㉛本編最終話 猫さんと未来について
「……おいルイス。ヴァンティークの令息は今、他の貴族に殴られて療養中らしいぜ」
「へえ」
コンラッド絡みの問題に区切りがついたので、ルイスはようやく学び舎へと戻って来た。自分以外の同室達は、珍しく課題がない夜を楽しんでいる。ルイスが買って来たお菓子の山を囲み、雑談に興じていた。
ルイスだけは授業を欠席していた分をせっせと埋め合わせしている。課題の提出で許してくれたので、資料室から借りて来た学校の蔵書と、同室や他の友人に頼んでおいた書き取りを見比べて作業を進めた。成績不良で退学は恰好がつかないので、なんとか挽回したいところである。
「しかも黒い髪に青い目の持ち主らしい」
「ああそう……」
一部の生徒は貴族階級の子弟でもある。社交界の人気者が突如引き起こした醜聞は、学内にまで広まりつつあった。
何度か生返事を繰り返して顔を上げると、居室には同室の他、食料の気配を察知して他の部屋から友人達が集まってきている。狭い部屋が更に窮屈になっていた。ルイスと一緒に戻って来た飼い猫が部屋の熱気にうんざりした表情で、ルイスの二段ベッドで渋い表情を浮かべている。
「なりすましは犯罪だろ! 本人にばれて折檻されても知らないからな」
「でもこんな高いお菓子、その辺の店で売ってるか? ……家に持って帰ってばあちゃんにあげていい?」
「いやいやダンのところに行った時、こいつだけニヤニヤしながら鉈を振り回してたぞ。そんな令息いるわけないじゃん」
友人達がパトリシアと公園で行き会って以来、ルイスが貴族の後継ぎ息子説は信憑性を増していた。ところが、今回の騒動のせいで再び怪しくなっているようだ。暴行されて療養中の人物が、怪我一つなく課題を進めているので、彼らの当惑は理解できた。
元からの知り合いであるノインだけが、気まずそうにこちらを窺っている。真面目に取り合うなとルイスは目配せしておいた。
「わかった。次の休みは湖の綺麗な別荘で釣り同好会の活動をしようじゃないか。王族のご登場でも完璧にもてなすと支配人が張り切っているからな」
本当にそのような瀟洒な別荘が使用できるのか、疑いつつもその場は解散になった。同室が寝入ってしまってからも、ルイスは本に目を通し、やるべき課題を進めている。軽い足音と共に机に上がって来たのは飼い猫だった。卓上に置いていた銀時計を指先でつついて、そろそろ休まないと明日に響く時間だと教えているつもりらしい。
ここ最近、何か美味しいものをたらふく味わった後のように、口元を常にぺろりぺろりとしている。それ以外は普通の猫だった。
「……ココちゃん」
ルイスは何気なく彼女の本名を口にした。誰がこのいかにも可愛い愛玩動物用の名前を選んだのだろう、と苦笑してしまう。パトリシア達が呼ぶのならともかく、半分は大人扱いの自分が呼称するのは恥ずかしいので、敬意と愛情を込めて猫さん、で許してもらう事にした。
「猫さん、ありがとう。今回は助かった、本当に」
ルイスの声に、猫は不遜な顔つきでこちらを見つめた。つい先日、一人の貴族青年を罠に嵌めて社会的に抹殺した、見た目が可愛いだけの化け物である。口が達者かつ慈悲深い領主を装っていたのが、彼の人間としての尊厳は念入りに破壊された。
飼い猫の得体の知れなさ、親しい者が不意に見せた不気味な一面は、パトリシアがルイスに対して抱いた疑惑に似ていたかもしれない。困惑して当然だろう、とルイスは改めて婚約者への振る舞いを大いに反省した。
「まあ、猫さんは猫さんなりの考えがあるとわかったけどさ……」
今回の件でもう一つ、領地にいる父の態度や過去の発言、それから母やアルマン達の証言をつなぎ合わせてわかった事がある。父は飼い猫を上手く使う方法を探っていたのだ。コンラッドが悪夢を利用し、人の道を外れた方法で名誉や財産を築き上げた。対して父は領地や家を守る大義名分を、一応崩す事はなかったけれど。
当主が自前で養う範囲を超えて得られる利益を、真面目に検討していたのである。
上手く扱えるかどうかは別として、あの父である。祖父が今際の際に釘を刺したそうだが、本当に聞き入れるかはわからない。この猫はその思惑を、ルイスに強制的に切り替えて封じたのだ。
