⑦敵意は猫の形
悪夢、というのは名前の通り、夢の中で悪さをする魔物であるとされている。運が悪いと捕まってしまって、二度と目覚める事がないとされた。どんな姿をしているのか、というのは夢の中の話なのでよくわからない。絵本などではわかりやすく、黒くて大きくて牙や爪や角を持つ怖ろしい姿で描かれていたりする。しかし彼らがどこから来たのか、いつからいるのかは誰も知らない。
子供に早く寝てもらうための方便として大人も囁くのだが、いつしか子供が大きく、健やかに。大人達は魔除けの銀でできた短剣、髪飾り、それから懐中時計を贈る習わしがある。
信心深い国だ、と他国に揶揄されるほどである。
「猫さん、待って」
ルイスが生まれた時から既に、屋敷には白くて耳だけが茶色い猫が養われていた。と言ってもネズミは捕らないし、屋敷の人間に毛並みを触るのを許さない、謎めいた存在である。瞳の色は薄い水色、身体つきや顔立ちにはまだ幼さの残る、若い猫であった。
屋敷の主であるはずの侯爵家当主、つまり父は彼女を無視していた。猫の方も、父にはおそろしくそっけない。だからと言って他の人間に懐いている、というわけでもなかった。しっ、しと父が部屋から追い払うのはよくある出来事だった。まだ幼かった頃のルイスがかわいそうだと意見すると、父は顔を顰めた。
「ネズミも捕れない怠け者を、仕方なく養ってやっている。三食付いて朝から晩まで寝て暮らして、一体何が不満なのやら」
今時バカバカしい、と父は猫を罵った。迷信を恐れて生きる時代は終わった、と付け加える。ルイスにはまだ、悪態の意味の半分くらいは意味が難しかった。
由緒あるヴァンティーク侯爵家の先代当主、つまり祖父は隣国へ遊学していた時期がある。領地を長年悩ませている河川と土地の問題を、正しく豊かに管理するための治水事業を本格的に学ぶためだ。時には河川の形そのものを変えて流れを統制し、水だけでなく山にも手を入れた。そうして、侯爵領が大きく豊かに発展の礎を築いた有能な人物として名高かった。
父もまた、祖父の期待を裏切らない秀才としてよく知られていた。昔からある事柄は、知恵や根拠に基づいたものなのだと。ルイスは領地を管理する父を尊敬していた。
「……ルイス、あのね。私が嫁いできた時からずっと、猫さんはずっと猫さんなの。これ以上、大人にはならないのかしらね」
領地の外から嫁いできた母は、父のようには彼女を嫌ってはいなかった。かと言って母に対して、猫がそれほど懐いているわけでもない。白猫の方も、少しばかり冷たいのでは、と思わない事もなかった。実は父が、猫に触らせてももらえないから拗ねている、とか幽霊の類が大嫌いだとか、そういう話もしてくれていた。
事件が起きたのは、ルイスが五歳の誕生日を盛大に祝ってもらって数日が過ぎたある日だった。
昼食後、周囲がやけに静かだった。父母も、使用人達も、屋敷にたくさんいる遊び相手も、この日は示し合わせたように、誰も近くにいない。それが妙だという意識は抜け落ちていた。
飼い猫だけが、すぐ近くに佇んでいる。手の届きそうな近い場所で、尻尾をゆらりゆらりと、耳や髭がかすかに動いている。幼いルイスを、ちらちらと振り返りながら様子を窺っているらしかった。今なら触れるのではないかと一歩近づいた時、その先にある特別な品物に気が付いた。
「わあ」
それは、銀の懐中時計である。初代侯爵家当主の持ち物であるとされていた。古びているものの、決して汚れてはいない。輝くような光沢は褪せていたが、それがかえって時間の流れを感じさせている。ずっと保管庫にしまい込まれていたのを一度、見せてくれたきりだった。それも即座に再びしまい込まれ、目の前で鎖が巻きつけられて重々しい音ともに施錠された。
その上、鎖のついた錠前の鍵は二つあって、領地と王都にある侯爵邸の管理責任者に預けられているという徹底ぶりである。
先日、父がルイスには時計を贈ると言った。本当は短剣も憧れなのだけれど、領地の近辺では時計が好まれている。職人もたくさんいて、競い合って意匠や技術の品評会が年に一度催されるほどだ。
ルイスは一度でいいから、あの特別な時計を手に取ってよく見てみたかった。銀の鎖が机からはみ出してぶら下がっている。少し引っ張れば、手の中に時計はするりと落ちて来るはずだ。
この猫さんはきっと、ルイスが銀時計に興味がある事を知っていて、今ここにあると教えてくれたに違いない。この猫なりに、同じ屋敷に住む者には、多少親切にしてくれる気持ちはあるのだろう。
複数の鍵がかかった保管庫にあったはずなのに、父の私室に無防備に置いてあった。ただ一人の後継ぎ息子から、屋敷中の者が一時目を離した。乳母をはじめとした使用人、遊び相手達、それから両親。そんな偶然が一度に起きるはずはなかった。
