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「もう恩返しは結構です」と言ったら騎士様が本当に来なくなりました――どうやら三年間、とっくに両想いだったようです

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/09/17

アルベルトが来なくなって、七日が過ぎた。


 薬草店の扉につけた鈴が鳴るたび、エレナは顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、腰をさすっているパン屋の女主人だった。


 落胆したことを悟られないように、エレナは笑って痛み止めの軟膏を取り出す。


「あら。今日は騎士様はいないの?」


「今日は、ではありません。もういらっしゃいませんよ」


「喧嘩でもしたのかい?」


「まさか。アルベルト様は、私に恩を返すために通ってくださっていただけです。三年も尽くしていただいたので、もう十分だとお伝えしたんです」


 そう。自分で言ったのだ。


 もう恩返しは結構です、と。


 だから彼が来ないのは当然だった。


「ふうん」


 女主人は納得していない顔で軟膏を受け取った。


「それで、棚の上の瓶はどうするんだい?」


 指さされた先には、乾燥させた月光草の瓶がある。エレナは椅子を運び、その上に乗った。


「これくらい、一人でできます」


 指先が瓶に触れたところで、椅子がぐらりと揺れた。


「危ない!」


 どうにか踏みとどまったものの、心臓が早鐘を打つ。


 以前なら、長い腕が横から伸びてきた。


『お呼びください。落ちたらどうするのです』


『これくらい取れます』


『では、私がいるときくらい取らせてください。恩返しですから』


 呆れるほど生真面目な顔も、低く穏やかな声も、今はない。


「本当に、喧嘩じゃないんだね?」


「違います」


 喧嘩なら、謝ることもできただろう。


 けれどエレナは、彼を自由にしたのだ。


 昼になると、昨夜焼いた肉詰めパンを二つ取り出してしまった。


 一つは香辛料を控えめにしてある。アルベルトが辛いものを苦手としていたからだ。


「……七日も何をしているの、私は」


 一人で二つ食べれば済む。


 そう思ったのに、二つ目には手が伸びなかった。



     ◇



 一週間前も、アルベルトはいつもの時刻にやって来た。


 王国騎士団の制服ではなく、飾り気のない濃紺の上着を着ていた。休日に店へ来るときの格好だった。


「おはようございます、エレナ嬢」


「おはようございます。今日は頼みたいことはありませんよ」


「裏口の戸棚が傾いていました」


「よくお気づきですね」


「先週から気になっていましたので」


 彼は勝手知ったる様子で物置から工具箱を持ち出した。


 エレナはその背中を眺める。


 広い肩。短く整えられた黒髪。魔獣と対峙しても揺らがない灰色の瞳。


 王都の令嬢たちが放っておかないのも当然だった。


『レイン子爵家の次男に縁談が来たらしいわよ』


 前日、薬を買いに来た客が話していた。


『伯爵家のお嬢様ですって。騎士様とお似合いでしょうね』


 聞きたくなかったのに、その言葉は耳の奥に残り続けた。


「ここを補強すれば、しばらく持つでしょう」


 アルベルトが戸棚の前にしゃがみ、緩んだ金具を外していく。


「ありがとうございます」


「礼には及びません。恩返しですから」


 いつもの言葉が、今日は胸に刺さった。


 三年前、エレナは森で傷ついていた彼を助けた。


 それ以来、彼は律儀に通い続けている。


 雨の日も、雪の日も。夜勤明けで目の下に薄い隈がある日でさえ。


 エレナはそれを喜んでいた。


 彼が来る前日に焼き菓子を作り、彼が好みそうな茶葉を選び、扉の鈴が鳴るのを待っていた。


 けれど彼は、恋人ではない。


 命を救われた恩を、返し続けているだけだ。


 結婚してからも休日を薬草店で過ごすつもりなのだろうか。妻となる人が、それを快く思うはずがない。


「来週は、屋根を見ます」


 戸棚を直し終えたアルベルトが言った。


「雨漏りはしていませんけれど」


「北側の板が一枚、傷んでいます。雨季になる前に替えたほうがいい」


「来週も、いらっしゃるのですか」


「はい。そのつもりですが」


 どこまで誠実な人なのだろう。


 嬉しくて、苦しくて、エレナは笑った。


「アルベルト様」


「はい」


「三年間、本当にありがとうございました」


 彼の手が止まった。


「もう恩返しは結構です」


 アルベルトは何も言わなかった。


 静かな店内に、壁時計の音だけが響く。


「それは……もう、こちらへ来る必要はないという意味でしょうか」


 必要がなくても来てほしい。


 そう言えたなら、どれほど楽だっただろう。


「ええ。これ以上、私のためにお時間を使わないでください」


「しかし、屋根が」


「職人に頼みます」


「薬草を採りに行くときは」


「一人でも行けます。以前はそうしていましたから」


 灰色の瞳が、答えを探すようにエレナを見つめた。


