両親に使い潰されそうな侯爵令息がいたので、悪事を全部暴いて嬉々として破滅させてみました
放課後の心地よい風が吹き抜ける、皇立学院の中庭のテラス席。
公爵令嬢と平民の奨学生という、本来なら交わるはずのない三人がこうして同じテーブルを囲む光景は、今や学院でもすっかり見慣れたものになっている。
いつものように集まった三人――ミア、ロキ、そしてロゼリアのテーブルの上には、一見すると残酷なまでの身分格差が広がっていた。
ロゼリアの目の前に優雅に鎮座しているのは、色とりどりの果物が宝石のように輝く見事なフルーツケーキだ。
一方、平民の奨学生に扮しているミアとロキの前に置かれているのは、市場の量り売りで買ってきたという、不自然なほど茶色い――いや、しっかり焦げている激安クッキーと、パンの耳を安い油で揚げて砂糖をまぶしただけの素朴すぎるおやつだった。
「んーっ、このクッキー、岩みたいに硬くてすっごく歯ごたえがあるー。噛めば噛むほど甘くて美味しい気がする」
「……それは単に、あなたの味覚がおかしいだけです」
ボリボリ、バキィッ、と小気味良い、かつ少し心配になる音を立ててクッキーを砕くミアの隣で、ロキは無表情のままパンの耳を口に運び、水で流し込んでいた。
そしてその漆黒の瞳は、ロゼリアの皿に乗った瑞々しいフルーツケーキを、死んだような、しかしまったく隠しきれない羨望の眼差しで見つめている。
「あの、ロキさん。もしよろしければ、こちら少し召し上がりますか?」
見かねたロゼリアがケーキの皿をそっと押しやると、ロキの肩がピクリと揺れた。
だが彼は数秒の凄絶な葛藤の末、すっと目を逸らして首を横に振った。
「……いえ。お気遣いなく。俺はミアと同じものを食べますので」
そう言いながら、再びパンの耳を齧るロキ。
結局ミアに付き合って同じ粗末なおやつを食べているその姿には、なんとも言えない不憫さと、奇妙な連帯感が漂っていた。
「ふふっ、そうですか」
ロゼリアは小さく微笑むと、少しだけ姿勢を正し、ほんのりと頬を染めながら口を開いた。
「そうだ、実は今度、若手の貴族が集まる夜会に参加することになりまして。わたくしもそろそろ新しい婚約者を探さないといけませんので」
「えっ! ロゼリア様、またご両親に無理やり婚約させられるんですかぁ?」
その言葉に、ガリゴリとクッキーを齧っていたミアが即座に反応した。
以前のバッカスとの一件を知っているがゆえの、素早い食いつきだった。
だが、ロゼリアは柔らかく笑って首を横に振る。
「いいえ、違うんですの」
ロゼリアの口調は穏やかだったが、その背景には明確な理由があった。
大皇国の第二皇女であるエミリア――目の前にいるミアから直接、強烈な圧力をかけられたリプレイア公爵夫妻は、今やロゼリアに対して完全に白旗を掲げているのだ。
ロゼリアはフォークをそっと置き、真剣な眼差しで二人を見つめた。
「以前は、婚約という言葉を聞くだけで気が重くなりました。ですが、バッカス様との婚約が解消されて少し落ち着いた今……わたくし、結婚そのものが嫌になったわけではないと気づいたんです」
家のため、親のためと自分を押し殺すだけの未来はもう終わったのだ。
「もちろん、貴族令嬢として家に益をもたらす責任を完全に放棄するつもりはありません。ですが……」
言葉を区切り、ロゼリアは柔らかいなかにも芯のある声で告げる。
「今度は誰かに決められるのではなく、自分の意思で、相手を選んでみたいと思いまして。今回の夜会は、そのための第一歩なんです」
眩しいほどの前向きな決意を聞いて、ミアは目をキラキラと輝かせ、両手をぽんと合わせた。
「わあ、自分で相手を選ぶ婚活ってことですね。すっごく面白そー!」
無邪気にはしゃぐミアに、ロゼリアも嬉しそうに目を細める。
「どんな夜会になるか、楽しみですねぇ。ロゼリア様に素敵な出会いがありますように」
「ありがとうございます、ミアさん」
ロゼリアが微笑んで感謝を伝えると、ロキも焦げたクッキーに手を伸ばしながら、淡々と声をかけた。
「……まあ、頑張ってください」
「はい。ロキさんも、ありがとうございます」
ポカポカとした日差しに包まれたテラス席で、三人の間には相変わらず、なんとも平和で和やかなティータイムの空気が流れていた。
――しかし。
ロゼリアの大切な第一歩を、この規格外で気まぐれな皇女が、ただ大人しく指をくわえて見守っているはずがなかった。
◆
数日後。
皇都の中心部に位置するクローデン侯爵家の壮麗な屋敷では、若手の貴族たちを集めた華やかな夜会が開かれていた。
煌びやかなシャンデリアの光が降り注ぎ、優雅な管弦楽の調べが響き渡る中、美しく着飾ったロゼリアはまたたく間に大勢の青年貴族たちに囲まれていた。
公爵家であるリプレイア家の令嬢であり、バッカスとの婚約が解消されてフリーになった彼女は、今夜の夜会において最も注目される存在だったのだ。
だが、次々と声をかけてくる男たちの言葉に、ロゼリアの心は早々に摩耗し始めていた。
「ロゼリア嬢、リプレイア家との婚姻ならば、我が家にも多大な利益が――」
「あなたの持つ【慧眼】のギフトは、我が家の領地経営や政務において大いに役立つことでしょう。ぜひ我が侯爵家へ――」
「私には【完全記憶】という、一度見聞きしたものを決して忘れない優れたギフトが発現しておりましてね。皇室に太い伝手をお持ちのあなたと結ばれれば、いずれはこの私が国政の中枢にも……」
口を開けば、家柄、利益、コネクション、そして己のギフトの自慢ばかり。
中には、自信たっぷりにすり寄ってきて、こんな提案をしてくる男さえいた。
「実は僕にはすでに心に決めた愛する女性がいましてね。ですが、身分が低いため妻にはできない。そこで、ロゼリア嬢と婚姻を結びたいのです。互いに干渉しない完璧な仮面夫婦として家を保ち、あなたも自由に愛人を作って構わない。非常に合理的で、互いにとって都合の良い素晴らしい関係だと思いませんか?」
ロゼリアは完璧な愛想笑いを顔に貼り付けながら、内心で深くため息をついた。
彼らの目は、リプレイア家という看板や、彼女の持つギフトの実用性ばかりを見ていて、ロゼリア自身の内面などどうでもいいと告げていた。
もちろん、家同士の利益を考えること自体は貴族として当然だ。
かつての自分なら、それだけで十分だと思っていたかもしれない。
だが今は違う。
自分が求めているのは、家の利益を計算し合う関係だけではない。
ただ、一緒にいて心地よいと思える相手――それが今の自分の基準なのだと、改めて気づかされる。
自分で相手を選ぶというのも案外大変なのだと、婚活の難しさを痛感するロゼリア。
穏便に男たちをあしらい、壁際へと避難したロゼリアは、ふぅと小さく息を吐く。
そして喉の渇きを覚えたロゼリアが周囲を見回した、その時だった。
「お飲み物、いかがですかぁ?」
背後から、ひどく甘ったるく、のんびりとした聞き覚えのある声が響いた。
「…………」
ロゼリアの脳内において、この声を発する人物など一人しか思い当たらない。
恐る恐る声の方へ目視線を向けると、そこには銀のトレイにグラスを乗せたメイド服姿のミアが立っていた。
学院の制服姿とは違い、今日の彼女は使用人が着る黒を基調としたシックなメイド服に、白いフリルのエプロンを身につけている。
普段は下ろしている髪も綺麗にまとめ上げられており、見た目だけで言えば可憐で愛らしいメイドそのものだった。
そして、その一歩後ろ。
同じく黒の洗練されたフットマンの給仕服を身に纏い、磨き上げられた銀のトレイにクリスタルのグラスを完璧なバランスで乗せている青年がいた。
言わずもがな、ロキである。
仕立ての良い制服は恐ろしいほど似合っており、学院では無造作な髪も、今日は前髪をすっきりと撫でつけている。
ただ――その漆黒の瞳だけは、一切の光を宿さず完全に死んでいた。
「…………何をしていらっしゃるのですか、ミアさん」
ロゼリアが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえると、ミアは悪びれもせず、唇に人差し指を当ててウインクをした。
「しーっ。今日の私は、給仕係のミアちゃんです♡」
ロゼリアは無言のまま、ミアの後ろに立つロキへと鋭い視線を向けた。
なぜ止められなかったのですか――そんな非難の意を込めたロゼリアの眼差しを受け止めたロキは、死んだ目のまま小さく首を横に振ると、声は出さずにかすかに唇を動かした。
「止まる人に見えますか?」
――いや、微塵も見えない。
瞬時に心の中で完全同意し、ロゼリアは諦めの境地で天を仰ぐ。
そして、会場の端とはいえ誰かに聞かれてはまずいと、さらに声を潜める。
「……なぜわざわざ、こんな格好で潜り込んでいるのですか」
「えー? だってぇ、ロゼリア様がどんな風に婚活してるか、観察したかったんだもん。給仕なら空気みたいに扱われるから、観察するには絶好のポジションでしょ?」
自分の考えた名案を褒めてほしいと言わんばかりに、ミアは純真無垢な幼子のようにキラキラとした笑顔を浮かべている。
「観察しなくて結構です!」
「えー、だって面白そ……ロゼリア様を心配してるんだよー」
うっかり本音がこぼれかけたが、しれっと言い直すミア。
確かに、心配していないわけではないのだろう。
