灰色の鳥たちはそれぞれに鳴き
カノンはナッツ類が好きだった。キッチンの棚に常備していて、さりげなくいつもポリポリ食べている。そこから勝手に数粒もらって庭のベンチに置いた。アーモンドとクルミ。白いベンチは皿がわりだ。控えめなウェイター気分でぼくらはお客を待っていた。
来た。
アーチを途中まで素早くのぼり、ベンチの上にジャンプする。
小動物特有のコマ送りにも似た警戒した動きで彼はクルミに近づく。前肢を伸ばしさっと口に運ぶ。
今だ。
カチャリと金属質の音がする。
クルミの横の丸い石のようなものが掌を開くように広がり、白い特殊樹脂の指が彼を捕らえた。一瞬の出来事に彼は何が起きたかわからない顔をしていた。
「よっしゃ、やった!」
隣で喜びの声があがる。
ぼくたちは身をひそめていた花壇の影から立ち上がる。彼をもっと見ようと近づく。彼は怯えていた。でも動けない。クルミを持ったままじっとしている。樹脂の指は彼の体の形と筋肉を正確に把握して、その瞬間のその動きのまま封じ込めていた。
「すっげーよな、これ」ヨリは興奮した声で言う。
「アプリ操作も簡単だし。父さん、変人だけどやっぱ天才だわ」
デジタルブックを見せられる。ゴッドハントという冗談みたいな名前がタイトルバーに書かれていた。彼の骨格が画面に写り、体表の縦横の最大サイズ、重さ、体温、心拍までスキャンされ、一番下には結論が書かれている。
“これは、ニホンリスです”
「ねぇ、怖がってるよ、かわいそうだよ」
アオが言った。
「お前がリスを近くで見たいって言ったんだろ?」
ヨリが少し怒る。
「うん、そうだね、ごめん」
しょんぼりしたアオに、ヨリはもう怒れない。
「せっかくだからよく見とけよ」
口調はぶっきらぼうだが優しさがにじむ。
でも、アオはぼくらの後ろで動かずじっとしている。
ぼくは顔を近づける。リスの体が緊張するのがわかった。グレーがかった茶色、白いお腹、ふさふさの尻尾。残酷な死神の手のような樹脂は、アプリ操作により透けていた。遠目で見ればリスを捕えていることはわからないだろう。
「お前が見てどうするんだよ?それに近づきすぎだ。怖がってるだろ」
今度はヨリがぼくに注意する。
「もう逃がすぞ、いいな」
ゴッドハントは瞬時に元の白い球体に戻る。リスは一瞬フリーズしたままだったが、我に返り慌てて逃げ出した。
「見せて」
ぼくはヨリのデジタルブックを借りて、アプリを確認する。リスのデータが登録されていた。彼の推定年齢は2歳。参考リンクを見ると、野生のニホンリスの寿命は3~5年らしいから、彼は後一年で死ぬかもしれない。ゴッドハントのせいで寿命がもっと縮まったかもしれない。
ゴッドハントは動物を無傷で生きたまま捕獲するためのドローンだ。父さんの会社で開発中で試作品を貸してもらった。動きを封じて観察もできて悪くないけれど、動物は怯えてしまう。
「麻酔薬が必要だ」そうつぶやくと、
「何の話だ?」とヨリが怪訝な顔をした。
アオが微笑んだ。「キオはね、リスがこわがらないようにするにはどうしたらいいか考えたんだよ」
ぼくはうなずく。アオは人の気持ちをいつもすぐに理解する。
「そんなのもっと簡単な方法があるだろ」
「なに?」
「捕まえなきゃいいんだよ」得意げにヨリは言った。「ゼロベース思考。親父がよく言ってるだろ?」
「へぇ」とアオが感心した声をだす。
「ゼロベース思考というには弱い」ぼくは指摘する。
「なんでだよ?前提をぶっ壊すことがゼロベース思考だろ?」
「もしその論法でいくなら何のために捕まえるのかから考え直し抜本的な代替案が必要だけどそれがない。代替案もないのに前提を壊すところから始めたら無駄な労力を要するだけだと思う」
ヨリはうんざりした顔をした。
「いつも不思議なんだけど、お前、本当に俺の双子の弟?」
「一卵性なのはDNAで証明されているし、鏡を見ても明らかだ」
「じゃなくってさ!」
「わかってる」
「は?」
「つまりヨリが言いたいのは、ぼくらは双子なのに似ているのは顔だけで思考や性格がかなり違うってことだ」
「解説どうも。その通りだよ。っていうかわかってるならグダグダ言うな」
「冗談だ」
「冗談になってねーよ!」
