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第一幕

 はあ……と、長い溜息を吐いて、私はペンをくるりと指の間で回してみた。

 眠たい二時間目の授業は、生物だ。

 白衣姿の先生が、黒板に魚の図を描いてなにやら説明している。

 私のノートは真っ白……ではない。

 黒ずむほど何度も鉛筆で描かれたデッサンの上に、消しゴムのカスが散乱している。

 あらゆる角度から、描いた少年の面差し。

 正直、自分の行いを客観的に見つめると、吐き気がする。

 今、この段階でこんな症状が出ているのだから、あと数年後にこの絵を目にした日には、恥ずかしくて何処かに消えてしまいたい気持ちを抱くことは必至だ。


(一体、何処が良いんだろうか?)


 私は、このデッサンのモデル、斜め前の席に腰をかけている眼鏡の少年に目を向けた。


 彼の名前は、倉本(くらもと) (そら)


 確かに、学校中の女子に大人気なのは理解できる容貌だ。

 日本人離れした甘い顔立ち。

 ハーフだろうと噂されている灰色の瞳と、薄茶の髪。

 すっとした鼻梁と、薄い唇に、色素の薄い肌理の細かい肌。

 一見すると華奢な外見だが、肩幅はあって堂々としていて、意外に腕はがっしりしている。

 トレードマークのようになってしまっている大きな黒縁眼鏡は、不似合に思えたのだが、次第に、大きな縁に隠れた素顔を見てみたくなるアイテムのように感じてしまうから不思議だった。

 ……文句なく格好良い。

 間違いなく、都会に出れば芸能界にスカウトされるに違いないだろう外見を、彼は有している。

 しかし……だ。


(だから、何なのだろう)


 こうして、盗み見してデッサンしていることを棚にあげて、私は思う。

 外見が良いという以外に何があるというのだろうか?

 性格は内向的。

 制服は余りにも模範的に着こなされていて、面白味はない。

 いつも独りで、本ばかり読んでいる。

 友達も少ないようで、男子と話している場面に一度も私は遭遇したことがない。

 倉本ファンの連中は遠巻きに見ているだけで満足なのか、誰も彼に話しかけようとはしない。

 とにかく良く言えば謎が多いということなのかもしれないが、私からしたら、世界から完全に、孤立しているようにしか見えなかった。


(まあ、どうでも良いんだけどね)


 私は右手の下にある彼の顔を見た。

 長い睫毛に、きらきらと輝くグレーの瞳。

 …………完全に王子様のご尊顔だ。

 さらさらの薄茶の髪に王冠でもつけたら、本当に白い馬に跨ってやってきそうで怖かった。

 これだけの逸材は早々いない。

 誰かをモデルにして漫画が描けるなんて、こんなにありがたいことはないではないか。

 もしも、上手く書けたのなら、量産して適当に値段をつけて倉本好きの女子達に売り飛ばしても良い。


(さよなら、倉本。二次元の世界に旅立ってくれ……)


「大木さん」


 だが、これから私が向かおうとしていた妄想という名の仕事は、見事に前の席に座っている丸刈りの男子生徒のせいで潰えた。


「これ……」


 手渡されたのは、几帳面に四つ折りに畳まれたノートの切れ端だった。

 開いてみれば、何故か平仮名で一言書かれている。


 ――ほうかご。しゃかいかじゅんびしつで。


「社会科準備室?」


 社会科準備室とは、大きな世界地図などが保管されている部屋だが、要するに物置だ。

 差出人の名前がなくて、怪訝な気持ちのまま顔を上げると、今まで真面目に前を見ていたはずの倉本と目が合い…………、

 私は、にっこりと笑うしかなかった。



◆◆◆           


「あら、倉本くん。こ、こんにちわ。初めましてかしら?」

大木(おおき) (せい)


