ずっと私の執事でいてよ
恋に勝ち負けがあるとすれば、私は試合が始まる前から、もうとっくに負けている。
だって、私の好きな人は――
「お嬢様、起きてください」
「……やだ、あと五分」
身体から剥がされかけた毛布を、奪い返すように抱え込む。
「駄目です」
「じゃあ、十分」
「二度寝の交渉で時間を増やす人が、どこにいますか!」
容赦のない力で毛布を引き剥がされて、私は観念して目を開けた。見上げた先では、黒髪をきっちり真ん中で分けた見目麗しい執事が、呆れ顔でこちらを見下ろしている。
彼の名前はレイ。私より三つ年上の、ロシュフォール公爵家の執事である。
「まだ眠いのに」
「……まったく、貴女ときたら、とても公爵令嬢とは思えませんね」
彼は溜息まじりにカーテンを引いた。朝の光が、部屋になだれ込んでくる。
「おはようございます、お嬢様」
「何が『おはようございます』よ。人の眠りを強奪しておいて」
毛布を取り返そうと伸ばした手は、むなしく空を掴んだ。レイはもう手の届かないところで、涼しい顔で毛布を畳んでいる。
(仕事が速いんだから……)
こういうところだけは、本当に憎らしいくらい優秀な執事なのだ。
「本日は婚約者候補の方がお見えになると、昨晩申し上げたはずですが」
「……どうせ、お帰りいただくことになるんだもの。相手の方のお時間がもったいないわ」
「お嬢様も、もうお年頃です。いつまでもこの調子では、旦那様がお困りになります」
正論というのは、朝いちばんに聞くと余計に胸に刺さる。私は毛布の代わりに枕を抱えて、小さくうめいた。
結婚適齢期を迎えた公爵令嬢のもとには、毎日のように縁談が舞い込む。会いに来てくださる方に悪い人なんていなかったし、むしろ、私にはもったいないくらいの良縁だってあった。
それを私は、わがままを言い続けて断っている。
だって。
私の好きな人は、いま目の前で「早くお支度を」と苦い顔をしている、この執事なのだから。
◇
レイは、私がまだ幼い頃、孤児だったところをお父様に引き取られて、この屋敷の使用人になった。何をやらせても器用な子どもで、読み書きも、礼儀作法も、剣の扱いさえ、教えられればたちまち呑み込んで、気づけば屋敷の誰よりも頼りにされる存在になっていた。
対照的に、私はひどい子どもだった。
公爵家の一人娘として何ひとつ不自由なく育ったくせに、とんでもないワガママ娘だったのだ。
いつも気に入らないことがあると、癇癪を起こしては大人たちを困らせた。お気に入りのティーカップを割った。花壇を踏み荒らした。ピアノの鍵盤を両手で叩いて、先生を泣かせたこともある。
手を焼かなかった大人は、たぶんこの屋敷にひとりもいない。
そこまで人を困らせてもなお、満足しなかった五歳の私は、とうとう最後の手段に出た。
誰にも告げず、屋敷を抜け出したのだ。
すぐに誰かが青い顔で追いかけてくるだろうと思っていたのに。
ドレスのまま飛び出した私は、いつの間にか見知らぬ路地へ迷い込み、おまけに雨まで降り出して、帰り道がわからなくなってしまった。
(……さいあく)
軒下にうずくまり、膝を抱えて、声を殺して泣いた。誰も来ない。私を探している人なんて、本当は最初からいないのかもしれない。雨の中で、そんな考えばかりがどんどん大きくなっていく。
『お嬢様!』
顔を上げると、雨の向こうからレイが走ってくるところだった。差した傘がほとんど意味をなさないほどずぶ濡れになって、まっすぐこちらへ向かってくる。
『馬鹿ですか、こんなところで何をなさっているのですか!』
『帰ってよ!』
濡れて重たくなったドレスに顔を埋める。
『私なんて、いらない子だもの!』
我ながら、なんて子どもっぽい拗ね方だろう。こんなことを言ったって、レイを困らせるだけなのに。
けれど彼は、当たり前みたいに自分の上着を脱いで私の肩にかけると、自分が濡れることもかまわず、傘をこちらへ差し出した。
『これから先、お嬢様の望みは、必ず私が叶えます』
濡れた前髪を額に貼りつかせたまま、レイは言った。
『ですから――お屋敷へ、戻りましょう』
差し出された手を、迷って、迷って、遠慮がちに握った。手袋越しの手のひらは、雨の冷たさを吹き飛ばしてしまうくらい温かくて、どうしてだか涙が止まらなくなった。
(ああ……そっか。私)
いつも私に取り入る貴族たち、私の機嫌をとる使用人、多忙で私に構ってくれない両親。
きっと私は、公爵令嬢という肩書きじゃなくて、誰かに「自分」を見てほしかっただけなんだ。
その日を境に、私の癇癪はぴたりと治った。そしてレイは、あの日の言葉のとおり、私の望みをたいてい叶えてくれた。
泣けば泣き止む方法を、笑いたければ笑える理由を、欲しいものがあれば、その全部を。
でもね、レイ。本当は、そんなものはひとつもいらなかったの。
あなたが隣にいてくれれば、私はそれだけで――。
◇
「ごめんなさい。あなたとは、結婚できません」
応接間で、私はこれで二十人目となる婚約者候補と向かい合っていた。穏やかそうな青年だった。
お父様が選んだ方なのだから、悪い人であるはずがない。それでも私は出された紅茶に口をつけるより先に、頭を下げていた。
