③回答
視界の端で、それまでにこやかな態度と表情を崩さなかった弟王子の目に、冷ややかな色が浮かぶのが見えた。それに負けず劣らず、彼女の眼差しも氷のように冷めきっている。
「特に、奥方はご存じないでしょう。この者はやり方がいちいち粗暴。五歳の頃から気に食わない、とそれだけで手酷く扱った者が、一体幾人いたことやら。加えて自らの立ち位置を軽視して勝手な振る舞いを重ねた代償は、いつか支払わなければならないでしょう。そのような厄介者を一族に加えて欲しいなどと、特に何も知らない可愛い娘御と引き合わせるだなんて」
「……おばあ様」
「せっかく呼ばれたのだから、言いたい事は言わせてもらいます。今後の混乱を避けるためにも、政争に敗れた者は命があるだけ幸運だと感謝して、国外に出るべきでは?」
彼女は身内への手厳しい指摘をしながら、目線は常にこちらを見ている。兄殿下と、努めて冷静な表情の弟殿下が反論するよりも先に、パトリシアは求められるままに口を開いた。
「過分なるお心遣い、何よりも痛み入ります。しかし嵐が過ぎ去ったこの国で安穏と暮らす者であり、領地と人々の暮らしを預かる身であれば、殿下ばかりが責を負うべきとは思わないのです。無意味な争いが起きないように立ち回り、当時の情勢を鑑みれば、意にそぐわない言動を強いられた場面も多くありましたでしょうから」
何より、とパトリシアは続けた。パトリシアは王城に居合わせなかったが、彼らと全く交流がなかったわけではない。接触の機会はさりげなくもうけられていた。それから夫であるルイスをはじめとして様々な者達から、自分なりに情報の把握は行っていたつもりではある。
「その中で、私は殿下が優しく気遣いのできるご立派な方だと存じ上げております。私の臆病な娘に、素敵な贈り物をしていただいて。あの時に宛名を示して下されば、交流を進める手立ても用意しましたのに」
そうでしょう、とパトリシアの内心を図りかねているのか、複雑そうな表情の弟殿下に話を振った。
「娘は贈り物を大変喜んでおりました。そして殿下がお見えになる際の、私達を気遣う言葉を忘れた事はございません」
「……あれは何というか……喜んで欲しくて贈ったのであって、私の名前を強調したかったのではありませんから」
事前に打ち合わせた話ではないので、パトリシアは上手く助け舟を出せただろうか、と弟王子の反応を伺う。しかし、相手が耳まで真っ赤になっている。あまり適切な援護ではなかったようだと思いつつも、パトリシアはこのまま褒め称える方向に舵を切る事にした。
「……まあ、そうでしたか。つまり、既に受け入れる準備を整えて下さっていると。おばあ様が気を揉まずとも、話は既に良い方向にまとまっていたようです」
「……たまには気の利いた事をしていたとは、知らなかった」
事の成り行きを静かに見守っていたウィスタル殿下が、頃合いを見計らって声を上げた。彼女は、いかにも微笑ましそうな眼差しを義理の弟へ向けている。そして、意外そうな表情を一瞬だけ浮かべた祖母君も、打って変わって態度をやわらげた。
さっきまでの冷たい態度はなんだったのかと思うほど、彼女は花がほころぶような笑みを、手にした洋扇子の影から覗かせている。それとは対照的に、弟殿下はいかにも面白くなさそうな表情と声だった。
「……何ですか、私がぬいぐるみを買い求めてこっそり渡した話がそんなに面白いですか」
「満場一致であなたを持ち上げたら、お客様は本音を打ち明けづらいでしょう。かえってよかったではないの、手放しで褒めてもらえる機会はそうそうないでしょうに」
「……」
怒りと羞恥心でひきつった顔の弟王子をまあまあ、と兄王子が宥めた。では、と全員の意向がまとまったと判じて、兄王子が文官に白紙の書状を用意させ、そのまま自らの手で書面を作り始める。
「……ちょっと、その文官に書かせた方が早いでしょう」
「あえて、です。以前、書状の取り違え騒ぎがありましたから。お手間に感じられるでしょうけれど。昔、大切に保管していた封書の中身が書き換わったという話があって」
祖母君からの抗議を受け付けず、兄王子は一字一句間違いのない書状を二通書き上げた。そして、その場に居合わせた者に内容を確認させる。
弟王子の今後について、それから婚約の公表はもうしばらく後になるが、その間にお互い別の婚約は進めない。もし何かあった場合は至急対処し、兄殿下が全責任を持つ、などと目下必要と思われる内容が間もなく完成した。
書面に、現在この場で王族の身分を持つ全員が署名したのである。加えて、ルイスとパトリシアも名前を連ねたのであった。
「……お二人の大事な娘さんは、必ず幸せにします。今日は本当にありがとうございました」
弟殿下は先ほどのやり取りが余程堪えたのか、わざわざ馬車近くまで一緒に戻り、パトリシアとルイスにだけそう宣言した。こちらこそどうもありがとう、とこちらの返答には何ともむず痒そうな表情を浮かべながら、手を振って王城へと踵を返す。
まだ彼がこっそりと領地を訪ねていた際、当主を王城へ引き留めて申し訳ない、といつも兄弟で並んで頭を下げた。今日は遊びに来たのでしょう、とパトリシアは制しつつも、その気遣いを忘れた事はない。二人が悪いわけではないだろうに、当時はやるせない思いだった。