アオが噴き出した。ぼくもヨリが怒るのを観察してひそかに楽しむ。
ヨリはため息をついた。
「要するに双子だからって中身まで似てるわけじゃないんだよな、別な人間だし」
「一概には言えない問題だ。たとえば20世紀中頃、アメリカで行われた実験で、全く別の環境で離れ離れに育てられた三つ子が、19年後に再会したら好きな色もやってるスポーツも同じだったということがあった。でもイランの結合双生児は性格が全く異なった。ぼくたちの性格が似ていないのは、エピジェネティクスによるものかもしれないが……」
「もういい、もういい、俺が悪かったよ!」
アオがクスクス笑いながら、
「もうすぐ2時だ、お茶の時間だ、戻ろうよ」
と庭を走り出した。
二階のティールームに入ると紅茶の香りがした。
テーブルの上には紅茶のカップが4つ、緑茶の湯飲みが一つあった。つまり今日のお茶会参加者は5人ということだ。
「今日はね、クッキー焼いたんだよ」
カノンが嬉しそうに言う。
えー、と、ヨリが不満の声を出す。
「なによ、その嫌そうな声は?」
「冷凍のでいいじゃん、ほら、ドイツのクッキー。あれ、チョコチップもたくさん入ってるしさ、カノンのクッキーよりずっとうまいよ」
「ひどい、もう、なんてこと言うの!」
サクッと心地よい音がした。
既にアオはクッキーを食べはじめていた。
「すごく美味しいよ」
「でしょ?」
「仕方ないな、俺も食べてやるよ」
「ヨリは食べなくて結構」
そう言いながらもカノンは、ヨリがクッキーに手を伸ばすのを嬉しそうに見つめている。
ヨリはクッキーを口に運び、難しげな顔をした後「悪くないんじゃん」と偉そうに言った。
カノンは、ほんっと生意気なんだから、と言いながらヨリの頭をくしゃくしゃにした。やめろよ、なんだよ、とヨリは抵抗しながらもクッキーをほおばり続ける。
「キオも食べて」
ぼんやりしていたぼくにカノンは声をかける。クッキーはかすかにバニラの香りがして、厚みがあるのに食感は軽かった。真ん中にチョコチップが隠されていた。ヨリもそれに気づいたようで「チョコ入ってるじゃん」と喜んでいた。ヨリはチョコが大好きだ。
背後でノックの音がする。
振り返ると父さんだった。
「ノックなんていらないのに」「なんでノックなんかするんだよ」
カノンとヨリが呆れたように口々に言った。
「うん、無意識にね、癖なんですね、これは」
好き勝手に伸びた白髪混じりの髪の下で、生き生きとした目が僕たちを見回す。視線がアオに止まり「うんうん、きみは相変わらず少し小さいね」と目を細めた。
「きみたちは皆よく似てる。でも一人だけ小さいですね」
「アオは俺たちより二つ年下なんだから当たり前じゃん」ヨリが言った。
「大きくなれるかな」
アオが天使みたいに無邪気に首をかしげる。
「もちろん大きくなりますよ」
そう言いながら父さんはデジタルブックを取り出しアオに向ける。
「プロセスを記録しておきましょう」
パシャっとカメラアプリが音をたてる。パシャ、パシャ、パシャ。父さんは何枚も撮り続ける。
「お父さん、写真よりもお茶を飲まない?」
やんわりアオにいさめられ「そうですね、うん、お茶をもらいます」と父さんはようやく席につき湯飲みを手に取った。だが、
「あ」
アオがうっかりクッキーを一枚、床に落とした。
「おやおや」父さんはまたデジタルブックを構える。
「いい加減にしてください」
カノンが父さんのデジタルブックを取り上げた。
「カノンさん、返してください」
「お茶の時間が終わるまで没収です」
「どうしてもですか?」
「アオが落ち着かないでしょ?」
父さんは悲し気な顔をする。
「なぜですかね、アオくんを見ていると無性に撮りたくなるんですよ」
「おかげで、家族用のフォトライブラリがアオばっかだよ」
ヨリが文句を言う。カノンは笑いながら、父さんのデジタルブックを操作してテーブルの端においた。
「ほら、キオもこっち来て」
カノンに呼ばれたので、ぼくは言われたとおりにする。カノンは立ち上がり隣のヨリの背後にまわり肩に手を置く。ぼくはカノンの椅子に座るよう促される。アオは父さんに身を寄せて、父さんはアオの頭を愛しそうに撫でる。
デジタルブックからパシャっと音がする。
