城塞都市シュードス・第3回(全3回)
第2回からの続きです。
この回で完結します。
六
翌日、俺は、ソリオじいさんの葬式に参加した。式を取り仕切ったのはカイル。呼びかけを行なったのはクレイトン先生だった。
身寄りのないソリオじいさんを、自分の戦友として、土地の人々に儀式への参加を呼びかけたのだ。
俺の知る限り、クレイトンじいさんとソリオじいさんは同じ戦場に立ったことはない。それどころか、医者と患者としての付き合い以外はなかったはずだ。だから、戦友というわけではない。だが、それは、クレイトンじいさんの優しさの現われだと思った。
ソリオじいさんは、火葬され、小神殿の地下にある埋葬所に入った。
この埋葬所は、特に希望のある死者や、引き取り手のない死人を火葬にして、遺灰を収納するための場所だ。
シュードスの地下に張り巡らされた、地下道の一部とつながっている。
埋葬の儀式には、思いがけず人出があった。
下町の酒場で見かけた人々だった。
ソリオじいさんには、確かに身寄りはなかった。だが、もしかしたら、下町の、あの酒場の常連たちを、家族のように思っていたのかもしれない。だから、毎日のようにあそこへ通っていたのかとも思う。
それはもう、確かめられない。
カイルの話では、オルギスの身は、一度は警護隊の預かりとなったらしい。
これに激怒した小神殿の司祭は、警護隊本部まで出向き、強引に死んだソリオの息子の身柄を引き取り、じいさんと同じように火葬した。
この火葬は、さすがに極秘に行なわれた。
参列者は俺と、クレイトンじいさん、フィリス、そして、カイルだけだった。
親子は同じようにして遺灰壺に収められ、並べて埋葬された。
それを、じっと見ていたフィリスの顔には、静かに涙が伝わっていた。
全ての儀式が終わった後、フィリスの部下二人と合流した。
「隊長、お疲れ様でした。リアン、お前さんもな」
「ありがとよ、サディアス」
俺は、サディアスと硬く握手を交わした。サディアスは怪我の診察がてら、小神殿に来ていた。マクラムも一緒だ。
まだ長い距離を歩けないサディアスは、馬車で移動していた。
「いやぁ、たまには怪我をしてみるのも良いなぁ。最近、ご婦人方が優しくしてくれてさぁ。ぬふふふふ」
明らかに作り笑いとわかる仕草でサディアスが笑った。
それを見たフィリスが、呆れたように苦笑いを浮かべている。
すでに夜になりかかっていたために、神殿の周囲には、ほとんど人影が無い。
「隊長」
馬車から縄を外したマクラムが、フィリスの前に立つ。
何か、におう。マクラムには、普段と違うところがある。
「マクラム、サディアスの子守などさせてすまなかったな」
サディアスが一歩、前に出た。
「それはひどいですよ、隊長。俺は子供なんかじゃ、おい、あんたも何か言ってくれよ、マクラム。……、マクラム?」
二人の視線の先に立つマクラムの顔は、青くなっている。
月明かりのせいではない。ランタンの明かりもある。
「申し訳ありません」
そう言った、マクラムの体が、地面に崩れ落ちる。
「マクラム!」
「おい、どうした!」
マクラムの呼吸はひどく浅い。何度も何度も、吸っては吐き、吸っては吐いている。
俺は、近付いて、鼻に意識を集中する。先ほど、ようやく排水路のにおいが薄れて、他のにおいが嗅ぎとれるようになった。
「毒か」
言うと、フィリスとサディアスが、弾かれたようにこちらを向き、マクラムは、頷いた。
「ユーゲンハート伯爵と密通していたんだな?」
俺が言うと、フィリスは、顔を真っ赤にして、何か言いかけた。だが、それよりもマクラムの答えの方が早かった。
「そうだ」
フィリスが息を飲む。その顔には、苦痛の色が浮かび、今にも泣き出しそうに見えた。
「マクラム、なぜ?」
「隊長、伯爵は、私にこう言いました。『息子の薬を都合してやろう、だから私に協力するのだ』、と」
聞けば、マクラムの息子は、治療が難しい病にかかっているのだと言う。助けるためには、高価で貴重な薬が必要になる。マクラムが口にした薬の名は、俺も聞いたことがないものだった。
「ばかな……」
フィリスは、涙声で言った。
「オルギスにあなたのことを教えたのも、シリルに行動の予定を教えたのも、私です」
マクラムの息が詰まる。どうやら、徐々に呼吸が止まっていく毒を飲んだようだ。
始めから、俺たちと合流する時間を稼げるように、遅効性の毒を選んだのだろう。
「このままでは、息子に顔向けできないと思いました。だから……」
細くなっていくマクラムの声。
サディアスが叫んだ。
「だからって、こんな方法で償うなんてあるかよ。息子や奥さんはどうするんだ!」
「後を頼む、サディアス」
「ふざけんなよ!」
詰め寄るサディアスだが、見る間にマクラムの生きが細くなる。
「マクラム、マクラム!」
フィリスが、マクラムに取りすがるが、すでにぴくりとも動かない。
サディアスも、跪き、悔しげに頭をたれている。
「サディアス、行くぞ!」
突然、フィリスが、マクラムを担ぎ上げようとしている。むろん、体格の差がありすぎるために上手くいっていない。
「どうするんです、隊長」
「クレイトン先生のところへ運ぶんだ!」
サディアスも頷き、フィリスに手を貸そうとする。
「おいおい、待ちな。どうして助けるんだ」
俺は、騎士たちの前に立ちふさがった。
「なにを言う?」
「こいつは裏切り者なんだぞ」
言うと、フィリスが叫ぶ。
「違う、裏切り者ではない。私の部下だ!」
「助けるのか、本当に?」
「無論だ!」
フィリスの目を見た。そこには、一切の迷いのない、澄み切った、決意のまなざしがあった。
そして、頑固者のにおいがする。
「わかった、そこに寝かせろ」
「なに?」
大男の下から、フィリスが言った。
俺は、今は構わないことにして、サディアスに言った。
「サディアス、その辺に桶は無いか?」
「確か、馬車の中に……。桶なんか、どうするんだ?」
「持ってきてくれ」
俺は、鞄に手をかけると、中から小瓶を取り出す。蓋を開けると、そのままマクラムの口に突っ込む。次に薬草を錬って作った煙薬を、騎士の額に、貼り付ける。馬車に備え付けの、ランタン用の火種を使って、薬に点火する。
あとは、桶をマクラムの頭にかぶせて、煙を十分に吸い込むようにすればいい。
「おい、何が入っていたかわからないんだぞ、その桶」
サディアスが、うへぇ、と言った。
「死ぬよりましだ。これで、夜明けまで生きていれば、安心だ」
俺は言って、腰を上げる。瓶の中身も、煙薬も、特製の毒消しだ。
「ほ、本当か?」
まだ緊張した様子で、フィリスが言う。
「ああ、前に言ったろ、俺の解毒剤は効くんだ」
マクラムを慎重に馬車に乗せ、移動する。
「とりあえず、俺の家に寄ってくれ。薬を持って、クレイトンじいさんのところへ行こう」
小神殿から俺の家までは、馬車を使えば短時間で着くはずだ。
念のために、マクラムの脈を診る。正直、これは苦手な作業だったが、何とか、波打つ太い血管を探し当てる。弱いが、心臓は動いているらしい。
しばらくすると、見慣れた家並みが現れる。
どこかからか、妙なにおいがしてきた。
「なんだ、このにおい……」
馬車から降りる。もう、俺の家は目前だ。ここから先は、徒歩でないと入れない。
「どうかしたか、リアン」
フィリスも降りていた。一緒に行くつもりらしい。
「ここで待っていてくれればいいぞ」
「いや、こうなれば、何が起きるかわからない。念のためだ」
フィリスの態度に、少し笑ってしまう。
それにしても、嫌なにおいだ。俺の家の方へと続いている。何があったんだ。
家の前に誰かいるのが、薄闇の中に見えてくる。
「誰だ?」
ちょうど、俺の家の入り口の前に、誰かが座り込んでいるようだ。
「おい……」
近付くと、それはドニーだった。
膝を立てて座り、何か、蓋付きの壺のようなものを抱えている。表情はぼんやりとしていて、目は開いているのだが、どこを見ているのかわからない。
「ドニー、どうしたんだ、こんなところに座って」
声をかけるが、反応がない。
嫌なにおいが、広がっている。本当に何なんだ、これは。
「とにかく、中に入れよ、ドニー。これからクレイトン先生のところへ行くんだ。お前も一緒に」
軽く、ドニーの肩に触れた。
すると、彼は、ゆっくりと、倒れた。抱えて持っていた、壺が、地面に接触して、蓋が開く。中から、どろり、としたものがこぼれた。
ああ、これが、においの出所か。気が付かなかった。
それはドニーの臓物だった。
「ドニー!」
フィリスが、ドニーに駆け寄ろうとした。俺はその肩を掴んで、引き止める。
背後で、サディアスが駆け出してくる気配があった。
「どうした、何が……」
サディアスは、ドニーと、彼が抱えていた壺を目にすると、事態を悟ったようだ。
この殺し方は、戦場で目にしたことがある。拷問であり、処刑でもあった。
フィリスは、突然のことに動揺しているのだろう、まだ、ドニーに近付こうとしている。
「リアン、何をしている。早く起こしてやらないと。そうだ、先生のところへ連れて行かなければ」
「いや、もう死んでる」
「なに?」
フィリスが、呆然と俺を見、次いでドニーの亡骸を見た。
俺は、ドニーの体を、ゆっくりと仰向けにさせた。脇腹に、小さな穴が開いている。指が、二本程度は入りそうな穴だ。やつは、きっと、ここからドニーの臓物を引きずり出したのだろう。
それを、壺に詰めて、まだ生きているドニーに持たせ、ここまで歩かせた。
どうしようもない死の恐怖に怯える若者を、歩いて、俺の家まで来させたんだ。
俺は、壺を抱き起こし、あふれ出たものをもう一度、中に入れた。そして、地面の泥を集めて捏ね、蓋の周りに押し付けて、簡単には開かないようにした。
「サディアス、ドニーの亡骸を運んでやってくれ。クレイトン先生のところへ行こう。それからな、向こうに着いたら、カイルと、マーヴを呼びに行ってくれないか」
「わかった、任せておけ」
サディアスは、ドニーの体を慎重に運んでくれた。俺は、亡骸のすぐ隣に、壺を抱えて乗り込んだ。
目の前が、ぐらぐらと揺れている。馬車が揺れているのだろうか。どうやら、違うらしい。揺れているのは俺だ。
「リアン」
フィリスの声が聞こえた。見ると、女騎士は、俺の手を握っていてくれている。
目や、鼻や、喉が熱かった。反対に、指や、腹が寒い。ひどく、寒い。
気が付くと、俺は自分の拳を見つめていた。
目を上げると、いつの間に着いたのか、診療所の中だった。
