城塞都市シュードス・第1回(全3回)
長編として書いたものを三分割しました。第一部分です。
完全に異世界の話です。
一
これは夢だ。
なぜわかるのかというと、いつも同じ場面から始まるからだ。いい加減に変化がほしいところだが、自分の意思で決められるものでもないから、まあ、仕方がない。
夢の舞台は俺の故郷で、正直、死人ともうすぐ死ぬ人と、小さい頃の俺しか出てこない。
実際、その夜の月は異様なほどに明るく、煌々たる光に照らされた彼の姿は、闇の中にはっきりと浮かび上がって見えた。太い腕、たくましい肩、引き締まった首と大きな顎。強い意志を感じさせる瞳は、まだ小さかった俺を見下ろしている。
「リアン」
太く静かな声で、ゼバックが俺に言う。
「やられたよ、全く気がつかなかった。おれと親父さんが来たときには、もう遅かったんだ」
ゼバックは、言って、一塊の血を吐いた。
男の視線は、背後に向けられる。俺は、あえてゼバックの視線を追わない。
わかっているんだ、その先に何があるか。
親父の亡骸は、あの時は見た。だから、もう見なくていい。
「ふ、人のいい商人だと思っていたが……。俺の目も狂っちまったな」
ゼバックは、咳き込みながら笑う。口元の血や、ゼバックの呼気から、普段のこの男からは嗅ぎ取れなかった、妙なにおいが漂ってくる。このにおいは、この日から今まで、片時も忘れたことは無い。子供の俺から全てを奪った物のにおい。
毒のにおいだ。
ゼバックは、傭兵で、親父と同じ部隊にいたそうだ。この村にやってきてからは戦争とは無縁の生活をしている。大陸全土を巻き込んだ戦いとは言っても、山奥の田舎まで戦火が及ぶことは滅多に無い。
とにかく、ゼバックは子供たちの憧れだった。大きいし、鍛治師としての腕もいい。なにより、剣の腕は抜群だった。だから、ラオイン村の子供たちは、みなゼバックから剣を教えてもらえる年齢になるのを楽しみしていた。
俺はこの当時、七つか八つか、そのくらいだった。もう三年ほどで、剣を習えた。
「親父さんが、最初に気付いたんだ」
ゼバックが、もう一度、背後を見る。
俺は見ない。ゼバックだけを見ている。
「井戸さ。毒を投げ込んだんだ。この村の井戸は、つながっているから、全部だめになった」
毒の効き目は、ゆっくりと現れたらしい。
俺はこの日、炭焼き小屋を手伝うために山に入っていたから、仕事終わりの井戸水を飲まなかった。
この村の水はうまい。いや、うまかった。
だから、みんなが井戸を大切にしていたし、頻繁に口に運んでもいた。
俺は、前日にちょっとした騒動を起こしてしまい、罰として丸一日、炭焼きのじいさんを手伝うことになった。山の中の小川の水を飲んだが、井戸水は飲まなかった。
帰ってきたら、周り中死人だらけ。やっと見つけた生き残りは、瀕死の状態。
「くそ、リアン、しくじった。親父さんは警戒していたんだ。だが、俺は……」
ゼバックの頬を涙が伝う。今になってわかるが、ゼバックはとても優しい人だった。だから、俺のことを気にかけて、涙を流してくれていた。
「生き残っているやつは、どのくらいいるだろう。みんな、この村の水が好きだった。頭からかぶると、すごく気持ちいいからな」
逞しい鍛冶師は、俺の頭に手を置いた。もう力が残っていないのだろう。ひどくゆっくりとした動作で腕を上げ、置くというよりは、落とすという感じだった。力を失ったかのように。
「リアン、井戸水をまだ飲んでいないだろう。もう飲むな。飲めないからな。生き残っているやつを探して、村を出るんだ」
だめだよ、ゼバック、それはだめだ。
俺は、あの時も首を振った。この夢の中でもそうした。子供のときは、ただ離れたくなかった。ゼバックからも、親父からも。今は、わかっているからだ。誰も残っていないと。
このときは、生き残りを探した。でも、いなかった。山から一緒に帰ってきたはずのじいさんは、孫娘が死んでいるのを見たせいだろう。水を飲んで死んでしまった。
「戦争さ」
ゼバックが言った。
「みんな、戦争が悪いんだ」
たしかに、戦争だったよ、ゼバック。戦争がみんなを殺したんだ。
「商人は、親父さんがしとめたよ。その辺に転がっているだろう。だから、リアン」
頭の上でゼバックの手が動く。なでてくれている。
「だから、誰も恨んじゃいけない。戦争のせいだったんだ。復讐なんて考えるなよ」
ごめんよ、ゼバック。それはできない。
後でわかったことだが、村の人々を死に追いやったのは毒だけじゃなかった。何人かの殺し屋が村に潜んでおり、水を飲まなかった人々を殺して回っていた。
そいつらは、俺とじいさんが帰ったころには引き上げていた。詰めが甘かった。今の俺なら、何人かを一昼夜潜ませて、討ちもらしが無いようにする。
やつらは俺を残した。それは致命的な間違いだったと、やつらに思い知らせてやる。
だって、俺から全部奪ったやつを放って置くなんて、できるはずないだろう?
このときには、すでに俺の腹は決まっていた。
「山一つ向こうの村に、この村から出た者がいる。そこへ行け。お前なら、山を越えられるかもしれない」
ゼバックの口から、だらだらと血があふれ始めた。
ああ、もう行かなくちゃ。
「行けよ、気を付けて。もう、会えないから……」
ゼバックの顔が下がる。
わかってる。この後は、二度とこちらを見ない。
「ふく、しゅうは、だめだ……」
それがゼバックの遺言だった。
でも、ごめんよ、ゼバック。
「復讐は、もう終わっちまったよ」
目の前の光景が歪む。
めまいのような感覚の後、一瞬のうちに周囲は明るくなった。
そこはどこかの森の中だ。
次の場面に移動したようだ。いつか見た歌劇のように、この夢はいくつかの場面によって成り立っている。
「リアン」
背後から呼びかけられる。
振り返ると、黒い装束に身を包んだ、壮年の男が立っていた。
精悍そうな顔、目尻に刻まれたしわ、そして、口から顎にかけて蓄えられたひげ。
「見てみろ、円花蜂だ」
俺の師匠である、ジョルダン・フェイス。通称〈毒蜂〉。
しなやかな筋肉に包まれた男は、足元の花の間を飛び回る、一匹の羽虫を指差して言った。
「よく見るんだ、リアン」
俺は、言われたとおりに、蜂を見つめ続ける。
しばらくすると、不意に蜂の姿が視界から消える。あ、と思う。しかし、次の瞬間には、意外なところから再出現して、お、と思わされる。
「人の目とは不思議なもので、注意して全体を見ているつもりが、いつの間にか一点だけに集中してしまう。集中は悪いことではないが、予想外の事態に対応できないという欠点を産むこともある」
師匠は、腕組みをして、こちらに歩いてくる。
「その過剰な集中と、予想外の動きとを操るのが、俺の得意技、〈円花蜂の飛行〉だ。標的に、自分は安全だと思い込ませる。暗殺などできないという考えに集中させる。そうすれば、その標的は俺たちのものだ。戦利品という名のな」
この話は、修行中に何度も聞いたものだった。
「よくわかってますよ、師匠。その方法で、やつらを一人残らず始末することができました」
俺は言った。
でもね、師匠。
「結局、あなたを殺したやつは見つかりませんでしたよ」
俺の言葉に、師匠は笑った。
「そんなことはどうでもいい。お前には、もっと大切なことがあるだろう」
どうでもよくはない。でも、師匠は人の話をあまり聞かない人だった。
何年も前に死んでしまった。俺の復讐を、最後まで見届けてはくれなかった。
そう、村が全滅してから十五年。
俺自身の復讐は、すでに終わっていた。
目を開けると、窓からの日差しが目に刺さる。
「ぐう」
そう強い光じゃないが、痛みを感じて、反射的に目を閉じる。毛布を引っ張りあげると、窓に背を向けた。
日の角度からみて、すでに午後の遅い時間に差し掛かっている。残念ながら、我が茅屋に朝一番の日差しなんて入ってこない。特に収穫祭前のこの時期は、日の傾きの関係で、日差しを得られる時間が少なくなる。
どこからか漂ってくる、スープの香りを感じる。誰かが早々と夕食の準備でもしているんだろう。
鼻には自信がある。子供の頃から、犬よりも鼻が利くと言われていた。
たまねぎ、にんじん、安価の香草、芋が多めに入ってる。味付けは塩。かすかに泥のにおい。質の悪い野菜を使っているのかもしれない。ここじゃあ、珍しくもないが。
どこにでもありそうな下町の夕餉を想像しながら、もう一度寝ようと、うとうとしたときだった。
がんがんがん、と扉を叩く音がする。
「リアンさん、リアンさん!」
続いて大きな声。聞き覚えがある。あれは、マーヴのところの若い衆だ。
たしか、名前は……。
「リアンさん、〈風紋〉のドニーです!」
そう、ドニーだ。
こちらが応じるまで、扉を叩くのを辞めるつもりは無いらしい。
全く、うるさいやつだ。元気があるのはいいが、こっちは起き抜けだ。もう少し静かにしてほしい。近所迷惑でもあるし。
「今行く!」
とりあえず、窓を開けて怒鳴った。
毛布も枕も放って置いて、寝台から出る。くたびれたブーツを履き、いつもの革篭手を付ける。短剣をくくりつけた革ベルトを腰に巻いて、上着を羽織った。最後に薬の入った鞄を持つ。
そこまでやって、ちょっと考える。
格好は、まあ、問題ないだろう。ズボンが擦り切れそうになっているが、考えるまでもなく、着たきりすずめ。替えの服なんぞ持っちゃいない。
二階の寝室を出て、階段を降り、一瞬だけ、居間に目を向ける。暖炉のそばに薬草を吊るしているのだ。変な臭いはしないから、順調に乾燥しているはずだ。
出入り口の扉を開ける。
「ああ、よかった。いたんですね」
ドニーは、若い。まだ十七、八だ。
「やあ、ドニー、おはよう」
「寝ていたんですか、すみません起こしちまって。でも、急用なんです」
「わかってる。で、どこに行けばいい?」
「〈風見鶏亭〉です。ジャニスが倒れて」
「よし、行こう」
そのまま、ドニーを従えて、下町から悪所へ続く路を走る。
〈風見鶏亭〉は、下町東区の中で最も大きい店だ。石造りの四階建て。一階部分では、昼夜、酒食を提供している。夜だけ、踊り子や歌い手が立つ舞台が開かれる。
経営者はマーヴェリック・フロスト。この辺りを仕切っている〈風紋〉の頭目だ。
マーヴは、〈風見鶏亭〉だけでなく、様々な店を運営している。俺よりも五つか六つ上の年齢だが昔気質の親分で、義理に厚い男だ。
俺の住んでいる家も、マーヴから買い取った物だ。二階建てで、各階に一間ずつしかない。はっきり言って狭いが、下町じゃ平均以上の物件だ。不満はない。
我が家から〈風見鶏亭〉への路はいくつかある。俺がいつも通るのは、そのうちの一つ。この都市に来て、ほぼ三年になるが、慣れたもので、目をつぶっていても通れる。
俺は時々、足を緩めて歩きながら、小走りで〈風見鶏亭〉を目指す。向かう先に病人がいるのはわかっている。本当は全力で走りたい。
