⑥婚約者からの報告
パトリシアの婚約者、ルイスが顔を出してくれたのは薬師の言っていた通り、弟妹が招かれたお茶会から数日が過ぎていた。いつも通り大荷物で、虫一匹殺さないような優しい笑みが、いつも通り穏やかに応じてくれた。
侍女のソフィに、よくよく衣装や髪型を確認してもらってから、パトリシアは彼を出迎えた。タイミングよく進み出たソフィに、重くなさそうなものを手渡している。綺麗なお花の鉢植えと、子供三人がかりで十分な量のお菓子であった。
とにかくルイスはあちこちで調達してくれる。実際に食べてみて気に入ったものを覚えておき、誰かの贈り物を選ぶ参考にさせてもらっていた。
それから、足元にはいつもの通り白くて耳だけが小麦色なルイスの家の飼い猫が一緒である。正確な生まれは定かではないが、顔立ちや身体つきからはまだ若い猫であるらしい。しかし実際は、ルイスと初めて会う以前から屋敷で飼われているそうで、老獪な存在の可能性も否めない。つんと取り澄ました彼女のたたずまいは、常に気品のようなものが感じられる。
猫を連れ歩くのは少し変わっていると思うけれど、ルイスはわざわざ言及する事はない。パトリシアも、最近はあまり気にならなくなった。ちなみに撫でさせる行為は、ルイスにすら許さない徹底した孤高の存在でもある。パトリシアは密かに、いつかあのふわふわで艶やかな毛並みを触ってみたいと思っていた。
「たくさんありますね」
「色々なお店に寄る用事があったのでね、お気に召してくれると嬉しいよ」
「毎回、こんなに持参して頂かなくても」
「『どんなお嬢さんも大喜び』などと言われると、ついつい買わないといけないような気がして」
どこも商売上手だ、とあちこちでたくさん買い物をした婚約者は肩を竦めて見せる。
「……今日は我らが可愛い妹は欠席かな?」
「ええ。お友達になってくれそうな、可愛らしいお嬢さん達が訪ねて来ていて」
妹のエーファはお茶会の当日の様子について、ルイスの話はしなかった。顔を合わせていれば間違いなく教えてくれただろうから、当日は結局会わずじまいだったのだ。それでも上手く周囲に声を掛け、おかげで早めに戻って手当ても受けさせてくれたのである。パトリシアは丁寧にお礼を述べておいた。
いつも使う客間は、今日は妹達が初めて、エーファ個人に会いにきてくれた女の子達と一緒に過ごしている。
春の、天気が良くて温かい日だったので、パトリシアは中庭に歓談する場所を設けてもらった。猫用の椅子も用意され、当たり前のようによいしょと飛び上がって、暖かな日差しの下で丸くなっている。
「それで、お城で宝探しをしたとか」
「耳が早いね。身分は振りかざすものではないと真に理解している年齢ではないから、大なり小なり、もめ事が起きてしまった」
王太子殿下の取り計らいで、王城庭園のあちこちにはガラス細工などの、一目でそれとわかる宝物が隠された。子供達には手がかりの書かれた宝探しの地図だけ渡されて、どこへ行くかで揉めたり、誰が殿下に報告するかで喧嘩になったりして、その仲裁で忙しかったらしい。ルイスにしては珍しく疲れた色を隠せていない。
「それに、熱心に段取りをした割には進行にちょっとした手違いがあって、それで途中で気を悪くされてね。私もお叱りを頂いてしまった」
「……まあ、それは」
パトリシアにとってのルイスは、なんでもそつなくこなす印象が強い。王城に勤める事になった、と聞いた時もきっと彼ならば、と思っていた。今までも彼の口から、仕事についての悪い話は聞いた事はない。
「王城を辞する期間が間近だったのもあるから、少々間が悪いように見えてしまうかもしれないね。……それにしても二年は長かったな。ようやくお役御免だよ」
やれやれ、と彼はお菓子の包みを一つ開封している。ほっとした表情が浮かんでいた。
彼は侯爵家の、一人しかいない跡継ぎ息子である。それが年齢の近い王太子殿下の話し相手も兼ねた仕事を任される事になったけれど、当然ながら期間を定めての出仕だった。
「長い間、お勤め大変でした。それで、領地へ戻るのですか?」
パトリシアは彼を労いつつ、話の先を促した。もし彼が直ちに侯爵領へ戻ると言い出しても、なんら不自然ではない。ただ今までのようには会えなくなるという、残念な気持ちが強かった。
ルイスはとにかく忙しいのである。王城で勤める以前には、父君の要請で隣国へ遊学していた。彼だってまだ子供なのに、と当時は驚いてしまったのを覚えている。