青年は気を悪くした様子もなく、少し驚いたように瞬きをして、それから紅茶をひとくち飲んだ。
「これはまた、ずいぶんと早いお断りだ」
「無礼は、承知しております」
「いえ、責めているわけではないのです。ただ――」
カップを置いて、彼は穏やかに微笑む。
「マルグリット嬢には、意中の方がおられるのですか」
背後に控えたレイが動揺した気がした。
けれど、振り返らない。隠し事の下手な私のことだから、振り返ったら最後、ぜんぶ顔に出てしまう。
「……さあ。どうかしら」
肯定も否定もできないまま、私は曖昧に笑った。
◇
「まーた縁談を断ったわけ? かっわいそー」
中庭のベンチに我が物顔で陣取って、優雅に脚を組んだ金髪の青年がけたけたと笑う。
私の幼馴染、フェリックスである。
荒れ仕事などしたことのなさそうな白い手に、夏の空みたいな青い目。アルダート公爵家の令息で、物心つく前からの付き合いだ。
今日も今日とて、自分で持ってきた焼き菓子の包みを膝の上で開けている。
「他人の失敗を笑わないでくれる?」
「失敗? だってもう二十人だぞ。『穏やかでいい方だったのに』って、街中もちきりだし」
「噂が早すぎない? この国の人たち」
「まあまあ」
私を宥めながら、彼はマフィンをひとつ押しつけてくる。甘いバターと、爽やかなブルーベリーの匂いがした。
フェリックスは訪ねてくるとき、必ず手土産を持ってくる。それも、私の好きなものばかり。
「無理に断ってるなら俺に言えよ。話くらい聞くから」
「無理はしてないわ」
「ん。ならいいけど」
あっさり引き下がって、フェリックスはマフィンを豪快にかじった。
(……フェリックスには、たぶんバレてるのよね。私がレイを好きだってこと)
彼とは、長い付き合いだ。私がなんで婚約を断り続けているかなんて察しているに違いない。
それでも深くは聞かないし、詮索もしない。妙に大人びているのだ。この幼馴染は。
「で、レイは今日もマルグリットお嬢様に虐められてるわけ?」
「失礼ね。虐められてるのは私のほうよ。今朝なんて毛布を強奪されたんだから」
言い返したところへ、紅茶を運んできた当の本人が口を挟んだ。
「その毛布にしがみついて、朝食を三度寝で逃しかけたのは、どなたでしたか」
「言わなくていいのっ!」
私が声を張り上げてレイの口を塞ごうとするけれど、彼はひらりと躱して優雅に紅茶を注いだ。
「どうぞ。冷めないうちに」
レイは私の前には丁寧にティーカップを置いたくせに、フェリックスの分は、ことりと無造作に置いた。
紅茶の表面が小さく揺れる。
「なあ、レイってさ。俺に対してあからさまに雑だよな?」
「………………………気のせいでは?」
「今ぜったい間があっただろ。マルグリット、あったよな今」
「あったわね」
「お嬢様まで」
レイはわざとらしい溜息をついて、それからフェリックスを見た。
「だいたいフェリックス様は、当家の茶を召し上がりすぎなのです。今週で三度目のご来訪。茶葉の消費量は、来客名簿のどなたよりも多い」
「記録つけてんの? こわ」
「経費ですので」
フェリックスはテーブルに肘をついて、甘えるようにレイを見上げた。
「ひっどいなあ。俺は、マルグリットの婚約者になるかもしれない男なのに」
その瞬間、レイの手が止まった。
「……こん、やくしゃ?」
動揺もあらわに聞き返すレイは正しい。だって当の私も、この幼馴染との婚約なんて初耳なのだから。
「ごめんフェリックス。いま、なんて?」
「あれ、聞いてないのか。マルグリットがいつまで経っても婚約者を選ばないから、痺れを切らした君の御父上が、うちまでいらしたんだ」
「な、なにそれ……」
私は頭を抱えた。
確かに、初対面の殿方と結婚するくらいなら、フェリックスのほうがいいに決まっている。家柄に文句のつけようはないし、気心も知れている。
お父様の考えは、悔しいけれど、正しい。
「マルグリットもいい加減、腹をくくりなよ。厄災の年も近いんだしさ」
その言葉には、頷かざるを得なかった。
千年に一度。
この国では、封印された厄災の魔女がよみがえる。
建国よりもずっと昔、人間を滅ぼそうとした魔女を、初代の英雄が聖剣で討った。けれど滅ぼしきることはできず、「時の狭間」と呼ばれる場所に封じた。
その封印が、千年ごとに緩むのだという。
そして今年が、ちょうどその千年目にあたる。
最近は、気温が安定していなかったり、昼と夜の長さがめちゃくちゃになったりする日が続いている。世界が綻びはじめるのは、魔女が目を覚まそうとしている報せなのだという。
実際、今日の中庭も、春だというのに妙に肌寒い。
「ここだけの話、もう内々に触れが回ってる。近いうちに、選定の儀があるはずだ」
魔女は美しい青年を好むのだという。
だから復活が近づくと、国は見目麗しい青年たちを広く集めて、城の奥に祀られた聖剣の柄を、ひとりずつ握らせる。剣に選ばれた者だけが、それを鞘から抜くことができる。
そしてその者が英雄となり、たったひとりで魔女の封印へと向かうのだ。
「選ばれる基準は、ないのよね」