クレイトン先生とタニアが、ドニーの体を清めてくれている。先生は、脇腹の穴を塞ごうとしているようだ。針と糸を持っていた。
タニアは、ドニーの体を、水で濡らした布巾で拭いている。拭きながら、泣いていた。
しばらくすると、マーヴがやって来た。何も言わず、両目を見開いて、ドニーの顔を見ている。
一度だけ、俺と目が合った。それだけで、何が言いたいかはわかった。考えていることは同じだろう。
再び扉が開き、カイルと、二人の神官が入ってくる。
若い二人は、ロッカとデニス。ドニーの弟分だ。
「ドニー!」
叫び、亡骸に駆け寄ろうとするが、サディアスに止められた。
「ドニー!」
二人の叫び声が、耳の中で何重にもこだまする。
不意に、ドニーの笑顔が目の前に浮かぶ。この診療所で、みんなで一緒に飯を食ったときの、あの顔だ。
「リアン、大丈夫か」
カイルが、俺の方へとやって来ていた。
「駄目だ」
「うん?」
「俺はもう怒った」
「おい」
カイルは、怪訝そうな顔で俺を見た。だが、すぐに気を取り直したようで、自分が手に持っていたものを差し出した。ウジェだ。
「これは?」
「オルギスのウジェだ。見てみろ」
言うと、カイルは、オルギスのウジェの、先端を押し込み、回し始めた。すると、小指程度の大きさの先端が、抜けて、金属の筒が現れた。
「なんだ、これ」
「手紙だ、まだ俺しか読んでいないが、重要なことだと思ったのでな」
手紙、とはいっても、手の平にすっぽりと収まる程度の紙片だった。俺は、その紙片に目を走らせる。
そこには、こう書かれていた。〈カーチャックのダリ。モロソンへ〉
「カイル、モロソンって村、知ってるか」
「ああ、ここから、二日くらいの距離にある村だが、それが?」
俺は、カイルの肩を掴んで言った。
「カイル、明日は、ドニーの葬式を仕切ってやってくれ」
「ああ、そのつもりだが……。お前、何をするつもりだ?」
「今は何もしねぇよ。今は……」
翌日の葬儀は、思いの外、たくさんの人が集まった。
〈風紋〉の若い連中。ロドスもいる。
メリルとトビアの姉弟。メリルは、誰かの肩を抱きかかえるようにしている。
〈金葉館〉のラナだ。なぜか、ラナは号泣している。ドニーと、そんなに仲が良かっただろうか。
「ラナはな」
いつの間にか隣に来ていた、マーヴが言った。
「ラナは、ドニーと結婚させるつもりだった。あの娘は、最近、売れてきていたからな。このまま行けば、数年は早く、年季が明ける。だから、な」
年季が明けた娼婦が、その後の生活を確保するための一番の方法は、結婚だ。〈風紋〉では、傘下の店で働く娼婦に、結婚先の斡旋を行なっていた。
結婚の話は、ラナにだけ、教えてあったそうだ。
「もちろん、確定じゃない、とは言ってあった。しかし、まあ、こういう話は、女の方が承知していねぇと、上手くいかねぇだろう?」
「お前、娼館の経営者じゃないよ」
「当たり前だ、俺は〈風紋〉の頭目だからな。けちな女衒と一緒にするなよ」
ふ、とマーヴが笑った。何か、諦めたような顔だ。
「でも、まあ、頭目だなんだと、偉そうに言っても、この様さ。子分さえ、守れやしねぇのよ」
「マーヴ」
俺には、頭目としてのマーヴの気持ちはわからない。今まで、誰かの上に立ったことなどないからだ。だが、友人を失った男の気持ちはわかるつもりだ。
葬儀は無事に終わった。
その後、俺たちは、診療所へ集まった。
俺、マーヴ、カイル、そして、フィリスとサディアス。もちろん、診療所の持ち主であるクレイトンじいさんと、娘のタニア。
この人数で、毒がどうにか抜け切った、マクラムを取り囲んだ。
「で、何だって?」
サディアスが、言った。底冷えがするような、暗い声だ。強烈な怒りのにおいがしている。
「すまん」
マクラムは、しばらく、それしか言わなかった。
唐突に、フィリスが椅子から立ち上がった。
そして、まだ椅子に腰掛けていたマクラムの眼前に立つと、殴った。
「うがっ!」
うめいて、巨漢がひっくり返った。
あまりの乱暴さに、一同が呆気に取られている。
「マクラム、貴様の思っていることを全部話せ。命令だ!」
「はっ、わかりました、隊長」
床に転倒したままで言うマクラム。その声は、なんとなく明るくなっていたような気がする。
姿勢を正した後で、マクラムは、自らが調べたという、伯爵の同行について語り始めた。
「息子を盾に取られ、情けないこと、この上なく。せめて、何かを掴んでおらねば、自分自身が許せませんでした。そこで、伯爵には従順な振りをして、東区での動きを探っていたのです」
マクラムの話によれば、ユーゲンハート伯爵は、東区の地下道を利用して麻薬を流通させているらしい。
「ドゥエイン・トム・ウェルクレスが、その尖兵として働いています。東区での麻薬流通を調整しているのは、やつの部隊です」
これに対して、俺は驚かなかった。もちろん、そんなからくりを見抜いていたわけではないが、それしかない、と思っていたことは事実だ。
「まさか、そんなことが……」
フィリスが、うなる。ぎりぎり、と音がする。女騎士が自分の腰に佩いた剣の柄を強く握っていた。
すぐ隣に座っていたマーヴが、動揺している。
「地下道の警備は厳重です。通常の手段で、長期間、あそこに留まれる者はいません。ですが、警備している者たちは別です。何でもできる」
「ちくしょう、ふざけやがって」
マーヴが、拳を握り締める。
「やつら、ぶちのめしてやる」
「待てよ、マーヴ。お前が行ったって、いや、この中の誰が行ったって、警備隊が相手じゃ、どうにもならねぇよ」
俺は、マーヴに近付いて、その肩を強く抑える。
「しかしな、リアン、他にどうしろってんだ。誰かが何とかしなけりゃ!」
「マーヴ、それを考えるのに、みんなで集まったんだろう」
そう言った俺の方を見て、サディアスが言った。
「リアン、何かいい考えでもあるのか?」
「うん、たぶん、何かつかめるはずだ。だが、その話をする前に……。じいさん、〈螺旋階段〉、保管してあるよな?」
クレイトン先生は、頷いた。
「うむ、確かに保管はしているが……。リアン、お前まさか!」
「ああ、あれを使ってみようと思う」
「使うって、自分にか?」
マーヴが、呆然とした体で言った。
「他人に使ったって、仕方ねぇだろう」
「駄目だ!」
間髪を入れず、フィリスが叫んだ。その表情は蒼白で、これ以上ないほどに真剣だ。こうした状況でなければ、戦いを挑まれてもおかしくないほどの気迫をまとっている。
「リアンさん」
タニアも、すぐ近くまで来ていた。
「いけません、あの〈螺旋階段〉という薬は、危険です!」
いかん、挟まれた。
「いや、俺はさ、薬を扱っているから、他の薬や毒には耐性があるんだ。それにな」
俺は、一度、言葉を切る。どう言えば、不自然ではないように言うことができるだろうか。
いや、だめだな。どう言っても、不自然になる。率直に言うしかないか。
「中毒になった連中が、幻聴が聞こえる、って言ってただろう。それが気になるんだ」
「だからって……」
フィリスが、力を込めて言った。
「ドニーは、そのために殺されたんだ」
「どういうことだ?」
「ドニーの腹の中から、〈螺旋階段〉のにおいがした」
「におい?」
俺とフィリスの会話に、じいさんが割り込んできた。俺の鼻のことは、秘密だった。別に隠しておくようなことじゃないが、他人には理解しにくい感覚だからな。
「いや、わしが確認したのじゃ。ドニーの、空になった腹の中から、〈螺旋階段〉が少量、出てきた」
俺をかばってくれたわけじゃない。じいさんがドニーの腹の中から薬を発見したのは本当のことだ。
「誰がそんなことを?」
カイルが言うのに、俺は答えた。
「ドニーを殺したやつ。シリルさ。あいつは、俺たちと戦いたくて仕方ないんだ。だから、手がかりを残した。それを追えば、もう一度、戦いの機会が得られるからな」
俺も、たぶん俺以外の、この場にいる者も皆、やつとの戦いは望んではいない。できれば、あんな女暗殺者とは、二度と会いたくはない。
だが、やつはドニーを利用した。戦いとは何も関わりのないドニーをだ。
許せん。
「この件に関わった、全てのやつらを叩き潰す。もう許せん」
俺は言って、思わず、拳を握った。
周囲を見渡せば、全員がこちらを見ている。俺は、余程、思いつめた顔でもしているのだろうか。みんな同じように、心配そうな顔をしている。
「なあ、皆、俺はな、やると言ったら、必ずやるぞ。今止めても、明日やる」
盛大なため息が聞こえた。
「仕方がない、こやつ、頑固さにかけては、わし以上だ」
クレイトンじいさんは苦笑いしている。
俺は、誰かから文句が出ないうちに話を先に進めることにする。
「フィリス、頼みがある」
「ああ、言ってくれ」
フィリスは、笑いながら言ってくれた。
「あの、ダリってやつを探し出して、きっちり問いただしてくれ。知っていることの全部を吐け、ってな」
そして、オルギスのウジェから出てきた紙片を渡す。
「わかった、任せておいてくれ」
しっかりと頷くフィリス。それを見て、俺は、次の行動に出ることにする。
「マーヴ、馬を貸してくれ」
俺はその日の内に一人で西の森に入ると、馬を町へ帰し、奥を目指す。この森は、シュードスの住人が頻繁に訪れる場所だ。なるべく人の来ないところに行こう。
森のほぼ中心まで来ると、もう日が暮れかかってきた。
「この辺でいいか」
俺は、クレイトンじいさんから受け取った、〈螺旋階段〉の入れ物を開く。中には、乾燥させていない丸薬のようなものが入っている。
練り香として火にくべ、嗅ぎ薬にするためのものだ。
通常通り、火にくべてもいいが、屋外でやると、周囲にどんな影響が出るかわからない。だから、俺は、酒に溶かし込んで、飲み込むことにした。
鞄から小型の木の深皿を取り出すと、ベルトの脇にくくりつけた皮袋から、蒸留酒を入れる。そこへ〈螺旋階段〉の丸薬を放り込んで、潰す。溶かし終わると、一気にあおった。
通常、こういうときは、少量ずつ試していくものだが、今回は、時間が惜しい。
さて、何が起こるか。
「うぐっ」
すぐに、めまいが起き始め、見える範囲が狭くなる。そして、酒の酔いではない、全く別の高揚感が、全身を包む。
目が見えにくくなるのと反対に、耳や鼻は鋭くなっていく。どくどく、と鼓動に合わせて、耳の奥で、陣太鼓を叩くような音が響く。
その騒音に紛れて、遠くの方から、誰かの声が聞こえ始める。最初は、かすかなつぶやき程度で、言っていることも鮮明ではなかったが、次第に声が強く、はっきりとしてきた。
