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城塞都市シュードス  作者: 若高亭・蒼親
2/3

城塞都市シュードス・第2回(全3回)

 第1回からの続きです。

     三


 そのとき、店の扉を突き飛ばすようにして、駆け込んできた男がいた。

 〈早駆け〉ドニーだ。

 一瞬、店の中をにらみつけ、俺と目が合うと、そのまま、転げるようにして、駆け寄ってきた。

「た、大変です、リアンさん!」

 俺のそばまで来たところで、何かにつまづき、卓の上に倒れかける。そこをマクラムに支えられた。

「す、すまねぇ、旦那」

「気にするな、危ないぞ、ちゃんと立ったほうがいい」

 マクラムは、細身の若者を軽々と持ち上げて立たせる。その様子を、周囲の者たちが奇異の目で見ていたが、ドニーが〈風紋〉の一員だと気付くと、一様に目を背けた。

 忌避されているというのとは、少し違う。ここに住む者たちはみな、自分から関わらなければ〈風紋〉が関わってくることもないと知っているのだ。

 ドニーは姿勢を正すと、改めて俺の方を向く。

 そして、幾分か落とした声で言った。

「またやられました、今度は東区の奥です」

「なんだと、いつだ」

「それはよくわからないんですが、場所が路地の入り組んだところで。近所のやつが見つけて、どうしたら良いかわからなかったもんで、近くの神殿に死人を運び込んだそうです」

 東区も、通りに面している場所では普通の生活が送られているが、奥へ入ると様子が変わる。病人や乞食、その他のよくわからないものが行き着く場所になるのだ。

 一年ほど前、この東区の奥を端緒にして麻薬が流行ったことがあった。俺やクレイトン先生、マーヴが駆けずり回って、大流行だけは回避したが、結局、麻薬自体は今でも流通している。

「行こう!」

フィリスが椅子を蹴るようにして立ち上がる。

 言われるまでもなく、俺を含めた全員が頷き、店を出た。

「死人が運び込まれたっていう神殿ってのは?」

 俺は先導するドニーに聞いた。

「シグ神殿です。あの、ごつい司祭がいる」

「あそこか」

 聞いてから思ったが、選択肢はなかった。

 シュードスの町には、五つの神殿があり、三柱の異なる神を祭っている。

 戦の女神シグの神殿が二つ、天空の神テル・ルーの神殿が一つ、そして大地の女神グランファールの神殿が二つだ。

 この中で、下町に神殿を構えるのは、シグとグランファールだった。

 しかし、グランファール神殿は、下町と中町の境界に立っているので、ここから死人を運び込むには遠すぎる。

 となれば、シグの小神殿しかない。

 シグの神殿は、中町と上町の境界に規模の大きいものが一つ、そして下町に規模の小さいものが一つある。

 地元の人々は、これを大神殿と小神殿として呼び分けていた。

 東区から、この小神殿へ行く道はいくつかある。しかし、ほとんど抜け道と呼ぶべきもので、人一人がやっと通れるほどの間隔しかない。

 〈銀砂亭〉から小神殿に向かう途中、何人かの乞食に出くわした。

乞食がいるのはいつものことだ。彼らも商売だからな。

「うわ、なんだよ」

 サディアスが叫んだ。乞食の、投げ出された足につまずきそうになったのだ。

「お恵みを、旦那」

 哀れそうな声を出す乞食。

「今、忙しいんだ、今度な!」

 俺は、叫びつつ、乞食の差し出した手に向かって、硬貨を放る。

「あんた、大物になるよ!」

 背後から投げかけられたのは、彼らの常套句だ。笑ってしまった。

 そうこうする内、小神殿が見えてきた。

 石造りの建物が、夕闇迫るシュードスの町から競り上がってくるように見えた。

 正面の大きな木製扉の前に、背が高く、肩幅の広い男が立っていた。短く刈り込んだ金髪が、夕日を受けて朱色にきらめいている。

「司祭さん!」

 ドニーが、一足先に男に駆け寄り、声をかけた。

「ドニー、そろそろ来るころだと思った」

 低めの、やや硬い声が耳に届く。

 司祭の顔には、柔らかさがあったが、事が事なだけに、引き締まった表情をしている。

 しばらく会わなかったが、雰囲気が全く変わっていない。草を燻したようなにおいも、変わらずだ。

 シグの神官はすべからく干草の寝台で眠ると聞くが、そのせいだろうか。いや、この男は神官になる前からこんなにおいだった。

「リアン、久しぶりだな」

「ああ、カイル。元気そうで良かった」

 互いに手を握り合う。相変わらず強い力だ。この腕で、嵐のように長剣を振るっていた姿が、今でも思い出される。

「こっちの三人は、執政官が派遣した調査員だ」

 俺は、三人を順に紹介していった。

 互いの挨拶が済むと、フィリスが単刀直入に切り込んだ。

「司祭殿、死人が運び込まれたそうですが」

「ああ、歩きながら話そう」

 白い神官服を翻し、カイルは、俺たちを先導するようにして歩き始めた。

「この神殿に病人や怪我人、死人が運び込まれるのは、珍しいことではない。だが、今回の件では、事前に特徴的な傷跡について聞き及んでいたので、リアンに伝えさせた」

 伝達役にドニーが選ばれたのは、たまたま近くにいたからだそうだ。

 なんというか、ドニーとは変に縁があるようだ。

「今、仲間が頭目にも知らせに行ってます」

 ドニーは、声を落として言った。

「こちらだ」

 カイルは、神殿の入り口から少し入り組んだところにある部屋へと入って行った。

 石畳の上に、いくつかの石造りの、寝台のようなものがある。死者の安置室だ。

 一番手前の寝台に、蝋燭の明かりに照らされて、一人の男が横たわっていた。

 部屋に漂う死臭。そして、かすかに腐敗臭もある。

 カイルが一言、祈りの言葉を唱える。

 男はまだ若かった。やや長めの金髪に、血と泥の名残りがこびりついている。頭の左側、耳の後ろに丸く陥没した傷跡があった。

「昨日、東区の路地裏で発見された」

「昨日?」

 カイルの言葉に、俺は思わず疑問をぶつけた。

 なるほど、腐敗臭がし始めているのはそのためか。

 フィリス、サディアス、マクラムの三人が、死人を検証する。

「丸一日、放置していたのか?」

 やや強い口調で、フィリスが言った。

 そういうことなんだろう。東区の奥では、路上で病人が寝ていることも珍しくはない。そもそも乞食の溜まり場だ。路地に倒れ込んでいる者がいたとして、それを気にする者も少ない。

「そう、か……」

 目を伏せるフィリス。その顔に表情はなく、張り付いたような仮面のように見える。しかし、戸惑いと、かすかな怒りのにおいがする。

「これは、ルガーデンス卿フィーライン子爵のご子息で、ベリット」

 つぶやいた。

「隊長?」

 サディアスが、眉根にしわを寄せ、言った。

 フィリスは、かすかに首を振って答える。

「私の、従弟で、騎士だった。最近は、疎遠だったが、まさか」

「そうですか……」

 貴族社会は狭い。見渡すと親戚がいるということもあるだろう。

 この感覚は覚えがある。

 見知った者が、ある日突然、死を迎える。それは自分にはどうしようもない。防ごうと思って防げるものではないのだ。そういうとき、果たして何のために戦うのか、何のために今までを過ごしてきたのか、と疑問を抱く。抱いた疑問を打ち消すためか、あるいは忘れたいためか、次の戦いへと向かっていく。

「では、ルガーデンス卿をお呼びしましょう」

 マクラムが言った。

「すまない、頼めるか」

「はい」

 一礼して神殿を出て行くマクラム。フィリスは、少し離れたところから、まだ若き死人を見つめている。

 サディアスが、こちらに目配せを送ってくる。

 俺は一つ頷くと、カイルとともに、死人の傷を観察することにした。

「この傷跡、確かに丸いな」

 言うと、サディアスが、木片を取り出して、傷跡に当てた。

「それは?」

 カイルが言った。

「これは、ボリス卿の傷跡から取った寸法計さ。傷の大きさが同じかどうかを探るために作ったものだ」

 サディアスは、言いながら、傷の長さを測っている。寸法計には、いくつかの目印がある。これは、傷の直径や深さを表すもののようだ。

「こいつは、若干の違いはあるが、ボリス卿が受けたものと同じ武器が使われているな」

 手を引くサディアスは、まるで自分自身が傷を受けたかのような、悲痛な表情を浮かべている。

 カイルが、祈りの言葉をつぶやく。

「この若者は、なぜ殺されることになったのだろうな」

「わからん。しかし、殺している方には、何かの目的がありそうだ。まだ、手がかりが足りないが」

 俺は言いながら、傷口の形を目に焼き付ける。

マーヴが言った通り、球状の何かが叩きつけられたような傷だ。だが、鉄鎖使いの球じゃない。

鎖の先端に付いている球を、人の頭骨が砕けるほどの勢いで叩きつけるとなると、振り回すしかない。振り回せば、傷口は楕円形にえぐられるはずだ。だが、この傷はきれいに陥没している。

「フレイルの一種か?」

 カイルが言った。

 俺もそれを考えていた。

「そうかもしれない。だが、フレイルは、普通、棘や刃が付くはずだ。丸いままだと威力が不足する。特注品かもな」

 しかし、ただ鉄球が付いただけの武器をわざわざ作るだろうか。

 そんなことをする者は、明らかだ。自分の殺し方に合った武器を特注するのは、暗殺者しかいない。

「そうだ、リアン、この死人の近くに、これが落ちていたそうだ」

 カイルはそう言うと、寝台の脇から折れた剣を取り出した。

 それは、騎士が持っている幅の広い長剣とよく似ていた。だが、任務中に持つ支給品とは違うもののようだ。

「騎士の紋章はあったか、警護官の紋章でもいい。何か身分を証明するようなものは?」

「いや、何も持っていなかった。だから、身分もわからず、どこの誰かもわからなかったんだ」

 カイルの答えを聞きながら、俺は、折れた剣に目を向けた。

 刃が根元から折られている。

 鋼鉄の剣は簡単には折れない。よほど強い衝撃を、一点に集中したということだろうか。

 硬く、丸い武器。

 一体、何だ?

 剣をへし折り、人の頭を砕く。誰にも気付かれることなく持ち運べるもの。

 暗器ではないだろう。小さな隠し武器では、ここまでの威力は出せないはずだ。斬ったり、刺したりしたというならわかる。だが、頭を砕くとなると……。

 待てよ、武器じゃないとしたら?

 いや、一見して武器じゃなくても、武器として使えるものだったら?

 唐突に、神殿の扉が、勢いよく開く音がした。

 俺は、反射的に飛び出そうとするフィリスとサディアスを、手で押しとどめ、カイルとともに、様子を見に行く。

「立つんだ! 立ち上がるんだよ! 俺たちにはその力がある!」

 わあわあとわめいているのは、ひどく痩せた、壮年の男だった。

 その表情は、虚ろで、目もどこを見ているのかわからない。口からはよだれが出ている。

 強い、麻薬のにおいがした。あの、新型麻薬だ。

「デニス、ロッカ、落ち着いてもらえ」

 カイルが指示を出すと、二人の若い神官が、騒ぐ男へと近付いて行った。

「麻薬中毒者か?」

 俺は、カイルに顔を向けずに言った。

「ああ、週に一人か二人ほど現れる。最近のことだがな」

 デニスとロッカは上手く対応していた。男を座らせ、飲み物を渡して、なだめている。二人とも、いい神官になりそうだ。

「ルガーデンス卿が、お見えだ」

 ちょうど、マクラムが帰ってきた。

 壮年の、身なりのいい男を伴っていた。

 ルガーデンス卿カルタン・ケイス・フィーライン子爵。

 石の寝台に横たわる、ベリットと同様、金色の髪を振り乱している。蝋燭に照らされた顔は蒼白で、憔悴した表情が張り付いていた。

 子爵は、変わり果てた息子と再会すると、辺りをはばからず、声を上げて嘆いた。

 始めは、一体誰が、とか、なぜ息子が、とか、意味のある言葉を口にしていたが、最終的には、息子の名を呼ぶのが精一杯といった様子になってしまった。

 聞けば、ベリットは一人息子で、両親からの期待も大きかったのだという。

「叔父上……」

 子爵の様子を見たフィリスが、搾り出すかのような声で言った。

 他に言葉はなかった。

 サディアスとマクラムは、フィリスの背後に控えている。

「フィリス・モア・アロンソ」

 静かな声が、フィリスの名を呼んだ。

 それまで俯いて、泣き声をあげるフィーライン子爵を見つめていたフィリスが、弾かれたように顔を上げた。

 声の主は、男だった。一目で上等とわかる衣服を身に付けている。しかし、目立つような装飾はない。

 壮年の男だ。おそらく、年齢的にはフィーライン子爵と変わりない程度だろう。

 鳶色の髪を後ろになでつけ、その眉間にはしわが寄っている。琥珀色の瞳は、深く静かな色味をたたえており、この人物の思慮深さを象徴しているように思われる。

 葉巻のにおいがした。マーヴとは違う葉のようだ。

「ユーゲンハート長官」

 フィリスが、かすれた声でつぶやいた。

 ユーゲンハート。

 聞いた事がある。が、詳しくは思い出せない。

 俺は、隣に立っていたカイルに耳打ちした。

「誰だ?」

「ユーゲンハート伯爵だ。都市警護隊の長官にしてシュードス評議会の一員。メルファ大公爵の腹心でもある。何年か前から、石橋の建設をやっているだろう?」

 カイルは、知らないのか、と聞きたそうな顔をしたが、それも一瞬のことで、すぐに納得したような表情になった。

 俺が貴族に無関心なことを思い出したのだろう。

「ふん、お偉いさんか」

 何の気なしに言った。

「全くお前というやつは。普段はお人よしのくせに、相変わらず貴族だけは嫌いだな」

「貴族が嫌いなんじゃないさ」

 そう、貴族などはどうでもいい。陰に隠れて他人を動かそうとするやつが嫌いなんだ。

 しかし、警護隊の長官がなぜここに?