でも、そうできない訳がある。
「リ、リアンさん、ちょっと待って」
ドニーだ。
全く、俺より若いのに足が遅いなんて。マーヴはどういう鍛え方をしているんだ。
「はあ、はあ、リアンさん、なんでそんなに足が速いんですか。俺、〈風紋〉でも早いほうですけど、ぜんぜん追いつけない」
息を切らせながら言うドニー。
そうだった。こいつの渾名は〈早駆け〉ドニー。
小さい頃から食い物を盗んで暮らしていた、根っからの泥棒だ。逃げ足がとにかく速く、〈風紋〉の連中でも捕まえられなかった。
「軍隊で鍛えたからな」
嘘をついた。
軍と一緒に行動していたのは本当だが、俺が鍛えられたのは、そこじゃない。
「そ、そんなんですか。軍隊すげぇ……」
その後、根性を入れ直したらしいドニーを引きずりながら、〈風見鶏亭〉に飛び込んだ。
「リアンさん」
野太い声とともに、ごつい男が出迎えてくれる。
〈風紋〉副頭目のロドスだ。
ロドスは、背が高く、骨も筋肉も太い。拳骨は俺の頭くらいありそうだ。広い肩幅に調和するように分厚い胸板。聞いたところでは、胸の真ん中に槍が刺さったとき、筋肉が厚すぎて穂先が急所まで届かず、命拾いをしたことがあるそうだ。
従軍経験があり、戦時中に、鼻の上部から左顎の隅まで渡る切り傷を負った。その傷のせいで強面に磨きがかかっている。
〈風紋〉の連中にとっては頼れる副頭目だが、ほかの人々にとっては恐怖の対象だ。
「ロドス、ジャニスは?」
「こちらです」
俺とロドスの会話を聞いて、その場にいた何人かの給仕たちが、不思議そうに目を見開いている。
それはそうだろう。なんと言ってもロドスは〈風紋〉の二番手。尊重するのは頭目マーヴェリック・フロストと、〈風紋〉の規則だけ。にこりともせず、頑固一徹。
ついた渾名が〈笑わない男〉ロドスだ。
そんな男が、どう見ても一回りは年下の俺に敬語を使っている。何も知らない者の目には、奇異に映るはず。俺自身にもよくわからないが、ロドスは俺を丁寧に扱ってくれる。
さて、踊り子のジャニスは〈風見鶏亭〉の二階にある寝室に寝かされていた。
〈風見鶏亭〉の二階と三階は、夜の舞台に立つ踊り子や歌い手、楽士などの宿舎を兼ねている。彼らは、この〈風見鶏亭〉で共同生活をしているわけだ。
「通せ、リアンさんだ」
ロドスが、ジャニスに付き添っていた、一人の女を立たせた。
「あ、リアン」
力なくこちらを見て言ったのは、ラナだ。ジャニスと同じ時期にシュードスにやって来た娘で、〈風見鶏亭〉の裏手にある〈金葉館〉で働く、娼婦だった。
「ラナ、様子はどうだ?」
「起きたときは普通だったんだけど、食事をしている最中に吐き始めて」
短い髪を振り乱し、目に涙を溜めている。ラナの着ているものは、下着と思しき薄物が上下合わせて二枚。派手なものではないところを見ると、仕事着ではないらしい。
その胸元に、茶色く変色した部分があった。ジャニスの吐瀉物でも付いたのだろう。
俺は、ラナの肩に手を置き、ゆっくりと立ち上がるように促した後で、寝台に横たわるジャニスを見た。
「ジャニス、聞こえるか」
言いながら、軽く頬を叩き、反応を見る。
全く動かない。うなってさえいない。少しまずいかもしれない。
隣りで涙を浮かべるラナに、いくつか質問をした。その答えによると、朝食のとき、ジャニスはいつもより少し明るく振る舞っていた。しかし、パンをひとかじりしたところで、突然、嘔吐した。その後、体が激しく痙攣を起こし、意識も無くなった。
聞いた限りでは、典型的な麻薬中毒だ。
鞄に手をかける。
薬瓶の位置は全て記憶している。中を見なくても、何がどこにあるかわかる。〈昔とった杵柄〉というか、なんというか。そうしておかないと気がすまない。むろん、このおかげで助かったこともある。
小瓶を二本取り出すと、一方のふたを開け、口に含む。ジャニスの頭をゆっくりと起こし、顎を引き上げ、口を開けさせる。
かすかに吐瀉物のにおいがする。俺にとって、こいつは有益な物だ。ジャニスが何を食べたか、夕べはどんな体調だったかを、おおよそ知ることができる。
夕べから今朝にかけて、口にした物の大半は酒類のようだ。葡萄酒だ。蒸留酒のにおいはない。あとは、パンとチーズ、それに、魚のスープ。
どれも量は十分ではないらしい。
うっすらと開いたジャニスの瞳を感じた。しかし、俺の口は薬でふさがっている。挨拶は無しだ。
口移しで薬を飲ませる。と、かすかに妙なにおいがした。
過去に嗅いだことのあるにおいだが、いつだったか思い出せない。記憶力はいいほうなのだが。
しかし、明らかなことがある。この魅惑的なにおいは、麻薬のものだ。
だが、以前、この辺りで流行っていたものとは違う。そういえば、新種の麻薬が出回っていると聞いたが、もしや……。
そこまで考えたとき、ジャニスが口を開き、かすれた声で言った。
「リアン……」
俺の名前以外は聞き取れなかった。
「ジャニス、もう少しがんばれ。すぐによくなる」
別に気休めではない。適切に処置すれば、すぐに元気になるだろう。
俺の言葉が聞こえたようで、ジャニスは軽く頷いた。しかし、そのままえずき始める。
「ラナ、桶を取ってくれ」
足元に置かれていた空の桶を受け取ると、ジャニスの胸元に差し向けた。
「うぐっ」
一瞬、顎をそらせたジャニスは、そのまま桶の中に吐き始める。
血が混じった液だ。臓腑の中が傷付いているらしい。
「ジャニスぅ」
ラナの声が聞こえる。
俺は、二本目の薬瓶を開け、ジャニスに手渡す。
「これをゆっくり飲むんだ」
瓶を受け取る女の手が震えている。体の中の水が足りていないんだ。
「ロドス、水をたくさん用意してくれ。それと、じいさんはまだか?」
入り口で仁王立ちしている大男に向かって言った。
ロドスは顔だけをこちらに向けて答えた。
「水はすぐに用意させます。医者の先生は、いま若いのを向かわせていますが、まだ来ていません」
その直後だった。
「医者の先生が来ました!」
ドニーの声だ。早足で歩く音が聞こえる。ロドスの体にさえぎられて、姿は見えない。
大男が路を開けると、小柄な人影が入ってきた。
「遅いぜ、じいさん……」
いいかけて、口が止まった。
「すみません、西区の方に用があったものですから」
そこに立っていたのは、若い女だった。
急いで来たのだろう、上気した頬に、少しばかり汗が伝っている。鳶色の瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめ、それがじいさんと同じような頑固さをうかがわせていた。目と同じ色の長い髪を頭の後ろで一束ねにして、赤い唇を引き結んで立っている。
医師であることを示す若草色の、裾が長い上着を身に付け、道具鞄を手にしている姿は、俺の知るクレイトンじいさんと変わりない。
ただ、若くて、美人だ。
「あ、っと、クレイトン先生は?」
「父は、中町の薬泉院に行っています。私は娘のタニアです」
「ああ、そう、娘ね」
そういえば、王都で医術を学んでいる子供がいると聞いていたが、娘とは聞いていなかったな。意外だった。
「倒れたのはそちらの方ですか?」
「ああ、ジャニスだ」
聞かれたことに答えつつ、場所を開ける。
「ピルア薬で吐かせて、ジュルノー薬を飲ませたところだ。血を吐いているから、内臓が痛んでいるかもしれない」
俺の職業は薬師だ。薬を作って、医者や個人に売る。ただ、戦場にいた頃、傷の手当や病気の看護の経験があるために、医者が来るまでの間を持たせるような役をしている。
タニアは、俺の言葉に頷きながら、ジャニスの体を触っている。そして、周囲の人間に、いくつか質問をした。
その間、ジャニスはぐったりとしており、ぴくりとも動かない。また意識を失ったのかもしれない。
手際よく触診を行うタニアが、ジャニスの腹部を、少し強めに押した。
「ううぁ」
ジャニスがうめいた。だが、目は閉じられたままだ。
何かに納得したように頷いた後、タニアがこちらを見た。
「確かに、胃が損傷を受けているようです。その他にも、麻薬による中毒症状がありますね。でも、胃が傷付いたのは、麻薬のせいではありません」
タニアは、ジャニスの手を取って脈を診ながら言う。
「お酒と、栄養不足が原因でしょう。安静が必要です」
「まあ、いろいろと苦労のある職業だからな」
息を吐きつつ言うと、タニアが一瞬だけこちらを見て、顔を真っ赤に染め、すぐに目をそらした。
なんだ。何も変なことは言っていないはずだが。
「オ、オスフェロー薬はお持ちですか?」
「ああ、少しなら」
当然、医者も薬の調合を行なうが、病や怪我の手当てが本業だ。単純な薬は俺のような薬師に任せられることが多い。
「では、今ある分をここに。他にも、後でこちらへ届けてもらえますか、十日分ほど」
「わかった、そうしよう」
下町では、病気の治療は厄介な問題だ。基本的に金がない者ばかり集まっているから、薬の代金さえ満足に払えない。俺も、物々交換を受けることが大半だ。
金を工面して医者に見てもらうこともあるが、大抵の医者は、金のない者は見捨てる。クレイトンじいさんのように、下町に住んで、往診に応じてくれる人は、はっきり言って貴重だ。そのため、じいさんは周辺の人々から尊敬を集めている。
実際、大したものだと思う。以前、気になって聞いてみたが、じいさんは下町の者から金を受け取らないらしい。どうやって暮らしているんだ、と聞いたら、「金は持ってるやつからふんだくっているわい」と笑っていた。
そんなじいさんに何かあっては一大事、と、〈風紋〉の連中も、医者には逆らわないようにしているようだ。あのロドスでさえ、クレイトンじいさんには頭が上がらない。
ちなみに、医者が匙を投げた重病人は、神殿に行って神の奇跡を願うしかないが、神官に奇跡を代行してもらうには寄付金がいる。かなり高額だ。
戦場では頼りになった神官たちだが、町に入れば金、金、金。
全く、嫌なご時勢になったもんだ。神の奇跡は、本当に効果がある分、性質が悪い。
一通りの処置を済ませて、ジャニスの寝室を出た俺たちの前に、一人の男が立った。
青く染められた、上下そろいの衣服。目立って嫌味にならないよう、生地と同じ色の糸で複雑な刺繍がしてある。一目で高級とわかる仕立てだ。精悍そうな顔は、日に焼けて、なめし革のような照りを持っている。黒い髪は長く、背中にたらされていて、同じ色の瞳が、こちらを、いや、タニアを見ている。
「いやあ、あなたがタニアさんですね。うちの者がお世話になりました」
そこまで言って、男はタニアの手を取った。
「私は、マーヴェリック・フロスト。いかかです、お礼を兼ねて今日の夕餉を一緒に?」
マーヴの芝居がかった口調に、やや戸惑ったような顔をして、タニアがこちらを見る。
俺は肩をすくめて見せるくらいしかやることがない。