声は、男か女かわからない。両方かもしれない。
こう言っていた。
『立ち上がるのです。あなた方は虐げられている。己を解放し、思うままに立ち上がるのです』
そういえば、カイルの小神殿に駆け込んできた男も、これと似たようなことを言っていたな。
しばらく、すると、内容が変わった。
『天に火の花が咲くとき、あなた方は力を得るでしょう。あなた方を虐げている者に向かって駆け登るとき』
それが、繰り返し延々と続く。頭が痛くなってきた。
それに、さっきから自分が何をしているのかわからない。ひどく酔っ払っているような気分だ。自分はまともに行動しているつもりだが……。
くそ、目の前が暗くなってきた。
夢を見ている。
前回とは違う夢だ。前のときは、なんだったか。どこかの戦場での思い出だ。カイルやトルーダがいた。
今回の夢は、どこかの城だ。閑散とした城。
その前に、俺ともう一人の男が立っている。
男は、長い金髪を背中に垂らし、魔法使いに特有の、地味な色のローブを着ていた。
「クリステン、これは何だ?」
俺は、魔法使いから渡された小瓶をひっくり返して観察した。
その俺の仕草がおかしかったのか、クリステンは、軽快に笑った。
「それは、僕が作った霊薬さ。どんな病にも効く、万能薬だよ。何かの役に立つだろうと思って。餞別さ」
「ふうん。でも、これしかないんだろう。もらってもいいのか?」
「もちろん。これから、シュードスに行くんだってね。もし、その霊薬を売って金に換えようと思ったら、下町の中央区に、僕の弟弟子が住んでいるから、訪ねてみるといい」
クリステンは、面長の顔を輝かせて笑った。
戦場にいても、常に輝きを忘れない男だった。もう随分と会っていない。
「弟弟子は面白い人でねぇ。遥か遠くにいる者にも、耳元でささやくかのように、声を届ける魔法を使うんだよ」
急に、クリステンの姿が薄れていく。
「ささやくかのように、声を……」
穏やかな声が遠ざかり、やがて、影も形もなくなってしまった。
そこに突然、何人もの人がやってくる。
見るからに高級そうな服装の男たちが、二十四人。談笑しながら歩いてくる。
俺は、その男たちが目の前に来るのを待って、頭を下げる。
「ようこそ、ワスプアント城へ」
言って、背後の城を指し示す。
それに答えるように、男たちの中で、一際、高価なものを身にまとい、ふんぞり返っている者が言った。
「ここが、伝説に名高いワスプアント城か。なかなかに壮麗な場所ではないか。あのお方も、このようなところで会合とは、実に風流」
男たちは口々に勝手なことを言いはじめる。話の内容に興味はない。
「主人は、奥の間に居りますが、まずは皆様に、城一番の景色をご堪能いただきたいと」
「おお、それは良い」
いい気になって笑っているやつらを、城の中へ案内する。
この城は、岩山に張り付くようにして建てられている。かなり古いもので、百年以上前に戦争で使われてから、無人になっているものだ。
戦用の城として作られたので、堅牢、かつ様々な仕掛けが施されている。このときは、その古い仕掛けを使って、こいつらを始末した。
城の二階部分、岩山を背にして、バルコニーが設置されている場所に、一団を案内した。
「おお、これは素晴らしい」
そこからは、様々なものが見えた。遠くにそびえる山々、城の脇を流れる川が絶壁を滝となって流れ落ちる。眼下には目もくらむような峡谷。そして、その先の森。
霧が出れば、城が雲の上に浮かんでいるかのように見える。
全員が、景色に見惚れている。
さて、仕事だ。
「それでは、皆様、よい旅を」
「なんだと、どういうことかね?」
「さようなら」
俺は、バルコニーの内側に入って、仕掛けを動かす。
バルコニーが揺れ始める。慌てふためく男たち。急いで城の中に飛び込もうとする。しかし、間に合わない。
このバルコニーは、城の内部に汲み上げた水を放出する力で、全て崩れ落ちるようになっているのだ。
「うわああああ!」
石煉瓦とともに、遥か下方の峡谷へと落ちていく男たち。一人残らず、初めからいなかったかのように。
次の瞬間、場面が入れ替わる。俺は、バルコニーから、峡谷を眺めていた。はっとして、振り返る。
視線の先には、身なりのいい男。
「いや、実に風流。さようなら」
バルコニーから水が噴出し、全てが崩れ落ちる。
「うわああああ!」
俺は、全身を包む墜落感に叫び声を上げる。
目の前が真っ暗になった。
「うわあ!」
目を開くと、小川に顔を突っ込んでいた。
ここ数日、薬の影響から抜けると、毎回、水辺にやってきている。正確に何日経ったかはわからない。だが、徐々に薬の効果が落ちてきているように感じる。
昔取った杵柄。毒への耐性が、〈螺旋階段〉を無力化しようとしているようだ。いや、それは幻想で、実はどっぷりと漬かっているのかもしれないが。
「はあ、はあ、はあ」
苦労して身を起こし、木陰まで這って行く。日の光が眩しい。明らかに風が冷たくなってきている。もう秋か。
幻聴が聞こえたのは、最初の数回だけ。わかったのは、聞こえて来る声が、毎回同じことをささやいているということ。そして、やつらの狙いがシュードスの収穫祭にあるということだ。
〈天に火の花が開くとき〉、なんてのは見え透いた、いかにも安っぽい表現だ。指し示すのは、収穫祭の花火。
だが、わかりやすくて助かった。まあ、当然と言えば当然か。薬で前後不覚になっているやつらに、複雑なことを言ってもわかるとは思えない。
問題は、その収穫祭で、何をするかということだ。一体何が目的なのか。
「全く、どうしようもないな。大見栄を切っておいて、結果は変な夢を見てばかり」
そのとき、閃くものがあった。
夢だ。さっき見た夢。俺が、百人衆を殺すために使った、城の仕掛け。
薬によってもたらされる、高揚感と万能感。しかし、反対に不安をあおるかのような〈ささやき〉の内容。神殿に飛び込んできた中毒者。
東区にだけ蔓延する理由。
伯爵が求めるもの。
「わかった、そういうことか、くそったれ」
都市に戻るときが来た。
足がなえていて、走るのに苦労したが、それも最初だけ。徐々に、体は調子を取り戻していく。
気になるのは時間だ。どのくらい猶予があるのか。はやく都市に戻らなければ。
結果として、俺が森でのた打ち回っていたのは、五日間ほどだったということがわかった。いいぞ、収穫祭までは後十日ほどある。十分ではないかもしれないが、短くはない。
まず会いに行ったのは、トビアだ。そして、大工の棟梁。トビアは、俺の姿を見てものすごく驚いていたが、理由を話すと、すぐに協力を約束してくれた。棟梁の方は、一も二もなく仕事を請け負ってくれた。以前、娘さんの病気に効く薬を調合してから、俺に一目置いてくれているらしい。
確認したところ、俺が狙っているものの完成は、七日後の予定だそうだ。収穫祭開始の三日前だ。ちょうどいい頃合だ。
次に、〈ささやき〉について知っていそうなやつのところへ行こう。ただし、向こうは俺のことを知らないはずだ。穏やかに訪問しなくては。
そして、都市に帰還して二日目。この日から、誰にも合わず、ただ体の復調にだけ勤めた。
一つだけ確認したことは、フィリスたちの動向だ。どうやら、シュードスに帰ってきているようだ。
まだ合流するのは早い。俺自身、まともに動けるようにならなければ。それに、情報収集もしなくてはいけない。俺の考えが、正解かどうか、確かめないと。
外套を着て、フードを深くかぶり、森にいる間に生えた髭をそのままにしておくと、誰も俺のことに気付かない。それがだんだんと面白くなってきていた。
町に出ると面白いうわさを聞いた。
「おい、知ってるか。ゴルドヴァ将軍が来るらしい。収穫祭の見物だと」
「ゴルドヴァ将軍と言えば、戦争の英雄じゃないか。すごいな」
将軍が来るのか。こいつは使える。大工たちの助けが得られるのはいいが、もう一押ししたいところだった。将軍にも協力してもらおう。
シュードスに入ってから五日。
体は調子を取り戻している。薬の影響も、ほとんどない。
この日の夜、俺は旧友を訪ねることにした。その男は、この日の昼に、シュードス城に入った。賓客扱いだ。髭もじゃ将軍め。
俺は、暗殺者時代に使っていた、仮面を付け、古い革ベルトと、真っ黒な衣装、そして同じく黒く染めた短剣を二本、腰からぶら下げた。師匠から、一人前になった証として、小鬼族が鍛えた逸品をもらったのだ。それは、戦後数年、全く手入れもしていないにもかかわらず恐るべき切れ味を保持していた。
シュードス城には、千人を超える警護隊員が詰めているが、俺にはそんなこと、関係がない。忍び込もうと思えば、いつでも、どこにでも入れる。
コルドヴァ将軍に割り当てられた寝室を探し出すのに苦労はなかった。もちろん、忍び込むのも、大した問題じゃなかった。
だから、俺は、息を切らせる間もなく、将軍の寝息が聞こえる場所までたどり着くことができた。
将軍の寝室として使われている部屋は大きい。調度品も、寝台も豪華だ。だが、この頑固じいさんときたら、折角、立派な寝台が整えられていても、床に寝ている。硬い石の床の上に寝ているんだ。戦場で身に付いた習性というやつだろう。
問題なのは、どうやって、将軍に俺の話を聞いてもらうかということと、どうやって信じてもらうかということだ。
俺は、戦争中、あることがきっかけで、将軍に悪い印象を持たれている。いや、こちらとしては手助けをしたつもりだったのだが、将軍の受け取り方は違っていた。
「おい、そこの曲者。なぜわしを殺さん」
目が覚めていたか。さすがだな。
「友達は殺さない主義だ」
「なんだと?」
将軍は、上半身を床から起こした。毛布の下に剣を抱いて寝ていたようだ。物騒にもほどがある。
俺は、何も言わず、進入路でもある窓の、カーテンを開いた。今夜は月が明るい。こうすれば、俺の姿も見えるだろう。将軍が、この仮面を覚えていてくれるといいが。
「お、お主は!」
将軍が、俺を指差し、わなわなと震え始める。
どうやら、覚えていてくれたようだ。
「久しぶりですね、将軍」
言った直後、将軍が、飛び上がり、剣で斬りつけてきた。
咄嗟に横へ飛んでよける。
「何すんだ、じいさん!」
小声で叫ぶ。
「黙れ、百鬼。ここで会ったが百年目。今こそ決着を付けてくれる!」
ぎらり、ぎらり、と月明かりを反射して、剣が俺のすぐそばを通過する。年の割りに素早い動きだ。本気で俺を殺そうとしているらしい。油断したらまずい。