 いきなりフルネームで名前を呼ばれた私は、たじろいだ。何故、私のフルネームを知っているのか。執念深さすら感じる。

 それを面白がるように、倉本は言った。


「近しいクラスメイトの割には、仰々しい挨拶じゃないか」


 倉本は、私が来る前からスタンバイしていたのだろう。

 暗い部屋に詰め込まれていた椅子に腰をかけて、本を読んでいたらしい。

 もっとも、彼が読んでいる本は常にブックカバーがかかっているので、何を読んでいるのかは、まったくの謎なのだが……。


(そんなことは、どうでも良いことだわ)


 倉本が何の関わりもない私を呼び出した理由なんて一つしかない。

 バレたのだ。

 私が授業中、倉本を描いていたことが……。

 別に毎日描いていたわけではない。

 暇な授業中の眠い時に、気晴らし程度にモデルにしていただけなのだ。

 しかし、そんなことを言ったところで弁解になるはずがない。


(うーん……)


 ストレートで説得力のある方法って何だろうか。


 ――私、倉本くんのことが大好きで、描かずにはいられなかったの!


(寒すぎる。……有りえんな)


 私が一人で勝手に悶えていると、倉本の方が口を開いた。


「あんたが俺を盗み描いていたことは、知っている」

「そ、そう。困ったな。ははは」

「授業中、ずーっと見られていれば、馬鹿でも気付く」

「そりゃ、そうよね」


 一応、その辺りは私も注意していたのだが、倉本にはバレバレだったということらしい。


「すいません」


 盗み描いていたことには、まったく反省もしていない私だが、バレてしまったことは、私の注意力の問題である。真摯に反省しなければならない。


 変なところで妥協して、素直に頭を垂れると、倉本は読んでいた本をようやく閉じて、立ち上がった。


「別にいいさ。好きに描けば良い」

「えっ?」


 倉本は尊大に腕を組んだ。


「でも、あんたが描いている作品は鑑賞させてもらうぞ」

「何?」


(今、何て言った)


「ちょ、ちょっと待って」

「肖像権の侵害をしたのはあんたの方だ?」

「そうね? そうかな。うん。でもね……」


 ――どうして、そういうことになるのか?


 よく分からないヤツだと思っていたが、本当に常識から逸脱したヤツのようだ。


「最近、放課後やら休み時間とか、女達が寄ってきてうるさい。おかげで俺の読書がまったく進まない。丁度良いから、あんたの描いた作品を拝ませてもらおう。過去のモノから遡って全部持って来いよ」

「うーん。どうしてそういうことに……」


 私は、あからさまに頭を抱えた。


「君を勝手に描いていたことは謝るよ。でもね。何で私が君にわざわざ……。大体、君に関わって、君を大好きな女の子達の敵になりたくないし」


 ……出来れば、関わりたくないのだ。

 私は、ひっそりと倉本を遠くから描いているだけで満足だったのだ。

 ………………今までは。


「だったら、とりあえず、俺達は親戚という設定にしておけば良い。面白い提案だろ?」

「……面白い、ねえ」


 これを傲慢と言わずして、どうするのだろう?

 顔と中身は一致しないというのは、お約束ということなのだろうか。

 きっと、小さい頃からちやほやされ続けて、性格が捻くれてしまったのか。

 大事なネジが何処かではずれてしまったらしい。


「ああー。でもね、倉本くん。私もういいのよ。君の側にいる必要はないのよね。十分描かせてもらったし」


 用は済んだ。

 面倒ごとになるくらいなら、あれらのデッサンを破って捨てても構わない。

 大体、本人を見なくても、想像で描く技術くらい私だって持っている。


「何だ。せっかくの申し出を断るというのか? 大木 青」

「何故に、またフルネーム?」


 倉本は私の渾身の突っ込みに答えようとはしなかった。

 かわりに、黒縁眼鏡を神経質そうに持ち上げて、にらみつけてくる。

 頭一つ分大きい倉本が私を睨みつけると、意外に迫力があった。


「あんた美術部なんだってな。漫画家目指してるんだって」

「どうしてそんなこと知って?」

「俺の所に勝手にやって来る女たちが噂してた。十五歳で現役漫画家デビュー?編集者付きなんだって? でも、まだ決め手にかけるって悩んでいるんだって?」

「一体、誰がそんなことを……?」


 それは、極々親しい人間にしか教えてないことだ。

 私が所属している美術部の友達……。

 一人、二人と私は顔を思い浮かべて、彼女達がみんな倉本のファンだったことも思い出した。


(友人たちよ。流されたのか……)