 やがてアルベルトは目を伏せた。


「承知しました」


 それだけだった。


 怒りもせず、理由も尋ねず、彼は戸棚の蝶番を一つずつ確かめた。床に落ちた木くずまで拾い、工具を元の場所へ戻した。


「長い間、お世話になりました」


「お世話をしたのは、私ではなくアルベルト様です」


「いいえ」


 彼は何か言いかけた。


 だが、結局は口を閉じた。


「どうか、お元気で」


 扉の鈴が鳴る。


 アルベルトは外へ出る前に一度振り返った。


 その顔を見れば決心が揺らぎそうで、エレナは奥の調合室へ逃げた。


 再び鈴が鳴ったとき、店にはもう誰もいなかった。



     ◇



 三年前の春、森には朝霧が残っていた。


 薬草籠を背負ったエレナは、折れた枝と地面に散った血を見つけた。


 血の跡をたどった先で、若い男が木の幹にもたれていた。傍らには倒された牙狼。男の脇腹は大きく裂けている。


「聞こえますか?」


 返事はない。


 エレナは彼の外套を切り、傷口を洗った。止血草を噛み潰し、迷うことなく最上級の治癒薬を取り出した。


 それは店で売れば、ひと月分の稼ぎになる薬だった。


 それでも、人の命と比べるものではなかった。


 日が暮れるころ、男はようやく目を開けた。


「……ここは」


「森番の小屋です。動かないでください」


「牙狼は」


「あなたの剣が刺さったまま、外で倒れています」


 男は起き上がろうとし、顔をしかめた。


「無茶をしないで。せっかく縫った傷が開きます」


「あなたが、治療を?」


「ほかに誰がいるんです」


 エレナが水を飲ませると、男はひどく申し訳なさそうな顔をした。


「すみません」


「謝る元気があるなら眠ってください」


「あなたのお名前を」


「エレナ・ハーシェルです。王都の外れで薬草店をしています」


「アルベルト・レインです。このご恩は、必ず」


「今は恩より、傷を治してください」


 三日後、迎えに来た騎士たちを見て、エレナは初めて彼の身分を知った。


 さらに十日後。アルベルトは金貨の詰まった袋を持って店を訪れた。


「治療費として、お受け取りください」


「多すぎます」


「あなたが使った薬には、それだけの価値があると聞きました」


「薬代はいただきます。でも、残りは持って帰ってください」


「命を救っていただいた礼です」


「助けられる人を助けただけです。命の値段なんて決められません」


 押し問答の末、アルベルトは金貨を持ち帰った。


 代わりに翌月、彼は店の裏に積まれた薪を割った。


「これなら、お受け取りいただけますか」


「まあ……助かりますけれど」


「では、また参ります」


「まだ何か?」


「命の恩が薪一山で返せるとは思っていません」


 本当に、呆れるほど生真面目な人だった。


 最初は月に一度だった。


 次は二週間後に来た。


 その次からは、休みのたびに顔を出すようになった。


 重い薬草箱を倉庫へ運び、固くなった畑を耕し、割れた窓を直した。


 危険な場所へ薬草を採りに行くときは、頼んでもいないのについてきた。


「騎士のお仕事はいいのですか」


「本日は休みです」


「お休みは、体を休めるためにあるのですよ」


「ここへ来ると休まります」


 そんなことを言われるたび、エレナの心は勝手に期待した。


 だがアルベルトは必ず付け加えた。


「恩返しもできますので」


 期待は、その一言で元の場所へ押し戻された。


 一年目の誕生日には、白い花束を持ってきた。


「任務先で余ったものです」


「花が余る任務とは、どのような任務ですか?」


「……警護です」


 不自然な説明だったが、追及はしなかった。


 二年目の秋、市場へ一緒に出かけたときには、店主から夫婦と間違えられた。


「仲のいい旦那さんだね。奥さんにこれも買ってやんな」


 エレナが否定しようとすると、アルベルトも同時に口を開いた。


 二人とも言葉がぶつかり、結局、何も言えなかった。


 帰り道、アルベルトは耳まで赤かった。


 三年目には、彼のためのカップが店に置かれていた。


 彼の苦手な香辛料は昼食に使わなくなった。


 彼が来る曜日だけ、エレナは髪を丁寧に結った。


 二人の日々は、恋人よりも穏やかで、家族よりも遠かった。


 そして、どれだけ親しくなっても、その関係には「恩返し」という名前しかなかった。



 二年目の冬、薬草店へ高熱を出した子どもが運び込まれたことがあった。


 流行り病ではなかったが、吹雪の夜で、必要な薬が一つだけ足りなかった。


 雪灯花という、冬の森に咲く薬草だ。


 エレナが採りに出ようとすると、アルベルトは店の扉の前に立った。


「私が行きます」


「生えている場所を知りませんよね」


「教えてください」


「雪の中では、慣れた者でも見つけられません」


「ならば、一緒に行きます」


「危険です」


「それは、あなた一人でも同じでしょう」


 二人は腰に縄を結び、吹雪の森へ入った。


 視界は白く、十歩先の木さえ見えない。エレナが足を滑らせるたび、アルベルトの腕が支えた。


 雪灯花を見つけたのは、日付が変わる少し前だった。