その後のタニアのやり方は素晴らしかった。
「申し訳ありません、マーヴェリックさん。しばらくは時間が取れそうにありませんので、お断りいたします」
にっこりと笑って、ばっさりと言ったのだ。
マーヴは、一瞬、笑みを引きつらせたようにしたが、すぐに復活した。
「わかりました、では、またそのうちに」
その後は、特に何もなく、タニアの手を離した。
手の早い男だ。相変わらず。
タニアは、ジャニスの部屋を振り返って、つぶやいた。
「麻薬で悩みは解決しません。体を損なうだけです」
そう言った、寂しそうなタニアの顔が印象的だった。
「リアン、話がある」
タニアを見送った後、マーヴに声をかけられた。そのまま〈風見鶏亭〉の最上階にある執務室へと向かう。
マーヴの執務室に入れる者は限られている。それも当然のことで、一帯を仕切っている〈風紋〉の本丸に、おいそれと余人を入れるわけにはいかない。
普通であれば、たとえ頭目であるマーヴが許可したとしても、副頭目であるロドスに人品を改められる。
が、俺はそういった経験はない。
マーヴの友人であるということもあるし、ロドスとは軍で一緒だった。他の〈風紋〉の連中も好意的に接してくれる。まあ、なんだかんだと、いろいろな理由がある。
こちらから見るマーヴの顔は真剣だ。先ほどのタニアに向けていた、女を引っ掛ける気がありすぎる表情とは、全く別物だった。
俺がマーヴから頼まれていることは、今の時点でいくつかある。それを思い返してみる。
緊急を要するものはないはずだ。
となると、ジャニスの件か。
「マーヴ、新種の麻薬が出回ってると聞いたが、どんな具合だ?」
俺が聞くと、マーヴはうなった。
「なんとも言えないな。城壁の中に麻薬が出回ること自体が問題だが……。あの新型に関しては、現在のところ、緊急を要するほど大流行はしていない。重い中毒に陥っている者は、十人にとどいてはいないだろう。その者たちも、クレイトン先生が面倒を見てくれている」
過去の経験から言って、人の集まるところには、必ず麻薬の影がある。また麻薬にも効力の弱いものと強いものがあり、使い様によっては、役に立つ。
しかし、やはり依存性が高く、薬がないと生活できないようでは困る。
ジャニスの場合、問題は入手方法だ。継続して容易に入手できるようでは、折角の治療も意味をなくしてしまう。
「そういえば、ジャニスは……」
「ああ、〈金葉館〉と掛け持ちだ」
踊り子や歌い手というのは、舞台に立つだけでなく、貴族や豪商人の家に行って宴の余興を務めることがある。このとき、娼婦としての役割も担う場合があった。
〈風見鶏亭〉も、〈金葉館〉も、マーヴの店だ。両方で働く女もいる。
つまり、ジャニスは踊り子であると同時に、娼婦でもある。だから、〈金葉館〉に住むラナとも、顔見知りだったわけだ。
「ただ、ジャニスが新型の麻薬に手を出していたかどうかはわからん。……、ジャニスは、最近、男と別れたらしくてな」
男女関係のもつれか……。完全に専門外だな。
こういう話になると、もう、どうしようもない。
マーヴが言うには、ジャニスの部屋に麻薬の入れ物らしきものがあったそうだ。しかし、それはどこにでも売られている小さな木箱で、内側にうっすらと灰色の物が付着していたが、それが旧来の麻薬なのか、新種の麻薬なのか、あるいは質の悪い錬り香なのかはわからなかったという。
「その箱、持ってないか。以前の麻薬騒動のとき、炭が混じった小麦粉か麻薬かを確かめる方法を見つけたんだ」
「なんだって、まずいな。他の連中に広まるのを防ぐために燃やしちまった」
マーヴの眉間にしわが寄る。
この男の判断は正しいものに思えた。ああいうものは、片っ端から処分するに限る。
俺が言った、判別方法とは、もちろん、においだ。だから、具体的にどんな方法かと問われると、ちょっと困るのだが、マーヴはそういった細かいところまでは聞いてこなかった。
「いや、それならそれでいい。だが次に怪しい物を見つけたら、一度、俺に見せてくれ」
「わかった、そうする」
次にマーヴは全身を長椅子に伸ばして、大声で言った。
「ちくしょうめ。どこのどいつだ、俺の縄張りで勝手なことをしやがって……」
マーヴは「こんな姿、子分には見せられないな」と笑った。
どんな職業でもそうだが、上に立つ者というのは威厳を求められる。堂々とした態度や先陣を切る勇敢さ、公正な采配、迅速な判断、その他もろもろ。いろいろなものの積み重ねが、人徳を生み、信頼につながっていく。
「まあ、いい。いずれ尻尾をつかんでやるさ」
マーヴは、それからしばらく、何も言わずに寝転がっていた。その表情は、明るくはなかったが、決して暗いものでもない。すでに気分が切り替わっているのだろう。
この男の優れているところは、こういうところだと思う。真剣に考えるが、くよくよとしないのだ。自分にはできないことがあるということを素直に認め、できることから片付けようとする。それでいて、できないことを少なくする努力を怠らない。だから、子分も付いてくるのだろう。
「ところでな、リアン」
「なんだい?」
「夕べは、どこにいた?」
「トルーダの店だ」
トルーダ・ロサは卸問屋だ。下町、中町、上町、それぞれに様々な商品を卸している。最近、薬を取り扱い始め、俺の方から薬師や医者を紹介したこともある。
この町の医薬を取り仕切るのは、王立シュードス薬泉院。トルーダの店は、そこから認可された問屋の一つだ。
主のトルーダとは、軍の補給部隊で一緒だった。トルーダは、その当時から商売をやっていたが、薬泉院の認可が下りたのは、三年ほど前だ。そこから、大手を振って薬を扱えるようになった。
「トルーダのかみさんに子供が生まれたんで、宴会が開かれたんだ」
「そうか……」
マーヴは上体を起こし、こちらを見た。
何かあったらしい。
「夕べ、まあ、遅くなってからだが、子分をお前のところに走らせた。俺の方はじいさん先生と一緒だった」
俺は身を乗り出して、マーヴの話に集中した。
「殺しさ、東区と中央区の境でな」
マーヴの表情は苦々しい。
フォルデラント王国において、王都フォルドスに次ぐ第二の都市が、俺たちの住むシュードスだ。国内東部の要所にして、陸運の中心地。人も物も、常に行き来していて、ほんの数ヶ月経っただけで町の様相が変わる。変化の都市。
このシュードスは、小高い丘の斜面に張り付くようにして建設された城塞都市だ。扇型の巨大な壁が、町の周辺を覆い、丘の頂点には本丸、シュードス城。そこから、裾野に向かって階段状に都市が広がっている。
城の外壁でもある第一城壁から、都市自体の外壁たる第四城壁まであり、その間に、三つの居住区画が設けられている。第一城壁から第二城壁までの間が、貴族や騎士の住む上町。第二城壁から第三城壁までの間には、貴族ではないが生活に余裕のある富裕層が住む中町。最後に、第三城壁から第四城壁までの間を占める、庶民の下町だ。
シュードスの下町は、東区と中央区、そして西区に分かれている。俺の家や、〈風見鶏亭〉があるのは、東区だ。
下町東区は、かつて、人の住む場所ではなかった。排水設備がある地区だったのだ。だが、都市の人口が増えるに従って、無理矢理に居住区画を整備した。排水設備を地下深くに埋め、その上に町を作った。
今でも東区の生活水準がシュードスで一番低いのは、こうした経緯のせいもある。
〈風紋〉は、ちょうど東区が整備された時分にできた組織だと聞いている。
そもそも、この町の支配者連中は、下町がどうなろうと構わないと思っているやつらばかりだ。当然、東区がまだできたばかりのころ、そこは法の外だった。いわゆる、無法地帯だ。
この無法を治めたのが、〈風紋〉の初代頭目、ルーキン・チャスギン。今から百年以上前のことだそうだ。
マーヴェリック・フロストは、五代目の頭目だ。
先代は病に倒れ、五年ほど前に跡目を継いだ。若き総領。期待の星。〈静かなる〉マーヴェリック。
なんでこういう業界の者は、変な渾名を有り難がるのだろうか。謎だ。
話がそれたが、そういう経緯もあって、東区で起こった事件は、ほぼ全てがマーヴェリックの耳に入ってくる。およそ、マーヴェリックの承認なしには、どんな事件も起こらないはずだ。
「誰がやったのか、なぜやったのか、わからん」
マーヴのつぶやきは意外だった。
俺がこの都市に住み始めてから三年。マーヴが知らない事件が起きたこともあったが、一晩か二晩経てば、まるで自分が起こした事件であるかのように、全てを知っていた。それがマーヴェリック。フロストだ。
しかし、今回は何の情報も入っていないという。
これは異常事態だ。
「で、なんで俺を探していた?」
「ああ、じいさん先生がな、死体を改めたんだが、お前にも見せた方がいいということになってな」
マーヴは、また、長椅子に身を伸ばす。長い足が、豪快に投げ出される。
「死体の傷口が、特徴的だったんだ。先生が、リアンなら何かわかるかも知れん、と言うものでな」
「どんな傷だ?」
「頭の左側、ちょうどこめかみのあたりが丸く陥没していた。何かで殴られたんだと思う」
撲殺か。珍しい話じゃないが。
「丸い、ってのは、傷口が円形だったってことか? それとも、傷自体が丸かったのか、球でもぶつけられてみたいに?」
「後の方だな。まさに球をぶつけられたような傷だった」
その殺しは、誰にも見られず、何も聞かれず、一切の遺留品もなく完遂されたようだという。
下手人は手練の暗殺者。マーヴも、クレイトン先生も、この点では意見が一致した。
「問題は、俺の縄張りで、誰が、何のために殺したかということだ」
まあ、その通りだ。
「お前に死体を見てもらえば、どういう武器を使ったかくらいはわかると思ったんだよ。だから呼びに行かせた」
「今からでも見に行こうか。昨日の今日なら、まだ間に合うだろう」
「いや、それは無理だ」
おかしなことを言う。悪所での事件なら、マーヴェリックに無理なことなどないはずだ。
俺はマーヴの顔を見た。明らかに苦い表情だ。
「死人は騎士だ。若くは無かったが、戦歴は確からしい。貴族どもが引き取って行った」
「なんだと?」
それはまずい。
下町で騎士が死んだ。そうなると、次の展開は二つに一つだ。
一つ、騎士が娼館に通った後に死んだ場合や喧嘩に巻き込まれて死んだ場合。不名誉な事態として、無かったことになる。
二つ、その騎士が何者かの犯罪行為によって殺害された場合。執政官が調査員を派遣してくる。こっちの場合は、徹底的な調査が行われる。
「調査員が怖いわけじゃねぇが、いろいろと面倒になるからな……」
マーヴの言うとおりだ。
いままで〈風紋〉は、東区を統括してきた。実績もあったし、周辺の人々も表面上は納得していた。しかし、ここで支配者側の執政官が出しゃばるとなると話は変わってくる。信頼というやつが損なわれるのだ。