「……ルイス、触るな!」
手を伸ばした触った瞬間、指先から全身に軽い衝撃が走ったのを覚えている。乾燥した冬だとよくある現象けれど、この日は朝から汗ばむほどの暑い日だった。父の大声にルイスは驚いて振り返ったが、既に時計は手の中にひんやりとした温度を伝えていた。
呆然とした親子の視線が交錯した時、まるで間に割って入るように白い姿が降り立った。猫は、この上なく満足そうな鳴き声を発した。驚愕と怒りに震えた父の顔を見て、何かまずい事が起きたというのは理解できた。
後から思えば、この日の出来事は猫なりの父への返答に他ならない。お前の息子がいくら厳重に守られていようとも、こちらが本気になればこの通り、と。彼女が人間の言葉を持ち合わせていたら、冷たくそう告げていたはずだ。
それ以来、つまり物心ついて少しも経たないうちに、ルイスが夜に寝台へ横になると奇妙な現象が起きた。寝付いた感覚のないまま朝になっているか、一晩中変な夢に付き合うかの、両極端である。
前者だった翌日の朝は、毎回驚愕しながら時計を確認してため息をつく。成長に悪影響はなく、いたって健康そのものだが、眠った気にならないというのはなんとなく損した気になるのである。
父はあの一件以来、猫はおろかルイスにもどこか冷淡な眼差しを向けるようになった。元々が厳しい御方です、と屋敷の者は慰めたが、進んで不興を買いたがる者はいない。抗議するのは母だけだ。何度か説き伏せられていたけれど、結局父親より猫を選んだのだ、と言わんばかりの態度で、理不尽の極みである。
そして後者である夜は、必ず飼い猫が夢の中に出て来る。そしてルイスを盛んに追い掛け回すのであった。
「ねえ! たまには普通に寝かせてよ」
夢の中で、ルイスは白くて耳だけが小麦色の食パン猫に抗議した。すると美しい毛並みがぶわっと膨らみ、みるみるうちにルイスの背丈をあっさりと追い越した。二階建ての家くらいの大きさにまで到達する。太い前足が踏みつぶそうとする前動作のように高く振り上げられ、ピンク色の肉球が並んでいるのが見えた。
「最低!」
ルイスは追い立てられて走り出す。巨大な体躯の飼い猫に追い掛け回されて、周囲の風景が目まぐるしく通り過ぎていった。すると、いつしか深い森、薄暗い小道にいつの間にか入り込んでいる。追われるままに走っていると、誰かが座り込んでいる場面に出くわした。
こんにちは、と猟師らしき恰好の若い男に声を掛けると、相手は蒼白い顔をこちらへ向けた。呼吸が荒く、額には脂汗がいくつも浮かんでいる。
「人食い熊だ。坊や、今のうちに逃げろ、すぐに戻ってくる。ずっと追われているんだ」
「そんな!」
とんでもない展開に冷や汗をかきつつ、しかしルイスはとっておきの作戦を思いつく。人食い熊は大きくなった猫さんと戦わせよう、と背後を振り返った。しかし、そういう時に限っていないのである。
「猫さん、猫さん!? 早く追いついてよ! あの、ところで本当に熊に襲われてそのまま死んじゃったんですか!? ちゃんと思い出してください」
ルイスは自分の背後や、座り込んだままの男に向かって慌ただしく声を張り上げた。しかし青年は森の奥を凝視したままで凍り付いている。おそるおそる視線を追うと、黒い何か大きな体躯が目に入った。それがこちらに向かって疾走した。
「……父上、助けて!」
ルイスがわけもわからず叫ぶと、青年がはっと我に返ったらしい。その瞬間に、彼は銃を構えていた。ルイスが咄嗟に耳を塞ぐのと、轟音と硝煙の匂いが同時である。二発目の音、見えない拳が思い切り殴ったように獣を吹き飛ばし、周囲は静かになった。
「……そうだ、確かに足をかまれたが、勝ったのは俺だった。妻と息子のところへ帰ったんだ。くそ、なんて夢だ。坊やは大丈夫か?」
ルイスがへなへなと座り込んでいると、のこのこ追いついてきた者がいる。白猫がゆっくりと熊の死体に歩み寄った。匂いを嗅ぐとうっとりとした表情を浮かべたまま口に咥えて、いずこかへと歩き去って行く。
「おいおい、なんだありゃ。猫か?」
「僕の家の猫だよ。いいよ、どうせ夢の中だもの。奥さんと、お子さんによろしくね」
一件落着したようなので、ルイスは彼と別れて猫の後を追いかけた。いつもこのような流れである。悪い夢と気が付かずに怯えている見知らぬ誰かを助けて、猫が食事を楽しんでお終い、気が付くと朝になっている。
ルイスはしばらく森の景色を楽しんでから合流した。猫はもう熊の死体は平らげたのか、元の大きさに戻っている。しきりに口元を、ご馳走の余韻を惜しむかのようにぺろりぺろりと舐めていた。
「ねえ猫さん、僕はもういい加減疲れたよ。ずっと毎晩こんな風なの?」