「ないよ。血でも家柄でも、剣の腕でもない。握ってみるまで、誰にもわからない」
フェリックスの生家アルダート家は、その昔、先祖が聖剣に選ばれて公爵に叙された家だ。だから彼を英雄の血筋と呼ぶ人もいるけれど、本人はいつも肩をすくめる。
血なんて関係ない、剣はそんなもの見ちゃいない、と。
「俺も、候補に名前が挙がってる」
「……フェリックスが?」
「まあ、顔はとんでもなくいいからね」
冗談めかした言い方だったのに、目は笑っていなかった。選ばれれば、英雄になる。
それがどういうことなのか、この幼馴染は誰よりも知っているのだ。
「時の狭間に入るとさ、外との時間が切れるんだ」
声を落として、フェリックスは続けた。
「中で魔女と戦っているあいだ、こっちで時がどれだけ流れるかはわからない。一日かもしれない。何年、何十年かもしれない。下手をすれば――戻ってきた頃には、見送った人間がみんな、いなくなってるかもしれない」
背筋がぞっと冷えていくのが分かった。
戦って死ぬかもしれないという話なら、まだ覚悟のしようもある。
けれど。
戦いに勝って、生きて帰って、その帰った先で、待っていてくれた人の人生がもう終わっているかもしれないのだ。
英雄とは、そういう孤独ごと引き受ける役目のことをいうらしい。
「私も、候補としてお呼び立ていただいております」
「……レイも?」
「お嬢様は、私のこの顔を見て何もお思いになりませんか?」
うん。たしかに、腹が立つくらい綺麗な顔である。
「そうね。綺麗な顔だと思うわ」
「ありがとうございます」
主人に褒めちぎらせて、堂々と勝ち誇る執事など、世界中を探してもきっとレイだけだ。その稀有な執事は、こほんとひとつ咳払いをして真面目な顔を作り直した。
「厄災の年は、世情も乱れやすくなります。未婚のお嬢様を案じる旦那様と奥様のお気持ちも、少しはお考えください」
「そうは言っても……」
「旦那様は、お嬢様を急かしたいわけではないのです。ただ、ご自分がいつまでもおそばにいてやれるわけではないと、それだけを案じておいでなのです」
わかっている。そんなことは、全部わかっているもの。
それでも頷けないのは、私がわがまま娘だからだ。好きでもない人の隣に並ぶ自分を、ほかの誰でもないレイに見られるということが、どうしても受け入れられない。
「……レイって、いつも私の味方じゃないのね」
「お嬢様の味方ですよ。味方だからこそ、申し上げているのです」
私の望みを何でも叶えてくれるくせに、この執事は肝心なところでいつも厳しい。
「ま、そういうわけだから」
最後のマフィンを平らげて、フェリックスが立ち上がった。
「父上には、そう急かすなって言っとくよ。マルグリットには、マルグリットのペースがあるだろうしな」
「……ありがとう、フェリックス!」
「礼はいいって。その代わり、次はもっと旨い茶を頼むぞ、レイ」
「それとこれとは、話が別でございます」
「うわ、辛辣!」
大げさに顔をしかめてから、フェリックスはふと私を見て、目を細めた。そうして、なんだか歯切れの悪い様子で口を開く。
「まあ……俺との婚約のことも、ちょっとくらい考えてくれたら、嬉しい、けど。なんて。……っ、じゃあな!」
言うだけ言って、返事も待たずに足早に去っていく。急ぎの用でもあったのかしらとレイを見上げれば、レイはなんとも言いがたい顔で、その背中を見送っていた。
季節を間違えた寒さの中で、私はマフィンの残りを頬張る。甘くて、すこし酸っぱくて、どうしてだか胸が苦しくなる味がした。
(厄災の年、か……)
見上げた空は高く晴れているのに、雲の流れだけが、いつもよりも速い気がした。
◇
選定の儀には、公爵令嬢として出席しなければならない。
国中の有力な家が集まる場に、みすぼらしい姿で出るわけにはいかない。ロシュフォールの名に傷がつく。
というわけで私は、馴染みの仕立屋へと向かっていた。付き添いはもちろん、レイである。
仕立屋は、王都の富裕街の奥にある。
馬車を降りて歩いていく途中、小さな雑貨屋の前を通りかかった。店先のショーケースにはぬいぐるみが所狭しと並んでいて、その隅、棚から半分はみ出すようにして、耳の垂れた、まんまるの目のうさぎが一匹座っている。
「見て、レイ。可愛いわね、この子」
返事がないので隣を見ると、レイの足が止まっていた。ぬいぐるみに、目が釘付けである。
「……欲しいの?」
「い、いいえ?」
彼は取り繕うように咳払いをした。
「だって、レイって可愛いものが――」
「なんのことでしょう。さ、先を急ぎましょう、お嬢様」
「今、見てたじゃない。あの垂れ耳のうさちゃん」
「気のせいです。私が、あのような子どもじみたものを好むはずがないでしょう!」
すたすたと、逃げるように彼は歩き出す。
レイは、見た目によらず可愛いものが大好きだ。本人は必死に隠しているつもりで、こうして聞いても絶対に認めない。
だから。
「すみません、そこの垂れ耳の子をひとつ」
「お嬢様!?」
店の扉を開けて店主に銭を渡す私を、レイがぎょっとした顔で振り返った。そんなにわかりやすく動揺していたら、もう何も隠せていないと思うのだけれど。
