「もう恩返しは結構です」と言ったら騎士様が本当に来なくなりました――どうやら三年間、とっくに両想いだったようです
アルベルトが来なくなって、七日が過ぎた。
薬草店の扉につけた鈴が鳴るたび、エレナは顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、腰をさすっているパン屋の女主人だった。
落胆したことを悟られないように、エレナは笑って痛み止めの軟膏を取り出す。
「あら。今日は騎士様はいないの?」
「今日は、ではありません。もういらっしゃいませんよ」
「喧嘩でもしたのかい?」
「まさか。アルベルト様は、私に恩を返すために通ってくださっていただけです。三年も尽くしていただいたので、もう十分だとお伝えしたんです」
そう。自分で言ったのだ。
もう恩返しは結構です、と。
だから彼が来ないのは当然だった。
「ふうん」
女主人は納得していない顔で軟膏を受け取った。
「それで、棚の上の瓶はどうするんだい?」
指さされた先には、乾燥させた月光草の瓶がある。エレナは椅子を運び、その上に乗った。
「これくらい、一人でできます」
指先が瓶に触れたところで、椅子がぐらりと揺れた。
「危ない!」
どうにか踏みとどまったものの、心臓が早鐘を打つ。
以前なら、長い腕が横から伸びてきた。
『お呼びください。落ちたらどうするのです』
『これくらい取れます』
『では、私がいるときくらい取らせてください。恩返しですから』
呆れるほど生真面目な顔も、低く穏やかな声も、今はない。
「本当に、喧嘩じゃないんだね?」
「違います」
喧嘩なら、謝ることもできただろう。
けれどエレナは、彼を自由にしたのだ。
昼になると、昨夜焼いた肉詰めパンを二つ取り出してしまった。
一つは香辛料を控えめにしてある。アルベルトが辛いものを苦手としていたからだ。
「……七日も何をしているの、私は」
一人で二つ食べれば済む。
そう思ったのに、二つ目には手が伸びなかった。
◇
一週間前も、アルベルトはいつもの時刻にやって来た。
王国騎士団の制服ではなく、飾り気のない濃紺の上着を着ていた。休日に店へ来るときの格好だった。
「おはようございます、エレナ嬢」
「おはようございます。今日は頼みたいことはありませんよ」
「裏口の戸棚が傾いていました」
「よくお気づきですね」
「先週から気になっていましたので」
彼は勝手知ったる様子で物置から工具箱を持ち出した。
エレナはその背中を眺める。
広い肩。短く整えられた黒髪。魔獣と対峙しても揺らがない灰色の瞳。
王都の令嬢たちが放っておかないのも当然だった。
『レイン子爵家の次男に縁談が来たらしいわよ』
前日、薬を買いに来た客が話していた。
『伯爵家のお嬢様ですって。騎士様とお似合いでしょうね』
聞きたくなかったのに、その言葉は耳の奥に残り続けた。
「ここを補強すれば、しばらく持つでしょう」
アルベルトが戸棚の前にしゃがみ、緩んだ金具を外していく。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。恩返しですから」
いつもの言葉が、今日は胸に刺さった。
三年前、エレナは森で傷ついていた彼を助けた。
それ以来、彼は律儀に通い続けている。
雨の日も、雪の日も。夜勤明けで目の下に薄い隈がある日でさえ。
エレナはそれを喜んでいた。
彼が来る前日に焼き菓子を作り、彼が好みそうな茶葉を選び、扉の鈴が鳴るのを待っていた。
けれど彼は、恋人ではない。
命を救われた恩を、返し続けているだけだ。
結婚してからも休日を薬草店で過ごすつもりなのだろうか。妻となる人が、それを快く思うはずがない。
「来週は、屋根を見ます」
戸棚を直し終えたアルベルトが言った。
「雨漏りはしていませんけれど」
「北側の板が一枚、傷んでいます。雨季になる前に替えたほうがいい」
「来週も、いらっしゃるのですか」
「はい。そのつもりですが」
どこまで誠実な人なのだろう。
嬉しくて、苦しくて、エレナは笑った。
「アルベルト様」
「はい」
「三年間、本当にありがとうございました」
彼の手が止まった。
「もう恩返しは結構です」
アルベルトは何も言わなかった。
静かな店内に、壁時計の音だけが響く。
「それは……もう、こちらへ来る必要はないという意味でしょうか」
必要がなくても来てほしい。
そう言えたなら、どれほど楽だっただろう。
「ええ。これ以上、私のためにお時間を使わないでください」
「しかし、屋根が」
「職人に頼みます」
「薬草を採りに行くときは」
「一人でも行けます。以前はそうしていましたから」
灰色の瞳が、答えを探すようにエレナを見つめた。
やがてアルベルトは目を伏せた。
「承知しました」
それだけだった。
怒りもせず、理由も尋ねず、彼は戸棚の蝶番を一つずつ確かめた。床に落ちた木くずまで拾い、工具を元の場所へ戻した。