けれど彼女の本心はおそらく、面白そうだからという理由の方にかなり比重が偏っているはずだ。
これ以上ミアと話していても頭痛の種が増えるだけだと悟ったロゼリアは、小さく息を吐いて気を取り直した。
「……もう結構です。わたくしは少し喉を潤したら、すぐに――」
「あ、じゃあ冷たいジュース飲みます? はい、ロゼリア様!」
ミアが銀のトレイを抱えたまま、もう片方の手でグラスを一つ手に取ろうとした。
だがミアの手が滑り、傾いたグラスがトレーの上で倒れそうになる。
その直後。
「――危ないっ」
横からすっと伸びてきた手がグラスが倒れて中身がこぼれる寸前で、見事に受け止めたのだ。
そこに立っていたのは一人の青年だった。
柔らかな栗色の髪に、理知的な青灰色の瞳。
派手さや華美な装飾はないが、その立ち姿からは洗練された品性が滲み出ている。
青年はまずは給仕であるミアの方へ向き直った。
「大丈夫でしたか?」
「あ、全然大丈夫でーす」
「それは良かった。驚かせてしまってすみません、服は濡れていませんか?」
給仕相手に一切の横柄さを見せず、まるで対等な相手に対するようにごく自然に気遣いの言葉をかける青年の姿に、ロゼリアは思わず目を瞬かせる。
続いて青年はロゼリアへ向き直り、優雅に一礼した。
「突然横から失礼いたしました。本日は我が家の夜会へお越しいただき、ありがとうございます。クローデン侯爵家の次男、アイザック・クローデンと申します。ロゼリア嬢、お噂はかねがね」
アイザックと名乗ったその青年は、柔和な笑みを浮かべる。
「ご丁寧にありがとうございます、アイザック様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ロゼリアもドレスの裾を軽く摘まみ、優雅に一礼を返した。
クローデン侯爵家は、確固たる地位と領地を持つ名家である。
アイザック自身も非常に優秀なギフトの持ち主でありながら、決して驕ることのない穏やかな人柄として知られている。
しかし有力な侯爵家の次男からの挨拶ということで、またしても家柄と己のギフトの自慢合戦が始まるのだろうかと、ロゼリアは内心でひっそりと警戒の壁を高くした。
「ロゼリア嬢が、新たな婚約者を探すために今夜の夜会へ参加されたという噂は、私の耳にも届いております」
「ええ。そうですわね」
ロゼリアは公爵令嬢としての完璧な笑みを崩さなかったものの、言葉の裏にある意図を測りかねて、慎重に頷く。
やはり彼も、その噂を聞きつけて自分を売り込みに来たのだろうか。
そう思いながら、次に続くであろう言葉を静かに待つ。
するとアイザックは、彼女の警戒を解くように、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ああ、申し訳ありません。他意はないのです。ただ、ロゼリア嬢にも事情はおありでしょうが、まずは色々な方とお話をして、今日の夜会そのものを楽しんでいただけたらと」
そこでアイザックは一度言葉を切ると、どこか穏やかな眼差しでロゼリアを見つめた。
「ロゼリア嬢が素晴らしい女性であることは、以前から社交界でもよく知られております。ですから、一度の夜会で焦って結婚相手を決める必要など、どこにもないと思いまして」
そこにはリプレイア家の名も、皇室との繋がりも、ギフトの話題もなかった。
彼はただ純粋に、ロゼリア自身の意思を尊重して気遣っていた。
先ほどまでの打算的な男たちとは明らかに違う穏やかな空気に、ロゼリアは張り詰めていた肩の力がふっと抜けるのを感じる。
その時、アイザックが周囲へちらりと視線を向けた。
再び群がってこようとする貴族たちの気配を察したらしい。
またあの打算的な会話が始まるのかと、ロゼリアがほんのわずかに肩を強張らせて身構えたのを、アイザックの青灰色の瞳が静かに捉えた。
そしてアイザックはロゼリアに向き直ると、そっと手を差し出した。
「あの……もしよろしければ、私と一曲踊っていただけませんか?」
彼は洗練された身のこなしとは裏腹に、どこか照れくさそうに、少したどたどしい手つきで誘いの手を差し伸べてきた。
「あの熱烈な方々から少しの間逃れるための、ただの言い訳として……私を使っていただいて構いませんので」
その気遣いに、ロゼリアは胸の奥が温かくなるのを感じながら彼の手を取った。
「……ええ、喜んで」
ホールの中央へ進み出た二人は、ワルツの調べに合わせて緩やかにステップを踏み始める。
アイザックのリードは彼の性格を表すように優しく、かつ正確だった。
踊りながら交わすのは、最近の王都の流行りや、庭園に咲く花の話といった、本当にただの他愛のない会話ばかりだった。
それでも、彼との時間は不思議なほど穏やかで心地よく、一曲目が終わったあとも自然と会話が続き、気づけばそのまま二曲目まで踊っていた。
と、心地よい距離感を保ったまま、彼がふと問いかけてきた。
「……ロゼリア嬢は、結婚相手としてどのような方を望んでおられるのですか?」
それは、打算や値踏みではなく、純粋な興味から来る質問だった。
ロゼリアは少しだけ視線を落とし、かつての自分――バッカスに何を言われても反論できず、ただ耐えるしかなかった日々を思い返しながら、静かに答えた。
「そうですわね。……わたくしが『嫌です』と言った時に、その言葉を、ちゃんと聞いてくださる方でしょうか」
家柄でも、財力でも、優れたギフトでもなく。
ただ一人の人間として、自分の意思を尊重してくれる相手がいいという、ロゼリアの心からの願いだった。
その言葉を聞いた瞬間、アイザックの足運びは完璧なままだったが、彼の表情が一瞬だけ微かに固まった。
そして驚きとも、諦めともつかないような、複雑な色が青灰色の瞳をよぎる。
「『嫌だ』と口にできること。そして、それを受け入れてもらえること……」
アイザックはぽつりと呟き、どこか遠くを見るような、ひどく切ない微笑を浮かべた。
「……それは、とても難しくて……けれど、とても素晴らしい条件ですね」
嫌味や皮肉は微塵もない、ひどく優しい声だった。
ただその言い回しには、まるで自分には絶対に許されないことだとでも言いたげな深い諦念が混じっているようにロゼリアには聞こえた。
◆
一方その頃。
優雅にステップを踏む二人を、会場の少し離れた壁際から見つめている給仕服の二人がいた。
ミアはぱっと顔を輝かせ、ロキへ向かってこっそりと耳打ちする。
「わあ、あのクローデン侯爵家のアイザック様ってぇ、とぉってもいい人だよねー。すっごく優しそうだし、ロゼリア様のことも大切にしてくれそうだし、っていうか、二人が並んでるとすっごくお似合いー。もしもロキがいなかったら、私のお婿さん候補としても百点満点じゃない?」
「彼の良さは否定しませんが……あんな人が良すぎる優男、あなたには合いませんよ」
いつもよりほんの少しだけ声のトーンが低く、冷ややかな響きを持ったロキの反応に、ミアは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「えー、ロキってばぁ、もしかして妬いてるのぉ?」
「妬いてません」
「ほんとにぃー?」
「妬いてません」
一切の表情を崩さずに即答するロキに、ミアは小首を傾げて楽しそうに続ける。
「でもぉ、さっきから私に熱い視線を送ってくる参加者の男の人たちに、すっごい殺気出して追い払ってるよねぇ? こっそり【魅了】とか【好意】のギフトを使って私の気を引こうとしてきた貴族のお兄さんたちの力も、全部きれいに無効化してるしー」
「…………」
図星を突かれたロキは、目線をわずかにふいっと横に向けながら小さく息を吐いた。
「俺はあなたの護衛ですから。不審な輩を近づけないのは当然の義務です」
「んー? 護衛兼、夫、だよねぇ?」
わざとらしく二つ目の肩書きを強調するミアに、ロキは微かに眉間を寄せた。
それから呆れたようにしながらも、どこか真摯な響きを帯びた声で返す。
「……そっちの肩書きをもらっている以上、俺以外の男にあなたを任せるつもりはありませんよ。あなたがどれだけ規格外で手がかかるか、知っているのは俺だけで十分ですから」
「あはっ! 素直じゃないなぁ」
呆れと文句で包み隠しているが、それは彼なりの明確な独占欲の表れだった。
もっとも本人は認めないだろうが。
それでもロキの言葉を聞いたミアは、満足そうに目を細めた。
「まあ、別にいいけどぉ」
ミアは機嫌良く笑い、再びフロアで踊るロゼリアたちへと視線を戻した。
「ねえねえ、ところであのアイザック様のギフトって、なんだったっけ?」
「確か【共鳴増幅】という希少ギフトです。意志を持って触れた相手のギフトを一時的に大幅に強化する能力で、非常に有用性が高いかと」
「へぇー、便利そうー」
「ですが有用すぎるがゆえに、アイザック様は家から過度な期待をかけられているという話は聞きますね。かなり能力を酷使させているとも。それに……あのギフトを有して生まれた人間は、短命な人間が多いとも言われています」
続けられたロキの淡々とした説明を聞き、ミアはフロアで優しく微笑むアイザックを見つめた。
「ふぅん、それはまた大変だねぇ。それにしても、過度な期待かぁ。まるで少し前のロゼリア様みたいだねー。ふふっ、……ロゼリア様、きっとあんなふうに自分を押し殺してる可哀そうな人は、放っておけないだろうなぁ」
