Episode.76
円筒型の水槽内に浮かぶ白い塊。
そこからの気泡は既に消えていた。
奥の壁際にあるディスプレイには『Decease』の文字が浮かんでいる。
『Decease』とは、医療や法律などで使用される専門用語で「死」を意味した。
周辺にある操作パネルなどにも赤い点滅が出ており、緊急事態であることを表している。
扉を開けて部屋を出た。
現代に生きるイーリスは死を迎えたといえよう。
ただ、万に一つの賭けに出た。
この時代ではなく、遠い未来に希望を馳せたのだ。
具体的にはアストラル・プロジェクションを行い、イーリスの意識を数百年先へと飛ばした。
アストラル・プロジェクションとは星幽体投射や星気体投射とも呼ばれ、一部では幽体離脱と同じ事象だといわれている。
簡単に言えば、人間は物理的身体と精神体で形成されており、肉体的には死亡しているイーリスの精神体を脳と分離させて時空を超えさせたのだ。
そんな事が可能なのかと問われれば、超能力者同士のシンクロで可能にしたとしか答えられない。
一般の人間では実現不可能な事象で、科学的知見からは単なる精神的な解離体験ではないかと問われるだろう。
しかし、時間を操るユニークネスを持つイーリスと、俺が蓄積した能力の合わせ技で試みることとなった。
成功率は1%にも満たないはずだ。
だが、イーリスは俺の提案を受け入れ、俺もまた、ただ彼女の命を奪うのだけは拒否したかったのである。
因みに、俺が今回使った能力は、かつて日本古来の能力者を相手どって、創痕として身に受け備わったものだ。
その相手とは、西暦600年代の推古天皇の時代から重用されている陰陽師の末裔である。
陰陽師とは、陰陽五行思想を基にして祈祷や占術を行う者をいう。
呪禁道が陰陽寮に統合された頃からは呪術の扱いが活発となるが、これらはすべて俺たちと似たような能力を操っていたと解釈されている。
その陰陽師の末裔と相対する機会があり、俺は相手の呪術をまともにくらってしまったのだ。幸いにも、その時は他の能力者に助けられたため大事には至らず、逆に相手の能力を身につけることができた。
陰陽師は人形を用いて自身の穢れを移して祓ったり、対象の人物名を書いて災いを引き起こしたりする。
穢れとはケガや病気で、祓いは人形を身代わりとした治癒系の能力を指す。そして災いとは死や傷のことをいい、呪いの藁人形を用いて対象者にもたらすことをイメージするといい。
それ以外にも自身の精神を人形に宿し、鳥のように飛ばして遠方の景色を見たり、人を殺めるための手法として使ったりもする。
これらは呪術とされており、人形はそれを発動するための媒体である。
俺たち能力者も、媒体を用いて力を発動する場面がある。銃弾の軌道を変えたのもその一部であるため、陰陽師とは流儀の異なる超能力者だと思えばわかりやすいかもしれない。
さらにこの施設に秘匿されていた資料の知識も活用した。月影が世界記憶の概念と称していた研究資料の仮定を流用させてもらったのだ。
一部の神智学的思想家や、かつて存在したイギリスの西洋魔術結社の影響を大きく受けたこのアカシックレコードには、アストラル旅行についての記述があった。
アストラル旅行とは、精神体がアストラル界という領域を旅するアストラル投射について記載されたものである。
俺はこれらの知識と自身の能力を掛け合わせ、イーリスの時間を操る能力と融合させてみた。
イーリスの意識を超臨界流体として脳から分離させ、時空を超えて神道でいう依代となるべく対象へと定着するよう送り出したのである。
依代となる対象は当然のことだが人間で、イーリスの未来予知能力を使って捜索させた。
その相手については彼女にしかわからない。
経緯として、その時代で死を迎えたばかりの人物を偶然にも見つけることができたそうだ。その体に超臨界流体として入り込み、意識を定着させる。その辺りについては、イーリス自身の能力と思考に任せるしかなかった。
もちろん、結果がどうなったかは知る由もない。
しかし、自らの命を投げ出そうとしたイーリスに、一縷の望みを与えることになった。
そして、俺自身への精神的な救済ともなったのは言うまでもないだろう。