「長い間、お世話になりました」
「お世話をしたのは、私ではなくアルベルト様です」
「いいえ」
彼は何か言いかけた。
だが、結局は口を閉じた。
「どうか、お元気で」
扉の鈴が鳴る。
アルベルトは外へ出る前に一度振り返った。
その顔を見れば決心が揺らぎそうで、エレナは奥の調合室へ逃げた。
再び鈴が鳴ったとき、店にはもう誰もいなかった。
◇
三年前の春、森には朝霧が残っていた。
薬草籠を背負ったエレナは、折れた枝と地面に散った血を見つけた。
血の跡をたどった先で、若い男が木の幹にもたれていた。傍らには倒された牙狼。男の脇腹は大きく裂けている。
「聞こえますか?」
返事はない。
エレナは彼の外套を切り、傷口を洗った。止血草を噛み潰し、迷うことなく最上級の治癒薬を取り出した。
それは店で売れば、ひと月分の稼ぎになる薬だった。
それでも、人の命と比べるものではなかった。
日が暮れるころ、男はようやく目を開けた。
「……ここは」
「森番の小屋です。動かないでください」
「牙狼は」
「あなたの剣が刺さったまま、外で倒れています」
男は起き上がろうとし、顔をしかめた。
「無茶をしないで。せっかく縫った傷が開きます」
「あなたが、治療を?」
「ほかに誰がいるんです」
エレナが水を飲ませると、男はひどく申し訳なさそうな顔をした。
「すみません」
「謝る元気があるなら眠ってください」
「あなたのお名前を」
「エレナ・ハーシェルです。王都の外れで薬草店をしています」
「アルベルト・レインです。このご恩は、必ず」
「今は恩より、傷を治してください」
三日後、迎えに来た騎士たちを見て、エレナは初めて彼の身分を知った。
さらに十日後。アルベルトは金貨の詰まった袋を持って店を訪れた。
「治療費として、お受け取りください」
「多すぎます」
「あなたが使った薬には、それだけの価値があると聞きました」
「薬代はいただきます。でも、残りは持って帰ってください」
「命を救っていただいた礼です」
「助けられる人を助けただけです。命の値段なんて決められません」
押し問答の末、アルベルトは金貨を持ち帰った。
代わりに翌月、彼は店の裏に積まれた薪を割った。
「これなら、お受け取りいただけますか」
「まあ……助かりますけれど」
「では、また参ります」
「まだ何か?」
「命の恩が薪一山で返せるとは思っていません」
本当に、呆れるほど生真面目な人だった。
最初は月に一度だった。
次は二週間後に来た。
その次からは、休みのたびに顔を出すようになった。
重い薬草箱を倉庫へ運び、固くなった畑を耕し、割れた窓を直した。
危険な場所へ薬草を採りに行くときは、頼んでもいないのについてきた。
「騎士のお仕事はいいのですか」
「本日は休みです」
「お休みは、体を休めるためにあるのですよ」
「ここへ来ると休まります」
そんなことを言われるたび、エレナの心は勝手に期待した。
だがアルベルトは必ず付け加えた。
「恩返しもできますので」
期待は、その一言で元の場所へ押し戻された。
一年目の誕生日には、白い花束を持ってきた。
「任務先で余ったものです」
「花が余る任務とは、どのような任務ですか?」
「……警護です」
不自然な説明だったが、追及はしなかった。
二年目の秋、市場へ一緒に出かけたときには、店主から夫婦と間違えられた。
「仲のいい旦那さんだね。奥さんにこれも買ってやんな」
エレナが否定しようとすると、アルベルトも同時に口を開いた。
二人とも言葉がぶつかり、結局、何も言えなかった。
帰り道、アルベルトは耳まで赤かった。
三年目には、彼のためのカップが店に置かれていた。
彼の苦手な香辛料は昼食に使わなくなった。
彼が来る曜日だけ、エレナは髪を丁寧に結った。
二人の日々は、恋人よりも穏やかで、家族よりも遠かった。
そして、どれだけ親しくなっても、その関係には「恩返し」という名前しかなかった。
二年目の冬、薬草店へ高熱を出した子どもが運び込まれたことがあった。
流行り病ではなかったが、吹雪の夜で、必要な薬が一つだけ足りなかった。
雪灯花という、冬の森に咲く薬草だ。
エレナが採りに出ようとすると、アルベルトは店の扉の前に立った。
「私が行きます」
「生えている場所を知りませんよね」
「教えてください」
「雪の中では、慣れた者でも見つけられません」
「ならば、一緒に行きます」
「危険です」
「それは、あなた一人でも同じでしょう」
二人は腰に縄を結び、吹雪の森へ入った。
視界は白く、十歩先の木さえ見えない。エレナが足を滑らせるたび、アルベルトの腕が支えた。
雪灯花を見つけたのは、日付が変わる少し前だった。
店へ戻り、エレナが薬を調合している間、アルベルトは子どもの母親に温かい茶を出した。夜明け前、熱が下がると、母親は二人の手を何度も握って帰っていった。