「べつに。私が欲しくなっただけよ」
私は優しいから、彼の下手な嘘に付き合ってあげるのだ。
受け取ったぬいぐるみを、レイの腕にぽんと押しつける。垂れ耳うさぎのまんまるの目が、ちょうど彼を見上げる格好になった。
「持ってて。私、荷物が増えるのは嫌だから」
「……こ、これは、お嬢様のものでは」
「屋敷に帰ったら、あなたの部屋に置いておいて。私の代わりに、ね」
「……いいのですか」
レイはしばらく、腕の中のぬいぐるみを見下ろしていた。それから垂れた耳のあいだをそっと撫でて、壊れ物みたいに抱え直した。
ばれていないと、本気で思っているのだろうか。
こんなに優しい顔をしておいて。
◇
「お嬢様。そちらはおやめください」
「えー。可愛いのに」
仕立屋で私が手に取ったのは、薔薇色の、たっぷりと飾りのついた生地だった。店の主人も「お似合いかと」と愛想よく頷いてくれたのに、レイはそれを私の手からやんわりと取り上げて棚へ戻してしまう。
「華やかすぎます。選定の儀は祝いの席ではありません。国の命運がかかった場で浮かれた色を纏えば、品位を疑われます」
「……レイは、私を子ども扱いしすぎだと思う」
「事実を申し上げているだけです」
むっとして見上げたときには、レイはもう別の生地の前に立っていた。深い、夜明け前の空のような青だ。
「こちらなど、いかがですか」
「地味じゃない?」
「そうですか? 私は、この色のほうが好きですが」
「……っ」
ああ、本当に、レイはずるい。
口説くつもりなんて欠片もなく、こういうことを言うのだからたちが悪い。好きな人の好きな色を纏いたいだなんて、恋する乙女なら誰だって思うに決まっているのに。
「……じゃあ、それで」
採寸が終わると主人は奥へ引っ込んでいって、鏡の前にはレイと私だけが残された。なんとなく気まずいような沈黙を先に破ったのは、私のほうだった。
「ねえ、レイ。儀式が終わったら、私、今度こそ婚約者を決めなきゃいけないのよね」
「……でしょうね。旦那様も、もうお待ちにはなれないでしょうから」
「私……フェリックスでもいいのかな、なんて思っちゃった」
これは、意地悪だった。
まだ少しも決意なんて固まっていないくせに、そう言ってみせたら、レイはどんな顔をするだろうって。すこしくらい、動揺してくれるだろうかって。
そう思ってしまったのだ。
だけど、そんな期待は、
「よろしいのではないでしょうか。家柄は申し分なく、フェリックス様なら、お嬢様を大切になさるでしょう」
模範解答みたいなひとことで、あっさり砕かれた。
鏡越しに、その涼しい顔を睨む。レイはきっと、私のことなんてなんとも思っていない。それでも――ほんの一瞬でも、私を女として意識したことすら、ないのだろうか。
そんな、藁よりも細い希望にすがって。
「……じゃあ、レイが結婚してよ」
そう告げた。声は、たぶん震えていたと思う。
レイは一瞬、驚いたように目を見開いた。けれどすぐに、いつもの執事の顔へ戻ってしまう。
鏡の中の私の表情をちらりと確かめて、一歩、距離を取った。
「私はこれまで、お嬢様の望みを叶えてまいりました。これからも、そうありたいと思っております。……ですが」
わかってる。
私は公爵令嬢で、あなたはただの使用人だもの。そんなこと、あなたに恋をした日から、世界中の誰よりも私がいちばん知ってる。
「……お嬢様。それだけは、無理なお願いでございます」
その声が、いつもの厳しいけれど柔らかい声とはまるで違って、あまりにも悲しそうで――これ以上は踏み込ませまいと、静かに扉を閉めるような響きをしていたから。
「……冗談よ」
レイが困らないように、私は慌てて笑ってみせた。頬が引きつっていないか、鏡の中の自分をこっそり確かめる。
大丈夫。ちゃんと、笑えてる。
「冗談に決まってるじゃない。レイと結婚なんてしたら、毎朝叩き起こされて、一日中お小言でしょ。たまったものじゃないわ」
「左様でございますね」
「ふふ。でしょう?」
ちょうどそこへ、奥から主人が戻ってきた。仮縫いの済んだ青いドレスが、ぴたりと私の前にあてがわれる。
「さすがはお嬢様。大変よくお似合いでございますよ」
たしかに、似合っていた。
鏡の中の私は、青を纏って、いつもよりずっと大人びて見える。
でも。
あなたの好きな色が似合う女になったところで、私はきっと、この恋ひとつ、思い通りにできないのだ。
◇
選定の儀は、王城の大広間で執り行われた。
正面の壇上には、歴代の英雄たちが振るってきた聖剣が祀られている。あの剣を鞘から抜くことができるのは、英雄となるただひとりだけ。
貴族の令嬢や夫人たちは、壇上を見渡せる二階席に通された。私も仕立てたばかりの青いドレスを着て、その一角に座る。
一階の広間には、候補の青年たちが整列していた。白い礼装に身を包んだ彼らは、遠目にはよく似て見えたけれど。
(……いた)
フェリックスの金の髪は、人混みの中でもよく目立つ。その隣、黒髪をきっちりと分けた男は――レイだ。
