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銀の盟約  作者: 朱市望
3 エピローグ
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㉜娘の結婚相手


 時が経つのは早いもので、ルイスがヴァンティーク侯爵家の当主となって久しい。現在は妻パトリシアと共に、子供達を見守る立場である。

 気に入った相手を招いて過ごす湖のほとりにある別荘に、多くの人々が集った。三人の子供達に加え、一番上の娘は結婚しているのでその家族と、領地からは母親も呼び寄せた。パトリシアの古い友人もたまたま近くにいて、急遽参加してくれている。それから義弟と義妹、すっかり頼もしくなったリヒターとエーファも駆けつけて、賑やかな数日間を送る事となった。もちろん、いつもの耳だけが小麦色の猫も一緒である。


 ルイスは集まってくれた面々を前に、しんみりとした感傷に浸った。既に自分は、たった一人の後継ぎ息子ではない。頼りになる人達がいて、更に小さな子供達の笑い声や、次々と演奏されるピアノの音。ルイスは思いがけず、目頭を熱くしてしまう。妻のパトリシアが何も言わずに寄り添ってくれたので、それもまた嬉しかった。



 そして明くる日の早朝、ルイスは湖で釣りをしている。他の家族や招待客達は滞在を終え、それぞれ領地や王都へ戻って行った。妻と結婚を控えた真ん中の娘、そして婚約相手の四人だけで、残りの時間を惜しむように過ごしている。朝の早い時間だけは、身支度に時間のかかる女性陣に配慮して趣味に興じていた。


 焼けた魚が程よく冷めるのを待って、ルイスはせっせとほぐして小骨を除いて小皿に重ねていく。それを嬉しそうにぺろりぺろりやっているのは、付き合いの長い飼い猫である。耳だけが茶色の、若く美しい猫である。いつまで若い見た目でいるつもりなのかは定かではない。


「……やはりルイスさんには敵いません」

「いやいや、君は珍しいのを一匹釣り上げたじゃないか。あれは頭がいいから、簡単にはいかないよ」

「本当ですか? 兄上と次に会ったら自慢しようかな」


 夜明け前から釣りに付き合ってくれている娘の婚約者が、今日の勝負を振り返りながら魚をかじっている。彼はルイスが甲斐甲斐しく猫の世話を焼くのを見て、笑い出すのを我慢しているらしい。


「……何がおかしいのかな、クリストフ君」

「え? ルイスさんは相変わらず猫が好きで面白いな、と」

「好きでやっているわけではないよ。……もしかしたら、この役目は君が引き継ぐかもしれないから、私の仕事ぶりをよく見ておくといい」


 ルイスは魚の身を小皿に集めて飼い猫に差し出し、はぐはぐと平らげる姿を眺めた。その様子を見て笑っている彼の名前こそ、クリストフである。あと十年もすれば、かつてルイスの夢の中で助言を重ねた姿に近くなるだろうか。 

 失態を重ねた先代とは打って変わって人気者の現国王陛下の弟君であり、現在は軍に所属している。また公爵の地位にあって現在はルイスの娘、キアラと順調に婚約を進めていた。かつては危機に瀕した王城で、兄君を守るべく奔走していた弟殿下でもある。ルイスとはその時に知り合った。


 当時で五歳前後だったので、ルイスの夢に来てくれた時には生まれてすらいない。彼こそが探していたあのクリストフだと気が付いたのは、ずっと後になってからだった。


 飼い猫が夢の中に、既に儚くなった人物を連れて来たという証言は過去にもある。まだ生まれていない相手を助っ人として呼ぶのも、決して不可能ではないかもしれない。

 とにかく猫さんはルイスに親切にしてくれる者として、未来の娘婿または義理の息子にあたる人物を紹介してくれたらしい。しかし今の彼は何も知らないので、ルイスも黙っていた。彼が知った時、二人で腹を抱えて笑うべきだと思っている。

 猫さんは決して悪い奴ではない。この頼もしいクリストフが相手なら、振り回されずに上手く付き合って行ける可能性もある。



 さて、今回ヴァンティークの関係者が一堂に会したのは、彼との顔合わせという意味合いが大きかった。クリストフはそれをよくわかっていて、小さな子供が何か披露すれば、率先して拍手と賞賛の言葉を惜しみなく並べた。気さくな人柄と若者らしい快活さを以て、すっかり人気者として馴染んで過ごしたのである。


「では、そろそろ戻るとしよう」


 周辺は湖があるためか、特に朝は涼しい。片づけを終えた二人は、別荘へ戻る小道を、飼い猫に先導されながらのんびりと歩いた。


 彼がまだ王子殿下だった頃、兄君と共に招いて過ごした事がある。彼は懐かしそうに、周囲の風景に視線を向けた。当時の管理人が大いに張り切って丁寧なもてなしをしたので、二人はいたく感激したらしい。彼とその細君に、おそろいの銀時計を作らせて贈った。今でも目立つ場所に飾ってあって、毎日父が磨きに来ますよ、と後を継いだ二代目が呆れながら教えてくれた。