そんな声を思い出しつつ、後姿を見送ってから二人で馬車まで戻ると、御者の悲痛な叫びが聞こえた。
「ああ、猫さんそんな! 旦那様と奥様が登城されるというので、昨日綺麗にしたばかりなのに!」
「いいよ、明日は屋敷でゆっくりするから……。猫さんは皆の素晴らしい仕事ぶりを目にすると、こうせずにはいられないのだ」
何事かと中を覗いて見ると、飼い猫が仰向けになって座席に毛をなすりつけているらしい。食事の時には部屋にいたような記憶があるが、退屈したのか先に戻っていたらしい。座席に一本でも多く残そう、という固い意志を感じた。
ルイスが使用人を慰めて、毛布一枚を敷いて座る事で決着した。もちろん、その毛布の上でも猫はせっせと毛をつけていたが。
「……あなたは随分静かでしたね」
「パティさんへの説明の場、と聞いていたから。私は彼を気に入っていて、申し分ない相手だとも思っているよ。援護しようと思った台詞は……」
大体言ってくれたから、と彼は笑う。いつもの虫一匹殺さないような笑みとは違って、どこか嬉しそうな、誇らしげな色が浮かんでいた。
ルイスは事前に二人から打診されていて、パトリシアにも伝えられていた。返答を考えておくように言われていたのである。断ってもいいとルイスは素知らぬ顔で付け加えもした。全く面識がなかったわけではないから、今までの中で違和感や不信感があるのなら、先方に改善する気はあるだろう、と。
「たしかに敵は多いかもしれないけれど。けれど、あの子なりに兄君を守るために必死に立ち回ったのを、今さら責め立てるのは酷だよね」
兄王子が文官を通さず、その場で作成した直筆の書状がルイスの手にある。同じものが、次期国王の手元に大切に保管される取り決めとなった。
待っていてくれた御者が温かいお茶を用意してくれていて、ありがたく受け取った。膝掛けを整えているうちに馬の嘶く声が聞こえ、ゆっくりと馬車の動き出す気配がする。
「思えば随分と、可愛らしい布石でしたね、弟殿下は」
将来、弟王子との婚約が整えられたのは二番目の娘である。人見知りの傾向が強いので、今はまだ屋敷の中で過ごしていた。
そんな娘に婚約を持ちかける一番最初の手が、匿名でぬいぐるみを渡す、という随分可愛らしいものであった。彼が贈り主であるという事実を秘匿したのは、おそらくまだ年端もいかない臆病な娘への配慮だったのだろう。ああ、とルイスが何か思い出したように笑っている。
『くれた方はとても恥ずかしがり屋さんなのだそうです』
受け取った娘は、顔も名前も知らない誰かに親しみを持っている様子だった。布石にもならないような布石が打たれていた。これが、人見知りの娘の気質を知っていて無理矢理関わりを持とうとするのなら考え物だが、決してそうではない。
「何より弟殿下が、争いから身を引く決断をしたために敵が多いとは言え、我らが当主ほどではありませんから」
「私は釣りが好きなだけだよ」
「……何をぬけぬけとおっしゃっているのやら」
とぼけた風を装った台詞に、パトリシアは呆れかえった。間抜けな二つ名で呼ばれるルイスだが、奇妙な呼称には皮肉と敬意と恨みつらみが複雑に混じり合う。
どちらの王子が、という状況下で多くの者が王妃陛下のご機嫌取りを兼ねて静観を決め込む中、ルイスは敢えて兄殿下の後見を名乗って王城に居座った。後継者として相応しい教育を受けられるよう取り計らいつつ、将来の立場や国同士の利益にまで配慮した縁談を取りまとめた。一方で、兄君を冷遇する周囲に不信感を抱いていた弟殿下の信頼も得た。
そうして現在の状況があるので、上手く動いた人間の方が少ない。早々に王妃に阿った者達は早計が過ぎたと、静観を決め込んだ者達は腰抜けめ、とそしりを受ける者が大半である。ルイスだけがここまでうまく切り抜けたという実績があれば、より顕著である。
そうでなければ、わざわざこのような特別扱いで招かれはしないだろう。兄弟のどちらからも本物を差し置いて父親のように慕われている、というのは並大抵の話ではない。
「大事なお願い事の前には、とあなたが教えたそうですね」
自分が何者であっても、相手が誰であろうとも、尽くすべき礼儀があるのを易しくまとめた教えである。大事な話の前にはご馳走を用意して、お腹がいっぱいになってから交渉するように。
丁寧にもてなされて、パトリシアの知らない夫の話。まんまと乗せられたような気もするけれど、不思議と悪い気はしない。言うべきは口にしたという自負もある。
ルイスは領地の子供達以外にも、とっておきの作戦を教えて回っているらしい。
「まあね。ああ、あの切り返しはわざとらしさがなくてよかった。なかなか言えるものではない」
「当然です。あなたの妻ですもの、あのくらいは」
パトリシアが言い切ったところで、飼い猫が労わるように鳴いた。毛をなすりつける作業は気が済んだようだ。丸くなって、口元をもごもご動かしてから目を閉じた。
それを眺めていると、こちらまで数日間の、そして最大の山場を切り抜けて緊張が緩んだのか、座っているだけで瞼が下りてしまいそうになる。子供ではないので目を擦らずに頑張っていると、隣から優しく声が掛けられた。
「どうぞ」
「……それでは遠慮なく」
パトリシアは音がしそうなくらいわざとらしく、夫に遠慮なくもたれかかった。苦笑する声が、耳と寄せあった身体を通して、温かさと共に伝わって来るようだった。