青の世界にたどり着く
古風な呼び鈴を鳴らすと数十秒後に音もなく玄関が開いた。
視界が青に染まった。
屋敷内は壁も床も、二階に続く階段もすべてが青く塗られていた。元ホテルらしい吹き抜けの造りで、大きな天窓があり光が降り注ぐ。
家具は何も置かれていない。ソファもテーブルもない。
がらんとした空間で、まるで空か海に浮かぶように彼は立っていた。
「ようこそ」
日差しを浴びたことがないような白い肌、対照的に髪と瞳は深い黒だ。長めの髪は一つに束ねられ、あらわになった肩と顎のラインは少年と男性の間で揺らいでいた。
「遊理、久しぶり」
中性的な、柔らかい声。
「お久しぶりです。お招きありがとうございます」
遊理が私たちを紹介する。
「こちらが不破 圭さん。第三研究室の先輩です」
「不破さん。すごく優秀な方だって聞いてるよ、よろしくね」
アオの言葉に、圭は「はじめまして」と会釈した。
「こちらが三鬼 カイナさんです」
「三鬼さん。来てくれて本当にありがとう。あえてすごく嬉しいよ」
感情のこもった歓迎の言葉にうろたえる。こんにちは、とつぶやきながら、責任の重さを改めて感じる。
「二階に部屋を用意しているから」
アオは階段をあがり、私たちは後をついていく。
階段をのぼると左右に廊下が別れていた。
アオは向かって右側が「西棟」、左側が「東棟」だと説明した。
二階は白を基調としていて、柔らかさと清潔感があった。窓の外には山の緑があふれる。元ホテルらしく、いくつものドアが等間隔に並んでいた。
「一階のホールが海で、二階は砂浜や船のデッキのコンセプトなんだよ」
私は一歩踏み出してホールを見渡す。
「山奥だからね、海への憧れが強くって。ぼくたち兄弟はよくここで遊んだ。海ごっこなんて言ってね」
圭も遊理もホールを一瞥しただけで余り興味は示さなかったが、私は想像に引き込まれた。
たゆたう海を眺めながら、圭や遊理と船に乗る自分。
白い手すり越しに見る一階のホールが波に揺らいだ気がした。
「こっちだよ」
アオに呼びかけられて我に返る。
私たちは右側の西棟の廊下へ進む。階段から近い順に三つの部屋を割り当てられた。一番手前が圭、次が私、その奥を遊理が使うことになった。
元ホテルらしくドアはオートロックだった。開けるときはデジタルブックの汎用セキュリティアプリを使用する。圭と遊理が私の部屋のドアのセンサーに自分のデジタルブックを重ね開錠できるか確認をした。私はデジタルブックを持っていない。部屋の出入りには圭と遊理のどちらかが常につきそうのだろう。
室内にはダブルベッドと見晴らしのいい窓があり、椅子とテーブルが外を眺められるように置かれていた。ドリンクメーカーもバスもトイレもあり、シンプルで必要十分な部屋だった。
『本物の窓だ』
リグルが待ちかねたようにバッグから飛び出す。窓のそばまで嬉しそうに跳ねていく。
『いい景色だよ、庭がきれいだし空が見渡せる』
私も椅子に座り窓の外を眺める。薄曇りだった空は晴れ始めていた。雲が散らばりまぶしさを取り戻しはじめている。
その時、ドアがノックされた。リグルは素早く椅子の影に身を隠す。
遊理だった。
「アオくんがお茶を用意してくれました。来てもらえますか?」
廊下を遊理とならんで歩く。
歩きながら、ふと気になり
「あの人と親しいの?」と尋ねる。
「何度か親のパーティで顔を合わせたことがあって」
「年下なのに敬語?」
「依頼人ですからね」
それなら私にも敬語なのはどうしてだろう、と考えていると、遊理が申し訳なさそうに
「すみませんが、後でドアを外から施錠します」と言った。
「構わないけど」
「規則なので。すみません」
「作業は写真の書斎でできるの?」
「はい。アオくんに頼んであるので大丈夫ですよ」
「そっちも施錠が必要ね」
「えぇ、すみません」
謝らなくていいのに。逆に申し訳ない気持ちになる。
階段の前を通りかかる。ふと一階のホールを見下ろすと、ホールの青の色彩が揺らいだ。
思わず立ち止まる。
まるで波の揺らぎのようにホール全体が微妙に震えていた。
「視倉カナメは末っ子のアオくんを溺愛していたそうです。だから彼に一番好きな色の名前をつけ、ホールを真っ青に塗ったそうですよ」
遊理はホールの揺らぎ気付いていないようだ。目をそらすとそれは消えた。
よく見ると壁や床の青に濃淡が施されている。一階は海がコンセプトだとアオは言っていた。きっと波を模した錯視が起きるように計算されているのだろう。
行きましょう、と即され歩きだそうとした時。
一階ホール全体が大きくうねった。錯視どころではない激しさだった。立っていられなかった。しゃがみこむ。
三鬼さん?
