㉚ルイスの盟約
ルイスがこちらに来ると連絡があったため、パトリシアは使用人におもてなしの準備と、父にも知らせるようにお願いして到着を待つ。すると、父がこちらにやって来た。パトリシアに、社交界を大いに騒がせたコンラッドの一件を謝ってくれた。
ソフィに渡していた銀の短剣は、刃を潰した状態だともっと早く説明してくれれば、と父は言う。しかしこちらの言い分を聞こうともしなかったことを、一緒に思い出したらしい。この上なく、ばつの悪そうな表情をした。
「いえ、ルイス様のおかげで、何もなくてよかったです」
パトリシアも、それ以上は余計な口出しをせず応じておいた。父に説明しなかったのは、こちらの落ち度である。今後はもう少しうまくやろう、とそれ以上の感慨はなかった。失言が多いのは今に始まった事ではない。しかし親子関係はこれからも続いていくので、ルイスを頼りつつも適切な距離を保つ事が必要である。
コンラッドは依然投獄されており、完全に正気を失っている状態だそうだ。噂話には尾ひれがついて、最早何が真実なのか定かではない。領地では不審な死が相次いでいたとか、身体を壊して屋敷を去った使用人が異様に多かったとか、そのような恐ろしい話である。
夏ごろから体調を崩した子供達の多くが、実際にコンラッドと接触していた事実も、噂を加速させた。もし、あのまま相手の屋敷を訪れていたら、二人とも無事では済まなかっただろう。
パトリシアは父が望むような従順な娘ではないし、これからも同様である。母が託した通り、弟と妹をずっと気にかけて行かなくてはいけない。
予告通りの時間に伯爵邸に現れたルイスは、コンラッドに暴行されたという噂とは裏腹に、傷一つない姿である。いつものように、飼い猫を伴ってやって来た。猫さんの毛並みは相変わらず美しかった。婚約者も、虫一匹殺さないような優しい笑みをいつも通りに浮かべている。
父は度肝を抜かれた様子だったが、余計な詮索はしなかった。思ったよりひどい怪我を負わずに済んだ、という解釈で自らを納得させようと葛藤している。
お礼を重ねた後は、やや怯えた様子で退室していった。
エーファとリヒターも報告の場に顔を出して、ルイスが無事なのを自分の目で確認している。いつも通りお菓子を囲んで、しばらく歓談した。
「姉と、ソフィをありがとうございました」
珍しくリヒターは開幕と同時に退室、ではなくてしばらくその場に留まった。お礼の言葉を重ねてから、名残惜しいという態度をきちんと表明してから部屋を辞した。
エーファはもう少し残って、パトリシアとルイスの顔色を真剣に見比べて、仲直りができてよかった、とにこにこしている。最近友人が増えた報告を嬉しそうにして、席を立った。
「私、書かないといけないお手紙がたくさんありますから」
ふふふ、とエーファはお上品に笑って退席する。ごゆっくり、とどこで覚えたのかよくわからない台詞を言い残した。
二人がいなくなってから、ルイスが少し感心したようにつぶやいた。
「二人とも、しっかりしてきたね。こちらも見習わないと」
「ルイス様が気にかけてくださったおかげですよ」
そうだろうか、などとルイスは言っている。しかし弟妹は、ルイスが積極的に動いて事態を収束させた経緯を目の当たりにした。彼に対しての認識を、改めたのは間違いない。結局二人と、それから猫だけが応接間に残された。
「……それで、予定外に訪問して申し訳なかった。しかし話は早い方が良いかと思って。先ほどの話の続きをしなければと」
「……さっき?」
ややあって話を切り出したルイスに、とパトリシアは嫌な予感がした。あれはただの夢ですよね、と問いかけて思わず口をつぐんだ。ただの夢であれば、他人と共有などできるわけがない。
「そう。二人で美しい光景を楽しんだ後の話」
「……ちょっと待って下さい」
パトリシアは頭を抱えてしまった。夢を見ている時はすっかり忘れていたが、ルイスの飼い猫は普通ではないと説明があったのである。
猫さんはいつもの取り澄ました表情ではなく、少しばかり得意げな表情で、口元をぺろりぺろりと舐めている。まるで、ご馳走を心ゆくまで味わった余韻を楽しんでいるかのようだった。
「あの、ルイス様。できたら忘れてくださると嬉しいと申しますか、その」
「……それは叶えてあげられないな」