ミアはくすくすと笑う。
そのあまりにも楽しそうな横顔を見て、ロキは胡乱な目を向けた。
「……あんた、また何かやらかす気ですか」
「えー? 大丈夫大丈夫! 余計な波風は立てないからぁ」
「その言葉ほど信用できないものはありませんよ」
「今回は本当だよー。……多分♡」
「…………はぁ」
悪びれもせずウインクをするミアの横で、ロキは今夜何度目になるか分からない、ひどく重いため息をこぼしたあと、ロゼリアたちへと視線を戻した。
◆
ワルツの曲が終わり、二人はフロアの端で優雅に礼を交わす。
ロゼリアにとって、これほど心穏やかにダンスを楽しめたのは初めてのことだった。
「お付き合いいただき、ありがとうございました。ロゼリア嬢」
「こちらこそ、とても楽しかったですわ」
アイザックが柔らかく微笑みかけた、ちょうどその時だった。
「おお、アイザック殿ではないか! 噂に名高い【共鳴増幅】の力、ぜひ我々にもここで少し試して見せてはくれないか?」
恰幅の良い高位貴族の男性が、ワイングラスを片手に上機嫌な様子で話しかけてきた。
彼の周りには、珍しいもの見たさに何人かの貴族が集まっている。
その声に、アイザックの表情が一瞬だけ――本当に微かにだが、強張った。
続けて彼は、どこかへと視線を向ける。
ロゼリアが不思議に思ってアイザックの目線の先を追うと、少し離れた場所に立つ壮年の男女の姿があった。
そこにいたのはクローデン侯爵夫妻だ。
侯爵はアイザックに向かって、無言のまま冷徹な視線を送り、期待に応えろと圧力をかけているように見えた。
そして夫妻の隣には、最近クローデン家と急激に仲を深めているイーサン伯爵も立っていた。
伯爵はこれから披露される【共鳴増幅】の力を値踏みするように、期待に満ちた目でアイザックを見つめている。
両親とイーサン伯爵、三人の視線を受け止めたアイザックは、すぐに完璧な柔和な笑顔を顔に貼り付けた。
「ええ、喜んで。……どなたか、ギフトを増幅したい方はおられますか?」
「では、私のギフトを頼む」
進み出たのは、恰幅の良い貴族の隣にいた青年だった。
彼は右手を軽く前に出すと、自身のギフトである【光玉】を発動させた。
掌の上に、眩い光を放つ三つの球体が浮かび上がる。
夜間の探索や野営においても非常に重宝される、実用的で優秀なギフトだ。
「それでは、失礼いたします」
アイザックは手袋を外し、その青年の肩へそっと手を触れると、青年の掌に浮かんでいた光玉が爆発的な輝きを放った。
「おおっ!?」
瞬く間に広間の隅々まで柔らかな光で満たされ、それはまるで真夏に飛び交う幻想的な蛍の群れか、あるいは星屑のようで、シャンデリアの輝きすらも霞むほどの美しさだった。
「素晴らしい!」
「実用性に特化した【光玉】が、これほど美しく、かつ広範囲に展開されるとは!」
周囲の貴族たちから、感嘆の声と盛大な拍手が沸き起こる。
だが――その華やかな歓声の中で、ロゼリアの持つ【慧眼】のギフトだけが、光り輝く現象の陰で起きている異常を正確に捉え、激しい警鐘を鳴らしていた。
「っ…………」
ロゼリアは目の前の光景に思わず息を呑んだ。
彼女の目には、アイザックが相手のギフトを強化した瞬間、彼自身の内側から生命力のようなものが削り取られていくのがはっきりと見えたのだ。
事実、アイザックの顔色は血の気を失い、微かに呼吸が乱れている。
しかし、周囲の貴族たちは華やかな光にばかり目を奪われ、彼の変化に誰一人として気づいていない。
「アイザック殿! 次は私のギフトも強化してくれ!」
「俺のも頼む!」
興奮した貴族たちが、次々とアイザックの元へ群がってくる。
「ええ、構いませんよ」
アイザックは顔色の悪さを微塵も表に出さず、ただ笑顔で頷き、次々と彼らの依頼をこなしていった。
そのたびに【慧眼】は、アイザックの内側から力が確実に失われていく様を、嫌でもロゼリアに見せつけてくる。
彼の体は悲鳴を上げているはずなのに、彼は決して「嫌だ」とも「休みたい」とも口にしない。
十人近くのギフトを強化し終えた頃には、アイザックの額には薄っすらと冷や汗が浮かび、立っているのもやっとという状態に見えた。
たまらず、ロゼリアは群がる貴族たちを掻き分けるようにして彼に歩み寄った。
「アイザック様。もうそのくらいにして、少しお休みになった方が……」
ロゼリアが心配そうに声をかけると、アイザックは少し驚いたように目を丸くし、それから力なく微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます、ロゼリア嬢。ですが、問題ありませんよ」
「ですが、お顔の色が……」
「大丈夫です。家のため、皆の期待に応えるために私の力を使うのは……これくらいは、当然のことですから」
当然。
その言葉の響きに、ロゼリアの胸が大きく波打った。
自分の体が悲鳴を上げているのに、他人の余興のために己を削り取ることが、当然だというのか。
それはかつて、自分がバッカスにどんな扱いを受けても、『家のためになるのだから当然だ』と感情を殺して受け入れていた姿そのものではないか。
周囲の期待と、家という重圧に押し潰され、自分自身の意思を完全に手放してしまった青年の姿と、過去の自分の姿が、ロゼリアの中でゆっくりと重なった。
アイザックの顔色があまりにも悪いのを見かねたロゼリアは、「夜風に当たりたい」という口実で彼を半ば強引にテラスへと連れ出した。
喧騒から離れた夜のテラスには、冷たく心地よい風が吹き抜けている。
「お気遣いいただき、ありがとうございます、ロゼリア嬢。……本当は、少し、人が多すぎて息が詰まっていたところでした」
アイザックは手すりに寄りかかり、小さく息を吐いた。
その横顔は、シャンデリアの下で見せていた時以上にひどく疲弊しきって見えた。
「アイザック様。……あのギフトは、あなたの命を削っているのではないですか?」
ロゼリアが単刀直入に切り出すと、アイザックは少しだけ目を見開き、やがて困ったように笑った。
「お気づきになられましたか。皆、光の美しさにばかり目を奪われて、誰も私の顔色など見てはいないというのに」
「あなたの顔色だけではありませんわ。わたくしの目が、あなたが力を使うたびにひどく不自然な負荷がかかっているのを捉えていました。あのような無茶を続けていれば、いつか必ずお体が壊れてしまいます」
「ああ……そういえば、あなたのギフトは物事の本質を見抜く【慧眼】でしたね」
アイザックは納得したように目を伏せた。
「なるほど。私のつまらない虚勢など、あなたの前では意味をなさないというわけだ」
ロゼリアの真剣な言葉にも、アイザックはどこか他人事のように穏やかな笑みを崩さなかった。
「ロゼリア嬢は、とてもお優しいのですね。ですが、ご心配には及びません。今夜は我がクローデン家にとって、どうしても逃せないイーサン伯爵家との婚姻がかかった場なのです。父が私に期待しているのも、このギフトの力を見せつけて相手を納得させること。……私が少し無理をするだけで家の未来が拓けるのなら、安いものでしょう」
その名を聞き、ロゼリアはわずかに目を見開いた。
イーサン伯爵家といえば、ここ数年で急速に力をつけてきた新興の伯爵家だ。
自ら大規模な商会を経営し、莫大な財力と広い流通網を持つ。
しかもその商会は、極めて健全で誠実な経営を行っていることで有名だった。
そしてイーサン伯爵家には、家を継ぐ予定の一人娘がいるはずだ。
つまり、この婚姻が成立すれば、クローデン侯爵家の次男であるアイザックは、婿としてイーサン伯爵家へ迎え入れられる可能性が高い。
表面だけを見れば、決して悪い縁談には思えなかった。
むしろ名門侯爵家と、莫大な財力を持つ新興伯爵家の、互いの不足を補い合う、理想的な婚姻とさえ言えるだろう。
――だからこそ、ロゼリアには余計に引っかかった。
婚姻のためとはいえ、なぜアイザックだけが、命を削ることを当然のように受け入れなければならないのだろうと。
「そのことを、ご両親にお伝えしたほうが」
「二人とも知っています。それでも、二人の期待に応えることが私の義務なんです」
ロゼリアは深く眉をひそめ、思わずドレスの裾をきつく握りしめた。
彼の言葉は、親の言いなりになっていた過去の自分自身とあまりにも重なりすぎていた。
そして何より、彼ほどの優しくて気遣いができる人間が、自らの命を安いと貶め、他人に削り売ることを許容している事実が、たまらなく口惜しかった。
「他人の余興のために身を削り、家のために自分自身を擦り減らすことが、安いものだとおっしゃるのですか? それでは、アイザック様ご自身の痛みはどうなるのです。……あなたは、ただの便利な道具として扱われることが、嫌ではないのですか?」
ロゼリアは、彼に気づいてほしかった。
かつての自分がバッカスに虐げられていた時、ミアが「そんなのさいてー」と笑い飛ばしてくれたように。
自分を犠牲にする環境が異常なのだと、彼に伝えたかった。
だが――アイザックの口からこぼれたのは、ロゼリアの予想をはるかに超える、重く冷たい言葉だった。
「……嫌、ですか。考えたこともありませんでした」
アイザックのその声には、悲愴感すらなく、ただ凪いだ湖面のように平坦だった。
冷たい夜風が吹き抜け、彼の柔らかな栗色の髪を揺らす。