その時に比べればまだ距離的な負担は少ないけれど、と少し心配になってしまう。彼の父君と祖父君は侯爵領を大きく発展させた人物として名高い。息子にも同じであるようにと常に求めている印象が強かった。
本当は、こうして顔を合わせている余裕はないのかもしれない。大丈夫ですか、と心配していると、彼の不思議な灰色交じりの青い瞳がこちらを見た。ルイスは屋敷へ足を運んでから初めて、少しばかり楽しそうな表情を覗かせた。
「いや、こちらへしばらく残ろうと思う。まだまだ父も元気で健在のうちにやれる事もあるだろうから」
彼は声を潜めながら、椅子を少し動かした。まだ内密でよろしく、とどうやら内緒の話らしい。取り出された見慣れない大きさや手触りの封筒から、書状を取り出して広げてこちらへ渡した。ざっと中身を読んで、パトリシアは思わず相手の顔を見やった。
「……士官学校の編入手続き?」
「そう、筆記と実技が通れば、入れてくれるらしい」
ルイスはどうやら、軍の寄宿学校へ編入手続きを進めているらしい。急な話に目を白黒させている一方、入れたら寮は四人部屋だとルイスは涼しい顔をしている。
軍に貴族青年が入隊するのは珍しい話ではない。爵位や財産を継がない次男、三男ではよく耳にする。しかしルイスはたった一人の後継ぎ息子である上、生家は侯爵家である。
彼の父は反対しなかったのだろうか。今まで隣国への留学と、王城での出仕で、領地で過ごせた期間は長くない。今年で十六歳ともなれば、家を継ぐための準備が始まっても不思議ではない。
大丈夫なのですか、とパトリシアは思わず相手の顔を見つめた。彼はいつもの優しい笑みを浮かべるだけだった。
「まさか、本当に軍人になるわけではないよ。ほら、私はこの通りだから。頼りないと皆が心配するからね。領主を継げば軍とのやり取りも増えるだろうから、今のうちに知っておきたい事柄が山ほどある。そういう方向から交渉して、課題や試験、実地研修まで他の生徒達と同様にこなして、卒業時に寄進をたんまりという形で許可が出たというわけだ」
いつの間にそんな、とパトリシアは驚いてしまう。昨日今日で決めた話ではなく、王城での仕事と並行して交渉を行っていたらしい。すごいですね、などと我ながら月並みな台詞しか思いつかなかった。
「パティさんが反対しなくてよかった。てっきり、また変な事を、と言われるかと思って」
「決定に口を挟むような真似はしません」
「……なるべく勉強と並行して、今と同じくらいの頻度で会いに来るよ。よろしくね」
そうなると、月に二、三度といったところである。内心ではやった素敵、と思いつつも表情や態度に、そのまま出さないように神経を使った。自分は由緒正しき伯爵家の一員である。子供のような言動は慎まなければならない。
わかりました、とパトリシアは最大限事務的に聞こえるように返事した。
「猫さんも一緒に通うんだ」
ルイスは猫に向かって声を掛けた。椅子にちょんと座っている彼女の尻尾が少しだけ揺れて、それが返事の代わりである。目を閉じてはいるが、眠ってはいないらしい。ルイスは頑なに猫さん、と奇妙な呼び方をしているので、パトリシアもそれに右へならえしていた。
決して人間の言葉をしゃべるわけではないし、二本足で立ちあがって歩き回るわけでもない。見た目はどこまでも普通の猫と変わらないのだけれど、なんだか不思議な存在感がある。
「いつも思うのですけれど、なんだか不思議な猫さんですね」
「……彼女は悪夢の親玉だよ」
ルイスは笑った。悪夢、というのは子供のおとぎ話に出て来る魔物である。名前の通り遅くまで起きている子供を、早く寝かしつけるための方便だ。妹のエーファくらいの年齢であれば怖がらせる事ができるだろう。弟のリヒターは既に信じていない。
それでも、この国には悪い夢を近づけない、つまり魔除けのお守りとして銀の時計や髪飾り、短剣などの装飾品を贈る風習があった。
「悪夢、それも親玉……。たしかに、位の高そうな猫さんではありますけれど」
そうだね、とルイスは笑って応じる。気位の高い女王様、と付け加える。猫はその時にちらりと水色の瞳をうっすらと、咎めるように飼い主へと向けていた。怒っていますよ、とパトリシアが忠告すると、その通りとばかりに重々しく鳴いたため、笑いを堪えなければならなかった。
姉さま、と妹が初めてできた友人達を紹介しに来るまで、パトリシアはルイスとのゆったりとした時間を楽しんだ。