「……そう言えば、二人は腹の探り合いは終わったのかい?」


 国王陛下の弟君という肩書を持つクリストフが婚約者で、人見知りのひどかった娘には少々気の重い役回りである。しかし本来の彼は申し分ない好青年で、妻パトリシアも大賛成だった。娘が上手く距離感を掴むまで、クリストフは辛抱強く付き合ってくれていた。


 しかし今回の場で、二人はこれまでとは違う自然な仲睦まじさを見せた。今までの有様を把握していた他の家族は不思議そうな視線を時折向けていたが、本人達は楽しそうだった。


「何かあったかな。急に距離を縮めるような出来事が」

「さあ、どうでしょう」


 こちらのからかいまじりの指摘に、クリストフはわざとらしく誤魔化しにかかる。露骨に釣りの話をはじめたので、ルイスは苦笑しながら雑談に付き合った。


「けれど、しばらく会えないので寂しくなります」


 その途中で子供のような台詞を口にしたので、ルイスは思わず相手の顔を窺ってしまった。娘の結婚は来年の予定であり、彼も軍人として忙しい日々を送っている。そのわずかな時間の別離ですら、惜しいと感じているようだ。


「ルイスさん。いつか、寂しい気持ちに折り合いがつくのですか?」

「……難しいところだね。気持ちというあやふやなものを埋めようとしても、上手くはいかないよ。それに気が付くのが第一歩、としておこう」


 ルイスの助言に、彼は大まじめに頷いている。ルイスもパトリシアと結婚前には隣国、結婚した後でも領地と王都で距離を隔てた期間があった。会えているうちに言葉を尽くすのが大切だと、約束がある事で頑張れるのだと、ルイスは付け加えておいた。


 

「あなたの娘さん。キアラさんからはあまり矢面に立ち過ぎないようにと、早くも叱られました」

「ごめんね、でも君が心配なのだと思う」


 別に気を悪くしたわけではない、と彼は言った。クリストフの立場は常に複雑で、ヴァンティーク家との婚約は彼を守るために設けられた経緯もある。


「けれど、誰しも心のどこかで、無条件に味方になって話を聞いてくれるような。危険を顧みずに飛び込んで来て、怖い事から守ってくれるような。そういう大人を待っているのだと思います。私が子供だった時にルイスさんが来てくれて、自分と兄を庇って下さった背中を、忘れた日はありません」


 急に長々と賞賛されたので、ルイスは何事かと思って相手を改めて見やった。向こうは珍しく、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべている。ルイスが散々王城で手を焼いた、やんちゃだった頃の笑い声が脳裏に蘇った。


「つまり貴女の父君に似たような事をしてもらったからだ、と言い訳しました。何か苦言を呈されたらごめんなさい。先に謝っておきます」

「……それは困るな」


 上手くお願いします、と続けるクリストフの声は明るい。娘から怒られる、とルイスは苦笑したけれど、苦労の多かった彼が楽しそうなのでついつい許してしまった。







「あのブランシュさんという方、素敵でした」

「あの人は昔から素晴らしいお友達ですよ」


 湖のほとりを、パトリシアは娘と並んで散策していた。ルイスは娘の婚約者と、朝早くから釣りに出かけているらしい。少し離れた距離に護衛がいる以外には、他の人の姿は見えなかった。


 ブランシュは、パトリシアが社交界に出る以前からの友人である。今回の集まりは元々家族だけの予定だったのが、せっかくなので声を掛けると勇んで来てくれた。パトリシアはとても嬉しくて、集まった家族達にたくさん自慢してしまった

 ブランシュと知り合った同時期に雇い入れた侍女のソフィは一度、結婚して侯爵邸を離れている。けれど落ち着いたからと戻って来てくれて、今も力を貸してくれていた。

 また、王都に来ると薬師のニナがいつも真っ先に駆けつけてくれる。彼女の幅広い知識や仕事ぶりにも、助けられるばかりである。この滞在中に、美味しいココアの淹れ方を皆に教えてくれた。


 彼女達と知り合ったのは、パトリシアにとっては母が亡くなった直後でもあった。今思い返しても、人生で一番不安定な時期だった。あの時ルイスが自分のために時間を割いてそばにいてくれたのは、今思い出してもこの上なくありがたい心遣いである。



『ああ、姉さま、兄さん。私のために喧嘩しないで……』


 それから家を継いだ弟とは、妹をどうするかについて大いに揉めた思い出がある。それでも王都では政争の只中に飛び込んだルイスを補佐するべく動いてくれた。二度とやらない、と本人は顔を顰めているが、頼りになる弟である。