静まり返ったテラスで、彼はまるで空っぽになった自分の内側を覗き込むように、ひどく乾いた笑いをこぼした。
「私は、このギフトがあったからこそ両親に褒められ、周囲から価値があるのだと認められて生きてきました。家のために身を削るのは、私が『クローデン家の次男』として存在する唯一の理由です」
そして自嘲するように目を伏せ、彼は淡々と事実だけを口にする。
「……もし、家のために使えないのなら、この私に一体何の価値が残るというのでしょうか」
アイザックは、月明かりの下でひどく空虚な目をしていた。
「違います、アイザック様。あなたは……」
ロゼリアは必死に言葉を紡ごうとした。
かつての自分もそうだったと。
家のために感情を殺していたけれど、今は自分の意思で生きようとしているのだと伝えようとした。
しかし、アイザックはロゼリアの言葉を遮るように、静かに、けれど決定的な拒絶の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ロゼリア嬢。あなたが優しい方だと知ることができて、本当に良かった」
「アイザック様……」
「……あなたは運命に流されず、自分の意思で選択しようと足掻くことができる。ですが、私はあなたのように強くはないのです」
「わたくしは、強くなど」
「いいえ、強いです。あなたが長年、あのアルヴェイン公爵令息から理不尽な扱いを受けても、決して屈することなく毅然とした態度を崩さなかったことは、我々貴族の間でも密かに知られていました」
穏やかな瞳で見つめられ、ロゼリアは息を呑む。
「……私は、あなたのその決して折れない強さが、ひどく眩しくて羨ましい」
「っ……」
「すみません。少し、長居しすぎましたね。私は会場に戻ります」
アイザックは優雅に一礼すると、振り返ることなく、光の溢れるホールへと戻っていってしまった。
◆
ロゼリアとアイザックがテラスへと移動したちょうどその頃、ミアとロキは会場の裏手にある厨房の片隅に移動していた。
「んーっ、やっぱり夜会のご飯美味しー」
アイザックのギフト使用を遠巻きに眺めた後、「あ、なんかお腹すいちゃった」と相変わらずのマイペースさで裏へ引っ込んだミアは、誰の目も届かない死角で、参加者たちに提供予定のローストビーフをつまみ食いしていた。
「はい、ロキもあーん」
「……俺は仕事中ですので結構で、んぐっ」
拒否しようとしたロキの口に、ミアが容赦なく厚切りの肉を一枚ねじ込む。
ロキは眉間に皺を寄せ、仕方なくもぐもぐと咀嚼した。
無表情のまま口を動かしているが、その実、内心では高級肉の溢れ出す旨味を密かに噛み締めていた。
それからもミアは、ロキの口に気まぐれに押し込みつつ色んな食事をちょこちょこと口に入れる。
「はぁー、食べた食べた。……っていうかぁ、なんかもう、メイド飽きちゃったー」
デザートまでつまみ食いし終えたところで、ロキのポケットに入っていたハンカチで自身の口元を拭いながら、ミアがあっけらかんとそう言い放った。
「着替えの部屋、どこだっけ? もう十分観察できたし、帰ろっかなぁ」
「本当に気分だけで生きている人ですね、あなたは」
呆れるロキをよそに、ミアはさっさと着替えのために控室の並ぶ廊下へと歩き出した。
「あー、もう足痛ーい。着替えの部屋まで歩くの面倒になっちゃった。私、この辺で待ってるから、ロキが服持ってきて?」
「……できれば俺から離れないでほしいんですが」
「やだぁ、ロキってば寂しがり屋さんー」
「護衛だから言ってるんです」
間髪入れずに訂正したロキは、深々とため息を吐いた。
とはいえ、ミアを人気のない廊下に一人で立たせておくよりは、どこか空いている部屋で待たせた方がまだましだ。
そう判断したロキは、すぐ近くにあった豪奢な扉へと近づいた、まさにその瞬間。
パチン、と何かが弾けるような微かな感覚とともに、それまで静まり返っていたはずの扉の向こうから、突然男の声が聞こえてきた。
「これでアイザックもイーサン家に婿入りが確定だな!」
「この声……クローデン侯爵のものですね。それに彼のギフトは確か【防音】だったはず」
そしてロキが扉のすぐ傍まで近づいたことで、室内に張られていた【防音】の効果が無効化されたようだった。
わざわざ防音の結界を張ってまでコソコソと密談をしていると知れば、ミアが食いつかないはずがない。
「えー、なになに? 絶対面白いやつじゃん!」
途端に足が痛いなどと言っていたことも忘れたように目を輝かせ、ミアは何のためらいもなく扉へぴたりと耳を押し当てた。
「……盗み聞きをする気満々ですね」
呆れたロキの声などまったく気にしない。
室内にいる者たちは【防音】が効いていると信じ切っているのだろう。
声を潜める様子もなく、扉越しでも会話は十分に聞き取れた。
「ですが先ほどの様子を見る限り、リプレイア公爵家のロゼリア様という手もありますわ。公爵家と縁を結べるなら、十分すぎるのではありません?」
妻である侯爵夫人が控えめに尋ねる。
しかし侯爵は鼻で嗤った。
「だが、アイザックの力を最も高く買ってくれるのはイーサン家だ。あの家が経営する商会の莫大な資金と流通網を取り込めば、我が家はさらに大きくなれる」
「でも……あの子に、これ以上無理に力を使わせるのは。それに【共鳴増幅】を持って生まれた者は、力を酷使しすぎて、短命に終わった例も多いのでしょう?」
「だからこそのイーサン家だ」
侯爵は、まるで何でもないことのように言い放った。
「世間では清廉潔白で誠実な商売をする優良商会などともてはやされているが、実態はまるで違う。あの商会は裏で、疲労や痛みを強制的に抑え込み、身体の限界を超えてギフトを使わせるための違法な薬まで開発している」
「まあ……では、アイザックにも?」
「もちろんだ。婚姻が成立すれば、あちらもそのつもりでいる。薬を使えば、本人が倒れようが動けるうちは能力を使わせられるそうだ」
「でも、それでは本当にあの子が壊れてしまうかもしれませんわ」
「使えるうちに使い切ればいい。そもそもアイザックは次男だ。クローデン家を継ぐのは兄の方なのだからな」
吐き捨てるようなその言葉には、自分の息子を一人の人間として案じる気配など微塵もなかった。
侯爵夫人はその言葉に、やがて小さく笑う。
「……そうですわね。あの子自身も、家のお役に立てることを何より喜んでいますもの。きっと分かってくれるでしょう」
「私たちがそうなるようにアイザックを育てたんだ。何も問題はない」
あまりにも冷酷な侯爵夫妻に、扉の外で聞いていたロキの漆黒の瞳が鋭く冷ややかに細められる。
ミアの方は、「へぇー」と小さく声を漏らす。
彼女の瞳には、まるで路傍の醜い虫でも見下ろすような、絶対者特有のひどく無機質で冷ややかな光が宿っていた。
その時、部屋の中から足音が近づいてきたため、二人はとっさに隣の空き部屋の陰へと身を隠した。
やがて扉が開き、クローデン侯爵夫妻が廊下を歩き去っていく。
足音が遠ざかり、完全に気配が消えたのを確認してから、ミアはけらけらと笑って言った。
「わぁ、とんだ毒親だねぇー」
だが、背後に立つロキの顔には一切の表情が抜け落ちていた。
「……反吐が出ますね。親にとって子供は、出来が悪ければゴミのように捨て、出来が良ければ壊れるまで使い潰す。どちらにせよ、ただの便利な所有物でしかないってわけだ」
ロキはかつて、ギフトを持たない無能と見なされ、両親から路地裏へ捨てられた過去を持つ。
才がないからと捨てられた自分と、才があるからと使い潰されるアイザック。
経緯こそ真逆だが、親から一人の人間として見られず、ないがしろにされたという根源的な部分は同じだ。
だからこそ、ロキの漆黒の瞳には、普段の呆れ顔からは想像もつかないほどの暗い怒りと嫌悪が渦巻いていた。
「……売る親も親なら、壊れるまで使うつもりで買うイーサン家も同類ですね」
「あはっ。ロキ、すっごい怖い顔ー」
そんなロキの内心など百も承知だろうに、ミアは笑いながらロキの顔を覗き込む。
「ねえ、ロキ。私、今回はおとなしくしてた方がいいんだよねぇ? 余計なことはしない方がいいんだよねー?」
「…………」
ロキは答えなかった。
「あれぇ? いつもなら『余計なことするな』って、すぐ言うのにー」
「…………」
「答えないってことはぁ……私の好きにしてもいいってこと?」
「…………俺が止めたって、どうせ無駄でしょう」
「ふふっ、ロキってば、私のこと、よく分かってるー。ねえねえ、そういえば今日の招待客にいたよねぇ。嘘か本当か見抜けるギフトを持ってる人」
「……いましたね」
「そうそう、その人! それに宰相さんも来てたよねー?」
「来ていますね。……まさか、あの二人を巻き込むつもりですか」
「えー? まだ何にも言ってないじゃん」
ミアは人差し指を頬へ当て、何やら楽しそうに考え込む。
「でもそっかぁ。嘘を見抜ける人もいて、後始末が得意そうな人もいるんだぁ」
「……嫌な予感しかしません」
「ふふっ、偶然ってすごいねー♡」
ミアはとても楽しそうにそう言うと、無邪気な笑顔のまま、獲物を見つけた猫のようにゆっくりと目を細めた。
◆
アイザックが光の溢れるホールへと戻っていったあと、一人残された夜のテラスで、ロゼリアは冷たい手すりを強く握りしめていた。
長年かけて親に植え付けられ、彼自身の心を縛り付けている強固な鎖。
