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銀の盟約  作者: 朱市望
2 本編
29/32

㉙水の中


 パトリシアはいつの間にか、どことも知れぬ大きな川のほとりを歩いていた。水の流れに沿うようにして、両側に傾斜の緩やかな壁が人工的に造られているらしい。その上には道があって、流れの先には海が見えた。

 パトリシアはお気に入りの日傘と、お出かけ用のドレスを着用していた。その横には、当たり前のようにルイスが寄り添っている。


 パトリシアの記憶はあやふやだった。きちんと自分の寝室で眠ったような気がするのに、こうしてルイスと一緒にいる。周囲は昼間のように明るかった。確か屋敷に戻った後、銀の時計を一時間、という彼の説明を言われた通りに試してみたのは覚えている。


「……こんばんは、ルイス様」

「こんばんは。会えて嬉しいね、パティさん」


そうっと傘を動かして、パトリシアは自分の婚約者を見つめた。いつもと同じ、最近の学校の制服姿ではなくて、黒を基調とした詰襟の衣装である。くせのない黒髪は何かで整えてあり、前髪が上がっていた。それから、細身の黒い鞘に収まった剣を携行している。


「これは王宮での、近習の制服だった。何故この恰好なのだろう?」


 彼の不思議そうな台詞で、パトリシアはルイスがこの服装である時を見逃してしまったのを、惜しく思っていた事実を思い出した。ささっと傘の中へ引っ込んで、どうしてでしょうと、そんな曖昧な返事をしておく。

 ルイスはいつも自分の屋敷へ寄ってから、伯爵邸に顔を出していた。そのため王城で正装している姿を、結局見た事がなかった。

 エーファは王城で行き合ったそうで、密かに羨ましかったという気持ちは確かにあった。まるで知らないうちにルイスに悟られてしまったかのようで、この上なく恥ずかしかった。


「……私はあまり代わり映えしませんね」

「そんな事はない、いつも素敵だよ。でも、その衣装が一番似合っていたよ」


 話を逸らそうとしたけれど、あまり上手くはいかなかった。自分としても、今着ている衣装は襟の形や、できあがりの色が素敵だと気に入っている。いつも同じだと周囲に笑われない程度に選んでいた。

 もう、とパトリシアは歯の浮くような台詞を次々と繰り出すルイスに苦言を呈した。いくら喧嘩して仲直りした直後とは言え、ここまで甘やかさなくていいというのに、困った人である。仲たがいしてしまった分を、彼は埋め合わせをしているのだろう。


 

 それでね、とルイスが明るい調子で話している。彼は立ち止まって、周囲の風景を指さした。今見えている場所は、領地にある海が近い場所らしい。ルイスの祖父君の主導の下、大規模な治水事業が行われた一帯だと説明した。

 多くの人々を動員し、河川の形を造り変える規模の大きい事業だったそうだ。それ以来、天候が不安定でも住みやすい場所になって、豊かで穏やかな生活を一帯に暮らす人々に提供している。

 二人はゆったりと流れる水が海に向かうのに沿って、再び歩き出した。


「パティさんは覚えている? 隣国にいた頃に参加した、水の中を見通すための発明品の話」

 

 ええ、とパトリシアは返事をした。侯爵家が所有する保養地の別荘に遊びに行った際、その話を聞いた。水の中でも、周囲の様子を鮮明に見渡す事ができる装置であったらしい。


「けれど、弱点があって。最終的には眼鏡のような形に落ち着いたのだが、身に着けているうちに、装置の中が浸水してしまうわけだ」


 ルイスは気持ちよくしゃべっている。制作しているのは、隣国で知り合った釣り仲間だったらしい。視界を良好に保つ事で水中での機動力を高め、魚を捕まえやすくする目的で開発が進んでいた。

 しかしなかなか上手く行かず、研究も紆余曲折や迷走を繰り返した。眼鏡のような装置は、隙間からすぐに浸水してしまう。そのため、水の中をはっきりと見通すのに成功した時間はごく短かった、とルイスは説明を締めくくった。