「長官、どうしてここへ?」

 俺の疑問を、フィリスが口に出していた。

 ユーゲンハートは、一切、表情を緩めることなく、眉根を寄せたまま答えた。

「私とフィーライン子爵とは、従兄弟同士でな。ベリットは、我が縁戚でもある」

 なるほどな。「貴族は見回せば親戚ばかり」というのは、冗談や皮肉ばかりでもないらしい。

 ユーゲンハート伯爵は、その硬質な外見とは裏腹に、かなり丁寧な物腰で、まず神殿の責任者であるカイルに挨拶をした。その後、部下であるフィリスたち三人を労い、なんと、俺にまで声をかけてきた。

 ふと、フィリスを見ると、ユーゲンハート伯爵について来た、一人の警護隊員と話をしている。

「ウェルクレス隊長だ」

 サディアスが、隣にやってきて言った。

「伯爵の腹心の一人で、上町に配備された隊の長。地下道の警備責任者でもある」

 ほう、あの魔法装置を守っている隊の長か。なるほど、只者ではない雰囲気を出しているな。

 フィリスは、そのウェルクレスを伴って、俺たちの方へと歩いて来た。

「きみが、リアン・ベイルか。なるほど、確かにただならぬ雰囲気がある」

 ウェルクレスは、男にしては高い声で言う。その視線は、こちらを値踏みするようだ。会ったばかりだが、あまり良いやつではないように感じる。

「ああ、よろしく。地下道の警備責任者だって?」

「その通り。日々、不振なものが入り込まないかを見張っているよ。はっはっは」

 ウェルクレスは、のけぞるようにして言った。

 妙な男だが、おそらく実力はあるのだろう。この都市の地下道は、かなり厳重な警戒がなされている。普通、地下道というのは、放っておかれるものだが……。

 俺とフィリスたちは、殺人犯の潜伏場所として、真っ先に地下を考えたが、警備が厳重すぎるという理由で、即座に否定した。むろん、俺の実体験も判断材料の一つだ。ちなみに、過去に地下道へ不法侵入したことは、誰にも言っていない。

 しかし、責任者を見ると、あの厳重さを維持できていることが、ちょっと信じられない。


 若きベリットの葬儀は、夜明けとともに行われることになった。

 場所は、中町と上町の境界にある、シグの大神殿になる予定だ。しかし、取り仕切るのはカイルということになった。

 フィーライン子爵は、息子の亡骸を整えたカイルに、少なからず思うところがあったのだろう。直接聞いたわけではないが、カイル自身がそんなようなことを言っていた。

 俺は、小神殿の外に出ていた。フィリスたちも一緒だ。

 ベリットの従姉であるフィリスは、葬儀に出席することになっている。ただ、そのためには準備が必要だ。平民の服装で出るわけにも行かない。そこで、俺たちは一旦、それぞれの拠点に引き上げることにした。

 俺は、もちろん、葬儀に出席するような義理はない。だから、単純に休息のために家に帰ることにした。その前に、マーヴの所に寄ってもいいかもしれない。二、三、報告したいこともある。

 すっかりと日が暮れて、闇の中に取り残されたような、下町の路地を歩く。調査員の三人は、全くの無言だ。

 四人で歩いてはいたが、頭の中は一人のときと変わらない。静かに考える時間ができたのはうれしかった。考え事の内容は、もちろん、陥没した傷口と球状の凶器についてだ。

 武器に見えない武器、という自分の発想は、いいところを突いているんじゃないかと思った。事件があった現場の、周辺の人々は、怪しいものは見ていないと言っていた。

しかし、それが間違いだったら?

見ていたのに、それを怪しいと思わないのだとしたら?

どこにでもいそうな、あるいは、そこにいても不思議じゃないような、ありふれた品物を携えている人物。それが暗殺者だったとしたら。

一つ、心当たりがあった。

ウジェだ。

この町で、もっともありふれた、球状の木槌。

なぜ真っ先にこいつを思いつかなかったのか、今となっては不思議だ。

これなら、杖として使っている老人もいるし、荷物をくくりつけて歩く職工もいるくらいだ。平凡な一住民にしか見えないという可能性は高い。

 考えれば考えるほど、間違いないように思える。頭と心が勝手に確信していく。

 だが、過去の経験から、この確信というやつの危険性は知っているつもりだ。もう少し、考えたり、証拠をそろえたりする必要がある。

具体的には、ウジェで人が殺せるかという点だ。

できる。いや、できるはずだ。

だが……。ここは慎重に行こう。焦っても仕方がない。それに、肝心の調査員が、気もそぞろだ。あれこれと手を出しても良い事はない。

「リアン」

 フィリスが声をかけてきた。

「ああ、なんだ?」

「マーヴェリック殿の言葉を思い出した」

 マーヴの言葉?

 どの言葉だろう。あいつも結構、適当なことばかり言うのだ。

「あなたが、ある意味では〈風紋〉の幹部より役に立つ、と」

「ああ、それか。幹部連中に聞かれたら怒られそうだよな。あんまり信じないほうがいい」

「あなたは顔が広いのだな。カイル司祭とも知己なのだろう?」

「カイルとは、戦争のときにちょっとな」

「シグの司祭が戦場に?」

 実際、戦場には神官がたくさんいた。武器を取って戦うのも信仰なのだそうだ。しかし、カイルについて正確なことを言えば、あいつが戦場にいたのは、神官になる前だ。

「ああ、まあ、詳しい話は、俺からするようなものじゃないから。どうしても気になるなら、カイル本人から聞いてくれ」

「わかった。カイル司祭を侮辱するつもりはない」

 会話するフィリスの声は静かだ。夜間だから気を使っているのか、いや、ベリットの死がこたえているからだろう。

「私たちは宿舎へ行く。あなたはどうする?」

 いつの間にか分かれ道に立っていた。

 十字路で、右に向かえば〈大通り〉に、左に行くと東区へと向かうことになる。

「俺は家が近いからな、帰ることにするよ。それより、今から門へ行って、通れるのか?」

 下町と中町を隔てる城壁の門は、日暮れと同時に閉じてしまう。特別な許可がない限り、通ることはできない。

「大丈夫だ、鑑札があるからな」

 サディアスが、幾分か明るい声で言った。

 ぽんぽん、と服のポケットを叩いている。

「では、これで」

 フィリスが、律儀に礼を送ってきた。こちらもつられて、頭を下げる。

 そのときだった。

 ふっ、と、妙なにおいがした。何か、花の香りのような。以前に嗅いだ事のあるにおい。

 そうだ、くちなしの花だ。

 鼻から香気を吸い込みながら、それが漂ってくる方向へと、何気なく首を巡らせる。

 夜闇の中、かすかな月光の下で、何かがふわり、と地面から空中へと飛び上がる。

 きらり、きらり、と一瞬の煌きが走る。

 全身が緊張で震えた。

「あぶない!」

 叫び、眼前に立っていたフィリスを押し倒す。

「きゃっ」

 耳元で短く、フィリスの声が聞こえる。

 ほぼ同時に、頭の上を、風を切る音が通り過ぎた。

「ぐわっ」

 鋭い悲鳴。サディアスだ。

「くそっ!」

 起き上がり、ブーツに隠した投擲用の短剣を、路地の向こうの何者かに投げつける。

「あははははは」

 そいつは笑いながら、ふわり、ふわりと身をかわした。

 早い。

 だが、捉えられないほどではない。

 ブーツからさらに一本、両腕に巻いた革篭手から、一本ずつ、短剣を投げる。

 金気が流れ、全て弾かれた。

 相手は、短剣か何かを持っているらしい。

「サディアス!」

 フィリスが叫ぶ。横目に見ると、マクラムに抱えられるようにして、サディアスが倒れている。

 肩と、脇腹に一本ずつ、細長いものが突き立っていた。

 手裏剣だ。

「リアンさん!」

 背後から声がする。

 ドニーだった。なんでここに?

「伏せろ、ドニー!」

 俺はドニーに対して、身を伏せるように指示しながら、まだ暗闇に潜んでいる敵の気配を探った。

 ドニーは、這いつくばるようにしながら、こちらへと向かってくる。

「お、俺、今まで神殿に。い、一体どうしたんです」

 俺はドニーの胸ぐらをつかんで、小声で言う。

「いいか、クレイトン先生を呼んで来い、場所は、トルーダの店だ。急げ!」

 頷くドニーは、転がるようにして、走って行った。

 俺は、腰に下げた鞘から短剣を引き抜く。昔からの慣れた体勢で、両手に一本ずつ。

 片膝をつき、サディアスを背中に回して、街路の奥をにらみつける。

 まだ、いる。

 くちなしの花のにおいが、薄れていない。

 目を凝らすと、さきほど揺らめいて見えたのが、外套の裾であった事がわかった。

「ふふふ」

 再び、笑い声が聞こえる。女の声だ。

 闇に浮かび上がる影は、背が高く、両手両足がほっそりと伸びた体を浮かび上がらせていた。

 髪が長く、微風にゆれている。色のほどはわからない。

 気配から、こちらを見ていることだけはわかるが、暗いので顔は見えなかった。

 両手に、剣を持っている。長剣ほどではないが、俺の持っている短剣よりは長い。斬ることに主眼を置いている武器なのか、なだらかに湾曲している。その刃が、かすかな月光を反射して、銀色の蛇のように見えた。

「誰だ、お前」

 答えは期待していなかったが、声に出して言った。

「お前こそ誰だ」

 ゆっくりと、女が言った。答えたことが意外だったが、その内容も意外だった。

 こちらのことを知らないで襲撃してきたのか?

 それとも、何かの策略か?

「くくく、まあ、いいよ。そこそこ楽しめた」

 にたり、と笑う表情が見える。白い歯が、きらめいた。

「また、会おう」

 簡単に言うと、一瞬にして姿が掻き消えた。上に向かって跳躍したようだが、その後が追えなかった。

 素早い動きだ。

「ちっ」

 舌打ちをしたが、追いかけようという気にはならず、すぐさまサディアスに向き直る。

 体勢を起こし、革鞄から二本の小瓶を取り出す。

サディアスの体を支えているマクラムとフィリスに目配せをし、場所を開けてもらう。

小瓶二本のうち、一本をサディアスの口に突っ込み、もう一本は、二箇所の傷口に振りかけた。

「毒消しだ、念のためにな」

 その後、血が流れ出る傷口に、手持ちの布を押し当て、サディアスの両脇を抱えて進んだ。

 手裏剣は刺さったままだ。下手に抜いて、傷を悪化させない方がいいと判断したからだった。

 目的地にしたトルーダの薬問屋までは、平常時なら大した距離ではない。

 しかし、今日ばかりは遠く思われた。

 木製の扉を目の前にして、拳を握り、叩きつける。

 二回、三回。

「うるさいぞ、誰だ、こんな時間に!」

 怒鳴り声とともに、開かれた扉を、強引に押し開けて、中に入る。

「い、一体、何なんだ!」

 トルーダ・ロサは、丸顔を真っ赤にして叫んだ。しかし、俺の顔と怪我人の様子を見るなり、ぴたりと黙った。そして、先ほどまでとは打って変わって、冷静に扉を閉めた。

「リアン、何があった?」

「すまん、トルーダ。通りで襲われた。ここしか思いつかなかったんだ」

 かつての戦友は、一言、いいさ、とつぶやいた。

 奥から、トルーダの妻であるマニーが出てきた。

 夫婦は、目配せだけで通じ合ったようで、マニーが何も言わず、再び奥へと引っ込んだ。

 俺たちは、トルーダの店にサディアスを運び込んだ。そこには大きな陳列棚がいくつも並べられており、中心に長方形の平台があった。これには長身のサディアスでも寝かせることができた。

 横たえたサディアスの傷口を調べる。

 今の時点で気になるのは、脇腹の傷だ。手裏剣の刺さり具合から見て、そう深くはないと思う。また、ここまでサディアスが生きている点から見て、手裏剣に毒は塗られていなかったか、あるいは解毒剤が効いたかしたらしい。

 そうこうする内、正面の扉が叩かれる。

 待ち人来たる、だ。

「待たせたかの」

 クレイトン・フェス。下町の聖者と呼ばれる敏腕医師。老齢ながらかくしゃくとしており、ひょろりと長い背筋もぴんと伸びている。

 クレイトンじいさんの手際は、さすがに見事だった。

 俺自身、戦場でいくらかの手当ての経験があったし、医師の下について働いたこともあった。しかし、そうした経験が全く及ばないほど、じいさんの手はよく動いた。

 まず、一息に二本の手裏剣を引き抜く。下手にゆらしたり、こじったりすると傷口を広げてしまう。だから、傷口と垂直に、思い切りよく引き抜くのが、結果的に有効となるのだ。

 その後が早い。

流れるようにサディアスの革ベストを外し、服を切り裂き、傷の具合を確かめる。

脇腹の傷を中心にして、小刀で傷を切り広げる。薬草を溶かし込んだ水薬で、血を洗い流しながら、開いた腹部へと手を差し込み、内臓の具合を確かめた。

「内臓は無事じゃ。運のいい男じゃな」

 ふはは、と笑いながら、針と糸でしっかりと傷口を縫合した。

 次に、肩の傷だ。同じように切開し、内部を観察する。

「ふぅむ」

 うなりながら、指先を使って、傷の内側をいじる。その作業に少し時間をかけ、慎重に手を動かしていく。

 何度か、ぽきりぽきり、という音が聞こえた。骨を動かしたようだ。

 縫合を終えると、手の血を洗い流し、サディアスの傷口を洗って、息をつく。

「これで終わりじゃ。この男、かなり鍛えておるな。そのおかげで命に別状はないぞ」

 その言葉を聴いて、全員が長く息をついた。

 俺も、知らない内に体を緊張させていたようで、肩の辺りが強張っていた。

 全ての作業が終わると、俺、フィリス、クレイトンじいさんの三人は店先に出た。外の空気が吸いたかった。

 気を失ったままのサディアスは、トルーダとマクラムが看ている。

「じいさん、呼びつけてすまなかった。助かったよ」

「クレイトン殿、私からも礼を申し上げる。ありがとう」

 俺がじいさんに礼を述べたのに合わせるように、フィリスが頭を垂れる。

 フィリスの声は、少し乾いていて、目の周りが赤く色付いている。サディアスが痛みに気を失った辺りで、少し涙ぐんでいたようだ。

「リアンの小僧はともかく、若いお嬢さんに礼を言われると、良い気分じゃのう。ほっほっほ」

 じいさんは、目尻を下げて笑った。

 ともかくってな、何だよ。全く。

「しかし、あの男が助かったのは、運ばかりではないぞ」

 老医師は、そう言うと、切り刻まれて、ずたぼろになった革ベストをこちらに放って寄越した。

「こいつか……」

 それは、あの銅版入りの革ベストだった。サディアスが、念のためにと着込んでいたものだ。

「それがあったおかげで、手裏剣が深く刺さらず、内臓の損傷を防いだのじゃ。脇腹の傷は放っておいても大丈夫じゃろう」

 しかし、とじいさんは続ける。

「肩の方は重症じゃな。鎖骨が割れておった。きれいに真っ二つにな。手裏剣が鋭かったことが、返って幸いしたの。つなげるのが楽じゃったわい」

 言って、懐からパイプを取り出す。煙草ではない。薬草を燻すためのものだ。

 持ち出した蝋燭から火をつけて、一服、くゆらせる。

 さわやかなにおいが、周囲に充満した血の気配を洗い流すように漂う。

「では、私はサディアスの様子を見てくる」

 フィリスは、木扉を開けて中に入った。

 俺は、その場にとどまることにする。じいさんの目に押しとどめられたのだ。

「どうかしたのかい?」

「いや、まあ、たまには少し話でもしようかと思ってな。怪我人や、病人以外のことも」

 じいさんはこっちを見ながら、二本の手裏剣を取り出した。

 菱形で細長い、鉄製のものだ。ところどころ、こすれたような後があり、指でなでると少しゆがみが感じられる。

「自作の手裏剣か。以前、よく見たな」

 思わず、笑いが漏れる。別に面白くともなんともないが、皮肉を感じる。過去が追ってきているかのようだ。

 しかし、そこで、かすかなにおいに気が付いた。

「これは、毒か?」

「うむ、そのようじゃ。慎重に洗ったが、気付いたか。鼻は鈍ってはおらんの」

「サディアスは、大丈夫なんだろう?」

「うむ、相変わらず、お前の解毒剤は、よう効く。しばらくは起きられんだろうがな」

 手の中で手裏剣を回す。それだけで、昔を思い出す。

 俺も、こういったものを作った。何本も。そして、同じように毒を塗り、あいつらを殺した。親の仇敵。友を殺した者たち。

「敵を逃したそうじゃな。お前さんも変わったということか」

 じいさんは静かに言った。

 その表情は、柔らかい何かをたたえていた。しかし、それがどういう感情なのか、わからない。パイプに詰められた薬草が、まだ燻っている。

「かつてなら、相手を殺さずには戻ってこなかったろう?」

「さあね、あの時は、サディアスも他の連中も、見捨てられないと思ったのさ」

 本心だった。とは言っても、そのことに気付いたのは、トルーダの店に入ってからで、襲われたときは、ただ何となくその場を離れがたく感じていたのだ。

 闇の中にいた、あの女を思い出した。敏捷な身のこなし、銅の板を貫くほどの手裏剣技。そして、あの剣。かなり熟練した殺し屋だ。

 それに、あのにおい。くちなしの花のような、印象的なにおいだ。

 どこかで嗅いだ覚えがある。花の話じゃない。くちなしの花は、森に行けば必ずどこかにある。だが、それとは違う。あくまでも、くちなしに似た、独特のにおいだ。

 昔、嗅いだことがある。いつ、どこで嗅いだのか、思い出せない。

 最近、こういうことが多いな。においの記憶には自信があったんだが……。

 薬の調合も、においを頼りに行なっている。こちらは間違ったことはない。だが、最近、においに自信が持てないことが重なっている。

 新種の麻薬。あの女。

 知っているはずなのに思い出せないのは、もどかしい。

「リアン、まだ毒の調合をしておるのか?」

 じいさんの声で、考えが中断される。見ると、医者は、ひどく真剣そうな表情をしていた。出会った頃から心配性のじいさんだ。

「いや、もう薬で人を殺すのはやめたよ。トビアを助けられたときに、師匠が言ったことの意味がわかった」

 かつて、毒と短剣で村の仇を討とうとしていた俺に、師匠は言った。「お前にはもっと大切なことがある」と。俺は、それを薬の調合のことだと思っている。もちろん、勝手な思い込みだ。

