰が抜けるほど驚いた。
「な、何?」
「何はこっちよ」
美術部の友人、奈央が私の腕を取った。
(ああ、倉本が行ってしまう!)
私は心の底で叫びながらも、声を出せずにいた。
倉本と話しているところなど、倉本ファンの彼女に見られたくない。
しかも、親しいはずの彼女にも私は自分の原稿を見せたことがないのだ。
(まさしく根掘り葉掘り聞かれることは間違いない)
……しかし、倉本は行ってしまう。
私の渡した紙袋を持って。
まるで、ロボットが体内に入っているかのような無駄のない足取りで……。
(ああああ……)
倉本は振り返ることなどなかった。
瞳を手元の本に合わせたまま、さっさと教室を出て行ってしまった。
「どうしたの。青? 倉本くんが気になるの?」
奈央はにやにやしながら、ほんの少しだけ背の高い私を不躾に見上げた。
私は首を振った。
「別に。今日も早い帰りだなって思っただけよ」
「きっと早く帰らないと運転手さんが待ってるのよ」
「運転手……何それ?」
「噂によると、お抱えの運転手がいるらしいわよ。倉本の後をついて行こうとした娘が沢山いるけど、一度も尾行出来なかったっていうもの」
「…………ふーん」
私は、小首を傾げた。
倉本は昨日私と漫画喫茶にいたのだ。
運転手などいるはずがない。
そもそも、あの本の量。
学校帰りに買いあさっているのならば、絶対尾行はされたくないに決まっている。
(毎回、みんなを撒いてるんだろうな……。可哀相に倉本)
「本当、謎めいた王子様よね。一体、いつも眉間に皺寄せて何読んでるのかなあ?」
「…………さあ」
私は迷った挙句、笑ってみた。
「ねえ」
奈央の二つに結わった髪が大きく揺れて、彼女が私の方に向き直ったことが分かった。
怪訝な表情で、奈央が私を見ている。
「な、何?」
「変よねえ。こないだまでは、デッサンの実験体のようにしか倉本を見ていなかった青が、何か初めて人間として意識した感じ?」
「人間って……」
酷い言い様である。
奈央の細い目がピンク縁の眼鏡の下で怪しく光った。
「もしかして、倉本と何かあったの? 秘密なんて水臭いなー」
私は肘で突っかかれて、よろめいた。
(おいおい、水臭い? そうきたか……)
「倉本に私が漫画家目指しているっていうの言ったの、奈央でしょ。だから、私は」
「はっ? 何のこと」
奈央は小首を傾げた。ふわふわの茶髪が奈央の動きに合わせて横に揺れる。
「だって奈央、秘密にして欲しいって言ったじゃない? 言わないわよ。大体、倉本に近づく機会なんて私にはないわよ」
「…………えっ」
今度は私が驚愕する番だった。
「じゃあ、美里か……」
「いやねえ、何で美里が? 大体、私達と倉本の何処に接点があるのよ」
「だって倉本の近くで噂してたって?」
「何で、わざわざ倉本の近くでそんな話しなきゃなんないの? おかしなこと言うわね。青。漫画の描きすぎ?」
…………そうかもしれない。
考えてみれば、不自然だった。
熱狂的なファンですら、倉本を遠巻きにして眺めているだけなのに、何故美術部の面々が倉本と接触できるのだろうか?
しかし、それなら何故倉本は私のことをよく知っていたのか?
「あ、そうだ。漫画と言えば、青。頼んでおいた原稿、描いてくれた?」
「まあ……ね」
「じゃあ、今回も部誌の売り上げ増だわ! 楽しみだわ」
私はふと沸き起こった疑問に蓋をして、小さく頷いた。
どうせ、倉本のことは本人に訊くしかないのだ。
「ああ、楽しみ。青の描く少年の流し目って色気が漂ってて好きなのよねえ」
「そりゃ、どうも」
そうなのだ。
美術部とは、名ばかりなものである。
実質はオタク部であり、漫画やアニメ好きの集まりが運営していたりする。
普段の活動は強制ではないのだが、部誌を発行する三ヶ月に一度だけは全部員が集わなければならないというのが、この部の唯一の掟であった。
文化祭や同人誌即売会=コミケで販売される部誌の収入は、画材などに充てられ、私はその画材を使わせてもらっていたりするので、私は売り上げに貢献しなければならないと、義務のように考えていた。
でも……。
「ねえ、男同士の恋愛を描かなくちゃ駄目なのかなあ」
「あら、青もそういうのに偏見持ってる派?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど。自分で描くのは苦手っていうか」
「いつも、良く描けてるじゃない。私青の描くBL大好きなのよ。評判良いから、売り上げも伸びてるわけだし、今回はいつもの倍の数、印刷して夏のイベントで一儲けするのよ」
こういう人を腐女子と呼ぶのだろう。
……否定はしない。
自分もその片棒を担いでいるわけだし、描くのは得意じゃないけど、男同士の熱いロマンの方が男女の甘い恋愛を描くよりも、私は好きだ。
ただ、彼女達がどういう目で倉本を眺めているのかは少しだけ気になった。
(脳内で、相手役が作られてたりするのかしら?)