椅子が一つと、小型の卓が一つ、俺の代わりに犠牲になったところで、部屋の外から大きな声が聞こえてきた。
「将軍、何事でありますか!」
その声を聞いて、将軍は、ぴたり、と動きを止める。そして、俺から目をそらさず、扉の外に向かって叫んだ。
「なんでもない、戻れ!」
そして、一呼吸、大きく吸って吐くと、備え付けの棚に向かって歩く。棚の中には、蒸留酒の瓶。
「飲むか?」
「いや、結構」
「ふん、で、何の用じゃ」
「あのなぁ、話も聞かないで、斬りつけておいて、それだけか?」
「うるさい、あのときの恨みは忘れんぞ」
将軍は、ぐいぐい、と酒をあおる。
「恨みって、何だよ。助けたじゃないか」
「それが気に食わんのだ。お前の助けなどなくても、切り抜けられたわ」
全く、頑固でどうしようもないじいさんだ。
「とにかく、話を聞いてくれ、将軍」
「早く話せ、気が変わらん内にな」
俺は、今までの出来事を全て話した。無論、手短かにだ。
特に、ユーゲンハート伯爵が、この都市を狙っているという点を、明らかにして話した。
「貴様、何をしておるのか、わかっとるのか。この都市の評議員であり、この国の中でも指折りの有力貴族を告発しておるのだぞ?」
「わかってるよ、そんなこと」
「わしには、とてもそうは見えんがな」
がぶり、と、コルドヴァ将軍は、グラスをあおる。
「証拠はあるのだろうな」
「ないな、まだ」
「おいこら、お前さっきまで自信満々に……」
「だから、今は、だって。きっと見つけるからさ。収穫祭の間、大公爵のそばにいるくらいはなんてことないだろう。この都市は、とりあえず大公爵が要だ、あの男を守ればいいんだからさ」
「まあ、その位であれば、いかようにもなるが。というかだな、大公爵をそんなにぞんざいにだな……」
「じゃ、頼んだぜ」
「待てというに!」
俺は将軍の言葉を最後まで聞かずに、再び窓から外へ飛び出した。
将軍は、根っからの武人だ。都市の危機と聞いては、黙ってはいられないだろう。加えて、歴戦の兵でもある。城内のことは任せておいていい。
さて、じゃあ、帰ってきたことを、他の連中にも伝えるとするか。作戦会議が必要だからな。
まあ、誰も集まらなかったら、ちょっと傷付くが。
翌日の昼間、カイルのいる、シグの小神殿へ向かった。俺が神殿に入ると、カイルが一人で祈りを捧げていた。
「よう、カイル」
「生きていたか、リアン」
「そう簡単には、くたばらないさ」
「ばかもの、くたばってもらっては困る。……」
カイルは、じっと、俺を見つめた後で言った。
「痩せたな。大丈夫なのか?」
「心配はいらねぇよ。それより、他の連中を集めてくれないか。伯爵の企みがわかった気がするんだ」
「いいだろう。待っていろ」
その日の夜には、都市を出て行ったときに見た顔ぶれが、もう一度集まっていた。
俺とカイルのほかに、マーヴ、フィリス、サディアス、マクラム。クレイトン先生とタニア。
それぞれに椅子が用意され、皆が思い思いに座っている。
俺は、特に意味もなく、短剣を抜いて、手の中でくるくると回す。
「それ、どうやったんだ?」
サディアスが言った。
「え、何?」
「今、短剣を抜いただろう。どうやって抜いたんだ」
「ああ。いや、どうやってって、普通に抜いただろう」
「見えなかった……」
妙なことを言う。だが、サディアスは本当に目を丸くしてこちらを見ている。冗談を言っている風ではない。
「ふふふ、サディアス殿、こやつの短剣術は、気にするだけ無駄じゃ。放っておきなされ」
じいさんが、俺のすぐ隣の椅子に座って、こちらの様子をうかがっている。時々、額に手を添えたり、手首から脈を取ったりする。
「じいさん、何度目だよ」
「うるさい、お前は強い薬を連続で服用したのだぞ。しかも、ろくろく飲食物も休息も取らず、体を鍛えておったじゃと、たわけが!」
拳骨が飛んできた。このじいさん、もともと戦場で医者をやっていたせいか、かなり荒っぽいところがある。しかも、拳骨はとんでもなく痛い。
「それで、リアン。何かわかったことがあるんだろう」
カイルが言った。デニスとロッカは、部屋の外に出されている。可哀想な気もしたが、こればかりは仕方がない。
「ああ、その前に、フィリスの調査結果が聞きたい」
フィリスは、それまでずっと伏せていた顔を上げ、言った。
「モロソンの村には、ダリがいた。オルギスの言った通り、かつて、伯爵の下で従者をしていたらしい」
一度、言葉を切るフィリス。その表情が歪む。
サディアスが、後を引き取るようにして話し始める。
「ダリが言うには、オルギスに言われて、身の危険を感じ、カーチャック村を出てモロソンへと移ったんだそうだ。最初は、俺たちがオルギスの知り合いだと言っても、保護しに来たと言っても、全く取り付く島もなかったんだが、隊長が、現アロンソ子爵だとわかった途端、こう、な」
サディアスは、手の平を上に向け、くるり、と返して見せた。
ダリは、頼まれもしないのに、様々なことを話し始めたという。
「まあ、正直、初っ端から驚いたな。あのダリは、ユーゲンハート伯爵の仕業について、かなり多くのことに関わっていた。だが、農民出身だったことと、努めて暗愚に振る舞っていたことが幸いして、今まで生きていられたみたいだ」
サディアスは言った。しかし、彼のみならず、フィリスも、マクラムも、ダリの話の内容には、相当に驚かされたようだ。
それは、俺たちも同じだった。
ユーゲンハート伯爵は、実際のところ、伯爵ですらなかった。
「そりゃ、どういうことだ?」
マーヴが言った。
それに答えたのは、マクラムだ。フィリスの調査行に同道したらしい。
「今から二十年ほど前、前ユーゲンハート伯爵、つまり、ネレイス・ダン・ユーゲンハートは、病床にあった。内臓から来る病だったらしく、記憶が曖昧になってしまったそうだ」
跡取りの、ルキアス・アトレイド・ユーゲンハートは、戦場で一つの部隊を率いていた。後方から支援物資を運ぶ任務に就いていたが、手違いがあって、敵の奇襲攻撃を受けてしまった。
この戦いで、ルキアスは戦死した。
その知らせを携えて、前伯爵の下を訪れたのは、ルキアスの従者で、農村出身の若い男だった。ところが、このことが、思いもよらない事態を引き起こした。なんと、前伯爵が、この従者を、自分の息子であるルキアスだと主張し始めたのだ。
伯爵家の家臣たちは、大騒ぎだ。しかし、跡取りがいなくなっては、伯爵家も行く末がどうなるかわからない。ということは、必然的に、家臣たる自分たちの仕事もどうなるかわからない。そこで、当主に話を会わせることにしたわけだ。
幸いというか、なんというか、ルキアスと従者とは、年齢も背格好も、顔の雰囲気さえも似通っていた。
そもそも、当主に訃報を告げる際に、ごく一部の者しか同席しなかったのをいいことに、跡取りのすり替えが行なわれた。
これが、現在のルキアス・アトレイド・ユーゲンハートが誕生した経緯だというのだ。
「ふぅむ、まあ、無い話ではないが。また思い切ったことをしたもんじゃな」
さすがのクレイトンじいさんも、驚きを隠せないようだ。というか、無い話じゃないのか。貴族というのも、思ったより複雑みたいだな。
「話には続きがある」
マクラムが、静かに言った。
元従者の男が、伯爵の跡取りに納まってから、数年後。前伯爵が息を引き取る。そして、偽ルキアスは、伯爵家の実権を握った。このときから、偽ルキアスは、ある組織とつながりを持つようになったという。
「その組織は〈百人衆〉と言って、戦場では、戦争を裏で操っているという噂まであった、伝説の組織だ。伯爵は、この〈百人衆〉に、自分が偽者と知る者たちを次々に殺させていたそうだ」
偽ルキアスは、自分が、元はただの農民であるという過去を消すために動き出した。
家臣はもとより、自分の故郷さえも、消してしまった。
「ダリが言うには、山奥の、ラオインという村を、多額の費用を払って、戦争の被害に見せかけて消してしまったそうだ」
マクラムの言葉を聞いたとき、思わず、短剣の柄を強く握り締めた。
「その後は、俺たちが、この都市の中で調べたことと、大差なかった。ただ、現在も、伯爵は東区に麻薬をばら撒き続けているらしい。そして、……」
サディアスが、言いよどんだ。
俺の思ったとおりなら、これは、フィリスに関わることだ。
そして、思ったとおり、フィリスが話し始める。
「伯爵は、自分の過去を探ろうと動き出した、私の父と、兄を始末するように、〈百人衆〉に依頼を出したらしい。一度は断られたが、最終的には、あのシリルを紹介されたそうだ」
フィリスは、一度、言葉を切る。そして、俯いていた顔を上げると、続けた。
「この〈百人衆〉が、なぜ、それまで密接に関わっていた伯爵の依頼を断ったのかはわからない。そして、今はどうしているのかも。ダリが言うには、戦時中に、すでに〈百人衆〉を専門に標的にする暗殺者がいたそうだ。私は、そういった業界に詳しくはないが、あまりにも目立つ組織というのは、反感をかって目の仇にされるそうだ」
以前聞いた話によると、フィリスの兄が死亡したのは、今から七年ほど前だ。その頃はちょうど、〈百人衆〉も数を半分以下に減らしていたときだ。俺と師匠が、一番、波に乗っていたころだと言うこともできる。
「その暗殺者の話は、俺も戦場で聞いたことがあるんだ。〈百人衆〉を殺す悪鬼のようなやつ、ということで、〈百鬼〉と呼ばれていた」
サディアスが言った。
そのとき、カイル、マーヴ、そして、クレイトンじいさんの目が、俺の方に向けられたのを感じた。俺は、とりあえず、何も言わなかった。
「しかし、そのダリという者、それだけ知っていて、よく今まで生きてこられたな」
カイルが言う。確かにその通りだ。これだけ知っていれば、いくら暗愚に見せかけていたとは言え、念のために殺すこともあり得るだろう。
これに答えて、サディアスが言った。
「いや、それがさ、このダリってやつ、なかなかのものでね。これらはみんな、ダリ自身が関わっていたことじゃなくて、他の従者から聞いたことも含まれているんだとさ。他の従者たちが殺され始めたんで、精一杯、保身に走って、何とか殺されずに済んだんだとよ。あ、殺されたと言えば、ドゥエイン・トム・ウェルクレスが死んだよ。病死だとさ」
なるほどな。ダリはきっと、必死に逃げ回ったんだろう。人は、いざとなると、驚くようなことをやってのけるからな。もとがただの農民だって、生き残ろうとする力は強いだろう。
ウェルクレスの病死なんて、今更誰が信じる?