 ふと、顔を上げると、町の東側が明るくなってきている。

「もう一度あの男の様子を見て、問題がなければ帰るとしよう」

「送っていこうか?」

「あほう」

 じいさんと二人、連れ立って、トルーダの店へと入る。

 中では、マニー・ロサが後片付けをしてくれていた。

「マニー、ありがとう」

 俺が言うと、マニーは静かに微笑んだ。おおらかな女性だ。子供を生んだ後、床払いをした直後だというのに、厄介事を持ち込んで申し訳ない気持ちになる。

 その両手には、水をたたえた「たらい」が抱えられていた。中の水は血で赤く染まっている。

 真っ赤な水を見た瞬間、思い出した。

 あの女のことだ。

 血だまりと、くちなしのようなにおい。

 そう、あのときの……。

「リアン」

 突然、声をかけられ、思わず息を止める。

 トルーダだ。

「大丈夫か。大変な夜だったな」

 ゆるく波打った灰色の髪。同じ色のひげを蓄えた丸い顔。白く血色のいい頬が、蝋燭の炎で赤く照らされている。ひげがあるせいで年長に見られるが、まだ二十代の半ばあたりだ。真っ当に店を経営し、妻と新たに生まれた息子を養っている。

 人のよさそうな、小太りの商売人。それがトルーダ・ロサだ。きっと、商人仲間は、この男が槍の達人だとは思ってもみないだろう。

「トルーダ、迷惑をかけた」

「気にするな、俺とお前との仲じゃないか」

 トルーダとは、終戦間際、補給部隊で一緒だった。そのときから、軍に許可を得て商売をしていた。今では、この町で知らぬ者のない商店の主だ。豪商人の仲間として中町に住んでいてもおかしくないのに、下町から離れないのは、初心を忘れないようにするためだそうだ。

「リアン、トルーダ殿」

 澄んだ声に振り向くと、フィリスだ。

「ああ、アロンソ子爵」

 トルーダは、両腕を上げて言った。俺と話しているときより機嫌がいいようだ。

 まあ、それはいいが、子爵?

 疑問を口にする前に、トルーダが言った。

「どうやら、お役に立てたようで、何よりです」

「もちろん、あなたのしてくださったことには、いくら感謝しても足りない」

「いやあ、困ったときはお互い様ですよ。まあ、……」

 言って、トルーダは店の中を見渡す。

 ひどい有様だ。

 あちこちに血まみれの布が散乱しているし、商品の陳列棚は、勢いよく何度も駆けずり回ったために倒れてしまっている。

 店の中心にある平台には、横たわる怪我人。

「今日は店を開けられないかもしれませんがね」

 苦笑いするトルーダ。

 その姿を見たフィリスは、一つ頷くと言った。

「今日の分の売り上げは、警護隊で保障できると思う。他に、場所を借りた代金や手間賃なども」

 それを聞いたトルーダは、胸をなでおろす。

「場所代や手間賃は結構ですよ。売り上げ分は、いただけると助かります」

 堅実な男だ。

「あなた、少しいいかしら」

 マニーが声をかけてくる。トルーダは、軽く俺とフィリスに挨拶をすると、妻と一緒に奥へと入って行った。

 俺は、隣に立つフィリスに顔を向けて言う。

「子爵?」

 そう、トルーダの発言を信じるなら、この若い女騎士は、爵位を継いでいるということになる。年齢的に考えると、まだ子爵令嬢というのが妥当だろうと思うが。

 フィリスは、疲労のにじむ顔に苦笑いを浮かべ、言った。

「いろいろあるんだ、いつか話す。機会があれば」

 この隊長殿も、案外、一筋縄ではいかない人生を歩んでいるのかもしれないな。

 しかし、俺自身を含め、そういう者は珍しくない。

 トルーダの発言が意外だったから聞いてみただけで、どうしても話してほしいわけじゃない。

 その後、クレイトンじいさんは、あっさりと帰って行った。

「まだ眠っておるが、息遣いは整っている。熱が出ているが、まあ大丈夫じゃろう。痛み止めになるような薬を調合してやってくれ」

「わかった」

 毒の件は言わないでおくことにしたらしい。

 外でじいさんを見送って、自分の鞄を取りに店の中に入る。

 入り口の近くに、マクラムが立っていた。平台に横たわり、眠ったままのサディアスを見ている。

「よう、マクラム」

 特に考えることもなく声をかけた。

 筋骨のたくましい大男は、こちらを向く。昼間と変わらず、動きに乏しい表情だが、顔色が蒼白だ。

「リアン、サディアスに代わり、礼を言う」

 深く、頭を垂れた。

 俺は、少しうろたえてしまう。

「い、いや、当然のことをしただけだ。戦場では日常茶飯事だったろう?」

「貴殿は、今日会ったばかりの我々のために命を賭けてくれた。その勇気に、礼を述べたのだ」

 サディアスを背にかばうようにして、あの女と戦ったことを言っているのだろう。

 そうだ、忘れないうちに言っておかなければ。

「フィリス」

 少しはなれたところにいた女騎士が、こちらを振り向いた。

「うん?」

「凶器になりそうなものを思いついた」

「なんだって?」

 フィリスの目が大きく開かれ、すぐに鋭くすがめられる。

 俺の言葉が信用できない、というのではないらしいが、半信半疑といったところなのだろう。

「とにかく、今のところは休もう。話はまた今度だ」

 勿体付けるわけでは無いが、正直、本当に疲れていた。



        四


 ベリットの葬儀から、さらに二日経った昼間、フィリスと合流した後で、中央区に近い酒場に向かった。

 そこはメリルの〈銀砂亭〉とは違い、宿屋を兼ねている場所で、この辺りでは貴重な、安心して泊まれる店だった。

 昼夜問わず客がいるので、昼間は食堂、夜に酒場となる。

 店の名前は〈踊る回転草亭〉。名前からしていかにもだが、この店は〈風紋〉が経営している。そのために治安が確保されているわけだ。

 俺たちは、店の一番外側の席に座った。

 この店は、入り口から大きく屋根がせり出しており、その下にも卓と椅子が置かれている。半野外の席ということになる。

 風の強い日や雨が激しい日以外は、ここでも注文を受けてくれる。

 周囲は常連客で一杯だ。

 夜働く者、早朝仕事が終わった職工、仕事のないあぶれ者。様々な者たちが、ごちゃ混ぜになっている。

 ある者は食事をし、ある者は酒を飲み、またある者は、ただ管を巻きにやってくる。

 今日、フィリスは一人だった。

 宿舎で静養中のサディアスは仕方ないとして、マクラムはどうしたのだろうか。

「マクラムは、長官から呼び出された。緊急の用件だそうだ」

 微笑むフィリス。しかし、その笑みはすぐに引っ込む。

 何か気になるところがあるらしい。

サディアスの負傷の件だろうか。確かに、重症ではあるが命に別状はない。いずれ復帰できるだろう。調査員は三人しかいないし、心細いというのならわからなくもないが、このフィリスがそういったことを気にするとも思えない。

と、なると何だろう。ベリットの件か。あの騎士とは、親戚ながらも疎遠だったと聞いた。しかし、親類を失った悲しみはあるだろう。

腰を落ち着けたついでに聞くことにした。

「どうかしたのか、浮かない顔してるぞ」

 一瞬、意外そうにこちらを見るフィリス。迷うようなそぶりを見せ、少しの間沈黙する。

 その間に、注文を取りに来た女給に、蒸留酒と葡萄酒、軽い食べ物を頼む。

 二、三度、フィリスは口を開き何か言おうとしてやめるという行為を繰り返し、最終的に、意を決したように、こんなことを言った。

「ベリットは、なぜ死んだのだろうか」

 俺は、フィリスを見た。女騎士は、俯いたまま、自分の手を見つめている。握り締められた手だ。

「どうして、東区の奥などに行ったのだろう。彼は発見されたとき、平服だった。だが、あそこに個人的な用事があるとは思えない」

 確かに、東区の奥などは、行きたがる者などいないように思う。間違って迷い込んだにしても、妙だ。それに、剣を抜いていたことも気になる。

「誰かと戦ったということなのだろうか……」

なるほど、それが浮かない顔の理由か。

「まあ、今はまだ何もわからないな。それに、これからも全部がわかるとは思えない」

 俺は言った。

「でも、調べるんだろう?」

 フィリスは頷く。

「当然だ。やらなければならない」

「じゃ、やろうぜ」

 フィリスは、俺を見た。真っ直ぐに。目に力がこもっている。

「ああ、そうだな」

つぶやく。

 俺の言葉に納得がいったかどうかはわからない。もともと、好きなことをしゃべっただけだ。だが、少しでも、憂鬱が晴れればいいと思った。

 注文の品が運ばれてきた。

 俺の前に蒸留酒、フィリスの前に葡萄酒。そして卓の真ん中にパンとチーズ、薄切りのハム。香草水が入った水差しとカップが二つ。

「リアン、昼間からそんなに強い酒を飲んで大丈夫なのか?」

 パンとチーズを小皿に取りながら、フィリスが言った。朝飯を食っていなかったそうで、ぱくり、とチーズにかぶりつている。

「ああ、これか。まあ、強いといっても、量が少ないからな。ちょっとした活力源にはなるが、そのくらいさ」

 俺は、蒸留酒の入った、ガラスのカップを持ち上げて見せる。下町で出回っているカップは、あまり上等なものではないので、かすかに歪んだ形をしている。卓の上に置くと、斜めに傾いでしまう。大きさは、手の平にすっぽりとおさまる程度だ。

 俺は葡萄酒よりも蒸留酒の方が好きだ。味や香りが、産地とか熟成具合などによって変わっていく点では、他の酒と同じだ。しかし、この酒に固有の風味が、俺には合っている。

「そうなのか……」

 妙な顔でこちらを見ている。不思議な生き物でも見るような表情だ。嫌悪感を示すにおいはしない、純粋に意外さを口にしたものか。

 奥の席で、何か盛り上がっている。

 まだ早い時間なので、酔っ払いは少ないが、酒を飲んでいる連中がいないわけではない。誰かが土地の民謡をがなり立てている。

 少し、周囲を眺めてみる。目当ての人物を探すが、今日はまだ来ていないらしい。毎日この店に来ているから、今日も来るはずだ。

 また奥の方で歓声が上がる。

「何か盛り上がっているらしいな」

 喧騒が珍しいわけでもないだろうが、フィリスの顔には、かすかに好奇心の色がうかがえる。そよ風が、さっと吹き込み、力を抜いている者に特有のにおいを運んでくる。

 二人で、ほぼ同時に奥の席に目をやる。

 騒いでいる連中は、二人の、椅子に座った男を取り囲んでいるようだ。

 その二人の男は、互いに向き合い、「ほい、ほい、ほい」と掛け声を口にしながら、首をあちらこちらに向けている。

「あれは、何をしているんだ?」

 フィリスが言った。

 なるほど、あれを知らないか。

「あれは遊びさ。地方によって、いろいろ呼び名があるが、この辺りでは〈ひねくれ者の賭け〉と言うんだ」

 基本的には二人でやる遊びだ。〈ひねくれ者〉と〈正直者〉がいて、交互に役割をかえる。〈ひねくれ者〉は、拍子に合わせ、卓を指で叩く。その際に「ほい、ほい、ほい」と口に出すのが通例だ。三度目の「ほい」で顔を上下左右のどこかに向ける。〈ひねくれ者〉を同じ方を向いてしまうと、〈正直者〉の負けだ。

「大抵は、それを五回くらい繰り返して、〈ひねくれ者〉として勝った回数の多さを競う。酒の席では、総合的に負けた者が一杯飲むという習慣もある」

酒好きの者はわざと負けるらしい。それに、酔っ払ってくると力加減がわからなくなるので、首を痛める者もある。俺だ。

むろん、子供たちも頻繁にこれをやっている。飴玉や石ころなどを賭けて遊ぶ姿が、この周辺でも見られるのだ。

「そんなものがあるのか……」

 フィリスがつぶやいた。うんうん、と頷いている。

 妙なことで感心するものだが、まあ、確かに、貴族の間では流行らない遊びだろう。酒場で騒いだりしないだろうしな。

 その後、しばらくの間は、単純にパンをつまんで会話に終始した。

 フィリスにとって、この数日で触れるようになった下町の風俗は珍しいもののようで、何度も質問された。

 ちびりちびりと舐めるように飲んでいた蒸留酒がなくなったころ、フィリスが言った。

「ところで、今日はなぜここに?」

 こちらに向けられる目は、やや不審な色をともなっている。

 それはそうだろう。そもそも、ここで会合を持とうと提案したことの理由が、連続した殺人事件の凶器に当たりがついたというものだった。

「ああ、それなんだが、実は人を待っているんだ」

「人? その人が凶器と関係があるのか」

「俺の読みではね」

 読み、というほどのものでもないし、率直に言って、フィリスにウジェのことを話さないでおく理由もない。

 だが、確証がないことも確かなのだ。

 俺自身、ウジェが戦槌として使われていたことを、うわさに聞いてはいたが、見たことはない。だから、フィリスの目と、自分の目とで確かめてみたかった。

 そうこうする内、杖を突いた一人の老人が現れた。

 上半身は分厚く、肩幅も広い。それに対して、足は短くて細い。背中が少しだけ曲がっていることも手伝って、身長が低く見える。灰色の短髪をたたえた頭部は、やや禿げかかっていた。

 ソリオ・オコーネル。

 それが、このじいさんの名前だ。この辺りでは顔の売れた名物じいさんで、この店の常連でもある。じいさんは、息子のオルギスが戦争で死んで以来、この店に毎日通って来るのだ。

 じいさんは、決まってカウンターの一番端に座る。ちょうど、俺とフィリスが座っている席の近くだ。もちろん、俺はここを狙って座ったのだ。

 そして、目的はじいさんの持っている杖だ。

 上端は拳よりもやや大きい球状。下端に行くに従って細くなり、地面につくころには親指程度の細さになっている。じいさんの持つ杖は凝っていて、頭の部分にふくろうを模した彫刻が施されている。