緊張の糸が切れたエレナは、調合台に突っ伏した。
「少し眠ってください」
「片づけが残っています」
「私がします」
「薬瓶の場所も分からないでしょう」
「分かります」
アルベルトは、使った器具を正しい棚へ戻していった。
いつの間に覚えたのだろう。
「通いすぎではありませんか」
「ご迷惑でしたか」
「……いいえ」
エレナが答えると、アルベルトはほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、彼が来るのを待つ気持ちは、もう感謝だけではないと分かった。
だが一晩中助けてもらった礼を言うと、彼はやはり答えた。
「恩返しですから」
だからエレナも、それ以上は言えなかった。
春には、王都で花祭りが開かれた。
店先に飾る薬草の鉢を買うため、エレナは早朝から市場へ向かった。偶然を装って現れたアルベルトの手には、買い物籠があった。
「騎士様もお買い物ですか?」
「荷物持ちです」
「まだ何も頼んでいません」
「これから頼まれるかと」
「ずいぶん都合のいい予想ですね」
結局、二人は並んで祭りを歩いた。
色とりどりの花飾りが軒先を埋め、広場では楽師が春の曲を奏でている。アルベルトは人混みからエレナを守るように、いつも半歩後ろを歩いた。
露店で蜂蜜菓子を二つ買うと、彼は一口かじって動きを止めた。
「甘すぎました?」
「いいえ」
「無理をしないでください。アルベルト様は甘いものが苦手でしょう」
「なぜ、それを」
「三年近く一緒にお茶を飲んでいれば分かります。いつも私が焼いたものだから、我慢して召し上がっていたのでしょう?」
「我慢ではありません」
「では、お好きなのですか」
アルベルトは菓子ではなく、エレナを見た。
「好きです」
一瞬、祭りの音が遠くなった。
「……お菓子が?」
エレナが聞き返すと、彼は蜂蜜菓子へ視線を落とした。
「あなたがくださるものなら」
そこまで言っておきながら、彼はまた続けた。
「日頃の恩返しに比べれば、甘い菓子を食べることなど何でもありません」
エレナは笑うしかなかった。
けれどその夜は、何度も「好きです」という声を思い出した。
夏の終わりには、父が店を訪ねてきた。
ハーシェル男爵家は裕福ではない。だから次女のエレナが薬草の知識を生かし、自分で働くことを父は認めてくれた。
それでも二十三歳になった娘の将来を、心配していないわけではなかった。
「縁談が一つ来ている」
閉店後、父は言いにくそうに封書を差し出した。
「隣領の葡萄園を継いだ方だ。妻を亡くしているが、穏やかな人物だと聞いている」
「お断りしても?」
「構わない。ただ、理由を聞いてもいいか」
エレナは答えられなかった。
アルベルトとは何の約束もしていない。彼が自分を訪ねるのは、恩を返すためだ。
それでも、別の人の妻になる自分を考えられなかった。
「待っている人がいるのか?」
「その人は、私を待たせているつもりなどありません」
父はしばらく娘を見つめ、封書を懐へ戻した。
「なら、一度くらい自分から尋ねてみなさい」
「尋ねて、困らせたくありません」
「相手を思いやっているようで、自分が傷つくのを恐れているだけではないのか」
父の言葉は正しかった。
だが、そのときのエレナには認められなかった。
翌日、アルベルトはいつものように店へ来た。
昨夜の縁談について話そうと、エレナは何度も口を開いた。
けれど彼が嬉しそうに新しい薬草棚を組み立てている姿を見て、何も言えなくなった。
もし「お幸せに」と祝われたら。
もし何の動揺も見せず、恩返しを終わらせて去ってしまったら。
そんな想像だけで怖くなった。
エレナは縁談を断り、理由は胸の中へしまった。
その数か月後、今度はアルベルトに縁談が来た。
自分が選ばなかった道を、彼にだけ選ぶなとは言えなかった。
◇
来なくなって八日目。
エレナは薬草を刻みながら、自分に言い聞かせていた。
寂しいのは、仕事が増えたから。
静かなのは、話し相手が減ったから。
肉詰めパンを二つ作るのは、三年間の習慣が残っているから。
けれど昼前に雨が降り始めたとき、エレナは店の外へ飛び出した。
アルベルトが直すと言っていた北側の屋根を見上げる。
一枚の板が風に揺れていた。
彼の言ったとおりだった。
「雨漏りする前に、職人を呼ばなくちゃ」
呟いた途端、涙がこぼれた。
屋根が直らないからではない。
高い棚に手が届かないからでも、荷物が重いからでもなかった。
会いたかった。
昨日見つけた珍しい薬草の話をしたかった。近所の猫が店の前で子を産んだことも、焼き菓子を少し焦がしたことも伝えたかった。
話を聞くとき、わずかに目元を緩める彼が見たかった。
「好きだったから、来てほしかったのね」
認めても、どうにもならない。
アルベルトには縁談がある。