今日は執事の装いではなく、他の候補者と同じ白い礼装を着ている。見慣れないその姿はなんだか知らない人みたいで、妙に落ち着かない。
少しだけ身を乗り出して手を振ると、フェリックスが気づいて、にっと笑った。
「マルグリット、そのドレスいいじゃん! 似合ってる!」
「ありがとう。あなたも白の正装、悪くないわよ」
「悪くないかあ。もうちょっと褒めてくれてもいいのに」
すると、隣のレイがこちらを見上げた。
「お嬢様。二階席からそのように身を乗り出すのは、はしたないですよ」
「今日のあなたは私の執事じゃなくて、候補者でしょ」
「候補者であっても、お嬢様のお行儀は気になります」
そのやり取りに、フェリックスが吹き出した。
「レイ、お前こんな時までそれかよ」
「躾は日頃の積み重ねですので」
「お前が英雄になったら、魔女にも説教しそうだな」
「魔女に行儀作法が通じるのであれば、先にそちらを試しましょう」
そうこうしているうちに開会の時間になって、広間がしんと静まり返った。
国王陛下が壇上に立ち、短い祈りの言葉を述べる。それから候補者たちがひとりずつ、壇上へと上がっていった。
最初の青年が、聖剣の柄に手をかけて力を込めた。
だが、そう簡単に剣は動かない。
次の青年も。その次も。名前が呼ばれるたびに緊張が走るものの、なかなか剣を抜く者は現れない。何百人の中から選ばれるのはたったひとりなのだから、当たり前といえば当たり前だった。
やがて。
「フェリックス・アルダート」
その名が呼ばれた瞬間、ざわめきがひときわ大きくなった。英雄の末裔の登場に、周囲の期待が集まっていくのがわかる。
フェリックスは軽く息を吐いて、壇上へ上がった。ふだんの軽薄さが嘘みたいに真剣な顔で、聖剣の前に立つ。
誰もが息を止めて、フェリックスを見守った。
柄を握る腕に力がこもって、こめかみに血管が浮く。――けれど剣は、びくともしなかった。
壇を降りてきた彼は、一瞬だけこちらを見上げて、いつもの笑顔を作った。
(……よかった)
とっさにそう思ってしまった自分に気づいて、嫌になる。友人が選ばれなかったことを喜んでいるなんて。
それからも選定は延々と続いた。時間が経つにつれて二階席はすっかり雑談の場と化して、私も隣の夫人との世間話に興じていた、そのとき。
「レイ」
私の執事の名前が呼ばれた。「ごめんなさい」と夫人との会話を断ち切って、身を乗り出す。
「あら、あの方は?」
「……私の、執事なんです」
レイが壇上へ上がっていく。その背中を目で追いながら、私はなぜだか、ずっと胸騒ぎがしていた。
壇上のレイが、二階席のほうを見上げた。目が合った――気がした。
「では、失礼します」
そう言って、彼の長い指が剣の柄に触れた、その瞬間。
――かちん
金属の噛み合うよう音が響いた。雑談がやんで、広間中の目が壇上へ吸い寄せられる。
(嘘、でしょ……)
レイが柄を引くと、鞘から刃がすべり出た。まるで剣のほうから、持ち主の手に還っていくみたいに。
そうして、聖剣がまばゆい光を放った。
白い光が広間を満たして、私は思わず目を細める。光の中に立つレイは、灰色の目を見開いて、自分の手の中の剣を信じられないもののように見つめていた。
直後、広間が爆発したように湧いた。
歓声と拍手が波になって押し寄せて、誰もが口々にレイの名前を叫んでいる。
当然だ。
千年ぶりの英雄が、いままさに、目の前で誕生したのだから。
「まあ、良かったわねえ!」
隣の夫人が、はしゃいだ様子で私の肩を叩いた。
そうだ、喜ばないと。うちの執事が英雄になるなんて、これ以上ない名誉だ。笑って、みんなに自慢して回らないといけない。
なのに、広間を満たすその歓声のぜんぶが、ガラス一枚隔てたもののように思えて現実のことだと思えなかった。
きっと、この広間で私だけが仲間外れなのだろう。
(……どうして、レイなの)
最悪な考えだと自分でも思う。レイじゃなかったら、別の誰かが選ばれていただけだ。
その誰かにだって、帰りを待つ人がいるだろうに。
それでも。
剣を抜いた者は、時の狭間へ向かう。いつ戻れるかわからない。私が生きているうちに帰ってくるのかさえわからない。
ただ世界のために、その身を差し出すのだ。
そんなの、あんまりじゃないか。
レイと結婚できないのは、いい。もう、諦める。
身分も違うし、レイは私を好きじゃないし、仮に両想いだったとしても、きっと私には何もかも捨てて駆け落ちする勇気なんてないから。
私たちは、運命じゃなかった。ただ、それだけのこと。
どれだけ願っても、この願いだけは叶わない。
でも、それなら。
それなら、せめて。
ずっと私の執事でいてよ。
◇
選定の儀の日から、私は部屋に引きこもった。
カーテンを閉めきったまま、ベッドの上で膝を抱える。朝が来ても起き上がる気になれなくて、運ばれてくる食事にも、ほとんど手をつけなかった。
レイは、もう屋敷にいない。
英雄に選ばれた者は、時の狭間へ発つまでのあいだ、王城で支度を整えるのだという。儀式の翌朝には、彼の部屋はもうきれいに片づけられていた。
がらんとした棚の上に、あの垂れ耳のうさぎだけが、ぽつんと残されていた。
持っていかなかったのか。