 元々、悩んでいた私は、友人たちに勧められて、倉本を投稿作の外見モデルにしようと決めたのだ。

 振り返ってみれば、何もかも私の判断ではなかった。

 今更、私は激しく後悔した。


「絵は少女漫画なのに、少女漫画を描くのは苦手だとか?」

「うっ」


 実はその通りなのだが、素直に頷きたくはない。

 黙っていると、倉本は綺麗に微笑した。

 それは、私が初めて目にする倉本の笑顔であり、嘲笑に近いものだった。


「それで……、俺を使って何を描こうというわけ?」

「別に。深く考えていたわけじゃないのよ。ただ行き詰っていただけで……。あっ」


 私は言ってしまってから、後悔したか、もう遅かった。


(仕方ない……)


「実は……、私、漫画の新人賞に応募して、結構いい線までいっているんだけど、どうも内容に問題があるみたいで、あと一歩が足りないみたいなのよ」

「ふーん」


 無関心なのかと思ったら、意外に倉本は乗ってきた。


「何が足りないと、編集は言ってきたんだ?」

「私、恋愛モノって苦手でねえ。出来れば戦闘もの……、こう男と男のぶつかりあいとかを描きたいんだよね。でも、批評ではしっかり少女漫画を描きなさいって。本当は青年誌とか目指したいんだけど、どうにも絵柄がキラキラしすぎて、そちらは無理だし。今更、自分の絵を変えることも出来なくて……。こうなったら、恋愛のない少女漫画を描くしかないかなーって……」

「馬鹿な……」


 倉本は、小さく頭を振った。


「恋がなければ、少女漫画じゃないだろう」

「はっ?」


 私は、まず自分の耳を疑った。


「少女漫画といったら、両思いになるまでの長い道のりに、ハラハラドキドキさせて、両思いになってからは、ライバルの出現を通して破局の危機を迎えるものだろ。擦れ違いの連続で読者をひきつけて、最終的に二人は気持ちを再確認して大団円を迎えると……そういうものじゃないのか?」

「そういう……、ものなの?」


 早口で捲くし立ててくる倉本に圧倒された私は一歩後退した。


「まあ、パターンではあるけどな」


 顎を擦り、倉本は考えこんでいる。

 やはり、私の最初の印象は間違っていなかったらしい。


(コイツは間違いなく、変人だ)


「そして、相手役の男がヒロインの弱みを使って、隷属化させるものの、隙をついて男の元から逃げ出したヒロインが実は男が自分に好意を持っていたことを知り、自分も男が好きだったことに気づき、男のもとに帰ってくるという変則パターンなどもあるぞ。……ほら」


 倉本は至極真面目な顔で、今まで自分が読んでいた文庫本のページを捲って、私の鼻先に押し付けた。


 タイトルは『極悪魔術師と聖女』。

 その第一章、三十五ページ。


「ええっと……? ――では、暫くの間、俺の恋人として振る舞ってもらおう」


 私がたどたどしく読み上げると、隣の倉本は無感情に続きを朗読した。


「い、嫌よ。どうして、私がそんなことを? 嫌がるシルヴィアの気持ちを無視して、悪徳魔術師フセは豪快に笑った。……フフフ、断れると思っているのか?」

「な、な、何?」


 私は思わず、倉本の手から文庫本を取って、一駅先の本屋の緑色のカバーを取って、表紙を見た。

 金髪碧眼の少女と、長い黒髪の男が微笑している。

 ピンクの帯には、


「アイツは、私の弱みを握っている嫌なヤツ。でも、何故かアイツのことが頭から離れなくて……」


 とゴシック体の記述があった。

 おそるおそる倉本を見上げる。


「まあ、こんな感じだ」


 咳払いして、そんなことを言う。

 どんな感じ……、なんだろうか?


「…………倉本くん」


 さすがに、問わずにはいられなかった。


「少女系……、好きなの」

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