好きだからこそ、彼を恩で縛ってはいけなかった。
「エレナ・ハーシェル嬢はいらっしゃいますか」
店内から男の声がした。
胸が跳ねたが、アルベルトの声ではなかった。
慌てて涙を拭き、店へ戻る。騎士団の制服を着た赤毛の青年が立っていた。以前、アルベルトと一緒に来たことのある騎士だ。
「ルーク様。どうなさいました?」
「遠征用の虫除け薬を二十人分お願いします」
「かしこまりました。遠征はいつからですか」
「三日後です。今回は長くなりそうでして」
エレナは瓶を並べながら尋ねた。
「アルベルト様も?」
ルークが目を丸くする。
「聞いていないんですか?」
「何をでしょう」
「あいつ、国境警備隊へ転属するんですよ」
手から瓶が滑りかけた。
「転属……?」
「任期は最低でも三年。あんなに急いで願い出る必要はないと思うんですが」
三年。
アルベルトが通ってきた時間と、同じだけの年月だった。
「ご結婚なさるから、王都を離れるのですか」
「結婚?」
「伯爵家から縁談があったと」
「ああ、あれですか。話を聞く前に断りましたよ」
「断った?」
「先方の名前も聞かなかったそうです。心に決めた相手がいるからと」
エレナは息を忘れた。
「でも、アルベルト様からそのようなお話は、一度も」
「そりゃ、本人には言えないでしょう。あいつは三年間、恩返しだと言い張っていましたから」
ルークは急に口を閉じた。
「すみません。余計なことを」
「いえ。続けてください」
「命の恩なら、最初の半年で十分に返しています。毎週通って薪を割る騎士なんて、王国中を捜してもあいつくらいですよ」
ルークは肩をすくめた。
「会いたかったに決まっているでしょうに」
決めつけてはいけない。
期待して、違っていたら立ち直れない。
それでも、確かめないまま三年を終わらせたくなかった。
「アルベルト様は、今どちらに?」
「詰所にはいません。城門近くの宿舎で荷造りをしているはずです」
エレナは店の札を裏返した。
「申し訳ありません。今日は閉店します」
「薬は?」
「明日、騎士団へお届けします」
外套をつかんで走り出す。
雨上がりの石畳は滑りやすく、何度も足を取られた。
淑女らしく歩けと母に言われたことも、通行人が振り返ることも、今はどうでもよかった。
会えなくなる前に、今度こそ自分の言葉で伝えなければならない。
同じころ、アルベルトは宿舎の狭い部屋で荷をまとめていた。
国境で必要になる冬用の外套。手入れを終えた剣。替えの制服。
机の端には、薬草店に置いていた自分用のカップがある。
最後に店を出た日、持ち帰るべきか迷った末、鞄へ入れたものだった。
白地に細い青線が一本入っただけの安価なカップだ。エレナは自分のものと並べて、いつも同じ場所に置いていた。
アルベルトはそれを布で包んだ。
扉を乱暴に叩く音がした。
「入るぞ」
返事を待たず、ルークが入ってくる。
「団長が、まだ考え直せると言っていた」
「考えは変わらない」
「三年も通った店に一週間行かなかったくらいで、国境へ逃げるのか」
「逃げるのではない。希望者の少ない任地へ赴くのも騎士の務めだ」
「物は言いようだな」
アルベルトは外套を鞄へ押し込んだ。
「エレナ嬢は、私が訪ねることを望んでいなかった。それだけだ」
「理由は聞いたのか」
「聞く必要があるか?」
「あるだろう。三年間だぞ」
「だからこそだ。三年も恩を押しつけられたら、迷惑だと言い出しにくい」
エレナは優しい。
高価な治癒薬を見知らぬ男へ迷わず使い、礼金さえ受け取らなかった人だ。
アルベルトが訪ねれば、嫌でも笑顔で迎えただろう。
彼女がようやく口にした拒絶を、聞かなかったことにはできない。
「私は、近くにいると店へ行ってしまう」
「行けばいい」
「彼女が困る」
「お前がいなくなっても困るんじゃないか」
「棚の修理なら職人に頼める」
「そういう話じゃない」
分かっていた。
だが、都合のいい期待を抱くことはできなかった。
アルベルトは、初めてエレナの店へ行った日のことを思い出す。
金貨を突き返され、何かできることはないかと見回した。裏庭の薪を見つけたときは、本気で安堵した。
薪を割り終えると、エレナが茶を淹れてくれた。
他愛もない話をした。森で見つけた薬草のこと。近所の犬が店先で眠ること。彼女が作った薬を飲んだ老人が、翌週には杖を忘れて帰ったこと。
帰るころには、次に来る理由を探していた。
窓枠のひび、庭の荒れ、重そうな木箱。
彼女は何でも一人でできる。それでも、自分に一つくらい役目を残してほしかった。
一年が過ぎるころには、恩を返し終えたことなど分かっていた。
それを認めれば、会いに行く口実がなくなる。
だから、知らないふりをした。
「お前、縁談を断ったとき、心に決めた相手がいると言ったそうだな」
ルークが机に寄りかかる。
「だったら、なぜ本人に言わない」