 店へ戻り、エレナが薬を調合している間、アルベルトは子どもの母親に温かい茶を出した。夜明け前、熱が下がると、母親は二人の手を何度も握って帰っていった。


 緊張の糸が切れたエレナは、調合台に突っ伏した。


「少し眠ってください」


「片づけが残っています」


「私がします」


「薬瓶の場所も分からないでしょう」


「分かります」


 アルベルトは、使った器具を正しい棚へ戻していった。


 いつの間に覚えたのだろう。


「通いすぎではありませんか」


「ご迷惑でしたか」


「……いいえ」


 エレナが答えると、アルベルトはほっとしたように笑った。


 その笑顔を見た瞬間、彼が来るのを待つ気持ちは、もう感謝だけではないと分かった。


 だが一晩中助けてもらった礼を言うと、彼はやはり答えた。


「恩返しですから」


 だからエレナも、それ以上は言えなかった。



 春には、王都で花祭りが開かれた。


 店先に飾る薬草の鉢を買うため、エレナは早朝から市場へ向かった。偶然を装って現れたアルベルトの手には、買い物籠があった。


「騎士様もお買い物ですか?」


「荷物持ちです」


「まだ何も頼んでいません」


「これから頼まれるかと」


「ずいぶん都合のいい予想ですね」


 結局、二人は並んで祭りを歩いた。


 色とりどりの花飾りが軒先を埋め、広場では楽師が春の曲を奏でている。アルベルトは人混みからエレナを守るように、いつも半歩後ろを歩いた。


 露店で蜂蜜菓子を二つ買うと、彼は一口かじって動きを止めた。


「甘すぎました?」


「いいえ」


「無理をしないでください。アルベルト様は甘いものが苦手でしょう」


「なぜ、それを」


「三年近く一緒にお茶を飲んでいれば分かります。いつも私が焼いたものだから、我慢して召し上がっていたのでしょう?」


「我慢ではありません」


「では、お好きなのですか」


 アルベルトは菓子ではなく、エレナを見た。


「好きです」


 一瞬、祭りの音が遠くなった。


「……お菓子が?」


 エレナが聞き返すと、彼は蜂蜜菓子へ視線を落とした。


「あなたがくださるものなら」


 そこまで言っておきながら、彼はまた続けた。


「日頃の恩返しに比べれば、甘い菓子を食べることなど何でもありません」


 エレナは笑うしかなかった。


 けれどその夜は、何度も「好きです」という声を思い出した。



 夏の終わりには、父が店を訪ねてきた。


 ハーシェル男爵家は裕福ではない。だから次女のエレナが薬草の知識を生かし、自分で働くことを父は認めてくれた。


 それでも二十三歳になった娘の将来を、心配していないわけではなかった。


「縁談が一つ来ている」


 閉店後、父は言いにくそうに封書を差し出した。


「隣領の葡萄園を継いだ方だ。妻を亡くしているが、穏やかな人物だと聞いている」


「お断りしても?」


「構わない。ただ、理由を聞いてもいいか」


 エレナは答えられなかった。


 アルベルトとは何の約束もしていない。彼が自分を訪ねるのは、恩を返すためだ。


 それでも、別の人の妻になる自分を考えられなかった。


「待っている人がいるのか?」


「その人は、私を待たせているつもりなどありません」


 父はしばらく娘を見つめ、封書を懐へ戻した。


「なら、一度くらい自分から尋ねてみなさい」


「尋ねて、困らせたくありません」


「相手を思いやっているようで、自分が傷つくのを恐れているだけではないのか」


 父の言葉は正しかった。


 だが、そのときのエレナには認められなかった。


 翌日、アルベルトはいつものように店へ来た。


 昨夜の縁談について話そうと、エレナは何度も口を開いた。


 けれど彼が嬉しそうに新しい薬草棚を組み立てている姿を見て、何も言えなくなった。


 もし「お幸せに」と祝われたら。


 もし何の動揺も見せず、恩返しを終わらせて去ってしまったら。


 そんな想像だけで怖くなった。


 エレナは縁談を断り、理由は胸の中へしまった。


 その数か月後、今度はアルベルトに縁談が来た。


 自分が選ばなかった道を、彼にだけ選ぶなとは言えなかった。



     ◇



 来なくなって八日目。


 エレナは薬草を刻みながら、自分に言い聞かせていた。


 寂しいのは、仕事が増えたから。


 静かなのは、話し相手が減ったから。


 肉詰めパンを二つ作るのは、三年間の習慣が残っているから。


 けれど昼前に雨が降り始めたとき、エレナは店の外へ飛び出した。


 アルベルトが直すと言っていた北側の屋根を見上げる。


 一枚の板が風に揺れていた。


 彼の言ったとおりだった。


「雨漏りする前に、職人を呼ばなくちゃ」


 呟いた途端、涙がこぼれた。


 屋根が直らないからではない。


 高い棚に手が届かないからでも、荷物が重いからでもなかった。


 会いたかった。


 昨日見つけた珍しい薬草の話をしたかった。近所の猫が店の前で子を産んだことも、焼き菓子を少し焦がしたことも伝えたかった。


 話を聞くとき、わずかに目元を緩める彼が見たかった。


「好きだったから、来てほしかったのね」