遊理の声が遠い。不意に写真の双子の笑顔がよみがえる。双子。自分にそっくりな存在、分身。イメージが連鎖して押し寄せる。だめだ、だめだ、来ないで、心を閉ざす。
「三鬼さん!大丈夫ですか?」
肩を捕まれ我に返る。
白い手すり、青いホール、遊理の心配そうな顔。元通りの異常のない風景が私を取り囲む。
呼吸を整えて、だいじょうぶ、と立ち上がる。
「どうしたんですか」
「ただの貧血」
私は階段の下を見ないように歩き、東棟側の廊下へとたどりつく。
「本当に問題ないですか?」
「ちょっと疲れただけ」
「部屋で休んでいてもいいんですよ」
遊理は心配そうに言った。私のことより、この後の作業に問題がないか気にしているのかもしれない。それでも誰かに気遣われるのは嬉しかった。
「ありがとう。でも彼と話したほうがきっといい結果がでるから」
遊理は東棟の階段に一番近いドアの前で立ち止まりノックをした。
どうぞ、と、すぐに声が返ってきた。
フローリングの広々とした部屋だった。窓からの光が部屋に満ちてまぶしい。壁には何枚か、印象派風の風景画がかけられている。名前を知らない画家だったが、構図も光の捉え方も美しい。
中央にカフェ風の丸テーブルと椅子があり、アオと圭が座っていた。
アオは私を見るとさっと立ち上がり「コーヒーと紅茶、どちらがいい?」と聞いた。本当にカフェみたいだと思いながら私はコーヒーを頼んだ。ドリンクメーカーは最新式のようだ。きっかり30秒でとても香りのいいコーヒーが作られた。
テーブルにはサンドイッチやスコーン、ケーキ、フルーツが所狭しと並んでいた。つい目が吸い寄せられる。
「三鬼さんが何が好きかわからないから色々と用意してみたんだ」アオが言った。
それほど空腹ではなかったが、ケーキやフルーツの嗜好品に私は飢えていた。研究室ではめったに食べられない。圭を見る。私はお客様じゃないし、もてなされる資格はない。食べてもいいか判断がつかなかった。でも圭は私を見ようとはしない。迷っていると遊理が私の取り皿にいくつかのせてくれた。我慢できず私は苺をフォークでつきさし口に運ぶ。甘くてみずみずしかった。
「おいしい?」アオが私に笑いかける。「写真で見るより大人っぽいね。ぼく、あなたのファンなんであえるのを楽しみにしてたんだ」
予想外の言葉にむせる。
「ファン?」
「アビリティを保有してるってすごいことだよ。数百万人に一人の奇跡だから」
奇跡。アビリティについてそんな表現を使うのは珍しい。こんな山奥に一人で住んでいると、一般とは違う感覚になるのだろうか。それとも違うから住めるのだろうか。
「写真って何をみたの?」
「毎年、研究室で撮る証明写真みたいなやつがあるでしょ?寄付額が一定以上を超えて、資格審査にパスすると、その研究室に所属しているアビリティ保有者のプロフィールが載ったサイトへのアクセス権がもらえるんだよ。依頼もそこからしたんだ」
アオが私のことを知っていた理由がわかったが、プロフィールの存在は初耳だった。いつの間にか誰かが自分を見ているというのは少しだけ不安になる。でも、私にそれを非難する権利はない。
「写真の私は、実物より若い?」
「うん」アオはうなずいた。「どれも、ぼくと同い年くらいに見えた」
「あなたは……」いくつだったか思い出そうとする。
「ぼくは19歳」
今、私は24だ。でも3年半前から、私の心の時は止まっている。ふとある考えがよぎる。
同時にアオが「思ったんだけど」とつぶやく。
「三鬼さんのアビリティって写真や映像に関するものだよね。研究室にずっと閉じ込められていて、三鬼さんの中の時間が20歳のまま止まっているなら、写真を撮られるときに無意識にアビリティが発動して若く写っていたりして?」
私の考えとまったく同じことをアオは言った。見透かされたようで動揺する。
「さぁ、わからないけれど」
私は言葉を濁す。アビリティについて公開情報以上のことを部外者に話すことはできない。研究室からでるときに何度も念を押され、機密保持誓約書にサインもしている。破ればいろいろと面倒なことになる。
「ぼく、アビリティにすごく興味があってね、勉強してるんだよ」
アオは楽しそうに微笑んだ。
「ぜひ色々聞きたいな」
