折り返し
「それでは、まずはイパレア氏の牢にでモー入りますか」
「そうします。ガトレ様、法廷でまた会いましょう」
「ああ。願わくば、これが最後の法廷となって欲しいところだな」
疲れた声のガトレにナウアは頷き返す。それから、ミルモウを連れ立ってイパレアの牢へ向かった。
牢の扉は閉ざされていた。そのまま触れば感応術式が発動し、電撃の反撃を受ける。故に鍵は必要なく、術式を解除する事で中に入る事ができるのだ。
「この術式を解除するには許可が必要です。感応術式の特性を活かし、解除用と再発動用に特定の人物の魔力が必要ですな」
そう言ってミルモウが取り出したのは、一枚の鳥の羽であった。
「術式の作成は究謀門ですが、着想はアミヤ正透門頭がされたものです。この牢は現在、正透門の副門頭の魔力で制御が可能なのですな」
ミルモウは羽を牢に押し当てる。牢の前面が白く輝き、羽を押し当てた一箇所に光が収縮していった。
「魔力が残っていれば身体の一部で可能なのですね」
「実際に使ってみた身としては、落とした羽を拾われたらどうするつもりかと不安になるものですな」
「ヒト族やアビト族は魔力循環器を中心として魔力を身体に巡らせているので、落とした羽や髪の毛等は次第に魔力を失っていくはずですよ」
ナウアは生体論として学んだ知識を思い出しながら説明する。自然魔力は本体に浸透しているらしく、動物の死体から損なわれたり、刈り取られた植物から失われる事がない。
もしも人々が皆、自然魔力を有していたとしたら、魔力補給の為に食人行為が横行していただろう。そして、イパレアの計画に悍ましさを感じる事も無かった。
「どうぞご自由にお入りください。怪しい素振りを見せたら即座に取り押さえますがな」
既に物言わぬ死体となっている事を認識して尚、ナウアは身を震わせてから金属柵の扉を掴む。冷たい手触りに肩が跳ねた。ゆっくりと引いて、足を中に踏み入れる。
部屋の中は冷んやりとしていた。イパレアの療養室で目を覚ました時ほどの寒さではない。ナウアは冬が近づいている兆しを感じた。
ヒト族とアビト族の死体は残り方が違う。ヒト族の死体は最終的に魔力が抜けきると、薄い皮のようなものが残り、どこかへ飛んで見失う。肉体成分が少なければ、終のヒト族となり消え去ってしまう。
一方でアビト族の死体はヒト族に比べると肉体が残りやすい。代わりに気温の高い場所に放置されると腐敗が進み悪臭を放つ。
イパレアの死体は、まだ腐臭を放ってはいなかった。しかし、今度こそ絶命している事は確実で、冬眠しているわけではないだろう。
今はうつ伏せで隠されているイパレアの表情は、どの様なものだろうか。
「身体を動かしても良いですか?」
「ご自由に。ただし、血が跳ねますのでご注意を」
ミルモウの注意に則り、ナウアは両手でイパレアの肩を掴んで慎重に上半身を持ち上げる。
ヒト族にはなくアビト族には流れる血液がそれなりに抜けているようで、上半身を持ち上げるだけなら見た目よりも軽かった。ただ、力が入っていない証明のように、腰の辺りがぐにゃりと曲がるのを見て、ナウアの表情が歪む。
それからナウアは視線を後方から前方に引き戻す。あるいは、目を逸らそうとした結果、嫌なものを目にしてしまったという方が正確だろうか。
ナウアが逸らしていた視線を向き合わせると、目の前にあるのはイパレアの顔。笑顔も見たし、憎悪に塗れた顔も見た気がする。色々な顔を見てきたというのに、今は初めて見る苦悶の表情を浮かべていた。
生気のない顔は冬眠とは全く性質の異なるものであった。思えば、整えられていない死体の表情を見たのは初めての事だとナウアは気づいた。衛生門の所属だったのに、と自嘲を口元に表して現場を検める。
血液はまだ乾き切っていない。時間が経過したのもあってか、細い傷口の割に広がってしまったらしく、イパレアの顔に生えた毛も赤く染まっていた。
囚人となっても着用している緑の軍服は血に塗れ、こちらも乾くに至らず赤黒く滲んでいる。
血液が乾いていない要因は、石でできた床が主な理由に思えた。吸水率は悪い材質の様で、表面を血が滑ってしまっている。
ナウアが視線で追うと、血の滴は飛び散っている様にも見え、その傾向は窓に向かって顕著に見られた。
一度イパレアの死体を下ろすと、血溜まりの跳ねる音がした。気にしない様にして、ナウアは窓に近づいていく。
窓の近くまで飛んだ血液ですら、乾いてはいなかった。いや、乾き掛けだろうか。人差し指で触れてみると、液体とは言えない状態だが、冷たい感触がした。指の腹を見ると赤が付着している。
いくら吸水率が悪い場所とは言っても、飛び散った様に見える血さえ乾いていないのは、ナウアには少し異常な事に思えた。