「今はまだどうなるかわからん。調査員が派遣されるかどうかも決まっていない。が、俺の読みじゃ、十中八、九、派遣されるだろう」
「どうするんだ?」
「こうなっちまった以上、取る手は限られる。俺は、こちらから協力を申し出る方針で行こうと思う。弱みを見せることになるかも知れんが、好き勝手に動き回られるよりはましだ」
なるほど。妥当な線だろう。
これまで役人を上手く丸め込んで排除してきたのが、下町や悪所の歴史だ。住民たちも、何もしてくれない執政官よりは、荒くれ者でも何かしてくれる〈風紋〉や他の組織に協力していた。そこへ役人の横槍が入る。そして、東区はまた、放って置かれるのだ。生きようが死のうが、誰も気にしない存在になる。
そういうのは戦場でも散々見た。誰の得にもならない。
「それでな、調査員が来る前に、お前の考えを聞きたい」
「どういうことだ」
「丸い武器を使う手練の暗殺者で、この町で仕事をしそうなやつに心当たりはないか」
なるほど、そういうことか。
まあ、俺にできることなんて高が知れているが。
「そうだな……」
今さら過去を捨てたも何もないが、積極的に吹聴したいものでもない。だが、まあ、マーヴは知らない仲じゃないし、何より数少ない友人だ。
協力しよう。
「以前、大陸南部の砂漠地帯に住む、鉄鎖使いの一族を見たがある」
「南部の砂漠というと、ジャオーネ自治領か」
「そうだ。彼らは、長い鉄の鎖を持っていて、両端に丸い球状の分銅を付けている。そいつを、振り回したり、放り投げたり、蹴り飛ばしたりして使う」
あれは強力な武器だった。
馬に乗りながら、鎖を振り回し、狙いたがわず投げつける。直撃すれば鎧甲冑だろうがなんだろうが粉砕していた。聞いたところによると、急所に当たれば、熊でも虎でも一撃だそうだ。
「そいつがこの町に来てるってのか?」
マーヴが眉間にしわを寄せる。
「いや、まあ、無い話じゃないだろうが、彼らはとにかく目立つからな。来ていたらお前はもちろん、俺の耳にも入っているはずだが……」
球状の武器で、手練の戦士となると、そのくらいしか思いつかない。
もちろん、傭兵や騎士の中には、鈍器を扱う者もいる。先端に棘のついたフレイルなどは、手早く相手を粉砕するのには「持って来い」だ。
だが、今回の死人は曲がりなりにも訓練を受けたはずの騎士。正面切っての戦いで、そうやすやすと殺されないのではないだろうか。
となると、マーヴの考え通り、暗殺という線が濃くなるが……。
「球状の武器が、鍵か」
マーヴがため息混じりに言った。
「あんまり役に立たなかったな」
俺もマーヴを真似て、長椅子に背を沈める。
直接傷口を見ていない以上、どこまで考えても推測しか出てこない。しかも、根拠の無い推測だ。師匠から、「目で見て、肌で感じ取ったものを信じろ」と教わった。そのために、何も見ない状態での推測というのは、得意ではなかった。
「いや、正直なところお前がいてくれるだけでも心強い」
〈風紋〉の頭目は、付き合いが長い分、いくらか俺の過去を知っている男だ。しかし、まあ、随分と見込まれたものだ。
「また何かあったら連絡しよう」
マーヴは、脱力するようにして言った。俺はその言葉に頷いた。
その後、マーヴからの酒の誘いを受けて、高級な葡萄酒を二、三杯飲んだ。しばらくするとロドスが入ってきて、次の仕事が始まるというので、建物を出た。
もう日暮れに近くなっていた。夜になる前に軽く食事をしておきたい。
俺は〈銀砂亭〉に入ることにした。
扉を開けると、店の中は閑散としていた。開店前だから、これは当然かもしれない。正確に言うと、中には二人しかいなかった。
店主のメリルと、女給のアンサだ。
「あら、リアン。いらっしゃい」
メリルはにこやかに迎えてくれた。
金色の髪、青く大きい目、白い肌。はつらつとした笑顔は、近辺の男どもを軒並み虜にしている。曰く、東区でメリルに恋をしない男はいない。
この町で、とか大きいことを言わないあたり、下町の慎みを感じて笑ってしまう。
「開店前に悪いが、何か食わせてくれないか」
「もちろん、いいわよ。座っていて」
この〈銀砂亭〉は、〈風見鶏亭〉と同じ通りにある。
周辺は全て〈風紋〉の縄張りだ。メリルも上納金を支払って、店の経営をしている。
メリルはもともと人気の娼婦だった。借金を早めに返し、年季が明けたために、この店の主と結婚した。しかし、数年としないうちに事故で夫を亡くしてしまう。以来、彼女は自分の手で店を切り盛りしている。
「こんにちは、リアンさん」
女給のアンサが銅製の小カップに蒸留酒を持って来てくれる。
まだ十五になったばかりのアンサは、下町に住む職人の娘だ。目立った美人というわけじゃないが、いつも元気に働いている姿には好感が持てる。
「やあ、アンサ」
俺は酒を受け取ると、少しなめ、カウンターに手を下ろす。俺が腰を下ろしているのは、店の一番奥。カウンター席。内側では、いくつもの鍋が湯気を上げている。今日の仕込みも順調のようだ。
決めているわけではないが、いつもなんとなく同じ席に座ってしまう。
もう一度、琥珀色の酒をなめる。きつい酒なので、ゆっくり飲むことにしている。
その瞬間、何やら全身が脱力したのを感じた。
目が覚めてから、そう時間が経っていないはずなのに、いろいろなことが起こった気がする。
やれやれ、この程度で疲れを感じるとは、俺も柔になったな。
と、そこまで考えて、夕べは日暮れから夜明けまで飲み続けていたことを思い出す。
いや、特別に柔になったわけでもなさそうだ。
「どうしたの、浮かない顔してる」
ふわり、と香草の香気をまとわせて、メリルが隣に座った。
豚肉と根菜を、香草と塩で煮詰めた物が出された。
以前、ここに来て、この料理が気に入ったと言ったら、何も言わなくても出てくるようになってしまった。
「そうかな」
メリルは、手ぬぐいを出して、俺の顔を拭き始める。
そういえば、俺は起きて顔を洗ったかな?
しまった、記憶に無い。
「そうよ。目の下に隈ができてる」
くすくすと笑われてしまう。
なんだか、妙な気分だ。きっと、姉に世話を焼かれる弟というのはこんな感じなんだろう。実際、俺のほうが年下だ。どのくらい離れているかは、言わないことにしよう。
俺もまだ死にたくは無い。
ああ、そうだ。弟で思い出した。
「そういえば、トビアは元気かい?」
メリルは、手ぬぐいをたたんでポケットにしまうと、頷いて言った。
「元気よ、すごく背が伸びたわ。最近やっと棟梁から仕事を任せてもらえるようになったらしくて、張り切ってる」
メリルの弟は、五年か六年ほど前に、行商人に連れられてこの町にやってきたと聞いている。
当時、結婚したばかりだったメリルは、親元から奉公に出されたという弟の働きぶりを喜んだ。しかし、それもほんの何ヶ月かの事で、トビアは流行病に倒れ、商人への方向ができなくなってしまう。時を置かずして、メリルの夫の事故死。
人の良い行商人は、メリルとトビア姉弟のためにいくらかの金を出してくれたが、それも高額の薬代で消えた。
クレイトンじいさんが可能な限りの手を尽くしたが、厄介な病気は治らなかった。
そして、三年前。俺はこの街にやって来た。毎日、マーヴに誘われるまま、〈銀砂亭〉に入って、だらだらと管を巻いていた。
初めて会ったころのメリルは、美人ではあったが、陰のある表情をしており、店の雰囲気も、今よりはずっと暗かった。
俺は、戦争が終わってしまい、補給部隊の仕事も無くなったために、これからどうしようかと悩む反面、どうでもいいかと諦めてもいた。
なにしろ、人生の目標を達成してしまっていた上に、首まで戦争に漬かっていたのだ。いまさらどんな生活をしていいかもわからなかった。
トビアの病について聞いたのは、もう酒で頭がおかしくなっていたときだった。口を滑らせて、よく効く薬を調合できると言ってしまったのだ。
誤解の無いように言っておくが、特効薬は本当に作れた。手持ちの材料と、クレイトンじいさんの在庫で、十分に足りた。
問題は製法だった。
それはすでに失われたはずの方法で、医者の間にも知る者のないやり方だったというわけ。
俺は〈昔取った杵柄〉。優秀な師匠がいたおかげで知っていただけだ。
その件について何度も質問された。その度に俺は、補給部隊にいたとき、大陸の西部で聞いたとだけ答えた。
もちろん嘘だったが、まさか本当のことを言うわけにも行かない。
結論から言うと、トビアの症状は良くなった。薬を飲ませた翌週から、目に見えて回復し、二ヶ月も経ったころには、大工の棟梁に弟子入りできるまでになった。
そのときに思った。
この道があるじゃないか。
「あなたには本当に感謝している。私たち姉弟がこうしていられるのも、あなたのおかげよ」
メリルはやさしく微笑んでいる。
その顔を見ていると、何か温かいものが胸の内側に広がっていく気がする。
「そんなことはないさ。ただちょっと、巡り合わせが良かっただけだ」
そうだ、俺がこの町に来たのも、メリルの弟が、薬で治せる病気だったのも、俺が薬の製法を知っていたのも。何かの巡り合わせ。
この町には悪いことの方が多いかもしれないが、それでも、俺を受け入れてくれた町だ。何か役に立てることがあればいいんだが。
「だめよ、リアン」
メリルの声が耳元で聞こえた。気が付くと、メリルが俺の手を握っている。
いや、まずメリルの手があって、俺の手がその上に乗っていて、さらにメリルの手が乗っている。手の三段重ね。
つまり、俺は知らないうちに、カウンターの上に置かれたメリルの手を握っていたのか。
いかん、今日はどこか呆けている。
「だめよ、あれはあの時だけのことって、約束したじゃない」
メリルは、頬を染めて、顔を近付けている。
いやいや、ちょっと待ってくれ。なんて事を言い始めるんだ。誰かに聞かれたら、俺は町を追い出されるかもしれないぞ。
「いや、待ってくれ。そういうつもりは無いよ。本当だ。第一、そういうのは間に合ってる」
言いながら、反射的に背後を振り返る。
幸いと言うか何と言うか、店内に客の姿は無い。一人、アンサがこちらに背を向けて、何もない卓の上を拭いている。
アンサ、気を使ってくれているんだろうが、そのやり方はあからさま過ぎるぞ。完全に背を向けているということは、聞こえていると言っているようなものだ。
こういうときってのは、どうして事態が思わぬ方向に進むんだろう。油断がいけないのか、それとも、何か別の法則があるのか。
背後のアンサを気にしながらも、メリルへと顔を戻す。
すると、金髪の女店主は、眉を吊り上げていた。
「間に合ってる? 間に合ってるですって? どういう意味なの、まさか、恋人ができたの。私に無断で?」
なんでそうなる。と言うか、どこからそんな発想が出てきた?