「彼女は命の恩人だ。私が望めば、責任を感じるかもしれない」
「エレナ嬢が自分の意志で断る人だとは思わないのか」
「断られたあと、何事もなかったように訪ねられると思うか?」
「思わない」
「だから言えなかった」
ルークは大きなため息をついた。
「それで、言わないまま会えなくなって、国境へ行くのか。見事な作戦だな」
「うるさい」
「エレナ嬢の薬を買ってくる。遠征用だ」
「別の店へ行け」
「騎士団指定の店だ。私情で変えられるか」
ルークは扉を開けたところで振り返った。
「戻ったら、まだ荷造りしていることを願うよ」
何を言っているのか分からず、アルベルトは眉をひそめた。
やがて窓の外から、聞き慣れた声が自分の名を呼んだ。
◇
城門近くの宿舎には、遠征用の馬車が並んでいた。
アルベルトは厩の前で、荷物を馬の背へ載せていた。
「アルベルト様!」
彼が振り返る。
驚いた顔は一瞬で消え、よそ行きの静かな表情に変わった。
「エレナ嬢。どうしてこちらへ」
「お話があります」
「何か、お困りでしょうか」
以前なら、そう言いながらすぐに近づいてきた。
今の彼は、五歩分の距離を残したまま動かない。
「国境へ行くと聞きました」
「はい」
「なぜですか」
「騎士として経験を積むためです」
「嘘です」
アルベルトが目を見開く。
「ルーク様から聞きました。急いで願い出たそうですね」
「あいつは……」
「王都にいたくない理由があるのですか」
答えはなかった。
エレナは一歩近づく。
「私が、恩返しを断ったから?」
「あなたのせいではありません」
「では、こちらを見て否定してください」
アルベルトは苦しそうに眉を寄せ、ようやくエレナを見た。
「王都に残れば、店へ行きたくなります」
「来ればいいではありませんか」
「あなたが望まなかった」
「私は――」
「あなたは、これ以上時間を使わないでほしいとおっしゃいました。ならば、近くに居続けるべきではない」
責める響きはなかった。
アルベルトはただ、エレナの願いを守ろうとしていた。
最初に会った日から何も変わらない。痛みに耐えながらも、治療したエレナへ謝った人だ。自分より相手を優先し、言われたことを生真面目に受け止める。
だから、あの言葉を拒絶だと思ったのだ。
「違うんです」
「何がですか」
「私は、恩返しを終わらせたかったわけではありません」
「ですが、もう必要ないと」
「恩返しでしか、あなたが来てくださらないと思うのが苦しかったんです」
声が震えた。
みっともなくても、もう笑ってごまかしてはいけない。
「縁談の話を聞きました。あなたには、もっとふさわしい方がいる。結婚しても私への恩に縛られるのでは、その方にも申し訳ないと思いました」
「縁談は断りました」
「聞きました」
「では、なぜ」
「断った理由は、聞いていません」
アルベルトの喉が動いた。
「妻に望む方が、ほかにいるからです」
胸が痛む。
期待していた答えではないかもしれない。
それでも逃げずに尋ねた。
「それは、どなたですか」
アルベルトは黙った。
「私には言えない方ですか」
「あなたには、なおさら言えません」
「なぜ」
「命を救った男から想いを告げられれば、あなたは断りづらいでしょう」
エレナは瞬きをした。
「それでは、まるで……」
「あなたです」
アルベルトは、とうとう逃げるように目を伏せた。
「私が妻に望むのは、あなたです」
雨粒の残る屋根から、雫が落ちた。
遠くで馬がいななく。
それ以外の音が、すべて消えたように感じた。
「いつからですか」
「分かりません」
「分からない?」
「最初は、本当に恩を返すためだと思っていました」
アルベルトは観念したように話し始めた。
「あなたが金を受け取らなかったので、薪を割りました。次に来たとき、あなたが茶を淹れてくれた。帰るころには、また話したいと思っていました」
「それなら、二度目から?」
「ですが、店を出るころには、もう一度あなたに会いたいと思っていました」
「では、いつ気づいたのです」
「初めて店を訪ねた日です。ただ、恋だと認めたのは、市場で夫婦と間違えられた日でした。否定できなかったのではありません。否定したくなかった」
始まりから、ほとんど三年。互いに同じ相手を想いながら、一度も確かめなかったのだ。
エレナは力が抜け、その場にしゃがみ込みそうになった。
「どうして、何も言ってくださらなかったのですか」
「告げて断られれば、恩返しに行くことさえできなくなると思いました」
「結局、来なくなったではありませんか」
「……おっしゃるとおりです」
「私は、来てほしかったのに」
「恩返しは必要ないと」
「恩返しでなくても来てほしかったんです!」
思わず声が大きくなった。
厩にいた馬が驚いて耳を動かす。
アルベルトは、戦場でも見せないような顔で固まっていた。
エレナは熱くなった頬を押さえる。