それは、今日出会ったばかりのロゼリアがいくら言葉を尽くしたところで、到底解けるようなものではない。
彼を救うためには、その鎖を無理やりにでも壊すしかないのだろう。
――あの時の、ミアのように。
けれど、どうすればいいのだろう。
「あれれー? ロゼリア様、お困りごとー?」
と、背後から甘い声が聞こえてきたので振り返る。
いつの間にかテラスの入り口にミアが立っていた。
その後ろには、同じく給仕の服のまま深くため息をついているロキの姿もある。
「なんかすごい怖い顔してましたけど、アイザック様のことですかぁ?」
自分の思考を完璧に読み当てたかのようなタイミングに、ロゼリアは一瞬たじろいだ。
しかし、当のミアは普段とまったく変わらない、ニコニコとした能天気な笑顔を浮かべている。
ミアの真っ直ぐな問いに、ロゼリアは躊躇いながらも頷いた。
「……はい。アイザック様のご両親は、彼に無茶をさせて、強引にイーサン家との婚約を結ばせようとしています。でも、彼自身がそれを『当然だ』と受け入れてしまっていて……わたくしには、どうすることも」
「あー、やっぱり?」
ミアはロキを連れてロゼリアの近くまで歩み寄ると、声を潜めた。
「私とロキもさっき、侯爵様の密談を聞いてたんですけどぉ――」
そしてミアが先ほど盗み聞きした内容を、ロゼリアへと話す。
「――っていうことらしいんだよねー」
「そんな……」
全てを聞き終えたロゼリアの頭の中が真っ白になる。
愕然とするロゼリアを前に、ミアは目を三日月の形に細めてにぃっと笑った。
「両親も、イーサン家も、どっちもほんっとーに救いようがないくらいに、さいてーだよねぇ」
愛らしいはずのその笑顔に、ロゼリアは本能的な恐怖を覚えて背筋がぞくっと粟立つのを感じた。
「ねえ、ロゼリア様。もしロゼリア様が望むなら……アイザック様を縛ってるもの、私がまとめてぜーんぶ、跡形もなくぶっ壊すの手伝ってあげよっかぁ?」
「そ、れは……」
ロゼリアは言葉を詰まらせる。
確かに、このままアイザックが使い潰されるのを見過ごすことなんてできない。
「でも、助けてと言われたわけでは……」
完全に運命を諦め、受け入れている彼に対して、強引に手を差し伸べることは、ただの傲慢で、余計なおせっかいではないのだろうか。
ぐるぐると答えの出ない迷路に囚われ、俯きそうになるロゼリア。
と、手すりに背を預けていたロキが、不意に口を開いた。
「……別に、いいんじゃないですか」
「え……?」
思いがけない人物からの言葉に、ロゼリアは目を瞬かせた。
「俺だって、この人に助けてくれなんて頼んだ覚えはありませんよ。捨てられていたところを見つけられて、『面白いから連れて帰る』とかいう、とんでもなく身勝手な理由で勝手に拾われただけです」
「ちょっとぉ。『気に入ったから』だよー」
「どっちでも大して変わりません」
ミアが不満そうに口を挟むが、ロキは一蹴した。
「少なくとも当時の俺は、この人に人生を変えてほしいなんて頼んでいません。でも……」
そこでロキは、ミアへちらりと視線を向ける。
「あのまま路地裏にいた頃より、今の方がずっとましです」
「ロキぃー、そこは『幸せです』って言ってよー」
「あんたが調子に乗るので嫌です」
いつもの調子で言い合う二人を、ロゼリアは呆然と見つめる。
やがてロキは再びロゼリアへ視線を戻した。
「助けること自体がお節介でもいいんじゃないですか。ただ、そのあとどうするかまで、こっちが勝手に決めなければ」
「そのあと……」
その言葉が、ロゼリアの胸へすとんと落ちた。
そうだ。
自分がアイザックの人生を決める必要などない。
彼を縛り付けているものを取り除いたあとで、改めて彼自身に選んでもらえばいいのだ。
思えば、あの日の自分もそうだった。
バッカスに大勢の前で理不尽に糾弾されていた時、ロゼリアは誰かに助けを求めようなどとは思っていなかった。
そもそも、誰かが自分を助けてくれるという考えすら、微塵も浮かばなかったのだ。
だが、あの時ミアは、ロゼリアの事情や建前など一切おかまいなしに、自分の気まぐれと『気に食わないから』という身勝手な理由だけで割って入った。
その自分勝手な行動が――結果として、ロゼリアを縛っていた重い鎖を跡形もなく砕いてくれたのだ。
なら、今度は自分がそうする番だ。
迷いは消えた。
ロゼリアは顔を上げ、かつてなく強い光を宿した瞳で、規格外の少女を真っ直ぐに見据えた。
「ミアさん」
「なーに?」
「……私、彼をあのままにしておくのは、絶対に嫌です」
「うんうん」
「ですから……どうか手伝っていただけますか?」
ロゼリアの明確な意志表示を聞いて、ミアは無邪気で、残酷で、この上なく楽しそうな笑みを浮かべた。
「――あはっ♡ もちろん、このミアちゃんに任せて!」
◆
ホールの中央では、今まさに今夜のメインイベントが始まろうとしていた。
豪奢なシャンデリアの真下、大勢の貴族たちの注目を集める特等席に、クローデン侯爵と、イーサン伯爵が並んで立っている。
「皆様、今宵はこの場をお借りして、我がクローデン家より喜ばしいご報告がございます!」
侯爵の声が高らかにホールに響き渡ったと同時に、参加者の目が一斉にそちらへと向く。
「我が次男アイザックと、ここにいるイーサン伯爵家の令嬢リンダとの婚約が、今夜正式に結ばれることとなりました!」
その発表に、会場中が湧きたつ。
祝福の声が飛び交う中、芝居がかった手振りで侯爵がアイザックを前へ呼び寄せた。
アイザックの顔色は幾分マシにはなっているものの、依然としてどこか青白い。。
そんな彼の隣には、一人の令嬢が立っていた。
イーサン伯爵家の一人娘、リンダである。
父親から促されるまま、婚約者となるアイザックの横で慎ましく微笑んではいるものの、どこか緊張しているようにも見えた。
少なくともその姿からは、父イーサンが裏で何を企んでいるのか知っている様子は窺えない。
アイザックは虚ろな瞳で、父親に命じられるがままリンダの隣へ並んだ。
「それでは皆様、若き二人の門出を祝して、乾杯を――!」
侯爵が高らかにそう告げる。
その合図を待っていた給仕たちが、祝杯用のグラスを載せた銀のトレイを手に参加者たちに飲み物を配って回る。
その中に、一人だけやけに楽しそうな笑顔を浮かべた、小柄な給仕が混じっていた。
彼女はごく自然な所作でクローデン侯爵とイーサン伯爵の間へ進み出ると、二人がトレイからグラスを取ろうと身を寄せた一瞬――甘ったるい声で囁きを落とした。
「【この婚約と、悪いことして隠してる秘密をぜーんぶ大声で喋ってねぇ】」
その、直後だった。
――侯爵の口が、彼自身の意思とは全く無関係に、大きく開いた。
「いやぁ、笑いが止まらん! 跡継ぎでもない次男が、これほどの高値で売れるとはな!」
それは、ホール全体に響き渡るような大声だった。
アイザックも、周囲の貴族たちも、何が起きたのか分からず目を丸くした。
「ち、違うっ、私はいったい何を……ひぃっ、口が、勝手にぃっ!」
侯爵は顔を真っ青にして必死に自分の口を両手で塞ごうとした。
けれど侯爵の口は指の隙間をこじ開けるようにして、勝手に言葉を紡ぎ続けたのである。
「多少体調を崩そうが知ったことか! あいつの【共鳴増幅】我がクローデン家をのし上げるための、ただの便利な道具なのだからな!」」
あまりにもおぞましい本音の暴露に、会場中がしんと静まり返る。
「あなた!? いったい何をおっしゃっているの!?」
クローデン侯爵夫人が真っ青になって夫の腕へ縋りつく。
必死に制止するが、侯爵の口は止まらない。
だが、暴走はそれだけでは終わらない。
隣にいたイーサン伯爵もまた、自分の喉を掻き毟りながら絶叫し始めたのだ。
「そ、その通りだ! 優良商会は表向きの顔……我が商会では、ギフト保持者を限界以上に働かせるための違法な薬を秘密裏に開発している! アイザックが婿入りした暁には、そいつを投与して【共鳴増幅】を限界まで使わせてやるつもりだぁぁぁ!」
「や、やめろぉ! 何も言うなお前!」
「なんだこれは! これ以上何も喋るな私の口ぃぃっ!!」
二人の男は、白目を剥きんばかりの形相で自身の口元を押さえつけながら、ホールの中心で見苦しくのたうち回った。
だが、まだまだ暴露は止まらない。
「イーサン家からは、婚姻と引き換えに莫大な資金援助を受ける手はずになっている! その金で派閥を広げ、ゆくゆくは現宰相の座を奪い取ってやるのだ! だから今は、あの頭の固くて苛つく宰相の言うことを聞いて、媚びへつらってやっているのさ!!」
「私とて、不都合な裏帳簿は執務室の本棚の奥に作った隠し部屋にすべて隠蔽しているわ!! あっはっはっは!」
他にもクローデン侯爵家がここ数年、領地収入の一部を意図的に帳簿から外し、王家への納税額を過少申告していたり、領民からは王国が定めた税率を超える額を徴収し、その差額を侯爵夫妻が私的に着服していたり。
涙と鼻水を撒き散らしながら、狂ったように大声で自らの罪を暴露し続ける侯爵とイーサン。
「や、やめて! お願いだから、もう何も言わないで!」
侯爵夫人が悲鳴を上げるが、すでに会場中の貴族たちの耳に届いてしまった言葉を、今さらなかったことにできるはずもない。
そのあまりにも異様で狂気じみた光景に、周囲の貴族たちは完全に言葉を失っていた。
