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シュウヘイクンノコト

高校生の秀平は、時間や配置に異様にこだわる「いい子」として生きていた。

しかし家では兄の暴力と、見て見ぬふりをする父、仮面の笑顔で耐える母が日常を蝕んでいく。


友人から見せられた“ヒビキ”の言葉──「本当に見たいものが見える」に惹かれ、

秀平は赤いコンタクトで「変身」を選ぶ。

やがて家庭の歪みを断ち切るため、彼は静かに一線を越え、事件の引き金を引く。


 -ボクのキモチ-③

 

 【その目がわるい

 キモチワルイ物を

 見るような目をしたから

 心が痛かった

 僕だってこんなことしたくなかった】

 


 20XX年 十月


 カチ。

 六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。

「今日も時間通り」

 シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。

「あと二センチ右」

 枕の位置も決まっている。

 カーテンは必ず右から開ける。

 次は歯磨きだ。


 お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。

「秀ちゃん、おはよう」

 廊下に足を付けてから振り返る。

「おはよう」

 白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。

 まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。

「肌寒いわ」

「まだ暑いくらいだよ」

 体温調節が上手く機能していないのかもしれない。

 ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。

「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」

「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」


 ───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。


「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」

「ありがとう。着替えたら行くね」

 好きな食べ物すら優先してくれる。

 洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。

 ……あいつが帰ってきたのだ。

 口笛と共に。


 ────ピーピー、ピ。

 心がざわつく。


 ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。

『まず、手洗い』

 本人に言えるはずもない。

 

「……新品同様にしろって言ってんだ」

 始まった。

「できるだけやってみるわ」

「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」

「キレイにするから……」

「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」

 ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。

 

 『にげろ』

 頭が命令する。

 でも、体は固まったまま動かない。

 

「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」

 ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。

 その影は、罪のない壁に向けられる。

「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」

 首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。

 お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。

 絶対に聞こえてるはずなのに。

 

 兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。

 ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。

 

────貧弱。


 そうだ。兄の言う通りだ。

 お母さんを助けにいかなかった。

 お父さんと同じではないか。

 

 アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。

 整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。

 キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。

 

 滅多に失敗しないはずなのに……。

 

 「秀ちゃん、ごめんね」

 その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。

 「……作らなかったの?」

 ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。

 パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。

 「おはよう。成績はどうだ?」

 「おはようございます。特に変わりはないよ」

 「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」

 声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。

 「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」

 「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」

 そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。

 「そろそろ行ってくる」

 「行ってらっしゃい」

 部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。


 「……お味噌汁、ごめんね」

 震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。

 「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」

 「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」

 

 ────その笑顔は、まるで仮面のようだった。

 お母さんの素顔を思い出せない。


 壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。

 「行ってきます」

 「気をつけてね」

 揃えられた靴を右足から履く。

 一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。

 自分のペースを乱すわけにはいかない。


 道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。

 葉に心を奪われていたのだろう。

 目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。

「おーい!秀平!」

 名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。

 「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」

 たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。

 「ごめん、颯太。おはよう」

 「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」

 ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。

 「大丈夫。ありがとう」

 廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。

 脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。

 なぜなら、ぼくは貧弱だから。

 「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」

 「……今、何時?」

 「八時十分」

 「うそ……だろ。急ごう!」

 遅刻確定。


 ────アイツのせいだ。

 人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。

 存在価値などない。

 だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。

 

 「何で、真っ直ぐ止めないんだ」

 隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。

 「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」

 「ごめん。寝不足なんだ」

 「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」

 そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。

 「……」

 枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。

 「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」

 「そ、そんなわけないだろ」

 颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。

 もう、時間なんてどうでもいい。

 「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」

 「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」

 「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」

 「ありがとう」

 手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。


 ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。

 初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。

 「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」

 チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。

 「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」

 スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。


 黒板に陳列された文字など興味はない。

 ノートの下へ隠した雑誌に集中する。

 片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。

 ドクドクと血液が急速に流れていく。

 そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。


 ────あなたの、本当に見たいものが見えます。

 私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。


 「同じ景色を見たい」

 ぽつりとつぶやいた。


 陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。

 葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。

 「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」

 「予定あるの?」

 「……ない」

 「息抜きに付き合ってほしい」

 「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」

 ポジティブな颯太に感謝した。

 本当は帰りたくないだけだ。

 廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。

 