 これはウジェだ。

「あのじいさんだ」

 俺はソリオじいさんを目で示しながら、フィリスに言った。

「あの、杖を突いた老人か。危険そうな人物には見えないが」

「もちろん、あのじいさんは善人だよ。下町に住んでいる大抵のやつらに比べれば、極めて良い人柄だ」

「それは、さすがに他の人たちに失礼ではないか」

「まあ、それはどうでもいい。問題はな、あの杖だ」

 フィリスは、ソリオが持っている杖を凝視した。

「木製の杖だろう。珍しいものではないと思う」

「あれは、ウジェというとんでもなく硬い木の枝で作られているんだ。このシュードスができる前からこの地方に住んでいた、マリーク族と呼ばれる人々が使っていた、日常の道具さ」

 そう、日常の道具だ。調理器具であり、農業用具であり、また工具でもある。当然、武器でもあった。

 マリーク族は、俺たちとほぼ同じ姿をしていたといわれるが、額に一本から三本の角が生えていたという。そのことから、小鬼族とも呼ばれている。現在は、マリークと祖先を同じくする人々が、大陸の北部で大きな集落を形成しているが、中央部以南に来ることは稀だ。

 ソリオじいさんは、マリークの血筋だと公言していたし、祖父が北方の小鬼族だとも言っていた。しかし、一番の自慢は、生まれてから今まで、ずっとシュードスに住んでいるということだ。

 いろいろと複雑なじいさんである。

「フィリス、あのじいさんは、義勇兵として戦争に参加したことがあって、そのときにウジェで鉄の兜を叩き割ったと公言している」

「まさか、あれは、木製の杖だろう。鉄の兜を割ることなんて……」

 フィリスは、目を見開いて言った。

 その気持ちはわかる。木製の槌は、武器としては有効だ。しかし、鉄の兜が相手となると、話は別。巨大な木槌ならともかく、ウジェほどの大きさでは、陥没させることはできても、破壊することはできないはずだ。

 そのうわさをどうにかして検証する必要がある。

「俺に話を合わせてくれ」

 言って、フィリスに向けて片目をつぶって見せた。

 それに対して、フィリスは何やら肩をびくりと震わせ、顔を赤くして目をそらせてしまう。極度に緊張した者のにおいが漂ってくる。

 なんだろう。片目をつぶったのが、そんなに似合わなかったのだろうか。

 ……。

 似合わないな。確かに。

 内心でフィリスに謝ろう。すまない。

「いやぁ、そんなことはないさ。結構やるもんだよ」

 俺は、聞こえよがしに声を張り上げる。

 フィリスへの謝罪は、それはそれとして、やることはやっておかなければならないのだ。

「ウジェは硬いんだぜ。頼りになるんだよ、ただの木の枝じゃないのさ」

 横目で見ると、早速、ソリオじいさんがこちらへ目を向けている。

 いや、目だけではない。身体を向け、こちらへ歩いてくる。

「よう、おめぇ、リアンじゃねぇか」

 以前、クレイトンじいさん経由で腰痛の薬を都合したことがある。そのときのことを覚えていてくれたらしい。

「いよぅ、ソリオじいさんじゃないか。ちょうどいい」

「何がだい?」

「いやね、こちらのお嬢さんが、ウジェの槌が、武器として考えられないというんだよ」

「ほう、ほう、ほう」

 じいさんは、フィリスの方を見た。別に敵意があるとか、そういう視線を送ったわけじゃない。単に、目を見開いている。

 そもそも、フィリスのような美形が珍しいのだ。

「いえ、考えられないというのではありません。あなたのように、杖として使っている人が多いので、武器として使っている姿が想像できない、と言ったのです」

 フィリスが、にこやかに言って、俺に調子を合わせる。

 なかなかやるじゃないか。

ソリオじいさんは、はっはっは、と豪快に笑った。

「最近じゃあ、こいつの正しい使い方を知っているもんも少なくなりおったわいの。わっしの若い頃は、こいつを持って、獣の皮を着て、戦に出たもんじゃ」

 獣の皮を身にまとい、兜代わりに頭部の毛皮を頭にかぶるというのは、マリーク族の戦装束だという。

「わっしは、このウジェで、鉄の兜を叩き割ったこともあるんじゃ」

 誇らしげにウジェを掲げてみせる。

 じいさんが持つウジェの上端に彫りこまれたふくろうが、こちらを、ぼんやりと見つめている。

 そうか、ウジェの上端には彫刻をしてあるものが多い。だから、マーヴから丸い傷口と言われたときに、ウジェが候補に挙がらなかったのだ。マーヴ自身も失念していたのだろう。

「鉄の兜を? それはすごいですね」

 フィリスは、驚いたような顔で言う。

 それに気を良くしたのか、ソリオじいさんは立ち上がり、ウジェを構えて見せる。

「お、なんだい、ソリオ、腕前を見せるのかい」

「じいさん、鈍ってないんだろうな。下手は打てないぞ」

 あちらこちらから、好奇の野次が飛ぶ。じいさんは、満更でもなさそうだ。

 誰からともなく動き始め、店の一番外側の卓や椅子がどけられ、小さな空間が作られた。気のいい店主が、頑丈な樫材で作られた桶を一つ持ってきた。

「よし、リアン、わっしが合図したら、こいつを放ってけれや」

 じいさんの言葉に頷く。

「しぇば、やってみるかいの」

 じいさんの口からは、ときどき、大陸北方のなまりが聞こえる。本当に北部人の家系なのだろうか。

 ウジェを手にしたソリオじいさんは、両足を前後に開き、大きく上体を前に倒した。ウジェは両手で持って、体の後ろに隠すように、右側に下げて構えた。

 不恰好な体勢だ。

 正面に立つ俺からは、じいさんの頭だけが突き出されたように見える。

 じいさんは、二度、三度と大きく呼吸をして、気息を整え、ある瞬間に決然として目を上げた。

 鋭い眼光だ。

「来い!」

 それまでの、なんだかかすれたような声とは違い、ソリオじいさんの発した合図は力強いものだった。

 俺は、高く、ほぼじいさんの頭の上に桶を放った。

 桶は人の頭がすっぽりと入るくらいの大きさ。使われている木材が分厚く、ウジェの木皮で編まれた綱で締められている。頑丈なものだ。

 空中を回転しながら、桶がじいさんの間合いに入る。

 じいさんの動きは、意外なほどゆったりとしたもので、優雅にさえ見えた。

 その場でくるり、と全身を横に一回転させると、「たあ!」という掛け声とともに、ウジェを横殴りに振った。

 横からの打撃では、通常、打たれたものは弾かれる。しかし、このときは違った。

 盛大な音を立てて、ばらばらに砕けたのだ。

 歓声を上げる観衆。俺自身、しばらく声が出なかった。

 考えたいことがたくさんある。じいさんは、いくつもの手がかりをくれた気がする。

その後、じいさんに一杯おごって、騒ぎが収まらない〈踊る回転草亭〉を出た。

「どう思う?」

 俺は、隣を歩くフィリスに言った。

「凄まじい威力だった。あれならば、人の頭を砕くことも可能だと思う」

「剣を一振り、都合してくれないか。試したいことがある」

「かまわないが、何をする気だ?」

「実際に剣を持った相手に、じいさんと同じ攻撃が通用するかを検証したい」

「ソリオ老人が、今回の犯人だと思っているのか?」

 フィリスが意外そうな顔をする。

 俺は、少し考えてから答えた。

「いや、それはないと思う。確かに、じいさんの腕前なら人も殺せるだろうが、豪商人やら騎士やらを殺す理由がない。それに、……」

 俺は、近くの露店からウジェを二本借りてくる。露店商は、肉を焼いていた。「一つどうか」と言ってきたが、何の肉か知っているので、丁重に断った。今は鼠を食う気分じゃない。

「ほら」

「持ってきてしまっていいのか?」

「いいのさ、これは貸しウジェだ」

「貸しウジェ?」

 シュードスの下町では、ウジェは、本当にありふれた道具だ。中町や上町ではどうだか知らない。フィリスの反応を見ていると、あまり一般的ではないようだが。

 下町では、ありふれ過ぎていて、道に面した商店や少し大きめの露店などでは、誰もが持っていけるウジェが置かれている。通称〈貸しウジェ〉だ。持って行った者は、いつ返しに来てもいいし、返さなくてもいい。不思議なことに、これでウジェがなくなることはない。持って行かれた分、誰かが置いていくからだ。

「と、いうことは?」

 半ばあきれたような声で、フィリスが言った。

「ああ、どこの誰でも、このウジェを持って行けるということだ。つまり、凶器がそこら中にあるってことさ」

「なんてことだ……」

 フィリスがうなった。

「凶器がわかって、それを使う達人がいたとしても、犯人とは限らない。どこにでもあるからな」

 俺は、手にしたウジェを眺めつつ、言った。

「だからこそ、実際に、どういう風に戦ったのか、知りたい。試してみる価値はある」

 人を殺すという行為には、それを行なった人物の特徴が現れる。簡単なところで言えば、初めてか手馴れているか、という点だ。他にも、右利きか左利きか。男か女か。背は高いか低いか。肩幅の広さ、体重。

 しかし、まあ、フィリスに一から十まで説明する気もないが。

「剣を都合するのはいいとして、その後はどうするのだ?」

「人気のないところで、俺とあんたで、戦うのさ。ウジェと剣でな」

「私とあなたで?」

「そうだ」

 しばらく考え込むフィリス。

 問題はないはずだ。見たところ、フィリスは相当に剣を使う。体の動かし方を見ればわかる。本人は戦場に行ったことはないようだが、剣の腕だけで考えれば、戦場でもかなりの戦果を上げられただろう。

「わかった。それならば丁度いい場所がある。剣も調達できるし、邪魔も入らない」

 そう言うフィリスに連れられて、やって来たのは、なんと警護隊の下町宿舎だった。

「俺は入れないんじゃないのか?」

 この宿舎に入ることができるのは、当然ながら、警護隊の者のみだ。

 俺の指摘に対して、フィリスは「平気だ」としか言わず、事実、正面入り口の衛兵に誰何されたものの何の問題もなく中に入ることができた。

 警護兵の寝泊りする宿舎本体には近寄らず、そのまま、訓練場へと入る。

 そこは石造りの広間になっており、壁際にはいくつもの武具がそろえられていた。決して広いわけではないが、ゆうに二十人以上は一度に訓練ができそうだ。

「剣は、これでいいかな。ベリットが持っていたものと、ほぼ同じ寸法だ」

「ああ、それにしよう」

 俺とフィリスは、他に誰もいない訓練場で向かい合った。

 入り口に、〈使用中〉の看板を出し、中に誰も入ってこないようにする。

 別に見られてもかまわないのだが、他に人がいると集中できない。フィリスが人払いをしてくれて助かった。

「さて、俺がウジェ、フィリスは剣だ」

「わかった」

 二人とも、五歩程度離れて、それぞれの武器を構える。

 フィリスは、剣を頭上に振りかぶるようにして持った。両足は前後に、軽く開いている。騎士たちが言うところの〈大鷲の構え〉だ。

 ベリットは、騎士として十分な訓練を積んだ若者だった。腕力に自信がある騎士ほど〈大鷲の構え〉を選ぶ。

「ベリットは、若く、肩幅も広い。おそらく、〈大鷲の構え〉を取ったはずだ。それに、彼の周辺には、盾も短剣もなかった。だから、剣は両手で持った可能性が高い」

 フィリスは、現役の騎士としての立場から、ベリットの行動を分析していた。

俺も、フィリスの言うことに賛成だ。

さて、気力十分の〈大鷲の構え〉に対抗する俺はといえば、ソリオじいさんと同じ体勢をとる。

右足を大きく引いて体を開き、前傾姿勢。体に隠すように持ったウジェは、右下に下げる。

「問題はここからだな。実際に戦うとすれば、両者はどう動く?」

 立ち会ってみて気が付いたが、これでは駄目だ。

 ソリオじいさんの、ウジェの使い方が、正しいもので伝統的なものであるならば、剣に対しては不利だった。

 いかにも上段から振り下ろしそうな〈大鷲の構え〉だが、その実、応用が利く。下段に斬り下ろすこともできるし、斜めに斬り込むこともできる。

 体をひねってウジェを振っていては、間に合わない。

 どうにかして、剣の軌道を絞る必要がある。相手の攻撃を限定させて、先を読まなければ、戦いにならない。

「ベリットなら、切り抜けられたかもしれない?」

 フィリスは、眉根にしわを寄せながら言った。

 その通りだ。これならば、ベリットは死ななかったように思えて仕方がない。

 不可解だ。何か見落としているのだろうか。

「そうだな……。いや、待てよ」

 閃いた。

「フィリス、ベリットが発見されたのは、路地だ。かなり狭い。だから、真横に剣を振ることは難しい。攻撃は、上方から斬り下ろすか、突くかだったはずだ。それに、これならどうだ?」

 俺は、先ほどよりも深く上体を倒し、首を伸ばすようにして構えた。

 上体が、かなり地面に近くなっているが、その分、体重による力の溜めが効いている。

「これは……!」

 フィリスが驚いたように言った。

 きっと、彼女の方からは、俺の頭に体の大半が隠れたように見えていることだろう。だから、必然的に、まず頭に攻撃をしかけることになるはずだ。

 フィリスがうなった。

「どう仕掛けても、頭を狙うことになるな」

 これだ。

 頭を狙わせて、先の先を読み、剣を折る。そして、ひねりをくわえた一撃で、ベリットの頭を砕いたのだ。

「やってみよう」

 俺はフィリスに目配せをした。女騎士は、力強く頷いた。

 二人、一様に気息を整える。視線を交わし、拍子を合わせた。暗黙の内に、心構えだけは本気なる。自己暗示だ。目の前の相手は敵。

 一瞬の間。

 フィリスが動いた。

 素早い踏み込みから、剣が振り下ろされる。〈大鷲の構え〉の利点を最大限に生かした斬り下ろしだ。

 しかし、予想通り、狙いは頭だった。

 フィリスの腕や肩ではなく、剣を狙って、ウジェを横殴りに振る。極端に前傾の体勢だったため、左肩を引くようにして振ると、意外なほど力が出せる。ただし、完全な横殴りにはならなかった。下から上へ、刷り上げるようにして振った。

 金属が弾かれる音が響いた。ウジェの上端が、柄の部分を直撃し、剣が折れて飛んだのがわかる。そのまま、体を一回転させる。

 前に進むと、フィリスの体に激突しそうだったので、斜め前に、二人の体を入れ替えるようにして進んだ。

 回転の力を加えて、一気にウジェを振り下ろした。

 眼前に、剣を弾かれて無防備になったフィリスの側頭部。

「ひっ」

 息を呑む声が聞こえた。

 俺は、木槌がフィリスの頭を砕く寸前に、両腕を自分の体に引き付け、ウジェを空振りさせた。

 石を砕く音が聞こえた。

 空振りさせたウジェが、訓練場の敷石を割ったのだ。表面だけだが、石畳を割るとはかなりの威力だ。

 足下に向けていた視線を、フィリスに移す。

 女騎士は、肩で息をして、両目に涙を浮かべていた。当然だろう、命の危険を感じたのだ。例えそれが、実験であったとしても。

「大丈夫か?」

 聞くと、フィリスは、頷きを返してきた。しかし、言葉はない。体が小刻みに震えている。明確な恐怖のにおいがした。

「これで、ベリットがどう死んだのか、わかってきたな」

 か細く、しかし、はっきりとした声で、フィリスの口から呟きが漏れる。

 確かに。先ほどの立ち会いが、ベリットやボリス卿の命を奪ったものと同等である可能性が高い。いまのところ、一番の有力候補だ。

 しかし、他にも気になることはある。

「次は、誰がやったか、ということだな」

 声に出して言うと、フィリスが大きく頷いた。

 今度は、体の震えはなかった。

「あの、女だろうか?」

 折れた剣を片付けながら、フィリスが言った。

 その言葉に、俺の脳裏にも、あの夜のことが蘇ってきた。手裏剣でサディアスに重傷を負わせた、あの長い髪の女だ。

 あの女には、俺も借りがある。サディアスの件ではない。五年ほど前の話だ。

 だが、ウジェを使っての殺しは、あの女ではない。

 できるだろうが、やらないはずだ。

「いや、あの女とは思えない。別の者だろう」

 俺は率直に言った。だが、あの女は、必ず関わっている。それがどういう関わりかはわからないが、直感だった。

 ウジェの使い手は、暗殺者と言うよりは、戦士のようだ。相手の正面に立ち、一手に賭ける手練の戦士。

それに対して、あの女は、生粋の暗殺者だ。全く毛色が違う。不思議なもので、暗殺者は、標的を殺す手段にこだわる。自分にとって、どういう殺し方が適切なのかを見出し、それを磨き上げる。やがて、殺し方自体が、その暗殺者の代名詞となっていく。

