揺蕩う煙
「ふう……」
ふたりで過ごすにはすこし広い3LDKのアパートで、貴女は物憂げに煙草の煙を吐く。数学の問題に集中しているつもりの私がそれに気づいたのは、実際のところ、まったく目の前の問題に集中できていないからだ。
私の背中に、貴女の温もりが伝わってくる。
「どう? 解けた?」
「一応……」
「じゃ、見せて」
「はい」
背中合わせの時間が終わる。貴女が私から身体を離すと、すっと立ち上がり、テーブルの反対側にまわった。
眼鏡の奥の冷たい眼光が私の心を狂わせる。クラスのみんなから、怖い、と評判の貴女の視線が、私だけに注がれているとき、私は得も言われぬ優越感に浸るのだ。
「お。全問正解だ。凄いね。頑張った」
「ちょうど、昨日予習したところが出ましたから」
はにかむ私の頭を貴女が撫でる。
「よし。続きは明日にしようか。夕飯はどうする?」
「もちろん、食べていきます」
「今日は、家には?」
「帰りません」
「……わかった。じゃあ、ちゃちゃっとパスタとスープを作るね」
そう言って、貴女はキッチンへと向かった。私はその間、暇なので、目を休めている。
――私には、母と父がいる。
なにを当たり前のことを、と思うかもしれないが、本当にいるのだ。そして、ただいるだけ。
一緒にどこかへ出かけたこともなければ、学校行事に参加したこともない。食事は私だけスーパーのお惣菜とパックのご飯。それかレトルト。挨拶は一切なし。会話も一切なし。両親は休日になると私を置いて、どこかへ出かけている。私は家で独りぼっち。
なにかがおかしいと思いつつ、それを当たり前のことだと受け入れて過ごしてきた。
誕生日を祝ってもらったこともなければ、自分の誕生日がいつなのかすらも、学校の教師に教えてもらうまでは知らなかった。おかしいよね? 他の家の子は、誕生日は家族みんなでお祝いするんだって。私は小学校一年生のときに、冷たいレトルトカレーの皿の隣にぽつんと置かれていたスマートフォンをよくわからないまま拾った記憶しかないや。
おかしい、と指摘されたのは小学校三年生のときだった。あるとき、胸の内に渦巻く違和感に耐えかねて、なぜ自分の両親だけ運動会に来ないのか、他の子は来ているのに、と担任の男教師に訴えた。そこで、普段、私がどんな生活を送っているのかを詳しく尋ねられた。私はありのままを話した。
すると、とんとん拍子に緊急会議を開くことが決まり、母と父が学校のひとたちと話し合うために学校に呼ばれた。
これで、なにかが変わるかな? と私は期待した。でも、甘かった。
家に帰ってくるなり、父は私を殴った。生まれて初めて暴力を振るわれた。私は赤ちゃんみたいに泣き喚いた。母はなにを言わなかった。なにもしてくれなかった。
私は、これは両親にとって、とても都合の悪いことなんだ、と理解した。私は両親に疑問を抱いてはいけないんだ、と理解した。
結局、その後、両親が学校の行事に来ることもなければ、家での生活が変わることもなかった。
貴女と出会ったのは、中学校一年生の春。去年、私のクラスの担任になったときだ。そのときの貴女と私の関係は、ただの教師と生徒。私たちの間には、決して跨ぐことのできない断崖が横たわっていた。
運命の瞬間が訪れたのは、中学校一年生の冬休み前の三者面談。
貴女はもう、私を取り巻く環境の異常さに気づいたいたのだろう。一度も顔を見せない両親。毎回、用事があるので、と理由をつけて先延ばしにして、有耶無耶にする両親に、貴女は強い不信感を抱いていたに違いない。
雪が降るあの日、先生とふたりきりで、空っぽの教室で母を待っていたとき。私は耐えきれずに、泣いてしまった。
小さな子どもみたいに泣く私の背中をさすりながら、貴女は言った。
「うちに来る?」
って。
きっと、限界だったんだ。貴女は悪い大人かもしれないとか、後から考えれば、いくらでも嫌な考えは思いつく。だけど、当時の私には、それは地獄に垂らされた一本の救いの糸だった。その日の夜から、転がりこむように、私は貴女の家に駆けこんだ。最低限の荷物だけ持って、逃げるように、貴女のもとへと急いだ。貴女の車までの道のりは果てしなく遠く感じて、誰かに見つかるんじゃないかと冷や冷やして、なんとかたどり着いた貴女の車内は暖房が効いていて、身も心もあたたかくなったのを今でも覚えている。
初めのうちは、貴女とたくさんお喋りをして、どれだけ私が孤独で寂しかったのかを話した。貴女は、ただ「うん、うん」とうなずいて、私の声に耳を傾けてくれた。それが、私の救いになった。
すこし時間が経過して、私の気持ちが落ち着いてきたころ。私が家に戻る決心をしたとき、貴女は迷わず私の背中を押してくれた。おかげで、緊張はしていたけど、恐怖はなかった。
家に戻ると、両親は私を一瞥するだけで、すぐに自分のことに意識を戻したっけ。そのとき、「ああ、私は本当に、このひとたちに愛されていないんだな」って噛みしめたっけ。悔しかったし、悲しかったけど、なにを言っても無駄だから、なにも言わずに、自分のベッドに潜りこんだ。
それからすこしして、連絡先を交換した貴女からメールが届いた。「うちに来る?」って。一文だけ。そっけなく。だから、私は迷わず、こう返信した。
「行きます」
って。
それから、家と貴女のアパートを往復する生活が始まった。家にいる時間はどんどん減って、貴女のアパートにいる時間はどんどん増えた。今では、一週間に一度、家に戻るだけ。両親はなにも言わない。きっと、そのほうが都合がいいのだろう。娘がどこでなにをしていようが、気にならないのだろう。
大人――それも教師と生徒がこんな関係になることは世間では許されていない、というのは、なんとなく、わかっていた。インターネットで調べてようやく確信したのだけど、初めて貴女が「うちに来る?」って言ってくれたとき、貴女の声は震えていた。貴女の瞳は揺れていた。きっと、不安だったんだね。ばれたら、すべてを失うから。
でも。
それでも。
貴女は、貴女のすべてを賭けて、私を救ってくれた。
ありがとう。
――キッチンから、貴女の声がする。
「できたよー。お皿を持っていって」
「うん。わかった」
私は仰向けに寝転がった姿勢から起き上がると、貴女が待つキッチンへと向かった。
「……ねえ」
パスタのお皿を持つ私を呼び止めると、貴女はすこし躊躇いがちに、話を切り出した。
「今日は、久しぶりに、一緒に……お風呂、入ろうか?」
「うん」
貴女はすべてを私に賭けてくれた。なら、私も貴女にすべてを捧げなくちゃね。
きっと、他のひとが知ったら、私たちの関係は一瞬で崩壊する。私たちは引き裂かれる。薄氷の上で成り立っているぎりぎりの関係。
だけど。
私は、今を耐えて、やがて未成年の殻を破って大人になり、貴女の隣に立つ。堂々と立ってみせる。だから、そのときまでは、耐える。誰にも気づかれないように、誰にも見つからないように、隠れる。
今は十四歳。あと四年。長いようで、あっという間だ。そのときまで、私の気持ちは絶対に変わらない。そして、貴女の気持ちも絶対に変わらない――よね? そう、信じている。
「先生」
「うん?」
――好きだよ。
そう言って、私は貴女の頬にキスをした。