「視倉さん」圭が言う。「今回、我々が来たのは、あなたのお兄さんであるキオさんとヨリさんの写真を、彼女のアビリティを使ってコピーするためです。これは、あくまで研究の一貫という形で行われています。それ以上は何もできないことを、ご了承ください」
アオはため息をついた。
「三鬼さんのアビリティ、変わってて面白いから色々聞きたかったんだけど、やっぱだめ?」
「事前にお渡ししている公開情報以上のことは、お話しできません。研究室にとってアビリティは機密情報です。こうして我々がここに来たり、外部の方とアビリティ保有者が直接会話をすること自体、異例中の異例なのです。ご理解ください」
「特別に便宜をはかっているんだから、これ以上は踏み込むなってこと?」
「率直に言うなら」
アオは噴き出した。
「いいね、率直なのは嫌いじゃないよ。了解」
「ありがとうございます」
「でもアビリティ以外のことなら三鬼さんと話してもいいんでしょ?」
「えぇ。でも彼女と話す時は、必ず私か二詩原が同席の上でお願いします」
「見張られてるみたいだ」
「規則なんです」
「不破さんは真面目だね」
「規則には理由があります。真面目だから守るわけじゃありません」
アオはじっと圭を見た。
「不破さんて……まつ毛長いね」
圭がむっとした顔をする。遊理が割り込んだ。
「真面目かどうかはおいておいて、不破さんはむちゃくちゃ厳しいんです」
「そうなんだ?」
「おかげで、いつも怒られっぱなしです」
「遊理が柔らかすぎるんじゃない?」
「だから組まされたんでしょうか」
「デコボココンビってことだね」
「ところで」二人に冷たい一瞥をなげて、圭はデジタルブックを開いた。「今回の依頼内容について詳細を確認させてください」
「うん、何でも聞いて」
「まず、我々が把握している内容をお伝えします。提出いただいた依頼書と同じ内容ですが、認識合わせのためいいですか?」
「どうぞ」
「10年前の6月11日、当時9歳のあなたと、二つ上の兄である双子のキオさんとヨリさんは山で遊んでいた。だが途中で、あなたとキオさんたちは別行動をとった。キオさんたちと連絡がとれず、三時間後に警察に通報。遭難の可能性も考慮して捜索隊が出動し、夜通し探し続けたが二人は発見されなかった。それ以来、キオさんとヨリさんは行方不明のまま。間違いないですか?」
「そうだね、大体あってる」
「子供だけで山で遊ぶことはよくあったんですか?」
「この山は、ぼくたちにとって庭みたいなものだったから。散歩用の安全なルートも休憩用の山小屋もいくつも確保されてる。危ないことなんかないはずだった」
「でも、はぐれてしまった?」
「もう少し詳しく話すとね、あの日、ぼくたちは山小屋で休憩をとっていた。ぼくは疲れきっていたけど、キオとヨリにはまだ体力に余裕があった。二人はカノンに……カノンはぼくたちの母親なんだけど、彼女にお土産に花を摘んで帰ることにして、ぼくは山小屋で待つことになった。でも一時間しても二人は戻らなかった」
アオは小さくため息をついた。
「それっきりだよ」
「ありえないことですか?庭のようなこの山で、二人が遭難するなんて」
「初めは信じられなかった。でもぼくたちは時々、わざと安全ルートをはずれることがあった。特にヨリは冒険好きだったし、年下で足手まといなぼくもいなかったから、二人でいつもより大胆にルートをそれたかもしれない。この山は大きくはないけど地形が入り組んでいるから、どんなに慣れていても絶対に迷わないとは言い切れないんだ。デジタルブックの電波が入らない場所もあるしね。でも、そう、不破さんの言う通り疑問は残っている。本当に二人は山で遭難したのかなって。だから今回依頼をしたんだ」
圭は短くうなずいた。
「対象の写真についてですが」
圭は双子が書斎にいる写真を出した。
「10年前の5月29日、つまり兄弟のお二人が行方不明になる約二週間前のもので、場所はこの家の書斎、撮影者はあなたということですね?」
「うん、間違いないよ」
「わかりました。この後、彼女は作業に入ります。明日の朝には結果がでるでしょう」
「書斎を使うんでしょ?後で案内するよ」
「ありがとうございます」
「三鬼さんのアビリティって、対象についてよく知るほどいい結果がでるんだよね?」