一方で、正体を知られないようにするという矛盾も抱えることになる。正体がわかってしまっては、それだけで不利なのだ。優秀な暗殺者の証明は、目的を遂げることだけではない。生還することも含まれる。

 これが傭兵や騎士ならば、戦で相手を殺したとき、それが自分の手柄であることを喧伝しなければならない。それが、彼らの存在意義だ。

 その点で言えば、ウジェ使いは、暗殺者と戦士の中間的な行動を取っているとも言えるだろう。

「では、ウジェ使いと、女暗殺者が、どこかでつながっていると?」

 フィリスも、事件の犯人を〈ウジェ使い〉と呼び始めた。

「たぶんな。全く関係のない者が、事件を調べている俺たちを狙ってくるとは思えない。まあ、両者が味方同士とは限らないが……」

 女暗殺者が、ウジェ使いの補助をしていることは、十分に考えられる。

 だが、これについては、何の確証もない。

 結局、俺たちが突き止められたことは、凶器としてウジェがもっとも有力だということだけだ。

「やれやれ、難題を引き受けちまったよな」

 思わず、声に出てしまった。

「そうだな、難題だ。だが、解決しなければ」

「ああ、そうだな」

 いつの間にか、フィリスの顔には、敢然とした表情が浮かんでいた。立ち向かうべき敵を見出した者の、決意の表れだ。

 いい表情だと思った。希望が持てる。

 まあ、立ち向かうべき敵というのが、あまりにも漠然とした相手であることが、先行きを不安にさせるが。

 フィリスと俺は、訓練場を出ることにした。これ以上ここにいてもやることがないというのが、二人の共通の意見だった。

 入れ替わりに入ってきた若い警護官が、かすかに汗をかいていたフィリスを見るなり顔を真っ赤にしていたが、その後で砕かれた剣を発見して叫び声をあげていた。気の毒に。

 外に出ると、すでに暗くなり始めていた。少し雨のにおいがしている。

収穫祭前のこの時期は、すぐに夜がやってくる。中町の方からは、城門が閉まることを知らせる、鐘の音が聞こえてきた。

 下町から中町へと続く街路は、城門が閉まっても、衛兵に話をすれば通ることができる。通用口があるのだ。だから、周囲には、焦って門を通ろうとする者はいない。

 警護隊の下町宿舎は、むろん、下町にあるから、この名がついている。詰め所も兼ねていて、常に警護隊が一大隊以上は配備されていた。ただし、下町にも中町にも、そして上町にも一大隊が配備されているため、当然ながら、一番広い下町区画は人手不足だった。

加えて言えば、この宿舎は下町区画のほぼ中心に位置している。中町も上町も、これは変わらない。有事の際にどこへでも行けるよう、中心部にあるのだそうだ。

「日が短くなったな」

 フィリスがつぶやく。静かな声だ。都市に住む者は、暗くなると声を落とすというのが身に付いてしまっているのかも知れない。

「中町まで帰るのか」

 俺は、遥かに見える城門を見ながら言った。

 話のついでに聞いたが、フィリスの家は中町にあるそうだ。宿舎にも部屋は用意されているが、家に戻ることも多いらしい。

「ああ、そのつもりだ」

 フィリスも同じ方向を見ている。

「城門が閉まっても、簡単に出入りできるのは、警護隊の強みだな」

 少し、微笑んでいる。

「そうか。……、警護隊の小隊長に言うようなことじゃないが、気をつけてくれよ」

「意外だな、心配してくれるのか」

「意外だと思われているのは心外だ」

「ははは」

 街路で別れると、俺は西側に、フィリスは北へと歩く。

 しばらくすると、ぱらぱらと雨が降ってきた。秋の到来を知らせるような、冷たい雨だ。

 上空を見上げ、ため息をついた。

「やれやれ、全くついてな……」

 ふと、脇を見ると、路地の向こう側、今俺が歩いている道と平行に作られた道。そこを走っていく人影が見えた。

「ソリオじいさん?」

 杖を持って、よたよたと走っていく。その姿は紛れもない、ウジェの達人ソリオだった。

「あんなところで何を?」

 どこへ行こうとしているんだ。こんな雨が降っているというのに。日が暮れてから外出する用事でもあるのか。

 様々な疑問が浮かんでは消える。気が付けば、ソリオじいさんの後を追っていた。

 じいさんは、脇目も振らず、〈大通り〉へと合流した。何かを探すように、激しく首を振って周囲を見渡し、意を決したように、一本の路地へと入って行った。

 俺はじいさんのすぐ後ろについていた。激しくなりつつある雨の音と、忍び足とで、じいさんは一向に気が付かない。

 そのときだ、どこかからか、金属がぶつかる音が聞こえた。

 近くだ。

 入り組んだ路地の中で、その音を聞いたじいさんは、一瞬、身をすくませ、すぐに走った。音のした方向だ。

 俺は、じいさんを追う。まさか、という予感があった。

 悪い予感ほど、よく当たるというのは、古来、語り継がれていることだ。実際に悪い予感がするまでは忘れているものだが。

 狭い路地の只中に、二人の人物がいた。

 一人は、フィリスだ。こちらに向けられた顔は蒼白で、雨が伝っている。ゆるく波がかった髪の一房が、白い頬に張り付いていた。

 どこかで拾ったものか、鉄の棒を持っている。馬車か荷車の部品のように見えるが、定かではない。

 その正面、こちらに背を向けているのは、黒いローブの男。手にしている武器はウジェだ。

 しまった。

 内心でうめいた。まさか、フィリスを狙うとは。

 だが、待てよ。じいさんはなぜ、このことを知っていた?

 そう思ったとき、じいさんが駆け出した。迷うことなく、ウジェ使いに向かってだ。

 それに気付いたフィリスが、手を前に突き出して、制止しようとする。

 だが、それよりも先に、じいさんはウジェ使いに飛び掛った。

 ウジェ使いは、じいさんの行動に気付いた。手に構えた木槌を振るおうとしたが、なぜか、その動きが止まる。

 大した抵抗もせず、じいさんに捕らえられる。

「オルギス、ばかな真似はよせ!」

 じいさんが、鋭く言った。

 オルギス?

 それは、確か、戦争で死んだっていう、じいさんの息子の名前じゃなかったか?

 両腕をじいさんに掴まれたウジェ使いは、それを振り解こうともがいている。その隙に俺は、組み合った二人の脇をすり抜け、フィリスとウジェ使いとの間に滑り込んだ。

 フィリスを背にかばいながら、五歩ほど後退する。

「大丈夫か?」

 やや大きめの声で言う。雨音が激しくなってきた。

「ああ。……、ソリオはなぜここに?」

「わからない。だが、あのウジェ使い、どうもじいさんの息子らしい」

「な、なんだって?」

 フィリスの叫び声が耳を打つ。

 驚くのも無理はないだろう。あのウジェ使いか、本当にじいさんの息子だったら、意外などというものではない。

 と、そのときだった。

 上空から、何か、大きな布のようなものが降ってきた。

 いや、違う、あれは外套だ。

 翻る、あの女の外套。

「危ない!」

 口から出た言葉は、あの夜と同じだ。

 俺の声に反応したわけではないだろうが、ウジェ使いが、じいさんの体を自分の方へと引き寄せる。女の持つ剣から引き離そうというのだろう。

 だが、それは間に合わなかった。

 長い髪を顔に張り付かせた女が持つ、湾曲した細身の剣は、音もなくじいさんの背中へと吸い込まれていった。

 女が、こちらを見て、にたり、と笑う。同時に、剣を引き抜く。血が、雨の中に舞った。

「親父!」

 ウジェ使いが叫んだ。やはり息子だったのか。

 そう思ったときには、すでに体が動いていた。

 俺は、狭い路地を形作っている建物の壁に向かって飛んだ。そして、壁を一蹴りし、反動で勢いをつけ、向きを変える。行く先にある、ウジェ使いオルギスの肩を踏み台にして、上方へ飛び上がると、腰にくくりつけた短剣を、二本同時に引き抜いた。

「あは、あははははは!」

 女は甲高い声で笑っている。しかし、その目は片時も俺からは逸れない。

 俺は、身を上下反対にして、横に回転する。両手の短剣で挟み込むようにして、女の首筋を狙った。

 笑う女は、冷静に、俺の短剣を打ち払い、一瞬、火花が散る。

 女を飛び越えて着地したが、視線は敵から離さない。

 両手に持った湾曲剣を、振りかぶるのではなく、突き込むようにして、お返しとばかりに俺の首を狙う女。

 踏み込みが恐ろしく早い。

 立ち上がる余裕がないので、咄嗟に後方へと転がり、距離をとる。

 連続して突き出される湾曲剣。

 俺は、自分の手にある短剣で、それを防ぐが、三度、四度と続くうち、だんだんと追い詰められていく。

 そもそも、立ち上がれないのが辛い。だが、裏を返せば、あの女の狙いもそこだ。俺を地べたに這わせたまま、殺す気なのだ。

 だが、突然、俺への斬撃が的を反れ、女は背後を振り向いた。

 その視線の先には、オルギス。

 ウジェ使いは、素早く身を寄せて、ウジェを突き出した。

 女の顔面を狙う鋭い攻撃だったが、驚いたことに、この女は上体を反らせて避けた。あまりにも深く背を反らせたため、背後にいるはずの俺と目が合った。

 にたり、と獣のように歯を剥いて笑う。

 やれやれ、気味の悪い女だ。

 体を元に戻す反動を利用したのだろう、女の、オルギスへの斬撃は特に鋭かった。だが、オルギスもさるもの、ウジェを巧みに使って、攻撃を防ぐ。

 図らずも、二対一となった。

 前後から挟み込み、俺は両手の短剣で、オルギスは硬いウジェの木槌で攻撃を繰り返した。

 いや、正確に言えば、俺がやっているのは攻撃ではない。攻めていないと、女にやられてしまうそうな気がしている。

 つまり、俺は攻撃をして女の次の手を封じているというわけだ。次から次へと攻め込んで、防御している。

 全く、恐ろしい敵だ。

 速さ、強さ、鋭さ、柔軟さ。全てにおいて驚異的な力を持っている。

 ふと、フードの下からのぞいたオルギスの顔も、全く余裕が感じられなかった。

 思いは俺と同じというわけか。

「ふふふ、はははははは」

 女は楽しそうに笑っている。

 稲妻が光り、雷が鳴った。

 その瞬間、オルギスが俺を見た。

 何かはわからなかったが、合図であることは悟った。

 オルギスがウジェを振るう。

 二度、三度。そのどれもが素晴らしい鋭さを持っており、一度でも当たれば致命的な一撃となるであろう攻撃だ。

 さしもの女暗殺者も、笑いを引っ込めて、防御に専念する。

 しかし、威力の高い攻撃というのは、そうそう長続きはしない。普通は、ここぞというときに一撃を決めるものだ。

 ウジェの狙いが鈍った。

 これに反応しない殺し屋はいない。

 女は、そこで動くのが当然と言わんばかりに、滑らかに動いた。

 左右同時に突き出された湾曲剣は、一方がウジェによって防がれ、一方はオルギスの胸を捉えた。

 この瞬間を待っていた。

 俺は女に背後から斬りかかった。

 女は、オルギスの胸に刺さった剣を手放し、素早く体を反転させて、残った方の剣を振るった。狭い路地なので、真横に振るうことはできない。長剣よりは短いが、俺の短剣よりも長い、特別な武器だ。壁に当たることを警戒したのだろう。

 手首を返して、斜めに振り下ろした。

 そこが狙い目だった。

 俺は、一度、身を地面すれすれまで沈めると、女の脇の下をすり抜けた。逆手に持った短剣で、脇腹を切り裂く。

 いや、切り裂いたつもりだった。

 激しい手応え。何か、硬い木のようなものに、剣を叩きつけたかのようだった。

「ぐぅ!」

 女は、うめくと、ぱっと身を翻して、俺たちと距離をとった。

 外套が裂け、その隙間から、木と銅板を組み合わせた胸当てがのぞく。

 道理で妙な手応えがすると思った。

「くふふ、やるじゃないか、お二人さん。まあまあ、楽しめた。その剣は記念にやるよ、私と会ったことを、忘れないようにね。あはははは」

 言うだけ言うと、女は走って行く。

「まて、お前の名は!」

 咄嗟に口を出た。別に名前なんぞ聞く気もなかった。

 しかし、意外にも、相手は答えた。

「シリル!」

 くそったれめ。

 打ち付けるような雨の中、地面につばを吐く。少し血が混じっている。

 背後を振り返り、倒れたオルギスに駆け寄った。

「しっかりしろ!」

 無茶なことを言っている自覚はあるが、他にどう言えというのだ。

 まだオルギスは生きていた。

 見れば、シリルの剣は、オルギスの心臓をわずかに外していた。奇跡的に、まだ意識を保っているようだ。

 ウジェ使いのオルギスは、こちらに向かって、不適に笑った。

「ふっ、どうやら、年貢の納め時らしいな」

「利子が多いからな、簡単に納められると思うなよ」

 皮肉を言ってやると、オルギスは、にやりと力なく笑った。

 次いで、ソリオじいさんの方を見る。オルギスと同じ奇跡が、じいさんにも起きているのではないかと、わずかに希望を持っていた。

 だが、じいさんに寄り添うようにしゃがみこんでいる、フィリスが、こちらへ向けて首を振ったのを見たとき、現実を知った。

 そう甘くはない。

 じいさんの亡骸は俺が背負うことにして、フィリスには瀕死のオルギスに肩を貸してもらった。

「どうするんだ?」

 少し、声を詰まらせながら、フィリスが言った。もしかしたら、また泣いていたのかもしれない。

 サディアスが怪我をしたときにも思ったが、フィリスが泣くことを責めるつもりは、毛頭ない。優しいということは欠点ではない。まあ、時と場合によるが。

「神殿に行こう。カイルがいるはずだ」

 フィリスが頷くのを確認して、俺は足を踏み出した。

 背負ったじいさんの体は、軽く、そのことに少しだけ戸惑った。

 路地を通り抜けてたどり着いたシグの小神殿は、扉が閉まってはいたが、鍵はかかっていなかった。

 正面入り口の木製扉を蹴破るようにして開けると、カイルが飛び出してきた。

「何があったんだ、リアン!」

 カイルの後ろには、二人の神官が付き従っていた。

「すまん、カイル。襲われた」

「なんだと!」

 俺が背負っているのが死人だということに気が付くと、カイルは一瞬、表情に憤怒を燃やした。肩から陽炎が立ち上るような迫力を持った怒りだ。

「デニス、ロッカ、すぐに死者を清めてくれ。そちらは怪我人か、重傷だな。こっちへ寝かせてくれ」

 戦傷者を数え切れないくらいに見たカイルの反応は早かった。

 すぐにソリオじいさんは、雨水を拭き取られ、柔らかな布でくるまれて寝かされた。背中から胸まで貫かれた傷口からは、わずかな血しか出ていなかった。雨に流されてしまったのだろう。