……ううん。きっと、持っていけなかったのだ。
私はうさぎを抱き上げて、自分の部屋へ連れて帰った。まんまるの目が、何も知らない顔でこちらを見上げてくる。
もう、私を叩き起こしに来る人はいない。毛布を剥がされることも、お小言をもらうこともない。
なのに、勝手に目が醒める。
あんなに嫌がっていたはずの朝なのに、いつまでも寝ていたかったはずなのに。
貴方がいない世界で、そんな優雅な朝が来たって意味がない。
引きこもって幾日か経った夕方、部屋の扉がドンドンと乱暴に叩かれた。
「マルグリット。入るぞー」
返事も待たずに入ってくる無礼者は、世界にひとりしかいない。
「……フェリックス」
幼馴染は、手に紙袋を提げていた。中身は匂いでわかる。ブルーベリーのマフィンだ。
「どうせ、ろくに食べてないんだろ」
答えずにいると、フェリックスはベッドの脇まで来て床に座り込んだ。
椅子はあるのに、わざわざ床に座るところが彼らしい。壁に背中を預けて、長い脚を投げ出して、紙袋からマフィンをひとつ取り出すと、ベッドの上の私へ差し出した。
「ほい。食え」
「いらない」
「……枝みたいになるぞ」
「別にいいもの」
私の言葉を無視してフェリックスが、ぽんとマフィンを投げてきたから仕方なくキャッチした。
「今日は屋敷に入っても誰にも止められなかった。助かったよ」
「そりゃあ、あなたが筆頭公爵家のご令息だからよ」
「……そう考えるとさ。レイのやつ、ほんと俺にだけ当たり強かったよな」
レイと私とフェリックス。
歳が近いこともあって、私たち三人は主従関係を飛び越えて、ほとんど友達みたいだった。思い出なら数えきれないほどある。
「覚えてるか? レイが俺らを学園に迎えに来た時、俺よりモテてた事件」
「ああ、懐かしい」
「俺のこと好きだった子、あいつに掻っ攫われたんだぜ。『私はフェリックス様より大人ですから』ってドヤ顔されたもんな。あれは、悔しかったなあ!」
あのときの、レイの涼しい顔と令嬢たちの黄色い声を思い出して、私たちは声を上げて笑った。
「ほんと憎たらしいと思わないか?」
「ふふっ、確かにあれは酷かった」
窓の外で、季節はずれの冷たい風が鳴っている。フェリックスは天井を見上げたまま、「でもさ」と口を開いた。
「……レイがいないのって、思ったより寂しいのな」
暗い部屋の中で私は彼の横顔を見た。フェリックスは、天井を向いたままだった。
こういう時、素直に言葉にできるフェリックスのことが少し羨ましい。
私だって、寂しいよ。寂しいという言葉で言い表せないくらい寂しい。
「ねえ、フェリックス。レイ、帰ってくるかな?」
そう弱々しく声を絞りだせば、フェリックスは笑顔を浮かべた。
「…………帰ってくるに決まってるだろ! 弱気になんなよ!」
ああ、やっぱりフェリックスは優しいなぁと思う。
知ってるよ。嘘だよね。私を安心させるためにそう言ってくれたんだよね。
だって、そう言った彼の声のほうが、私よりよほど震えていたから。
英雄が見送った人間の生きているうちに帰れるかどうか。そんなこと、同じ場所へ先祖を送り出した家の人間が誰よりもよく知っているはずだ。
外と時間の切り離された場所。
中でどれだけの時が流れるのか、誰にもわからない場所。
レイが魔女を倒して戻ったとき、私たちがまだこうして生きている保証は、どこにもない。
それでも、私は自分に言い聞かせるしかなかった。
「……そう、よね。レイって、約束を破ったことがないもの。お嬢様の望みは何でも叶えるって言ったんだから、当然、帰って……っ」
視界がぼやけて、膝の上で握りしめた手に、ぽたぽたと雫が落ちる。拭っても、拭っても、止まらない。
「ごめ……っ、フェリックス、ごめんね。私、あなたの前で、こんな……」
悲しいから泣いているのか、泣いているから悲しいのか分からなくなってくる。
自分の無力さも、弱さも、全てが憎くて仕方なくてどうしようもない気持ちが込み上げてくる。
その時、ベッドの下から鼻をすする音が聞こえた。
驚いて顔を上げると、フェリックスが袖で乱暴に目元を拭っていた。目尻に、涙の伝った跡が光っている。
「あーあ。だっせえな、俺」
「……フェリックス?」
「俺、結局レイに負けてやんの!」
「……?」
私が困惑してるとフェリックスは、にっと歯を見せて笑った。
「めちゃくちゃ寂しくてしょうがねぇってこと!」
(なんだ、フェリックスも私と同じ気持ちなんだ)
「……とりあえず、食おうぜ。甘いもん」
私は頷いた。
齧ったマフィンは甘くて、すこし酸っぱくて、涙と混ざって、しょっぱくて。もう、なんの味だかわからなかった。
◇
「今日の午後、英雄の壮行会が行われるそうだよ」と、お父様が扉の向こうから、遠慮がちに教えてくれた。
何日ぶりだろう。
私はベッドから重い身体を起こして、顔を洗った。鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。目は腫れているし、頬もこけている。
レイが見たら、きっとまたお小言だ。公爵令嬢がそんな顔でどうするのですか、って。
