第4話(前):バイトを探そうとしたら、全力で阻止されて専業主夫になりました。
1.エプロン男子と、朝の撮影会
嵐のような一夜が明け、穏やかな朝がやってきた。
昨夜の雷雨が嘘のように、窓の外には澄み渡る青空が広がっている。
キッチンからは、トントントンという軽快な包丁の音と、出汁の優しい香りが漂っている。
僕は早起きをして、朝食の準備に取り掛かっていた。
「……んぅ……いい匂い……」
リビングのソファで毛布にくるまり、二度寝をしかけていたルミナさんが、鼻をひくつかせて目を覚ました。
昨夜、結局彼女は一睡もできなかったらしい。本人は「怖くて眠れなかった」と言っていたが、目の下にうっすらとあるクマは、恐怖とは別の興奮のせいのような気がしてならない。
「あ、おはようございますルミナさん。よく眠れましたか?」
僕が振り返って声をかけると、ルミナさんは弾かれたように顔を上げ、僕を見た。
寝ぼけ眼で、ぼんやりと僕の姿を捉える。
そして、数秒間。完全にフリーズした。
「……おはよう、ミナトくん」
「はい、おはようございます。朝ご飯、もうすぐ出来ますよ」
「…………エプロン」
彼女が、うわ言のように呟いた。
「え?」
「エプロン……。白いTシャツに、私のピンクのエプロン……。朝日を背に浴びて、味噌汁を作ってるミナトくん……。……え、なにこれ。幻覚? 走馬灯? 私、昨日死んだ?」
「生きてますよ。ほら、顔洗ってきてください」
僕が苦笑しながらお玉を持つと、ルミナさんは夢遊病者のようにふらふらと立ち上がった。
そして、洗面所に向かうのではなく、震える手でスマホを取り出した。
カシャッ。カシャッ。カシャカシャカシャッ!!
静かな朝のリビングに、機関銃のような高速連写音が響き渡った。
「ちょ、ルミナさん!?」
「あ、ごめん! 指が! 指が勝手に! 止まらないの!」
彼女はスマホの画面を拝むようにして、真剣な表情でレンズを向けてくる。
「ちょっと右向いて! あ、そのまま目線こっち! お玉持ち上げて!
あああっ、その『味見する?』みたいなポーズ最高! 神! 天使!
逆光が聖なるオーラみたい……尊い……網膜に焼き付けるだけじゃ足りない、サーバーに保存しなきゃ……!」
「ルミナさん、味噌汁冷めますよー」
「待って! ラスト一枚! その困った顔も可愛いから保存!」
ようやく撮影会が終わり、ルミナさんは満足げにスマホを胸に抱いた。
本当に変わった人だ。でも、元気そうで良かった。
朝食のメニューは、炊きたての白いご飯に、豆腐とワカメの味噌汁。そして昨日の残りの肉じゃがと、即席で作った甘めの卵焼き。
質素だが、日本人(僕)にとっては王道の朝ごはんだ。
「いただきます!」
ルミナさんは手を合わせ、まずは味噌汁を一口啜った。
ズズッ。
「……はぁぁぁ……」
深いため息が漏れた。彼女の体から力が抜け、ソファの背もたれに溶けるように沈み込む。
「しみるぅ……。五臓六腑に染み渡るよぉ……。これがミナトくんの作った『お味噌汁』……。なんか、懐かしい味がする。前世の記憶かな?」
「ただの味噌汁ですよ」
「ううん、違う。これは愛の味がする」
ルミナさんは一口食べるたびに「んふぅっ!」「しあわせぇ……」と身悶えし、完食した後には「もう死んでもいい……いや、死ねない。明日もこれを食べるために生きる……」と天井を仰いでいた。
そんなに喜んでくれるなら、作り手としては嬉しい限りだ。
この生活、悪くないな。
彼女に守ってもらい、僕は家事でお返しをする。そんな関係も、しばらくはいいかもしれない。
でも。いつまでも甘えているわけにはいかない。僕は男だ。自立しなければ。
食後のコーヒーを飲みながら、僕は意を決して切り出した。
2.就労禁止令と、甘い契約
「あの、ルミナさん」
「ん? なあに? おかわり? それとも膝枕?」
ルミナさんは上機嫌でコーヒーカップを揺らしている。
「いえ、そうじゃなくて。……僕、仕事を探そうと思うんです」
その瞬間。
カラン、と乾いた音がした。
ルミナさんの持っていたスプーンが、力なくテーブルに落ちる。
「……えっ?」
空気が、ピタリと止まった。
さっきまでのデレデレした、とろけるような表情が、一瞬で真っ白に染まった。
美しいブルーの瞳が大きく見開かれ、そこには深い絶望……あるいは、大切な宝物を今まさに失う直前のような、剥き出しの怯えが浮かんでいる。
「し、仕事……探すの……?」
「は、はい。いつまでも居候して甘えているわけにはいきませんし。一文無しのままじゃ、ルミナさんに迷惑をかけっぱなしですから」
僕が理由を説明すると、ルミナさんの肩がビクリと震えた。
「……めいわく、なんて……」
その声は、消え入りそうなほど細く、震えていた。
彼女は弾かれたように立ち上がり、テーブルを回り込んで僕の目の前に来ると、そのまま床に膝をつくようにして僕の両手を握りしめた。
「迷惑なんかじゃないよ……っ。むしろ、私が勝手に連れてきたのに、そんな風に思わせてたの……? 私は、力不足だった……?」