 認めても、どうにもならない。


 アルベルトには縁談がある。


 好きだからこそ、彼を恩で縛ってはいけなかった。


「エレナ・ハーシェル嬢はいらっしゃいますか」


 店内から男の声がした。


 胸が跳ねたが、アルベルトの声ではなかった。


 慌てて涙を拭き、店へ戻る。騎士団の制服を着た赤毛の青年が立っていた。以前、アルベルトと一緒に来たことのある騎士だ。


「ルーク様。どうなさいました?」


「遠征用の虫除け薬を二十人分お願いします」


「かしこまりました。遠征はいつからですか」


「三日後です。今回は長くなりそうでして」


 エレナは瓶を並べながら尋ねた。


「アルベルト様も?」


 ルークが目を丸くする。


「聞いていないんですか?」


「何をでしょう」


「あいつ、国境警備隊へ転属するんですよ」


 手から瓶が滑りかけた。


「転属……?」


「任期は最低でも三年。あんなに急いで願い出る必要はないと思うんですが」


 三年。


 アルベルトが通ってきた時間と、同じだけの年月だった。


「ご結婚なさるから、王都を離れるのですか」


「結婚?」


「伯爵家から縁談があったと」


「ああ、あれですか。話を聞く前に断りましたよ」


「断った?」


「先方の名前も聞かなかったそうです。心に決めた相手がいるからと」


 エレナは息を忘れた。


「でも、アルベルト様からそのようなお話は、一度も」


「そりゃ、本人には言えないでしょう。あいつは三年間、恩返しだと言い張っていましたから」


 ルークは急に口を閉じた。


「すみません。余計なことを」


「いえ。続けてください」


「命の恩なら、最初の半年で十分に返しています。毎週通って薪を割る騎士なんて、王国中を捜してもあいつくらいですよ」


 ルークは肩をすくめた。


「会いたかったに決まっているでしょうに」


 決めつけてはいけない。


 期待して、違っていたら立ち直れない。


 それでも、確かめないまま三年を終わらせたくなかった。


「アルベルト様は、今どちらに?」


「詰所にはいません。城門近くの宿舎で荷造りをしているはずです」


 エレナは店の札を裏返した。


「申し訳ありません。今日は閉店します」


「薬は?」


「明日、騎士団へお届けします」


 外套をつかんで走り出す。


 雨上がりの石畳は滑りやすく、何度も足を取られた。


 淑女らしく歩けと母に言われたことも、通行人が振り返ることも、今はどうでもよかった。


 会えなくなる前に、今度こそ自分の言葉で伝えなければならない。



 同じころ、アルベルトは宿舎の狭い部屋で荷をまとめていた。


 国境で必要になる冬用の外套。手入れを終えた剣。替えの制服。


 机の端には、薬草店に置いていた自分用のカップがある。


 最後に店を出た日、持ち帰るべきか迷った末、鞄へ入れたものだった。


 白地に細い青線が一本入っただけの安価なカップだ。エレナは自分のものと並べて、いつも同じ場所に置いていた。


 アルベルトはそれを布で包んだ。


 扉を乱暴に叩く音がした。


「入るぞ」


 返事を待たず、ルークが入ってくる。


「団長が、まだ考え直せると言っていた」


「考えは変わらない」


「三年も通った店に一週間行かなかったくらいで、国境へ逃げるのか」


「逃げるのではない。希望者の少ない任地へ赴くのも騎士の務めだ」


「物は言いようだな」


 アルベルトは外套を鞄へ押し込んだ。


「エレナ嬢は、私が訪ねることを望んでいなかった。それだけだ」


「理由は聞いたのか」


「聞く必要があるか?」


「あるだろう。三年間だぞ」


「だからこそだ。三年も恩を押しつけられたら、迷惑だと言い出しにくい」


 エレナは優しい。


 高価な治癒薬を見知らぬ男へ迷わず使い、礼金さえ受け取らなかった人だ。


 アルベルトが訪ねれば、嫌でも笑顔で迎えただろう。


 彼女がようやく口にした拒絶を、聞かなかったことにはできない。


「私は、近くにいると店へ行ってしまう」


「行けばいい」


「彼女が困る」


「お前がいなくなっても困るんじゃないか」


「棚の修理なら職人に頼める」


「そういう話じゃない」


 分かっていた。


 だが、都合のいい期待を抱くことはできなかった。


 アルベルトは、初めてエレナの店へ行った日のことを思い出す。


 金貨を突き返され、何かできることはないかと見回した。裏庭の薪を見つけたときは、本気で安堵した。


 薪を割り終えると、エレナが茶を淹れてくれた。


 他愛もない話をした。森で見つけた薬草のこと。近所の犬が店先で眠ること。彼女が作った薬を飲んだ老人が、翌週には杖を忘れて帰ったこと。


 帰るころには、次に来る理由を探していた。


 窓枠のひび、庭の荒れ、重そうな木箱。


 彼女は何でも一人でできる。それでも、自分に一つくらい役目を残してほしかった。


 一年が過ぎるころには、恩を返し終えたことなど分かっていた。


 それを認めれば、会いに行く口実がなくなる。


 だから、知らないふりをした。


「お前、縁談を断ったとき、心に決めた相手がいると言ったそうだな」


 ルークが机に寄りかかる。