誤解の無いように言っておくが、「間に合ってる」というのは方便だ。つまり、半分は本音で、半分は嘘だ。
恋人がいるとかいないとか、結婚はまだかとか、そういう質問を切り抜けるための台詞。常套句だ。
俺も人の子。時には女を抱いて寝たいと思うこともある。しかし、実際のところ、薬草を採取したり、薬を調合したり、時々持ち込まれる厄介事に首を突っ込んだりしていると、不思議なことに、そういった欲望が薄れていく。
これも一種の充実感というやつなんだろう。
まあ、誰かに聞いたわけじゃないから、本当のところはどうなのかわからない。
軍にいたころにも、周囲の者たちからは、感情が薄いと言われていた。実感は無い。
「違うよ、メリル。恋人ができていたら、あんたが知らないわけないだろう。いつも俺のことはお見通しだ。……、それより、ちょっと気になったんだが、俺が恋人を作るときは、あんたの許可が必要なのか?」
目を見つめて言ってみると、メリルは耳まで真っ赤になった。
「そりゃ、そうよ。あんたはお人好しだから、変な女にだまされるかもしれないじゃない。私がちゃんと見極めてからじゃないとね」
なんだかわからないが、そういうことらしい。
そうこうする内、開店時間になり、客が増えてきた。いつもこの店は混雑する。酒もいいし、料理もいい。そして、店主もいい。商売の邪魔になるような気がして、早々と〈銀砂亭〉を出た。
夕陽が町を照らしている。
遠くに、〈風見鶏亭〉の入り口が見える。これから、夜の営業に入るためか、外で美麗な衣装に身を包んだ女たちが呼び込みを行なっていた。
マーヴには悪いが、ああした店よりは、〈銀砂亭〉のようなこじんまりとした店の方が好みだ。
地元の者は、〈風見鶏亭〉がある通りを〈表通り〉。その裏手にある〈金葉館〉に面した道を〈裏通り〉と呼んでいる。この町に表も裏もないような気もするが、伝統と言われてしまえば、それまでだ。
俺の家は、裏通りを、更に置くまで進んだ先にある。帰るには、ちょうど、〈金葉館〉を含めた娼館の集まる区域を横切ることになる。
何人かの娼婦が、こちらに向かって声をかけてきた。以前、薬を調合して渡したことがある女たちだ。
軽く手を振り返して、家路につく。
二
〈風見鶏亭〉での一件から三日が経っていた。
早朝、夜が明ける少し前に、俺は〈風見鶏亭〉で馬を借りた。そのまま、〈表通り〉を通って、中央区を目指す。シュードスの中央区は、東区と西区を足したよりも、ずっと広い。
東区で言うところの〈表通り〉には、正式な名前がある。〈シュードス第三居住区大街路〉というのが、それだ。しかし、そんな名前を使っている者などいない。みんな、〈三番通り〉と呼んでいる。〈表通り〉は、東区でしか通用しない。
俺の周囲には、水瓶を抱えた、近所の奥さん連中や手伝いの子供たちが、井戸に向かう列があった。
この都市が貼り付いている丘は、全て岩でできている。岩を削って、三つの台地を作り、それが居住区になった。
丘の頂点に見える城の地下、岩丘の深奥には、無数の地下道と、巨大な魔法装置が設置されていて、この装置が、更に下の水脈から水を汲み上げている。この水は、古代魔法文明の遺産によって、浄化され、増幅されて、都市内部に広がる、上水道へと導かれる。
都市警護隊によって厳重に管理された水道は、都市の各所に据えられた井戸につながっており、人々は、毎朝、水を汲みに行くのだ。
ちなみに、井戸の数は上町が最多だ。なにしろ、各屋敷に一つずつある。貴族ってのは、全く。
使われた水は、丘の傾斜を利用して、全て下町東区に集められる。東区の地下にも、小型の魔法装置があって、排水を〈ほぼ〉真水の状態にまで浄化し、都市の東を流れる大河エトに流す。
この仕組みは良く考えられている。エト河の下流に住む人たちには悪いが、正直、いくら浄化されたとは言え、〈ほぼ〉真水など、飲みたくはない。
夜明け直前の、紫色の空を眺めながら、中央区を通る。
次第に人が増えてきた。みんな、〈中央大路〉に向かうのだ。
この、舌をかみそうな名前の道は、都市自体の入り口である正面大門から、城までをつなぐ唯一の道で、シュードスで最も広く、長い。町の人々は、単に〈大路〉と言ったり、〈大通り〉などと言ったりする。
〈三番通り〉と〈大通り〉の交わる場所にやって来た。下町そのものの繁華街だ。
〈大通り〉は、毎朝、混雑する。下町に住む農民たちが、都市の南西部に広がる、穀倉地帯へと向かうのだ。彼らは、乗合馬車を利用して、割り当てられた農地へと向かう。
俺も、その人の波に乗って正面大門に向かう。
ふと、背後を振り返ると、城壁よりも遥かに高くそびえ立つ、シュードス城。その両脇にある、高い尖塔からは、昼夜を問わず、白煙が上がっている。聞くところによれば、あの煙は、都市機能を維持する魔法装置が、正常に動いている証だとか。
まだこの町にやってきたばかりの頃、地下道を探って、魔法装置を見に行ったことがあったが、さすがに警備が厳重だった。だが、あの巨大な装置の威容は、忘れられない。古代の人々は、あんなものを作る技を持っていたのかと思うと、今でも、背筋が寒くなる。
思わず身震いをすると、馬が鳴いた。その首をなでて、落ち着かせ、都市から出る。農民たちの列から離れて、シュードスの西方にある森へと入った。
目的は三つ。
一つ、気分転換。二つ、食料の調達。三つ、薬の材料の採取。
どれが主かって?
二つ目だな。
食うものを食わないとだめだ。身体にも心にも良くない。従軍中に学んだ。だから、森に来てやったことの一つ目は、鳥を仕留めることだった。
幸い、俺の修得している技能は、森の中での狩りには打って付けだ。自分で言うのもなんだが、優秀な狩人さ。
獣を狩る合間に、身に付いた鍛錬を行なう。昔、できていて、今はできなくなったということは、まだない。反対に、昔はできなくて、今になってできるようになったことはいくつかある。
師匠の言葉が思い返される。「常に鍛錬を忘れるな」。おかげで、いろいろと役に立っている。
森を進むと、ねじくれた大きな木が現れた。珍しいものではない。この地方では、非常にありふれた木だ。
名前をウジェという。
今から数百年前、まだシュードスができる前に、この地方に住んでいた小鬼族が付けた名で、意味は、確か〈落ちる〉だったかな。
この木はとても硬いうえに、あちこちねじれている。幹や枝などは、下手をすると、鉄製の斧でさえ刃こぼれする。そのため、〈鍛冶屋泣かせ〉という異名まである。当然、建物を作る材料には向かない。だから、あちらこちらで、生えるままに放置されている。
もう一つ、このウジェの木の大きな特徴がある。枝が落ちることだ。
ウジェの枝は、根元が大きく膨らみ、丸いこぶになる。幹や枝が、驚くほど硬いウジェだが、このこぶの根元だけは例外だ。こぶを幹からはがすように斧を入れると、今度は、驚くほど簡単に、枝を落とすことができる。
それだけではない。この木は、葉が落ちるのと同じように、枝自体が落ちるのだ。冬になって葉が落ちる木はたくさん知っているが、枝が落ちる木というのは、この土地に来て始めて聞いた。
このことから、小鬼族は、ウジェ〈落ちる〉と名付けたのだろう。
今このときも、ウジェの根元には、落ちた枝がいくつかあった。
この枝は、シュードスでは大変に一般的な道具として使用される。樹皮を剥ぎ、束ねて綱にすることができるし、町の中では、この枝を杖にした老人たちが多くいる。特に下町では、こぶを利用した木槌としても使われている。ただし、こぶはほぼ球状なので、大工仕事などには向かない。のみが滑るのだ。
あまりにも頻繁に目にする道具なので、ウジェの木槌とか、ウジェの杖などとは呼ばず、みんな単にウジェと呼んでいる。
我が家にも、この枝はいくつか備蓄してある。新しく拾った枝は、雑貨屋にでも売れば良いだろう。
今日の森での戦果は、丸々肥えた鳥が一羽と、標準的な兎が一羽だ。
他に、香草や食用の草花がいくつか。木の実も取れた。
順調だ。
もちろん、仕事も忘れてはいない。収集した薬草は、大型の革鞄からあふれそうになっている。
俺は薬草を識別するとき、見た目や手触りで判断することももちろんだが、主に鼻に頼っている。薬を調合するときもそうだ。調合する前の薬と、調合した後の薬。においで正しい配合かどうかを判別している。
薬草というのは、摘み取った直後と、完全に乾燥させたときに、もっとも強い香りを放つ。正しく乾燥させることができたときの香りは、その薬草の全てを語る。
どんな症状に効き目があるかはもちろん、どの程度の効力を持つかということもわかるのだ。
家に帰って、採って来たばかりの薬草を暖炉の近くに吊るし、すでに乾燥していた薬草を下ろす。
俺の家は、ほとんど太陽が差し込まない。そのせいで、一日のほとんどが薄暗く、室温もなかなか上がらない。一階部分は特にそうだ。しかし、これは悪いことではない。
太陽による温度の上昇がないということは、それだけ、乾燥させる薬草の管理が楽だということだ。小さな火を燃やして湿気を排除するくらいで、あとは安定した品質の素材が作られる。
使用頻度の高い薬を、暇を見つけて調合していく。
においの広がり具合に気を配る。
こうしている間も、気にかかるのは新種の麻薬のことだった。
以前、同じように麻薬が、東区を中心にして流行し始めたことがあった。
一年ほど前だ。
そのときは、〈風紋〉が断固とした態度を取り、徹底的に売り手を追い詰めた。その甲斐あってか、すぐに沈静化していった。
しかし、今回は、どうも怪しい。再び、麻薬流行の兆候がある。
何より、あのどこかで嗅いだ覚えのあるにおい。
においに関する記憶力はいいと思っていたのだが、どこで嗅いだものか思い出せない。
「おっと」
考え事に夢中になっていたようで、配合を間違えてしまった。
いかんいかん。
気を取り直して、最初からやり直す。
薬というのは不思議なもので、使い方と形状によって、効力の発揮の仕方が変わる。だから薬師たちも、何種類もの薬を用意しておくことになる。調合さえしっかりしていればいいという物でもないわけだ。
薬の使用方法は、大きく分けて五つ。飲む、塗る、吸う、浸す、振り掛ける。
これに対して、薬の形状は七つある。
元薬。薬の元になるものだ。摘んだばかりの薬草や、木の実、鉱石など、薬の原料となるもののことだ。
干し薬。元薬を乾燥させた物。砕いて、煎じ薬として使うことが多い。
水薬。煎じた後の液体や、水に溶いた薬などのことだ。何であれ、液体なら水薬と呼ばれる。
粉薬。干し薬を粉になるまで砕いたものだ。混ぜやすいので複雑な調合をするときに向いている。水や酒を加えて、水薬にしたり、膏薬にしたりする。一番使い勝手かいい形状だ。
丸薬。粉薬に水を加えて錬り、丸く形成したもの。保管しやすく、携行性に優れている。
膏薬。粉薬を水で引き伸ばし、粘り気を持たせたもの。塗り薬として使ったり、貼り付けたりする
煙薬。その名の通り火をつけて煙を吸う。有益なものもあるのだが、あまり流行っていない。結局はただの煙だから、むせてしまうという大きな弱点がある。