ユーゲンハートは、身辺整理を始めたようだな。
「リアン、私たちが調べられたのは、この程度だ。そちらは?」
フィリスが言った。その表情は、暗かった。しかし、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。素直な、頑固者だ。
「ああ、そうだな。まずは、これを見てくれ」
俺は、〈螺旋階段〉の残りを、全て、近くにあった銀製の皿の中に開けた。それを見て、マーヴが目を剥く。
「おいリアン、まだ持ってたのか」
「ああ、これが最後だよ」
そして、鞄の中から、液体の入った小瓶を取り出す。
「こいつは、ベアファル水。ベアファル石という鉱石を砕いて、三日三晩、浸しておいた水だ」
ベアファルには、面白い性質がある。月の光に触れさせておくと、光を蓄えるのだ。
「おお、それ、知ってるぞ。火がなくても光を手に入れられるからって、戦場で重宝したよ」
サディアスが言い、俺は答えた。
「そう、どこにでもある道具だ。使い道は限られているが、特別なものじゃない。ちなみに、飲むとものすごく不味い」
この水が、なぜ光るかというと、月の光に含まれる、微量の魔力を蓄えるからだ。
「魔力?」
フィリスが言った。その目はベアファル水に釘付けだ。
「そう、魔力だ。実は、薬師にとって、この水は、限定的に重要な役割を持っている。霊薬の鑑定に使うんだ」
薬師にとって、霊薬というのは扱いにくいものだ。魔法が使えない身としては、作ることも、ほぼ不可能なほどに難しい。それに加えて、自分の手元にある霊薬が、本物か偽物かを判別することもできないのである。
「なるほど、だからこの水を使うのか」
フィリスが納得したように頷いた。
「そういうことだ。それで、この水を、〈螺旋階段〉にかけるとだな」
言って、俺は、ベアファル水を銀の皿に入れた麻薬に振りかけた。すると、麻薬は水に溶け、形が曖昧になっていく。それに従って、水が仄かに光り始めた。
「あっ」
一同から声が上がる。
「ご覧の通り、〈螺旋階段〉は、霊薬だ」
一瞬、場が静まり返る。
最初に声を上げたのは、クレイトンじいさんだった。
「なんということじゃ、霊薬とは。全く気が付かなかったわい!」
「仕方ないさ、この国じゃ普通、霊薬ってのは、病や傷の治療に使うものだからな。中毒を引き起こす麻薬に使うとは思わない」
俺は、頭を抱えるじいさんに向かって言った。何かの慰めになるわけじゃないが。
「俺は、こいつを使ってみて、やはり幻聴に鍵があると考えた。〈螺旋階段〉を使用したときに聞こえる、幻聴というのが、全く同じ内容なんだ。しかも、ご丁寧に、聞こえる時間まで同じだ」
「なんだって、どういうことだ?」
サディアスが身を乗り出す。
答えたのは、マーヴだった。
「つまり、誰かが、その幻聴を、吹き込んでるってことだ」
俺は肯くと言った。
「そういうこと。で、その証人を見つけてある」
俺はじいさんに目配せをした。
じいさんは、マーヴと連れ立って、地下へと降りて行った。
しばらくして、痩せた小男を連れてきた。よれよれのローブを着た、みすぼらしい中年の男だ。
「一応、紹介しておこう。この男は、魔法使いのマーディンだ」
「よ、よろしく、みなさん」
マーディンは、明らかに寸法が合っていないローブを抱えるようにして、床にへたり込んだ。
それを見たサディアスが、不思議そうに言った。
「こいつが、どうかしたのか?」
俺は答えた。
「ああ、実は、このマーディンと、その従兄が、幻聴が聞こえるようになる薬と、声を遠くまで届かせる道具を作っていたんだ」
「じゃあ、こいつが、麻薬をばら撒いたのか?」
サディアスが、マーディンに掴みかかる。
「ひい」
マーディンは、悲鳴を上げる。サディアスの腕は、寸前で、マーヴに止められた。
「いや、それが、そう単純じゃなくてな」
実のところ、マーディアンと、その従兄が作ったのは、〈乙女のささやき〉という、声を遠くまで届ける魔法道具だった。ただ、この魔法道具よって発せられるのは、誰にでも聞こえる声ではなく、ある霊薬を飲んだものにだけ聞こえるものだった。
「最初は、警護隊員用だと聞いたんです。シュードスの町は広いので、呼子笛だけでは心もとないということでしたので」
マーディンが、もごもごと言う。
依頼したのは、もちろん、ユーゲンハート伯爵だ。伯爵は、警護隊長官の立場を利用して、まずはマーディアンの従兄に依頼を出した。しかし、この従兄というのが、魔法の才能に乏しい男だった。そこで、いくらかまともな魔法が使える、マーディンのところに泣き付いてきたというわけだ。
「なるほどな、その霊薬を飲んだら、司令官からの指示が、耳元で聞こえるというわけだ」
フィリスが言った。
「そ、そそ、その通りです!」
「そこだけ聞くと、便利そうだな」
「む、む、無論ですよ。人の役に立つように作ったのです。で、でも……」
マーディンの従兄は、殺されてしまった。三ヶ月前のことだったらしい。
「ちょうど、〈乙女のささやき〉の最後の調整が終わった頃でした。わ、私は、もう、怖くて怖くて」
伯爵から高額の報酬をもらっていたマーディンの従兄は、更なる上乗せを期待していた。だから、マーディンに手伝ってもらったことは伏せて、全て自分の功績にしてしまったのだ。そのおかげで、この魔法使いは生き残った。
震える魔法使いは、俺を見る。
「リアンさんに見つけていただくまで、自分の家の床下で、がたがた震えていたんです。こちらに匿っていただいても、地下室が一番落ち着くという有様で……」
マーディンは、啜り泣きを始めてしまった。
「リアン、このマーディン殿のことを、どうして知ったんだ?」
フィリスが言った。
「ああ、実は、マーディンのことは、名前と、この町に住んでいるってことしか知らなかった。俺が知っていたのは、この人の兄弟子で、クリステンという魔法使いなんだ」
すると、カイルが驚いたように目を見開いた。
「クリステンだと。では、マーディンは、あの〈雷鳴〉のクリステンと同門なのか」
〈雷鳴〉のクリステンは、戦場で一緒に戦った魔法使いの一人だ。とても優秀で、何度か命を助けられたこともある。
不思議な男で、一目で俺の本業を見破った、ただ一人の人物だ。
「兄弟子は、偉大な方です。その場にいなくとも、私を守ってくださった」
マーディンは、涙を流したまま、天井を見上げながら、懐かしむかのように言った。クリステンが、俺とマーディンとの間を取り持ったかのように感じているのだろう。
「ということは、マーディンは、自分の作った薬が、〈螺旋階段〉に混ぜられているとは知らなかった?」
マクラムが、顎に手を当てながら言った。
「はい、まさか、中毒性のある危険な薬に混ぜられているなんて……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、マーディンは言う。
根は善良な男らしい。
「伯爵は、その魔法道具を使って、麻薬の使用者たちに何を吹き込んでいるんだ?」
フィリスが俺を見る。
「そうだな、まあ、簡単に言えば、暴動を起こせ、ってことだな。収穫祭に合わせて」
「なんだと!」
カイルが立ち上がる。戦争中、他の都市で暴動の有様を目にしている分、反応せざるを得ないのだろう。
マーヴが声を上げる。
「ちょっと待ってくれ。今、〈螺旋階段〉は東区にしか出回っていないんだ、だから、その暴動とやらは、東区で起きることになるよな」
まあ、そうなるだろう。考えてみれば、当然のことだな。
マーヴは続ける。
「いくら薬で攻撃的になった連中が暴れたとしても、現状を考えると数百人程度だ。そんなやつら、下町の警護隊、フィリス殿の小隊が出動すれば、瞬きする間に鎮圧される。何の意味がある?」
これも当然の話だ。マクラムの話が本当なら、伯爵は、麻薬を浸透させる範囲を、意図的に狭めている。暴動が起ころうが、物の数ではない。
普通なら。
「〈円花蜂の飛行〉さ」
俺は言った。これには確信がある。
「それは、なんだ?」
マクラムが言った。
俺は、少し考えをまとめて答えた。
「よくやるだろう、〈ひねくれ者の賭け〉さ。同じ方向を向いてしまったら負け。違う方を向いた者の勝ち。〈円花蜂の飛行〉というのは、あれとよく似ていて、簡単に言えば、相手に右を向かせている間に、自分は左に身を移し、いたずらをする」
フィリスが、身を乗り出してくる。
「陽動作戦か」
「その通り。この〈円花蜂の飛行〉で、俺と師匠、それと仲間たちは、〈百人衆〉を片っ端から殺していった。前線に参加していたのは、兵士だったからじゃない。やつらの情報を得るためだった」
俺が言うと、フィリスが息を飲んだ。
「え、じゃあ、あんたが、〈百鬼〉……?」
サディアスが目を剥いている。それほど驚くことだろうか。
フィリスは、じっと、こちらを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「なぜ、〈百人衆〉を?」
深い青色の目を、下から見上げるように見つめる。
蝋燭の火が、ゆらゆらと、瞳の中で揺れている。
「俺の故郷は、ラオイン村と言ってね」
誰かが、息を飲む音が聞こえた。
「〈百人衆〉が、井戸に毒を放り込んで、さらに暗殺隊を送り込んできたんだ。それで、俺以外は、みんな死んだ」
隣にいたクレイトン先生が、俺の肩に手を置いてきた。
俺は、先生の顔を見る。
「どうやら、親の仇を見逃していたらしいよ、先生」
「そうらしいの、リアン」
見れば、カイルもマーヴも頷いている。この三人は、俺の過去を知っている。
俺は、改めてフィリスの方を見た。
「東区での暴動は、あくまでも陽動なんだ。……、フィリス、暴動の第一報が入ったら、警護隊はどう動く?」
一瞬、呆然としたフィリスだったが、すぐに気を取り直し、少し考えてから答えた。
「全隊が待機状態に入るだろうな」
「それは暴動の規模とか、受け持ちの部署に関係ないよな?」
「そうだな、都市の末端から、中央まで、全ての隊が、万が一に備えて、警戒態勢に入る」
やはり、そういうことか。
「それは、城内も例外じゃないだろう?」
「ああ、それはもちろん。城内が一番の、あっ!」
そう、それが伯爵の狙いだ。
フィリスだけではなく、サディアスも、マクラムも、マーヴさえも、目を見開く。
「まさか、伯爵は、メルファ大公爵を狙っておるのか?」
言葉にして言ったのは、クレイトンじいさんだ。
「ああ、ほぼ確実にな」
ユーゲンハート伯爵は、地位に固執している。何せ、自分は、もともと地位も財産もない農民だ。現在の地位を脅かそうとする者は排除する。のみならず、より確固たる地位を手に入れようと画策している。
現在、貴族の中でも有力な立場にいるやつが、次に狙うとすれば、大都市シュードスの管理者の椅子。その場合、現在の管理者であるメルファ大公爵が邪魔になる。