「だったら、なぜ本人に言わない」


「彼女は命の恩人だ。私が望めば、責任を感じるかもしれない」


「エレナ嬢が自分の意志で断る人だとは思わないのか」


「断られたあと、何事もなかったように訪ねられると思うか?」


「思わない」


「だから言えなかった」


 ルークは大きなため息をついた。


「それで、言わないまま会えなくなって、国境へ行くのか。見事な作戦だな」


「うるさい」


「エレナ嬢の薬を買ってくる。遠征用だ」


「別の店へ行け」


「騎士団指定の店だ。私情で変えられるか」


 ルークは扉を開けたところで振り返った。


「戻ったら、まだ荷造りしていることを願うよ」


 何を言っているのか分からず、アルベルトは眉をひそめた。


 やがて窓の外から、聞き慣れた声が自分の名を呼んだ。



     ◇



 城門近くの宿舎には、遠征用の馬車が並んでいた。


 アルベルトは厩の前で、荷物を馬の背へ載せていた。


「アルベルト様!」


 彼が振り返る。


 驚いた顔は一瞬で消え、よそ行きの静かな表情に変わった。


「エレナ嬢。どうしてこちらへ」


「お話があります」


「何か、お困りでしょうか」


 以前なら、そう言いながらすぐに近づいてきた。


 今の彼は、五歩分の距離を残したまま動かない。


「国境へ行くと聞きました」


「はい」


「なぜですか」


「騎士として経験を積むためです」


「嘘です」


 アルベルトが目を見開く。


「ルーク様から聞きました。急いで願い出たそうですね」


「あいつは……」


「王都にいたくない理由があるのですか」


 答えはなかった。


 エレナは一歩近づく。


「私が、恩返しを断ったから?」


「あなたのせいではありません」


「では、こちらを見て否定してください」


 アルベルトは苦しそうに眉を寄せ、ようやくエレナを見た。


「王都に残れば、店へ行きたくなります」


「来ればいいではありませんか」


「あなたが望まなかった」


「私は――」


「あなたは、これ以上時間を使わないでほしいとおっしゃいました。ならば、近くに居続けるべきではない」


 責める響きはなかった。


 アルベルトはただ、エレナの願いを守ろうとしていた。


 最初に会った日から何も変わらない。痛みに耐えながらも、治療したエレナへ謝った人だ。自分より相手を優先し、言われたことを生真面目に受け止める。


 だから、あの言葉を拒絶だと思ったのだ。


「違うんです」


「何がですか」


「私は、恩返しを終わらせたかったわけではありません」


「ですが、もう必要ないと」


「恩返しでしか、あなたが来てくださらないと思うのが苦しかったんです」


 声が震えた。


 みっともなくても、もう笑ってごまかしてはいけない。


「縁談の話を聞きました。あなたには、もっとふさわしい方がいる。結婚しても私への恩に縛られるのでは、その方にも申し訳ないと思いました」


「縁談は断りました」


「聞きました」


「では、なぜ」


「断った理由は、聞いていません」


 アルベルトの喉が動いた。


「妻に望む方が、ほかにいるからです」


 胸が痛む。


 期待していた答えではないかもしれない。


 それでも逃げずに尋ねた。


「それは、どなたですか」


 アルベルトは黙った。


「私には言えない方ですか」


「あなたには、なおさら言えません」


「なぜ」


「命を救った男から想いを告げられれば、あなたは断りづらいでしょう」


 エレナは瞬きをした。


「それでは、まるで……」


「あなたです」


 アルベルトは、とうとう逃げるように目を伏せた。


「私が妻に望むのは、あなたです」


 雨粒の残る屋根から、雫が落ちた。


 遠くで馬がいななく。


 それ以外の音が、すべて消えたように感じた。


「いつからですか」


「分かりません」


「分からない?」


「最初は、本当に恩を返すためだと思っていました」


 アルベルトは観念したように話し始めた。


「あなたが金を受け取らなかったので、薪を割りました。次に来たとき、あなたが茶を淹れてくれた。帰るころには、また話したいと思っていました」


「それなら、二度目から?」


「ですが、店を出るころには、もう一度あなたに会いたいと思っていました」


「では、いつ気づいたのです」


「初めて店を訪ねた日です。ただ、恋だと認めたのは、市場で夫婦と間違えられた日でした。否定できなかったのではありません。否定したくなかった」


 始まりから、ほとんど三年。互いに同じ相手を想いながら、一度も確かめなかったのだ。


 エレナは力が抜け、その場にしゃがみ込みそうになった。


「どうして、何も言ってくださらなかったのですか」


「告げて断られれば、恩返しに行くことさえできなくなると思いました」


「結局、来なくなったではありませんか」


「……おっしゃるとおりです」


「私は、来てほしかったのに」


「恩返しは必要ないと」


「恩返しでなくても来てほしかったんです!」


 思わず声が大きくなった。


 厩にいた馬が驚いて耳を動かす。


 アルベルトは、戦場でも見せないような顔で固まっていた。