どちらにも言い分はあるにしても、飼い猫の選択はなんとも不思議な感じがしてしまう。もう少しこちらも信頼を向けるべきだが、コンラッドへの仕打ちを目にすると流石に難しいとも思うのだった。
それでも、とルイスは改めて猫に話しかける。
「……この先、私とパティさんの子供達が、君を大事に可愛がってくれるように努力はする。猫さんはちょっと不思議な可愛い猫でいいよ。時々、家族を守ってもらうかもしれないけれど」
今思えば、ルイスが一人で悩まないように、頼りになる先達を紹介してくれた。クリストフがいなかったら、今以上に迷走を繰り返したはずだ。
またパトリシアが傷つかないように、色々と手を回してくれた。ソフィも気にかけて、最悪の事態にならないようにしてくれた。夢で亡くなった父親に会わせる事までして、随分な大盤振る舞いである。意思疎通するための言語が存在しない、というのはもどかしかった。
「今までありがとう。そして、これからも私の可愛い家族達をどうかよろしく」
ルイスは、彼女が今こそ人間の言葉を喋るのではないかと期待した。しかし結局、飼い猫はいつも通りの素っ気ない態度である。しかし眠りに落ちてから、不思議な光景が目の前に広がった。これが普通の夢かと感動してしまう。
どこかの屋敷で、寝台に横になっているのは一人の子供だ。黒髪である以外に特徴はない。少年は何かを優しく抱きしめていて、腕の隙間から白い尻尾が見えた。その状況を俯瞰しながら、ルイスはこの光景の全体を察した。きっと、耳が茶色の子猫を抱きしめているのだろう。傍らには両親らしき一組の男女が、感極まった様子で座っている。服装からして、ずっと昔に暮らしていた人のように推測された。
「ありがとう、私達の子を助けてくれて」
「このようにすばらしい猫さんがいらっしゃるとは。ずっとここにいてくれないかしら?」
夫婦は口々にほめそやしている。何をすれば、猫がここまで感謝されるのだろうかと思わずにはいられなかった。きっと、ルイスが今まで見て来た内容に違いない。腕の中の子猫は、ルイスの飼い猫によく似ていた。
パトリシアは弟妹とルイスと一緒に、シャリエ伯爵邸に招かれている。ソフィは既に王都を発ってルイスの本拠地、ヴァンティーク領へ向かっていた。代わりに、薬師のニナが一緒に来てくれている。到着して敷地内に足を踏み入れると、簡易だが趣味の良い天幕が庭の一画に用意されていた。
男性陣はわいわいと、自慢の馬がいる囲いを見学しに向かった。今日は彼女の人格者と名高い婚約者や、利発そうな弟君も一緒である。弟君は緊張気味にルイスへ話しかけたが、穏やかな人柄にすっかり気を許したらしい。今は自分の愛馬らしい青毛の一頭を、自信満々に紹介しているのが見えた。
残った女性陣はやれやれと、天幕に用意されたお茶とお菓子を囲んでおしゃべりに興じている。
「今年は色々とありましたね」
「本当に。なんだか疲れました」
ブランシュとは今まで散々やり合って来たので、彼女と仲良くなれるとは思わなかった。これは今年の驚くべき出来事の一つである。またここが彼女の屋敷という余裕のためか、今日は刺々しい印象が一切ない。
エーファを連れて行くと、弟はいても妹は新鮮であると言った。先ほどからあれこれと優しく話を振ってくれて、とても嬉しい。彼女が一時期寝込んでいた間の話はしなかったが、フェネオン候の恐ろしい噂話は様々入ってきているらしい。伯爵邸が巻き込まれかけた経緯も耳に入ったようで、心配してくれていた。
「オレリアン殿下はフェネオン侯爵の登城以来親しくしていたけれど、このような事態になってしまったから。実は密かに疑いの目を向けていた事にして、積極的に事実関係の洗い出しを進めているのですって」
ブランシュは王城に仕官している身内からの情報を教えてくれた。殿下はルイスが痛い目に遭ったという噂を耳にして、ある程度溜飲が下がっているらしい。
『殿下については、このまま風向きが変わらないうちは静観する。相手が、一人しかいない後継ぎ息子のうちは』
