⑧善意も猫の形
何か作るよ、とクリストフはルイスを中へと招き入れた。彼に続いて入ると、外装と同じく、室内も洗練された雰囲気である。自分と相手の他、ここまで連れて来た飼い猫を除けば、誰の姿もない。
かまどに火をおこし、彼は手を綺麗してから長い堅焼きパンを薄く切り分ける。並べて炙りながらチーズは平気かい? とルイスに確認してから少しずつ載せ、ジャムの瓶に柄の長い銀のスプーンを差し入れて中身を添えた。何かやります、とルイスが申し出て、お皿を並べるのを手伝った。いつもは誰かがやってくれる作業を自分でやってみるのは、新鮮だった。
「ここに住んでいるんですか? 一人?」
「今、ここには私しかいないが、住んでいるわけではないね。君のように、私の夢の中に尋ねて来る人が時折現れるから、ここで待機している」
会話をしながら、クリストフは慣れた手つきで支度を進めている。ルイスはゆらゆらと踊るかまどの炎や、手際の良い動きを楽しく目で追った。
「すごい。上手ですね」
「基本は軍の学校で煮炊きを習った。飲み物はココアでどうだろう、今夜は涼しいからね。滋養があるし、味は保障するよ。元は妻の滋養のために習って、今は三人の息子が下から横から、もしくは私にぶら下がりながらもっとこうした方が良いとか、はちみつを勝手に追加しようとするのを宥めながら、家族の分を用意するのが私の役目だ」
へえ、とルイスは少し驚いた。使用人でもない限り男性、それも一家の主たる者が直接手ずから食事を用意する、というのはあまり聞いた事がない。どう考えても、彼は使用人に指示を出す側だろう。
まあね、とクリストフは少し笑う。どうぞ、と湯気の立つ陶器のマグカップを用意した。暖炉のそばへ二人で移動して、背もたれに座った。渡してもらって、ふうふうと冷ましながら口をつけると、甘すぎないのがルイスの好みにも合っている。しばらくカップの中身を楽しんだ。
美味しいです、と感想を述べながら、ルイスは相手の顔を盗み見た。それにしても何者なのだろう、という疑問はつきない。
令息であるルイスと相対する時、大人達は目の前の子供に対して、多かれ少なかれ、まるで見えない武器を振り回すのではないかと恐れているような眼差しを向ける。愛想よくにこにこと応じていても、こちらの機嫌を損ねてはならないと家の者に強く言いつけられているためだ。それが身分というものだとわかってはいても、居心地はよくない。
にこやかに応対しながら警戒心を決して捨てない人、利発な令息だと褒め称えながら内心の冷ややかな眼差しを隠さない相手。ルイスはどちらも見慣れている。
自分の父とて侯爵だ。しかし見た目の年齢が上であるのを差し引いても、クリストフがそうした牽制や威嚇からは、一歩引いた高い場所にいるように思えてならなかった。
そして不思議な事に、彼が自分へ向ける眼差しは、決して不快ではない類の好奇心や興味、好意的な感情に満ちていた。期待、と称すべき眼差しをこちらに向ける大人は初めてだった。
それで、とルイスは今まで起きた事をクリストフにできる限り、思い出せる限りで彼に説明を試みた。父からは他言無用、ルイスが将来大人になった時に、後を継ぐ子供にしか教えてはいけない、と言われている。けれど、堰を切ったように言葉は止まらない。
クリストフの方が自分よりずっと詳しそうで、良い対処法を知っているかもしれない。きっと彼は悪い人間ではないはずだ、とルイスは根拠もなく賭けに出た。
「それで、信じてもらえないかもしれませんが、猫さんに尋ねたのです。そうしたらあなたが夢に出て来て、とても詳しそうに思えます」
「……どこまで期待に添えるかはわからないが。多少は知識がついていると言ってもいいかもしれないね」
悪夢、というのはわかるかな、とクリストフは初歩的な認識から確認に入った。ええ、とルイスは初めて、意識して自分の本来の身分にかなうような話し方を心掛けた。
悪夢は夜更かしな子供を狙う魔物である。早く寝なさい、と親達は言い聞かせながら、この国では彼らの脅威から守るための、魔除けの力を持つ金属として名高い、銀の装飾品を贈る風習がある。
「悪夢って、本当にいるのですか」
「いるとも。君も猫さんに連れられて、散々退治して、猫さんの腹ごなしに付き合って回っただろう」
あれなのか、とルイスは考え込んだ。人を襲う熊や、船ごと飲み込んでしまうような大嵐。記憶に焼き付いた、怖ろしい存在や経験そのものだと言えるかもしれない。多くの人は、ルイスが乱入しなければ、危うい事態に陥っていた。
それを相手取って退治して駆除していると考えれば、飼い猫はルイスの夢を好き勝手している張本人だという事実はさておき、一応は善性の生き物なのかもしれない。せめて、それは揺るがないでいて欲しいと思う。
猫はルイスとクリストフのちょうど間で、じっと炎を見つめていた。ルイスは、飼い猫が屋敷の目を盗んで時計に触るように仕向けた一幕と、父の説明をできるだけそのまま繰り返した。
「なるほどね。では、父君はこの猫さんを養う、とおっしゃったわけか。ではそういう約定があるのだろう。相手が相手だから、書面ではないだろうけれど、大人の世界ではそうだし、人でないものと関わる時にも、重要だ。約束をたがえてはならないよ」
ルイスは目を丸くした。彼は大真面目に、文字通りの夢物語の中の話をしている。けれどクリストフは真剣だったので、ルイスはそれにすっかり聞き入った。
