⑨舟遊び
さて、パトリシアの婚約者のルイスだが、本当に軍の学校へ入ってしまった。編入試験当日は、大層調子がよかったらしい。形はどうであれ、とにかく学業に専念するのである。邪魔になると悪いと思って、パトリシアは周囲にその経緯を言いふらすような真似はしなかった。まだ未成年でもあるので、社交に励む必要もない。
きっと大多数の人は王宮を辞して、領地へ戻ったのだと思っているに違いない。実際はまだ王都にいて、学業の合間に顔を見に来てくれた。
すっかり春めいた頃のある日、彼が屋敷へと遊びにやって来ていた。今までのように一度あちらの王都屋敷に寄ってから、ではなくてそのまま制服姿である。簡素なシャツ姿は新鮮で、よくお似合いですと褒めておいた。
パトリシアは、彼が王宮で仕事をしていた時の制服姿を見そびれてしまった、と少し惜しく思った。きっと良く似合っていたに違いない。制服なら国王陛下に謁見できる、と彼はつい先日まで王城で仕事をしていたにも拘わらず、そんな冗談を口にした。
彼が王城に出仕するより少し前、ルイスは二年間、隣国へ遊学していた。その期間は帰国しなかったから、手紙を送るしかなかった。せっせと書いては託して、返事を待つ日々だった。マメに連絡はくれたけれど、本音を言えば寂しくて、一日も早く帰って来て欲しかった。
帰国して顔を合わせた時には少し泣いてしまって、その時はルイスがものすごく困っていた。会えない間に、彼はすっかり背が高くなって、声も低く落ち着いたものに変わっていた。
たまに、夢に出て来てくれる日があった。他愛のない話をして、美味しい物を好きなだけご馳走してもらうという、幸せな内容だった。会えたのは嬉しかったけれど、パトリシアは目が覚めた後に、寂しくてたまらない気持ちを募らせていたものである。
昼食の後、ルイスはパトリシアを王都にある公園へ連れ出した。侍女のソフィが動きやすくて、それでいて上品に見える衣装、飾らない雰囲気の髪型を整えてくれた。彼女を労ってから伯爵邸を出て、二人は園内をゆっくりと散策する。
「日差しもそこまで強くはないから、どうかな? 雪柳がきれいなのだそうだけど」
公園内外の生垣に、春らしい緑の鮮やかさと対比のような白い小さな花を満開になっていた。それを存分に楽しみつつも、パトリシアは相手の様子もそっと盗み見た。王城を辞す直前に事件があって、仕事があまり上手くいかなかったと言っていたけれど、どうやら必要以上に引きずってはいない様子である。
今はむしろ、始まったばかりの新しい生活に夢中であるらしい。
ゆっくりと一回りして、大きな池のある公園なので、船着場へと足が向いた。彼は釣りが好きだけれど、二人でいる時にはやらない。彼の熱弁によると、魚の種類を問わず、早朝や夕方を狙うのが基本であるようだ。
桟橋に繋がれた小さな木の舟が並んでいて、所定の料金を払うと借りる事ができる。一時間で戻ってね、と今日は混雑しているわけでもないためか、舟主の老人は自分の懐中時計を確認して、ルイスに漕ぐ為の櫂を渡した。
やはり一緒に来ている白猫が一番先に乗り込み、舳先へ居座った。苦笑しながらルイスがひらりと身軽に乗り移る。パトリシアは先に日傘を渡して、それから手を貸してもらった。こちらに戻された日傘を広げて、婚約者もちゃんと入るようにした。
ちゃぷちゃぷと水の遊ぶ音を聞きながら、のんびりとルイスは漕いでいる。ここへ立ち寄る時には大体こうして時間を過ごすので、手慣れた様子で櫂を操っていた。
「ありがとう。船上での実習も組まれているから、そのうち日焼けして帰ってくるかもしれないね。海軍の学校も検討したけれど、船の上が多くて断念した。残念」
ルイスは学校の様子を色々と話してくれた。編入生は寮の四人部屋に無理やりもう一人押し込んだので文句を言われているとか、更に猫までいるので大変狭いらしい。度々、猫さんは暑苦しい部屋に機嫌を損ねて屋敷に帰ってしまうので、ルイスは迎えに行くそうだ。
まあ、とパトリシアは舳先で尻尾を揺らしている猫を眺めた。確かに彼女も女性なので、男ばかりの建物は気が滅入ってしまうのだろう。
青い空や、ルイスの声や、くつろいでいる猫の様子を楽しんでいると、ルイスが口を開いた。
「そう言えば、婚約した時の事を、覚えている? あの時は緊張して、少しもおしゃべりしてくれなかったよね」
「……初めて、目上のあなたと引き合わされたのですよ」
侯爵家との婚約がまとまった、と父から告げられて、カステル一家は侯爵領へと赴いた。当時はまだ、リヒターはまだ小さくて、エーファはまだ生まれていなかった。母もまだ元気で、遠出も可能な時期だった。初夏の旅の間中、パトリシアはこれから顔を合わせる婚約者の事を考えては、緊張していた。父から、決して失礼のないようにと言い含められていたのもある。大丈夫よ、と慰めてくれたのは母だけだった。
合流し、訪れたのは小さな石造りの神殿だった。すぐそばには小さな湖があって、景色の良い場所で両家の面々は顔合わせが始まった。ルイスの父という人は傑物と名高く、高位貴族という身分に相応しい空気をまとっていて、随分緊張したのをよく覚えている。
そこへルイスがパトリシアの手を取って、探検してくると連れ出した。そうして大人達から離れて、二人きりになった。緊張して俯いたまま、手を引かれるままに歩いた。