ここまで言った以上、もう戻れない。
「私は、あなたが好きです」
アルベルトが息をのむ。
「薪を割ってくださるからでも、屋根を直してくださるからでもありません。あなたと昼食を食べたい。昨日あったことを聞いてほしい。明日も、その次の日も会いたいんです」
「エレナ嬢」
「恩を返し終えたら、もう会えないと思っていました。だから終わらせるのが怖かった。それなのに縁談を聞いて、あなたを縛るほうがもっと怖くなって……」
涙がこぼれる。
「あんな言い方しかできませんでした」
五歩あった距離を、アルベルトが一息に詰めた。
だが伸ばした手は、エレナの頬に触れる寸前で止まる。
「触れても?」
こんなときまで律儀に尋ねる彼がおかしくて、エレナは泣きながら笑った。
「どうぞ」
大きな手が、そっと涙を拭う。
「私は、あなたをお慕いしています」
「恩人として?」
「一人の女性としてです」
「三年間も?」
「初めて店を訪ねた日から、ずっとです」
「では、その間ずっと、二人で同じことを悩んでいたのですか」
「そのようです」
アルベルトは深刻そうに答えた。
あまりにも彼らしくて、エレナはとうとう声を上げて笑った。
「笑うところでしょうか」
「笑うしかありません。私たち、何をしていたのでしょう」
「私は恩返しを」
「まだ言うのですか?」
「……あなたに会う口実にしていました」
アルベルトの耳が赤くなる。
エレナはその色を、初めて近くで見た。
「転属は、取り消せますか」
「明日の朝一番に願い出ます」
「叱られませんか」
「団長には、先ほどから考え直せと言われています」
「では、そうしてください」
「はい」
素直にうなずいたあと、アルベルトは背筋を伸ばした。
「エレナ嬢」
「はい」
「これまでの訪問は、恩返しということにしてください」
「なぜです?」
「今から、改めて始めたいのです」
彼は騎士が主君に誓いを立てるように、エレナの前で片膝をついた。
「今度からは恩返しではなく、求婚のためにあなたのもとへ通ってもよろしいでしょうか」
通りかかった騎士たちが足を止めた。
誰かが小さく口笛を吹き、隣の者に肘で止められている。
エレナは恥ずかしくなったが、逃げなかった。
「三年間も本心を隠していた方を、すぐに信用できると思いますか?」
アルベルトの顔から、さっと血の気が引いた。
「それは……ごもっともです」
「ですから、明日も来てください」
「明日?」
「その次の日も。あなたの言葉を、きちんと聞かせてください。私も今度は、きちんと伝えます」
意味を理解したアルベルトの表情が、ゆっくりとほどけた。
「承知しました」
「それから」
「はい」
「屋根も直してください。昨夜の雨で、とうとう漏れました」
「それは恩返しでしょうか。それとも求婚でしょうか」
「ご自分でお考えください」
「難題ですね」
アルベルトは立ち上がり、エレナの手を取った。
初めてつないだ手は、薪を割り続けたせいか少し硬かった。
◇
翌朝、いつもの時刻に店の鈴が鳴った。
エレナは、鳴るより先に扉を見ていた。
「おはようございます」
「おはようございます、アルベルト様」
彼は薪も工具箱も持っていなかった。
代わりに、両腕いっぱいの白い花を抱えていた。
「今度は、任務で余ったものですか?」
「いいえ。あなたのために選びました」
まだ少し硬い言い方だった。
けれど「恩返しですから」という言葉は続かなかった。
「本日は、何をしにいらしたのですか」
分かっていて、エレナは尋ねる。
アルベルトは白い花越しに彼女を見つめた。
「あなたに会いに来ました」
エレナは扉を大きく開ける。
「どうぞ。お待ちしていました」
三年間続いた恩返しは、前の日に終わった。
それでも二人は、もう離れなくていい。
名前をつけられずに育った想いは、ようやく今日から、恋として始まるのだから。
◇
その日の昼過ぎ、アルベルトは結局、屋根へ上っていた。
花束を花瓶へ生けたあと、天井から一滴の水が落ちてきたからだ。
「求婚に来たのではなかったのですか?」
エレナが店の外から見上げると、屋根の上のアルベルトが傷んだ板を外しながら答えた。
「雨漏りを放置して求婚を続ける男を、信用していただけるとは思えません」
「私は自分で職人を呼べます」
「知っています」
「では、なぜ直しているのです?」
アルベルトは少し考えた。
「直したいからです」
以前なら、恩返しだからと言っただろう。
たったそれだけの違いが、エレナには嬉しかった。
「でしたら、お願いします」
「はい」
「終わったら昼食にしましょう。肉詰めパンが二つあります」
アルベルトが作業の手を止めた。
「私の分を、作ってくださったのですか」
「七日間、毎日二つ作っていました」
「毎日……」
「笑わないでください。癖が抜けなかっただけです」
「笑ってはいません」