嬉しかったから、とルイスは真面目な顔つきである。良い夢だった、と彼は目を閉じた。せめて思い返しているのがあの美しい水の中と、そこから見上げた陽の光であって欲しい。パトリシアが調子に乗って口づけしたとか、半分寝ぼけたような告白を思い返すのは、せめて時々にして欲しいところである。
見せてくれた景色は素晴らしかったですよ、とパトリシアも同意はしつつも恨みがましい目を向けずにはいられなかった。
「それでね、パティさん」
ルイスはパトリシアを見た。いつもの虫一匹殺さないような優しい眼差しとは、少し違う。時折パトリシアにだけ見せていたような、少し冷めたような表情でもなかった。
彼が以前、他国の先進的な制度を持ち出して、もっと優秀な人がやるべきではないかと打ち明けた日を、パトリシアは覚えていた。表に見せないだけで、自身の在り方に悩んでいたのも、よく知っている。偉大なる父と祖父という存在が、彼にとって大きな重圧であったのは想像に難くない。
「ずっと考えていた。私が貴女のために、何ができるのだろうかと。パティさんが、安心して暮らせるには何が必要なのか」
心配ばかり掛けて済まなかったと、ルイスは声を落とす。
「とりあえず王城での出来事や、今回の事件のように。パティさんだけが平和でも、あまり意味がないというのはよくわかった。やはり、受け身ではよくないね。これからは次期当主の自覚を持って、主導権を渡したりはしない」
ルイスは飼い猫に向かって、いかにも意味ありげな視線を向けている。パトリシアも釣られて彼女を見つめた。
「……無事に大人になりつつある者が、そうではなかった子供達にできるのは、世界を少しでも良い方向に変えていく事だけだと、私は思う」
ルイスの声に、猫に気を取られていたパトリシアは顔を上げた。
子供を狙う化物が、他の人々が気づかない場所から機会を窺っている。そうでなくても、穏やかな日々を脅かす要因は常に存在する。日頃から備え、知識を蓄えて上手く対処していくしかない。
「私がこれから領主として、国を支える諸侯の一人として。何より、貴女と将来を誓い合った者として。本当は貴女に苦労をかけたくない。いつも穏やかに笑っていて欲しい。ずっとそう思っていたけれど、貴女の願いと重ならないなら、考え直さなくてはならない」
不安にさせて申し訳なかった、とルイスは言う。パトリシアが否定しようとするのを、彼は目線で優しく制した。
「これは婚約とはまた別の、私と二人の盟約。必ず果たすべき誓いとして、聞いて欲しい。安穏が約束できない、障害ばかりの長い道だとしても。それでも、貴女には隣にいて欲しい。私が道半ばで力尽きたとしても、後から来る、私の意志を引き継いだ誰かが前に進むために」
ルイスが進むと誓ったのは、あらかじめ用意された道ではない。他人は切り捨てて、関係ないと気が付かないふりで立ち回る方がずっと簡単であるのに、それは選ばないと彼は言った。
「パティさんが打ち明けてくれたように。離れたくない心は同じだと、どうか私を信じてくれるだろうか。私がそんな未来を創るために、戦う道を選択したのだと」
「……ルイス様」
ルイスはパトリシアに、一緒にいて欲しいと口にした。ずっと、自分は足手まといにしかならないのではないかと危惧していたけれど、そうではなかった。
「ルイス様。私は夢の果てだろうと、どこまでもお付き合いします。頼って下さい、そのために私がいます。重荷や苦痛ではありません。進む先がどれほど困難であろうとも、誰よりも頼もしい背中を、秘密を、あなたの心を預けてくださるのなら、それは何よりも」
望むところです、とパトリシアは口にした。ルイスが自分達を守ってくれるように、自分も相手を支え、助力できる人間でいなければならない。
そう伝えると、ルイスは改めて穏やかに微笑んだ。
「そうだね、貴女は私のために、そう誓ってくれる人だった。もっと早く気が付くべきだった」
「……いえ、私も今までは少々、恥ずかしいところばかりでしたから」
思えば、ルイスはずっと自分を守るために行動してくれていた。彼の優しさに報いるために、これからは彼を支えるために行動しなければならない。
パトリシアは早速、ルイスに一通の手紙を見せた。お友達が招待してくれているのです、とあくまで何気ない口調を装った。