 エレナは熱くなった頬を押さえる。


 ここまで言った以上、もう戻れない。


「私は、あなたが好きです」


 アルベルトが息をのむ。


「薪を割ってくださるからでも、屋根を直してくださるからでもありません。あなたと昼食を食べたい。昨日あったことを聞いてほしい。明日も、その次の日も会いたいんです」


「エレナ嬢」


「恩を返し終えたら、もう会えないと思っていました。だから終わらせるのが怖かった。それなのに縁談を聞いて、あなたを縛るほうがもっと怖くなって……」


 涙がこぼれる。


「あんな言い方しかできませんでした」


 五歩あった距離を、アルベルトが一息に詰めた。


 だが伸ばした手は、エレナの頬に触れる寸前で止まる。


「触れても?」


 こんなときまで律儀に尋ねる彼がおかしくて、エレナは泣きながら笑った。


「どうぞ」


 大きな手が、そっと涙を拭う。


「私は、あなたをお慕いしています」


「恩人として?」


「一人の女性としてです」


「三年間も?」


「初めて店を訪ねた日から、ずっとです」


「では、その間ずっと、二人で同じことを悩んでいたのですか」


「そのようです」


 アルベルトは深刻そうに答えた。


 あまりにも彼らしくて、エレナはとうとう声を上げて笑った。


「笑うところでしょうか」


「笑うしかありません。私たち、何をしていたのでしょう」


「私は恩返しを」


「まだ言うのですか?」


「……あなたに会う口実にしていました」


 アルベルトの耳が赤くなる。


 エレナはその色を、初めて近くで見た。


「転属は、取り消せますか」


「明日の朝一番に願い出ます」


「叱られませんか」


「団長には、先ほどから考え直せと言われています」


「では、そうしてください」


「はい」


 素直にうなずいたあと、アルベルトは背筋を伸ばした。


「エレナ嬢」


「はい」


「これまでの訪問は、恩返しということにしてください」


「なぜです?」


「今から、改めて始めたいのです」


 彼は騎士が主君に誓いを立てるように、エレナの前で片膝をついた。


「今度からは恩返しではなく、求婚のためにあなたのもとへ通ってもよろしいでしょうか」


 通りかかった騎士たちが足を止めた。


 誰かが小さく口笛を吹き、隣の者に肘で止められている。


 エレナは恥ずかしくなったが、逃げなかった。


「三年間も本心を隠していた方を、すぐに信用できると思いますか?」


 アルベルトの顔から、さっと血の気が引いた。


「それは……ごもっともです」


「ですから、明日も来てください」


「明日?」


「その次の日も。あなたの言葉を、きちんと聞かせてください。私も今度は、きちんと伝えます」


 意味を理解したアルベルトの表情が、ゆっくりとほどけた。


「承知しました」


「それから」


「はい」


「屋根も直してください。昨夜の雨で、とうとう漏れました」


「それは恩返しでしょうか。それとも求婚でしょうか」


「ご自分でお考えください」


「難題ですね」


 アルベルトは立ち上がり、エレナの手を取った。


 初めてつないだ手は、薪を割り続けたせいか少し硬かった。



     ◇



 翌朝、いつもの時刻に店の鈴が鳴った。


 エレナは、鳴るより先に扉を見ていた。


「おはようございます」


「おはようございます、アルベルト様」


 彼は薪も工具箱も持っていなかった。


 代わりに、両腕いっぱいの白い花を抱えていた。


「今度は、任務で余ったものですか?」


「いいえ。あなたのために選びました」


 まだ少し硬い言い方だった。


 けれど「恩返しですから」という言葉は続かなかった。


「本日は、何をしにいらしたのですか」


 分かっていて、エレナは尋ねる。


 アルベルトは白い花越しに彼女を見つめた。


「あなたに会いに来ました」


 エレナは扉を大きく開ける。


「どうぞ。お待ちしていました」


 三年間続いた恩返しは、前の日に終わった。


 それでも二人は、もう離れなくていい。


 名前をつけられずに育った想いは、ようやく今日から、恋として始まるのだから。



     ◇



 その日の昼過ぎ、アルベルトは結局、屋根へ上っていた。


 花束を花瓶へ生けたあと、天井から一滴の水が落ちてきたからだ。


「求婚に来たのではなかったのですか?」


 エレナが店の外から見上げると、屋根の上のアルベルトが傷んだ板を外しながら答えた。


「雨漏りを放置して求婚を続ける男を、信用していただけるとは思えません」


「私は自分で職人を呼べます」


「知っています」


「では、なぜ直しているのです?」


 アルベルトは少し考えた。


「直したいからです」


 以前なら、恩返しだからと言っただろう。


 たったそれだけの違いが、エレナには嬉しかった。


「でしたら、お願いします」


「はい」


「終わったら昼食にしましょう。肉詰めパンが二つあります」


 アルベルトが作業の手を止めた。


「私の分を、作ってくださったのですか」


「七日間、毎日二つ作っていました」


「毎日……」