シュードスの管理者は、爵位で決まっているわけではない。そこに付け込む気だ。
「なんてこった、とんでもねぇ野郎だぜ」
マーヴが、椅子に深く座り、脱力したように背をもたせかける。
「筋は、通っているが、本当にやるか、そんなことを?」
カイルは、疑問があるようだ。
「確かに、まだ不確定な部分が多い。だから、考えられる防衛策を取っておきたい。一応、俺も仕掛けをしてある。が、足りないんだ。だから、マーヴ、先生、カイルにも協力して欲しい」
俺は、続けてフィリスを見た。
「フィリス、伯爵について、疑問があるなら、あんたも力を貸してくれ。白黒付けよう」
フィリスは頷いた。
話し合いは、夜明け間近まで続いた。
収穫祭まで、あと四日ある。
絶対に奴らの企みをくじいてやる。
七
異変は、収穫祭の前夜に起こった。町の中は、前夜祭に沸いている。月が空の中ほどに昇ったとき、第四城壁の付近で、数十人の集団が暴れ始めたのだ。
その集団は、両腕を振り上げ、夜闇を切り裂くような奇声を上げて、走り回り、家屋の壁を殴りつけ、店の陳列棚を蹴り飛ばして回っている。
通行人を殴る者もあれば、松明を片手に、火を放とうとしている者もある。
まさに、暴徒の群れだ。
だが、しかし、実際のところ、暴徒は〈風紋〉の者たちに囲まれており、殴られたのも〈風紋〉の連中だった。放たれた火も、すばやく消し止められている。
だが、騒ぎは騒ぎ。周辺の住民たちは、我先にと逃げ出した。
俺は、これを第三城壁の鐘楼から監視していた。
さて、いよいよ始まったか。おっつけ、伯爵も動くはずだ。俺の予想が当たるにせよ、外れるにせよ、時間の問題だ。
俺は、第一城壁に囲まれた、シュードス城を見る。
そこに入るには、後二つ、城壁を越えることになるが、俺にとっては造作ないことだ。
「じゃ、行きますか」
城へ向かって、城壁の上を移動する。もちろん、警護隊員に見つからないようにしている。
〈螺旋階段〉の効力は、完全に体から抜けているはずだが、妙に体が軽く、感覚も鋭くなっている。
暴動の報を受けたせいだろう、警護隊員たちは、待機状態に入っている。つまり、城壁の上には、監視のための最少人数しかいない。しかも、全員、第四城壁を見ている。
これは移動が楽だ。
俺は、さして苦労もなく、第一城壁にたどり着き、城本体の壁をよじ登った。
先日の将軍への表敬訪問のとき、ユーゲンハート伯爵が使う執務用の部屋を確認しておいた。大きな両側開きの木製扉が据えられた執務室。そして、その隣に、仮眠用として備えられた寝室もあった。
やれやれ、仕事場に寝室付きとは。それに加えて、上町には家があり、自分の領地に帰れば屋敷もある。
本当に、貴族という連中は、何をどう言ったものやら。
俺は、ユーゲンハートが出て行ったことを確認し、窓からやつの部屋に忍び込む。
率直に言って、やつがいたとしても構わないのだが、やはり、今回の騒動の首魁であるという、動かぬ証拠が欲しかった。
部屋に入った瞬間、においに気付く。鉄と油、蝋のにおいだ。
大きな天蓋付きの寝台が、壁際に置かれている。他には、几帳面にそろえられた筆記具が並ぶ机、小型の暖炉。
意外なほど質素な部屋だ。そのまま、中央へと進む。一回りするが、特に怪しいところはない。気になるといえば、机の上の、蓋のない箱に入った筆記具か。
几帳面は良いが、あまりにも整い過ぎている気がする。一度も使ったことがないようにさえ見える。
俺は、筆記具の入った箱を手にとって見た。いや、取ろうとした。しかし、その筆記具の箱は、机にはめ込まれており、持ち上げられない。しかも、上面に出ている筆記具は、全て見せ掛けで、木彫りの装飾だった。
それは、蓋のない箱ではなかった。蓋に筆記具が彫り込まれた箱だったのだ。しかも、その蓋は、組み木細工のように、複雑な方法で、箱に固定されている。
なんとまあ、面倒なことをしたもんだ。しかし、これで秘密の在り処はわかった。
俺は、箱の全体を、くまなく指で撫で回した。力を込めたり、押したり引いたり捻ったりを繰り返して、開ける方法を探る。こうした組み木細工の箱は、以前にたくさん使った。だから、この箱も、さして苦労することなく開くことができた。
中には、細い剣の柄のようなものが入っていた。両端に宝石が取り付けられている。月明かりに照らさせて、よく見ると、表面に細かく文字が刻印されている。
これは、魔法文字だ。意味はわからないが、この道具は、魔法の品であることに間違いない。念のため、ベアファル水を振り掛けてみる。光った。
これが、マーディンの言っていた〈乙女のささやき〉か。聞いていた形と一致する。
と、そこで眩い光が向けられる。
ランタンだ。証明部分に銅板を貼って、明かりの方向を絞ったもの。ざっと数えただけで、六つある。
その背後に見える、伯爵の部下の数にいたっては、数える気にもならない。
「ようこそ、我が家へ、百鬼君。いや、リアン・ベイル君と呼んだ方がいいかな」
薄闇の中に見える、ユーゲンハートの顔には余裕がある。
「おっと」
俺は、つぶやき、肩をすくめて見せる。本当の名前を知られていたのは、少しだけ意外だった。
なかなかやるな。
「ふむ、あまり驚いてはいないようだね。やはり、我々の存在に気が付いていたのかな。君ほどの実力者ならば、そういうこともあるか」
ユーゲンハートの表情は、細部まではわからないが、大きく頷いているところを見ると、割と真剣に感心しているらしい。
確かに、部屋に入った瞬間、ランタンのにおいで、囲まれていることはわかった。だが、ここまで多勢とは思わなかった。
本当に隙間なく取り囲まれている。人手の無駄遣いじゃないのか。それに、例のくちなしのようなにおいもしている。シリルがどこかにいるようだ。
俺は、あえてゆっくりと周囲を見渡し、伯爵にむけて言った。
「なるほど、出て行ったのは影武者か何かだな。あんたは、……そうか、隣の部屋か。そこの壁が隠し扉になっているわけだ」
すると、ユーゲンハートは、両手を打ち合わせて、笑った。
「さすがの観察眼だな。その目があれば、わかるだろう。この人数が相手では、何をしても無駄だと」
ユーゲンハートは、俺に対して、武器を捨てるように、身振りで示す。
おかしいな。俺を殺そうとしないとは。この後にも、何か企みがあるというわけか。
俺は、新しく購入したばかりの短剣を捨てる。今回は一本しか持ってこなかった。いつもの革ベルトは別の所にあるのだ。
その直後、背後に、人の気配。
シリルだ。
「伯爵、本当に連れて行くのですか?」
「ああ、折角だ、彼にも見せてやろう。最高の舞台をな」
やれやれ、何をするつもりか知らんが、俺を巻き込まないでくれ。
そう言おうと思ったが、すぐに顔に革袋をかぶせられてしまう。
「なんだよ、古典的なやつらだな、むが」
この袋が、案外に顔にへばりつき、上手く話せない。それどころか口の向きを調整しないと、呼吸すら危うい。
よくできた袋だ。
「うるさいよ、さっさと歩きな」
シリルが、俺の腕を締め上げる。かすかな痛みにうめいていると、驚くほどの素早さで、手首が縛られていた。
そのまま、馬車に放り込まれる。
城から出て、城壁の回廊に着くまでの間、壁という壁に叩きつけられたのには閉口したが、それ以外の扱いは悪くなかった。
それがまた、不気味さを誘った。反面、楽しみでもある。
何しろ、こいつらは俺の獲物なのだ。
どんなことを企んでいたとしても、最後には、俺が狩ってやる。
「行け」
最後尾から馬車に乗り込んだ伯爵が、短く命令した。
部下の大半は置いていくようだ。どうやら、彼らは警護隊の面々らしい。伯爵が本当に信用しているのは一部だけなのだろう。
だから、少数しか連れて行かないのだ。
走り出した馬車は、がらがらと石畳を踏み付け、しばらく走った。城壁の回廊は広い。馬車の一台くらいは余裕を持って走ることができる。
いくつもの角を曲がり、長い直線を走った。最後に、緩やかに湾曲した長い登り坂を通り抜け、唐突に止まる。
「降りろ」
シリルに放り出され、回廊の石畳に肩から落ちる。受身を取ったので、痛みは無い。
相変わらず、とんでもない力を持った女だ。どうでもいいが、「降りろ」と命令しておいて、降りる機会を与えないとはどういう了見だ。
「ユーゲンハート伯爵、その者は何だ?」
「途上で捕縛した、敵の間者です。ご心配なく、ここで拘束しておきます」
聞こえてきたのは、今まで聞いたことのない声だ。
「さ、メルファ公爵、馬車にお乗りください」
「わかった」
やれやれ、伯爵が合流したのは、シュードスの管理者、メルファ公爵だった。
思った通りか。
伯爵め、何かの仕掛けを施して、大公爵をおびき出したな。
「むごむご」
声を出そうとしたが、袋が口に張り付いて、言葉にならなかった。
「黙れ」
シリルに蹴られ、地面に倒れた。
くそ、足の力も強いな。こいつが女だということに自信が持てなくなってきた。
「伯爵、その男は本当に拘束してあるのでしょうな」
こちらの声は覚えがある。コルドヴァ将軍だ。
「無論だとも、将軍。完全に無力だよ」
伯爵は、自信満々に言った。
よく言うものだ。
俺は、腕をこすり合わせるようにして動かした。少し、縄に隙間ができている。上手く行きそうだ。
「さ、馬車を出せ。メルファ公爵を都市外へお連れしろ!」
伯爵の命令一下、馬車が駆け出す。
周囲からは、一気に人気がなくなった。
もともと、ここまで随行してきていた部下は少ない。
「ふふふ」
機嫌がよさそうな笑い声が耳に響く。
「シリル、袋を取ってやれ」
ユーゲンハートの命令を受けて、シリルが、俺を立たせた。そして、乱暴に、頭から皮袋を剥ぎ取った。
一気に、呼吸が楽になる。
俺は周囲を素早く見渡した。
やはり、ここは第一城壁の上だ。目の前には、第二城壁へとつながる石橋。
数歩も歩けば、すぐに城壁の際まで行ってしまうような場所だった。
馬車の進みは遅い。音を立てないようにするためだろうか。ゆっくりと石橋に近付いて行く。
「用意」
片手を挙げるユーゲンハート。
それを見た部下が二人、大きな木槌を持って、石畳で覆われた道端の、石碑のようなものの前に立つ
それは、一見して何なのかわからない。人の腰ほどの高さ。そして、大人の腿程度の太さだ。断面は真四角。通行の邪魔にならないように配慮したのか、道と石壁の再開目のような場所に立っている。
馬車が橋を渡り始めた。
伯爵はまだ動かない。
馬車は橋の中ほどに差し掛かった。
「やれ!」
ユーゲンハート伯爵は、鋭く言い放ち、手を振り下ろした。それを見た部下が、木槌を振り上げ、一気に四角い石の柱を叩き折った。
直後、足元から響く振動。見れば、石橋の下部から水が噴出している。
とてつもない勢いだ。
「まさか!」