圭が眉をひそめると、アオは苦笑した。
「大丈夫、公開情報以上のことには触れないって。ぼくが知りたいのは、三鬼さんのアビリティを十分に活かすために他に何かできることはないかってことだけ」
真剣でどこか悲し気な顔でアオが私を見た。
「どうしても知りたいんだ。二人が生きてるのか……死んでいるのか」
「写真」私はつぶやいた。「他の写真はある?」
「印刷したのはあの一枚だけど」
「データでもかまわない」
アビリティの対象は、アナログな印刷物の必要がある。でもイメージの増幅ならデータでもできる。
遊理がアオに言った。
「ぼくと不破さんにデータを送ってもらえますか?」
デジタルブックをテーブルに広げて、私たちはのぞきこむ。
双子と一回り体の小さな少年が遊んでいる写真が何枚も続く。
「これがぼく」
アオが体の小さな少年を指差す。
「そっくりですね」
遊理が言った。アオと双子の兄たちはよく似ていた。
「三つ子みたいってよく言われた」
「いつも一緒だったの?」私がたずねる。
双子だけで写っているものはなく、そこには必ずアオがいた。
「ぼくたちは仲が良かったから。お互い以外に遊び相手もいなかったし」
次の写真は美しい女性と、真面目な顔をした男性が一緒だった。女性は双子の一人の後ろに立って肩に両手を置き、男性はアオの頭を撫でていた。場所はこのティールームのようで、女性は男性に比べて年齢がかなり若く見えた。
「父さんとカノンだ。こっちがヨリでこっちがキオ」
カノンが肩に手を置いているほうがヨリで、その隣がキオだという。
「家族5人で撮った最後の写真なんだ」
アオがしみじみと言う。
「この少し後で父さんが事故で亡くなって、それからすぐにキオとヨリが行方不明になった。不幸が続いて、ぼくとカノンは打ちのめされた。二人で取り残されて、あの頃はカノンがぼくを置いていくんじゃないかと不安でたまらなかった。カノンは父さんと正式に結婚する前だったから、ぼくの面倒を見る義務がないのは子供ながらにわかっていたんだ。でもカノンはぼくのそばにいて本当の母親のように支えてくれた。今はようやく親離れできて、カノンも自分のやりたいことをやれるようになったけどね」
「カノンさん、若い頃から凛とした雰囲気の方だったんですね」
遊理が感心したように言う。
「遊理、カノンのこと知ってるの?」
「直接の面識はありませんが」
「カノンはすごいよ。元々、視倉コーポレーションで働いていたんだけど、その頃から飛び抜けて優秀だったんだって。」
「え?カノンさんって視倉コーポレーションの従業員だったんですか?」
遊理が驚くと、アオが苦笑いをした。
「余計なこと言っちゃったかな。カノンに怒られるから公表しないでね」
「もちろんですよ、守秘義務がありますし。なくても言わないって約束したことは言いません、ぼく、口が固いですから」
「そう?」
「あ、今、疑いましたね。口が固くないとアビリティ研究室勤めなんてできないんですよ」
「それはそうだね」
「ところで、カノンさんって経歴を非公開にしてるのはなぜです?視倉カナメの内縁の妻だったってことも、知ってる人、ほとんどいないんじゃないですか?視倉コーポレーションでの勤務経歴や、天才発明家の視倉カナメとの関係は、むしろ彼女の活動にプラスになるはずです。隠すことじゃないと思いますけど」
遊理の遠慮のない物言いにアオはまた苦笑した。
「色々と危険な仕事だからね。カノンが撲滅しようとしている人体売買組織はあちこちに食いこんでいる。弱みを見せるわけにはいかないらしいよ」
「なるほど。プライベートは秘密にしておいた方が安全ですからね。でも気になるな、カノンさんって上品なのに野性味のある雰囲気ですよね、どんな生い立ちの方なんですか?」
アオはゆるく首を振り、
「これ以上はだめ、カノンの過去を勝手には話せないよ」
としめくくった。
不意に圭が口を挟む。
「過去ではなく現在のことならいいですか?」
「うん?内容によるかな」
「カノンさんとは別々に暮らしているんですよね?彼女は今どちらに?」
「居場所を特定されないように海外をあちこち渡り歩いてるけど、メインはハワイやグアムだね。組織が活動している港もあるし、ずっと山にいたから反動で海の近くがよくなったみたい。でも、時々、帰ってきて何週間かここで過ごすこともあるよ。カノンのホームはあくまでこの屋敷だから」