この他に、全くの例外として、魔法使いが作る霊薬というものがある。
古代、ウェルサーノ大陸は魔法文明によって統治されていた。どういう経緯があったのかは知らないが、あるとき突然、この文明は滅び、魔法は衰退の一途をたどった。それから千年。辛くも生き延びた魔法使いの一族は、今や細々と生きているに過ぎない。かつての栄華は欠片も無い。
戦場にいたころ、味方の魔法使いは頼もしく思えたが、敵の魔法使いには苦労させられた。
貴族の一部や、騎士の中には、金と手間をかけて魔法を習得している者もいるが、大概は遠くまで自分の声を響かせる魔法だとか、一瞬だけ強い光を発して目くらましをするとか、そういう類の魔法しか使えない。都市の魔法装置を整備できるような魔法使いたちは、少数だ。
聞いた話だが、魔法というのは、単に使うことよりも維持することの方が遥かに難しいのだそうだ。
例えば、竈を爆発させるような炎を一瞬だけ発生させられる魔法使いよりも、蝋燭ほどの火を長時間維持できる魔法使いが優秀らしい。
霊薬は魔法を使って作られる。調合している間や、仕上げの段階で、安定した魔法の使用が必要となるため、本当に限られた魔法使いにしか作れないのだ。当然、価格も高騰する。まあ、しっかりとした作り方がされていれば、効き目は抜群だ。それこそ、死んでしまった人以外ならば、元気を取り戻せる。
俺の店にも、商品見本として、知り合いの魔法使いからもらった霊薬があるが、完全に薬品棚の肥やしだ。正直、使い所がわからないし、俺には作れないから何の参考にもならない。
その後、いくつかの薬を調合し終えたとき、扉を大きく叩く音が聞こえた。
「リアンさん、リアンさん!」
またしてもドニーだ。
呼びかける声は、先日よりも小さくなったが、扉を叩く音は大きすぎる。完全に近所迷惑だ。
「ドニー、どうした?」
扉を開けると、息を切らせた〈早駆け〉ドニーがいた。よほど急いで来たのか、息継ぎが忙しく、声が出てこない。
仕方ないので、水を一杯差し出した。ドニーは一気にそれを飲む。
「す、すみません。御頭から、役人が来たと、伝言です」
「来たか」
別に驚きはしなかった。マーヴの予想通りだったということだ。
ただ、三日経っているというのが気になった。これは早いのか、遅いのか。判断がつかない。
「すぐに〈風見鶏亭〉に来てほしいと」
ドニーが言った。
言われるまでもない。
「すぐに行こう」
荷物をつかんで、家を飛び出すと、〈風見鶏亭〉を目指して走った。
店の前に着くと、役人用の馬車が一台。それに、馬車を守る衛士が二人。マーヴが伝言してきた役人というのは、すでに店の中に入っているらしい。
まだ昼前だが、店は客で一杯だった。
近付くと、ちょうどロドスが出てきた。
「リアンさん、お待ちしていました」
大男に先導され、マーヴの執務室に入る。
長身の男が三日前と同様、青い衣服に身を包んで、こちらに背を向けて立っていた。一人だ。役人の姿はない。
「その服、気に入ってるのか?」
あまり大きな声を出さないようにして言うと、振り向いたマーヴが苦笑いを浮かべた。
「それもあるが、一番上等な服なんだよ。執政官直属の調査員をお出迎えしなければいけないからな」
おどけたように両腕を広げる。
整った顔に、疲労の色が浮かんでいた。まだ三十歳になっていないマーヴだが、一組織を纏め上げているだけに気苦労も多いことだろう。
「その調査員殿をお迎えするのに、なんで俺が呼ばれたのか、聞いてもいいか?」
「そのことだが……」
マーヴはいつの間に取り出したのか、蒸留酒を手にしていた。
俺は気にならないが、これから客を迎えるんじゃなかったのか。
「当初、執政官は調査のための部隊を送り込もうとしていた。どうやら、死んだ騎士は、かなりの要人だったらしい。しかし、あまり大騒ぎするのも、返って問題があるというので、調査員ほか数名の派遣にとどめたようだ」
マーヴはにやりと笑った。大勢の〈部外者〉に縄張りをあらされる心配はなくなったわけだ。
まあ、これに関しては、俺が心配するようなことではない。
「でな、調査員は部下数名と来ているわけだが、〈風紋〉の全面協力を申し入れてきた。そして、その証として、幹部に相当する者の同行を希望して来ている」
妥当な線だろう。人海戦術で一気に調べを進めたいところを、調査員数名の派遣にとどめた。騒ぎは大きくならないが、人手は足りない。ちょうどよく東区には、そこを仕切る組織があった。よし、こいつらを使おう。
不自然というわけではないと思う。
「組織に協力させることで、調査をやりやすくしたいんだろう。〈風紋〉も、ただの無法者ではないってことを示す機会だ。いいんじゃないか」
俺は思ったままを口にした。しかし、マーヴの表情は渋い。
「俺は、お前に調査員と同行してもらいたい」
なんだって?
「どういうことだ、俺は〈風紋〉の幹部じゃないし、加えて言えば構成員ですらないんだぞ。協力の証になんてならないじゃないか」
図らずも、声を大きくしてしまう。
マーヴは、視線を鋭くし、座っている大きな机の中から何かを取り出すと、ゆっくり、天板の上に置いた。
それは、〈風紋〉の幹部だけが持っている鑑札だった。
場に沈黙が降りる。
「俺に、〈風紋〉の幹部になれっていうことか?」
実のところ、シュードスの町に来てすぐ、この鑑札を差し出されたことがあった。そのときは、明確に幹部への誘いがあったのだが、全く興味がなかったので断った。丁寧に。
「違うさ。三年前に言っただろう、勧誘は二度としないと。だから、幹部になれとは言わない。ただな、今回の件、実際に幹部を参加させるわけにはいかないんだ」
マーヴは、声を落として話し始めた。
「今回の殺し、どうもきな臭い。急ぎで調べさせたが、酷似した手口で、他に二人殺されていた。ここ十日ほどのことだそうだ。場所は下町じゃない、一人は中町で、やられた。豪商だ。もう一人は上町だ。どういう者が殺されたかまではわからなかった」
大きな背もたれを持った椅子に体重を乗せ、マーヴは酒をあおる。
つい先日の件に加えて、他に同じような手口で二人か。しかも中町と上町。
各区画が城壁によって区切られているシュードスでは、町から町への移動に気を遣う。下町から中町への移動は簡単だ。衛兵は五、六人しかいないし、城門を通るときにも目的を口頭で告げるだけでいい。夜になると城門が閉まるが、乗り越える手段を持っていれば問題にならない。が、中町から上町への移動は難しい。城壁の分厚さも倍以上。衛兵は常に一小隊が詰めている上、壁の上部を巡回している者もいる。
シュードスに来たばかりのころ、一度、侵入を試みたが、なかなか難しかった。それを考えると、ただの辻斬りではないだろう。やはり暗殺者か。
仮に今回の事件が暗殺者の手によるものだとすると、きちんとした目的があったはずだ。おそらく、殺した相手に何かの共通点がある。
しかし、下町東区の元締めたるマーヴには、中町の件はともかく、上町の件を調べるのは大仕事だ。今からでは詳細はわからないだろう。
「連続した殺人。おそらく、今までも執政官の手の者が調べていただろうが、まだ解決できないところを見ると、相手もやり手だ」
それに、とマーヴは続ける。
「ほぼ同じころから流行し始めた新種の麻薬が気になる。関係ないかもしれないが、関係あるかもしれない。こっちも調べたんだが、どうやら、麻薬は東区で主に流通しているらしい。だが、なぜか広がりが鈍い。東区だけで売買されている感じだ」
それはつまり……、
「誰かが、東区に狙いを絞ってばら撒いている、って言いたいのか。そんなことできるのかよ?」
「わからん、だから慎重に調べたいんだ。そんな手の込んだこと、できるやつかいるのかどうか」
確かに、薬を東区だけにばら撒くなどというのは、とんでもない労力のかかる話だ。それに、〈風紋〉の目を盗んで広まったということは、〈風紋〉の内部に敵がいる可能性があるということでもある。
「俺が今、心から信頼できるのは、ロドスを始めとする何人かの側近と、お前だけだ。下手な人員を調査員と同行させたら、〈風紋〉に不利を呼びかねない。かと言って、今の状態で信頼できる幹部を分散させるわけにもいかない。苦肉の策だと思ってくれ」
俺は、一つため息をついた。なんだか、妙な話に巻き込まれている気がする。
気が付くと、マーヴから極端な戸惑いのにおいが漂ってきていた。
この男にしては珍しいことだ。それだけ、不確定な事柄が多いということだろう。
正直、即決はしかねる話だ。
しかし、変に手を回すのではなく、こうして率直に依頼してくる辺り、俺を信頼しているというのは本心なのだろう。
で、あれば仕方がない。
「わかった、これは預かっておく」
俺は、マーヴの机から鑑札を取り上げた。
「一つ、確認しておくがな、マーヴ」
「なんだ?」
「これは、〈風紋〉頭目からの依頼か、それとも友人からの頼み事か?」
「両方だな。友人として頼んだが、きちんと報酬は用意している。それと……」
マーヴは、立ち上がり、俺の肩をつかんだ。
「いつ何時、思いもよらない荒事になるかも知れん。気を付けろよ。俺には友人が少ないんだ」
思わず吹き出してしまった。
「わかってる。でも、気を付けるのはお互い様だろう。俺も友人が少ないからな」
お互いに、にやにやと笑ってしまう。
「よし、ロドス、客人をお通ししてくれ」
しばらくして、調査員が二人の部下とともに現れた。
この調査員は、俺が呼び出される前からここにいたはずだ。かなりの時間、〈風見鶏亭〉の中で待たされたにも関わらず、不平そうな様子は無かった。むしろ、東区の元締めに面会したことで、自分の仕事への使命感が増しているかのようにさえ見える。
マーヴは、明るく言った。
「ようこそ、調査員殿。しかし、意外でした、まさかこのようにお奇麗な女性がいらっしゃるとは」
そう、調査員は女だった。まだ若い。俺とそう変わらない年齢だろう。
金髪に緑色の瞳。すっきりとした顔の輪郭と、少し小さめの耳は、顔立ちを怜悧に見せる。しかし、やや大きめの目となだらかな鼻梁の線が、美人に特有の冷たさを打ち消しているように思える。ただ、背筋を伸ばして立つ姿は、凛々しさを見せるとともに、一種の硬さを表しているのが気になった。
窓から吹き込んでくる風が、下町に特有の雑多な香りを運んでくる。それに混じって、新たに薔薇をいぶしたようなにおいがあった。
調査員の衣服からのものだ。香の一種で、流行の物ではないが、貴族なら誰でも知っているはずの、伝統的な品である。
「お初にお目にかかる、マーヴェリック・フロスト殿。我が警護隊には、男女平等の考えが根付いていますので」
鈴を転がすような声というのは、おそらくこのようなもののことを言うのだろう。よく響き、かつ不快感の無い声だった。
しかし、意外だ。こうした、見るからに硬い役人は、マーヴのような者に否定的なのが常だが、この人物は違うのだろうか。それとも、ただの建前か。
「どうぞマーヴェリックと呼んでください」
言って、マーヴは調査員に椅子を勧める。顔はにこやかに笑っているが、その瞳は研がれた剣のようだ。それじゃ、警戒しているのが丸わかりだぞ、大丈夫か?