レイがいなくなって、まだひと月も経っていないのに。レイのいた日々のほうが、遠い昔のことみたいに思えるのだから、不思議なものだ。
さんざん迷ったすえに、私は青いワンピースに袖を通した。いつか彼が、好きだと言った色だった。
王都の中央広場は、人で溢れかえっていた。
花が飾られ、旗が掲げられ、楽隊が陽気な曲を奏でている。まるでお祭りだ。
誰も彼もが晴れやかな顔で、世界を救う英雄の門出を祝っている。当然だ。めでたいことなのだ、これは。
その真ん中で、私ひとりだけが、ぽつんと世界から置いていかれたような気持ちで立っていた。
花も、旗も、音楽も、なにもかもが煩わしい。人生でいちばん、最悪な気分だった。
(……レイ、いた)
広場に設えられた壇の上に、彼はいた。
白と銀で彩られた英雄の礼装。腰には聖剣。背筋をまっすぐに伸ばして、遠くを見据えている。
あんな人、私は知らない。
執事服を着て、私に小言ばかり言っていた彼は、もうどこにもいない。
国王陛下が激励の言葉を贈ると、広場中から拍手が湧いた。
歓声と祝福とともに、いくつもの花が投げ込まれる。レイの足元に、色とりどりの花弁が散った。
「それでは、行ってまいります」
レイは壇上で深く一礼して、あっさりと身を翻した。
(ああ――行ってしまう)
このまま見送ったら、次に会えるのはいつだろう。何年後だろう。ううん、きっともう、二度と……。
「レイ!」
気づいたら、叫んでいた。
人波を掻き分けて、壇のすぐ下まで駆け寄る。広場中の視線が集まるのがわかった。公爵令嬢が何をしているのかと、きっとみんなが見ている。
でも、知らない。そんなの、どうだっていい。
「っ、あのね、その、私……」
息が切れているせいだけじゃない。言いたいことが多すぎて、何ひとつ言葉にならない。
こんな私のことなんて、別に無視したって良かったのに。
「お嬢様。どうされたのですか」
レイは壇の縁まで来ると、目線を合わせるように私の前に跪いた。
もう執事ではない彼の灰色の瞳とまっすぐぶつかって、でも、久々に彼の声を聴くことができて、複雑な気持ちで喉の奥がきゅうっと苦しくなる。
――ねえ、レイ。
英雄なんて、もうやめよう。いいじゃない、世界のひとつやふたつ、滅んだって。
ねえ、皆。お願いだから、私から、私の執事を奪わないでよ。
おかしいよ。どうしてみんな、そんなに嬉しそうなの。この人がどれだけ遠くへ行くのか、誰ひとりわかっていないくせに。
そうだ。
このままレイの手を取って、海の向こうへ逃げてしまおう。誰も私たちを知らない国で、身分も英雄も関係のない場所で、二人きりで暮らすの。
朝は私が先に起きて、下手くそな紅茶を淹れるの。レイが呆れた顔で、それでも全部飲んでくれるの。それで毎日、好きだって言うの。
我ながらいいアイデアだと思うけれど、どうかしら。
「お嬢様、ひどい顔ですね。また泣いたでしょう」
「……泣いてない、もの」
結局、私は彼を引き留めることも、想いを告げることもできない。ここですべてを壊してしまえるほど、私は強い人間ではないから。
「嘘が下手なのは、相変わらずですね」
贈られた花束を抱えたレイの手が、その中から一輪だけ、赤い薔薇を引き抜いた。棘がないかを入念に確かめてから、私の耳元にそっと挿す。
「――それでは、お元気で」
それだけ言って、レイは今度こそ踵を返した。白い礼装の背中が、歓声の中を遠ざかっていく。
英雄と元主人の美しい別れに、民衆は惜しみない拍手を送っていた。
私は、耳元に挿された薔薇に、そっと指先で触れる。
「……なによ、それ」
ずるい。ずるすぎる。
ねえ、レイ。
あなたは、どういう気持ちでこの花をくれたの。
きっと、あなたは知らないんでしょうね。
一輪の薔薇の花言葉が――「一目惚れ」だなんて。
◇
厄災の年は、過ぎ去った。
季節はずれの寒さもなくなり、昼と夜も時間通りにやってくるようになった。世界は救われたのだ。
そうして時は流れ――五年の月日が経った。
王国には穏やかな日々が戻り、人々は少しずつ、時の狭間に向かった英雄レイの名を口にしなくなっていった。
私は、相変わらず結婚していない。
フェリックスとの縁談もうやむやなまま、お父様もさすがに何かを察したのか、何も言わなくなった。
私の部屋の棚では、垂れ耳のうさぎが今日もまんまるの目で、帰らない人を待っている。
そんな、ある日の午後。
庭でぼんやりしていたら、門の向こうから激しい蹄の音が近づいてきた。
何事かと立ち上がるより早く、馬から転がるように飛び降りてきたのは、フェリックスだった。
今や、宰相補佐として登城しているはずの彼が、上着も乱れたままで。
「フェリックス? そんなに慌てて、どうし――」
「――なあ。聖剣は、どうやって英雄を選ぶと思う」
「……え?」
「いいから!」
あまりにも唐突な問いだった。
レイが発ってからというもの、フェリックスは私を気遣って、英雄の話題をずっと避けてきたのに。
その彼が、自分から話すなんて。
(どうやって選ぶかなんて……英雄の家系のフェリックスのほうが、よっぽど詳しいでしょうに)
わけがわからないまま、私は答える。