俺は思わず口に出して叫んだ。
「はははは、そうとも、この橋は、汲み上げた水の力で壊すことができるように造られているのだぁ!」
橋が揺れる。下部から噴出す水は、いよいよと勢いを増していく。
巨大な石橋の、一番下の層が崩れた。
「さらば、メルファ大公爵!」
ユーゲンハートの歓喜の声が、夜の静寂を引き裂いて、辺りに響く。
が、それだけだった。
やがて、振動は止まり、馬車はまだ橋の上を通っている。
「あ、え、なに?」
ユーゲンハートの口から、気が抜けたような声が漏れた。
「ばかな!」
シリルも、驚きを隠せないようで、身を乗り出して、橋を見つめる。誰もが唖然としていた。
「くっくっく」
堪えきれなくなり、笑いが漏れた。当然、俺の口からだ。
「はっはっは、ばかな、って。そりゃないだろう。はっはっは。安い歌劇みたいだぞ」
あまりに可笑しいので、体を折り曲げてしまう。
いかん、笑いが止まらない。
「な、何が可笑しい。何が可笑しい!」
激高して、伯爵が俺の胸倉をつかんだ。そして、俺が顔に付けていた仮面を剥ぎ取って、投げ捨てた。その腕は震え、顔は、月の光の下で、青黒く変色して見えた。
「伯爵、そこまでにしたまえ」
橋の方から、声が響く。
その場にいた全員が、弾かれたように、声のした方向を見る。もちろんのこと、俺は見ない。見なくてもわかるからだ。
漆黒の影の中から、ぬぅっ、と姿を現したのは、コルドヴァ将軍。
「しょ、将軍……」
「やれやれ、貴殿の、このような姿を見るまでは、そこの小僧を疑っておったがな。かくなる上は、致し方がない。信じてやろう」
俺は、呆然とする伯爵の隙を付いて、身を離す。すぐさま額に巻いた鉢金から、布の仮面を下げ降ろして、顔を覆う。将軍に俺の正体がばれたら、後で殺されかねないからな。
「く、将軍、馬車に乗ったはずでは……」
伯爵は、平静を装って言った。明らかに苦し紛れだ。
目の前に将軍がいる以上、馬車が橋を渡る直前に飛び降りたことくらい、見当が付きそうだが。
それとも、目の前の将軍が、偽者であることに希望をかけたのだろうか。
しかし、無理がある。こんな特徴的な人は、将軍以外にいやしない。
「残念だが、ユーゲンハート伯爵。私は、橋に差し掛かった瞬間に飛び降りた。老骨とは言え、そのくらいはできるぞ。大公爵を馬車に残してきたのは、心苦しかったが。なあに、そこの小僧が橋は落ちないと言ったのが嘘で、石橋が落ちでもしたら、地の果てまで追って行って、くびり殺してやろうと思っておったがな」
やれやれ、疑い深いじいさんだ。
俺は、かすかに手を振り、将軍に合図を送った。
「おお、そうだ、忘れていた。ほれっ!」
将軍は、無造作に、革ベルトを放った。事前に渡していたものだ。
俺は、即座に駆け出し、こちらに背中を向けている伯爵に向かって飛んだ。
「ぬおっ!」
以外にも、素早い動きで身構えた伯爵だが、一歩だけ遅い。
俺は、貴族にしては壮健そうな肩を踏み台にして、更に高く飛び上がる。空中でベルトを掴むと、口で短剣を一本だけ引き抜き、着地する直前に、手を拘束している縄の固まっているところへと突き刺した。
ざくり、という感覚があって、縄の大半が切れた。後は、手首を返して短剣の柄を握り、そのまま振り切って、全ての縄を解いた。
「ありがとう、将軍」
すぐ目の前に将軍がいる。こちらをにらみつけている。
「これで、あのときの借りは無しだぞ」
「最初から貸したなんて思ってない」
「けじめの問題だ、けじめの」
「そう、ですか」
細かい人だ。まあ、そういう一本気なところが気に入っているのだが。
そうこうするうちに、伯爵は後ろへと下がり、代わりに、シリルが前へ出ていた。伯爵の部下は、二人とも、伯爵の両脇を固めるように身構えている。
「逃げようとしているなら、無駄だと思うぜ」
俺の言葉に、伯爵の歩みが止まる。
はったりではない。周囲は、味方で囲まれていた。
マーヴがいる。
カイルが、クレイトンじいさんがいる。そして、橋の細工を壊してくれた大工の棟梁と、トビア。後ろの方には、なぜかメリルとラナ。そして、タニアの姿もある。
他にも、何人か、陰に潜んでいるはずだ。
「あんたはもう、終わりさ」
俺は、短剣を二本とも引き抜き、構えた。それを見て、伯爵は、唇をわななかせたが、すぐに表情を引き締めた。
「終わりなのはどちらかな。ここにいるのは、どうせ庶民ばかり。私の力には何の影響もない」
「私を忘れてはおらんかな、伯爵」
「もちろん、忘れてなどおりませんよ、将軍。だがしかし、あなたには可愛らしいお孫さんがいたはずだ。健やかにお過ごしでしょうなぁ、今はまだ?」
「貴様、このわしを脅迫するのか!」
「さあて、どうですかな。はっはっは」
勝手ないい合いを始める二人。
「おい、おい、ちょっと待ってくれよ。伯爵、あんた何か勘違いしているんじゃあないか?」
一同が、怪訝そうな顔で俺を見る。
「俺が、もう終わりだと言ったのは、あんたの権勢がどうとか、そういう話じゃない。あんたがどうしようが関係ないんだ。例えば、俺たちを金や権力で押さえ込もうとしても、将軍の孫を人質にとっても、何をしても変わらない」
将軍が、「おい、こら」とか何とか言っているが、無視した。
「俺はあんたを殺すんだよ、何があろうとな」
俺が言った直後、夜気を切り裂くような、澄んだ声が通った。
「それは、させん」
シュードス都市警護隊第八小隊長フィリスだ。サディアスとマクラムが付き従っている。
「フィリス……」
背後からの声に振り返った、伯爵の体に、大きく震えが走るのが見えた。一口には言えない、複雑な感情のにおいがする。
伯爵は戸惑っているようだ。
「伯爵、ご無事で何よりです」
フィリスは冷静だった。ゆっくりと歩いて、伯爵に近付く。
「おお、フィリス・モア・アロンソ。いいところに来てくれた。手勢は連れておろうな」
「はい、伯爵。精鋭を揃えております」
「それはいい。すぐに、この無法者どもを退治して見せよ」
「仰せのままに」
フィリスは、ユーゲンハートに一礼すると、腰に提げた長剣に手を伸ばした。
警護隊に支給されるという、標準的な剣だ。フィリスの腕が、夜闇の中で動いた。月光が、遅れて閃く。
音もなく、二人の男が崩れ落ちた。伯爵の部下たちだ。
剣は抜かれていない。金属製の鞘に収めたまま、男二人を殴り倒したらしい。
「な、何をしている!」
ユーゲンハートは、後ずさった。しかし、その手は意外なほどの早さで、自らの腰の剣を引き抜いていた。
「無法者どもを退治しました、長官」
「なんだと!」
「さあ、あなたにも裁きを受けていただきます」
フィリスは、剣を、警護隊の長官に向けた。自分の信じた、組織の司令官に、牙を剥いたのだ。
「待てよ、そいつは俺が殺す」
俺は声を上げた。ここは譲れない。
「駄目だ!」
フィリスは、叫んだ。涙が月を受けて、煌いている。
「私も、あなたと思いは同じだ、百鬼。この方は親の仇だ。だが、公平さは譲れない。私の、いや、シュードス警護隊の誇りなのだ!」
フィリスは、ユーゲンハートから目を離し、こちらを見ている。伯爵は動けない。サディアスとマクラムが牽制しているからだ。
確かに、フィリスの父親と兄を殺したのは伯爵だ。直接、手を下したのではないにせよ、命令を出したのは、この男だ。
ラオイン村の件もそうだった。だから、あの娘は、俺の気持ちを多少は理解できる、と言いたいのだろう。
「違うね、そいつは親の仇じゃない」
だが、俺はそのことを怒っているわけじゃない。
それだけじゃないんだ。
「ラオイン村を全滅させただけじゃない。この都市の、この王国の、全ての人たちを貶した。俺の大切な人たち全てを、足元の塵のように扱いやがった。許せん」
フィリスは目を見開く。そして、俯いて言う。
「それでも、私は……」
全く、仕方のない頑固者だ。世話が焼ける。
「じゃあ、こうしよう。俺は今から、そいつを殺しに行く。だから、お前は縄をかけろ。俺が殺すのが早いか、お前が縄をかけるのが早いか、競争だ」
一瞬の間。
「いいだろう、勝つのは私だ」
再び、フィリスの瞳に鋭い輝きが戻る。
直後、かちん、と金属同士がぶつかる音がした。シリルが、両手の短剣を打って、鳴らしたのだ。
「話はまとまったか」
シリルが、退屈そうに言った。
「ああ、すまん、待たせたな」
「ふん、寝そうになった」
にやり、と笑う女。
「ここからは、楽しませてもらうよ!」
その手から、光が放たれる。
いや、それは剣が反射した月光が、こちらの目を直撃したものだった。
「ふっ」
俺は、短く息を吐き、体を沈めて剣を振る。金気が流れ、シリルの短剣を弾く。今更、目くらまし程度で慌てることもない。
シリルの顔には、面白そうな笑み。
やれやれ。
「お前は面白い。あの男、〈毒蜂〉より面白いぞ!」
「そいつは光栄だね」
俺の方は、特に面白くはない。
シリルの体から立ち上る、くちなしのようなにおい。あの時、師匠の亡骸のそばにあった、血溜まりから立ち上っていたものと同じにおいだ。
やはり、こいつが師匠を殺したのか。
背中がぞくぞくした。面白くはないが、嬉しくはある。
お前を殺す方法は、もう決まっているんだ。
シリルの動きは素早い。見える範囲も広い。
こちらが、どれだけ体を左右に振って、隙を誘っても、それに釣られるようなことはない。攻め込めば、きっちりと剣を合わせてくる。
攻撃も防御も、一枚上手だ。懐に飛び込んだが、ひらりとかわされ、体の位置が入れ替わる。
と、同じ拍子で、フィリスの方も、ユーゲンハートと立ち位置が入れ替わっていた。女騎士は、肩で息をしながら、剣を正面に構えている。
「なんだ、苦戦してるな」
小声で言った。
すると、フィリスは、目だけでこちらを見て返してきた。
「そっちこそ。私はまだ余裕があるんだ」
「言ってくれるね」
「ふん」
ほぼ同時に、地面を蹴り、互いの相手に向かって駆け出した。
横目に、フィリスの戦い振りを見る。どうやら女騎士は、本当に伯爵を捕縛する気のようで、部下二人を斬り倒したときのような鋭さが見られない。
対する伯爵は、思いのほか腰が入った剣を振るっている。しかし、それは、貴族の道楽と呼ぶべき程度のもので、フィリスには一段劣っているようだ。
だが、肝心のフィリスに殺気がないため、今一つ決定的な一撃が生まれない。
今はまだ、伯爵にも余裕がなく、必死の体で剣を振るっているからいいが、早く決着をつけないと、フィリスに殺す気がないことを見抜かれてしまうだろう。そうなれば、根が素直なフィリスのことだ、捕縛しようとしているところを逆手に取られて、逆襲されかねない。
発破をかけるしかなさそうだ。
俺は、両足に力を溜め、反対に両腕からは力を抜いた。
「うん?」
だらり、と短剣を持つ手を垂れ下げさせた俺を見て、シリルが怪訝そうな表情を浮かべる。