そして招待客の一人として夜会に参加していた現宰相もまた、人垣を掻き分けるようにして前へと進み出た。
最初こそ何が起きているのか測りかねていた宰相だったが、二人の口から言葉が飛び出すにつれ、その顔から表情が消えていった。
「……随分と、興味深い話をしてくれるではないか」
低く冷え切った宰相の声に、周囲の空気が一段と凍りつく。
向けられる無数の侮蔑の視線が彼らに突き刺さる。
それまで築き上げてきたクローデン侯爵家とイーサン伯爵家の信用が、音を立てて崩れ始めていた。
「父、上……?」
その中心に取り残されたアイザックは、実の親の口から吐き出された醜悪極まりない真実を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできずにいた。
やがて、隠していた秘密をひとしきり吐き出したところで、二人の口が不意にぴたりと閉じた。
「…………っ!」
クローデン侯爵は何度か自分の口を開閉し、ようやく自分の意思で舌を動かせることに気づく。
先ほどまで二人を完全に支配していた何かが、消えていた。
その瞬間――。
「ち、違う!」
我に返ったクローデン侯爵は、青ざめた顔で周囲の貴族たち――とりわけ宰相へ向かって必死に弁解を始めた。
「今のは私の本心ではありません! 誰かが私にギフトを使い、ありもしないことを無理やり喋らせたのです。これは、卑劣な罠だ!」
「そ、そうだ! 我々を陥れるためのデタラメだ!」
自由を取り戻した途端、先ほどまで自らの口で暴露していた内容を必死になって否定し始める二人。
確かに、彼らが何者かのギフトによって強制的に喋らされていたことだけは、この場にいた誰の目にも明らかだった。
ならば、先ほど語られた内容そのものも、何者かによって植え付けられた虚偽だったのではないかという疑念が、ざわめく会場に広がり始める。
けれど、凛とした声が会場中に響き渡る。
「いいえ。お二人の口から出た言葉は、決して嘘などではありませんわ」
そう言いながら、群衆の中から一人の令嬢が前へと躍り出た。
「ロゼリア嬢……?」
アイザックが驚きに目を丸くする。
宰相もまた、突然前へ出てきたロゼリアへ鋭い視線を向けた。
「ふむ、今の発言が嘘ではないと言い切る以上、何か根拠があるのだな?」
「はい」
ロゼリアは堂々と頷いた。
「まず、わたくしの持つ【慧眼】のギフトにより、お二人が先ほど、何者かの強力なギフトによって強制的に口を動かされていたのは間違いありません。それが誰の、どのようなギフトによるものかまでは分かりませんが……」
その言葉を聞きながら、宰相は何気なく会場を見渡し――ぴたりと、その視線が止まる。
招待客たちの人垣から少し離れた場所に、一人の小柄なメイドが立っていた。
いつもとは違う髪型で、化粧によって多少顔立ちまで変えられているが、その程度で見間違えるほど、宰相は彼女との付き合いが浅くなかった。
少女はにこにこと楽しそうな笑みを浮かべながら、真正面から宰相を見ている。
そして自分と目が合ったことに気づくと、ひらひらと小さく手まで振った。
「な――」
思わず声が漏れかけ、宰相は慌てて口を閉じた。
間違いない。
あれは、病弱ゆえに滅多に人前へ姿を現さないことになっている、この大皇国の第二皇女――エミリア殿下だ。
しかも、そのすぐ後ろには給仕姿のロキまでいる。
皇女の本当のギフトも、彼女が世間で噂されているような病弱な姫君ではないことも、ロキとの関係も、宰相はすべて知っている。
そして、先ほど侯爵たちが自分の意思に反して次々と秘密を暴露した異様な光景と、今こうしてロゼリアがわざわざ前へ出てきたこと。
以前彼女の元婚約者バッカスが起こした騒動にも、この皇女が深く関わっていたと聞いている。
ここまで揃えば、答えなど一つしかなかった。
――エミリア皇女殿下が、裏で糸を引いている。
あの二人の異様な自白も、間違いなく【絶対服従】によるものだ。
だがここで第二皇女の存在が知られれば、それこそ夜会どころの騒ぎではなくなる。
宰相は内心の激しい動揺を必死に押し隠すと、わざとらしく一つ咳払いをした。
「……ごほん。ギフトの出処については、私にも少々心当たりがある。その点については今は問題にしなくていい。それよりも重要なのは、彼らが先ほど語った内容が事実であるかどうかだ。続けてくれ」
「はい。――そこでわたくしは、証明のためにある方にご協力をお願いしております。高等裁判所の長官を務められている、ヴァルグ伯爵です」
ロゼリアに呼ばれ、群衆の中から一人の厳格そうな初老の貴族が進み出る。
その顔を見て、宰相もすぐに得心した。
彼は高等裁判所の長官として長年司法に携わってきた貴族である。
そして彼が有するギフトは確か――。
「ご紹介にあずかりました、ヴァルグです」
伯爵は厳格な表情のまま一礼すると、クローデン侯爵とイーサン伯爵へ視線を向けた。
「私のギフト【真偽の天秤】は、私自身が問いを投げかけ、それに対して返された答えが真実か虚偽かを判別するものです」
説明を聞き、クローデン侯爵の顔からさっと血の気が引いた。
だがそれに構わず、ヴァルグ伯爵はまず、クローデン侯爵へ問いかける。
「クローデン侯爵。先ほどあなたは、息子アイザック殿をイーサン伯爵家へ婿入りさせる見返りとして、莫大な資金援助を受ける約束をしていると発言した。それは事実ですか?」
「ち、違う! あれは何者かに言わされたデタラメだ!」
瞬間、ヴァルグ伯爵の前に、淡い光で形作られた天秤が浮かび上がったかと思うと、二つの皿が大きく揺れ、やがて片側へ勢いよく傾く。
同時にヴァルグ伯爵の目が冷たく細められた。
「――虚偽です」
「なっ……!」
「では、イーサン伯爵。あなたの商会では、ギフト保持者を限界以上に働かせるための違法薬を秘密裏に開発していますか?」
「していない! そんなものは存在しない!」
再び天秤が揺れ、同じ側へと傾いた。
「こちらも虚偽」
「そ、そんな……!」
ヴァルグ伯爵はさらにいくつか、先ほど二人が暴露した内容について具体的な問いを重ねていった。
だが、そのたびに二人の必死の否定は【真偽の天秤】によって、ことごとく『虚偽』と判定されていく。
全ての質問を終えると、最後に、ヴァルグ伯爵は宰相へと向き直った。
「宰相閣下。確認は十分でしょう。少なくとも先ほどこの二人が口にした主要な内容について、今の否定はすべて虚偽と判定されました」
つまり、強制的に喋らされていたこと自体は事実でも、その口から飛び出した秘密は本物だったということだ。
「いや、あ、ああ……」
アイザックの隣に立っていたリンダの顔からさっと血の気が引き、小さな悲鳴を上げる。
父親が裏で行っていたことも、自分との婚姻にアイザックを使い潰す目的があったことも、何ひとつ知らされていなかったのだろう。
「お父、様……そんな……」
か細い声を漏らした直後、リンダの身体がぐらりと傾く。
近くにいた令嬢たちが慌てて抱き止めたことで床へ倒れることこそなかったものの、彼女はそのまま意識を失ってしまった。
「くそっ……!」
その混乱を好機と見たのか、最初に動いたのはイーサン伯爵だった。
人垣を乱暴に押し退けると、突然会場の出口へ向かって駆け出す。
「ま、待て! 私も行くぞ!」
クローデン侯爵もそれに続き、侯爵夫人まで顔面蒼白のままドレスの裾を持ち上げて逃げ出した。
「逃がすな! 追え!」
宰相の鋭い命令が飛ぶ。
すぐさま複数の騎士が三人を追ってホールから飛び出し、一瞬にして会場はさらなる混乱へ包まれた。
――そして宰相は、その騒ぎの中でもう二つ、するりと会場から消えていく人影を見逃さなかった。
楽しそうに頬を緩めながら逃げた三人のあとを追っていく、見覚えがありすぎるメイド。
その少し後ろを、深々とため息を吐きながらついていく給仕姿の青年。
「…………」
宰相の頬を、一筋の冷や汗が伝った。
……騎士たちよ、どうか、殿下より先に追いついてくれという思いで、宰相はドアの向こうへ視線を向ける。
なぜなら、もし間に合わなかった場合、三人が騎士団に捕まるより先に何が起こるのか――あまり想像したくなかったからである。
さて、嵐のような騒動が去り、なおざわめきの収まらないホールの片隅。
そこには、突然すべてを失い、呆然とその場にへたり込むアイザックの姿が残されていた。
ロゼリアは静かに彼に歩み寄り、そっと声をかけた。
「アイザック様……大丈夫ですか」
見上げられたアイザックの青灰色の瞳には、かつてないほどの混乱と、微かな不信感が入り混じっていた。
「……ロゼリア嬢。どうして、こんなことをしたのですか?」
ロゼリアはすぐには答えなかった。
するとアイザックは、答えを求めるというよりも、自分自身の中を整理するように、ぽつぽつと言葉を続けた。
「父上が……私を家のための道具として見ていることくらい、分かっていたつもりです」
自嘲するような笑みが、わずかに唇へ浮かぶ。
「だからこそ、私もそれに応えなければならないと思っていました。けれど……まさか、本当に私の身体が壊れることも、命が縮むことも、すべて承知のうえだったとは……」
その声が、ほんの少しだけ震えた。
「ですが……私はあなたに助けてほしいなどと、一度もお願いした覚えはありません。今日出会ったばかりのあなたには、何の関係もないことのはずだ」