事件の発生からは数時間経っている。その間、天候も明確に覚えていないが晴れていたはずだ。鳥人達と会った時に雨は降っていなかった。
状況に違和感はありつつも、解消できないままナウアはその場で辺りを見回した。
イパレアの死体の他には何もない。イパレアの魔力循環器を貫いたはずの凶器も。
「排泄はここでは無いですよね。確か、時間が決まっていた様な」
「そういえば経験者でしたな。その通り。食事の後と決められています。今回はその機会もなく殺されましたが」
ヒト族でもアビト族でも食事の時間が終わった後、一定時間で看守が来た際にのみ排泄が許される。そのときは別の場所へと連れて行かれるらしい。
「凶器は土爪魔術と考えられていると聞きましたが、ここから持ち出されたものはないという事ですね」
「魔力採取機で血液が多少は持って行かれているでしょうが、それ以外はほぼそのままですな。死体の位置などは多少変わっているかもしれませんが」
ナウアもさっきイパレアの身体を持ち上げたばかりだが、基本的な状況は変わらないという事だ。
「土爪魔術であれば石が尖る様に盛り上がったはずですよね」
「その通り。ですが、その痕跡はありません」
ナウアが見た限りでもそうだった。血溜まりは一定の方向に流れるという事もなく、床面は平らであった。
「天井はどうですか?」
「チュユン捜査士官が調べているはずですが、事件の担当者が私から変わった後の話ですな」
「法廷で聞くしかなさそうですね」
ナウアは捜査結果のほとんどがピューアリアに行っており、ミルモウも情報を持っていないに等しいのだと理解した。
「ミルモウ法務官はこの事件、どう思いますか?」
「魔力を伴わない杖があれば、窓の格子越しにイパレア氏を刺したという結論になるでしょうな。その場合、高低差がある状況下でどの様に左胸の魔力循環器を刺したのか、という点が悩みどころですが」
「実現不可能な方々を挙げるという事は、妥当な答えは思いついていないという事ですね」
「隙を突いてあの杖を盗んだと考えた方が説明は簡単でしょう」
デリラの作った杖が、殺人という用途で見ればそれだけ優れた利便性を発揮するという事だが、望まれた使い方とは全く異なる。
「実際、盗まれた可能性はありますか?」
「盗んだ後に元の場所へ戻せば盗んだ事実は消えますからな。証拠品は人圏管に保管されていますから、そのような事実は無いと願いたいものですな」
ナウアとしてもそう願いたいところだった。どちらの意味であっても。
「もう十分です」
ナウアはそう言って牢を出る。牢は再び閉じられ、ミルモウの手元の羽によって、感応術式が再構築される。
「勝てますかな?」
術式の再生を見届けたミルモウが問う。
ナウアにはもちろん、この様な術式を考える事ができない。しかし、それでも答えは決まっている。
「勝ちますよ」
言い切って、ナウアはその場を後にする。ここから先は、ミルモウと行動を共にする必要がない。
もう少しで留置所を出るというところで、ナウアの左で金属柱が甲高い音を立てた。
「お前は負ける! 絶対だ! アイツは必ず死刑になるんだ! その事実を受け入れるしかないんだよ! ハハハハハ!」
「こっぴどく負けた犬人の様に騒がしいですね。お似合いですよ」
「ナウアぁああああ!!」
声の出元を一瞥もせずにいなしたナウアは、階段に右足を掛けてから立ち止まり、ストウの方を向く。
「失礼しました。こんな言い方は犬人の皆さんに申し訳ないですね」
何事か叫び続けるストウの声も、扉を閉め切ってしまえばくぐもった雑音でしかなかった。乗り越えた壁は、もはや小石と変わらない。
私は、そんなところで躓くわけにはいかないんだ。貴方の言葉に揺れる様ではいけない。許されない。
犬人が負けた後に醜態を晒すのは、主人に忠実な習性に由来する。期待に応えられなかった事で、自分が敬愛する者から見捨てられるのではないか。その想像に耐え切れないからだ。
そんな精神構造であるのに、どんな手を使ってでも勝とうとはせず、正々堂々を好みがち。その理由もまた同じく、敬愛する者から見捨てられない為だというのだから単純だ。
ナウアはその習性を好ましく思うが、見習いたいとは思わない。もしもの時は、それ相応に。
どんな手だって使う。それはナウアの主人も口にした言葉。
ただし今は、その時が訪れない事にのみ意識を割く。その為にも、イパレアの遺書を手に入れなければ。意識に比例して足取りもより確かなものになる。
両脇から壁が狭まってくる様にも思える階段道を上りきり、ナウアは看守室へと戻ってきた。