そう言う彼の口元は、明らかに緩んでいた。
屋根の修理を終えたアルベルトは、店の裏で手を洗った。いつもの席に座ろうとして、そこにカップがないことに気づく。
「持って帰られたのですね」
「もう来るなという意味だと思ったので」
「あのカップを見るたび、空いた場所が気になりました」
「明日、持ってきます」
「必ずですよ」
「はい」
二人は向かい合い、少し冷めた肉詰めパンを食べた。
これまで何度も繰り返した昼食なのに、何を話せばいいのか分からない。
先に口を開いたのはエレナだった。
「求婚のために通うとおっしゃいましたね」
「はい」
「具体的には、何をなさるおつもりですか?」
「あなたが望むことをします」
「それでは、これまでの恩返しと同じです」
アルベルトは真剣な顔で考え込んだ。
「では、私がしたいことをしても?」
「内容によります」
「あなたと食事をする。休みの日に出かける。騎士団であったことを話す。あなたの話を聞く」
「ほかには?」
「手をつなぎたいです」
昨日はエレナから許したのに、改めて言われると頬が熱くなった。
「店の中でなければ」
「分かりました」
「それだけですか?」
「今は、それ以上を口にすると、店から追い出されそうです」
アルベルトがあまりに真顔なので、エレナは吹き出した。
彼は告白さえしてしまえば、意外なほど正直だった。
◇
それから、アルベルトは約束どおり通い続けた。
以前と違うのは、必ず自分の気持ちを口にすることだった。
「今日は、あなたと昼食を取りたくて来ました」
「この花は、あなたに似合うと思って買いました」
「会えない日は、寂しいです」
最初のうちは、どの言葉も騎士の報告のように硬かった。
けれどエレナは、彼が言葉にするたび、きちんと答えた。
「私も一緒に食べたいと思っていました」
「ありがとうございます。ですが、私に似合うのは薬草のほうでは?」
「私も寂しいです」
言葉を惜しまないと決めただけで、三年間動かなかった関係が少しずつ変わっていく。
休みの日には二人で花祭りの開かれた広場へ出かけた。
祭りは終わっていたが、あの日に食べた蜂蜜菓子の店は残っている。
「今日は無理をして食べなくていいですよ」
「一つください」
「苦手でしょう?」
「半分ずつなら食べられます」
アルベルトは一つだけ買い、本当に半分に割った。
大きいほうをエレナへ渡す。
「これも求婚ですか?」
「はい」
「大きいほうを譲れば、結婚できると思っているのですか?」
「駄目でしょうか」
「もう少し努力が必要ですね」
エレナが笑うと、アルベルトも笑った。
帰り道、人通りが少なくなったところで、彼は右手を差し出した。
エレナは何を求められているのか分かっていたが、少し意地悪をしたくなった。
「何でしょう」
「手をつなぎたいと、以前お願いしました」
「覚えていたのですね」
「忘れるはずがありません」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
その瞬間、アルベルトの指が緊張したように動いた。
「魔獣を相手にするときより硬くなっていますよ」
「魔獣は、私の手を拒みませんので」
「私も拒んでいません」
そう言うと、つながれた手へ少しだけ力がこもった。
数日後、二人はハーシェル男爵家を訪れた。
アルベルトは正装し、薬草店へ初めて来た日よりも緊張した顔で応接室に座っていた。
父は向かいから彼を眺め、静かに尋ねる。
「娘から、三年間通っていた騎士がいるとは聞いていた」
「はい」
「だが、求婚されていたとは聞いていない」
「求婚したのは、つい先日です」
「では、それまでの三年は何を?」
「恩返しをしておりました」
「三年も?」
「はい」
父がエレナを見る。
「お前は何をしていた」
「待っていました」
「三年も?」
「はい」
父は額を押さえた。
「似た者同士ということは、よく分かった」
叱られると思っていたアルベルトは、背筋を伸ばしたまま動かない。
「レイン卿。娘は男爵家に生まれたが、店を自分の力で守ってきた。結婚したからといって、その仕事を取り上げることは認めない」
「もちろんです。店は、彼女が築いた大切な場所です」
「危険な薬草採取へ出ることもある」
「同行できる日は、私も行きます。できない日は信頼できる護衛を手配します。ただし、最終的には彼女の判断に従います」
「貴族の妻として屋敷に入れという話になったら?」
「私は次男です。騎士の宿舎を出たあとは、店へ通える場所に家を借りるつもりです」
よく考えられた答えだった。
おそらく昨夜、一つずつ書き出してきたのだろう。
父はしばらく黙ってから、エレナに尋ねた。
「お前は、この男と結婚したいのか」
以前のエレナなら、アルベルトの顔色をうかがったかもしれない。
けれど今度は、迷わなかった。