「泳いでいる時に気が付いたのだけど、水の中から太陽を見上げると、すごくきれいでね。今からそれを見せようと思う」

「でも、溺れてしまうのでは」

「本当はね。けれど、夢の中で本当に溺れたりはしないよ。寝ている間にどうやって呼吸しているのかなどと、いちいち気にする必要はない」


 二人は歩きながら話すうちに、やがて砂浜にたどり着いていた。ここは外洋ではなく、内海なので静かだと教えてくれた。彼の言うとおり、波は穏やかで、海は透き通っている。


 ルイスは釣りが趣味だと公言しているだけあって、さすがに手馴れている。浜辺に置いてあった小舟をよいしょと波打ち際へ運び出し、パトリシアを乗せた。せえので彼は波間へ押し出した勢いのまま、ひらりと飛び乗る。ふらふらと揺れる小舟が安定するまで、二人は木のへりに掴まって、じっとやり過ごした。


 いつかもこんな風に、ルイスと小舟に乗り込んだ日があった。しばらく水面を見つめていると、パトリシアはある事実に気が付いて、同乗者を振り返る。


「ルイス様、私は泳げません。このように、服を着ていますから」

「大丈夫、大丈夫。先に行って待っているから。なるべく早く来てね、待っているよ」


 心配しないで、とルイスは水の中に飛び込んだ。小舟がまたぐらぐらと揺れた。海面は白い泡で波立って、彼の姿はすぐに見えなくなってしまった。残されたパトリシアは困り果てて下を覗き込んだが、輝く太陽と自分の困った顔が見返しているだけだった。海中の様子はわからない。


「……まったく」


 この格好では浮くのか沈むのかすら定かではなかったけれど、パトリシアは覚悟を決めた。ぱしゃん、と水音と共に飛び込んだ。こわごわと目を開けると、白い泡が上へ昇って行くのが見える。その下に広がる青い世界の中にルイスが漂っているのが見える。視界はごく薄い水色のベールがかかっているようだけれど、それを除けば陸の上と同じくらいはっきりと見えた。手が差し出され、おいでと誘う声が聞こえたような気がした。


 不思議と息苦しさ、肺が潰れるような感覚はない。ルイスが先ほど説明してくれた通り、寝ている間に呼吸を意識しないが、それにしても不思議な気持ちである。


「……」


もっと近くへ来て、と口に出すと、代わりに泡が自分の口から出て来てしまった。慌てて口を閉じると、ルイスは水の奥で笑っている。それが恥ずかしくて、笑わないで、と目線で訴えながら、彼のそばまでなんとかたどり着こうと手や足を動かした。なかなか先へ進めなくて、もどかしい思いである。


 限りなく透明に近い水色の中を、金色の陽光がまるでベールのように踊っている。ふわふわと、目の前でゆらめいていた。


 パトリシアは幻想的な光景に目を奪われつつも、水を掻いて深い場所へ向かった。そこで待っているルイスと目が合うと、自然とお互いに何がしたいのかがわかった。額をぶつけるようにして、抱きしめ合った。見せたいものがあるのは単なる口実かのように、誰にも咎められずに、長い時間そうしていた。それから彼によって、くるりと身体が後ろ向きに回される。彼の指先が、水面に輝くものを指し示した。

 





 二人は好きなだけ水の中を漂った後、上陸した。二人で並んで、何を話すわけでもない。砂浜のほとりにあった流木に腰かけて、じっとしていた。服がびしょびしょで寒いとか、肌に貼りついて困る、という事もなかった。都合の良いものだと思いながら、パトリシアはルイスに身体を預けて、いつまでも夕陽を眺めていた。