 オルギスは、分厚い布が敷かれた、石台の上に寝かされ、ゆっくりと剣を引き抜かれた。傷口から、血が溢れる。

 体の中の、太い血管が切られているのかもしれない。

「神に奇跡を願おう」

 カイルが言った。つまり、放っておけば死ぬということだ。

「いや、待ってくれ。奇跡はいらない、それよりも話したい。あんた、こっちへ」

 オルギスは、カイルを押しのけて、俺を手招きした。

 カイルは、口の中で何事かをつぶやいた。祈りの言葉だろう。指でシグの印を結んでいる。しかし、直後、苦虫を噛み潰したような顔になる。オルギスが、本心から神の奇跡を拒んでいるようだ。

聞くところによると、神の奇跡は、それを受ける者が奇跡を拒否した場合、効果を発揮できないのだとか。どういう仕組みなのかはわからない。

昔、俺も奇跡で怪我を治してもらったことがある。そのときは神官から、「とにかく神を受け入れなさい、信仰していなくとも構わないから」と言われた。

 俺とフィリスは、カイルが用意してくれた大判の分厚い布に、服の雨水を吸わせながら、オルギスの横たわる石台へ近付いた。

「俺にはやらなければいけないことがあった。最初は、個人的な復讐だったが、やつのことを調べるうち、だんだん、話が大きくなっていった」

 オルギスは話し始めた。

 ことの始まりは、三年前に終結した第三次大陸戦争だ。

 このウェルサーノ大陸は、何世代にも渡って、戦争が続いていた。

 最初はいくつもの小国が、互いに互いを潰し合う混沌とした戦いだったが、徐々に力の強い国だけが残っていった。第一次大陸戦争と呼ばれるものが、一応の終わりを見せたのは、今から百年ほど前だそうだ。このとき、七つの国が残った。

 第二次大陸戦争は、この七つの国同士の戦いだった。これは、決着がつかず、どこからともなく停戦協定が発案され、一旦は痛み分けに終わる。

 そして、俺も参加した第三次大陸戦争。

 この戦争は、およそ三十年ほど前から始まった。

 最初から激戦が繰り広げられ、開戦から五年と経たないうちに七つの国のうち、二つが滅んだ。

 ちょうどその頃、オルギスは、傭兵として戦場に立った。

「どの国でも傭兵を募集していた。親父も俺も張り切っていたよ」

 フォルデラント王国に属した傭兵部隊は強かった。

 連戦連勝とはいかなかったが、敗走しても生き残る者は多く、すぐに追加戦力も割り当てられた。報奨金も手に入り、最新の武具も買うことができた。

「だが、俺も親父も、ウジェにこだわっていた。他の武具を使わなかったわけじゃないが、常にウジェを持ち歩いていた」

 今から二十年ほど前、傭兵部隊には、王国の正規軍から出向したばかりの、指揮官がいた。この男は若く優秀で、人の使い方がわかっていた。信頼が厚かった。

 終戦の数年前、部隊の中から百人の精兵を選び、特別な任務が与えられることになった。

 オルギスは、選ばれた。

 内容は知らされなかったが、周囲から信頼を集める指揮官のすることだ、特に疑問はなかった。報奨金も出るというし、文句を言う者もいない。

「仕事は簡単だった。敵軍の補給部隊を襲って、物資を奪い、帰ってくる、それだけだった。もちろん、上手くいったさ」

 そう言って、かすかに笑うオルギスの唇は青黒く変色している。口から吐き出される吐息には血のにおいが濃くなっていた。

「俺たちは、任務を果たし、指揮官が用意した隠れ家に入った。どこかの貴族の屋敷で、百人くらいは余裕を持って入ることができるほど広かった。豪勢な食事、高級な酒、女たちとのお楽しみ。最高だった」

 ところが、それは全て悪夢の始まりだった。

 部隊の者は全員が割り当てられた部屋に引き上げ、何の疑いもなく眠りについた。もちろん、一人残らず女を連れて行った。

「気が付くべきだったかも知れん。今となっては、全てが上手く行き過ぎていた」

 オルギスは顔をゆがめる。傷が痛むのか、あるいは、出血で意識が朦朧としているのかもしれない。血に混じって、怒りのにおいがする。

「真夜中を過ぎた頃、俺はふと目を覚ました。眠る前は、かなり酔っていたし、なぜ目覚めたのかはわからない。だが、何かを感じた」

 見ると、一緒に寝ていたはずの女がいない。それに、窓の外が明るかった。朝日ではない。日の光ならば上から差し込むが、その明かりは下から注がれていた。

 炎の色だった。

「屋敷に火が放たれていた。部屋から飛び出すと、もう火の海さ」

 部隊の者は、オルギス以外、全て焼け死んだ。

「俺は、背中に大火傷を負い、命からがら逃げた。どうやって逃げたか? わからんね、とにかく、怒りだ。怒りしかなかった」

 焼け跡には、一度だけ戻った。生き残りを探してのことだったが、わかったのは、誰も残っていないということと、女たちが、屋敷の広間に集められ、みんな殺されていたということだけ。

 その後、オルギスは隣国のウォルフガル帝国へと逃げ込んだ。大陸の北方を治める大国だ。

「俺は、指揮官を探すことにした。あの屋敷に死体が無かったのは指揮官だけだ。何か事情を知っているはずだと考えた。傷を治し、もう一度ウジェを振れるようになるまで、五年かかった。やっとまともに戦えるようになったころに戦争は終わったが、俺は諦められなかった」

 フォルデラント王国に戻り、かつての傭兵仲間と連絡を取ったところ、オルギスたちは任務遂行のために命を落とした英雄のような扱いになっていた。

「何が英雄だ。俺は、あのときに屋敷の焼け跡で見た、仲間の姿が忘れられない。真っ黒に焼け、灰とこげた肉だけになった仲間たち。忘れられるものか。必ず復讐してやると、シグに誓った」

 自分が生き残っていることを知る者はわずかだった。それを利用して、オルギスは調査を始めた。

片っ端から、事情を知っていそうな者に話を聞いて回った。脅しもしたし、殺しもした。そして、指揮官がシュードスに屋敷を構え、暮らしていることがわかった。

 オルギスは終戦直後、一度、シュードスに来ていた。内情を探るためだ。

 そのとき、百人部隊の生き残りがいることを発見した。自分以外にはいないと思っていた生き残りが、たった一人だけいた。オルギスは、喜びはしなかった。なぜなら、そいつは裏切り者だったからだ。

 貴族に取り入って、仕事をもらい、のうのうと生きていた。

 すぐには殺さなかった。しばらく様子を見て、周囲を徹底的に調べ、きちんとした仕事をしようと思った。

 そして、今回の事件だ。

 最初に上町で殺された者は、貴族の家臣。オルギスの部隊を裏切った男。

 女を用意した商人も、シュードスにいた。中町の豪商人。

「俺の部隊の指揮官も、上からの命令で動いていたことがわかった。実は一番時間をかけて調べたのは、その命令を出した者のことだ」

「調べはついたのか?」

 カイルが言った。この司祭は、元傭兵だ。もしかしたら、オルギスと同じ部隊にいたこともあったかもしれない。

「ああ、だから連中を殺したのさ。俺の部隊の指揮官の名はボリス卿ヴァファルス。俺たちを捨て駒にした黒幕は、ユーゲンハート伯爵だ」

 フィリスの息を飲む音が聞こえた。

「ばかな、伯爵が、そんなことをするはずがない!」

 勢いに任せた言い様だった。フィリスにしてみれば、自分の所属する警護隊の長官であり、個人的にも知己となった伯爵の、思いがけない蛮行を知ったということになるだろう。

 俺は、オルギスの話には驚かなかった。伯爵を怪しんでいたというわけではない。誰にでも隠しておきたい過去はあるものだからだ。

「嘘じゃないさ、辻褄を合わせられる証人もいる。ここから西へ十日ほど行ったところに、カーチャックという小さな村がある。何もないところだ。そこに住んでいるダリという農夫が、若い頃にユーゲンハート伯爵の下で、働いていた。そいつは、伯爵と、ある組織との間を行き来していた。使者としてな。毒薬を使って、どこかの村を消したりもしたらしい」

 ごほごほ、とオルギスが咳き込む。

 ちょっと待て、ある組織に毒薬で消された村だと?

「俺の最後の狙いはユーゲンハートだったのに、親父に見られちまうとはな。咄嗟に顔を隠したんだが、ばれた。ははは、もう、無理か……。ちくしょうめ」

「ちょっとまて、まだ話は半分だぞ」

 俺は、オルギスの顔に自分の顔を近づけて言った。

「そうだ、ベリットは。あの騎士をなぜ殺した?」

 フィリスが言った。

 俺が問い詰めている部分を勘違いしているようだ。まあ、わかるはずもないか。

「ああ、あの騎士は……、間違いだ。ユーゲンハートに、俺を殺すよう、命じられたのさ。俺は……、殺す気は……」

 オルギスの瞳から、急速に光が失われていった。

「待て、オルギス、待ってくれ!」

 俺は、ウジェ使いの肩を揺さぶった。たくましい肩だが、少し歪んでいる。火傷の跡だった。

 オルギスの、うつろな目が、フィリスを見た。

「あ、あんたは、やつが重用している女だと聞いた。だから、やつの仲間かと思ったんだ。違ったようだな、すまん」

 そして、動かなくなった。

 これで、シュードスの連続殺人は、解決したことになるだろう。

 だが、新たな問題が浮上した。

 ユーゲンハートが関わっていた組織が、あの組織だとしたら。そして、消された村がラオイン村だとしたら。

 俺の復讐は、中途半端だったということになる。

「そんな、ばかな」

 フィリスの呟きが聞こえた。

 雨に濡れた髪が、少しずつ乾いている。女騎士の体からは、かなり薄くなった香の残り香と、路地裏の泥、そして強い困惑のにおいがした。

 フィリスは、これまで見る限り、誠実で公正な人物だ。相手が殺し屋だからといって、その言葉を頭から否定するようなことはしない。しかし、今回の件で言えば、きっと否定したいという感情が大きいことだろう。

 オルギスの言葉を信じるとすれば、ユーゲンハート伯爵もボリス卿も、非道な者たちだということになる。

「リアン」

 背後から声がかかる。カイルだ。

「弔いの儀を行わなければならない。死者に親族は?」

「ああ、そうだな。……、この二人は親子だった。母親は何年も前に死んでいるはずだ。他に親類は、聞いたことがない。調べてみよう」

「頼む。……しかし、戦争は終わったはずなのに、血が流れることだけは終わらないな」

 そうだな、カイル。あんたはそれが嫌で神官になったはずなのに、こうして流血を目の当たりにしている。

案外、何も終わっちゃあいないのかもしれないぜ。

 そう思ったが、言葉には出さなかった。



      五


 夜明け間際に雨が上がった。

 俺、フィリス、カイルの三人は、一睡もしないまま夜明けを迎えたが、三人とも眠れない事情が違っていた。

司祭であるカイルは、死者たちへ黙祷を捧げ、女神シグに祈り続けていたし、フィリスは、おそらく、ユーゲンハート伯爵や、ボリス卿、ベリットなど、殺された者たちについて考えていたのだろう。一人で、ずっと雨の降りしきる外を眺めていた。

俺は、オルギスが言った、〈組織〉と〈消された村〉について考えていた。

戦時中、様々な理由から壊滅した町や村がたくさんあった。ある村は単純に戦場となって、人が離れ、戻ってこなかった。また、ある町は男たちが軒並み兵士として徴用され、女たちだけでは暮らしていけず、次第に人口が少なくなって、最後には誰もいなくなってしまった。

消えた村というのは、特別に珍しいわけではないということだ。

だから、オルギスの言っていた村は、ラオイン村ではないかもしれない。

ウジェ使いの話を聞いてから、ずっと、同じことを考え続けている。何度考えても同じ疑問と同じ結論。

だめだ、オルギスの言葉だけでは、なんとも判断できない。今日のところは考えるのをやめよう。

そう思っても、いつの間にか、同じことを考え始める。

どん詰まりだった。

「リアン」

 静かな、鈴の音のような声が聞こえる。

 フィリスだ。

「ああ、どうした」

 何でもない風を装って言った。〈昔取った杵柄〉というやつで、感情を抑えることは得意だったはずだが、今度ばかりは上手くできているかどうか、不安だった。

「いや、……あなたには命を助けられたのに、礼も言っていなかったと思って。すまない、考え事に夢中になってしまった」

 頭を下げるフィリス。

 妙なことを気にする。単に律儀なだけなのだろうが……。

「気にしないでくれ。俺も、いろいろ考えちまってな」

 思いがけず、ため息が漏れた。

「あなたは、戦場で、死者を背負ったことがあるのか?」

 フィリスが言った。その表情には、ためらいが見て取れる。きっと、様々なことを誰かに確認したいのだろう。

 自分が信じていたものが揺らぎそうになったとき、人はそうした態度を取るものだ。においを判別しなくてもわかる。

「そうだな、背負ったこともあるし、一晩中抱えていたこともある」

 言うと、俺を見るフィリスの表情が歪んだ。悔恨のにおい。質問を後悔したのか。

 俺は、にやり、と笑って見せ、「気にするな」と言った。本心だった。今日の俺たちのように、戦場でなくとも、死を経験することはあるのだ。いちいち気にしていては切りがない。

 二人で黙りこくって、しばらく、外を見ていた。そこへカイルがやって来た。

「リアン、クレイトン先生が探しているそうだぞ」

 カイルによれば、じいさんは何人かの使いを出して、俺たちの行きそうな場所に向かわせているらしい。

「じいさんが。……、何の用か言っていたか?」

「いいや、聞かなかった。急いではいないが、診療所へ寄ってくれとのことだ」

「そうか、わかった」

 小神殿を後にして、下町を歩く。

 フィリスはまだ、町の女のような格好をしている。俺と同様、神殿の暖炉を借りて乾かしたものだ。警護隊の制服は、先日の聞き込み以来、着る機会が少なくなったらしい。

小神殿を出て、少し歩いたが、フィリスは黙ったままだった。何かを考え込んでいるようだ。

「リアン、少し話があるのだが」

 そう言ったものの、フィリスはなかなか口を開かない。

 用件はわかっている。ユーゲンハート伯爵の件だろう。これ以上はないほどの話題だ。俺とフィリスでは、注目している部分が違うだろうが。

「ユーゲンハート伯爵の件だ」

 しばらく経ってから、フィリスが言った。

「ああ」

 俺は、先を促した。続きを待つことに苦はない。

 下町を歩くフィリスは、歩調を変えることもなく、また特に感情的になるでもなく話していた。

「伯爵から命じられた、事件の調査は、これで終わりになるだろう。そして、おそらく、オルギスの話を報告したとしても、殺人者の妄言として処理される」

 まあ、そうなるだろう。

 俺にしても、フィリスがここまで気にすることが意外だった。もっと、きっぱりと否定すると思っていた。

 伯爵がそんなことをするはずはない、と。

「だが、私は、調べてみたいと思う」

 フィリスは立ち止まった。俺も、足を止めて、女騎士の顔を見た。

 決然とした表情だ。

 カイルは俺を頑固者と言ったが、このお嬢さんも、なかなか頑固だ。

「なぜ、調べるんだ。オルギスはユーゲンハート伯爵を中傷したかっただけかも知れないぞ」

 わざと、否定的な意見を言った。俺自身、ユーゲンハート伯爵については、オルギスの言葉に疑いを持っているからだ。

 いや、疑っているというのは正確じゃない。確証がないだけだ。何にでも可能性はあるが、伯爵が黒だと決まったわけじゃない。

それに、俺とフィリスでは立場が違った。

俺は伯爵の身辺を調べたとして、何の心配もない。伯爵が極悪人だろうと、この疑惑が勘違いであろうと、最悪でもこの町を出て行けば済む。無論、悟られないように調べる自信もある。

