死に近い病室 3月23日
春休みのことだった。世界的な宇宙研究機関が緊急記者会見を行った。なんでもブラックホールが太陽系を通過するとか。それで様々なバランスが崩れて、計算ではほぼ100%、人類は絶滅するらしい。凡そ2年、それが僕らに残された余命だった。
僕はベッドの側に置かれたパイプ椅子に座って、人生を捨てた先輩とその映像を見ていた。
「嫌な話ですね」
清純な白亜の病室にいるその先輩、木堺湖波が言った。本当はそんなこと思っていないだろうに。
「…………」
だから僕は言葉の代わりに目でその違和をアピールした。
「フフッ、嘘です。とても素晴しいことだと思います」
屈託のない笑顔で笑う先輩に嘘偽りの類いは感じられなかった。本心でそう言っていた。世界の滅亡を素晴らしいと言う彼女。分かり切っていたことだ。
「本当にそう思ってます?」
確認のために僕は聞いた。当然、帰ってくる言葉も知っている。
「ええ」
先輩は躊躇もなくそう言った。だろうな、と僕は納得した。
「別に、この世界全てが嫌いと言うわけでもないですし、無くなって欲しいなんて思ってもいないですけど、でも、無くなったら無くなったできっとせいせいするんだろうなって、どうしてか思うんです。何にもなくなってしまえばどんなに幸福だろうって」
「……なるほど」
「本当に分かってます?」
意地悪そうな笑顔で、さっき僕がしたような質問を返してくる。僕は低く唸って、
「いや。分かってないです。木堺さん自体がよく分からないのに、その思想を理解できるわけがありませんから」
「ですよね。私もそんな簡単に理解してくれるとは思ってません。生死の問題だから、それは必然的に精神の話にもなってきますし、人間は十人十色、真実、他人の主義思想を本当の意味で理解できる人間なんていないんですよ」
「僕は心得てるつもりですよ」
「ええ、知ってますよ。だからあなたの相槌を意地悪く追求したんです」
「変わりませんね、先輩」
「あなたが変わらないからですよ」
窓からはレースのカーテンを通して淡い斜光が差し込む。先輩の下半身を隠す白いシーツに陰影を描く。彼女の顔にも日差しは当たり、病的なまでに白い肌が際立っていた。両手の細い指が下腹部の上で重なっていた。
「僕は変わってないですか?」
意味もなく聞いてみる。
「ええ、全く変わってません。始めて会った頃から何一つとして」
そう言って笑う先輩。柔らかそうな唇が曲がり、えくぼが出来ていた。僕は先輩にそう言われたのが、嬉しいのか嬉しくないのか判然とせず、その不思議な感情を心中、渦巻かせた。
「……それは……良かったです」
「含みがありますね。変わらないのは嫌ですか?」
「いえ、嫌ではないです。かと言って、好きと断言するのもなかなか難しいですね」
不変は心地良い。安定で安寧で、安住だから。しかしそれは飽きる。毎日が代わり映えもせず過ぎて行くのは、自身の存在を危ぶませる要因だ。自分の必要性を問うて虚しくなっては、いつも一人で叫んでいるこの僕はそれをよく知っている。
「変わりたくないと言うには、あまりに世界が広すぎます」
「そうですね」
先輩はそう言って光のない目を閉じた。
「私達みたいな人間に世界は少し広すぎる。本当にその通りです。……ねぇ、君はどうして生きてるの?」
「簡単です」
僕は戸惑わず答える。そんなこと決まっているのだから。
「死ぬのが怖いからですよ。だから僕は先輩とは違います」
「毒のある言い方ですね。自殺は駄目ですか?」
「いえ、批判はしてません。むしろ、あの一歩を踏み出せる先輩を僕は尊敬します」
「自殺未遂の人間を?」
「ええ。僕も死にたいですから。と言うのは言い過ぎかもしれませんが、僕はとっくに生きる意味みたいなものをなくしてるんですよ。ただ死にたくないから生きてるっていう、チキンな野郎です。……あと先輩は自殺未遂じゃなくて、自殺不成功者ですよ。実際飛び降りてますから」
「勇気あるでしょ?」
「はい、僕と違って」
フフッ、と弱い笑い声が聞こえた。僕はだから彼女を見つめてみた。口に手を当てて上品に笑う、いや、上品に嘲笑う彼女を眺めた。今にも消えてしまいそうな、フェイドアウトしていく存在感と言えば良いだろうか、僕は先輩が笑うといつもそんな印象を受ける。
「まあ、でもそんなチキン君もあと二年の命ですね。どんな感じですか?死が目の前に断固として現れた感覚は」
「どうでもないですね。へぇー、って感じです。でもまだ決まったわけじゃないんですよね?調査段階なんじゃ……」
「でも発表するぐらいだから、もうダメなんじゃないんですか?まあ、二年後にもし死ねなかったら、また自殺しますよ」
「その時は止めますね」
「冗談。君がその場に居合わせたとしても、静観するだけでしょ?」
「ええ、恐らく。説得なんて先輩には意味ないって分かってますから」
「そう」
救いのない話。あまりにも暗い内容の会話を楽しそうにする先輩。汚れのない白い部屋。差し込む春の陽光。僕はそれらを心地よいと感じる。会話の一つ一つが身体の内に広がって、どうしてか温もりが生まれる。
僕らは沈黙した。そばに置いてあった花瓶の花びらが一枚、ひらひらと舞い降りるのが視界の隅に見えた。
「ねぇ、空峰くん」
先輩が僕の名前を呼んだ気がした。
「なんですか?」
「暇な時でいいので、その、また……来てくれますか?」」
「勿論」
僕はそう言った。当然の事のようにそう言った。事実、言われなくとも暇なときは来るつもりだったし、先輩もそれは承知しているはずだった。だからどうして先輩がそんなことを聞くのか僕にはよく分からなかった。
その後、再び沈黙があって、僕がやっと話題を見つけて口を開こうとした瞬間、白衣の医者が一人のナースと共に入ってきた。
「すまない。検査の時間なんだが、少し席を外してくれるかな」
医者は言った。
「あ、はい。分かりました。もう帰ります」
パイプ椅子から立ち上がり、先輩に一言。
「じゃあ、また来ますね。何か買ってきて欲しいものとかありますか?」
「いいえ、大丈夫です。また来てくれるのを楽しみにしてます」
生気のない微笑みを僕に向ける先輩。脆く崩れそうなその存在感を僕は目に焼き付ける。
「では」
僕は先輩に別れを告げ、医師たちにお辞儀をした。U字の取っ手を右にスライドさせ、病室を出る。
薄暗い廊下を進み、ナースステーションへ。顔見知りになったナースの皆さんに会釈して、「また来ます」と言い残して病院を去った。