「えっ、ルミナさん!?」
「行かないで……お願い、ミナトくん……。どこかに行っちゃうの? 誰か別の人のところに行っちゃうの? 嫌だよ、そんなの……」
握りしめられた手は酷く冷たく、小刻みに震えている。
Sランク冒険者の強靭な力はどこへやら、今の彼女はただ、大切な人に捨てられることを恐れる子供のようだった。
その潤んだ瞳から、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうで、僕は慌てて首を振った。
「ち、違います! ルミナさんのことが嫌とかじゃなくて、ただ申し訳ないなって……」
「ミナトくんがいるだけで、この家の空気は浄化されてるの! 私の疲労回復速度は3倍になってるの! つまり、ミナトくんは存在自体が社会貢献であり、私の生命維持装置なの!」
「いや、そんな大袈裟な……。生命維持装置って」
「事実だよ! ミナトくんがいなくなったら、私、1秒で枯れる自信がある!」
「枯れないでください。……でも、僕も男ですから、働いてお金を稼ぎたいんです」
僕が真剣な眼差しで訴えると、ルミナさんは一瞬たじろぎ、そして切なげに僕を見上げた。
「ダメ……絶対ダメ。外で働くなんて、怖すぎるよ」
「ええっ? どうしてですか?」
「だ、だって……外には『野獣』がいるし!」
「野獣……」
また出た。この世界の危険生物。
でも、街中で、ちゃんとした店で働けば大丈夫なんじゃないだろうか。
「それにね、この国では……その、男の子が働くのはすごく大変なの!
未婚男性の就労には、『特別就労許可証』が必要だし、職場には『男性専用シェルター』の設置が義務付けられてるし、通勤時には『装甲車での送迎』か『Sランク護衛の同伴』が必須なの!」
「はあ!? なんですかそのVIP待遇!?」
「VIPじゃないよ、安全管理だよ!
しかも職場環境が過酷なの! 上司(女)からのセクハ……パワハラも横行してるし、『コピーとってきて』って給湯室に連れ込まれたり……なんて日常茶飯事なんだよ!?」
「ひぇっ……」
「そう! ミナトくんみたいな無防備で可愛い子が外に出たら、初日で美味しく頂かれちゃうよ!? 骨の髄まで吸い尽くされて、ボロ雑巾みたいに捨てられちゃうんだから!」
物理的に捕食されるということだろうか。
なんて恐ろしい世界なんだ。ブラック企業どころの騒ぎじゃない。
「だ、だからね、仕事ならウチでやればいいよ!」
「え? ルミナさんの仕事を手伝うんですか? 冒険者の?」
「ううん、違うの。ミナトくんには……『専業主夫』になってほしいの!」
せんぎょうしゅふ。聞き慣れない言葉だ。専業主婦の男版ということだろうか。
「家事全般をお願いしたいの! 掃除、洗濯、料理……。それをミナトくんの『仕事』にするの。お給料も払うよ! 毎月、私の稼ぎ全部渡してもいい!」
「ぜ、全部!? いやいや、それは貰いすぎです! 衣食住だけで十分ですから!」
「ダメ! 労働には対価が必要なの! それに……」
ルミナさんは少し頬を赤らめ、僕の手を握ったまま、モジモジと指を合わせた。
「……ミナトくんが作ったご飯を毎日食べて……。ミナトくんが洗った、いい匂いのする服を着て……。
疲れて家に帰ったら、エプロン姿のミナトくんが玄関で『おかえり』って言ってくれる……。それって、私にとってはお金じゃ買えない、最高の贅沢だから……」
上目遣い。潤んだ瞳。そして、心からの願い。
またしても、これだ。僕は彼女のこの表情に弱い。
「……わかりました。僕で良ければ、精一杯やらせてもらいます」
「本当っ!?」
「はい。家事なら得意ですし、ルミナさんの役に立てるなら」
僕が頷くと、ルミナさんは「やったぁぁぁぁ!!」と万歳三唱し、そのまま僕に飛びついてきた。
「ありがとうミナトくん! 大好き! 一生離さないからねっ!」
「わわっ、ルミナさん、苦しいです!」
抱きつかれた拍子に、彼女の柔らかい感触が全身に伝わる。甘い匂いが鼻腔を満たす。
心臓に悪い。本当に心臓に悪い。
――こうして、僕はルミナさんと雇用契約(?)を結んだ。
職種:専業主夫。
勤務地:ルミナ邸(外出禁止)。
報酬:衣食住+お小遣い。
僕にとっては「家事をするだけで養ってもらえるなんて、楽なバイトだな」という認識だった。
しかし、僕は知らなかった。この貞操逆転世界において、『専業主夫』というステータスがどれほどの重みを持つのかを。
それは単なる家事代行ではない。
「特定の女性の所有物となり、その女性に一生涯を捧げ、貞操を守り抜くことを誓った、神聖にして不可侵の最高位職」であることを。
法的には「事実婚」以上の拘束力を持ち、社会的には「勝者の証」として崇められるポジションであることを。
僕がその契約を承諾した瞬間、ルミナの脳内で勝利のファンファーレが鳴り響き、彼女の戸籍上のステータスが(心の中で)『既婚』に書き換わったことを、僕はまだ知る由もなかった。
(後半へつづく)