ルイスはパトリシアに、淡々と方針を説明してくれた。パトリシアも全体を把握しているわけではないが、どうか怒りを解いて欲しいところである。自分の婚約者が声に滲ませた不穏な色は、とりあえず現状は静観するというので、深くは追及していない。方針が変われば、ルイスは説明してくれるだろう。
『フェネオン侯爵家に、当主の代理として連れて来られた縁戚者とやらは可哀そうなのはともかく。どちらが謝罪したのかだけ、明確にしておかなければならないから』
コンラッドへの取り調べに、大きな進捗はないらしい。ルイスはフェネオン侯爵家が慌てて見繕った代理を相手取って、カステル家への嫌がらせと夜会で突如襲い掛かって来た件を追及している。コンラッド本人の回復を待ちつつも、正式な謝罪と金銭的な償いを求めて交渉を進めていた。それが済めば必要以上の糾弾は一旦止め、コンラッドの回復を待つとの事である。
「それにしても、ルイス殿もお元気ですね。大きな怪我なかったようで」
「ええ、ルイス様はそれなりに剣も扱えるので、上手く対処したのではないかしら。弟の練習相手を務めてくれるほどなので、それだけは本当によかった」
「そうです、ルイス様は優しく見えるけれど、実はすごいのです」
ブランシュが馬の相手をしているルイスを眺めながら呟いている。パトリシアとエーファは、もっともらしく聞こえる事情を説明しておいた。彼女はエーファの発言に優しく頷いていて、どうやら納得してくれたようだ。
男性陣に目を向けると、ブランシュ曰くシャリエ邸一番の暴れ馬とやらに、弟リヒターが気に入られたらしい。明らかに馬の走りが荒く、弟の腰が引けている。それをルイスが代わって、学校で散々練習した本領を発揮し、颯爽と乗りこなして見せた。自分達や、囲いの周りで待機している馬丁達からも、賞賛のどよめきが上がっている。それを目にして、リヒターも挑戦する気力が湧いたようだ。
「あちらは楽しそうですね」
その光景を横目に、しかし今日の主題はもっと楽しい話である。今年の流行りの衣装を振り返って反省点を挙げた。それから数年後に控えた大人の仲間入りについて、時間をかけて熱心に話し込む。
そばに控えているニナが、商売上必要な情報にせっせと聞き耳を立てているのが見えた。
とにかく派手過ぎてもよくないし、けれど埋没するほど地味ではいただけない。ルイスと一緒ならきっと楽しい日々だとしても、入念な準備が必要なのだ。目を輝かせているエーファにも、ブランシュがわかりやすく解説してくれている。彼女が同い年の友人でいてくれると、本当に心強く感じた。
今さら、彼女とは何かを競うわけではない。その事実を示し合わせた上で、今日シャリエ邸を訪れているといっても過言ではない。彼女の両親は盛んにパトリシアと競わせていたようだけれど、これからは関係を深めていく友人である。
「ルイス様に一度、侯爵領を見せていただく約束をしたので、来年はそちらに赴くかもしれません。少し遅くなるかもしれませんが、必ずお会いしましょう」
ね、とパトリシアはなるべく穏やかに見えるように笑顔で提案した。しかし、ブランシュはなんだか腑に落ちないような表情を浮かべた。
「……もう少し、早くお友達になるべきでしたね」
「あら、奇遇ですね。私も似たような心境です」
一緒、と天幕の内側は喜びの声で満たされた。その時に、こちらを呼ぶ声が聞こえる。やって来た男性陣から周辺をゆっくり散策しようと誘われたので、三人も応じて席を立った。
「姉さま、見ていた? 僕の奮闘」
弟達が息を弾ませて尋ねるので、姉達はもちろんだと揃って返答した。どうやら、今日の思惑は成功しているらしい。自分達が味方同士だと強調する作戦は、これからも上手く機能していくだろう。
この場に集まった子供達は互いに目配せしつつ、順調な進行に気分よく天幕を後にした。ルイスからの目線の合図には、問題ないとこっそり耳打ちしておく。婚約者とは今までより距離が近づいたような、そんな幸せな気持ちになるのであった。
ルイスがパトリシアに誓った、果たすべき盟約として掲げた約束がある。道のりは長くても、辛い日ばかりでもないと思う。一緒に歩んでくれる人がいて、時折行き会った人を助け、助けられるのも道を進む事である。
ルイスが一緒なら、それを信じて歩いていける気がした。