ぼくたち家族のいつもの風景が切り取られた。
よく見る夢がある。
流れの速い水の中だ。ぼくは岩につかまっている。多分川だと思う。でも広くて岸が見えないから海なのかとも思う。水を飲めばはっきりしたのに、と、いつも目覚めてから気づくが、夢の中のぼくはそれどころじゃない。
岩は滑りやすくて、手を離したらとんでもない場所に流されることをぼくは知っている。そして、ぼくの後ろには、4羽の灰色の鳥が流れに逆らって泳いでいる。なぜ、鳥が泳いでいるかはわからない。魚をついばみに来て水にのまれたのかもしれないし、嵐で空から叩き落とされたのかもしれない。
夢の中だから、矛盾や謎は限りなくあるが、とにかく鳥たちは必死で、紙一重の差で流れにのまれずにいる。限界は近い。
でもぼくは一羽だけ救うことができる。手を伸ばし鳥の嘴か翼をひっぱって岩の上に乗せればいい。
すべての鳥を救いたい。でも救えない。選ばなければならない。ぼくは迷う。決められない。
鳥たちは力尽きる。あっという間に流されて水にのまれる。ぼくの判断の遅さのせいで一羽も救えずに。
夢はここでは終わる時と続く時がある。
ぼくは第三者の視点で、岩と激しい水流と溺れかけた4羽の鳥を見つめている。
でも岩につかまっているのは、ぼくじゃなくて家族の誰かだ。
ヨリか、アオか、カノンか、父さんの誰か。
彼らはぼくと違って、いつも迷わずに一羽の鳥を選んで救う。
複雑な悲しみの中でぼくは目覚める。
月の中旬頃の第二月曜日、カノンと父さんは山を降りて街へ行く。
父さんは、山の上では難しい仕事、例えば機密性が高いオフライン会議に参加したり、友人と食事にでかけたりする。
カノンは、以前父さんの会社で働いていたので、仕事を手伝うこともあるが、大体は買い物をして父さんの用事が終わるのを待っている。
買い物なんてネットですませればいいように思うが、カノンによれば、家具や食器、服は実物を見て選ばなければだめなのだそうだ。
毎回、一緒に行かないかと誘われるが、カノンの買い物が退屈なせいでぼくたちは滅多についていかない。ティーカップの色が紺か濃紺かで何時間も迷ったり、大差のない服を着せ替え人形みたいに何枚も試着させられるのは辛かった。
それに山の下は、ぼくらにはにぎやかすぎた。最初は物珍しくて楽しいが、すぐに音や光や人や物の多さに疲れきってしまうのだった。
5月の第二月曜はいい天気だった。
ぼくたちは留守番を選び、午前中はオンライン授業を受けて、昼にはカノンが用意してくれた食事を温めて食べた。
午後になり、ぼくらは少し退屈していた。何をして遊ぼうかと話し合った。
「海ごっこは?」
アオが言った。海ごっこは、一階の青いホールを海に見立てる遊びだ。デジタルブックで魚やサンゴなどの3Dホログラムを流して、海底散歩と称して一階ホールを練り歩く。釣りをしたり、ランダムに隠された宝箱を探したりもする。
「昨日もおとといもやったじゃん」
ヨリがうんざりした声をだす。
「楽しいよ」
「お前、ほんっとにあの一階ホール好きだよな。この間も一人で階段の上に座り込んでぼーっと眺めてただろ?自分の名前と同じ色だから好きなのか?」
「自分の名前だからじゃないよ。面白いんだよ。窓からの光の加減で、青い色が揺れて、波みたいに見えるんだ」
「あそこは父さんが脳科学者と相談して綿密に作り上げた錯視の宝庫だ」
ぼくの言葉にアオはうなずく。
「立っている位置や高さによって色々な揺れ方をするんだ、とてもきれいだったり不気味だったり。いっぱい試して、たくさんの見え方を発見したよ。大体、探しつくしちゃったんだけど、でも、ぼくが将来もっと大きくなったら、別の見え方がまた発見できるかなって思うんだ」
「身長が伸びる程度では大差がないだろう」
ついそう言うと、アオはがっかりした顔をした。ぼくはしまった、と思い、
「父さんに頼んで屋根にあがらせてもらって天窓から見下ろすというのはどうだろう?」と提案したらアオの顔がぱっと輝いた。
「思いつかなった、きっと、全然違った景色が見えそうだね、楽しみ」とニコニコした。
「とにかく!」ヨリがぼくらの会話を遮る。