「古今東西、そういう話はいくらでも転がっているさ。富や名声を手に入れる一方、対価に美しい娘を要求されるとか、恐れをなして逃げ出す展開や、あるいは知恵を以て出し抜き、退治するような。身柄を要求された娘自身が奮起して退治するか、通りすがりの若者が代わりに挑む場合もあるね」
知恵や力比べに打ち勝つと財産が手に入ったり、王様がお姫様と結婚させてくれたりする。そういう話は母や乳母が枕元で読み上げるおとぎ話の定番だ。文字通り、夢のある話だと思う。
「それなら、クリストフにも養う存在がいる?」
彼がココアに口をつけて話が途切れた時、ルイスは思い切って彼に尋ねてみた。よくわからない存在の飼い猫と同じくらい、クリストフという人物の正体も気になってしまっていた。
「いや、私は単なる代理に過ぎない。猫は、妻が実家から連れて来た。ただ、私はかつて、悪夢に散々悩まされた側なので、一匹残らずいなくなって欲しい。だから私はここにいる。これでも大分減らしたのだが」
彼はどこか誇らしげだった。今の彼は落ち着いて穏やかな雰囲気なので、自分のように猫に振り回されながら、この役目を繰り返しているようには見えない。
「奴らは記憶を勝手に覗く忌まわしい奴らだが、相手の存在を知らないものにはなれない。たとえば君にひどく関係の悪い、後継ぎの座を虎視眈々と狙っている異母弟あたりがいたとしたら悪夢として登場できる。ただしその存在を、君が知らない場合は無理だ」
「どうして?」
「頭の中を覗き見するから、知らない者にはなれない。記憶を読み取られるのは厄介だがね」
なるほど、とルイスはクリストフの並べたてた理屈に一応、納得した。
「いつもはどうやって退治しているのですか?」
「夢の中で悪夢に気づき、自分で対処するのはひどく難しい事だ、子供であれば尚更に。そこで私がよその夢に入って行って、割って入って逃げる算段を取り付ける。それで驚いている悪夢の退治に取り掛かるというわけだ」
他人が見ている夢は、当事者以外にとっては大した恐怖にはなりえない。クリストフはそう説明してくれた。
なるほど、とルイスは一つ腑に落ちた。つまり、飼い猫は人間に助力をし、乱入されて悪夢が困ったところを横から搔っ攫っている、というわけなのだ。
ルイスはすっかり冷めてしまったココアを、全て飲み干した。
「……それなら、猫はクリストフさんと一緒にいた方が、猫さんのためなのでしょうか。悪夢と戦う方法をよく知っていて、何よりしっかりした大人でもあるから」
ルイスは思わずそう訊ねていた。しかし、彼はあくまで穏やかに、しかしはっきりと否定した。ソファの上の飼い猫までもが、こちらに向かって警告するように一声鳴いた。人間の言葉だったら却下、と言ったのかもしれない。
「ルイス、これは君が手綱を握らなければならない問題だ。そうでなければ、君の父上と同じように不本意な形に終わるだろう。大体、君は立派な侯爵の家の子供じゃないか。領地や爵位、そこに住んでいる人々の暮らしを守る使命を、父君が話してくれただろう? それと同じだ。君でなくてはいけない」
「……」
ルイスは返答に詰まった。自分は現在ただ一人の、侯爵家の後継ぎである。父や祖父が同い年の時には、既に神童として有名であったと聞く。ところがルイス自身は、屋敷に遊び相手として集められている領地内の優秀な子供達に比べて、なんとも頼りない存在である。
「ルイス、効率や手際や上手くやる事は決して重要ではない。君自身が自分の意志で成し遂げる事に意味があるのだ」
夢の中で、ルイスは起きている時にずっと頭を悩ませている問題を思い出してしまった。思わず閉口していると、彼は心配そうな目でこちらを見ていた。
「難しい話にしてしまったかな? 申し訳なかった。私が説明した内容をゆっくり整理して、そうしたらまた遊びにおいで。猫さんと正しく付き合って行くことに関して、私は君を応援するよ。いつでも好きな時に来てくれれば、助力を惜しむつもりはない」
「……本当?」
「ああ。いつでもおいで、またご馳走するよ。私も、とても楽しい夜だった」
ルイスは目が覚めた。いつになく、清々しく気持ちのいい目覚めである。そして昨夜の夢をゆっくりと思い返した。
あのクリストフとは、起きている時間にも会って色々と話をしてみたいものである。これはそれほど悪い考えではないはずだ。ルイスや飼い猫より、きちんとした大人であるクリストフの口からならば、父も話を聞くかもしれない。
もし屋敷に招いても、彼は完璧に振舞ってくれるはずだ。
「お父さん、クリストフって方をご存じですか」
「相手の家名は?」
ルイスは早速、当主の執務室へ向かった。そばに控えていた使用人や領地の役人と、軽く目線で挨拶した。一方で父は書類に署名しながら顔を上げない。
「……家名は聞きそびれたけれど、三十の後半くらいの方かと。軍人さんで、一目見たら忘れないと思います。息子さんが三人いるそうです」
「……把握している限りでそんな奴は把握していない」
父は意地悪や、嘘をついている様子はない。悪い夢でも見たのか、と珍しくこちらを気遣っている気配すらある。ルイスはしょんぼりしながら私室へ戻った。
いつのまにか飼い猫も一緒である。素知らぬ顔でルイスがいない間に整えてくれたらしいシーツを踏んで真ん中に居座った。
「ねえ猫さん、あの人は誰だったの」
猫さんは飼い主のために説明してくれているつもりなのか、しばらく鳴いていた。しかしルイスが困り果てた表情を浮かべているのを見て、ふい、と顔を背けて窓枠に飛び乗り、庭で羽を休めている小鳥を眺める職務に移行してしまう。
結局クリストフは随分と、本当に長い間、正体がわからないままだった。