彼は怒っているわけではなかった。
ただ、なぜ彼女が何の見返りも求めずにここまでしたのか、その理由が純粋に分からなかったのだ。
その問いに、ロゼリアは少しだけ困ったように微笑み、けれど毅然とした声で答えた。
「そうですわね。これは完全に、わたくしの身勝手なエゴですわ」
「エゴ……?」
「あなたは、少し前のわたくしと同じでした。家のために自分を殺し、縛られていることにすら疑問を持てなくなっていた。だから……わたくし自身が、あなたをそこから解放したかったのです」
「っ、そんなの、余計なお世話で――」
「ええ。余計なお世話ですわ」
ロゼリアはあっさりと認めた。
「そうですわね、私はあなたの了承もなしに、私の助けたいという想いのみで勝手に動きました。そこについては、いくらでも怒ってくださって構いませんわ」
そう言った後、ロゼリアはまっすぐにアイザックを見つめる。
「ですが、助けるだけ助けて、あとは知りませんと言うつもりもありません。もし今回のことで、あなたが今夜帰る場所さえ失ってしまうのなら、安全に休める場所は私が責任を持って用意します。お身体についても、きちんと医師に診ていただきましょう」
「…………」
「けれど、その先を私が勝手に決めるつもりはありません。これからクローデン家へ戻るのか、別の場所で生きるのか、それとも、まったく違う道を選ぶのか。それを決めるのは、私でも、お父上でもありません」
ロゼリアはゆっくりと言葉を区切った。
「アイザック様、あなたですわ」
「っ…………」
アイザックの瞳が、大きく揺れた。
それはまるでかつてのミアのように、あまりにも身勝手で――けれど最後まで責任を放り出さない、ロゼリアなりの答えだった。
その言葉を聞いたアイザックは、しばらく何も言わなかった。
親の命令でも、家の利益でもなく、ただ彼女自身の意思だけで、自分のために動いてくれた人間など、彼の人生でただの一人もいなかったからだ。
やがて、アイザックはゆっくりと立ち上がる。
その表情からは先ほどまでの完璧な貴公子の仮面が少しだけ剥がれ落ち、年相応の、ひどく不器用で複雑な笑みが浮かんでいた。
「……本当に、ひどいお節介ですね」
「申し訳ありません」
「ですが……」
アイザックは何かを言おうとして、一度口を閉ざす。
そしてほんの少し迷ったあと、ぽつりと呟いた。
「……生まれて初めて、ちゃんと息ができた気がします。ありがとう」
その言葉だけを残し、アイザックは静かにその場を離れていった。
彼を縛っていた鎖は、まだ完全に消えたわけではない。
けれど少なくとも今、その鎖には初めて、小さな亀裂が走っていた。
◆
喧騒から逃れるように、クローデン侯爵邸の壁の内側に設けられた細く薄暗い隠し通路を、三つの影が転がるように駆けていた。
クローデン侯爵夫妻と、イーサン伯爵である。
「くそっ、くそぉぉっ、なんだってあんなことに……!」
「あなたのせいですぞ侯爵! あんな場所で大見得を切るからこんなことに……私はもう終わりだ!」
「私まで巻き込んで……ああ、早くしないと騎士団が来てしまうわ!」
三人は互いに責任をなすりつけ合いながら、ひたすら先を急いだ。
この通路は、クローデン侯爵家でも当主夫妻と、ごく一部の古参使用人しか存在を知らない非常用の抜け道だ。
ここまで来れば、さすがにすぐ追っ手が回ることはない。
少なくとも、三人はそう信じていた。
やがて三人は通路の終端へ辿り着き、裏庭へと続く重い扉を押し開けた。
だが――月明かりだけが頼りの薄暗い裏庭には、すでに二つの影が立ち塞がっていた。
「ふふっ、遅かったですねー」
そこに立っていたのは、給仕服姿の可憐な少女と、そのすぐ傍らに控える無表情な青年だった。
当然ながら三人は知らない。
つい先ほどミアが、侯爵家の古参執事を捕まえて、
「【ご主人様たちが逃げる時に使いそうな道、教えて♡】」
と尋ね、隠し通路の出口をあっさり聞き出していたことなど。
「どけっ、平民の給仕ごときが。私が誰だか分かっているのか、さっさと道を開けんか!」
完全に余裕を失っていたイーサンが、血走った目で怒鳴り散らす。
「邪魔だ、女ぁッ!」
その瞬間、イーサンの腕が霞んだ。
彼のギフト【瞬発】――自身の動作を、ほんの一瞬だけ爆発的に加速させる力である。
常人の目では捉えることすらできない速度で放たれたナイフが、一直線にミアの顔へ迫る。
ギフトで加速された腕から放たれた後は、ただの高速で飛ぶナイフである。
ロキの【無効化】ではどうすることもできない。
「――っ!」
ロキが即座にミアの身体を抱き寄せるが、ほんのわずかに間に合わなかった。
鋭い刃先が、ミアの白い頬をほんのわずかに掠めて後方の壁に突き刺さる。
「わぁー」
場にそぐわないミアの間延びした声が響く。
痛みを感じる間もないほどの本当に小さな傷だが、ミアの頬から一筋、赤い血の雫がこぼれ落ちた。
――その瞬間だった。
イーサンが瞬きをするより早く、空間を跳躍したかのような速度で眼前へ現れたロキが、その身体を容赦なく蹴り飛ばした。
「ご、がァッ!?」
イーサンの身体が地面を転がり、壁際へと叩きつけられる。
悲鳴を上げて腰を抜かした侯爵夫妻には目もくれず、ロキはすぐさまイーサンへ歩み寄ると、その喉元を掴んで壁へ押しつけた。
普段の呆れ顔や無表情など見る影もない。
一切の光を宿さない漆黒の瞳からは、完全に理性が抜け落ちていた。
「あれ、ロキー?」
後ろからとてとてとやってきたミアの声にも反応しない。
そっとロキの顔を確認すると……。
「あ。やばーい。目がいっちゃってるー」
ミアは困ったように頬へ指を当てた。
このままでは本当にロキがイーサン伯爵を亡き者にしてしまう。
伯爵の心配をしている……のではなく、このような男のためにロキが手を汚すことの方が嫌だったミアは、彼の腕をトントンと叩く。
「ロキ、もういいよー。私のこれ、ほんとにかすり傷だから。手、離してー」
「…………」
聞こえていないのか、ぴくりとも止まらない。
「んー……」
ミアは少し考える。
この世でただ一人、ロキにだけは彼女の【絶対服従】が通じない以上、命令して止めるという方法は使えない。
そして数秒悩んだ末――。
「よしっ。必殺、ぎゅー♡」
ミアは背後からロキの腰へ両腕を回し、ぎゅうっと抱きついた。
と、初めてロキの身体が硬直した。
「…………!?」
「ロキ。私は大丈夫だから。ね、もう離して?」
それから数秒の沈黙の後、やがて――ロキの指が、ゆっくりと開いた。
ゲホッ、と咳き込みながら崩れ落ちるイーサン伯爵を一瞥もせず、ロキは即座に腰に回された腕を解くと振り返ると、真っ先にミアの頬へ視線を向けた。
ほんのわずかな赤い傷を見た途端、先ほどまで殺気に染まっていた顔が、今度は痛々しいほどに歪む。
「……申し訳ありません」
ロキは低く掠れた声でそう言うと、ハンカチでそっとミアの頬の血を拭う。
「俺がついていながら……」
「んもー、大げさだなぁ。これくらい、かすり傷じゃん。怒ってないよー」
「ですが――」
「ロキ」
ミアはにっこり笑って、その言葉を止めた。
「私がいいって言ってるの」
「…………」
ロキはしばらく何も言わず、やがて悔しそうに目を伏せた。
そんな彼を見てから、次に恐怖に震える三人の罪人たちへと視線を向けた。
「でもさ。……私の可愛いロキにこんな悲しい顔をさせて、おまけに私の顔に傷までつけた罪は……ねぇ?」
ミアは這いずる彼らを見下ろし、極上の笑みを浮かべて宣告する。
「ひ、ぃぃっ! いや、いやぁっ!」
恐怖に目を剥く三人の前へ、ミアは鼻歌交じりの軽い足取りで歩み寄ると、月明かりの下で愛らしく首を傾げた。
それが逆に三人の恐怖をさらに煽る。
侯爵たちは本能で悟った。
目の前にいるのは、ただのメイドなどではない。
人間の皮を被った、得体の知れない恐ろしいバケモノなのだと。
「でも本当に殺すのはなぁ……。うーん、そうだなぁ。あ、じゃあ、私が特別に教えてあげる。……あなたたちがアイザック様にやろうとしていたことが、どれだけ痛くて、苦しくて、怖いことなのか」
ミアはしゃがみ込み、彼らの耳元で、この上なく甘く囁いた。
「【自分たちがアイザック様にしようとしていたことを、今からぜーんぶ自分がされるところに置き換えて想像してね。どれだけ痛いか、怖いか、苦しいかも、絶対に目を逸らさず最後まで想像して?】」
「――――っ!?」
三人の身体が同時に大きく震えた。
【絶対服従】によって強制されたのは、現実には存在しない痛みそのものではない。
自分たちがアイザックへしようとしていたことを、一切の逃避も言い訳も許されないまま、自分自身がされる側として克明に思い描くこと。
動けなくなるまでギフトを使わされる。
身体が悲鳴を上げても、違法な薬で無理やり意識を繋ぎ止められる。
倒れても、もう使えないと判断されるその瞬間まで、ただ利益を生むための道具として扱われ続ける。
そして何より――自分が壊れようが死のうが、誰一人として気にも留めてくれない。
それは彼ら自身が、アイザックに与えようとしていた未来そのものだった。
「ひっ……あ、ああ……!」
クローデン侯爵の顔から血の気が失せる。
イーサンは震える両腕で自分の身体を抱き締め、侯爵夫人もまた、何かから逃げるように何度も首を横に振った。