「今日は、スクリーンルームでゲーム!二日もアオがやりたい遊びをしたんだから今日は俺が決める権利がある!」
「それはおかしい。ヨリに権利があるならぼくにも同等の権利があるはずだ」
ぼくは異議を唱える。
「は?……まぁでもお前の言う通りだな。何がしたいんだよ?」
「ぼくは、海ごっこでもスクリーンルームでもどちらでも構わない」
「じゃぁ、だまってろよ!」
「意見を聞かれないことに不公平を感じた」
知るか!とヨリが怒り、アオが笑いながら
「いいよ、スクリーンルームでゲームしよう」
とゆずり、午後の遊びが決まった。
ぼくらは1階のスクリーンルームに向かった。
スクリーンルームは壁が3Dスクリーン化されている。大画面なので映画を見てもゲームをしても迫力がある。VRより手軽で臨場感もある。
部屋は一か所、右側の壁だけ、窓を兼ねた大きなガラス戸で森につながっている。久しぶりに使うせいか空気がこもっていたので窓を開ける。山の香りが流れ込んできた。
スナック菓子とアイスとドリンクメーカーを持ち込み、楽しむ準備をする。
デジタルブックをスクリーンに接続して、三人でできる最新ゲームをダウンロードした。まずはカーレース、それから格闘ゲームにパズル。
三時間くらい遊んで飽きてきたので、いったんゲームをやめた。
どのゲームもほとんどアオが勝った。アオは機械みたいにゲームがうまい。でもアオは勝っても得意がらなかった。勝ち負けにこだわりがなくて、純粋にゲームをゲームとして楽しんでいるようだった。一位で終わったカーレースの後も、大技を繰り出した格闘ゲームの後も、興奮した様子はなくて、いつものあどけない笑顔を浮かべているだけだった。だからだろうか。ヨリもぼくもアオに負けるのは悔しくなかった。
ヨリは口先では、またアオの勝ちかよ、と文句を言うが本気じゃなかった。ヨリとぼくは性格は似ていないけど、ゲームのセンスはどんぐりの背比べだった。ヨリはぼくに敗れると本気で怒って悔しがったし、ぼくもヨリに負けるのは納得がいかなかった。弟のアオには負けても気にならないのに、自分の分身である双子には負けたくない。不思議な心理だった。
それでも三人でゲームをするのは、いつも楽しかった。勝てることは少なかったけど、ぼくはゲームという仕組みが気に入っていた。プライズとペナルティ、ルールとゴール。ゲームの勝ち負けは明確で公平だからだ。
将来の仕事について考える時、第一希望は父さんの会社で研究者として働き、父さんのような素晴らしい発明をすることだ。でも、もしそれが無理なら、第二希望はアオやヨリが喜んでくれるようなゲームを作る仕事ができたらたらいいなと思う。
「おい、あれ」
次は映画でも見ようとライブラリを漁っていたら、ヨリが不意に窓を指さした。
「どうしたの?」
「窓と窓の間」
引き戸なので引いた分だけ窓は二重になっている。真っ白なヤモリがその間を這っていた。
「多分、最初から窓にいたんじゃないか」
気づかずに窓をあけて、ヤモリは隙間に閉じ込められてしまったのだろう。
「きれいだね」とアオが言った。
「ゴッドハント持ってくるか」
「小さすぎる」ぼくは言った。「ゴッドハントは体長が10センチ以上じゃないと機能しない」
「よし、じゃぁ俺が捕まえてやる」
虫かごをとってくるように、ヨリはアオに命じた。アオはすぐに持ってきた。透明のプラスチックケース。普段、庭や山で虫や小動物を捕まえるためのものだ。
ヨリが窓に近づいた。ぼくとアオもついていく。
「アオ、窓をゆっくり動かせ。で、ヤモリがびっくりしてでてきたところを俺が捕まえる。俺が逃したらキオが捕まえろ」
大雑把な計画だったが、ぼくたちは従った。アオがゆっくりと窓を閉めていく。窓の重なりの部分がずれてヤモリはとまどいを見せた。だが、あまり動かなかった。
いら立ったヨリが、ヤモリがいる場所の近くを叩いた。窓全体が振動で震えて、さすがに危険を察してヤモリは素早く移動しはじめた。するすると移動して、隙間から逃れ出て、部屋側の面へ移動した。ヨリの手が伸びる。捕まえた、と思ったが、ヤモリはわずかの差でヨリの掌から逃れた。だが、ヨリの指先はヤモリの尻尾をつかんでいた、と思ったら、尻尾が切れた。
「わっ」