「……とりあえず、ソフィが無事でよかったです。助けてくださって、ありがとうございました」

「彼女に関しては私より、猫さんが仕事をしてくれたよ」


 いいえ、とパトリシアは首を横に振った。決して猫さんの功績を軽んじるわけではありませんが、と一言付け加えてから更に続ける。


「私は、ルイス様が何も言わずに手を貸して下さったのが嬉しかったのです。安心して、屋敷で待つ事ができました」


 それは決して、今回に限った事ではない。ルイスはいつも、パトリシアの心を守ってくれる。それは王城にいた時も、今回の事件でもそうだった。


「……ある人に諭されてね。一番大切な人の気持ちを考えてふるまいなさい、と。だからパティさんが安心して待っていてくれたのなら、こちらも嬉しい」


 ある人とは誰だろう、とルイスの優しい横顔を眺めながら、パトリシアは思いを巡らせた。両親ならばそのような言い方はしないはずだ。本拠地のヴァンティーク領、遊学先である隣国や王城、今は学校にも在籍している。こちらが把握していない彼の人間関係は、想像よりもずっと広いに違いない。


「……そろそろ朝になるかな。パティさん、……また今まで通り会いに行ってもいいだろうか?」

「ええ、もちろん。いつでも会いに来てください」


 彼はいつもの銀時計を取り出して、時間を確認した。彼がそろそろ、と伯爵邸を辞す時の合図でもある。それを察して、自分の声は随分と沈んでいる。

 諍いを起こして以来、ずっと張りつめていた空気は解消され、ソフィとはしばらく会えないけれど、安全は確保されている。ルイスと仲直りはしたけれど、別れる時の寂しい気持ちに変わりはない。


「……帰りたくない」

「……どうかしたの」

「何ですか、その反応は」


 ルイスはまるで、パトリシアの告白が意外だとでも言わんばかりである。今までずっと婚約者だったのに、と拗ねてしまう。ごめんね、とルイスが覗き込んできたので、灰色が混じった不思議な青い瞳を見つめ返した。珍しい色は、先ほどの水の中にも似ている。見せてもらった美しい光景を、時々思い出すに違いない。


「ルイス様……」


 パトリシアは欲しい、恋しいという感情には果てがないのだと、今頃になって理解する。ひと時だって離れたくはないけれど、それは現実的ではない。そもそも、ずっと一緒にいる事が叶ったとして、自分が果たして満足できるのかどうかはわからない。

 そのような我儘はいけないのに、感情が追いつかなかった。ルイスに対してはいつもそうである。


「パトリシア?」


 相手は不思議そうな、少し心配そうな顔でこちらを見た。以前、しばらく会えなかった後でようやく再会した時には泣いてしまった。彼は、それを思い出しているのかもしれない。それは恥ずかしかった。

 パトリシアはそうではないと否定するために、指先を伸ばした。彼は不思議そうに、こちらを見返している。

 昼間にも、このように手を伸ばした覚えがある。その時はルイスが王城の一件のように、猫の仕業にしてこちらを煙に巻こうとしたり、都合よく誤認させたりするのを防ぐのが目的だった。

 しかし今、自分がなぜこうしているのかと言えば、そうしたいから以外に答えがないのである。


「……お慕いしています。誰よりも、本当は我慢できないくらいに。これから何があっても、どんなに離れていても」


 パトリシアは思いつく限り言葉を探して、声に出した。



 



 翌朝、目が覚めたパトリシアはその姿勢のまま、呆然としたままでいた。寝台から起き上がる気力が全く湧かない。


「わ、びっくりした……。お嬢様、おはようございます」


 まだしばらくソフィの代わりらしいニナが、身の回りの世話を焼くために部屋へやって来た。目を開けたまま横たわっているため、どうしたのかと思ったらしい。パトリシアはとりあえず謝っておいた。

 

 世話を焼いてもらいながら、パトリシアは一人でひたすら反省した。いくら夢だからと言って、相手の額に口づけしたのは明らかにやりすぎである。自分の隠していた気持ちを、無理やり表に出されたような気分だった。

 せめて夢で良かった、と独り言をつぶやく。その横で、ニナが今日一日の予定をあれこれと教えてくれた。


「ルイス様が急遽、午後にいらっしゃるそうです。カステル伯に報告と、お嬢様にお話があるとの事です」

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