気息を整え、女暗殺者をにらみつける。
こうしていて、一つ気が付いたことがある。オルギスが殺された夜、シリルから感じていた、威圧感が薄れている。女の体が、小さく見え、動きも、幾分か遅くなったように感じた。
やつは体調不良なのだろうか。一瞬、疑問に思った。
いや、違うな。あの夜と違うのは俺の方だ。
「くっくっく」
それに気が付いたら、笑えて来た。俺はびびっていたんだ。この女に。だが、こいつを獲物と考えるようになって、力みが消えたらしい。
そうだ、この女は、殺すべき獲物だ。
一足にシリルに肉薄する。
「ははは、無駄だよ!」
シリルの目は、完全に俺の動きを捉えている。短剣を、左右交互に繰り出し、虚実織り交ぜて攻めるが、一向にシリルの防御を打ち破れない。それどころか、逆に攻められ始める始末。
やれやれ、強い。確かに、この女は強い。俺の師匠は、この女に勝てなかったのだ。 シリルが何か卑怯な手を使ったわけではなく、純粋に、剣と剣の勝負で負けたのかもしれない。
しまった。
馬鹿正直に短剣で勝負を挑まず、昔のように毒を使えばよかった。 だが、まあ、仕方ない。
あの方法で殺すと決めたのだから。
「そらそら、どうした。もっと楽しませておくれ!」
嬉しそうに戦う女だ。何か理由があるのかもしれない。戦いに取り憑かれた理由が。
しかし、それはどうでもいい。
そろそろかな。
俺は、右腕を大きくたゆませて、左の剣で連続攻撃を仕掛けた。右肩から、肘にかけて、十分な力が満ちていくのを感じる。
反対に、左の肩や肘、手から、力が抜けていく。限界に近い速度で振っているからだ。要は、疲れてきたわけだ。
そして、ここぞという機会を手に入れた。
「はぁ!」
気合いとともに、右腕の突きを放つ。それまで逆手に持っていた短剣を、瞬間的に順手に変え、横殴りに振った左手の後ろに隠すようにして放った、必殺の一手。
「くっ!」
右の一撃は予想していたことだろう。しかし、さすがに早さは予想外だったのか、シリルの顔に焦りの表情が浮かぶ。
甲高い音が響く。
「ふふふ、無駄、無駄」
俺の突きは、完全に、シリルの湾曲剣によって防がれた。
そのまま、右の腕に斬り付けられ、短剣が、大きく右側に弾き飛ばされる。右腕に着けていた篭手が、鋭い湾曲剣によって裂かれ、足元に落ちた。革が厚く重ねられた特別製でなければ、腕が斬り落とされていただろう。
「はっはぁ!」
シリルは、嬉しそうに、飛んでいく短剣を見ている。
さて、仕事だ。
俺は、体全体を落とすようにして、シリルの左側に回りこむ。両足に溜めていた力を解放し、飛び上がると同時に、左手から右手へと、残った短剣を移す。
剣を持った腕を大きく振り上げると、その高さは、シリルの身長を超えた。そのまま、体が落ちる速度を利用して、女暗殺者の頭頂部目掛けて、切先を叩き落した。
ほとんど手応えもなく、シリルの頭に、俺の短剣が、ほぼ垂直に突き刺さった。
「これが〈円花蜂の飛行〉さ」
俺は、唾を足元に吐き捨てると、硬直しているシリルの襟首を掴み、そのまま引き倒した。当然、何の抵抗もなく、女暗殺者は崩れ落ちる。目を見開いたまま、顔に笑みを貼り付けて死んでいた。
さすがに疲れた。
フィリスの方はどうなったかな。
目を転じると、女騎士と伯爵は、互いに剣を構えながら向かい合っていた。
ちょうど、フィリスの背後には城壁の狭間が並んでいて、その間から遠くに町の明かりが見えている。
伯爵は長身だ。フィリスよりも、頭二つ分ほど高い。その体格を利用して、力技に出ようとしている。剣を両手で持ち、頭の上に振り上げた〈大鷲の構え〉だ。
対するフィリスは、剣を後ろに引いて、切先を下げた、脇構え。これは、相手の剣に自らの身をさらして、攻撃を誘う、待ちの構えだ。
傍から見ていると、フィリスの構えは危なっかしく見えるが、そもそもが捕縛を目的としているのだ、相手が攻め込んでくるのを待つのも道理だろう。
二人とも、肩で息をしている。
おそらく、そう長くは戦っていられないだろう。
次の一合に、勝負かけるはず。
動いたのは伯爵からだ。
「きえぇぇぇぇい!」
疲れがあるのだろう、自らを奮い立たせるかのような、腹の底からの気合い。
全く予想外に、かなり鋭い踏み込みだ。斬り下ろす剣も早い。
フィリスは、対照的に、静かに動いた。
すっ、と剣を小さく振り、伯爵が力任せに下ろしてきた左腕を捉える。
剣を、ひたり、と寄せると、そのまま、押し斬りにした。
「ぐわっ」
伯爵の腕は、フィリスの剣に押されたことと、自らが力を込めていたことが相乗効果となり、大きく外側へ逸らされた。
腕に付いていく形で、伯爵自身も、盛大に体勢を崩す。
「やあ!」
そこへ、裂帛の気合いとともに、フィリスの胴薙ぎが決まった。
「うっ」
伯爵の脇腹から、鮮血が飛ぶ。しかし、飛んだ血は少量で、傷が浅いことを物語っている。
なるほど、生かしたまま、戦闘力を削いだか。頑固な女騎士だ。
「見事だ」
俺の隣に立った将軍が、小声で言った。俺も同じ気持ちだった。
伯爵は、脇腹を押さえながら、うめいた
「うぐぐ……」
フィリスと体の位置が入れ替わっていたユーゲンハートは、そのまま、城壁の狭間にもたれかかる。
「さあ、長官、ここまでです。傷の手当をしてから、裁判を」
そこまで言ったとき、ふいに、城壁が崩れた。伯爵が寄りかかった、狭間部分だけが、がらり、と音を立てて、落下した。
むろん、ユーゲンハート伯爵と一緒に、だ。
「あっ」
誰かが声を上げた。しかし、誰の手も間に合うことはなかった。
「わああああああああ!」
伯爵の声が、夜闇の中にこだました。その場にいた者たち、全員が一瞬、呆然と立ち尽くしてしまった。
俺もそうだ。
だが、すぐさま、とある考えが、頭に浮かんだ。
「都市が、やつを許さなかったのかもな」
できなかっただけかもしれないが、俺の言葉に誰も反論しなかった。
八
「本当に行くのか、リアン」
そう聞いてきたマーヴに、俺は答えた。
「ああ、そのつもりだ」
俺は、荷を満載した馬車の御者台に飛び乗って、手綱を握った。
「リアン、俺は助かるが、無理しなくていいんだぞ。お前、この町が気に入ったって、言ってたじゃないか」
そう言ったのは、トルーダだ。
俺は、あの騒動が一段落したので、トルーダの商売に手を貸すことにしたのだ。
伯爵が死んだ、その後。将軍の口添えもあって、俺もフィリスやサディアスたちも、全員が何の咎めも受けず、むしろ、メルファ大公爵から感謝状と報奨金をもらうことになった。
金はどうでもよかったが、マクラムの裏切りが不問になり、フィリスの父と兄の名誉が回復されたことは嬉しかった。
俺は、今回の事件で、自分自身を振り返ることになった。
森で鍛錬をしていながら、結局は、現状に慣れ、シリルや伯爵に対して恐怖心を抱いてしまった。
以前にできていたことが、現在はできなくなっている、というのは屈辱だ。
暗殺はやめるつもりだ。しかし、技術の低下は許せない。だから、気を研ぐ意味もかねて、緊張感のある生活をしようと思った。
手っ取り早く、生活の中に緊張を取り入れるのは、旅が一番だ。
短絡的だと言われようが、何だろうが、構わん。とにかく、俺は旅に出る。
「トルーダ、助かるって言うなら、手伝わせてくれ。荷物は不足なく、目的地に届ける自信があるぞ」
「いや、そりゃ、お前が持って行ってくれるなら、安心だが……」
トルーダは苦笑している。
「安心なら、それでいいじゃないか。なに、ちゃんと戻ってくるよ。この馬車はお前のものだしな」
見れば、マーヴは、やれやれ、と言いたげな表情をしている。
俺は、友と離れるのに、寂しさを感じている。トルーダの言う通り、俺はこの町が気に入っているのだ。だから、時々は帰って来よう。
酒を飲みに。そして、町の人たちに会いに。
「リアン!」
声が聞こえ、その方向を見ると、メリルとトビアが走ってきた。
「よかった、まだ出発してなかった」
トビアが笑った。姉と弟、二人の手には大きな包みがあった。いいにおいがしている。何かの料理のようだ。
「急いで作ったのよ。道中で食べて」
メリルが、様々な食べ物の入った袋を渡してくれる。
「ありがとう、メリル」
その後に、クレイトンじいさんとタニア、カイルまでやってきた。
「全く、輸送隊の次は行商人か」
可笑しそうに声を上げるじいさん。
「お気をつけて」
手を振ってくれるタニア。
「神の加護があるように」
祈りを捧げてくれるカイル。
皆、この町の仲間だ。
俺の行ないが、この町の役に立ったかどうかはわからない。失ったものも、少なくはない。だが、手に入れたものも、確かにある。
俺は、馬の手綱を引き、馬車を操った。悪所から、都市の外に出るための道を、ゆっくり進んで行く。〈金葉館〉の前を通ると、ラナやジャニスが手を振ってくる。ここでの生活に、押し潰されないように、きっと、協力して生きていくことだろう。
街道に出ると、三頭の馬が、人を乗せ、並んでいるのが見えた。
「行くのか、リアン」
にこやかに言うフィリス。そして、その部下が二人。もちろん、サディアスとマクラムだ。
「ああ、ちょっと行ってくる」
サディアスが言った。
「帰って来るんだろう?」
「おう、いくつか、町を回ったらな」
マクラムが、微笑みかけてくる。
「いずれ、薬の礼をしなければな」
マクラム自身に使った毒消しの話ではない。彼の息子の病のためにと渡した、霊薬の件だ。
「気にしなくていいぞ、あれは、俺じゃ作れないものだ。さっさと使っちまうのがいいのさ」
フィリスは、会わなかった数日の間に、どこか変わったように見える。何か、晴れ晴れとした様子だ。
「そういえば、フィリス、領地を自分で経営することにしたんだって?」
「ああ、まあ、何事も経験だからな。大きくはないが、領民がいると思うと、決して小さくはない。何とかやってみるつもりだ」
表情は穏やかだが、やはり、その瞳からは強い光を感じる。俺にはないものだ。
人を眩しいと思ったのは、これが初めてかもしれない。
「いつか、私の領地にも来てくれ。行商人としてでもいいし、友人としてでもいい」
「ああ、必ず行くよ」
三人と別れ、街道を進む。
背後を振り返ると、大きな城塞都市が見える。
俺の故郷は無くなってしまったと思っていた。だから、いつどこへ行っても、気にすることはないと考えていた。だが、実際に去って行こうとする今、あの町を振り返らずにはいられない。
俺を受け入れてくれた都市。
友が暮らす町。
新たなる故郷。
いつか、帰る場所。
『城塞都市シュードス』 終
完結しました。
一人称では、心情描写や分析の描写に力が入れやすい一方、独白と物語のバランスが難しいように感じました。
主人公に冷静な男を持って来ましたが、それを生かし切れたかどうか、手探り状態です。
ご意見等、よろしくお願いします。