 「颯太、本当に見たいものってある?」

 「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」

 「幽霊かもしれないね」

 街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。

 

 笑い方を思い出させてくれた。

 ぼくは颯太に支えられていた。


 「……聞いてほしいことがあるんだ」

 声色を下げ、兄のことを話した。

 「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」

 ぼくの考えは間違っていなかった。

 「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」

 「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」

 犬が吠えるほどの笑い声が響く。

 颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。

 「また、明日な」

 ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。

 

 残酷にも現実は変わらない。

 ならば、ぼくが変わるしかない。


 「ただいま」

 ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。

 帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。

 「ただいまぁ」

 もう一度、言う。

 しかし『おかえりなさい』が返ってこない。

 自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。

 「……血?」

 点々と赤色が床を汚している。

 いや、黄色の塊もだ。

 一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。

「お、お母さん?」

 覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。

 白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。

「どうしたの!」

「……秀ちゃん、おかえりなさい」

 鼻の下には乾いた赤色が付いている。

 手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。

「転んだの」

 瞬きせず黄色い物体だけを見ている。

 「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」

 「本当に自分で転んだの」

 「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」

 庇っていることが許せなかった。

 「……やめて。そんな言い方しないで!」

 脳が揺れるほど髪を振り乱している。

 「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」

 ポタポタと透明の雫が床を濡らす。

 「秀ちゃんは、いい子……でしょ」

 ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。

 それ以上、何も言い返すことができなかった。

 流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。

 

 自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。

 赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。


 右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。

 「冷たいな」

 心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。

 変身の瞬間を知るものは誰もいない。


 自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。

 緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。

 「価値がない奴は消えればいい」

 ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。

 「秀ちゃん……」

 柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。

 「開けないで」

 「お夕飯、できたわよ」

 「……」

 「待ってるわね」

 一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。

 ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。

 


 ────ジリリリ。

 

 聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。

 

 『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』

 ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。

 「少しずつ近づいているのかな」

 枕の位置なんて、どうでもいい。

 それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。

 ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。

 「ご飯、食べてないでしょ」

 「……昨日の」

 「そうよ」

 一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。

 「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」

 いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。

 「いらない」

 尖った視線を送った。

 

 ────丸い瞳がパリンと割れた気がした。


 玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。

 一段足を下ろすと、ひんやりとした。

 「いい子ぶりやがって」

 右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。

 「揃わないと価値がないくせに」


 ────ピーピー、ピ。

 「来た」

 

 反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。

 ……貧弱なぼくが顔を出したのだ。

 毛布を被り、息を整える。

 『……殺されたいのか!』

 また悪い子が喚いている。

 「お前がいなくなればいい」

 価値のないやつなのだから。


 ────ピーピー、ピ。

 

 違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。

 顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。


 カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。

 聞き耳を立て、そっと階段を降りる。

 「仕方ないじゃない」

 「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」

 「あなた……本当に父親なの?」

 「言いなりになるのが親ではない」

 「正信がいないと」

 細く震えた声が胸をざわつかせる。

 

 「生きて……いけないの!」


 ぐちゃ。

 体内で異音がした。


 「……お前。秀平が可哀想だろ」

 「いい子じゃないなら……いないの」


 ぐちゃ、ぐちゃ。

 『ヒビキ、ぼく見えたよ』


 もう、なにも聞こえなかった。

 


 カーテンの一点が淡い光を照らす。

 ぼくは家の音に敏感だ。

 静かにドアを閉め廊下に出た。

 ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。

 取っ手を握り、下に体重をかけた。

 

 ────赤い目だけを覗かせる。


 まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。

 ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。


 グニャリ。

 左手も添え、二つの力を一つにする。

 刃が体内の奥へ侵入していく。

 解放された血液たちは二度と戻れない。

「……誰だ」

 温かいものがぼくの内ももに伝わる。

「……に、逃げろ!」

 目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。

 赤い噴水は月明かりに照らされる。


 右目が影を捕らえる。

「おかあさん、どこいくの」

 床につけていた手足が止まる。

「秀……ちゃん?」

「ちがう。わるいこ」

 赤い花びらが舞う。


 ────『キレイ』だなと思った。


 ポケットにある銀色の丸みを撫でる。

 『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。

 


 ────ピーピー、ピ。

 来た。もう、逃げない。

 

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