 エーファの方は、ルイスさんの立ち回りは素晴らしかった、と全面的に賞賛していた。発言は昔と大きく変わらない、しっかり者の賢い妹である。



「それにしてもあなた、クリストフ君とはいつ、あそこまで仲良くなったの?」

「え? まさか。私達は元から仲睦まじく、将来支え合って行く仲ですよ」


 パトリシアの問いかけを、娘は夫ルイスそっくりの表情で誤魔化した。つい先日まで、娘のキアラは婚約者のクリストフと、どこか緊張した空気の中でやり取りしていたように記憶している。しかし今回の滞在においては、周囲が不思議に思うほどに二人の間の空気は穏やかだった。


「でもお母さま。私は二人のような夫婦になるのが、ずっと目標で」

「あら」


 娘は余裕たっぷりに応じて見せる。子供が何歳になっても時折見せてくれる可愛らしい一面に、パトリシアはついつい口元を綻ばせた。


「あ、お父さま達が来ましたよ」


 娘は嬉しそうに、飼い猫を先頭にして小道の向こうから戻ったルイスとクリストフを出迎えた。そのまま婚約者殿と何か、仲睦まじく話し込んでいる。その横を知らん顔の猫と夫が通り過ぎて、パトリシアと合流した。今日も大物を釣り上げて、猫さんがすっかり平らげたと報告があった。


「……ところであの二人、あのように仲が良かったでしょうか?」

「私も聞いてみたけれど、彼には上手く誤魔化されてしまったよ」


 娘にはぐらかされたパトリシアは、こちらにやって来たルイスに尋ねてみる。彼も似たような問答をしたようだ。

 そして何故か今、ルイスはこちらに向かっていかにも意味ありげな眼差しを向ける。


「ところで先ほど、クリス君から貴女の驚くような所業を聞かされて」

「あら、大げさな。何かありましたか?」

「私が王城で散々手を焼いた兄弟だが。『あの人が釣りの話をする時は退屈している証拠。思い切り悪戯して、困らせてやってください』と吹き込んだ、それはそれは素晴らしい女性がいたとか」


 ああ、とパトリシアも口にした記憶がある。かつて王都が混乱に陥った際、パトリシアは領地に残って、ルイスは王城に居座った。それが申し訳ないのか、当時のまだ幼い王子殿下達は二人して、自分に向かって頭を下げたのである。子供が小さくて大変なのに、城に留め置いて申し訳ないと。

 しかし、王城が落ち着かないのは二人のせいではない。そしてパトリシアはルイスを信頼して送り出しているのである。本人もできる限りの準備と根回しの上での行動だった。それでもしきりに謝るので、気の毒になったパトリシアは少しでも彼らの心が軽くなりそうな説明をした。

 記憶と一字一句同じなので、娘の婚約者が何かの拍子に話したのだろう。別に口止めしたつもりもないので、パトリシアはやり返す事にした。


「子供の悪戯を笑って受け流せないなら、余裕のない証拠ですよ。大体、二人の王子殿下がお礼に褒美を提案して下さった時、『好きな人と結婚したのがこの上なく幸せで、他に欲しいものが思いつかない』と恰好つけた方がいたとか」


あなたと一緒です、とパトリシアは応じた。かつてルイスは二人の王子殿下を救うため、危険な政争に身を投じている。

 何か見返りはないのかとパトリシアが疑問を呈した際には、厳しい立場に置かれている子供達に次々と要求するのは避けるべきだと主張した。それぞれが大人になって安定した上で交渉するのが筋だと、もっともらしく述べてみせた。

 それが実際はこのように子供達に返答した、困った人である。


 こちらの切り返しを前に、ルイスの表情はいつもの優しい笑みではなくなった。やや拗ねたような、してやられたような呆れや諦め、そして最後に耐え切れずに声を上げて笑い出すのを、パトリシアはじっくりと眺めた。

 灰色の少し混じった、不思議な青い瞳は変わらない。それから可愛い子供達を守って戦った、優しく勇敢な一面。何よりかつて掲げた盟約と、パトリシアの心をずっと守ってくれた頼もしい相手でもある。


 娘と、その婚約者が不思議そうに振り返るまで、ルイスとパトリシアは声を抑えて、それでも誤魔化せない程笑っていた。


「何か面白い事があったのですか?」

 

 娘の心底不思議そうな問いかけには、足元にいる飼い猫が代わりに鳴いて応えている。それから進捗のない連中だと言わんばかりの、呆れた目線をこちらへ向けた。それがまたおかしくて、パトリシアは先に立て直した夫に支えてもらって、朝から涙が出るくらいに笑ってしまう。

 

 パティさんは昔からこうだと、ルイスが好き勝手に説明する優しい声が聞こえた。


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