「笑わないでください。癖が抜けなかっただけです」


「笑ってはいません」


 そう言う彼の口元は、明らかに緩んでいた。


 屋根の修理を終えたアルベルトは、店の裏で手を洗った。いつもの席に座ろうとして、そこにカップがないことに気づく。


「持って帰られたのですね」


「もう来るなという意味だと思ったので」


「あのカップを見るたび、空いた場所が気になりました」


「明日、持ってきます」


「必ずですよ」


「はい」


 二人は向かい合い、少し冷めた肉詰めパンを食べた。


 これまで何度も繰り返した昼食なのに、何を話せばいいのか分からない。


 先に口を開いたのはエレナだった。


「求婚のために通うとおっしゃいましたね」


「はい」


「具体的には、何をなさるおつもりですか?」


「あなたが望むことをします」


「それでは、これまでの恩返しと同じです」


 アルベルトは真剣な顔で考え込んだ。


「では、私がしたいことをしても?」


「内容によります」


「あなたと食事をする。休みの日に出かける。騎士団であったことを話す。あなたの話を聞く」


「ほかには?」


「手をつなぎたいです」


 昨日はエレナから許したのに、改めて言われると頬が熱くなった。


「店の中でなければ」


「分かりました」


「それだけですか?」


「今は、それ以上を口にすると、店から追い出されそうです」


 アルベルトがあまりに真顔なので、エレナは吹き出した。


 彼は告白さえしてしまえば、意外なほど正直だった。



     ◇



 それから、アルベルトは約束どおり通い続けた。


 以前と違うのは、必ず自分の気持ちを口にすることだった。


「今日は、あなたと昼食を取りたくて来ました」


「この花は、あなたに似合うと思って買いました」


「会えない日は、寂しいです」


 最初のうちは、どの言葉も騎士の報告のように硬かった。


 けれどエレナは、彼が言葉にするたび、きちんと答えた。


「私も一緒に食べたいと思っていました」


「ありがとうございます。ですが、私に似合うのは薬草のほうでは?」


「私も寂しいです」


 言葉を惜しまないと決めただけで、三年間動かなかった関係が少しずつ変わっていく。


 休みの日には二人で花祭りの開かれた広場へ出かけた。


 祭りは終わっていたが、あの日に食べた蜂蜜菓子の店は残っている。


「今日は無理をして食べなくていいですよ」


「一つください」


「苦手でしょう?」


「半分ずつなら食べられます」


 アルベルトは一つだけ買い、本当に半分に割った。


 大きいほうをエレナへ渡す。


「これも求婚ですか?」


「はい」


「大きいほうを譲れば、結婚できると思っているのですか?」


「駄目でしょうか」


「もう少し努力が必要ですね」


 エレナが笑うと、アルベルトも笑った。


 帰り道、人通りが少なくなったところで、彼は右手を差し出した。


 エレナは何を求められているのか分かっていたが、少し意地悪をしたくなった。


「何でしょう」


「手をつなぎたいと、以前お願いしました」


「覚えていたのですね」


「忘れるはずがありません」


 差し出された手へ、自分の手を重ねる。


 その瞬間、アルベルトの指が緊張したように動いた。


「魔獣を相手にするときより硬くなっていますよ」


「魔獣は、私の手を拒みませんので」


「私も拒んでいません」


 そう言うと、つながれた手へ少しだけ力がこもった。



 数日後、二人はハーシェル男爵家を訪れた。


 アルベルトは正装し、薬草店へ初めて来た日よりも緊張した顔で応接室に座っていた。


 父は向かいから彼を眺め、静かに尋ねる。


「娘から、三年間通っていた騎士がいるとは聞いていた」


「はい」


「だが、求婚されていたとは聞いていない」


「求婚したのは、つい先日です」


「では、それまでの三年は何を?」


「恩返しをしておりました」


「三年も?」


「はい」


 父がエレナを見る。


「お前は何をしていた」


「待っていました」


「三年も?」


「はい」


 父は額を押さえた。


「似た者同士ということは、よく分かった」


 叱られると思っていたアルベルトは、背筋を伸ばしたまま動かない。


「レイン卿。娘は男爵家に生まれたが、店を自分の力で守ってきた。結婚したからといって、その仕事を取り上げることは認めない」


「もちろんです。店は、彼女が築いた大切な場所です」


「危険な薬草採取へ出ることもある」


「同行できる日は、私も行きます。できない日は信頼できる護衛を手配します。ただし、最終的には彼女の判断に従います」


「貴族の妻として屋敷に入れという話になったら?」


「私は次男です。騎士の宿舎を出たあとは、店へ通える場所に家を借りるつもりです」


 よく考えられた答えだった。


 おそらく昨夜、一つずつ書き出してきたのだろう。


 父はしばらく黙ってから、エレナに尋ねた。


「お前は、この男と結婚したいのか」


 以前のエレナなら、アルベルトの顔色をうかがったかもしれない。


 けれど今度は、迷わなかった。


「はい。私はアルベルト様と生きていきたいです」