しかし、フィリスは違う。このお嬢さんは貴族だ。おそらく、俺にはわからないような、強い〈しがらみ〉があることだろう。第一、警護隊の小隊長だ。表立って上役を調査などということになったら、死活問題にもなりそうだ。

だから、この件にこだわることが意外だった。

「兄が、オルギスと似たようなことを言っていたのだ」

「兄?」

そのときだった。

「あれ、リアンさん?」

 ドニーだ。

 こいつとは、よくよく縁があるらしい。

「ドニー、こんなところで何をしている?」

「俺の育った孤児院が、この近くなんですよ」

そういえば、ドニーは孤児だった。俺とフィリスが立っているこの道を、ドニーが歩いてきた方向へ進むと、この町にたった一つきりの孤児院がある。

歩いてきた方角から見て、ドニーは孤児院からの帰りのようだ。

「東区に帰るなら反対方向だろう?」

「この先の小神殿に、同じ孤児院のやつがいまして。デニスとロッカって言うんですけど」

 俺は、カイルに従っていた二人の神官を思い出した。

「ああ、あの二人か。なかなか立派な神官だな」

 言うと、

「そうなんですよ、俺とは大違い」

 と、ドニーは照れくさそうに笑った。

 自分を卑下するかのような言葉だったが、その実、表情には友人を誇りに思うかのような雰囲気がある。

 いいやつだ。

ひとしきり挨拶が済むと、ドニーは小神殿へと歩いていった。

思いがけず知り合いに出くわし、話が途切れてしまった。どこか、落ち着いて話せる場所に行った方がよさそうだ。

「場所を変えよう」

俺はフィリスを促して歩いた。

行き先はクレイトン先生の診療所だ。都合よく、診療所に呼び出されている。

下町の外れ、大きな二階建ての建物が、〈シュードス中央診療所〉だ。

その名の通り、中央区にあるわけだが、東区よりの場所に建っているため、じいさんの主な縄張りは東区だった。

この診療所、別に公の資金で建てられたわけではない。あくまでもクレイトンじいさん個人が経営する医術院だ。

じいさんは、王国軍の軍医だった。先代国王の肩から矢を引き抜いたのは、当時若かったクレイトンじいさん。そして、現国王の右目を救ったのは、年を取ったクレイトンじいさんだ。

王国軍への献身と、じいさん個人の業績をたたえて、建てられたのが、この診療所というわけ。

中に入ると、今日も混雑している。

周辺の住民からは英雄のごとく慕われているクレイトン先生だが、見れば、それだけが混雑の理由ではないらしい。

「次の方、今日はどうされましたか?」

 優しい声で、怪我人や病人に話を聞く女医師、タニアの姿があった。

 なるほど、みんな美人に寄って来るわけか。

「リアン」

 じいさんが、声をかけてきた。

「やあ、じいさん。俺に用だって?」

「うむ、その通りだが……」

 言って、じいさんはフィリスの方を見た。

 そして、目だけで俺に問いかけてくる。何事か、と。

「いろいろ立て込んでいてさ。奥を借りてもいいかな」

「構わんが、お前さんたちに客が来とるぞ」

 と、じいさんは奥を指差す。ちょうど、俺が行こうとしていた方向だ。

 見れば、片腕を厳重に固定したサディアスと、やや血色の悪くなったマクラムが、こちらに向かってやってきた。

「隊長、遅かったじゃないですか」

 サディアスが、控えめの声で言った。大声を出すと割れた鎖骨に響くらしい。

「ああ、……、お前たち、ここで何を?」

 今ひとつ状況が飲み込めないらしいフィリスが、怪訝そうな表情で言った。

 俺も、どういうことかわからなかったので、様子を見る。

「どうもこうもありませんよ。今朝、カイル司祭のところから宿舎に使いが来て、二人ともひどい有様で神殿に来たが、一応無事だとか、出し抜けに言いやがって」

 サディアスもマクラムも、焦って飛び出そうとしたらしいが、使いの者が、カイル司祭からの伝言として、「二人は休ませてからクレイトン医師のところへ向かわせるから、二人ともそちらへ行くように」と指示して帰ったのだという。

「全く、カイル司祭は剛毅な人で頼りになるかもしれないが、あの悠長さというか鷹揚さにはときどき……」

 何やら文句めいたことを言い始めるサディアス。

 それを押しとどめて、フィリスが言った。

「サディアス、肩の具合はどうだ。まだ四日と経っていないだろう?」

「ええ、まあ、何とか。先ほどクレイトン先生に診てもらいましたから」

 じいさんが横合いから口を挟む。

「安静にしておれば、もう十日ほどで、前のように動かせるようになる」

 じいさんは目を細めて、サディアスを見た。このじいさんが言うのだから、その見立てに狂いはないだろう。

「ありがとうございます、先生」

 フィリスは、じいさんに向かって頭を下げた。

 じいさんは、うんうん、と頷くと、俺を向き、

「お前さんたち、話があるのだろう。奥は好きに使え」

 そう言うと、老医師は、大きく手を振って、患者たちの待つ広間へと去って行った。

 診療所の奥には、いくつもの個室が並んでいる。これらの部屋は、動かせないほど重症の患者を寝かせておく場所や、薬の保管などに使われる。二階にも、だいたい同じような部屋が並んでいる。

 大きな建物の中で、フェス親子が生活のために使う空間は、本当に狭いものだ。

 個室の一つを借り、周囲には人気がないことを確認した俺たちは、ともかくも、昨夜の出来事を含めて情報交換をした。

「また、あの女かよ!」

 小声で怒鳴る、という実に器用な芸当をやってのけたサディアスだったが、興奮して体を動かしてしまったために、結局は痛みに顔をしかめることになった。

「無事で何よりでした、隊長」

 マクラムは、フィリスはもちろん、俺に対しても、心配の声をかけてきた。

 しかし、俺から見ると、マクラム自身も、かなり顔色が悪い。だが、病や怪我ということではなさそうだ。何か気になることでもあるのか。

「それで、そのオルギスという男の話、信じるんですか」

 そう言うサディアスの表情は、真剣そのもの。それも当然だろう。長官命令で事件の調査していたら、自分たちの長官が絡んだ(と思われる)事件を掘り起こしてしまったのだ。

 俺は調査員などやったことはないので、こうした事件の芋づるのようなつながりには縁がない。

 どう思っているのか聞きたかったが、この場では発言権がないので、黙っていた。

 フィリスは、しばらく口をつぐみ、考えているようだった。

「言っちゃあ、何ですが、頭のおかしい殺人者が、適当なことを口走っただけなんじゃないですか。伯爵を恨んでいたというのが本当なら、あり得るでしょう?」

 サディアスは、先ほどの俺と似たようなことを言っている。俺も、オルギスの言葉に引っ掛かりがなかったら、そう判断しただろう。

 黙ったままのフィリスは、じっと、自分の足元を見つめ続けていた。

 顔は蒼白で、肩口で切りそろえられた、ゆるく波打つ金髪が、彼女の顔を半分がた隠している。

 貴族の娘は髪を切らない、と、どこかで聞いたことを思い出した。別に意味はない。

「私は、調査しようと思う」

 ぽつり、とフィリスが言った。

 サディアスが、かすかにうなった。

「私は、オルギスが、死の前に嘘を言ったとは思えない」

 フィリスは言った。そして、自らの考えるところを率直に話し始めた。

 オルギスは、何者かの罠にはまった。それは間違いないだろう。彼自身が受けた、広範囲の火傷が、少なくとも、焼き討ちの話の証拠にはなる。

 また、オルギスが復讐を企てるに当たって、徹底的な調査を行なったはずだ。その結果として伯爵の関与が疑われたならば、そこには根拠があっただろう。オルギスの話によれば、それはカーチャック村に住む農夫だそうだ。これは調べてみてもいいと思う。

 仮に、オルギスが勘違いをしていて、伯爵は全くの潔白だったとしたら、オルギスが勘違いをする原因は何だったのか。それについて調べることも無駄にはならないはずだ。

「よって、私は、ユーゲンハート伯爵についての調査を実行しようと考えている。だが、まず、皆に聞いて欲しいことがある」

 フィリスは、一呼吸置いて、話し始める。

「私には兄がいた。父が亡くなったとき、あとを継ぐ予定だった人だ。名前はヴィンセント」

唐突に、フィリスは口を開いた。その場にいた全員が耳を傾けている。

この話は、何か重大な意味を持っている。特に、フィリス自身にとっては。

そのことを、心のどこかで悟った。

「今の私と同じく警護隊の小隊長を務めていて、今の私よりもずっと有能だった」

ヴィンセント・ロス・アロンソとフィリスは、かなり歳が離れていたらしい。フィリスが子供の頃から、ヴィンセントは、戦争に参加し、警護隊としても活躍していたそうだ。

「シュードス都市警護隊に入隊して、しばらく経ったころだと思うが、兄がひどく慌てて父のところを尋ねてきた。普段は警護隊宿舎で寝泊りしていたから、家にはほとんど帰ってこなかったのに」

 その当時、ユーゲンハート伯爵はシュードス都市評議会で、新しい施策を提案、実行しており、メルファ大公爵や国王からの評価も高かった。まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いで発言権を増していたという。

 だが、フィリスの兄は、その伯爵に対して、疑念を持っていた。

「それは、ユーゲンハート伯爵が、薬の不正な流通に関わっているというものだ」

「薬だって?」

 俺は思わず口に出した。

「そうだ。しかし、どのような薬なのかはわからない。リアンならば知っていると思うが、シュードスのみならず、フォルデラント王国の薬は、基本的に薬泉院が管理している。商人が取り扱うときにも、薬泉院の許可が必要となる」

 ヴィンセントが手に入れた情報では、ユーゲンハート伯爵が、薬泉院を通さずに薬の流通を画策しているということだった。

 優秀な警護官であり、戦地において実績もある、根っからの騎士が、こうした不正を見逃せるはずもなく、ヴィンセントは調査を開始しようとしていた。

 だが、これに慎重論を唱えたのが、父親の前アロンソ子爵だった。

 前子爵の言い分としては、まず、伯爵がシュードス評議会で勢力を伸ばしていることを考えるべきだというのだ。

 つまり、抵抗勢力の誹謗中傷の可能性である。

 次に、伯爵自身が、公の場で薬泉院の規制を緩和し、より多くの民の間に、手軽で役に立つ薬を流通させることを語っていた点にも、注目せよと、息子を諭した。

 要するに、一方的な情報に踊らされるな、ということだ。

 これを受けて、一旦は引いたヴィンセントだったが、フィリスの見たところでは、独自に調査を進めていたようだった。

 そうこうする内、ユーゲンハート伯爵は警護隊長官になった。

 また、ヴィンセントには、メルファ大公爵経由で、かつて所属した騎士団に戻らないかという誘いがあったという。

「兄は、迷っていた。騎士団長には大きな恩があったようだ。しかし、警護隊としての任務も捨てられない」

 結局、前子爵の説得もあり、ヴィンセントは騎士団に戻っていった。それが、終戦の間際。前線に配備された騎士団は、激戦の只中にあり、ヴィンセントは戦死した。

「ちょっと待った、ヴィンセント殿は長子ですよね、そういう時は後方の任務に就くものでしょう。なんで前線に?」

「それは、わからない。正規の戦場とは目されていない土地で、奇襲攻撃を受けたというような話も聞いたが……」

 サディアスの言葉に、フィリスは俯いた。

 奇襲攻撃というのは、無い話じゃない。

 俺にも経験がある。仕掛けた方も、仕掛けられた方も。

 だが、ヴィンセントの場合は、怪しい。

 そう感じるのは、俺がユーゲンハートを疑っているせいだろうか。

「その後、しばらくの間、兄の部下が伯爵を調査していたようだが、詳細はわからない。ただ、結局のところ、不正流通の証拠はなかった。兄が亡くなった後、父は家に帰ってこない日が続いた。今思えば、独自に調査を行っていたということもあり得る。一年ほど経って、父は病に倒れ、私がアロンソ家を継ぐことになった」

 前アロンソ子爵も、三年前に死去。

 十七歳だったフィリスは一人取り残されたが、ユーゲンハート伯爵の口添えもあって、警護隊に入隊。一年ほど前に小隊長に任命されたという。

「私は、入隊後、伯爵の信頼に応えたいという思いで任務に向き合ってきたつもりだ。だから、兄が言っていたことは、半ば忘れていた。何かの勘違いだろうと思っていたのだ。しかし……」

 フィリスは途中で言葉を切った。

 オルギスの話で、急速に記憶が蘇り、疑惑へと発展したというところか。

部屋の中に沈黙が降りる。

「つまり、やるんだな?」

 俺は、声に出して聞いた。

 フィリスも、サディアスも、マクラムさえ、俺を見た。みんな一様に、凍りついたような表情をしている。

 ここで、やると答えれば、長官に反抗することになる。最悪、犯罪者として追われることになるだろう。

 だが、俺の見たところ、フィリスの心は決まっているようだった。

「やる。公平さこそが、都市警護隊の誇りだと教わった」

 フィリスは決然として答えた。

 そして、サディアスとマクラムを見て言った。

「報告したければ、報告して構わん。だが、私は、己の信じる公平さにかけて、伯爵の行動を調査する」

 これに答えて、サディアスは言った。

「報告はしますよ。でも、報告ってのは、調査した後でしょう。少なくとも、何か行動を起こした後だ。これから何かやるって場合は、申請ってやつですよ。で、隊長は申請を省略する権限を持ってる。だったら、俺から長官に言うことなんてありませんよ」

 一方のマクラムは、むっつりと黙ったままだったが、深く頷いた。

 それを見たフィリスは、少し安堵したようだった。

「で、具体的はどう動く?」

 俺は、フィリスに向かって先を促した。

「まずは、オルギスの件を報告書にまとめる。これは、しっかりとやっておかなければ。我々の責務だ」

 伯爵に対する調査はその後か。

「リアン、あなたはここまでにしたほうがいい」

 俺を見ながら、フィリスが言った。

 それはそうだろう。俺はもともと、オルギスが起こした殺人事件の調査に同行していただけだ。伯爵の調査など、知ったことではない。

 と、フィリスには思われているはずだ。

 だが、実際には違う。

 伯爵が俺の生まれた村、ラオイン村の全滅に関わっているとするなら、そして、何より、あの〈百人衆〉と関わっているとするなら。

 あの男は俺が殺すべき、仇敵の一人だ。

「まあ、それは後々、考えるさ。俺はあんたたちよりも身軽だからな、何か役に立つことがあるかもしれないし、何もないかもしれない」

 俺が言うと、フィリスは、ふ、と笑った。

そのとき、廊下に人の気配を感じた。

「誰だい?」

 俺は声をかけた。

「わしじゃ」

 茶器を持ったじいさんが入ってきた。

「茶でも飲まんか。診療所が一段落したでな」

 クレイトンじいさんは、こちらの返事も聞かず、さっさと準備を始めてしまう。後ろからタニアも入ってきた。

「ありがとう、いただきます」

 フィリスが、そう言ったので、なんとなく茶を飲むことになった。

 それまでの、なんともいえない緊迫感が嘘のように消えていた。いや、消えてはいないかもしれない。きっと、フィリスにも、サディアスにも、マクラムにだって、心の中で、今この瞬間にも不安が渦巻いているに違いない。