何とか言ってよ、とルイスは猫に向かって訴えた。大抵は無視されるのだが、今日に限っては少し様子が違う。猫はこちらを見上げて一声鳴くと、尻尾を立てて歩き出した。
夢の中は景色があやふやである。夜のような暗闇、真昼の眩しさ、夕暮れ時のくれなずむ空が次々と不規則に流れる。空気の冷たさや、通り雨が顔にあたる時もある。花や、美しい景色が一瞬目に留まっては、また流れて行った。
あの幼い日の出来事の後、父は大いに不本意な顔で、特別な銀時計をルイスに渡した。今、この時を以てルイスが管理しなければならない、と言う。それから少しだけ話をしてくれた。悪夢、というのは子供を浚う悪い魔物である。夢の中に潜んでいる。荒唐無稽な説明は、あまりにも普段の父とはちぐはぐだった。
「屋敷の猫、つまり彼女は古い生き物である。契約によって、この家は彼女を養わなくてはならない。これは侯爵家の決まり事だ」
これは代々の当主が、後を継ぐ子供に守らせた秘密である。色々質問してみたけれど、父はまだ怒っているようであまり親切な回答をしてくれたわけではない。母の膝でルイスは聞いていたが、半分もわからなかった。
そんな経緯を思い出していると、いつの間にか開けた場所に出て来ていた。視線の先には大きくて静かな湖がある。そのほとりに、小さな建物があった。木こりや漁師が作業場にするような掘っ立て小屋ではない。王都の、貴族達が所有する屋敷の一画に立ち並ぶ屋敷を小さくして移築したような、瀟洒な建物である。保養地にある別荘だろうだと推測された。ここが目的地さ、と誘われた相手に教えてもらえば、大多数の人間は喜ぶに違いない。
猫は勝手知ったる場所だと言わんばかりに、湖畔の小道をとことこと進んだ。ここは随分と大きな湖らしい。夕闇を静かに映す水平線が美しかった。
小さな体躯がやがて建物へとたどり着いて、木の扉に爪を立ててがりがりやり始める。ルイスは慌てて止めに入ろうと駆け寄った先で、扉が奥へと開いた。猫は躊躇なくその中へ走りこんだ。
扉を開けたのは、見知らぬ背の高い男性だった。父よりも年齢は上らしい相手に、ルイスは思わず身構えてしまう。切れ長の瞳は涼し気で、面差しは整っている。身体つきはよく鍛えているであろう硬質さだが、威厳と気品とが不思議なくらいに両立していた。
相手はルイスを見てしばらくの間、言葉を忘れてしまったように黙っている。ルイスの目は猫を追うのに夢中で、その様子には気が付かなかった。
「ごめんなさい、勝手に中に入って。僕の言う事はあまり聞き入れてくれないんです。後で、一本残らず綺麗にしますから」
「……こちらはかまわないよ、猫には慣れている」
正確にはあまり、ではなくほぼ聞いてくれないが、対外的に無責任な飼い主だと思われたくはなかった。
幸運にも、彼は気を悪くした様子はない。お世辞ではなく、本当に猫に親しみがあるのかもしれない。二人の視線は猫がソファに陣取って、意味もなくコロコロ転がる様子を追っていた。
「私の妻も結婚する時に実家の猫を連れて来て、屋敷の人気者だ。気にすることはないさ」
彼の口調はどこか面白がっている気配さえある。今までの夢の中で出会ってきたような、困り果てている様子は見られなかった。
このように余裕があれば、自分のような子供に助けは求めないだろう。しかし一応、万が一のために、ルイスは思い切って口を開いた。
「あの、余計なお世話かもしれませんが。何か困っている事はありませんか? こういう時は、猫が僕に人助けをさせようとする時で。船が嵐にやられてしまいそうだとか、人食い熊と命のやり取りをしているとか」
「……なるほど」
彼は一字一句をゆっくりとかみしめるように聞いている。そして、穏やかな口調でこちらに質問した。
「気にかけてくれて嬉しいよ、ありがとう。私は見ての通り平気だが、君はどうだろう? よくわからない事態に巻き込まれて、困っているのではないかな。そういう子が、ここに私に会いに来る。どの子も必ず、一緒に暮らしている猫に連れられて」
ははあ、とルイスは相槌を打つ。三毛や黒や、ぶちの猫が尻尾をぴんと立て、飼い主を先導してやってくる光景を想像した。
「私はクリストフ。職業は軍人と言っておこう」
彼の纏う空気は、緊張感とは程遠い。しかし、どこか隙の無さも感じる。今の自己紹介は嘘ではないらしい。貴族階級出身の軍人ではないかと勘繰ったが、家名は口にしなかった。
不思議な人だ、とルイスは思う。猫はまだ居心地の良さそうなソファに陣取っているのが見えた。
それを尻目に、ルイスは自分の名前と所属を慎重に明かした。これである程度、相手の立ち位置を知る事ができる。ヴァンティーク侯爵家の名前は広く届いていて、父や祖父の威光は国中に知られている。
それなのに、彼はどこか懐かしそうな表情を浮かべるだけだった。