「そんなの……候補の中から、聖剣が無作為に――」
「違う!」
フェリックスが、私の言葉を遮った。傾きはじめた陽の光が、彼の金の髪できらきらと乱反射する。
「俺を含めて、候補は全員、時の狭間になんて行きたくなかった。当たり前だろ、そんなの。……だから聖剣は、覚悟のあるやつを選ぶんだ。何もかもと引き換えにしてでも、あそこへ行く理由のあるやつを」
「ま、待って。話が見えな――」
見えない、と言いかけて。
泣きそうな顔で笑った幼馴染の、その顔で、わかってしまった。
「――レイが、帰ってきた」
◇
走った。
公爵令嬢のくせに、ワンピースの裾をつまんで、王都の大通りを走った。
馬車を待って優雅に向かったって、時間は大して変わらないはずなのに、それでも走った。
じっとしていられなかったのだ。
ばかみたい。ほんとうに、ばかみたい。私ったら、五年経っても、まだこんなにもこの恋に溺れてる。
きっと、こんな私を見たら、あの人は――
「レイ!」
「……お嬢様」
王宮の大広間に、彼はいた。
時の狭間では、時間が流れない。
あれは本当だったらしい。私はこんなにも大人になってしまったのに、目の前のレイは、五年前とまるで変わらない顔で私を見つめている。
「本物、なの……?」
「偽物のはずがないでしょう」
ああ、この毒舌。間違いなく、本物だ。
じわりと滲んだ目頭を指で押さえて、私は大好きな人を見つめた。
「身体は? どこも、なんともないの」
「ええ。問題はございません」
聞きたいことも言いたいことも、五年ぶん積もっていたはずなのに、口をついて出るのは、そんな言葉ばかりだった。
レイは私の様子を眺めて、それから怪訝そうに眉を寄せる。
「お嬢様。まさか、走っていらしたのですか」
「……そうだけど」
はあ、と深い溜息をつかれた。
公爵令嬢が王都を全力疾走したのは、さすがにまずかったかもしれない。
「お転婆は健在のようで」
小言を言いながらも、レイは懐かしそうに目を細めて笑って、私の左手の薬指に視線を落とした。
「お嬢様はまだご結婚されてないのですか」
「……悪かったわね、まだ独身で」
からかいの言葉かと思って、ムッとした顔を浮かべると、レイは何故かふっと頬を緩めた。
「いや、良かったと思って」
(……良かった?)
私が疑問を浮かべていると、レイは真剣な顔で私を見つめた。
「お嬢様は、覚えておいでですか」
レイが、目を伏せた。長い睫毛が、その頬に影を落とす。
「私はこれまで、お嬢様の望みを叶えてまいりました。ですが、ただひとつだけ、叶えられなかった願いがございました」
「……え」
「おっしゃったでしょう。『レイが結婚してよ』と」
仕立屋の鏡の前。震える声でこぼした、あの言葉だ。
あれは永遠に叶わない願いで、私はこの先もずっと、この初恋に失恋し続けて生きていく。
それでも、いいと思っていた。
この恋が叶わなくたって、レイは生きて帰って、もう一度会えた。それだけで、もう十分すぎるほどだと――
「このたび、国王陛下より公爵位を叙爵いただきました」
――そう、思っていたのに。
レイが、私の前に跪いた。五年前、壇の上でそうしたのと同じように。けれど今度は、私を遠ざけるためじゃなくて。
「ですから」
『聖剣は、覚悟のあるやつを選ぶんだ』
フェリックスの言葉が、ゆっくりと輪郭を結んでいく。まさか。まさか、そんな。
覚悟のある者。
何もかもと引き換えにしてでも、あそこへ行く理由のあった者――それって、まさか。
「私と、結婚してくださいませんか。マルグリット様」
私と結婚するために。
爵位を得るために。
まさか、この人は自分から英雄になったとでもいうのだろうか。ただの執事のままでは、永遠に私の隣に立てないから。私の「叶わない願い」を、叶えるために。
(そんなの……そんなのって……!)
ああ、もう。
レイのことなんて、大嫌いだ!
どういう気持ちで私が五年間待っていたと思っているの。帰れなかったらどうするつもりだったの。私のほうが先におばあちゃんになっていたら、どうしてくれたのよ。
この人はきっと、私の気持ちなんてとっくの昔に気づいていて、それなのに素知らぬ顔で執事を続けて、勝手にひとりで覚悟を決めて、勝手に英雄になんかなって。
本当に、意地悪で、憎たらしくて――大好き。
「もちろん!」
私は、迷いなく差し出された手を取った。
レイは満足そうに微笑んだけれど、私だって、心の中でほくそ笑む。
恋に勝ち負けがあるとすれば、この恋は私の勝ちだ。
だって、そうでしょう。
私の気持ちがバレていたからこそ、レイは覚悟を決められたわけで。
この恋は、私の逆転勝ちじゃないか。
――でも。いつからレイは、私の気持ちに気づいていたのだろう。
そして、ふと思い出した。
旅立ちの日、私の耳元に挿してくれた一輪の薔薇のことを。
「多分、貴女が思っているよりも、ずっと前から。……私は貴女のことが、好きですよ」
ああ、なんだ。
結局、負けたのは私のほうだったか。
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