 しかし、誰一人、それを表には出さなかった。

 やり方は、人それぞれだが、割り切りというのは重要だ。

「全く、お前さんたちも、大変じゃのう」

 じいさんが、しみじみとつぶやく。

 俺たちの話を聞いていたわけじゃないだろうが、先ほどまでの、重い雰囲気から何かを察しているようだ。

 年の功というやつかな。

 しばらくして、サディアスが口を開く。

「そういえば、マクラム。昨日、長官から呼び出しがあったんだろう。どんな用件だったんだ」

 それを受けたマクラムは、一瞬、ぴくり、と肩を震わせた。

 なんだ? 強い恐怖のにおいだ。

「いや、実はな。かつて所属していた騎士団の団長から、もう一度騎士団に戻らないかという話が来たのだそうだ。若手の訓練をするための人員が足りないらしい」

 戦争も終わり、騎士団の人員は減少傾向にある。しかし、国境警備や、都市の治安維持、災害対策など、様々な面で、屈強な騎士というのは必要とされている。

 マクラムの希望は、妻子と過ごす時間を増やすことらしいが、訓練要員ならば、家族との時間も取れることだろう。

 悪い話ではないように思える。

「そうか、どうするつもりだ」

 フィリスが言った。

「はい、この事件が解決されるまでは、返事を待ってもらうことにしました。私には、現在の任務が優先ですから」

 マクラムは、真っ直ぐにフィリスを見て答えた。先ほどのにおいは消えている。

そして、「それから」と、続けた。

「ルガーデンス卿から、調査の進捗状況を聞きたいとの申し出があったそうです。明日あたり、隊長にも伝えられるはずですが、ちょうど私が長官のもとに行きましたので、ついでに言付かってきました」

「そうか、ルガーデンス卿にしてみれば、当然だな。ありがとう」

 ルガーデンス卿。オルギスが殺した若い騎士の父親だったな。

 親としては、自分の子供が、なぜ死ぬことになったのか、早く知りたいと思うことだろう。そう考えると、気の毒な話だ。

 先ほど、フィリスは報告書を作成すると言っていた。時期がいいと言えばその通りだが、どう報告するつもりだろう。

 まあ、考えても仕方ないか。俺は報告書など書いた事はない。その辺はフィリスが上手くやるだろう。

「君たち、腹は減ってないか」

 じいさんが、俺たちを見渡す。

「タニア、みなさんに何か食べさせてやりなさい」

「はい、お父様」

 にこやかに笑うタニアは、フィリスたちを引き連れて、部屋から出て行った。

 俺は、一番最後に退出しようとした。しかし、クレイトンじいさんに呼び止められた。

「リアン、ちょっと待て」

「なんだい?」

「カイルから聞いただろう、お前さんに用がある」

 ああ、そういえば聞いたな。

「ついて来い」

 そのまま、じいさんは建物の奥へと進んで行った。

 予想外に長く歩いた。普段は、誰も入り込まないような、診療所の一番奥の区画だ。

 だんだんと、窓が無くなっていき、周囲の壁も分厚くなっていく。やがて、小さな部屋が横に並ぶ廊下にたどり着いた。

途中、階段を下りたので、この通路は地下にあるらしい。

「マーヴとは会ったか?」

「いや、この数日、会ってない。なぜ?」

「お前さんが事件を調査している間に、新型麻薬が、都市全体に広がっていたことがわかってな」

 なんだって?

「どういうことだ、あれはまだ出始めたばかりなんだろう。流行とか、そういう段階じゃなかいと聞いた」

「わしもそう思っておった。中毒者が出るとしても、対処できる範囲だろうとな。しかし、見込みが甘かった。知らぬうちに広まっておったのよ。東区は、奥の方が、かなりひどい状態だ」

 じいさんは、鍵束を取り出し、横並びの小部屋の、一つに近付いた。扉の鍵穴に、鍵を差込み、回して開けると、ゆっくりと扉を開く。

「こいつは厄介な症状だぞ、リアン」

 部屋の中は暗かった。人の気配がする。

 汗と、かすかな汚物のにおい。この部屋の住人は、少なくとも数日間、閉じこもっているようだ。

 何てことだ、ここは、中毒者の隔離施設か。

「名前はわからん、道端で倒れておった。お前が作った解毒剤を飲ませるまでは、何事かをつぶやいていたのじゃが、聞き取れんかったわい」

 部屋の中には、寝台と椅子が一つずつ、小さな箪笥。それ以外には何もない。

「家具は置けん。患者が何をするかわからんでな」

 寝台の上には、小柄な男が、座り込んでいた。まだ若いように見えるが、暗いのでよくわからない。

 俺たちが部屋に入ったことに気が付いているのか、いないのか。男の目は焦点が合っておらず、どこを見ているのかはわからない。

「照明は付けられん。他の麻薬中毒者と同じように、光を怖がる。ときどき、幻聴があるようじゃ。麻薬の摂取を断っても、長い期間、こうして茫然自失の症状が続く」

 俺は、男に近付いた。

 呼吸が乱れている様子は無い。

 ただ、全く反応を見せない。前を向いて、膝を立てた状態で寝台に座り、口をかすかに開いたまま、足元に目を向けている。

「食事は?」

「ほとんど食べんな。水は飲めるようじゃ。まだな」

 俺は薬を作ることはできるが、実際に病気や中毒症状を治すことに関しては、じいさんの足元にも及ばない。

 そのじいさんが、厄介だ、と言うからには、こいつは本当に大問題だ。

「この男だけではない。この診療所にも、あと三人いる。ここまで症状が重くなっていないものにいたっては、何十人といる有様じゃ。救いと言えるのは、流通の実態が、まだ東区を含めた狭い範囲に限られていることじゃな」

 じいさんのため息が聞こえる。

「誰が付けたのか知らんが、〈螺旋階段〉という名前まである」

「〈螺旋階段〉?」

「ああ、使用する度に上の階に上っていく。その最中は、螺旋階段を上るように優雅な快楽が待っておる。しかし、一度、上の階に登ってしまったら、もう二度と降りることはできん」

 何が〈螺旋階段〉だ。ふざけやがって。

 しかし、どういうことだ。通常、麻薬というのは、自我を失うには長期間の摂取が必要になる。

「こいつは新型麻薬だろう。流行していないのに、なんでこんな強い症状が出る?」

「酒じゃよ。酒と混合すると、短期間でも激しい影響が出るんじゃ」

 酒は、体の巡りをよくする働きがある。それによって麻薬が体内を激しく駆け回り、強い効果を発揮するらしい。

 効力の高い薬を、立て続けに酒とともに摂取すれば、立派な中毒患者の出来上がりというわけか。

 マーヴの言葉が思い返される。

「どこのどいつか知らないが、やってくれるね。マーヴはどう対処してる?」

「実はな、東区の醸造所に、麻薬を売買する男が出入りしていたようでな。今はまさに怒り狂っているそうじゃ。ロドスがぼやいておったわ」

 酒と混ぜると効果が倍増する麻薬。酒と一緒に売ることができれば、流通量も増えることだろう。

 それを見つけた〈風紋〉の者が、麻薬の売り手を捕まえたが、結局、その売り手はただの使いっ走り。誰が裏にいるのかはわからず仕舞いだそうだ。

「なんてこった……、しかし、こうなっちまったら、俺にできることはなさそうだぞ」

 悔しいが、割り切りは必要だ。

「ああ、もう、時間をかけるしかなかろう。ゆっくりと、正常に戻すことを考えねばな。ただ、お前さんに、現状を知ってもらいたかったんじゃよ。このままでは、早晩、大流行が起こる。毒消しが大量に要るぞ。しかも、この麻薬専用のものを考えねば」

 確かにそうだ。

 危険だとわかっていても手を出す者は多い。それが麻薬の厄介な点だ。

 一度始めたら、なかなかやめられない。

 くそ、麻薬専用の毒消しだって? 研究している時間があればいいが。

 じいさんに促され、部屋を出た。

「あの麻薬、幻聴があるって言ってたよな」

 俺は、じいさんに聞いた。こうなっては、少しでも麻薬の情報を集めなければ。

「ああ、そうらしい。重度の中毒者だけでなく、摂取者は全て、幻聴を聞くそうだ」

「幻覚は?」

「今のところは聞かんな。この麻薬に幻覚作用は無いのか、あるいはあったとしても弱いということじゃろう」

 なるほどな。幻覚よりも幻聴が強い薬か。心当たりが無いわけじゃないが、候補が複数あって絞りきれないな。

 まあ、覚えておくことにしよう。何かの手がかりになればいいが。

 じいさんに連れられて診療所の中を進む。途中で、何人かの女とすれ違った。若い女じゃない。周辺から診療所を手伝いに来てくれているご婦人たちだ。

 何人か、俺にも声をかけてくれる。

「手伝いのご婦人を増員したよ。みな、快く引き受けてくれたのには感謝しているが、あの部屋は、なるべくなら使いたくない場所でな」

 じいさんが言う。

気持ちはわかるつもりだ。

 あそこは診療所というより、牢獄を思い起こさせる場所だ。

 幸い、俺は牢獄暮らしの経験は無い。じいさんにもないはずだ。だが、だからといって、犯罪者でもないのに、牢獄に誰かを押し込めておくのは、絶対に本意じゃない。

「そうだ、じいさん。下町のソリオじいさんを知っているだろう?」

「ああ、あのじいさんか。全く、妙なことに巻き込まれたもんだな」

 じいさんが死んだことも知っているようだ。カイルから伝えられていたのか。

「ソリオじいさんの身内に心当たりはないかい」

 クレイトンじいさんは、少し考えてから、首を横に振った。

「聞いたことはないの。数年前に連れ合いを亡くしてから、ずっと一人だった。息子も、かなり前に死んだと聞いておったからの」

 やはりそうか。

 と、いうことは、明日の葬式はこじんまりとしたものになりそうだな。

 診療所の二階、食堂に入ると、タニアがスープを用意してくれていた。

 そこに、予想外の男が二人。

 マーヴとドニーだ。

「よう、リアン。元気そうだな」

「リアンさん、どうも」

 マーヴは、椅子に鷹揚に腰掛けていた。つい先ほど激怒していると聞いたばかりだが、今は機嫌がいいらしい。ドニーは、頭目に遠慮しているのか、壁際に立ったままだ。

「マーヴ、ドニー」

 ここ何日かで、いろいろなことが起こったせいか、二人にはもう何ヶ月も会っていない様な気がする。

 それを言うと、タニアに会うのも、すごく久しぶりに感じる。

「どうぞ、リアンさん」

 タニアは、にこやかに微笑むと、椅子に座った俺の前にスープ皿を置き、次に切ったパンとチーズを乗せた皿を持ってきてくれた。

 食卓の上には、すでに分厚く切られ、油がはぜるまでに炙られた大きな燻製肉が乗せられている。

 食事の参加者は、思い思いにその肉を切り取り、ほおばる。

 壁際にいたドニーにも、椅子と肉が提供された。若者はうれしそうに、それを食べた。

「ドニー、お前さんとはいろんなところで会うな。なんか、追いかけられているような気がするよ」

「偶然ですよ、リアンさん。俺の脚じゃ、リアンさんには追いつけません」

「〈早駆け〉ドニーが謙遜してるな」

「それは言わないでくださいよ、リアンさん」

 一同が笑った。大きな笑い声じゃなかったが、雰囲気が和やかなものになった。

 戦場にいるときにも感じたことだが、やはり美味い食事と気心の知れた仲間たちの存在は、重要だ。肉体的にも、精神的にも。

 このシュードスの町には、何かの陰謀が仕掛けられている。そして、今まさに、その陰謀は進行中だ。どうやら、それは間違いないらしい。

 問題は、誰が仕掛けているのかということと、最終的に何をするつもりかということが、全くわからない点だ。

 肉を口いっぱいに詰め込んで、噛み砕きながら考えたが、どうにもならない。いい考えも浮かばない。

 ちくしょう。ふざけやがって、俺はこの都市を気に入っているんだ。

 もぐもぐやりながら、ふと目を上げると、フィリスとタニアがこちらを見て、吹き出していた。

 咳払いをして、誤魔化す。

「ところで、マーヴ、どうしてここに来たんだ?」

 気まずくなって、俺は、女性陣から目を離し、反対側にいた友人に声をかけた。

「どうして、って、お前に会いに来たんだよ。ドニーが、カイルのところから聞いてきたんだ。お前、フィリス殿と出て行ったきり、あいさつにさえ来やしなかったからな。俺の依頼した調査でもあったってことを忘れているんじゃないかと、心配になった」

 肩をすくめるマーヴ。

 まあ、確かに、報告さえしてなかったな。忙しかったし。

 それにしても、あれからまだ一週間と経っていないということに驚いている。

 何日たった?

 ええと、五日?

 おいおい、五日の間に二回も命を落としかけたぞ。誰だ、戦争は終わった、って言ったやつは。

「そうか、すまなかったな。いろいろあって、忙しかったんだ。忘れてたわけじゃないぞ」

「いや、今の発言でわかったよ。お前、忘れてたな、俺のこと」

 ふてくされるマーヴ。

 正直に言って、三十男がふてくされても、何の感慨も無い。放置した。

 じいさんのもてなしに感謝して、俺たちは食事を終えた。

 品数は少ないが、量は十分だった。

 フィリスたち三人は、報告書を書く必要があるというので、診療所を辞し、宿舎へ向かって行こうとしていた。

「リアン、明日の、ソリオ殿の葬儀、私も出席したい」

「わかった、カイルに伝えておく」

 フィリスの差し出した手を握った。

 去っていく三人の後姿を眺め、貴族や騎士にも、それぞれの屈託があるのかも知れない、と思った。

「どうした、柄にも無く別れを惜しんでいるのか」

 マーヴが言った。

「フィリスのことじゃない。オルギスのことを考えていたんだ」

「ああ、殺しの犯人か。まあ、例の話が本当なら、気の毒なことではあるよな」

 マーヴが皮肉っぽく、にやり、と笑った。

 俺もつられて笑う。

「カイルは、じいさんと息子を一緒に埋葬しようとしている」

「法律的に、どうなんだ。いいのか?」

 よくは無いだろう。だが、あのカイルのことだ、強引に押し通すということもあり得る。そもそも、司祭だからな。死者の埋葬には強い権限を持っている。

 マーヴとこういう話をしていられることが、なんとなく不思議だった。問題は山積みになっている気がする。

 改めて考えると、オルギスは、話の途中で死んでしまった気がするし、女暗殺者のシリルは、相変わらず正体不明だ。それに、新型麻薬の件もある。

「マーヴ、あの麻薬だけどな」

「ああ、未だに流通経路が不明だ。ぱっと現れて、ぱっと消えやがる」

 誰の目にも留まらず、〈風紋〉追跡を逃れ、一定の品物を持って侵入できる経路。

 一つ、あるにはある。そして、仮に、その経路を麻薬の売り手が使っているとすると、そいつは、ユーゲンハート伯爵と関わりがあるはずだ。

 まずい、ぞくぞくしてきた。かつての、獲物を見つけたときの感覚だ。

ユーゲンハート伯爵。やつを殺したくなってきた。

 マーヴと肩を並べ、暗い欲望を胸の中に隠しながら、東区へと戻る。


 第3回に続きます。

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