私は刹那、脳内に浮かび上がった妄想に吐き気を覚えて、手提げ袋の中の原稿を取り出した。
やる気満々の奈央に引き摺られるようにして、部室である美術室に向かう。
ここで、他の部員達と原稿を付け合わせ、ページを入れて、印刷室で刷ってしまえば、私の夏の画材費は嵩まずに済みそうだ。
夏休みは、課外イベントだけではない。
私にとって絶好の投稿期間でもある。
倉本に渡してしまった原稿は頭痛の種だが、今更仕方ない。
仮にも、投稿を前提にして描いた作品である。投稿する時は自信があったのだから、こうなったらその時の感覚を思い出して、開き直るしかないのだ。
―――しかし。
「…………えっ?」
私は、ふと自分の手元に目を走らせた。
やけに、自分が抱えている封筒は重くないか?
部誌用の原稿は、八枚のはずだ。
確か……、投稿用原稿が十六ページあるので、重いはずである。
いや、そもそもサイズが違う。
印刷機で刷る原稿は、B5サイズだ。
しかし、投稿用は……。
「重い…………」
私は、ずっしりと両腕に重い封筒の封をおそるおそる開けた。
これは、倉本に渡したと思っていた投稿用原稿だ。
「戦場のキズナ ――試される二人」
軍服姿の二人が熱い握手を交わして微笑んでいる熱血の表紙がそこにはあった。
「…………あれ?」
どうして、ここに投稿用原稿があるのか?
(部誌用は、何処に行ったの?)
私が部誌用に描き上げたBL漫画
「恋と拳銃 ――気になるアイツのダブルフェイス」
痛すぎるタイトルの作品が、跡形もなく……
――――ないっっ!?
途端、自分でも血の気がひいていくのが分かった。
(……よりにもよって)
部誌の原稿の方を、倉本に渡してしまったのだ。
(どれだけ、馬鹿なの。私は……)
普通、気付くだろう。
朝一番で寝惚けていたのか?
「どうしたの? 青」
奈央の暢気な声が私の琴線に触れる。
私は深く息を吐いた。
……落ち着こう。
どれだけ寛大だと豪語していても、いきなり何の予告もなくボーイズラブ作品が封筒の中に入っていたら、びっくりするだろう。
下手したら、ひかれる。
いや、ひかれるならば、まだ良い。
『何がダブルフェイスなんだ。この臭いタイトルは? 英語の誤用じゃないのか? さっぱり意味が分からん』
あああ。
…………私にも分からないわよ。
どうして、そんなことになっちゃったのか。
――でも。
(まだ、大丈夫。大丈夫だわ)
倉本の絶対零度の微笑で蔑まれても、まだ耐え忍ぶことは出来る。
問題は……。
アレを道端で読まれたら……?
(危ないシーンはないわよ。うん、なかった。なかったハズ)
しかし、それに近いシーンは描いた。
そのくらいしないと、絶対に売れない。
売り上げは読者のニーズに比例している。つまり、私は読者のニーズに応えただけなのだ。
だけど……。
倉本が涼しい灰色の瞳があの怪しい原稿の上を走っているかと思うと、恐ろしくて生きた心地がしない。
「耐えられん!」
「青?」
振り返って、歩み寄ってきた奈央に私は発作的に手を合わせた。
「ゴメン、奈央。私、原稿家に置いてきちゃったみたい。取りに帰るわ」
「えっ? ちょっと!?」
私は奈央の前から急いで百八十度向きを変えると、一気にスタートダッシュをかけた。
幸い、倉本と別れてからそんなに時間は経っていない。まだ、倉本は近くにいるかもしれない。
運動苦手なくせに、私は倉本に見られたくない一心で、脇目も振らずに駆けた。