第12回 顧雍、大いに出世を遂げる
顧雍は、左司馬として西暦二二〇年までつとめあげたが、この年、自分を支えてきてくれた趙元が流行り病で亡くなってしまった。顧雍は涙したが、悲しむ時間をもつことを許してくれる状況ではなかった。
その間には、様々なことが起こっていた。
孫権の荊州返還を劉備が明確に拒否し、それに怒った孫権を強硬派である呂蒙や陸遜が焚き付け、荊州南部に孫権側の役人を派遣して実効支配を試みた。
話し合いにより、一部領土を劉備が割譲するという微妙な調整でこの件は落着。しかし、孫権と劉備の緊張関係は一気に増したといってよい。
しばらく小康状態が続き、劉備は曹操より漢中を奪取し、既に魏王になっていた曹操に対抗して、漢中王を称した。
この間に、魯粛は四六歳の若さで病死した。
魯粛の死を皮切りに、関羽は満を持して、荊州の北伐を開始するものの、曹操と孫権が同盟することで関羽は捕縛され、斬首となり、呂蒙が江陵を急襲して、孫権は念願の江陵を手に入れた。
そして、とうとう魏王曹操がその生涯を終え、後継者の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて文帝となり、漢がここに滅亡したのである。孫権は、魏に臣従して呉王に任ぜられた。
孫権が呉王となったことにより、顧雍の出世が始まるのである。
まずは、大理(司法長官)に、続いて奉常(宗廟典礼)、更には尚書令(中央政務筆頭)に任じられ、陽遂郷侯に封じられた。
どれだけ孫権が顧雍を信頼していたのかがわかる、大抜擢の人事であり、周囲も驚かせた。
一番驚いたのは顧雍本人であろうが、今までと変わらず泰然自若であり、家族にも自分の立身出世の話をしないという慎ましさも変わらなかった。
顧雍は、「ある日」を目指して、政務に邁進した。
それは、孫権が「皇帝」になることである。
曹丕が魏の文帝を名乗った翌年、劉備は「蜀漢」を建国し、漢の正統は自分であるとして「昭烈皇帝」を名乗った。
現在、呉は魏に臣従しているので、帝号を名乗ることは出来ない。しかし、必ずこの日は来る、と顧雍は信じていた。
孫権が皇帝になることを一番望んでいたのは魯粛であった。
魯粛の構想では、三国鼎立の後に皇帝を称し、その後は全体の展開を見つつ動く、と言うのが彼の思想であり、誰よりも積極的な政策と言えた。
西暦二二二年、「夷陵の戦い」で蜀漢軍に大勝した呉軍は、魏国に離反し、再び独立国となった。
この機会に、家臣からは、孫権を皇帝にという動きが盛んになる。皇帝になる際に、家臣からの要請だからと一度で受けるのは礼に適っていないことから、孫権が皇帝への就任を断ったかのように見えたが、孫権は頑なに時期尚早であると、今回帝位に進むことは見送った。
尚書令の顧雍も、孫権と同じ考えであった。
国としての勢いを示すのにはいい時期であるとは考えたが、ここでは顧雍は取り組まなければいけないことがあった。
それは、蜀漢との関係の回復である。
夷陵の戦いで大勝したとはいえ、蜀漢との関係がこじれていては、大国魏に対抗することは出来ないのである。それは、蜀漢も同じで、お互い、憎みあうことが合ったとしても、最終的には手を取り合わなければならない、それが蜀漢と呉の関係だったのである。