ヨリは驚いて、ヤモリの尻尾を落とした。床に転がり、尻尾は生き物のようにはねまわる。
「なんだよ、これ」
尻尾は、奇妙な動きで踊り続ける。窓枠にあたると避けるように別な方向へ跳ね始める。ぼくたちは見入った。
「すごい」
アオがつぶやいた。確かにすごかった。本体から切り離されても、なお、自分の意思を持つかのような姿に畏怖の念さえ抱いた。
「行っちゃったよ」
アオが初めに気付いた。
尻尾をおとりにして、ヤモリはいつの間にか窓の向こうへと逃げおおせていた。
スクリーンルームの後片付けを引き受けたら、アオが手伝うと言った。何度か断って、ようやく一人きりになる。
窓際のヤモリの尻尾はもう動きを止めていた。ぼくはソファを尻尾のそばに移動して、その影に隠れて待った。動かなくなった白い尾は神秘的な動物の爪のようでもあり、月の欠片のようでもあった。
切り取られた一部、続きがあるもの。
想像力が刺激されて見ていて飽きなかった。
一時間ほど経ったころ、予想通り尾を失ったヤモリが戻ってきた。彼は用心深く尻尾を目指して床を這ってくる。
ネットの動物図鑑で調べたところ、ヤモリは尾を自切りした場所に戻る習性があるらしい。脂肪分が豊富だから、食べるために戻るのだという。
尾から10センチほどのところまでヤモリが来た。
今だ。
まず、窓を閉めた。森に逃げられないようにするためだ。
ヤモリはぼくの存在に驚いていた。一瞬フリーズしてから、方向転換してかなりの早さで逃げ出した。尾のない後ろ姿は滑稽で哀れだった。少し気の毒になるが、捕まえたいという欲求が勝った。
ぼくは虫かごを片手にヤモリを追いつめる。ヤモリは窓が閉じられ外に逃げられないことに気づき、ガラス面をのぼりはじめた。手を伸ばす。逃げられた。すばしっこい。今度こそ、と思ったが、あっという間に背伸びをしても届かないほど高くに昇られてしまった。ジャンプしてみる。だめだ。そう思った瞬間、頭の奥が熱くなり火花が散り真っ白になった。
ぽとりと頼りない音がした。ヤモリが窓から落下して転がっていた。ガラスにはりついた姿のまま硬直している。全身が薄く透明な膜でコーティングされていた。
とまどいながらも、ぼくは、自分がそれをやったとわかっていた。
ヤモリを拾う。
透明な膜にはわずかに弾力があった。掌に載せて裏返したり横向きにしたりして観察する。小さな頭、大きな目。白い体の中央辺りが黒いのは内臓が透けているからだ。平たく柔軟な体の線は、尾がないせいで不自然に途切れていた。
瞬間、嫌悪感が走った。
“切り取られた一部”は魅力的だが、“残された大部分”は醜い。
気づけば尻尾を拾いあげていた。すると尻尾も透明な膜に覆われた。
尻尾をヤモリに近づける。吸い込まれるように尾はヤモリの体につながった。
ヤモリは昼に見た時と同じ姿に戻った。
アオが『キレイ』と見とれた美しい白いヤモリがそこにいた。
ぼくは嬉しくなり、そっと人差し指で透明な膜越しにヤモリの頭をなでた。すると抑えられない欲求がわきあがってきた。やめたほうがいい気がした。うまくいくとは限らない。でも、我慢できなかった。
ぼくはヤモリの頭を人差し指と親指で挟む。集中する。指先が熱くなる。抵抗がなくなる。ヤモリの頭部は体から引き離され、あどけない表情でぼくを見ていた。掌にのせてみると、まるでぼくの体内にもぐりこんだヤモリが顔をのぞかせているみたいだった。ぼくはヤモリの頭を体へと戻してみる。すんなりと元に戻った。離すよりずっと簡単だった。
次にヤモリの背中に人差し指と中指をあてる。頭の奥がまた熱くなり何かがゆるむような感触がした。薄い膜がヤモリの一部じゃなくなったことを感じた。剥がすことができる、と分かった。ドアのカギを開けるような感覚で、透明な膜をひっかいた。膜は傷がついた箇所から、空気に溶けるようにしてなくなっていった。
掌の上でヤモリがうごめいた。
生きている。
ぼくは掌を虫かごにいれる。
ヤモリはぼくの手から逃れ、虫かごのガラス面に移動した。辺りを探るように慎重な動きだった。
でも、頭にも尻尾にも不自然さは少しもない。
完璧だった。
とても疲れていたけど、アオやヨリの驚く顔を思い浮かべたら、気分は晴れ晴れとした。