 隣で、彼が小さく息をのむ。


「では、私から言うことはない」


 父はアルベルトへ視線を戻した。


「ただし、次に娘を泣かせたら、三年分の薪を割ってもらう」


「必ず」


「冗談だ」


「しかし、それでお許しいただけるのであれば」


「そういうところだぞ」


 父の呆れた声に、エレナは肩を揺らした。



     ◇



 一か月後、アルベルトは森へ同行した。


 三年前に倒れていた場所を通りかかり、二人は足を止める。


 あの日に折れていた木は新しい枝を伸ばし、その根元には小さな青い花が咲いていた。


「ここでしたね」


「はい。あなたが血まみれで倒れていました」


「見なかったことにしようとは思わなかったのですか」


「思いません。ですが、今なら一つだけ後悔しています」


「何を?」


「最初から、治療費の代わりに正直な気持ちをいただけばよかった」


「あのときは、まだ命を助けていただいた感謝しかありませんでした」


「では、二度目に薪を割ったあとなら?」


「また来たいと思っていました」


「それを言ってくだされば、三年もかかりませんでした」


「申し訳ありません」


 謝る彼の顔には、以前のような苦しさはない。


 エレナも笑って受け止められた。


 帰り際、アルベルトが青い花の前で立ち止まった。


「エレナ」


 呼び捨てにされたのは、初めてだった。


「はい」


「これから先、あなたが困ったときだけではなく、嬉しいときも、悲しいときも、そばにいたいと思っています」


 彼は小さな箱を開けた。


 中には、白い石を飾った指輪が入っていた。華美ではないが、仕事中にも身につけられるよう、爪の低い造りになっている。


「これは、恩返しではありません」


「分かっています」


「私の望みです。私と結婚してください」


 今度のアルベルトは、言い訳も口実も使わなかった。


 だからエレナも、遠慮も強がりも使わずに答えた。


「はい。私も、あなたと一緒にいたいです」


 指輪をはめたあと、アルベルトはエレナの手を両手で包んだ。


「一つ、確認してもよろしいでしょうか」


「何です?」


「結婚後も、屋根の修理や薪割りは、私がしても?」


「したいのですか?」


「はい」


「では、お願いします」


「恩返しではなく?」


「夫婦で暮らす家の仕事として」


 アルベルトは、この日いちばん嬉しそうに笑った。


 森を出るまで、二人は手をつないで歩いた。


 三年前、恩から始まった関係だった。


 けれど恩は、返せば消えてしまうものではなかった。


 一緒に過ごした時間の中で形を変え、互いを気遣う情になり、離れたくないと願う恋になった。


 そしてこれからは、返すためではなく、二人で積み重ねていくものになる。



     ◇



 結婚式は、その年の秋に行われた。


 薬草店は一日だけ休みになり、扉にはエレナの字で「本日、店主結婚のため休業」と書かれた札が下がった。


 その下には、アルベルトが書き足した小さな一文がある。


「明日からは通常どおり営業いたします」


「結婚式の日くらい、仕事を忘れてもよいのではありませんか?」


 エレナが言うと、アルベルトは真面目な顔で札の傾きを直した。


「明日、薬を必要とする方が迷わないようにすべきです」


「私より店の心配をしていません?」


「まさか」


 アルベルトは札から手を離し、花嫁姿のエレナを見つめた。


「今日は朝から、あなたのことしか考えられていません」


 三年前なら絶対に聞けなかった言葉に、エレナの頬が熱くなる。


「ずいぶん正直になりましたね」


「もう、黙っていて失うのは嫌ですから」


 店の前には、パン屋の女主人や薬を買いに来る常連客、騎士団の仲間たちが集まっていた。


 ルークが、祝いの花びらを抱えながら笑っている。


「長かったな、アルベルト。命を助けられてから、ここまで三年半か」


「余計なことを言うな」


「今度は何年かけて夫婦になるつもりだ?」


「今日だ」


 アルベルトが即答すると、周囲から笑い声が上がった。


 エレナも笑いながら、彼の腕に手を添える。


「参りましょうか」


「はい」


 二人が歩き出すと、背後で店の鈴が風に鳴った。


 かつてエレナは、その音が鳴るたびに、彼ではないかと期待した。


 もう待つ必要はない。


 アルベルトは今、同じ道を隣で歩いている。


「そういえば、最初にお持ちになった礼金は、まだ残っていますか?」


「すべて貯えてあります」


「受け取らなくて正解でした」


「なぜです?」


「受け取っていたら、恩返しは一日で終わっていたでしょう?」


 アルベルトは少し考え、それからエレナの手を握った。


「それでも、あなたに会う理由を探したと思います」


「本当に?」


「今なら、そう言えます」


 秋の光の中を、二人は並んで歩いていく。


 恩返しは、もういらない。


 これから必要なのは、会いたいときに会いたいと言い、そばにいたいときにそう伝えることだけだった。


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