「でもそれ以外は、あなたは一人ですか?」
「うん」
「こんな山奥に一人で暮らすのは寂しくないですか?」
思わず圭を見る。圭が他人のプライベートや心情に踏みこんだ質問をするのは珍しいことだった。
「ぼくはここが好きなんだ。静かなのは落ち着くしね」
アオは言葉を選ぶようにゆっくり答える。
「生まれた時からここにいるから、自然があふれて空気がきれいなのが当たり前になってる。会社に顔を出したり、パーティに呼ばれたりで年に2、3度は山を降りるけど、長くはいられない。山の外は刺激的で面白いけど、すぐ疲れてしまう。ぼくにとって生活する場所はここなんだよ」
「なるほど。年に数回の下山では我々の研究室にお越しいただけないのも仕方ないですね」
圭は皮肉な笑みを浮かべた。
遊理が慌てたように「不破さん、今さら何言い出すんですか?」
「すみません、独り言です。ただ不思議で。孤独が好きならどうして我々を家に招いてくれたのかな、と」
圭の皮肉を気にする様子もなくアオはにこりと笑った。
「ぼくは静かなのが好きだけど、人嫌いじゃないんだ。むしろ、こうやっておしゃべりをするのはとても楽しいよ」
「アオくん、人見知りしないですもんね」
遊理が取りなすように言った。
「初めてあったパーティの時も、いきなり話しかけられてびっくりしました」
「年齢の近い人が遊理くらいしかいなかったからね」
「でも突然、後ろから『生態系における狼の重要性を知ってる?』と聞かれたら驚きますよ」
「遊理のデジックの待ち受けがカッコいい狼のイラストだったからさ。今でもそうなの?」
「えぇ」遊理がデジックを差し出す。
「お気に入りなんです」
水彩画のようなタッチで狼の全身が描かれていた。構図やディテールの甘さがあるからプロの筆ではないだろう。だが不思議な美しさのある絵だった。
「ぼくも狼は好きだよ。物語では悪者にされがちだけど、彼らは生態系において重要な役割をもっている」
「鹿が植物を食べすぎると森が滅びる、だから鹿を食べる狼が必要だって話にはなるほどと思いましたよ」
二人は思い出話にふけりはじめる。空気がやわらぎ、楽しそうな会話に加わりたくなる。だが圭が仏頂面でデジタルブックの写真に視線を落としたのに気づき、慌てて画面をのぞきこむ。すると圭はカップを持って立ち上がり、ドリンクメーカーのそばへ行ってしまった。私と二人で見ることを避けたのだろう。
耳の片隅で遊理たちの会話を聞きながら、私は写真データに一つずつ目を通していく。
屋敷内や、庭や、山で撮られた三人の少年たち。時々、若く美しい母親や、真面目そうで知的な風貌の父親も登場する。どれも幸せを切り取ったような写真ばかりだった。私は自分も昔、こんな風景を持っていたことを思い出して、少しだけ切なくなる。
やがて最後の写真にたどりつく。
首を傾げる。
あまり長い間眺めていたので、どうしたんですか、と思い出話に一区切りついた遊理が私に聞いた。
「このトカゲ、何だか気になって」
おもちゃだろうか。真っ白で丸い黒い目をしている。双子のうちの一人が手に持ち、アオに見せている。小さなアオは不安と興味の混ざった顔で手を伸ばしている。
「気づいた?」そうつぶやくと、アオがデジタルブックの画面を拡大した。
「トカゲじゃなくてヤモリだけどね」
一瞬、本物かと思ったがヤモリの四肢は不自然に凝固していた。尻尾から頭部まで透明な膜に包まれている。破損防止か衛生用の樹脂コーティングだろうか。
「よくできていますね」遊理が言った。
おもちゃにしては精巧すぎる造りだった。
私は言った。「書斎の写真に、そっくりなヤモリがいた気がして」
片隅に置かれていた虫かごのイメージがよぎる。
「同じヤモリだよ」アオが言った。
「でも」
虫かごの中の小さな存在。だが、写真の虫かごの中では、ヤモリは身をくねらせてガラス面にはりついていた。
“あれ”は、生きていた。でもこれは違う。
「迷っていたんだけど」アオが言った。「やっぱり言っておくことにするよ」
「何をですか?」
圭が低くたずねた。警戒しているような声だった。
「来て、見せたいものがあるんだ」