「どうかな? せっかくなら綺麗な場所がいいと思って、小さいけれどここにしてもらった。雨が降ったらどうなるんだろうね? 溢れたりしないのかな」
「……ええ、ルイス殿。よくいらっしゃいました。ちゃんと水量を調整しているのですとも」
神殿の司祭らしき女性が現れて、二人を一番綺麗な場所へと導いてくれた。外廊には水路が造られていて、透明な水も流れ込んでいた。水の美しい揺らめきが、石造りの天井や壁に映し出されている。そんな初めて目にする美しい光景に、パトリシアはすっかり目を奪われていた。
気が付くとルイスがこちらをじっと見つめていて、元気になったみたいでよかった、などと言う。どうやら夢中であちこち見上げていたらしい。恥ずかしがらなくていいよ、などと言われても、当時はとても難しかった。
懐かしい話を挟みながらおしゃべりしていると、一時間はあっという間である。桟橋に戻って舟を降り、歩きながら次は何をしようかと相談していると、不意にルイスが振り返って立ち止まった。
「追けられている」
「……え?」
ルイスの不穏な声に、パトリシアは思わず足を止めてしまう。背後にぞろぞろと現れたのは、婚約者と同年代くらいだろうか、いずれも体格の良い少年達が四人いる。一様に、冷やかすような笑いを浮かべていた。
しかし、よくよく見るとルイスを含めて全く同じ服装だった。警戒するより先に何となく向こうの正体を察したのと、横でうんざりとした溜息が聞こえたのが同時だった。
「ごめんね、学校の同室だ。右から順番にダン、エルとフィルに一番左がテオ」
「心外だな。釣り同好会の輝かしい結成メンバーだぞ」
以上紹介終わり、とルイスはそのままとパトリシアを連れ出そうとした。話はこれで終わりのつもりらしい。ご学友の方々とお話してみたいです、とパトリシアがせがんだ。すると、彼は何故なのか、複雑そうな表情を浮かべている。
「あっちに雪柳がきれいだったから、そこへ行こうぜ。お嬢さんも楽しめるだろ」
「ご学友のみんな、そこはもう見た。こちらは本物のご令嬢だから、口の利き方に配慮して欲しいな」
「そんなの見りゃわかるって。不可解なのは、どうしてそんな可憐な方の隣に、こんな釣り堀野郎がいるかの話だしな」
ルイスは面倒くさそうな口調と表情を隠していない。パトリシアへ向ける、いつもの虫一匹殺さないような優し気な眼差しとは少し違って、新鮮だった。どうやら学び舎においては侯爵家令息ではなく、ただの一生徒として紛れ込んでいるらしい。
「実は噂が本当で、どこぞの貴族令息なのか? ノインだっけ、様付けで呼んでいたの」
ノインというのは、聞き覚えがあった。面識もある。ルイスが支援して、王都の学校に入らせた秀才である。
彼らは、学業に打ち込んでいるルイスの様子を教えてくれた。いきなり編入して来た後、学内に釣り同好会を結成したらしい。秘密のハンドサインが考案され、やり取りをする決まりだそうだ。
気の置けないやり取りを横目に、しかしパトリシアは一つ疑問が浮かぶ。ルイスの黒髪に青い瞳、という容姿のはかなり珍しいのだけれど、学校の生徒達は誰も気が付いていないらしい。
この陽気な彼らは王都の下町や近隣の街出身らしく、貴族階級ではないとの申告だが、他の生徒達も誰一人気が付かないのだろうか。
「……俺達が必死に軍事史の年号を暗記している横で、こいつはのんきに釣りの話をしている。更には部屋で猫を飼っているし」
「講義を真面目に受けていれば、試験前に慌てて勉強なんてする必要はないと思う」
ルイスは同室全員から非難の眼差しを受け、肩を竦めた。
「ところでお嬢さん、こいつとどういう関係? 期末試験期間に逢引きとは舐めているじゃないか」
「婚約者だ」
同室の彼らは、ルイスとパトリシアを交互に見比べた。はるか昔に絶滅した古代の生き物に巡り合ったかのような表情である。
「お初目にかかります、パトリシア・カステルと申します。こちらのルイス様とは、幼少の頃より結婚を誓い合った仲です」
「お嬢さん、こんな奴やめておきなよ。何を考えているんだかよくわからないし、釣りの話しかしないし。何かいいところあるか?」
おそらく信じていない様子とはいえ、侯爵令息がこんな奴扱いである。しかし、パトリシアもやめるやめないの仲ではない。
「そんな事はございません、私にとってこの方より優しくて、頼りになる方はいません。私は、この方がいるから、安心して自分が正しいと信じる振る舞いをして、生きていけるのです」
パトリシアは真剣に説明した。おおお、と謎のどよめきがあがったので、多少はルイスの仲間内での株を上げる事に成功した気がする。
幼い頃、ルイスはパトリシアの手を引いて歩いてくれた。しかし自分はもうすぐ大人になって、そうしたらその時は並んで、また立ち止まっている時は一緒に悩んで、けれどまた支え合って歩き出す間柄でいたいと思っている。
パトリシアが決意を新たにしている間、ルイスは同室達に肘でつつかれたり、背中を叩かれたりしてじゃれ合っている。それがひと段落すると、全員に屋台で美味しいクレープをおごった。並んで座って食べている間にも、彼らはわいわいと賑やかに色々な話をしてくれた。やや乱暴でいても、さっぱりとした気持ちの良いやりとりを新鮮で、何より楽しかった。
解散する頃には、結婚式には呼んでくれ、という軽口にも対応できる余裕が生まれていた。