少し心配になったが、やつも一角の男だ。なんとかなるだろう。
俺は、部屋の隅のほうへ移動する。
調査員も、その部下も、俺には一瞬たりとも視線を向けない。しかし、硬く引き結ばれた口元が、その態度は、こちらを見下しているがゆえではなく、マーヴに意識を集中させているせいであることを物語っていた。
「私は執政官直属の公選調査員、上級警護官のフィリス・モア・アロンソ。この度はご協力を感謝する」
律儀に頭を下げる調査員。そういう性格なのかもしれない。
こういった役人はやりにくい。
あからさまに賄賂を要求してくる者なら、いくらでも手玉に取れる。目の前に金貨をちらつかせれば、それしか見えなくなるのだ。あとは、金貨の袋を、こちらの目的に合わせた場所に置けばいい。しかし、使命感に燃える役人は、脇目を振るということがない。自分の仕事以外は目に入らないのだ。
もちろん、フィリス・モア・アロンソが見せた、この姿が本性だったとしての話になるが。
「いえ、この地で生きるものとして、地元の事件解決には力を惜しみませんよ」
マーヴは、一瞬だけこちらに視線をよこす。目が「やりにくい」と語っていた。まさか会った瞬間から賄賂の話をするつもりは無かっただろうが、その話が全く出なさそうな雰囲気になるとは思っていなかっただろう。
「確か、貴殿の経営するギルドは〈風紋〉と仰るとか」
ギルドとは、また改まった呼び名をされたものだ。
「まあ、土地の人間にはそう呼ばれているし、自分たちでもそう名乗ってはいる」
マーヴは苦笑いだ。普通、こういう話題には触れないものだ。
通常、ギルドと言えばシュードス石工協会だとか、商会連合シュードス支部とか、そういう名前が付くはずだからな。それが〈風紋〉では、荒くれの自治会だと吹聴しているようなものだ。
やはり、このフィリスという調査員は真面目一徹の人柄らしい。
「今回の調査に関して、〈風紋〉からも協力者を同行させていただけるとのことだが、すぐにご紹介いただけるのだろうか?」
「むろんです。そのつもりで、あちらに呼んであります」
マーヴは俺を手で指し示した。それに素直にしたがって、フィリスはこちらに目を向ける。部下たちも同様だ。
にわかに視線を集める対象となってしまったが、とりあえずの礼儀として、頭を下げておく。
「この者はリアン・ベイル。俺だけでなく、〈風紋〉の主だった者たちからの信頼も厚い男です」
一瞬だけだったが、フィリスの視線が、俺の体の表面をなでていくのが感じられた。値踏みされるのは気分がいいものじゃないが、この際だ、仕方がない。
「事前に聞いていた話では、幹部の役職に付く人物とのことですが、それにしては随分とお若い。マーヴェリック殿もお若いが、こちらのギルドでは、そうしたものなのですか?」
「そのことですが、実のところ、リアンは〈風紋〉の一員ではありません」
「何と言われる?」
「しかし、先にも言った通り、〈風紋〉全体から信頼されているのです。幹部に相当する男ですよ」
「だが、要するに部外者ということでしょう? 〈風紋〉としては、我々に協力する気がないということですか」
語気が荒くなるフィリス。まあ、全面協力の証として相応の人物を同行させるという話だったようだから、こうなってくると馬鹿にされているように感じるだろう。
怒るのも当然だ。
「いや、そうではない、協力は約束する。ただ、力を貸す形については、こちらに任せてもらっているはずだ。リアンの協力が、こちらが用意した最善の形だ」
しばし、にらみ合うマーヴとフィリス。
マーヴは生まれついての荒くれ者。にらみを利かせることに関しては折り紙付きだ。まあ、今回は、いくらか加減しているようだが。
対するフィリスは、意外なことに全く引けを取っていない。
調査員は執政官直属の役職だ。都市警護隊の者が兼任することが多いらしい。この警護隊には、二種類あって、一つは上級警護官、もう一つは下級警護官だ。
上級警護官には、基本的に貴族が就く。下級警護官は、平民から下級騎士まで様々だ。
都市警護隊に入隊した後、上級警護官となって、隊を指揮することもある貴族だが、この貴族というのは、何を隠そう個人の能力に差がありすぎて全くわからん連中だ。
特に貴族の子女と言えば、生まれてから結婚するまで一歩も家から出ない、文字通りの深窓の令嬢がいる一方、戦場に出て鎧甲冑を馬から叩き落す女傑までいる。子供のような背丈の女騎士が、倍以上の体格をしている敵兵をねじ伏せたのを見たときは、さすがに開いた口がふさがらなかった。
フィリス・モア・アロンソは、どうやら女傑側の人物らしい。
「わかった」
先に口を開いたのはフィリスだった。
「確かに、こちらからの要求は、全面的な協力。方法については問題となりません。ただ、確認しておきますが、こちらの方は本当に幹部に相当する人物なのですね?」
「それについては、掛け値なしに保証します。ある面においては、〈風紋〉幹部よりも役に立つと思いますよ」
マーヴはこちらに向かって手招きした。いつも手下に対してやっているような気取ったやり方じゃなく、幾分か丁寧なやり方だ。
「リアン・ベイル殿」
フィリスは、こちらに向かって軽く頭を下げる。
「ああ、よろしく。フィリス・モア・アロンソ殿?」
「フィリスと呼んでもらいたい。苗字は苦手なので」
苗字が苦手とは、妙な話だ。貴族というのは家に誇りを持つものだと思っていた。その家に付属する姓を苦手にする貴族がいるとは。
「じゃあ、フィリス。俺のこともリアンと呼んでくれ。で、まずはどこから始める?」
フィリスは、全く考えるそぶりも見せず、言った。
「そう、まずは、着替えだ」
そのまま、俺たちは連れ立って、〈風見鶏亭〉の前に出た。そこには、フィリスたちが乗ってきたと思われる馬車が残っていた。
幌の中に入って、まずは部下の男二人が着替え、今、入れ替わりにフィリスが入った。
先に着替えた、サディアス・ヴァンダークとマクラム・シュワルテンの二人は、どこにでもいそうな職工という風体だ。
袖のない服に厚手のズボン、革製のベストを着ており、足元は底の厚い革ブーツだ。
肩から斜めに吊り下げたベルトに、短剣をくくりつけている。シュードスにおいて、武器の携行は違法ではない。ただ、比較的治安がいいので、実際に武装している者は少ない。
二人の違いと言えば、衣服の色か。サディアスは上着が黒。マクラムは茶色だ。
「早かったな」
俺は、出てきたばかりのサディアスに声をかけた。
この男は長身で、一見、痩せて見えたが、鍛え抜かれた者に特有の、芯の通った立ち姿をしている。
「男が着替えに時間かけてもいいことないからな、なあ、マクラム」
サディアスは、切れ長の瞳を、片方だけつぶって見せた。
同意を求められたのは、ほぼ同時に着替えを終えた、もう一人の男。
「早着替えも武人の取り柄だ」
こちらは肩をすくめて見せた。
マクラムは、サディアスよりも更に、頭一つ分背が高く、肩幅も遥かに広い。がっしりとした顎と、引き結ばれた口が、強靭な意志の力をうかがわせる。
意外なほど、二人は様になっている。最初から職工だったかのようだ。
だが、町にいる職工たちとは、明確な違いがあった。
「懐かしいもの着てるな」
俺は、サディアスの革ベストを、指の硬いところで、軽く叩く。こつこつ、と硬質のものの音がした。
「さすが、わかったか。職業柄な、安全第一さ」
サディアスが笑った。よく笑う男だ。
彼らが着ているのは、ただの革ベストではない。胸と脇腹、それと背中の一部に銅版を縫い込んだものだ。戦場で矢を防ぐために着る者が多かった。
最初に二人を見たときからずっと考えていたことだが、このサディアスとマクラムには、いわゆる上流階級臭さがない。いや、実際のにおいのことではない。偉ぶった態度や、きつい香水のにおい、意味もなく平民を見下す態度など、そうしたにじみ出る、嫌な貴族らしさとか、横柄な騎士らしさのことだ。
少し話をしたところ、二人とも騎士の家系で、従軍経験があるとのことだった。不思議なもので、戦場での経験が多い貴族や騎士は、相手の身分を気にしなくなる。
「俺はもともと下級騎士のうえに三男坊だから、財産もなければ家を継ぐ予定もなかったんだ。だが、戦場で思いがけず功を立てちまってね、少しばかり追加給をもらえることになったんだよ。んで、シュードスに来たら、めでたく上級警護官さ」
おどけたように言うサディアス。
マクラムも、口数は少ないが、別に秘密主義というわけでもないようで、小さな息子がいることなどを話してくれた。
俺は早々に親を亡くしたし、自分に子供があるわけでもなかったので、親としての生活には興味があった。しかし、マクラムもこれまでに十年以上、戦場に出ていたので、子育ての様相はわからないのだそうだ。
「私も長く戦場にい過ぎた。これからは子供と妻のそばにいたいものだ」
しみじみと言う、マクラム。その表情には、憂いがあった。
俺の鼻には、戸惑いと苦悩のにおいが漂ってくる。ただ、正確に感情は読み取れない。いろいろなものが混ざっている。
「まあ、戦争なんかに長く関わるもんじゃないよな」
サディアスは、つぶやき、にやり、と笑った。
この二人からは、どこかしら馴染んだ雰囲気を感じていたが、なんのことはない。俺も含めて、戦うことにしか役立たないくせに、戦うことに飽きてしまった者が三人集まっただけだった。
しばらくすると、馬車の幌からフィリスが出てきた。