「はい。私はアルベルト様と生きていきたいです」
隣で、彼が小さく息をのむ。
「では、私から言うことはない」
父はアルベルトへ視線を戻した。
「ただし、次に娘を泣かせたら、三年分の薪を割ってもらう」
「必ず」
「冗談だ」
「しかし、それでお許しいただけるのであれば」
「そういうところだぞ」
父の呆れた声に、エレナは肩を揺らした。
◇
一か月後、アルベルトは森へ同行した。
三年前に倒れていた場所を通りかかり、二人は足を止める。
あの日に折れていた木は新しい枝を伸ばし、その根元には小さな青い花が咲いていた。
「ここでしたね」
「はい。あなたが血まみれで倒れていました」
「見なかったことにしようとは思わなかったのですか」
「思いません。ですが、今なら一つだけ後悔しています」
「何を?」
「最初から、治療費の代わりに正直な気持ちをいただけばよかった」
「あのときは、まだ命を助けていただいた感謝しかありませんでした」
「では、二度目に薪を割ったあとなら?」
「また来たいと思っていました」
「それを言ってくだされば、三年もかかりませんでした」
「申し訳ありません」
謝る彼の顔には、以前のような苦しさはない。
エレナも笑って受け止められた。
帰り際、アルベルトが青い花の前で立ち止まった。
「エレナ」
呼び捨てにされたのは、初めてだった。
「はい」
「これから先、あなたが困ったときだけではなく、嬉しいときも、悲しいときも、そばにいたいと思っています」
彼は小さな箱を開けた。
中には、白い石を飾った指輪が入っていた。華美ではないが、仕事中にも身につけられるよう、爪の低い造りになっている。
「これは、恩返しではありません」
「分かっています」
「私の望みです。私と結婚してください」
今度のアルベルトは、言い訳も口実も使わなかった。
だからエレナも、遠慮も強がりも使わずに答えた。
「はい。私も、あなたと一緒にいたいです」
指輪をはめたあと、アルベルトはエレナの手を両手で包んだ。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何です?」
「結婚後も、屋根の修理や薪割りは、私がしても?」
「したいのですか?」
「はい」
「では、お願いします」
「恩返しではなく?」
「夫婦で暮らす家の仕事として」
アルベルトは、この日いちばん嬉しそうに笑った。
森を出るまで、二人は手をつないで歩いた。
三年前、恩から始まった関係だった。
けれど恩は、返せば消えてしまうものではなかった。
一緒に過ごした時間の中で形を変え、互いを気遣う情になり、離れたくないと願う恋になった。
そしてこれからは、返すためではなく、二人で積み重ねていくものになる。
◇
結婚式は、その年の秋に行われた。
薬草店は一日だけ休みになり、扉にはエレナの字で「本日、店主結婚のため休業」と書かれた札が下がった。
その下には、アルベルトが書き足した小さな一文がある。
「明日からは通常どおり営業いたします」
「結婚式の日くらい、仕事を忘れてもよいのではありませんか?」
エレナが言うと、アルベルトは真面目な顔で札の傾きを直した。
「明日、薬を必要とする方が迷わないようにすべきです」
「私より店の心配をしていません?」
「まさか」
アルベルトは札から手を離し、花嫁姿のエレナを見つめた。
「今日は朝から、あなたのことしか考えられていません」
三年前なら絶対に聞けなかった言葉に、エレナの頬が熱くなる。
「ずいぶん正直になりましたね」
「もう、黙っていて失うのは嫌ですから」
店の前には、パン屋の女主人や薬を買いに来る常連客、騎士団の仲間たちが集まっていた。
ルークが、祝いの花びらを抱えながら笑っている。
「長かったな、アルベルト。命を助けられてから、ここまで三年半か」
「余計なことを言うな」
「今度は何年かけて夫婦になるつもりだ?」
「今日だ」
アルベルトが即答すると、周囲から笑い声が上がった。
エレナも笑いながら、彼の腕に手を添える。
「参りましょうか」
「はい」
二人が歩き出すと、背後で店の鈴が風に鳴った。
かつてエレナは、その音が鳴るたびに、彼ではないかと期待した。
もう待つ必要はない。
アルベルトは今、同じ道を隣で歩いている。
「そういえば、最初にお持ちになった礼金は、まだ残っていますか?」
「すべて貯えてあります」
「受け取らなくて正解でした」
「なぜです?」
「受け取っていたら、恩返しは一日で終わっていたでしょう?」
アルベルトは少し考え、それからエレナの手を握った。
「それでも、あなたに会う理由を探したと思います」
「本当に?」
「今なら、そう言えます」
秋の光の中を、二人は並んで歩いていく。
恩返しは、もういらない。
これから必要なのは、会いたいときに会いたいと言い、そばにいたいときにそう伝えることだけだった。