けれど、逃げることはできない。
目を閉じても、耳を塞いでも、自分たちが作り出した地獄だけは、鮮明に頭の中へ浮かび続ける。
「いやだ……やめろ……そんなの、耐えられるわけが……!」
「だ、誰か……助け……」
ミアはそんな三人をしばらく見下ろしていた。
そして――。
「はい、おしまーい」
ミアがそう言った直後、三人を縛っていた命令が解けた。
実際には数十秒ほどしか経っていない。
けれど彼らにとっては、自分たちが用意していた地獄を何時間も味わわされたかのような恐怖だったのだろう。
ミアはぐったりとした三人の前で、にっこりと笑った。
「どうだったぁ? 自分がされる側になる立場は」
「…………っ」
恐怖で体を震わせ、荒く息を吐き続けている三人は、誰一人として答えられない。
彼らの反応など初めから期待していなかったように、ミアは一人で喋り続ける。
「安心してね。私はあなたたちと違って、壊れるまでやったりしないから。だけどこのまま逃がすつもりもないよー。ってなわけで、【騎士さんたちが来るまで、三人仲良くそこで正座して待っててね。逃げちゃダメだよ♡】」
ミアがそう言い終わると同時に、くたりと力が抜けていたクローデン侯爵夫妻とイーサンの身体が、自分たちの意思とは無関係にむくりと起き上がった。
そして三人揃って、石畳の上にぴしりと正座する。
まだ恐怖が抜けないためか、青ざめた顔のまま三人が仲良く正座している姿を見て、ミアは満足そうに頷いた。
「よしっ。これでお仕事終了ー!」
それから彼らに【自分たちのことはきれいさっぱり忘れるように】と命じ終わると、くるりと踵を返す。
後ろで一部始終を眺めていたロキが、これ見よがしに深いため息をついた。
「……随分と手加減しましたね」
「えー? 十分怖い思いさせたじゃん」
「あなたなら本当に廃人になるまでやりかねないと思っていましたので」
「失礼だなぁ」
ミアは頬を膨らませる。
「壊しちゃったら裁判できないでしょー? 悪いことしたんだから、ちゃんと牢屋に入って罪を償ってもらわないと」
「……そういうところだけ妙に常識的なんですね」
「どういう意味ぃ?」
ミアは不満そうに唇を尖らせたが、すぐに機嫌を直したように笑顔になると、うーんと背伸びをする。
「さーて、あとはロゼリア様とアイザック様が良い感じになってくれるのを祈るだけだねー。帰ろ帰ろ!」
無邪気に手を振って歩き出す主の背中を追いかけながら、ロキは、足元に正座させられたまま未だに青ざめて震えているままの三人へ、ひどく冷ややかな一瞥を投げた。
「……あれを敵に回した時点で、あなた方の運の尽きでしたね。せめてこれからは、自分が他人に与えようとした苦痛を忘れずに、牢獄の中で反省することです」
静かにそう言い残し、ミアのあとを追って闇の中へと姿を消していく。
後に残されたのは、逃げることも立ち上がることもできず、石畳の上で仲良く正座させられた三人の罪人たち。
そして――。
「こっちだ! 裏庭にいるぞ!」
遠くから急速に近づいてくる騎士団の足音だった。
◆
昼下がりのリプレイア公爵邸の中庭では、色とりどりの花が咲き誇り、柔らかな日差しの下で二人の男女が向かい合ってお茶を楽しんでいた。
一人は、この家の令嬢であるロゼリア。
そしてもう一人は――クローデン侯爵家の次男、アイザックである。
「ねえねえ、そういえばあの二人、まだ婚約してないんだってー」
そんな二人の様子を、少し離れた植え込みの陰からこっそり覗き込んでいる人影があった。
公爵家の庭師が身につける作業着に身を包み、大きな麦わら帽子まで被ったミアである。
隣では、同じく庭師に扮したロキが、剪定バサミを片手に深々とため息を吐いていた。
「当たり前でしょう。あの騒動からまだ数週間ですよ」
「えー。でも何日かおきにはこうやって会ってるんでしょ?」
「らしいですね。アイザック様の方から訪ねてきているそうですが」
「へぇー」
ミアはにんまりと笑い、楽しそうに二人を眺める。
――あの夜から、状況は大きく変わった。
クローデン侯爵家は取り潰しこそ免れたものの、当主は爵位を剥奪され、後継者である長男へと家督が移された。
幸い、長男は父親たちの企みには一切関与しておらず、むしろ捜査にも全面的に協力したことで家そのものの存続だけは認められたらしい。
とはいえ、地に落ちた信用が簡単に戻るはずもない。
現在、クローデン家は領内の不正や取引を徹底的に洗い直し、家の立て直しに奔走している。
そして――。
「アイザック様、お兄さんを手伝うことにしたんだよね?」
「ええ。誰かに命じられたわけでもなく、本人がそうすると決めたそうです」
ロキの言葉に、ミアは少しだけ目を細めた。
以前のアイザックなら、『クローデン家のためだから』というだけで、自分が壊れるまで働いただろう。
だが今は、自分が生まれ育った家を、今度こそまともな家にしたいと考え、自分自身でその道を選んだのだ。
庭園の向こうでは、ロゼリアの言葉にアイザックが、心の底から楽しそうに笑っている。
「なんだか、前よりいい顔するようになったねぇ」
「そうですね」
そしてイーサン家の方はと言うと、こちらも爵位は剥奪、商会も解体された。
裏帳簿から余罪が山ほど出てきたそうだ。
騎士団に連行されたクローデン侯爵夫妻とイーサン伯爵は、その後正式な裁判にかけられた。
余罪まで含めて大量の犯罪行為が認定され、三人には重い刑罰が下された。
「確か、国境の要塞で終身労役だっけ?」
「ええ」
「つまり死ぬまで働くんだー」
「まあ、因果応報というものでしょう」
「だよねー」
あとは、イーサン家の一人娘だったリンダ。
彼女は父親の犯罪には一切関与していなかったため、罪に問われることはなかった。
ただし伯爵家そのものがなくなったことで、当然ながら彼女も貴族令嬢ではなくなった。
「でもリンダ様って、今ごろ外国なんだよね?」
「そう聞いています」
「前から好きだった外国商人の人と一緒に行っちゃったんだってー。よかったよねぇ」
実はリンダにも、父親には隠していた想い人がいたらしい。
外国から商売のために訪れていた若い商人で、身分の違いから結ばれることを諦め、父親の決めたアイザックとの婚姻を受け入れようとしていた。
だが伯爵家という枷がなくなったことで、彼女もまた最後には自分の意思で、愛する相手についていく道を選んだという。
――もっとも、ミアはその事実をずっと前から知っていた。
あの夜、イーサン家の裏事情を探るために【絶対服従】であれこれ聞き出した際、ついでのようにリンダの想い人についてまで耳にしていたのである。
当然、その場にいたロキも知っていた。
「みーんな好き勝手に生きるようになっちゃったねー」
「その筆頭が何を言っているんですか」
ロキは呆れたように眉を寄せる。
「そういえば宰相閣下が言っていましたよ。あの夜会であなたの姿を見つけた瞬間、本気で肝が冷えて寿命が縮んだ気がした、と」
「えへへ」
「褒めてません」
悪びれもせず笑ったミアは、再び植え込みの向こうへ目を向けた。
と、ちょうどアイザックが何かを言い、ロゼリアが頬を赤くして笑っているところだった。
「あっ! 今、絶対なんか言った! なになに、何言ったのかなぁ!?」
途端に目を輝かせたミアが、もっとよく聞こうと植え込みからぐいっと身を乗り出す。
「ちょっと、ミア――」
ガサッと、止めようとしたロキの腕が枝に引っかかり、思った以上に大きな音が庭園へ響いた。
「あら?」
中庭のロゼリアが、ふとこちらへ顔を向け、ミアとロキの動きが同時に止まる。
アイザックの位置からは植え込みしか見えない。
けれど、少し角度の違う場所に座っていたロゼリアの目には、葉の隙間から覗く大きな麦わら帽子と、その下の見覚えがありすぎる二つの顔が、はっきりと見えていた。
「…………」
ロゼリアの目が大きく見開かれ、数秒後、彼女はにっこりと微笑んだ。
ただし、その笑顔のまま二人を見据える瞳は、まったく笑っていなかった。
「ロゼリア嬢?」
不思議そうに首を傾げるアイザックへ、ロゼリアは笑顔のまま振り返る。
「……少々、失礼いたしますわ」
「え? あ、はい」
再び二人の侵入者へと顔を向けたロゼリアが、優雅な足取りで植え込みへ近づいてくる。
顔は笑っている。
だが……あれは間違いなく怒っている。
「ロキ」
「はい」
「逃げよっか♡」
「ですね」
ロゼリアが植え込みへ辿り着くその寸前、二人は同時に立ち上がった。
「あははははっ! バレたー!」
笑いながら全力で逃げ出すミア。
「だから覗くのはやめましょうと言ったでしょう」
そう言いながらも当然のように後を追うロキ。
ロゼリアもドレスの裾を持ち上げ、それでも公爵令嬢らしい優雅さだけは辛うじて保ちながら、二人のあとを早足で追いかける。
けれどアイザックから十分に離れたところまで来た瞬間、ついに我慢の限界を迎えた。
「こらっお待ちなさいっ! また勝手に観察していたのですか!?」
「あはははっ! ロゼリア様、顔真っ赤ー!」
「誰のせいですかっ!」
「ミア、前を見て走ってください。転びますよ」
「ロキも逃げないでくださいませ!」
昼下がりの公爵邸に、三人の賑やかな声が響き渡る。
今日もまた、規格外の第二皇女がいるところには、騒動と笑い声が絶えないのである。