「おお、こりゃ、また」
サディアスが、つぶやいた。
フィリスは、薄紫色の上着に、細めのポケット付き布ベスト、褐色のスカート。
「なんだ、どこか変か?」
そう言ったフィリスの眉間にしわが寄っている。
「変じゃないさ。でも、剣は持たないのか?」
俺は頷きながら言った。
「持っている、が、今は見せられない」
「スカートの中か」
「詮索は無用に願いたい、リアン!」
フィリスは顔を真っ赤にして言った。
万が一、走ったり跳ね回ったりすることに備えて、膝丈のレギンスをスカートの中に履いているのだそうだ。このレギンスに沿わせるように、短剣を一振り、太腿にくくり付けているらしい。
しかし、三人とも普通に見える。これは、むろん悪いことではない。
「これで、聞き込みに行っても、不審には思われないだろう」
実のところ、下町には警護隊を快く思わない住民も多い。特に東区は、そうだ。だから、三人は、あらかじめ町衆に見える服を用意したのだという。
「では、現場で聞き込みだ」
女騎士の号令一下、俺たちは、東区と中央区の境界へと足を踏み入れる。
調査の手順は、驚くほど簡単だった。事前に提出された報告書を片手に、周辺の地理を把握したり、目撃者を探したりする。つまり、書面での報告と、実際の状況に差異がないかを調べるというわけだ。
ここで殺された騎士は、ボリス卿というらしい。
「正確に言えば、ボリス卿は元騎士であり、元警護隊員だった。一年ほど前に除隊して、家督もご子息に譲っておられた」
フィリスが言った。
実際のところ、周辺への聞き込みは大した成果が無かった。
「だめですね、隊長。報告書以上の事はわかりません」
サディアスが、疲労の浮かぶ顔で言う。
彼とマクラムは一組になって聞き込みを行なっていた。
必然、俺はフィリスと同行することになる。
彼らの調査の仕方は順当なものに思えた。ひたすらに報告書を読み、周辺に情報を求め、確定した部分と齟齬の部分を書き出す。食い違った部分は、どこまでも戻って、納得がいくまで調べる。
「一旦、引き上げるか。もう新しいものは出てこないだろう」
フィリスが言う。
収穫祭前の、秋の日差しを受けて、かすかに額に浮かんだ汗がきらめいている。
「では、昼にしては、かなり遅くなりましたが、腹ごしらえでもしに行きますか」
サディアスが、俺を見る。
「地元の方が、おすすめの店など教えていただけると光栄なのですが?」
「よしてくれ、背筋がむずむずする」
古来、腹が減っては戦ができないと、人は言う。まあ、実際に体験してみると、確かに度を越した空腹は危険だ。
道々考えたいこともある。少し歩いて、〈銀砂亭〉へ行くことにした。
〈銀砂亭〉は厳密に言って、まだ開店前だ。しかし、店主のメリルは快く迎えてくれた。一度、開店前だからと遠慮して他の店に行ったら、その後、かなり長い期間すねられた。以来、時間を気にせず、足が向いたときに来るようにしている。
「いらっしゃい、リアン。今日はお客様連れね」
「開店前にすまないな。ちょっと話したいこともあるから、奥の卓を借りる」
「いいわ、飲み物や食べ物は?」
「軽いものを頼む」
〈銀砂亭〉は決して大きくはない。しかし、四人から六人程度が使える卓が、四つほど置いてある。その一番奥にある席に、三人を連れて行く。
アンサが、飲み物を持ってきてくれる。蒸留酒だ。
伝統的に、〈風紋〉の管轄内では葉巻と酒に限り、良いものが手に入る。その理由は、当然、マーヴを含めた歴代頭目の好物だからだ。
下町東区には、〈風紋〉が管理する醸造所がある。主に穀物から酒を作っている場所で、この辺りでは唯一、他の地区にも認められるような、優秀な工房だ。そこで、蒸留酒も造っている。
「はい、いつものね」
アンサが、俺に蒸留酒と、香草水。他の三人には、昼間だからか、香草水で薄めた麦酒を持ってきた。
「この香草、いい香りがするな」
サディアスが、麦酒に混ざっていた香草のかけらを取り上げて、言った。
それに、俺は答えた。
「下町じゃ、水の質が悪くなることも多いからな。薬草を入れて飲むのが普通なんだ。水当たりを防ぐ意味もある」
これは事実だ。特に東区は、排水設備の真上にあって、都市中で使われた水が最後に行き着く場所だ。井戸も、最後に水が届く。水に対する自衛策は必要だった。
料理が運ばれてきた。魚の煮込みだ。いいにおいがする。
「お、これは……」
その料理には見覚えがあった。
「もうすぐ収穫祭だから、試しに作ってみたの。感想を聞かせてね」
シュードスでは、収穫祭の日の夜に、大量の野菜と燻製にした魚を煮込んで食べる風習がある。今、食卓に上っている料理は、その魚煮込みだ。
まずは腹ごしらえ、ということで、全員で魚を口に運ぶ。
一様に大きく頷く。美味い。
「そういや、リアン、戦地ではどの部隊に所属していたんだ?」
サディアスが言った。全く気さくな男だ。しかし、もしやすると、これが調査員としての技能なのかもしれない。
まあ、相手が戦争経験者と知れると、必ずこの話題になるのは確かだ。他に話すことがないからか、あるいは、同じ経験のある者同士、何か共通の思いがあるのか。
「ああ、俺は、いろいろだが……。一番長かったのは、第四軍団かな。七十八歩兵連隊」
「なに、すると、あの猛将コルドヴァ将軍の?」
「そうそう、髭面将軍。知っているのか?」
「知ってるもなにも、俺とマクラムは第四軍団付きの、〈赤獅子〉騎士団にいたんだ」
「なんだって、じゃあ、ウィダネイスの戦いに行ったのか」
俺は、サディアスから、目をマクラムに移した。
大柄の騎士は肯いて言う。
「行った。リアンもあそこに?」
「最前列の部隊だった」
「うわ、なんてこった」
サディアスがのけぞった。
ひょい、と店の奥から若い男が顔をのぞかせる。ちょうど、俺たちが座っている席のそばだ。そこには二階へと上がる階段があり、上階は居住空間だった。
「よう、トビアじゃないか」
俺は、思わず声をかけた。
階段から降りてきたのは、メリルの弟、トビアだ。
「リアン、久しぶり」
快活に笑いながら、トビアは、俺のところへやってきた。
大工の修行をしているというだけあって、以前見たときより、肩もたくましくなったし、顔も日に焼けている。背丈は、とっくに追い抜かれていた。
やれやれ、すっかり、外で仕事をする若者だな。
「また、危ない仕事に首を突っ込んでいるのかい?」
トビアは、フィリスたちを見渡して言った。少し顔が笑っているところを見ると、冗談のつもりらしい。
「違うさ、平和なもんだよ」
俺の答えに納得したのか、そうでないのか、トビアは、笑いながら俺の耳元に口を近づけて言う。
「姉さんは、いつもあんたのことを話してる」
言われていることの意味がよくわからない。
「ああ、そりゃ、一応は常連のつもりだからな」
と、返しておいたが、トビアは不満のようだった。
「そういうことじゃなくてさ……」
トビアは苦笑いを浮かべる。本当は別の内容を伝えたかったようだ。しかし、俺はと言えば、昔からそういう含みのある会話は苦手だった。
「それより、聞いたぞ、仕事を任せてもらえるようになったんだって?」
「任せてもらえるといっても、何人も大工がいるところへ、一人で仕事に行かせてもらえるようになっただけさ。俺一人の仕事はまだないよ」
「それでも、いい事じゃないか。お目付け役がいなくなったんだろう。一人前に近付いてるってことだ。今は何をやってるんだ?」
「今は、城壁の上を渡す橋を作っているんだ」
「ああ、あのでかいやつか」
数年前から、どこだかの貴族が始めた工事だ。城から第四城壁までをつなぐ石の橋を伸ばしているのだそうだ。
「そうそう。でも、変な作らせ方するんだよな」
「変って?」
「すごく昔の作り方なんだよ。城壁の一部になるから、丈夫に作らないといけないのはわかるんだけどね。ほら、なんて言ったっけ、戦争中に、英雄将軍のマグノリアが、階段を落として味方を守った城があるだろ」
「ワスプアント城か」
「そう、それ。そのワスプアント城時代のやり方だよ。すごく古い。でも、まあ、不思議じゃないな。貴族って、すっごい古臭いものに魅力を感じてるみたいだから」
「貴族評論は、もう一人前だな」
「あははは」
トビアは元気そうな声で「じゃあ、また」と言うと店を出て行った。行きがけに、メリルから弁当らしき包みを渡され、何事かをささやいた。
メリルは、顔を赤らめて、こちらへとやってきた。
「ごめんなさい、弟が失礼なことを」
まず、フィリスたちに謝る。
「いえ、気にしていませんよ。それよりも、立派な弟さんですね。しっかり働いている」
「ええ、病気をしていたなんて嘘みたい。リアンが助けてくれたのよ」
メリルは、フィリスに好意的な微笑を送っていた。
フィリスの方はと言うと、少し戸惑いを感じているようだ。そんなにおいがする。
「リアンの薬は随分効くみたいだね」
サディアスが言った。
「そうよ、すごく効くわ」
メリルの笑顔は輝くばかりだ。
何でここまで持ち上げられているのかが、わからない。
「まあ、解毒剤には自信があるけどね。あれは効くよ。自分で言うのも口幅ったいけどな。でも、言っておくが、トビアの病気が治ったのは、三分の一が薬の力、次の三分の一がトビアとメリルの力、残りの三分の一は運だ」
俺は、誰に聞かせるでもなく、言った。謙遜などではない、本心だった。
第2回に続きます。